薄明のカンテ - 事繁しもの/べに
 春はあけぼの。
 そんな言葉が東國の古書にあったなとヴィニー・ラトウィッジは東の空を死んだ魚のような目で見つめていた。
 春はあけぼの。
 春は日の出前の空が明るくなるころが一番美しいという意味だ。
 そう。ヴィニーの出勤は日の出前・・・・の4:30。かつて完徹や何徹も得意としてきたヴィニーであれど死んだ魚の目もしたくもなろう。
 マルフィ結社に入社して数週間、ヴィニーは激務だった。事務や雑用をする人間が数人、諸事情で休職しているため、やる事が多岐に渡っているためだ。たかが事務、されど事務。たかが雑用、されど雑用。小さなことでも疎漏にやれば、どこかで綻びが出来る。それをヴィニーの自尊心プライドは許さない。
 ドアの鍵を閉めるヴィニーの部屋は喫煙所のすぐ近くで故に入居者の少ない場所にあった。
 日当たりは良い。しかし少々奥まっていて人通りは少なく、そして喫煙所が目と鼻の先だからか匂いを気にして周りで部屋を借りている人間が少ない場所だった。それ故にヴィニーのような途中入社の人間が直ぐに転がり込むことが出来たともいえる。
 両隣は空き部屋。更にその向こうの角部屋にはヴィニーが入社する際に何かと世話になった人事部のロード・マーシュが住んでいた。彼が煙草を嗜むのを何回か見かけたことがあるヴィニーは、愛煙家故にこの部屋を借りているのだろうと勝手に判断して彼を見ている。
 余談であるが一部屋挟んでいる為か、ヴィニーは元敏腕弁護士の彼のような哀れな目は見ずに済んでいた。それはヴィニーの仕事が激務すぎて部屋に滅多に帰って来ないことや、角部屋の彼が愛しの彼女が入院中であったために絶好調ではない事も影響しているのかもしれないが真実は分からないままである。
 それはさておき。
 ヴィニーはやる気のない足取りで結社へと向かう。
 医療班という名称であれども医療班に実際の医師免許持ちは少ない。
 それもそうだ。本当の医者であればマルフィ結社なぞに属さず、本来の医療の現場たる病院に勤めているのだから。大きなテロは無いものの機械人形によって傷ついた怪我人は多い。医師免許持ちの人間の就職先は引く手あまただ。それ故に結社でならアケリアの医師免許持ちのヴィニーですら働くことができる。
 しかしカンテの人間でも医師免許の無い所謂「闇医者」がいることには驚いた。
 ヴィニーは脳内に拝むだけなら素晴らしいプロポーションの持ち主の彼女を思い浮かべる。彼女は観賞用なら良いが、同僚としては問題だった。
 今日は何をやらかすやら――。
 ヴィニーの足取りは重くなった。

 * * *

 ビタァン!!
 張り手なのかとツッコミたくなるような良い音を響かせてヴォイド・ホロウが湿布を貼っている音が響く。
「アレで良いのか……? 患部を圧迫したら最悪筋線維、筋細線維が断裂するだろ……?」
 患者のカルテを頭に叩き込んでいたヴィニーは思わずその作業を止めて独り言を漏らした。どちらかといえばヴィニーは繊細な作業を好むため、ヴォイドの大雑把にしか見えない処置は見ていて危ない、聞いていて怖い。
「大丈夫よ。ヴォイドの処置で怪我した人はいないから」
 近くを通りすがったクイン・エリーズがヴィニーの言葉を拾って答えた。
「怪我人を増やす医者がいたら問題だろ?」
「そうね。でも、ヴォイドはそういう医者ではないわ」
 そう言ってクインは眠そうな目を奥のヴォイドのいる診察室へと向けるので、ヴィニーもつられて同じようにそちらへと目を向ける。
「いやー、ホロウ先生の元気を注入されたようだよ。いつも、ありがとうございます」
 診察室から出てきたのは魔女の一撃――ヴィニーの馴染み深いアケリア的にいうならば「腰の捻挫」だ――に悩まされることが多いとカルテにあった調達班のダニエル・リーシェールだった。クインよりも細くて開いてるのか分からないような目をした彼は腰を抑えつつも楽しそうに笑ってヴォイドに礼を言っている。
「ほらね」
「彼が被虐性欲者マゾヒストの可能性も否定できないだろ」
「それは無いわ」
 クインがキッパリとヴィニーの言葉を否定した。
「何故、分かる?」
「分かるのよ、私には・・・
 クインの目に加虐性欲者サディストの色が浮かんだのを見て、ヴィニーは密かに納得する。先日、たまたま休憩所でクインと前線駆除班のゼン・ファルクマンが会話しているのを見かけたことのあるヴィニーはクインがどちら寄りの人間か正しく理解していた。そして、それは合っている。
「女王様の仰る通りで」
 ふざけた様に肩を竦めるとクインは少しつまらなそうにしつつも仕事に戻って行った。彼女としてはヴィニーがクインの言葉に引くような態度を見せれば、それこそ加虐性欲者サディストの如き攻めに転じられたのにといったところだろう。しかしヴィニーの性格的にそれは許さない。ヴィニーも主導権は自分が握りたいタイプだ。
 そんな事を思っているとダニエルを入口まで送って戻ってきたヴォイドと目が合った。相変わらず彼女は観賞用としては素晴らしい。
「何?」
 そうして硝子玉のような目で問い掛けてくる。
 少しは愛想を振り撒いて欲しいものだと思いつつ、ヴォイドは良く聞かされていないもののヴィニーが配属されてから暫くは入院していた身。復帰はつい先日で、まだ自分には慣れてくれていないだけかもしれない。気分を切り替えてヴィニーは営業用の顔で微笑んだ。ヴォイドがどんな女性か分からないので、まだまだ彼女には素のテンションで話しかけにくい。
「復帰されたばかりなのに良く働かれているなと思ったので。無理はしないでくださいね」
 ヴィニーの言葉にヴォイドは感情の浮かんでなかった顔を一転して、心底不思議そうな表情を浮かべた。
「それ、アキヒロにもスレイマンにも言われた」
「皆さん、それだけホロウさんを心配されているんですよ」
「心配」
「ええ」
 ヴィニーが頷くと「心配……」と反芻したヴォイドが、やがて腑に落ちた顔をする。それを見てヴォイドは岸壁街という北の無法地帯で育った人間だというから、そういう人間関係に疎かったのかもしれないとヴィニーは勝手に結論付けた。
「くれぐれも無理は禁物です。少しでも体調に異変があったら言ってくださいね。あ、俺に言うのが嫌だと言うのなら別の人に言えば良いと思いますよ」
 付き合いの浅い自分に言うのは嫌だろうからと気遣う顔をしてヴィニーはヴォイドに微笑んでおく。 実際問題、ヴィニーとヴォイドは共に働き始めて数日の関係であり、そんな自分よりは入院前から共に働いていた人間へ言った方が良いだろう。
「分かった」
 “無理は禁物”なのが「分かった」なのか、“別の人に言う”のが「分かった」なのか判断つきかねる顔でヴォイドが頷く。それを見てヴィニーは曖昧に微笑んで頷いておいた。「今のどっちの『分かった』だ?」と聞く程の人間関係をヴォイドとは未だ構築できていないのだから、現在のヴィニーが出来る最善の手は曖昧にしておくことだ。
 そうしてヴォイドが仕事に再び戻っていく背中を見送ったヴィニーは、時計を見て約束の時間が迫っていることに気付いてカルテを纏めると立ち上がった。左右を見渡すと丁度良くミア・フローレスと目が合ったので手招きをして、彼女を呼びつけた。
「ヴィニーさん、どうかしました?」
「昼行ってくる」
 ミアに対してはヴィニーはぞんざいな言い方だった。最初はもちろん優しい言い方で会話していたのだが「どんな話し方をしてもミアからの好感度は変わらない」ことに早々に気付いたので素の言い方にしているのだ。そして、そのヴィニーの考えは合っていたらしくミアの態度が変わることはない。
「珍しいですね。お昼にお昼ご飯食べに行かれるなんて!」
「今日は人事部と昼食兼ねた面談があるからな」
「今はそんな面談があるんですね!いってらっしゃい!」
 ニコニコと笑うミアの頭をわしゃわしゃ撫でて――ケアされた髪はヴィニー的に“気持ちいい”ものになるのだ――ヴィニーは食堂へと向かおうと扉に向かって歩き出す。
「今の6月になったらやらないで…………から」
 入口近くですれ違いざまにクインに呟かれた。「何を?」と振り返りクインに問いかけようとするが、彼女は立ち止まることなく部屋の奥に消えていく。
「何だ?」
 クインの言葉の意味が分からなくて首を傾げるが、それに答えるものはいない。だから疑問に思いつつもヴィニーは歩くうちに其れを忘れてしまう。

『今の(ミアの頭を撫でるようなこと)6月になったらやらないで。(復帰してきた)ロリコン木偶の坊に殺されるから』

 6月。
 ヴィニーはクインが言いたかった事の意味を、ようやく身をもって知ることになるのであった。

 * * *

 いみじう白く肥えたるちごの二つばかりなるが、二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるがはひ出でたるも、また短きが袖がちなる着てありくもみなうつくし。
 そんな言葉も東國の古書にあったなと思い出しながら、ヴィニーは人事部の扉を開いていた。尤も今、ヴィニーが会いたい人物は稚児ではないけれど。
「あれ? ラトウィッジさん?」
「どうかされましたか?」
「ロー……マーシュさんは今日は外出ですけれど」
 エーデル、ヴィーラ、シーリアの三人娘が、それぞれ目を瞬いてヴィニーを迎えた。綺麗に整えられた髪、流行りの化粧、雑誌から飛び出してきたようなお手本のようなOL服をした彼女達の言葉にヴィニーは困ったように笑ってみせる。
「先日の面談の礼を言いたかったのですが、それは残念です」
 ヴィニーが人事部の部屋を訪れた理由は別のところにあるのだが、彼女達が「ヴィニーはロードに用がある」と思っているのならば完全否定しないでやるのも円滑な人間関係の構築には必要だ。「いや、別件で」と言えば彼女達が気を悪くするかもしれないのだから、嫌な気分を抱かせないために少し彼女達の言葉に乗ってやる必要もある。
「では……レッヒェルンさんはいらっしゃいますか?」
 代わりに呼び出すかのような顔をして目的の人物であるベン・レッヒェルンの名前を上げると「今、お昼の後だからお弁当箱洗っているかも」との回答を得た。マルフィ結社には食堂もあるけれど、どうやら彼は弁当派らしい。洗っている場所を聞いて礼を言うとヴィニーは人事部の部屋を後にする。
 はたして、ベンは給湯室に居た。
「あれ? ヴィニー?」
「ベン。会いたかった」
 恋人に語りかけるようなセリフで、ともすれば恋人を見つめるような目でベンを見つめる。ベンは愛妻弁当の入っていた弁当箱を綺麗に洗って鞄にしまうと、逆に呆れたような目でヴィニーを見つめた。
「何? いつもの・・・・?」
 男同士、ひと気のない給湯室、何も起きないはずはなく。
 ベンへと近寄って行ったヴィニーは彼を壁際まで追い詰めると壁ドン状態で逃げ場を無くす。
「揉ませろ」
 何を、であっても問題のある発言であるが、言われたベンの表情は呆れきったようなそれでいて何かを諦めたような顔つきだった。
「はい、どうぞ」

もにもにもにもにもにもにもにもに……。

 敢えて擬音をつけるならばそんなオノマトペが相応しいだろうか。
 何の音か。
 ヴィニーがベンの両頬を揉みしだく音である。
 かつて乳ソムリエが手腕を発揮した時の音に似てるのは、柔らかいものに対する音は共通だからだ。
「はぁ……癒し……」
 彼が日本人だったならば冷えきった身体を湯船に沈めた時のような蕩けた声でヴィニーが呟く。揉まれているベンは当然揉まれているので何も言えないが目は呆れ返っていた。

もにもにもにもにもにもにもにもに……。

 散々揉みしだいた後、ヴィニーは満足した顔でベンの頬から手を離した。
 揉まれていたベンは生気をヴィニーに吸われたように少し疲れた表情をしている。
「これ、セクハラにならない?」
「お前にしかやらないから問題ない」
 晴れ晴れとしたヴィニーに「え、俺が訴えたらセクハラになるって自覚あるの?」と問いかけようとベンは口を開きかけたが、ヴィニーが言葉を発する方が早かった。
「特に今、人手不足に喘ぐ医療班の貴重な医師である俺を失うのは人事部として痛手だと思うのだが?」
 それは事実だった。
 しかし、それは被害者が周囲のために我慢させられるという脅迫まがいの一言でもあった。とはいえ、そもそもベンは本気で言ったものではないし、ヴィニーをそれを分かってのふざけた発言であるため何の問題もない。
「分かった。俺は結社のために生贄になるよ」
「さすが分かっているな、ベン」
 それでは、もう一揉み。
 ヴィニーが手を伸ばしかけた時、彼の耳は廊下を歩くハイヒールの音を捉えた。
「ラトウィッジさん、いらっしゃいますか?」
 程なくして給湯室に顔を覗かせたのはエーデルであった。
 彼女のしっかり化粧に彩られた茶色の目に映ったのは、ごくごく普通に世間話をしている距離感をしっかりと保っている何の変哲もないヴィニーとベンの姿だ。
「はい、此処に居ますがどうかされましたか?」
 切り替えてキラキラのお兄さんの仮面を被ったヴィニーを何か言いたそうにベンが見つめるが、ヴィニーはそれを無視した。今は自分の「爽やかな顔」を保つ方が大事だ。
 ヴィニーの仮面の表情に騙されているエーデルは彼がいたことに安心したような表情を見せる。
「良かったです。今、医療班から人事部うちに連絡があって、至急お戻り願いたいとのことです」
「分かりました。ありがとうございます、カルンティさん」
 ニコリと微笑めば、エーデルは分かり易く嬉しそうに微笑むものの「いけないっ!私にはロード様と言うものがありながら他の男性にときめくなんて!」と内心慌てる。しかし、エーデルも大人の女性。それを表に出すことはなくヴィニーとベンに会釈をすると給湯室から立ち去っていった。
「顔死んでるよ」
 エーデル退室後、ヴィニーの顔を見たベンが呟く。
「知ってるが、今だけは許してくれ」
「大丈夫? お腹も揉んでく?」
「……揉む」