薄明のカンテ - 糸の上の幸せ/燐花


抱えた闇

ルミエルが退院してしばらくしてネビロスは成人を迎えた。互いに身寄りの無い身であった二人が生活を共にする道を選ぶのは当然と言えば当然だったのだが、結婚後から少しずつ不穏な影がちらつき始める。ネビロスに反してルミエルは焦っていたのだ。
「ん…もう朝か…」
何だか寝た気がしない。それがここ数日のネビロスの悩みだ。ネビロスの思い描いていたビジョンは、祖父母の残してくれた畑での農作業とは別に仕事をし、それが安定したら子供を考えようと言う事。ルミエルとはもう少し二人でいたかった。そしていざという時不安を掛けたくなかった。子供がほしくない訳ではない。ただ、安定と自信と二人の時間が欲しかった。
対してルミエルは、異様に子供を欲しがった。自分で体のチェックをしている様で、タイミング等もしっかり測っている。ネビロスと壁を作ってしまう理由は、例えネビロスが疲れて居てもタイミングを合わせようとするところにあった。以前あまりに疲れていてもう動けないと言っても強行しようとした事があり、ネビロスはショックのあまり一日寝室を離して寝た事もあった。
落ち着いて戻ってきた今もルミエルはタイミングを気にしており、昨晩も彼女に応えて朝。疲れて帰って来て、求められて、服すらも着る余力も無く気だるく朝を迎えると少しだけ虚しくなってしまう。
ルミエルは、そんなに自分と二人が嫌なのか。
「あ、ネビロス。おはよう…」
「おはよう…」
布団の中でもそもそ動くルミエルはやっぱりそれでも可愛くてネビロスは優しく頭を撫でる。ルミエルは気持ち良さそうに目を細めた。
実は、ルミエルがネビロスより二つ年上であると言う事に気付いたのは一緒に暮らす様になって書類を書いている時だ。でもだからと言って、子供を焦るのは少し焦りすぎな気もする。だってまだ十九歳と二十一歳だ。それよりも他にやる事があるのでは無いだろうか。
「ネビロスー…」
「何…?」
「んっ」
唇を尖らせて上を向く。キスをねだる顔。応える様に唇を重ねると両腕でグッと抱き寄せられた。
ああ、今日もまた疲れからのスタートかな。ネビロスはルミエルに分からない様にため息を吐いたが、誘惑には逆らえず求められるがままに応じた。俺も大概愚かだと思う。頭の中でそう思っても、ルミエルを前にするとなりを潜めてしまう。
「待ってルミエル…」
「待ちたくない」
「ゴム、着けるから」
「要らない」
この確認がいつのまにか悲しくなる会話に変わっていた。ここまで求められるのに、これは贅沢な悩みなのか?いや、そんな事はないだろう。
現にネビロスの気持ちは曇っている。
ルミエルが何故焦っているか、早く子供が欲しいから。
何故子供が欲しいのか、家族が欲しいから。
二人でいる今も家族では無いのか、子供が居たらもっと家族を自覚出来るから。
いつもそう言って押し通される。理由としては分かる。分かるけれど、それでもルミエルが遠くに居る様な気がして仕方がないのは、ネビロスの気持ちを彼女があまり聞いてくれないからかもしれない。そしてネビロスの気持ちもあまりにふわっとし過ぎていてネビロス本人が上手く形に出来ていない。だから結果としてネビロスは口をつぐむ。ルミエルに応えるしかない。だけどそれは望みではないからやっぱりもやもやしたものが残る。それに、愛しているからしたいのに、行為が事務的なのも悲しく思えてしまった。
この日動ける様になったのは正午近くだった。
「(昨日から…三回か…?)」
この精神状態、肉体状態で我ながらよく保つなとネビロスは自嘲した。仕事も中途半端になるし気持ち的には焦りもあるのに求められると応じてしまう。そう反芻してネビロスは思った。今、二人とも焦りが酷いと。
何に追われているでも無いのに、先に進もうとするルミエル。
そんなルミエルに押されて一緒に駆け足で日々生きているネビロス。
これではバイタリティが無くなって、いずれ二人して破滅に向かいそうだ。
そんな時、更に二人を絶望させる出来事が起こる。
結婚して一年。子供の影も見えないので検査をしに行ったところ、ルミエルの体は子供を宿すのが難しいと言われてしまった。おそらく幼少期のあれだろうこれだろうと色々言われたが、専門用語だらけだしこの時二人の耳にはしっかり入れ難かった。それどころか元より体力も無く、産むのがとても危険だとも言う。ルミエルの体はルミエルを守る為着床しない様に働いている可能性がない事もなくそれが尚確率を下げていると言うのだ。
そしてネビロスも、精子無力症と判断された。もっと大きな都市の病院に移り、二人で最新の医術でのアプローチがあれば或いは、ただし絶対とは言い切れない。
そんな持続的なお金も無い。
ネビロスは話を聞いてる間ずっとルミエルを見つめていた。何だかルミエルがこの世から消えてしまいそうな気がしたのだ。
「ルミエル…」
やっと声を掛けられたのは、病院から帰って一晩明けてからだった。しかし、気の利いた事は何一つ言えず、やっと将来の話を口に出来たのは三ヶ月も経ってからだった。あれからルミエルがとんと求めてこなくなり、ぱったり三ヶ月もご無沙汰だったと言うのもあるかもしれないが、とにかくネビロスはルミエルと同じ方向を向く為に意を決した。
「ルミエル、色々あるけど治療する事を目的にもう少し二人だけで頑張ろう。頑張る前から言ってはいけないとは思うけど、結果としてずっと二人でも俺は良いし、望むなら養子を取るのも──」
精一杯絞り出した言葉。だが、それは見た事もない顔をしたルミエルによって拒否された。
「養子だけは!絶対ダメ!!」
その言葉を皮切りに雄叫びをあげる様に泣き叫び、ぐしゃぐしゃと両手で髪を掻き乱すルミエル。ああーーっ!!と声を上げる姿はまるでルミエルでは無いように見える。ネビロスは何が彼女の逆鱗に触れたとか、もう何も考えられなかった。ただただ悲しかった。どうして良いか分からなかった。同じ方向を向いて生きていきたいのにルミエルの気持ちが分からない。
気付くと、荒れたルミエルを置いてネビロスはフラッと物置に籠もっていた。そして泣きながらそこで眠った。
今見ているルミエルは、あれはルミエルの抱える闇だ。儚さの中に持っていた強さは、行き場をなくして溢れかえっている。コントロール出来なくなった感情は包み込む強さを通り越して全てを飲み込む闇だと思った。


深淵を覗く

まともに話が出来るようになったのはそれから更に一週間後。その間何をしていたかネビロスは覚えていない。二人で向き合っている間、ネビロスは逃げ出したくなるのを必死に堪えていた。
「教えてくれないか…あの日、何であんなに取り乱したのか」
「うん…」
「俺もそれなりに色々調べた。もともとルミエルが孤児だっただろ?そして今孤児の問題は、岸壁街を筆頭にかなり根深く増えてるって。そんな子を引き取る事は社会貢献にもつながる。それをそこまで嫌がるのには理由があるんだろ?」
ルミエルは俯く。泣くのを堪えているみたいだった。少しの沈黙の後、口を開いた。
「ネビロスは、置いてかれる子が心に抱えるものって知ってる?」
「置いてかれる…?」
「実の親に置いてかれた時、それは芽吹くの。本来なら持たなかった芽吹きよ。でもそのまま成長させない人もいる。だけど私は成長させてしまった。病気になってずっと入院している間、一人また一人と皆新しい家族として受け入れられて行く、皆居なくなる。私はそれを、指を咥えて見ているしかない…。そんな芽吹きを持った子達からたった一人を選ぶの、私怖いよ…選ばれた子は安心するの。不安も大きいけど期待もあるの、選ばれなかった子は?それをまだ経験出来ず、想像するしか出来ず、去って行く子の前途を祝福するしかない子は、見送る度に心に何が芽吹くと思う?言い様のない、大きな闇よ…少なくとも、私はそうだった。憎かったの、前途を祝う気持ちと同じだけ。焦ったの、自分自身。私の周りは契約一つでいる人達ばかりで、法の下にしか絆は無いの…ちゃんと先生達は優しいし、愛してもくれる。でも規約があるじゃない…!どうにも抗えないものが!十八歳になったら出て行くとか、普通の家庭だったらある?どうでも出て行かなければならない決まりが。無いでしょう?でも私の周りには、私の知る世界では家族は時限的だったの」
ネビロスは言葉が出なくなった。
自分は、ルミエルの思いを殆ど見れていなかった。知る由もなかった。彼女は自分が思う以上に家族を渇望していた。自分と血の繋がりのある両親をもう見付けられないなら、愛する人と自分を繋げてくれる、二人の血を持った子供が欲しい。そんな歪んだ思いをいつしか抱えていたのだ。知らなかった。
彼女は、ルミエルは一体いつから自分をそう言う風に見ていたのだろう。そしてその気持ちは、ただの恋心と呼ぶにはあまりにも重過ぎていたのか。
安定と自信と二人の時間が欲しかったネビロス。
血の繋がりと言う解けようもない繋がりによる安心を子供を授かる事で得ようとしていたルミエル。
その事実があまりに痛くて、ネビロスは泣くのを堪えてルミエルに向き直った。
「ルミエルは、俺の事好き?」
「うん…」
「俺は、初めて見た時からルミエルが好きだった。それは、ルミエルからしたら鼻で笑うくらいあまりにも幼い恋だったかも。でもそれが今愛に変わって、俺は二人で居ようとしてる。上手く言えないけど、その目的の事以外で俺を俺として好きで見ててくれた事、ありましたか?」
「…何で敬語なの?」
「ごめん、不安でついかな…」
「勿論…今もだよ…」
「そうか…」
ネビロスはルミエルの髪を優しく撫でた。
「やっとルミエルの思いが少し見えた気がする」
「……うん」
「俺は、ずっとルミエルとちゃんと同じ方向を向きたかった。本心を知らなかったから、子供が欲しい理由を聞いてもどうしても分からなかったんだ。自分の中で納得させて受け入れようとしたけど、どこかで虚しく思ってて。辛くて、辛くて。疲れてるのにするのも何だか虚しくて。話を聞くのも辛くなって。正直今もまだ、今度は聞いたショックが大きすぎて辛い。問題はあまりにも根深いし、多いから」
ネビロスはそこまで一息で言うと、一度天井を見上げそしてまたルミエルに向き直った。
「でも、それでも一緒に居たいんだ。どんな形であれ、これからゆっくり家族になって行こうって言うのじゃダメかな…?もしかしたらルミエルの望む形で行かない事もあるかもしれない。でも、それでも一個ずつ乗り越えて行こう。一個一個乗り越えて、乗り越えた先で出来た俺達家族の在り方を振り返った時、よく頑張ったねって言い合えたら俺は嬉しく思う…」
そこまで言ってネビロスは溜め込んでいた涙を流した。
ルミエルも、やっとネビロスに伝えたい事が伝わり、少しだけ穏やかな顔になった。


糸の上の幸せ

体の事を気にかけながら過ごし、託児所の経営も始めネビロスは少しずつ求む道を歩み始めた。それでも全てが順調に行くわけではない。ルミエルが発作的に奇声を上げる事はあったし何回もぶつかった。治療にも行ける範囲で通った。
治療は続行しつつ、二人で設定を決めた機械人形を我が子にしようと言う決断に至ったのはそこから更に五年もの年月が経ってからだった。
何ヶ月かに一回、ラシアスにある大きな病院に家族で向かう。ラシアスに行く度に見掛ける花屋はネビロスを安心させてくれた。そこでは幼い女の子が機械人形をお姉ちゃんと呼んで慕っていたからだ。
家族として受け入れられている機械人形。その姿に自分を当て嵌めて幸せを願う。まだルミエルの危うさは払拭されていないから、今ここにある幸せは一時的な気がしてしまう。だからこそ縋るように、ラシアスに訪れる度その幸せを目に焼き付けていた。
ルミエルのネビロスへの呼び方はいつしか外では「あなた」に変わっていた。自然に変化して行くもの、そして手を加えないと変化しないものもある。
機械人形である我が子は、年に一度メンテナンスと同時に来年度のアップデートの予定もある程度立てる。つまり、子供らしい振る舞いを一年という範囲でどこまで成長させるか決めるのだ。情報収集の量をカスタムで制限するのだ。その人為的な作業がある日はどうしてもルミエルの精神を疲弊させ、その瞬間だけはルミエルを闇にする。
暴れ、叫び、泣き。
そんなルミエルを背に、ネビロスは黙々と作業をする。ネットで知り合った顔も知らないプラグラマーからコミュニティで助言をもらい、その瞬間だけはルミエルから逃げる様に作業する。今幸せだ。幸せではある。でも、とても危うく辛くもある。
この子は、子供と言う用途を求められて我が家に来て幸せなのだろうか。
精神的な疲弊もあり、作業後泥のように眠るネビロスは起動を待つ我が子を自らが眠りにつくまで見つめていた。
今幸せか?幸せだ。
でも辛いな?とても辛い。
ルミエルが抱える気持ちも分かるな?分かるからこそ抱えたいのに抱えきれなくて辛い。
全てを捨てて逃げたくなる。でもそれだけは理性で堪えている。
機械人形だとハッと気付いてしまう時もある。だがそれでも我が子だ。
いつだってまっすぐ向き切らない、矛盾した思いをそっと抱えて、俺は後何年生きられるかなんて考えたりもする。それでも哀しいくらい今幸せなんだ。


細い糸の上に立つ様なネビロスの幸せ。
全て奪われる日は、すぐそこに。