薄明のカンテ - 私の周りのsmooth talker/べに


汚染駆除班のsmooth talker

 どどどどどうする、ニコリネ!
 解決策を見出さないままモニターを見つめるニコリネ・エークルンドのくすんだ茶色スモーキーブラウンの目は忙しなく己の書いたコード文の上を動いていた。
 ニコリネは言うまでもなく凡人だ。だからプログラムを書いても一発で思い通りに動くことは無い。

『プログラムは思った通りに動かない。書いた通りに動く。』

 詠み人知らずの名言であるが正にその通りである。 そもそも今はプログラムが動きもしない段階で止まっている訳であるのであるが。
「あ」
 6行目にミス発見。些細なスペルミスだった。
 打ち直して実行する。しかし、またエラーを吐く。
 今度は25行目に文末の「セミコロン」忘れのコンパイルエラーだ。
「はぁ……」
 思わず溜息をつくが自分が悪いので誰にも文句は言えない。
 落ち着け、落ち着いてやればちゃんと出来る。
 ニコリネは自分に言い聞かせるが、ふと彼女の中の弱い部分が顔を覗かせる。
 やっぱり私に普通の人と同じように働くなんて無理無理無理無理カタツムリだったんだ。埃は埃らしく部屋の隅っこに転がっていれば良かったんだ。
 コンパイルエラー、コンパイルエラー、コンパイルエラー、コンパイルエラー、コンパイルエラー。
 モニターには大量のコンパイルエラー。エラー原因を探ろうにも表示されるメッセージは何だか掴みどころのないものばかりで原因が全く分からない。
 キーボードに手を置いたまま固まっているニコリネを心配しながら黒マスクが特徴的なエフゲーニ・ラシャが通りすがるが、その心配そうな彼の視線すら被害妄想に取り憑かれたニコリネには「何止まってんだよ、さっさとやれよ」と責めている視線にしか感じられなかった。
 ごめんなさい、ごめんなさい。私なんかがこんな場所にいてごめんなさい。
 ちゃんとプログラムを書いているはずなのに何で、どうして。
 焦れば焦るほどコード文を見つめる目は文字列を追うだけで何の解決策も見出せず、冷や汗がどっと出てパソコンの為に涼しいはずの部屋の中で一人で暑くなる。
 ごめんなさい、コンパイルエラー、ごめんなさい、コンパイルエラー、ごめんなさい。
 モニターが歪んで見える。
 それは浮かんできた涙のせいだ。
「ニコリネちゃん」
「ひゃあああい!?」
 唐突にポンと肩を叩かれて叫んでしまったニコリネの声に驚いた汚染駆除ズギサ・ルノース班の面々の視線が集中する。
「ご、ごめ……」
「ニコリネちゃんの肩を唐突に叩いて驚かせた俺が悪い。悪いな」
 謝罪しなきゃと思いながらも声が上手く出なかったニコリネよりも早く、ニコリネの肩を叩いた張本人であるテオフィルス・メドラーが部屋に響く声で言った。ロジックの海から強制的に引き揚げられて苛立っていた者もいただろうが、殺意に満ちた目をテオフィルスに向けるだけで表立って文句を言う訳ではないのでテオフィルスはそれを無視することにする。野郎の文句なんて彼にとっては雑音だ。相手が女の子ならば別だけど。
「あ、丁度昼飯の時間っすね! 時報みたいで丁度良かったっす!」
 そこへテオフィルスへの援護射撃のように声を上げたのはトニィ・イコナだった。明るく発せられたトニィの声に他の者も時計を確認して、作業が中断されたことだし……と各々が仕事のキリの良いところで食事に向かい出す。そのおかげなのか席を立って出入口への最短ルートとしてニコリネの脇を通っていくものもいるが、誰もニコリネに文句を言う者はいなかった。
「女の子の悲鳴、お昼の時報扱いして悪かったっすね」
 トニィが軽いノリでニコリネに謝ってくる。しかしニコリネとしては助けて貰ったようなものなので彼に謝られる理由がない。
「い、いえいえっ。むむむむしろ助かりましたっ。ほ、本当に叫んでごめんなさい」
「別にそんなに気にすることじゃないっすよ。あと、謝るよりお礼の方が俺は嬉しいっす」
「えっ、あっ、おっ、お礼……」
 そうだ。人に何かして貰ったらお礼をしなければ。
 ニコリネは慌ててデスクの足元に置いていた自分のリュックを手に取ると携帯型端末を取り出した。
「いいいイコナさんっ! お、おいくらお支払いすれば良いですか!?」
「えっ!?」
 ニコリネの言葉にトニィは赤茶色の目を見開く。
 その驚きの表情に、こういう時の相場も分からない駄目人間の私でごめんなさいイコナさんと更にニコリネの罪悪感が積もった。
 しかしトニィはニコリネを蔑む訳でもない顔で彼女を見ていた。
「お礼って金品じゃないっす。ただ『ありがとう』って言えば良いんすよ」
「ええっ!?」
 トニィの言葉に驚いたニコリネは先程のトニィよりも目を丸くして彼を見た。そんなニコリネにトニィは幼子に話しかける大人のような顔をして、彼女の言葉を待つ。
「……あ、あああありがとぅございました」
 途中、噛んだもののニコリネはどうにかお礼を言うことに成功した。トニィは「それで良いんすよ」と笑って「じゃあ、俺飯行きますんで」と去っていく。
 お礼って物じゃなくても良いんだ。
 なんだかトニィと親しくなれたような気分になったニコリネの顔が自然に笑みを浮かべていた。それはいつもの無理に笑おうとして作る可愛げのない笑顔とは違う自然のものだ。
「あ」
 ニコリネが名前のようにニコニコしていると、それまでニコリネのモニター画面を眺めていて会話に入ってこなかったテオフィルスが声を上げた。
「メ、メメメメメドラーさん? いかがいたしましたか?」
 ニコリネの顔から瞬時に笑顔が消える。
「53行目」
「へ?」
 言われてモニターの自分のコード文を眺める。
 53行目。スペルミスは無いようだが――?
 困惑するニコリネをよそにテオフィルスの指がある場所を指した。そこは何にも打っていない場所だ。
「ここ、全角スペース入ってる」
「ままままっさかーそんな訳……」
 入っていた。
 縦棒キャレットがコード文の後ろで不可思議なスペースを作って点滅している。
 思わず無言で修正すると、先程までのエラーは何処へやらとばかりに正常にプログラムが動きだした。
「わ、わぁー……こ、こんなことにも気付けなくてごめんなさ……」
「こういう時は謝るんじゃないってトニィが言ってただろ?」
 モニターを注視していて話を聞いていないのかと思っていたテオフィルスだったが意外にもニコリネとトニィの会話を聞いていたらしい。
 お礼は金品じゃなくて。
「あ、あ、あありがとうございました」
「うん。分かって良かったな」
 ニコリネの頭をポンポンと叩くとテオフィルスも仕事を中断して食事に向かうようだ。
 その後ろ姿を見送ったニコリネは、自分も食事にしようと思う。
 それにしても。
 モニターを見つめたニコリネの目は死んでいて半笑いが浮かんでいた。
 こんなミスに気付かないなんて、私はやっぱりゴミだなぁと。


人事部のsmooth talker

 誰もいない誰も来ない廊下の隅の観葉植物に隠れてニコリネは昼食をとっていた。以前は廊下に直に座って蹲るように食べていたニコリネだったが、今は長椅子に座っている。此処で食べているのを清掃班のサンとザラに見つかった翌日に、どこからか運ばれてきた休憩所にあるような長椅子が置かれていたのだ。間違いなく設置してくれたのはサンとザラだろう。毎日座るたびにニコリネは心の中でお礼を言う。
 膝の上に乗っているのは給食班が作ってくれて調達班が運んでくれたお弁当だ。体調的にやらかした時に勇気を持って申し込んだものであったが、食べてみると美味しくて少食のニコリネでも食べ切れるサイズだった。汚染駆除班にはニコリネの他にも弁当を注文している者がいて見たことがあるが、他の人のは少し大きくてコレは少食の人用の物のようだ。そこまで気遣って作ってくれる食堂班には頭が上がりない。
 タラのフィッシュボールを咀嚼する。塩と胡椒であっさりとした味付けが、おいしい。
 主食に用意された炒麦エル・バツのおにぎりは作るのが大変だというのに、毎日ありがたい。今日はバターで炒めたもののようだ。これもまた、おいしい。
 ゆっくりおいしくお弁当を平らげると、最後に今までずっと飲んでいる完全栄養食のジュースを飲む。ちょっと甘めで濃いめの豆乳味は不味いわけではないが、お弁当を食べるようになると物足りない味に感じてしまうようになった。これは舌が肥えたというやつだろうか。
「ん?」
 満腹になってボンヤリしていると滅多に着信のない携帯型端末が震えていた。
 ディスプレイに表示されている名前は『タイガ君』。
 相手が慣れたタイガとはいえ待たせては悪いと慌ててニコリネは通話ボタンを押す。
「もももももしもし!?」
『ニコリネさん、どこにいるの? 今日、ロードさんと面談だよね?』
 面談。ろーどさんとめんだん。
 そういえば最近、人事部が結社メンバーと面談をするようになっていた。
『6月17日午後1時30分からの約束だったでしょ? 汚染駆除班に聞いても誰も居場所知らないって言うし、どこにいるの?』
 普段、怒りとは無縁そうなタイガがイラついた声を出している。
 ニコリネの顔から血の気が引いていった。
「もももも申し訳……」
『今どこ? ロードさんがそっちに行くって』
「あ、えっと……」
 しどろもどろになりながら居場所を伝えると『何でそんな所に……』と怒りつつも呆れたような声がする。
『そこ動かないでねってロードさんが言ってるから、そこから動かないでいてよ? わかった?』
「は、はははははいっ!」
 普段怒らない人間の怒り程恐ろしいものはない。
 通話が切れても、ニコリネは携帯端末を握り締めたまま恐怖で動けなかった。

 * * *

「お待たせ致しました」
 それから数分後、死刑執行を待つ囚人のような気持ちで座っていたニコリネの元にロードがやって来ていた。彼はいつも通りの薄い笑みを口許に浮かべ、見た目には普段通りに見える。
「あ、あの、あの、も、ももも申し訳ございませんでした」
「いえいえ。実はこういう事は珍しくもないですし、此方こそタイガさんが棘のある言い方で申し訳なかったですね」
 謝罪するニコリネに対して、むしろ自分達の方が悪かったとばかりにロードは言葉を運んだ。
「言い訳になってしまいますが、タイガさんも夏の休暇のシフト決めで苦労されているようで『八つ当たりしてごめん』と伝えるように伺って来ました」
「い、いえ、わ、私が忘れていたのが悪いので……ほ、本当に申し訳ございませんでした」
 猫に壁際へと追い詰められたネズミのような、しかし窮鼠猫を噛むことは全く出来ない弱弱しいネズミのようなニコリネは震える声で謝罪を告げる。
 そんなニコリネを安心させるようにロードはにこやかな顔を見せて「失礼しますね」とニコリネの隣に――パーソナルスペースを侵さない絶妙な位置だ――座った。
「謝罪をいただいたので、もうこの件は終わりということで。ところでエークルンドさんは仕事で何か問題はありませんか?」
 流れるように面接に入るロードの手際の良さに感心しつつも、彼の言葉にニコリネは身体を固くする。そしてそんな分かりやすい態度を見せるニコリネを見逃す程ロードは間抜けな男ではなかった。
「何かあるんですね?」
「ななななななにもございませんけど」
「エークルンドさん」
 ロードの黒い目が真剣な光を帯びてニコリネを見つめていて、そんな場合ではないのは分かっているのだがニコリネの心臓が早鐘を打つ。それは恐怖や緊張では無い「トキメキのドキッ」だ。
「些細なことでも良いんです。他人に話すことで楽になることもあるのですから、話してみませんか?」
 真剣な表情で真剣なことを言われてニコリネの浮かれた気持ちが冷めて落ち着きが帰ってくる。
 他人に話すことで楽になる。
 それが本当ならば、吐き出したいことはあるのだ。
「わわ、わた、私事でも良いですか?」
「ええ、勿論」
 口の中に溜まった唾を飲み込んでニコリネは口を開く。
「私、仕事が出来なくて辛いです元々皆さんみたいに仕事としてプログラム組んでた訳でもなくただのヒキコモリ女のレベルじゃ出来ることなんてたかが知れてて今日だって凄くくだらないミスしててそのミスだけで何時間も無駄にしてどうして私がこんなところにいるんだろうどうしてこんなに何にもできない私がここに居ていいんだろうって」
 午前中のミスはニコリネの中で燻っていた。
 否、それはただの引き金であってマルフィ結社に来てからのニコリネの中にはずっとあるものであった。
 天才少女という言葉が似合うミサキ・ケルンティアは、もはや異次元のレベルであって嫉妬も何も無いけれど自分なんかが彼女と肩を並べて仕事をしていいのか。そんなミサキに噛みつきがちなイオだって本人は「全然できない」と言いながら凄く綺麗にプログラムを作っている。テオフィルスだってトニィだってエフゲーニだって、みんなみんな結社に来る前は立派に仕事をしていて、ちょっとプログラムが書けるからって汚染駆除班に入ったニコリネとは大違いだ。
 思いきり言葉を吐き出すことに慣れないニコリネは肩で息をする程だった。そんなニコリネをロードは変わらず優しい目で見つめるだけだ。
「……な、何か言ってくれないんですか?」
 あまりにもロードが口を開いてくれないものだからニコリネは彼の反応が気になってしまう。不安に揺れる瞳を向けられたロードはようやく口を開いた。
「ここで私の言った方をエークルンドさんは選びそうだったものですから」
「え?」
「私が『辞めないで下さい』と言えば辞めないでしょうし、逆に『辞めますか?』と言えば辞めてしまいそうな……私は貴女自身に選択を委ねたいのですよ」
 ロードの言葉は真実だった。
 この時、ニコリネは無意識にロードに判断を委ねていた。しかもそれは優しい彼のことだから「辞めないで下さい」と言ってくれるという打算込みの汚い考えの元に行われていたことで、図星を突かれたニコリネは言葉を失う他ない。何よりも自分の汚い考えがロードには全部見通されていたという事実が恥ずかしい。
「面談と銘打ってはいますが、私達人事部が進退を決めることはありません。最後に決めるのはエークルンドさん、貴女です」
 そう言って優しく微笑むロードにつられて、思わずニコリネもヘラリと笑う。
「そ、そうですよね。大人なんだから自分で決めなくちゃですよね」
「ええ。ご自身で決めてください」
 そう言ってロードは立ち上がる。どうやら面談は終わりのようだ。
「あ、ありがとうございました!」
「いえいえ。こちらこそお付き合いいただきありがとうございました」
 膝と頭がくっつきそうなくらい頭を下げたニコリネに小さな笑いを漏らしてロードは歩き出す。
「ああ、そうだ」
 数歩進んだロードが振り返った。顔を上げたニコリネは、まだ何かあるのかと脅えつつ彼の端正な顔を見上げる。
私としては・・・・・勿論、エークルンドさんに辞めないでいただきたいですからね?」

 人事部としては『自分で進退を判断すべき』。

 しかし、ロード個人としては『居て欲しい』。

 ロードが立ち去った後、ニコリネはその言葉に独りで赤面して。
「今のは格好良すぎてズルい……」
 ポツリと呟いた。