誰もいない誰も来ない廊下の隅の観葉植物に隠れてニコリネは昼食をとっていた。以前は廊下に直に座って蹲るように食べていたニコリネだったが、今は長椅子に座っている。此処で食べているのを清掃班のサンとザラに見つかった翌日に、どこからか運ばれてきた休憩所にあるような長椅子が置かれていたのだ。間違いなく設置してくれたのはサンとザラだろう。毎日座るたびにニコリネは心の中でお礼を言う。
膝の上に乗っているのは給食班が作ってくれて調達班が運んでくれたお弁当だ。
体調的にやらかした時に勇気を持って申し込んだものであったが、食べてみると美味しくて少食のニコリネでも食べ切れるサイズだった。汚染駆除班にはニコリネの他にも弁当を注文している者がいて見たことがあるが、他の人のは少し大きくてコレは少食の人用の物のようだ。そこまで気遣って作ってくれる食堂班には頭が上がりない。
タラのフィッシュボールを咀嚼する。塩と胡椒であっさりとした味付けが、おいしい。
主食に用意された
炒麦のおにぎりは作るのが大変だというのに、毎日ありがたい。今日はバターで炒めたもののようだ。これもまた、おいしい。
ゆっくりおいしくお弁当を平らげると、最後に今までずっと飲んでいる完全栄養食のジュースを飲む。ちょっと甘めで濃いめの豆乳味は不味いわけではないが、お弁当を食べるようになると物足りない味に感じてしまうようになった。これは舌が肥えたというやつだろうか。
「ん?」
満腹になってボンヤリしていると滅多に着信のない携帯型端末が震えていた。
ディスプレイに表示されている名前は『タイガ君』。
相手が慣れたタイガとはいえ待たせては悪いと慌ててニコリネは通話ボタンを押す。
「もももももしもし!?」
『ニコリネさん、どこにいるの? 今日、ロードさんと面談だよね?』
面談。ろーどさんとめんだん。
そういえば最近、人事部が結社メンバーと面談をするようになっていた。
『6月17日午後1時30分からの約束だったでしょ? 汚染駆除班に聞いても誰も居場所知らないって言うし、どこにいるの?』
普段、怒りとは無縁そうなタイガがイラついた声を出している。
ニコリネの顔から血の気が引いていった。
「もももも申し訳……」
『今どこ? ロードさんがそっちに行くって』
「あ、えっと……」
しどろもどろになりながら居場所を伝えると『何でそんな所に……』と怒りつつも呆れたような声がする。
『そこ動かないでねってロードさんが言ってるから、そこから動かないでいてよ? わかった?』
「は、はははははいっ!」
普段怒らない人間の怒り程恐ろしいものはない。
通話が切れても、ニコリネは携帯端末を握り締めたまま恐怖で動けなかった。
* * *
「お待たせ致しました」
それから数分後、死刑執行を待つ囚人のような気持ちで座っていたニコリネの元にロードがやって来ていた。彼はいつも通りの薄い笑みを口許に浮かべ、見た目には普段通りに見える。
「あ、あの、あの、も、ももも申し訳ございませんでした」
「いえいえ。実はこういう事は珍しくもないですし、此方こそタイガさんが棘のある言い方で申し訳なかったですね」
謝罪するニコリネに対して、むしろ自分達の方が悪かったとばかりにロードは言葉を運んだ。
「言い訳になってしまいますが、タイガさんも夏の休暇のシフト決めで苦労されているようで『八つ当たりしてごめん』と伝えるように伺って来ました」
「い、いえ、わ、私が忘れていたのが悪いので……ほ、本当に申し訳ございませんでした」
猫に壁際へと追い詰められたネズミのような、しかし窮鼠猫を噛むことは全く出来ない弱弱しいネズミのようなニコリネは震える声で謝罪を告げる。
そんなニコリネを安心させるようにロードはにこやかな顔を見せて「失礼しますね」とニコリネの隣に――パーソナルスペースを侵さない絶妙な位置だ――座った。
「謝罪をいただいたので、もうこの件は終わりということで。ところでエークルンドさんは仕事で何か問題はありませんか?」
流れるように面接に入るロードの手際の良さに感心しつつも、彼の言葉にニコリネは身体を固くする。そしてそんな分かりやすい態度を見せるニコリネを見逃す程ロードは間抜けな男ではなかった。
「何かあるんですね?」
「ななななななにもございませんけど」
「エークルンドさん」
ロードの黒い目が真剣な光を帯びてニコリネを見つめていて、そんな場合ではないのは分かっているのだがニコリネの心臓が早鐘を打つ。それは恐怖や緊張では無い「トキメキのドキッ」だ。
「些細なことでも良いんです。他人に話すことで楽になることもあるのですから、話してみませんか?」
真剣な表情で真剣なことを言われてニコリネの浮かれた気持ちが冷めて落ち着きが帰ってくる。
他人に話すことで楽になる。
それが本当ならば、吐き出したいことはあるのだ。
「わわ、わた、私事でも良いですか?」
「ええ、勿論」
口の中に溜まった唾を飲み込んでニコリネは口を開く。
「私、仕事が出来なくて辛いです元々皆さんみたいに仕事としてプログラム組んでた訳でもなくただのヒキコモリ女のレベルじゃ出来ることなんてたかが知れてて今日だって凄くくだらないミスしててそのミスだけで何時間も無駄にしてどうして私がこんなところにいるんだろうどうしてこんなに何にもできない私がここに居ていいんだろうって」
午前中のミスはニコリネの中で燻っていた。
否、それはただの引き金であってマルフィ結社に来てからのニコリネの中にはずっとあるものであった。
天才少女という言葉が似合うミサキ・ケルンティアは、もはや異次元のレベルであって嫉妬も何も無いけれど自分なんかが彼女と肩を並べて仕事をしていいのか。そんなミサキに噛みつきがちなイオだって本人は「全然できない」と言いながら凄く綺麗にプログラムを作っている。テオフィルスだってトニィだってエフゲーニだって、みんなみんな結社に来る前は立派に仕事をしていて、ちょっとプログラムが書けるからって汚染駆除班に入ったニコリネとは大違いだ。
思いきり言葉を吐き出すことに慣れないニコリネは肩で息をする程だった。そんなニコリネをロードは変わらず優しい目で見つめるだけだ。
「……な、何か言ってくれないんですか?」
あまりにもロードが口を開いてくれないものだからニコリネは彼の反応が気になってしまう。不安に揺れる瞳を向けられたロードはようやく口を開いた。
「ここで私の言った方をエークルンドさんは選びそうだったものですから」
「え?」
「私が『辞めないで下さい』と言えば辞めないでしょうし、逆に『辞めますか?』と言えば辞めてしまいそうな……私は貴女自身に選択を委ねたいのですよ」
ロードの言葉は真実だった。
この時、ニコリネは無意識にロードに判断を委ねていた。しかもそれは優しい彼のことだから「辞めないで下さい」と言ってくれるという打算込みの汚い考えの元に行われていたことで、図星を突かれたニコリネは言葉を失う他ない。何よりも自分の汚い考えがロードには全部見通されていたという事実が恥ずかしい。
「面談と銘打ってはいますが、私達人事部が進退を決めることはありません。最後に決めるのはエークルンドさん、貴女です」
そう言って優しく微笑むロードにつられて、思わずニコリネもヘラリと笑う。
「そ、そうですよね。大人なんだから自分で決めなくちゃですよね」
「ええ。ご自身で決めてください」
そう言ってロードは立ち上がる。どうやら面談は終わりのようだ。
「あ、ありがとうございました!」
「いえいえ。こちらこそお付き合いいただきありがとうございました」
膝と頭がくっつきそうなくらい頭を下げたニコリネに小さな笑いを漏らしてロードは歩き出す。
「ああ、そうだ」
数歩進んだロードが振り返った。顔を上げたニコリネは、まだ何かあるのかと脅えつつ彼の端正な顔を見上げる。
「
私としては勿論、エークルンドさんに辞めないでいただきたいですからね?」
人事部としては『自分で進退を判断すべき』。
しかし、ロード個人としては『居て欲しい』。
ロードが立ち去った後、ニコリネはその言葉に独りで赤面して。
「今のは格好良すぎてズルい……」
ポツリと呟いた。