薄明のカンテ - 山ガール・ミーツ・初心者ボーイ/燐花

無謀な挑戦

「俺、山行ってみたい」
 突然の思い付きを口にしたシキ。しかし皆慣れたもので、テディもユーシンも「またか」と言わんばかりに溜息を吐いた。
「シキ…急にどうしたの?」
 鬼が出るか蛇が出るか。そんな様子で尋ねるユーシン。シキはにっこり笑うと何の脈絡も無く「ウルって知ってる?」と呟く。
 ウル。ウル。もしかして前線駆除班のウルリッカ・マルムフェさんだろうか。あのちょっと、いや大分小柄で、その割に大きい大きい銃やナイフを所持しているパワフルな女性。
「そう、そのウル」
「そのウルリッカさんがどうしたの?」
「ウルが山が好きだって言うから、俺も行きたいの」
「なになにー?ウルが山好きだから山行きたいの?」
 ニヤニヤと良からぬ事を考えながら尋ねるテディ。しかし、シキは特に動じる事なく「そうだよ」と返事を返した。
「いつかウルと山に行ってみたいんだ。その時に俺が着いていけなかったら格好悪いから、今の内に体力付けとこうと思って」
「…それは良いと思うけど…山初心者がおいそれと一人で山登りして良いのかなぁ…?」
 ユーシンは少し前に見聞きした「トレンドは山!皆もキャンプ女子になろ!」と言うニュースを思い出して青い顔をする。そんな登山を促す様な記事にさえ過酷さは細かく載っていたからだ。彼のその不安は当たり前で、山と言うのは初心者向けハイキングコースだと言われる場所であっても相応の準備をしなければならない場所だ。そもそも持っていくものも多いし、難しいところならそのリュックの総重量は子供一人分以上とも言われる。
「大丈夫、準備は万端だ」
 シキは一式購入したのかもう手元に登山用のリュックも靴も服も帽子も、果ては杖まで全部万端に揃ったそれを広げて見せた。虫除けの為の長袖は夏でも涼しく快適な優れもの。帽子もメッシュ仕様で同様に。リュックはハーネスも付いた本格的なもの。容量は流石に念を入れてなのか三十リットル程のもの。そしてそこに付けられた熊よけの鈴は独特な音色を奏でている。
 用意だけは良いと言うシキの様子にテディは腹を抱えて笑っていたが、ユーシンはそれを見てより一層不安を募らせた。
「あはははは!!シキ、ウケるー!!流石形から入る男ー!!」
「…良いんだけど、本当に大丈夫なのかなぁ…?ぼく不安なんだけど…」
「大丈夫大丈夫、装備は万端だから」
 何がそんなにおかしいのか笑い転げるテディを尻目にユーシンは本当に不安そうな顔をシキに向けた。
「……シキ、危ない事しない?」
「うん、大丈夫」
「やっぱり、今からでもウルリッカさんと一緒に行くって計画に切り替えた方が良い気がする…」
「ありがとう、ユーシン。優しいね。大丈夫だよ。日帰りしか考えてないし、色々装備整えてるから何かあったらそれなりに立ち回れる筈だから」
「本当に大丈夫?シキ…」
「大丈夫大丈夫。ユーシンにそんな辛い顔させたく無いし、ちゃんと帰ってくるよ。大丈夫」
 こうしてシキは相変わらずのローテンションながら意気揚々と休みをとって山に向かったのだが、結論から言うと大丈夫では無かった。
「ここどこだろ…?」
 見渡す限り木、木、木。道はいつの間にか補正された物でなくなり、獣の通り道と言うのが相応しい見た目の物に。それに何だかあの独特な形の根っこ、さっきも見た気がする。ぐるぐる同じ所を歩んでいる様な自分。
 シキは地図を広げたものの、当然見方は分からないしコンパスもあっても意味がないと言うのは早々に気付いてしまった。端末はずっと圏外を指していてうんともすんとも。日帰りの筈が早くも二日経過した。完璧な遭難だ。
 幸いだったのは、シキが特に動じる事も無く夜はちゃんと寝ていた事だろうか。どこででもどんな状況でも割と眠れると言うのはかなり幸運な方で、シキはその幸運のおかげであまりパニックによる体力の消耗をしなかった。しかし、矢張り三日もシャワーを浴びれないのは気持ちが悪い。
「うーん…」
 荷物の中に入っていたアズキ・ビーン・ジェリー、つまり東國の羊羹をちびちび口にする。持って来ていた食料を早々に食べてしまい、絶望していたシキにとってリュックの底に入っていた羊羹は普段は食べ慣れずあまり好きではなかったが、今後好物第一位に入るのではと言うくらいには美味しかった。
 しかしその羊羹もそろそろ尽きようとしている。そうなったらいよいよ危なそうだとシキは思った。
 自分に何かあったら。
 もしも自分がこのまま帰れなかったら。ロードは誰かと一緒になれるだろうか?あの大好きなお姉さんと一緒になるところを誰が見届けるのだろうか。
 クロエはロードに不器用な猫みたいな愛情表現をせずに素直に彼に甘えてくれるだろうか?もうちょっと妹らしく、可愛げのある感じに。
 ユーシンは凄く心配するだろうな。何かあったら、が起きてしまったら彼との約束を破る事になるし、もしかしたらユーシンは泣いてしまうかも。
 テディは……暴走したら誰が止められるだろうか。
「まぁ、良いか」
 そんな事より疲れたシキはとりあえずリュックを枕に横になる。
 見上げる木の壮大さ。いつもより近い位置にある地面の良い匂い。じっと地面を見ていれば、虫がとことこ歩いている。自分より体の大きな獲物を抱えて一生懸命歩いているのだ。その内、石によって道を妨害されたからか、歩きながら必死に何かを探している様な素振りを見せる。シキは指で石を摘むと遠くに投げてやった。再度道を発見した虫はほっとした様にまた歩き始める。それを見ていたらただ時間だけが過ぎて行く様な感じがした。
「ふわぁ…眠ぃ……」
 そよそよとそよぐ風が気持ち良い。
 木々の隙間から漏れる木漏れ日が心地良い。
 道に迷ってしまったし端末の電池も切れたし二進も三進も行かない状況だけど何故か現実と乖離した心地良さを感じる。山の空気を吸うとリラックス出来るって言うけど本当だな。
 呑気にそんな事を考えながらうとうとしていると、ガサガサと草木を掻き分ける音が聞こえる。一瞬だけ「熊か?」と肝が冷えたが、杖の様なものが視界に入り、それが人間であることに気が付く。シキは自分が遭難中の身である事に気が付き、慌てて起き上がると身振り手振りを大きく見せた。
「あ、すみません。俺、遭難しちゃって…」
 声を掛けると、その人はふぅと溜息を吐きながら姿を現した。
「知ってる。もう、何で無茶な事したの?シキ…心配したよ」
 現れたのは、軽装に身を包んだウルリッカだった。

こうなったら楽しんだもん勝ち

 ウルリッカの入山スタイルがあまりに自分に比べて軽装で、これは何故だ?とシキは頭に疑問符を浮かべながら顎に手を当て考える。自分はこれだけの準備をしてこんなにも彷徨って、しかしウルリッカはハイキング程度の軽装に見える。不思議だなぁと思いながらまじまじ見ていると、ウルリッカは少しシキの視線がくすぐったいのか身を捩りじっとりした目で彼を見て、そして「あっ」と声を上げた。
「シキ、珍しい格好してるね」
 シキはシャワーを浴びれず髪がベタつくのが嫌だからと髪の毛を一つに纏めて居た。まるでギャリーの様に髪の上部分を纏め上げるハーフアップな髪型。いつもは長く伸ばしている前髪も一緒に纏める様にしっかり上げてしまい、ハーフアップにオールバックと言う結社で見た事の無い髪型をして居た。
「そう…?まあ、普段は面倒臭くて縛らないから…」
「何か…ワイルドだね…」
「ワイルド…?」
「うん、ちょっと格好良い」
 そんな事を言うウルリッカを数秒見つめたシキはゆらりと彼女に近付く。そしてこつんと彼女の肩に額を当てると凭れる様に体を預けた。
「ちょっと…シキ?」
 ぐらりとウルリッカの体を正面から抱き抱える様にしてそのまま地面に倒れ込む。手で抑えられて居たから地面に接した背中も後頭部も痛みなど無いが、普段彼がやらなそうな押し倒す様な行動。そんな大胆な行動にウルリッカは静かに今何が起こっているのかと考えていた。
「シキ…?」
 控えめに名前を呼ぶ。すると、返事代わりと言わんばかりにシキの指がぴくりと動き、そしてお腹から大きな大きな地鳴りの様な音が響いた。
「そう言や俺…まともに食ってなくて…」
「ああ…力抜けちゃったんだね…」
「うん、でも目の前にウルがいたから…ウルの事だけは怪我させない様にって思って、咄嗟に手ぇ出しちゃったけど」
 それが限界。もう腹減った。
 そう力無く呟いたシキにウルリッカは思わず吹き出す様に笑った。

 * * *

 給食部でエミールが朝作ったのだと持たせてくれたお弁当。アルヴィが作ってくれた炒麦エル・バツのおにぎり。日持ちしない食事だったから良いのだが、、それがシキの胃の中に収まるのはあっと言う程短い時間だった。流石に念には念を入れ持って来たカップ麺やレトルト食品はここでは開けなかったが、シキに掛かれば全て今この瞬間に平らげてしまいそう。そのくらいの勢いある食欲だった。
「あー…食った食った…」
「本当よく食べたね」
「一日まともに食ってなかったから腹減っちゃって…」
「私も少し食べれたから良かったけど…本当シキ遠慮しないんだもん」
「ごめんごめん。帰ったら何か奢るから一緒に食べよ?」
 そう言ってからシキはハッとする。自分は今一体どこまで来てしまったのだろう?ウルリッカはやけに軽装だが、そんな軽装でいられる程下山は容易いのだろうか。急に不安になったシキは思っていたありのままの質問をウルリッカにぶつけてみた。ウルリッカはいつもと変わらぬテンションでうんうん頷いていたが、そこには山に何度も登っている猛者の顔があった。
「ウルは何でここに…?俺、ユーシン達に双子山に日帰り登山に行くってだけ伝えてたから…」
「だからだよ。シキはね、双子山登山しようとしてたんでしょ?多分、途中で道間違えてテナ山に来ちゃったんだよ。有名なんだけど、よく初心者が間違えやすい道があるの。一見獣道に見える方が正規ルート。そっちはその後ちゃんと山頂まで何メートルか書かれた看板が立たってる道に出るんだけど、その隣に一見舗装されたみたいに開けた道があって、実はそれって昔のカンテ人がテナ山に向かう為に切り拓いた道なんだよ。多分、シキはそっち行っちゃったから今ここにいるんだと思うよ?」
「え…じゃあここ、テナ山なの?」
「うん、ここはもう双子山じゃないよ。それで、双子山登山しようとしてる人が必ずと言って良い程一回は間違えるのがあの道だったから私は当たりを付けてこっち来たの。合ってて良かったけど」
「俺達…帰れるの?」
 少しだけ不安そうに尋ねるシキ。ウルリッカは温かいココアを手ににこりと笑うと「大丈夫だよ」と口にした。
「だからウル、そんな軽装なの?」
「軽装?ううん、私だって普通に準備して来たよ。リュックだってシキと同じだけの容量だけど収納出来るものは全部収納してるしその差じゃない?」
「なるほど…これが山慣れってやつなのかな?俺初心者だから荷物纏めるのも一苦労だった」
「そうかもね。さ、お腹も小慣れてきたなら下山準備しようか?皆心配してるから帰ろ?」
 テキパキと荷物を纏めるウルリッカ。しかし、シキはどうも何かに納得行ってない顔をする。そしてウルリッカにとんでもない事を提案するのだった。
「テナ山…テナ山でしょ…?俺温浴行きたいな…」
「へ?」
「せっかくここまで来たし。何か汗流したい感じするし」
「シキ…さっきまで遭難しかけてたのに…」
「何かウルが来てくれたって思ったら安心出来て。後、折角だから楽しんで帰らなきゃって思えて来たんだよね」
「何それ…」
 先程まで一人遭難していたと言うのに大きく出たものである。こんな我が儘の類をシキが口にするのは珍しいなと思いつつウルリッカは思い出した。ユーシン達調達班の子達の話を聞き、捜索に乗り出すと小隊長のユウヤミに許可を取りに行ったところ彼から「うん…一応念の為二日か三日は休むものだと把握しておくよ」と言われた事を。
 あの時は「隊長、私がシキをすぐ見つけられるって思ってないのかな?」と疑問に思ったが、おそらくシキのこの珍しい我が儘を視野に入れていたのかもしれない。
「良いよ。折角だから温浴してこっか」
「やったー」
 随分とテンションの一定なシキとウルリッカは結社への帰還から予定を変更し、テナの秘湯を目指したのだった。

次は一緒に

 ユウヤミがシキの特殊な我が儘を視野に入れて思考を巡らせたのには理由があった。山で一番恐ろしいのは、パニックになる事である。特に道に迷ったと思って慌てると、思わぬところで足を踏み外す事が多い。そしてそれが滑落、ひいては死亡事故にも繋がってしまう。
 パニックとは人の視野を簡単に狭めてしまうもの。普段の落ち着いた状態なら見えているものも見落としやすくなってしまう。本来なら気を付けて用心している、普段なら近付く事は無い様な崖付近で足を滑らせて結果何十メートルも下まで滑落し帰らぬ人となるケースは決して珍しい事象ではない。
 しかし、ユウヤミはシキに限ってそれは起きないだろうと踏んでいた。以前気紛れに資料を読み、彼と直接話す機会があったので言葉を交わしてみたところ、どうやら彼にはある種の豪胆さが人よりも大分多めに備わっていた。どんな状況下でも人よりパニックに陥る事が少ない、よく言えばパニック耐性が彼にはあった。まあ、マイペースだと言う事だ。そしてそんなシキの事だから山を熟知したウルリッカと会えば「さあ帰ろう」ではなく「もう少し楽しもう」に切り替わる気はしていた。ウルリッカもなかなか働き詰めだったし少し休むくらい良いだろうと三日程あらかじめ休みにしておいた。
 そんな事をユウヤミが考えていたとは露知らず。ウルリッカはシキと木漏れ日差し込む山道を歩いていた。ウルリッカにとって嬉しい誤算だったのは、シキが意外に山道を歩けた事だ。もしへばる様ならリュックを自分が背負うしかないかと危惧していたが、シキは意外に頑張って歩ける方だった。
「あ、ウル!待って!」
 珍しく声を上げるシキにキョトンとした目を向ける。シキはどこにそんな体力があるのか、少し小走りに草木を掻き分けていった。しかし、彼の場合大き過ぎるので見失うことも無いと言うのが面白い。
「どうしたの?」
「ほら、あれ…あ、ウル。ちょっと股開いて」
 何を言い出すんだ急に。
 普段恥じらいとはあまり縁のないウルリッカも流石にシキの発言のおかしさには目を白黒させる。股開いてって、何だ?彼はこんなところで何を望んで居るのだろう?そんな事を考えながら次に目を合わせると先程とは打って変わって赤い照れた顔のシキがそこに居た。
「ご、ごめん。足開いて、だ。股開いてなんて女の子に言っちゃいけない…」
「足開いて、も目的が分からない以上充分不可思議な言葉だけど」
「いや、それはほら、あれ」
「ん?」
 シキは一本の大きな木を指差す。その立派な木には穴が空いていた。
「あ。あれカンテ・ロデンティアが居そう」
「ロデンティア?」
「ネズミとかリスみたいな小動物の類の事。カンテ・ロデンティアはカンテの固有種なんだよ。数は少ないけど、可愛いの」
「ああ、やっぱり。さっきそこからリスっぽい顔が見えたんだ」
 シキは荷物を置いてしゃがみ込むと、いつかの桜を見た時の様にウルリッカを肩車ジンジョコした。シキにやってもらうと何だか物凄く背が高くなった様な気分になる。シキが超高身長なのでその肩に乗せられれば優に二メートルは超えてしまうからだろう。髪の毛を纏めているからか、普段は見えない彼の前髪の生え際が上から見え、何だか珍しいものを見れて得した感じがする。
 シキ、前髪上げるのちょっと似合うなぁ。
 そんな風に思いながらも視線を穴の方に向けると、残念ながらカンテ固有の種ではないが巣穴の主であろうシマリスと目が合った。
「あ、可愛い…」
 警戒し怖がっているのか、きゅるっきゅるっと独特な鳴き声を上げるシマリス。そんな姿も可愛いと思いつつ刺激し続けるのも可哀想なのでバイバイと手を振るとシキの頭をトントンと突く。
「ん?」
 急に顔をあげるのでびっくりしたウルリッカはヘッドロックをする様にシキの顎に手を回ししがみついた。
「シキ、もう降ろして」
「もう見た?」
「うん。リス可愛かった。でもシキ、ただでさえ疲れてるのにこれ以上ジンジョコしたらもっと疲れちゃう」
「あー…それもそうか。ありがとう、ウル」
 ウルリッカをゆっくり降ろすシキ。しかし、ウルリッカは先程手を回した時偶然触った感触が気になってしまった。おもむろにシキの顎に手を伸ばすとその感触を楽しんでみる。
「何…?」
「シキも髭生えるんだね…」
「ああー…ジョリってした?うん、まあ。伸びるの早い方じゃないんだけど…流石に丸二日放置すればそれなりにね」
「うーん…ふふふ」
 何だか面白くなってしまい、シキの顎に手の甲を当ててショリショリと髭の感覚を楽しむ。珍しい。シキにも髭って生えるんだ。しかし、ショリショリと手の甲で擦って居たがその内ひりひりと痒くなって来てしまう。
「ん…!?か、痒いっ!!」
「あ、言い忘れてたけど、生えかけの髭ってジョリジョリやりがちだけどさ、あんまやりすぎると小さい傷付いて痛痒くなるよ」
「さ、先に言って!」
「ん?ウル、お兄さん居るから知ってるもんだと思ってたよ」
「アル兄にはそんな事しないもん」
 そんな風に戯れていると、二人の目の前に湯治場が広がる。ウルリッカにとってはよく来る馴染みあるところだが、シキと一緒は初めてなので少しだけいつもと違う感じがする。周りを見回せば今日この時間湯に入りに来ている人間は居ないようで貸切の状態だった。
「今なら誰も居ないから自由に入れるよ」
「良かった…俺海パン持ってないから人居たらどうしようかと…ウルは?入る?」
「ううん、私も水着持ってないし今日は良い。また今度入ろうかな」
「そっか…良し、じゃあ俺、ちょっと行ってみる…!カバン見ててくれる?」
「良いよ」
 シキと一緒に居るからだろうか。いつもよりお湯の波間は穏やかに揺蕩う様に見える。ぼーっと眺めていたが、穏やかな水面に鳥の囀り、爽やかな草木の香りに心が凪ぐ。
 そんな目の前でシキがいそいそと湯に浸かる準備をしている。いつもより少しワイルドで大人な髪型にして、珍しくいつもより少し無精髭を生やして。こんな彼、初めて見た気がする。いつもなら前髪もそのままに、髭はしっかり剃っているのか肌もツルツルでむしろ子供っぽい印象なのに。
 山神様ごめんなさい。いつだって山の澄んだ空気を、荘厳な雰囲気を一新に感じて感謝しながら山を歩いているのに。珍しいものが見れたからか、仲の良い子の普段見ない姿にうっかり意識を持って行かれてしまった。
「あ、あのー…うるりっかさん?」
「え?何?」
「そんなにじっと見られてたら流石の俺も恥ずかしいんですけど…」
 ふと気が付くと、パンツに手を掛けたシキが物言いたげにウルリッカを見ていた。穏やかな山の空気に浸って彼女の心はどこか山の遠くに居た感覚ではあったが、シキはどうやら先程から着替えをガン見されてる様な居た堪れなさを抱いていたらしい。
「どうしたら良い?」
「…十秒くらい目を瞑ってくれたらそれで良い」
「分かった」
 ぎゅっ…と目を閉じる。目を閉じたせいか、先程よりむしろ山の事も近く感じた。良いよ、と言う声に目を開けると、シキが気持ち良さそうに湯に浸かっていた。畳んでこそ居ないが、脱いだ服を一箇所に集めているのがシキらしい。
「ウル、手ェ貸して」
「え?」
「ほら、さっき俺の髭で小さい傷作ったろ?湯治って事は、ここ浸ければ治るんじゃないの?」
 そう言う事を気にしているのもシキらしい。
 ウルリッカはふっと笑うとシキに手を伸ばす。シキはそんなウルリッカの手を取ると湯の中にそっと浸けた。
「ねぇ、ウル」
「何?」
「…今度はさ、ウルと一緒に山行きたいな、俺」
「…うん」
「今日もさ、ウルと行く予行練習しようと思って来たんだよ」
「流石に山は一人じゃダメだよ…」
「でも、ウルと一緒に行ってバテたら格好悪いじゃんか」
「そんな事無いよ。それより、今日みたく居なくなっちゃったらそっちの方が心配だよ」
 少し顔の赤いシキがウルリッカを覗き込む。バツが悪そうに頬を掻くと、小さな声で「ごめん」と呟いた。
「…俺の事、探してくれてありがとう」
「うん」
「次は一緒に来ようぜ」
「今度は水着持って来ようね」
 穏やかに笑うシキとウルリッカ。直後、熱さに負けたシキがいきなり湯から上がって目の前に飛び出して来た為その時ばかりは流石のウルリッカも少しだけ悲鳴を上げた。
 服を着て山を堪能しながらゆっくり下山する。結局結社に着いたら夜も更けてしまい、シキもウルリッカも待ち構えていたユーシンとテディにこっぴどく叱られたのは言うまでも無い。
 しかし、次の休みが二人重なったら一緒に山に行こうと言う約束も出来、二人は各々自室で満足気にすやすや眠ったのだった。