薄明のカンテ - 罪深き犬達の話/べにざくろ


壱の罪 兄貴安眠妨害罪

 彼――シキ・チェンバースの前には一つの箱があった。
 縦36.2センチメートル、横45センチメートル、高さ33センチメートルのそれは彼の前に堂々と鎮座し、挑戦者シキを嘲笑うように部屋の灯りを反射し黒々とした光を放っている。
 箱の名前は「電子レンジ」。マイクロ波加熱により、お手軽な調理を可能とする優秀な小型家電である。
 ふと、シキが動く。温めようと用意した夜食を電子レンジの中に入れて温めをお任せするボタンをポチッと押すだけの簡単な作業だが、彼の顔は陶器を窯に入れようとする職人の如く真剣なものだった。
 ボタンを押された電子レンジが大人しく動き出したのを見て、シキは知らずに入っていた肩の力を抜いた。

 ジジジジジ……。

 ほっとしたのも束の間、シキの耳に電子レンジが発する異音が届く。
 おかしい。ロード兄貴が使った時はこんな音はしなかった。
 シキは僅かに眉根を寄せて電子レンジを見つめるが電子レンジに何ら変わったところは見られないように思われて、気のせいだと思うことにした。きっと電子レンジに対して緊張し過ぎているせいで大したことの無い音が大きく耳に届いてしまったのだろう。
 やがて電子レンジの活動終了を告げる音が鳴る。
 何だ。無事に出来たじゃないか。
 達成感で顔の筋肉を和らげながらシキは電子レンジの扉を開けた。そしてアルミホイルで包んだ・・・・・・・・・・クロワッサンが温まって良い香りを発しているのを嗅覚で感じ、青と緑が入り混じった不思議な色の瞳で電子レンジの扉の惨状・・を視覚で理解した。
「え……」
 理解した瞬間、シキは絶句する。
 電子レンジ扉の内側には人が全く入らず数十年も放置された館に蜘蛛が巣を張ったような無数の亀裂クラックが張り巡らされていた。それでも硝子が割れたりしないのは電子レンジメーカーの並々ならぬ努力の結果なのだろう。
 暫く立ち尽くしていたシキだったが、折角温めたクロワッサンが冷えてしまっては勿体ないと考えて扉を開けっ放しにしたままそれを見つめながら黙々とクロワッサンを食べる。
 確かこの電子レンジは23,925イリしたのではなかったのだろうか。
 購入したのはロードだが、シキは調達ナリル班に所属する人間らしく品物の値段は良く覚えていた。クロワッサンは110イリの代物で、温めに使ったことでお亡くなりになった電子レンジは23,925イリ。とすれば、今シキの食べているクロワッサンは24,035イリもする高級品ということになるのではないか。そんな貴族でも食べないだろう高級なお値段のクロワッサンになってしまったとなれば、味わって食べないと勿体無い。
 外側のパリッと感とは裏腹に、内側は生地が薄く繊細に重なり美しい層を描いているためしっとりとした噛み心地を与えてくれるクロワッサンをしっかりと味わい尽くしたシキは食べ終えて一息つくと、携帯型端末を手に取った。ディスプレイに表示された時計が示す時刻は午前2時近かったが、シキは全く気にすることなく電話をかける。
「……お前、時間というものを考えていますか?」
 数コールの後、不機嫌な声ながら電話に出たのはシキの兄貴分――ロード・マーシュだ。
 何か起きればロードに言えば解決してくれる。シキはそれを知っていたから謝罪も何もかもをすっ飛ばして端的に要件を告げた。
「兄貴、電子レンジが死んだ」
また・・、卵を入れたんですか? あれ程、卵は電子レンジに入れるなと言ったのに……」
 電話越しにもロードが呆れた顔をしているのが見える気がするような声であったが、シキはそんな事は気にしない。大体、今回卵を入れた訳では無いのだから濡れ衣もいいところである。
「クロワッサンを温めたら勝手に扉が割れたんだ」
 シキが状況を説明するとロードからは沈黙が返ってきた。
 兄貴、電話しながら寝ちゃったのかな。仕方の無い人だなぁ。
 そんなことをシキが思う程の沈黙の後、寝ていなかったロードが声を発する。
「アルミホイルで包んでいないでしょうね?」
「アルミホイル?」
「銀色のキラキラでペラペラの奴ですよ」
「あ、うん。包んだ」
 透明で破けやすい方ラップが無かったので仕方なくアルミホイルを使ったのだ。シキの答えにロードが再び沈黙した。
 シキは知らなかったが、電子レンジはマイクロ波という電磁波を出して食べ物の水分子を振動させることで熱を発生させて食べ物を温める仕組みである。しかし金属にマイクロ波が当たると電磁誘導発電作用で電気が発生してしまうのだ。
 それをシキにどうやって説明したら通じるのか。
 ロードは悩んだ。
 その結果。
「アルミホイルは電子レンジに使用しないで下さい……」
 説明を端折り結論だけを言うことにした。何故ならば説明したところでシキが覚えてくれることなんてなく「へー」と興味無さそうな返事が来ることは火を見るより明らかだったからだ。ロードは良くシキのことを理解していた。伊達に付き合いは長くない。
「分かった」
 シキは電話越しにロードの言葉に頷いた。尚、頷いて返事をしただけであり本当に理解しているとは限らない。それもまた良く理解しているロードは溜息をつくと「私はもう寝ますからね」とだけ呟く。
「兄貴」
 そんなロードに向かってシキは更に口を開いた。
「何です?」
「また新しいやつ買って」
「今度は自分で買いなさい!」

弐の罪 兄貴恋愛困惑罪

 シキが新しい電子レンジを買ったそうだ。
 ウルリッカはそれを携帯型端末に来たシキからのメールで知ってワクワクしていた。というのも、シキの部屋にある電子レンジは何でだか知らないがお洒落な最新家電が多いからだ。
 お洒落な家電が多いのはロードのチョイスだからであり、最新家電が多いのは破壊神シキによってお亡くなりになられた家電が多いからなのであるがウルリッカはそんなことは知ったことではない。
「ねー、ウルちゃん。たまには違う髪型にしましょうよー」
「嫌だ」
 兄のアルヴィの部屋で夕食とお風呂の後、お洒落大好き機械人形マス・サーキュのシリルに髪の毛を弄られていたウルリッカはシリルの問いに拒否をしていた。
「ポニーテールも可愛くて良いケド、ワタシとしては違う髪型も楽しみたいのよー」
「嫌」
「ウル、どうしてそんなに嫌なんだい? たまには違う髪型も良いじゃないか」
 食器を洗いながらシリルとウルリッカの会話に耳を傾けていたアルヴィがシリルを擁護するような事を言い出すのでウルリッカは兄を睨みつけた。
 カンテ国の平均身長には及ばないとはいえアルヴィはウルリッカ達の集落コタンにおいては長身である。そんな兄には集落コタンの平均身長でありカンテ国の平均身長から程遠いウルリッカの気持ちなんて分からないのだ。
「……この髪型じゃないと身長小さくなる」
 ポツリと呟いたウルリッカにシリルは小さく「あら」と呟いた。ポニーテールの高さの分、ウルリッカは身長を詐称しているつもりだったとはシリルも知らなかったからだ。食器洗いを終えて自分用にはグロッグを、ウルリッカ用にグロギを作って持ってきたアルヴィはそれを聞いてにこやかに笑う。
「身長も気にしていたんだね」
「も?」
 アルヴィの言葉は聞き捨てならないものだった。
 『も』とは何だ、『も』とは。他に何を気にしていると言いたいのだ。
 ウルリッカが先程よりも強くアルヴィを睨みつけた事でアルヴィは己の失言に気付いてシリルに助けを求める目線を送るが、シリルは自分は関係ないとばかりの顔で主人マキールから目を逸らした。
 援軍は無いと知ったアルヴィの顔に焦りの色が浮かぶ。
「お兄ちゃん。『も』って何?」
 普段呼ばない『お兄ちゃん』呼びでアルヴィを呼んで、ウルリッカはじっとりとした目をアルヴィに向けた。
「いやー、そのー……胸囲ですごめんなさい」
 アルヴィは早々に白旗を上げた。問いかけつつもアルヴィの言いたい『も』の正体に最初から薄々と気付いていたウルリッカは、ふんと不満を表す様に鼻を鳴らすとグロギを一口飲んだ。
 ウルリッカの胸囲――要するに胸の大きさは決して豊かではない。
 女性の胸の大きさをカンテ国に点在する山々に例える事もあるが、カンテ国内の山ではウルリッカの胸は残念ながら表現出来ない大きさであったのである。
「ご、ごめんね、ウルちゃん……お兄ちゃんの失言でした」
 なおも謝るアルヴィから、今度ウルリッカが満足するまで料理を作ることを約束させるとウルリッカの機嫌はみるみるうちに良くなった。
 兄妹喧嘩の結末までを大人しく見守っていたシリルは今がチャンスとばかりにウルリッカに声をかける。
「ねぇ、ウルちゃん。せめてツインテールはどうかしら?」
 ツインテールは以前、ツインテールの日だとかいう日にシリルにやられた覚えがあったウルリッカはその時の髪型ならば、さしてポニーテールと変わらなかったことを思い出す。
 だから、ツインテールならばやってもいいかもしれない。
 そう考えてウルリッカは頷く。
「良いよ」
「じゃあ決まりね! あ、飲むのは止めなくていいわよ? ワタシが勝手にやるから」
 そう言って浮かれた様子でシリルはウルリッカの長くて癖のない髪を櫛で梳かし始める。浮かれたシリルは上機嫌な人間のように鼻歌を歌っているのだが、その曲が最近ウルリッカがギャリーに教えて貰った包子の店のCMソングであることにツッコミは入れた方がいいのだろうか。
「おやつに最適、ほっぺ饅」
 グロッグを飲んでいたアルヴィがシリルの鼻歌に合わせて歌詞を口ずさむ。アルヴィの子守唄を聞いて育ったと言っても過言ではないウルリッカは兄の歌の上手さは良く知っているが、それがCMソングでも発揮されていると良い声の無駄遣いにも程があって少しだけイラッとした。
「はい、できた!」
 CMソングを何回かリピートした後、シリルは鼻歌を止めて声を上げた。
 ウルリッカを見たアルヴィは目を細めて「かわいいよ」と言うが、兄はどんな状況でもウルリッカ自分を「かわいい」と言う生き物であるので彼からの批評は何のあてにもならない。
「鏡、使ってちょうだい」
 シリルから渡された手鏡を覗き込むと鏡の中のウルリッカは見事なツインテール姿だった。髪を縛っているゴムの部分は白くて薄くてヒラヒラしたシュシュが付いていて可愛い。
「……どうかしら?」
「うん、良いよ」
 ウルリッカが頷くとツインテールがふわりと揺れた。いつもはポニーテールで一本しか揺れないのに、ツインテールにすると二本揺れて変な感じがするなぁとウルリッカは思う。そんなウルリッカにシリルが目を三日月のようにしてニンマリと笑った。
「これから今日もデートでしょ? たまにはオシャレしなくっちゃ彼に悪いわよ?」
「ぐふっ」
 飲もうとしていたグロッグを誤嚥しかけてアルヴィが噎せる。噎せた苦しみなのか、はたまた妹の「デート」がショックなのか、更には両方なのか涙目のアルヴィがウルリッカを見た。
「ウルちゃん。『も』って何?」
 それは先程、ウルリッカがアルヴィに問いかけた時と同じ言葉だった。
 違うのは答える側のウルリッカが何の気まずさも罪悪感も抱いてないということだ。
「シキとご飯食べるの」
「待ってウルちゃん。ご飯はさっきお兄ちゃんと食べたでしょ?」
 デート云々よりも妹はご飯を食べたか食べてないか分からなくなるくらいにボケてしまったのかと心配になるアルヴィだったがウルリッカは当然のように言った。
「さっきのはお夕飯。シキとは夜食」
「だから、さっき僕の本棚のレシピ本漁ってたんだね!? 何でチェンバースさんと何回も一緒に夜食なんか食べてるの!?」
「なんとなく?」
 そう言ってウルリッカは首を傾げる。
 シキ・チェンバースとは気付いたら一緒に夜食を食べる仲間になっていた。見た目に拘らなければ食べられるレベルの腕を持つウルリッカと、ダークマター生成器であるシキの作る夜食は、簡単かつ高カロリーで並の人間では肥満一直線の代物ばかりだ。だから仲間も増えないので2人で食べているだけで(たまにヒギリが加わってくれることもある)、シリルが茶化して言うような「デート」の意識はウルリッカには微塵も無い。
「でも、シキとのお夜食デートはとっても楽しいんでしょ?」
 シリルの問いかけにウルリッカは素直に頷く。
「シキは私にイケナイことを沢山教えてくれる」
 シキは調達ナリル班所属であるために、仕事ついでに美味しそうな食べ物を何処かしらで見つけては購入して夜食用にと用意してくれた。世の中には胃袋を掴む、という言葉があるが、ウルリッカはシキの買ってくる食べ物達に正に胃袋を掴まれていた。それ程、彼の食べ物を選ぶセンスは素晴らしいものだったのだ。
「この前もシキと夜通しでイケナイことした。凄く楽しい夜だった」
 先日も、調理時間のかかる炒麦エル・バツをわざわざ作って生ハムとバターでおにぎりを作った。そこに黒胡椒をかけたら美味しいんじゃないかと言い出したのはシキだった。そしてシキの言う通りに黒胡椒をかけると不思議と味がまとまって余計においしくなったのだ。あれは大発見だったとウルリッカはウットリとおにぎりへ想いを馳せる。
「あれは忘れられない夜だった……」
「ウルちゃん、ウルちゃん。申し訳ないのだけどアルが気絶寸前だから止めてあげてちょうだい」
 笑いを堪えきれていないシリルの声に我に返ったウルリッカの前には、今にも泡を吹いて倒れそうな雰囲気のアルヴィがいた。ウルリッカとしては普通に楽しくシキと夜食を食べた話をしただけなのに、アルヴィがこうなっている理由が分からない。
「アル兄、どうしたの?」
「想像力の翼を広げすぎちゃったのよ、きっと」
「ふーん……」
 シリルの言う「想像力の翼」はウルリッカとシキが男女関係にあるのでは無いかという話の方向だったが、ウルリッカはおにぎりのことを考えていたのでアルヴィは美味しそうな夜食を想像しすぎて気絶寸前なのだと思った。
 アルヴィなら美味しくて簡単な夜食も作れそうなので、今度何かレシピを聞いてみよう。
 あくまでも食べ物のことだけを考えながらウルリッカはグロギを啜った。

参の罪 ツインテール強要罪

 今日の夜食も楽しみ。
 夜食用の材料を肩掛け鞄に詰め、ツインテールを揺らしてウルリッカはシキの部屋に向かって歩いていた。今日はシキの部屋に新品の電子レンジが届いたということで電子レンジを使った夜食にしようとウルリッカの心が弾む。
 そんな浮かれて歩くウルリッカは結社の方向から見知った焦茶色の髪に赤メッシュを入れた女性が歩いてくるのに気付いた。マタギ故か視力の良いウルリッカは彼女がウルリッカの存在に気付く前に、とことこと近寄っていく。
「え!? ウルちゃん!?」
 残り数メートルとなったところでヒギリがウルリッカに気付いて驚いた声を上げた。そんなヒギリの闇夜でも綺麗な紫色の目は丸くなってウルリッカの顔ではなく頭部を見ていた。
「こんばんは、ヒギリ」
「あ、こんばんは……髪型違うから驚いたよ」
「シリルにやってもらったの」
 自分が普段と違う髪型をしていた事を思い出しながら、ウルリッカはヒギリの下の方で二つ縛りにした髪を見た。
 普段から二つ縛りにしているのだからヒギリはツインテールが似合いそうだ。顔立ちも可愛い感じだし、絶対に似合うと考えたウルリッカは早速それを提案することにした。
「ヒギリも今度ツインテールやって貰えば?」
「えっ!?」
 何故そんなに驚くのかと問い掛けたくなるほどヒギリは驚いた顔を見せた。
 ウルリッカは知らないことだが、ヒギリは「ディーヴァ×クアエダム」というアイドルグループで芸名「ローズ・マリー」として活躍していた過去がある。その時の髪型がツインテールのため、身バレを恐れているヒギリとしてはツインテールは気付かれる可能性があるから絶対にやりたくない。とはいえ悲しいことに「ディーヴァ×クアエダム」はコアなファン以外にはセンターのソフィア・マーテル以外覚えられていない為、結社でツインテールにしたところで気付くのは居るのか分からないアイドルオタクの僅かな人間だけであろうが。
「ツインテールは私には似合わんよ」
 無難な言葉でヒギリはツインテールを回避しようとすることにした。しかし苦笑混じりで言ったヒギリに対して、ウルリッカは黒目がちな目を恐ろしい位に真っ直ぐに向けた。
「ヒギリは可愛いから、私より似合うよ?」 
 ウルリッカに穢れを知らない純粋な子供のような目で言われて、ヒギリは言葉に詰まる。
「で、でも年齢的にツインテールは卒業かなって……」
「ヒギリ、何歳?」
「23歳だけど……」
 ヒギリの答えにウルリッカが目をパチクリと瞬いた。
「私も23歳」
「ええっ!?」
 目の前でツインテールにしているウルリッカが同じ年齢だったと知ってヒギリは驚くしかない。マルフィ結社は年齢も職業もバラバラの人間が集っているため、会話の中で年齢を聞くチャンスがなければ見た目で判断するしかないからだ。
 ヒギリ自身、ウルリッカとは年齢が近いとは思っていたがまさか同じ歳だったとは。そして同年齢のウルリッカがツインテールにしているのに「年齢的にツインテールは卒業」という言い訳は使えず万事休すだ。
 ヒギリは状況を打破する上手い言い訳を思いつくまで考えた。
 そして一つの仮説に行き着く。
「……ウルちゃん、誕生日いつ?」
「4月4日」
 名探偵ヒギリはウルリッカの誕生日を聞いてピンと来た。
 仮説通りだ。ウルリッカはヒギリの同級生では無い・・
「じゃあ今年23歳になったんだね? 残念ながら私は今年24歳だから一個年上だ」
 ヒギリの誕生日は8月7日。
 これから誕生日が来るのだから、ヒギリはウルリッカより一つお姉さんということになる。
「24歳になるとツインテールは卒業なのか……」
「うんうん、そうだよ」
 そんな法律も理論も何も無いが何やらウルリッカが納得しているので、ヒギリはそれに乗っかって頷くことにする。
 なお、マルフィ結社の機械マス班には赤い髪をツインテールにしたアン・ファ・シンというヒギリと同級生で尚且つ誕生日が1日違いという女性がいるのだが、アンと親交が無い2人はその事実は知らないままであった。彼女のことをウルリッカが知っていたらヒギリはツインテールにさせられる未来があっただろうし何か小さな歴史が変わっていたかもしれないが、残念ながら前述の通り知らないままなので未来は何も変わらなかった。
「シリルにも言っておこう」
「シリルさんは言っても聞かないと思うんよ」
「うん、そうだね。じゃあ言わない」
 ヒギリのついた嘘が広まることを防げてヒギリは安堵する。馴れ馴れしく人と関わる機械人形マス・サーキュのシリルなんかに言った日には、シリルが面白がってスピーカーの如く喋って「24歳はツインテール禁止らしいわよ」と結社中に広まりかねないからだ。
 ツインテール問題が片付いたところでウルリッカは別のことを問いかけた。
「ヒギリ、暇?」
「帰るだけだから暇と言えば暇だけど」
 部屋に帰って作詞作曲に勤しもうかと思うくらいで特段の予定の無いヒギリはウルリッカの問いに答える。答えながらヒギリの脳内には唐突に『夜に食べる辛口カレーヌードル、まろやか追いチーズ編』が思い出されていた。夜に見慣れない肩掛け鞄を下げたウルリッカが何故かこんな所にいるということは今日も夜食に勤しむつもりなのかもしれないからご相伴に預るのも悪くない。
「シキと夜食するの。一緒に行こ?」
 ヒギリの予測した言葉がウルリッカから出てきた。「もちろん」と頷こうとしたヒギリだったが、はたと気付く。
「どこで?」
 ヒギリが参加する時の夜食会は休憩所で行われているものだ。今日もそうなら良いがウルリッカの向かっている場所は違うように感じられたのだ。
 問いかけるヒギリにウルリッカは当然のような顔で言う。
「シキの部屋」
「いかんよ! こんな夜更けに男子の部屋に行くなんて!!」
 過去、アイドル活動に勤しんでいたヒギリは異性関係に敏感だった。闇夜の中でも顔を赤くしているのが分かるヒギリにウルリッカは首を傾げる。
「シキだよ?」
「シキ君だって立派な男の子だよ!」
「そうなの?」
 純粋な顔で自分を見つめてくるウルリッカの顔を見ていたら何の間違いも起きないだろうとヒギリは考えた。それでも活動を止めているとは言え、元アイドルの自分が夜半に男の子の部屋に遊びに行くなんていうパパラッチの喜びそうなネタをやる訳にはいかない。
「休憩所で夜食する時は誘って欲しいな」
「分かった。またね、ヒギリ」
 こうしてヒギリは夜食へ後ろ髪を引かれる思いをしながら、シキの部屋に向かうウルリッカを見送ったのだった。

肆の罪 エル・バツ炊強要罪

 ポークミンスにペチュチムチェ。
 シキの部屋に入ったウルリッカは浮かれた様子で肩掛け鞄からそれらを取り出した。2人前の量にしては多く見える気がするが、それは対比するウルリッカが小さいせいに違いない。そうに違いないのだ。
「シキ、用意は出来てる?」
「うん、ばっちり」
 テーブルの上に置かれた鍋の蓋をシキがとると何も具材が混ざっていない炒麦エル・バツが鍋の中に湯気をたてて入っていた。東國ではバクシャリと呼ばれる状態になったそれはシキが炊いたものではない。
 誰が炊いたか。
 当然、ロードである。
 本部での終業後に取り寄せておいた新品の電子レンジを運び入れて「次は無いですからね?」と笑顔でありながら怖いという器用な真似をやってのけたロードにシキは「うん」と軽く返事をして「じゃあ炒麦エル・バツ炊いて」と鍋を差し出したのだ。
「は? もう一度聞かせてもらっても?」
炒麦エル・バツ炊いて。何、兄貴耳が遠くなったの?」
「……お前限定で耳が遠くなりたいくらいですよ。今から炒麦エル・バツを炊けと? 私に?」
 麦を主食にするカンテ国民だが、調理方法の面倒臭さが群を抜いて違うのが炒麦エル・バツだ。よりにもよって面倒な調理方法を提案してくるものである。
 自分ロードを指差しながら問いかけるロードにシキは首を傾げた。
「兄貴以外に誰がいるの?」
「お前がいるでしょう!」
 ツッコミの如く言い放つロードに、不思議と凪いだ目をしたシキは静かにロードを指差した。否、その指は少しだけロードからずれてロードの後ろのシンクを指差していた。
 その指に導かれるようにして怪訝な顔をしながら振り向いたロードの濡れたような黒の目が、それ・・をとらえて驚愕の色に染まる。
「な……」
 そこにあったのはロードが買ってやった鍋だった――ものだった。
 真っ黒な炭と化した炒麦エル・バツの残骸が鍋底に張り付き、耐熱ガラスで出来ているはずの蓋は真っ二つ。
 そういえば部屋に入ってから焦げ臭かった様な気がしていたが原因はこれだったとは、とロードは合点がいく。合点は行くが、納得はしない。
「兄貴」
 言葉を失っているロードにシキはそっと声をかける。
炒麦エル・バツ炊いて」
「――キ、シキ?」
 ウルリッカの声にシキは我に返る。鍋の蓋を開けて炒麦エル・バツの香りを嗅いでいたら炊くまでの記憶がシキの脳内で映画のように流れてしまっていた。それは傍目から見たら鍋の蓋を持って動かなくなっただけであり、ウルリッカは心配したような顔でシキを見上げている。
「ああ、ごめん」
 鍋の蓋を戻した手でシキは安心させるようにウルリッカの頭を撫でる。
 大人しく撫でられていたウルリッカだったが、途中で何かに気付いたようにぴょこんと身体を跳ねさせた。
「髪型!」
 言われてみれば今日のウルリッカの髪型は見慣れたものと違った。二つに分けて縛られているし、その縛っている部分には白いヒラヒラしたものが付いている。
 ウルリッカ自身も先程外でヒギリと会った時には覚えていたのにシキの部屋に入ったら夜食の事で浮かれてすっかり忘れていた。今日のウルリッカは24歳になったら出来なくなる貴重な髪型のツインテールだ。
「どう?」
「かわいいよ」
 シキに誉められてウルリッカは彼女にしては珍しいことにニコリと微笑んで喜びを露にした。
「シキならそう言ってくれると思った」
「俺なら?」
「うん。シキは私より年下だけど、お兄ちゃんみたいに優しいから」
 ウルリッカは実兄を誉めているような言葉であることに気付いて口を手で覆うが、既に言ってしまった後なので何の意味も無い。そんなウルリッカをシキは微笑ましく見守るような目で見つめて再び頭を撫でる。

――シキの手は大きくて気持ち良いから好き。

 撫でられていたウルリッカは喉まで出かかった言葉を何となくシキ本人に言うのが恥ずかしくなって飲み込んだ。今までこんな想いを抱くことは無かったのに不思議なことだ。
 シキのことは“ お兄ちゃんに似て優しい ”から好きなのか。
 それとも別の何かがあるのだろうか。
 ウルリッカらしからぬ感情への疑問は。

ぐーきゅるるるるー。

 どんなシリアスな空気も吹き飛ばすウルリッカの間抜けなお腹の音の前に消えたのであった。

伍の罪 夜食製造罪

 改めましてポークミンスにペチュチムチェ。
「シキ、耐熱ボウルある?」
「シンクの下に」
「あ、あった」
 我が物顔でシキの部屋のキッチンを漁り必要な道具を取り出していくウルリッカは耐熱ボウルに豚挽肉ポークミンスを大胆に入れると、鞄から怪しい黒い液体の入った瓶を取り出した。怪しい色のそれにシキが疑いの目を向けてくるのでウルリッカは安心させるように微笑む。
「醤油とか味醂。アル兄の部屋で混ぜてきた」
 肉の量や作るものに合わせてアルヴィが計量したものなので何ら問題は無い。問題があるとすれば「男と食べる夜食の調味料を僕が計るなんて……」とアルヴィの心が荒れに荒れていることであるが、それは兄の心の問題であるのでウルリッカは何の興味も持ち合わせていなかった。
 むしろ料理の味の良さには定評があるアルヴィにやらせたので、今日の夜食の味は間違いないと浮かれているくらいであった。兄の心妹知らず、ここにありだ。
 尚も不安そうなシキを横目にウルリッカは調味料をドボドボと投入する。
 そして最後に砂糖をえいやと放り込んだ。
「えーっと」
「はい」
 ラップを探してキョロキョロするウルリッカに、シキが何も言っていないのに状況を察してラップを渡してくる。
「ありがと」
「アルミホイルは電子レンジに使えないから」
「ん?」
「アルミホイルは電子レンジに使えないから」
 何故、ラップを渡しながらシキは「アルミホイルはダメ」と強調してくるのか。
 ふんわりとラップを耐熱ボウルにかけながらウルリッカは考える。
 考えたけど、分からなかった。
「うん、知ってる」
 アルミホイルは火事の元になるから使用してはいけないということをウルリッカはちゃんと知っていたから、シキの言葉に頷いた。ウルリッカの返答に何だかシキがガッカリしたような顔をしているように見えたが、それを無視して電子レンジに耐熱ボウルを入れて加熱する。
 シキとしては電子レンジ一台の犠牲で得た知識を披露したつもりだったのだが、ウルリッカは残念ながら知っていた。そのことに内心ガッカリしながらもシキはウルリッカと並んで電子レンジを見守る。
 数分加熱してウルリッカは耐熱ボウルを取り出した。
 ラップを剥がして中身を掻き混ぜるウルリッカに、ボウルを覗き込んだシキが上から首を傾げる。
「まだ生だよね?」
「うん。混ぜてからもう一回レンジに入れる」
「混ぜるよ」
 そう言ってシキがウルリッカからボウルを受け取るが、ウルリッカはそれを不安そうな目で見つめた。
「ハンバーグじゃないから捏ねないでザックリ混ぜてね」
「……うん」
 シキからの返事に奇妙な間があって忠告をしておいた自分の第六感が当たっていたことを悟る。罠を見る前に山に仕掛けた罠に獲物がかかっていると感じた時のような予感があったのだ。
「混ぜたら、またレンジで加熱」
「うん」
 ハンバーグになることを未然に防いだそれを再びラップをして加熱。
 取り出して生肉ではないことを目視で確認したウルリッカは白菜沈菜ペチュチムチェをボウルの中に放り込んで混ぜる。その隙にシキに炒麦エル・バツをよそってもらうことを頼むのも忘れない。
 混ぜたポークミンスとペチュチムチェを炒麦エル・バツの上に乗せればほぼ・・完成だ。
「食べていい?」
「まだダメ」
 シキを止めながらウルリッカは生卵を割っていた。
 そんな卵を見てシキの表情が曇る。
「卵はレンジ使えないよ」
「割れば使えるの」
 ドヤ顔で言い放ったウルリッカは黄身の破裂を防止するために黄身に小さく穴を開けて電子レンジに投入した。卵と電子レンジはイコール爆発と知識にあるシキは心配そうな表情で電子レンジを見守る。
 はたして、電子レンジは無事だった。
 プルプルの半熟卵になった卵を丼に持った食材の上に乗っければ今日の夜食が完成する。
「料理っぽい」
「料理だよ」
 そう言って電子レンジだけで出来る丼をテーブルへと運ぶと二人揃ってもぐもぐと食し出す。ペチュチムチェとポークミンス、半熟卵と炒麦エル・バツのハーモニーは最高で罪な味だ。
 何となくつけたテレビでは古典的アニメの『ジャスパーとジンクス』がやっていて口をもぐもぐと動かしながら2人はボンヤリとテレビを見つめる。
「……そういえば、このアニメの猫と鼠がギル王子とギャリーに似てるってお兄ちゃんが言ってた」
「ふーん」
「2人共、これよりずっと格好良いのにね」
 アルヴィは『ジャスパーとジンクス』の見た目がギルバートとギャリーに似ていると言った訳ではなく仕事をサボろうとするギャリーとそれを追うギルバートのドタバタ感が似ていると言った訳なのだが、ウルリッカは勘違いしていた。
 そうして、容姿を思い出すように2人の事を思い浮かべる。
 ギルバートはウルリッカが貴族で想像していた通りの服装といい、金のサラサラの髪といい、緑の瞳といい、物語に出てくる王子様が現実に出てきたような人物だ。ちょっと怒りん坊なところもあるけれど、集落コタンでマタギの厳しい親父達に囲まれて育ってきたウルリッカからすれば、男の人はそういうものであって気になるところではない。良く怒られているギャリーもウルリッカにおやつをくれながら「ギルバートは理不尽には怒らないから」と笑っていた。
 そんなギャリーもウルリッカにとっては「おやつをくれる人」だが、外国の服装が物珍しくて目を引くのに、それに劣らない顔の良さがあると思う。ウルリッカは個人的にギャリーが煙管を吸っている姿が最高に格好良いと思っていた。ただ、格好良いけど自分に臭いがついたら狩猟的な意味で困るので、いつも遠目から眺めているのだけれど。
「ウルは髪の長い人が好き?」
 シキに問い掛けられて、ウルリッカは考えてみる。
 確かにギルバートもギャリーも髪が長めではあるが、特に長いから好きという訳ではないような気がした。それに「好きな人は?」と問われて答えるなら別の人だ。
 だから、ダークブラウンの髪の彼を思い浮かべながら首を横に振った。
「好きなのはエミールだから短い方が好き」
 質問をしてきたのはシキなのに、ウルリッカの答えにシキは驚いたような顔をしていた。
 何でそんな顔してるんだろう、と思いつつのんびり二口程ご飯を口に運んでからウルリッカは更に口を開く。
「でもエミールはね『宗教上の理由』により私は好きになっちゃダメなんだって、お兄ちゃんが言ってたから諦めた」
 カンテ国は移民が多く考え方が多岐に渡る為か宗教というものに縁の薄い者が多いお国柄だ。そんな中でカヌル山の山神を信仰するウルリッカと寺の典座見習いであるエミール・シュニーブリーが出会ってしまったのは、神か仏の悪戯としか言いようがないだろう。
 ともあれエミールへの好意か山神様への信仰心、どちらを捨てるかと問われれば呆気なくウルリッカはエミールへの好意を捨てることにした。
 しかし、今のところエミールに代わるつがい候補――恋人にしたい男の事をウルリッカはこう呼んでいる――が見つからないので好きな人の座にはエミールに鎮座してもらっている。
 だから、ウルリッカの好きな人はエミールのままだ。
「……そうなんだ」
「うん」
 聞いてきておいてシキの反応は何だか鈍いような気がした。
 変なの。
 ウルリッカはそう思いながらテレビから流れ続けている『ジャスパーとジンクス』をBGMに夜食を口に運んだ。

陸の罪 他者混乱罪

 ウルリッカ・マルムフェの朝は早い。
 目覚まし時計の有無に関わらず、決まって5時に目を覚ますことのできるウルリッカは今日も5時に目を覚ます。
 シキの部屋にはウルリッカがベッドに使うには十分な大きさのビーズクッションがあって、しかもそれが身体に見事にフィットしてくるものだから離れがたくなるが、勇気を持ってウルリッカは起き上がった。なお、このクッションを購入したのはやはりというべきかロード・マーシュであるけれど、彼はクッション兼ソファとして購入してシキの部屋に置いているのであってウルリッカがベッドとして使用しているとは夢にも思うまい。
 本来ならシキの部屋に泊まる予定ではなかったが、お腹いっぱいで部屋に帰るのが面倒になって泊めて貰ってしまった。今日は出勤なので早く自分の部屋に帰って出勤の準備をしなければ。
 そう考えたウルリッカはクッションから降りるとベッドでスヤスヤと眠るシキに目を向ける。彼は丁度ウルリッカのいる方向を向いて眠っていた。起きている時は身長差が40センチメートル程度あるのでシキの顔を近くで見ることがないが、寝ている今は近くで見ることが出来る。この貴重な時を逃すまいとウルリッカはシキに近付いた。
「かわいい」
 眠るシキは何だかいつもより幼く見えたものだからウルリッカは帰ることを忘れ、目を細めてシキの顔を満喫していた。ウルリッカがじっと見つめていてもシキは起きる気配が無い。
 
――私の好きな人はエミール・シュニーブリー。

 その筈なのにシキを見ていると今まで他人に抱いたことのない不思議な感情が出てくる。
 こんな感情、ウルリッカは知らなかった。この気持ちはなんだろう?
 おもむろに起こさないように細心の注意を払いながらウルリッカは手を眠るシキの目蓋へと伸ばす。睡眠の深さは眼球運動が確認出来るかどうかで分かるのだ。
 触ってみるとシキの眼球運動は確認出来ない。それが示すのはシキが非急速眼球運動ノンレム睡眠の真っ最中という訳であり、ちょっとやそっとのことでは起きない深い睡眠をしているということだ。
「……よし」
 ウルリッカは目蓋を触っていた手を動かしてシキの頬っぺたをぷにぷにとつついてみる。柔らかい、気持ちいい、かわいい――愛おしい。
「ふふっ。こんなに触っても起きないなんて」
 冬眠する熊だってきっとこんなに深くは寝ないだろう、と思いながらウルリッカは今度は額にかかった前髪を避けてシキの額を露にした。

『ウルちゃん、キスの場所によって意味があるのよ』

 そう言って悪戯っぽく笑うシリルの声が脳内で再生される。それは確か前線駆除リンツ・ルノース班の待機室で教えられた話だったはずだ。
 確か額のキスは「厚意や友情」と言っていた気がする。だから、家族や友達にウチャロヌンヌンキスするなら額にするべきなのだと。
 余談だが、シリルは自分の主人マキールでありウルリッカの兄であるアルヴィに対して親愛のキスをさせるために言ったことであったが、其れは未だに叶えられていないのであった。そして、それが叶うことはこれから先も無いだろう。
 はてさて、そんな機械人形マス・サーキュの画策によって余計な知識を得ていたウルリッカはシキが眠っているうちにそれを行おうとしていた。友情のキスなら別にしたって問題は無いだろう。

『おいおい、俺を忘れちまったのか?』

 その時、天啓のように海外の映画の吹き替えの様にやたら溜めた感じの喋り方をする渋い良い声がウルリッカの脳内で響き渡った。
 声の主をウルリッカは知っていた。
 今日も彼は胸ポケットに以前ユウヤミに作って貰ったヨダカ人形と共に入っている・・・・・。その胸ポケットに上から触れてウルリッカは微笑んだ。
「……忘れてないよ、パーミー」

 * * *

 エミール・シュニーブリーの朝は早い。
 しかし彼の美しい空色の瞳には眠気なんて微塵も感じられず、万物を愛するが如く優しさが湛えられている。そして、そんな彼は今日も寮の周囲を大きめの箒で掃いて回っていた。
「ふぅ……」
 一頻り掃いて満ち足りた気持ちを得たエミールは晴れ晴れとした顔で自室に戻らんと玄関へと向かう。この後は部屋に帰って読経をするまでが朝のルーティンだ。
 エミールが朝の清掃作業に勤しんで部屋に戻るまで基本的に他者と顔を合わせることはない。たまに仕事が徹夜になってしまったメンバーや如何わしい理由で朝帰りをするメンバーを見ることもあるが、基本的には独りだ。
 そんな中で顔を合わせる回数が比較的多いのは体力作りの為に走っている前線駆除リンツ・ルノース班第六小隊の小さな女性なのだが、彼女は今日は現れるだろうか。
「おはよう、エミール」
 まさにその前線駆除リンツ・ルノース班第六小隊の小さな女性であるウルリッカに朝の挨拶をされたエミールは唖然として箒を落とした。
 何故ならば彼女が走ってくるのではなく、エミールも住む男性のみ・・が住む寮から出て来たからである。
「お、お兄さんのところですか……?」
 ウルリッカには兄がいたことを思い出したエミールは箒を拾いながら、表面はにこやかに問い掛ける。内心は性格に子供のようなところの多いウルリッカが朝帰りかと驚愕に打ち震えているのだが、そこは微塵も表に出さない。
 そして、そんなエミールの内面の嵐にウルリッカが気付くはずもないのでウルリッカは平然とした顔で「お兄ちゃんのところじゃない」と首を横に振って爆弾発言を放り投げる。
「シキのところでイケナイ夜を過ごしてきたの」
 エミールの拾った箒が再び地に落ちた。
 あまりにもエミールが箒を落としたまま動かなくなってしまったので、ウルリッカは箒へ近付くと拾い上げてエミールに渡そうと差し出すが、彼は彫像のように固まったまま動こうとしない。
「エミール……?」
 ウルリッカがエミールの綺麗な顔を眺めつつツンツンと指で肩をつついてみると、我に返ったらしきエミールは慌ててウルリッカから箒を受け取った。
 いや、まさか。そんなまさか。
 箒を受け取りつつもエミールの朝の清掃で凪いだはずの心には暴風雨が吹き荒れていた。
 ともすれば年下の子供のようにも見えるウルリッカが男性と一夜を過ごしたなんて、そんな筈はない。
「ウルちゃん」
「何?」
「どんなイケナイ夜を過ごされたのですか?」
 仏門に入って清らかな筈のエミールは久し振りに触れた性的な匂いのする話の衝撃のあまりに少々壊れており、あまりにもくだらない質問をウルリッカにぶつけていた。
 少し考えてから頬を赤らめたウルリッカがポツリと一言。
「美味しかった」
 それは言うまでもなく“ 夜食 ”が美味しかったということなのだが、ウルリッカとシキが夜食にチムたま丼を食べたことを知らず、オトナな方面へのスイッチが入ってしまっているエミールは当然違う方向に解釈する。あたかも中学生男子が牛乳を「白くてネバっとする液体」とわざわざ呼んで性的な意味を含ませてゲラゲラと笑う時のように。
「……それは他人には言わない方が良いですね」
「エミールが聞いてきたのに?」
「愚問でした。忘れてください」
「うん」
 ウルリッカは素直に頷いた。
 そんな素直な顔をしている彼女が夜には……止めよう。
 一瞬、想像の翼をはためかそうとしたエミールだったが仏門の身である彼は自重した。それにウルリッカの顔を見てそういう・・・・想像は難しい。
「それじゃ、私帰るから」
 エミールの心を乱すだけ乱しておいて、ヒラヒラと手を振ってあっさりとウルリッカが立ち去っていく。
 そして、その後ろ姿を見えなくなるまでしっかりと見送ったエミールは箒を返しに力無くフラフラと歩き出した。世の中色々なことがあるものである。
 尚、この日のエミールの朝の読経が乱れに乱れたことは言うまでもない。

 * * *

 ロード・マーシュの朝も早い。
 何故か炊かされた炊麦エル・バツの行方が気になり、シキの部屋を訪れていたからだ。
 形式美としてインターホンを鳴らすもののシキはきっと寝ている事だろう。兄貴分としてシキの部屋の合鍵を持っていた( シキが鍵を失くしそうなタイプの為持っているのだ )ロードは合鍵を鍵穴に差し込む。そして回そうとして気付く。
「全く、不用心な……」
 ロードが開けるまでもなく部屋の鍵は開いていた。これはお説教案件だと思いながら鍵を回収したロードは部屋の扉を開く。
 ワンルームの寮は開けば直ぐに部屋だ。部屋の中には起きているシキの姿が見えて「おや」とロードは片眉を上げる。
「お前としては珍しく早いで……」
 シキの早起きを褒めようとしていたロードは、部屋の中で立ち竦むシキが手にしているそれ・・が目に入って言葉を失った。
 唖然としているロードに気付いているのか気付いていないのかシキはいつも通りの調子だ。
「あ。おはよ、兄貴」
 本当にシキはいつも通りだった。
 手に女性物と思しき白いパンツを握りしめている以外は。
 シキは何故、パンツを握りしめているのか。そもそも、そのパンツは誰のものなのか。誰のものだとしても何故、パンツがそこにあるのか。
 ロードはシキのベッドに目を走らせるが布団はシキが起きる時に捲り上げたそのままになっていて女がそこに寝ている様子はないし、浴室からシャワーの音もして来ないし人の気配はない。急に裸の女が登場する展開はなさそうで内心で安堵しつつも、ロードの疑問は何一つ解けていない。
 大体、ここにパンツがあって女がいないなら、女はどうやって部屋から立ち去ったというのだ。ノーパンか? そんな痴女と付き合うような男にお前を育てた覚えはありませんよ、とシキが聞いたら「兄貴って母親だっけ?」と言われるような事を脳内で思いつつ、ロードは落ち着こうと努力したが――無理だった。
「そのパンツ、お前のですか?」
 だから落ち着けなかったロードの普段は優秀な頭脳はとんでもない質問を生み出して口に出させていた。
 ロードの質問に対し、シキは独特の色を持った目をゆっくりと瞬かせる。
「俺のじゃないし、パンツでも無いよ」
 ほら、とばかりに握りしめていたものを指でぶら下げるように持ってシキはロードに見せつける。
 それは白くて薄くてヒラヒラしていてパンツの素材に良く似ていたけれど輪っかになっていてパンツでは無かった。しかも、それを2つ纏めてシキが持っていたせいで余計にパンツに見えていただけだったようで、よくよく見れば何の変哲もない髪飾りのシュシュだったのだ。
 しかし、シュシュなんて髪飾りをシキが使うはずはない。シキの周りの女性といえばクロエが思い浮かぶが、彼女もまたシュシュなんて使うような女子ではない。
 結論からいえば、そのシュシュはウルリッカが使っていたものである。普段しないシュシュをツインテールに付けていたことなんて忘れたウルリッカの落し物であり、シキも起床して目に入った時は彼女のパンツかと思って散々焦った後なのであった。
「そのシュシュはテディさんのものですか?」
 シキの交友関係からシュシュを使いそうでかつ部屋に上がり込みそうな人物を推理した結果、ロードの口から出てきたのはセオドア・トンプソンの愛称だった。
 しかし、シキはそれを否定するように首を横に振った。前髪が揺れて、それを何となく見ていたロードは今度はそれ・・に気付く。
「シキ。額の文字は何ですか……?」
「額?」
「ちょっと髪を手で上げて見せて下さい」
 ロードに言われるがままにシキは前髪を手で搔き上げて額を露にする。
 そこに書かれた文字は二文字。それが兎頭国の漢字という文字であることを博識なロードは知っていた。
「額に『肉』と書く悪戯が兎頭国にはあるとファンさんから聞いていましたが、まさかこれは……」
 笑いを堪えるように口元を手で抑えてロードは横を向いた。そして笑いを抑えつつ「額に『肉』と書く悪戯」をかつて自分に実践しようとしていた人物がいた事を思い出した。彼女ならシュシュを使ってもおかしくない髪の長さであるし、夜に炊麦エル・バツを食べても違和感がない。
「……お前、ウルリッカさんと炊麦エル・バツを食べましたね?」
「良く分かったね」
「異性を夜半に部屋に上げるのは如何なものと思いますが」
「えっ、兄貴がそれを言うの?」
 純度100パーセントのシキの目に見つめられてロードは再び目を逸らした。今度は図星を指された気まずさからである。
 なお、夜半に異性を部屋に上げたどころではなくお腹いっぱいで帰るのが面倒になったウルリッカを一晩泊めているのだが、シキはそれは黙っていることにした。
「それより、兄貴。俺のデコに何て書いてあるの?」
 以前、うたた寝をしていたらウルリッカに犬のヒゲを書かれたシキである。書かれたことには驚きを見せず、内容だけをロードに問いかけることにした。兎頭国の字だろうが何だろうがロードは読めると信じているからであり、ロードは期待通りその字を読むことができた。
「『肉欲』です」
「にくよく?」
「おそらく書いた本人は『肉が好き』の意味で書いたのでしょうね」
 そしてその字を教えたであろうギャリーもそう言ってウルリッカに教えたのだろうとまでロードは予想する。そうでもなければ、こんな性欲の薄そうなシキに「肉欲」とは書かない。
「肉が好きか……そっか」
 ロードの言葉に満足そうな表情を浮かべるシキを見て、やはり本当のことを言った方が良いのかとロードは内心で悩む。しかし「肉欲」の意味をシキに分かるように噛み砕いて説明するのも難しい。
「俺、顔洗ってくるから兄貴ご飯作ってよ」
「ええ。この時間に来たから言われる覚悟はしてましたよ」
「やった」
 そう言って洗面所へと消えていくシキを見ながらロードは冷蔵庫を開けて食材の在庫を確認して朝食は何にしようかと悩み始めた。



――シキの額の「肉欲」は「油性ペンパーミー」で書かれたもので水では全く落ちず。
 「肉欲」を額に抱いたままシキは仕事に行く事となり、それをたまたま見たギャリーに大爆笑されたとか、されてないとか。