薄明のカンテ - 混沌青春狂騒曲/燐花
 せっかくの夏休みだと言うのに何故自分はこんなところにいるのだろうかと自問自答する日中。
 日も暮れて今は夜。腹も膨れ、風呂を浴びてスッキリし、いよいよこれからが夜だと浮き足立つ同室のクラスメイトを尻目にテオフィルスは清潔感はあるが質素な所為で独房にすら見える壁に遠い目を向けた。
 電子機器が使えるのだけが唯一の救いだ。そう思って画面に目を向ければ数ある友達の一人からなかなか際どい画像と共に「今バイト終わったよ」と言う一言が送られていた。
 こんなところに送られなければ今頃待ち合わせをしてカラオケなりどちらかの家なり繰り出すのに。顔を顰めながらとりあえず「俺は風呂上がり。後一時間もしない内に消灯だよ」と返せば、「消灯ってテオどこにいるの?もしかして病院?」と心配そうな返事が来る。
 何となくありのままに「勉強合宿来てんだよ」と打てば、光の速さで返事が返って来るが、そんな早さで返された一言、「ウケる」には嘲笑が含まれている気がしてテオフィルスは以降返事をするのを辞めた。
「おいテオー!お前ノリ悪いぞ?」
「あァ…?」
「今から女子の部屋行こうって話になってんのにノリ悪いんだよー!加われー!!」
「アホか。俺がそんなとこ加わるかよアホらしい」
「うわー!お前他校の女の子と良い雰囲気だからって余裕かましちゃってー!!」
 友人に他校の女子の話を大声で振られ、同室の他の男子も聞かせろと言わんばかりにテオフィルスに迫る。他校の女子。内一人は先程勉強合宿を「ウケる」と評したので正に今後の付き合いを考えていたところだ。
 のらりくらりと悪態吐きながら交わしていると、変な衝撃がテオフィルスの結われた髪の毛に走り同時にぶちりと音がする。ヘアゴムの切れた音だと気付いた時には、三つ編みに結われた髪の毛はふわりと広がってしまった。
「あー……悪ィ、俺ヘアゴムこれしか持って来て無ぇんだけど誰か予備……」
「持ってるわけねぇだろ…!!彼女も居ないのに…!!」
「……だよなー」
 友人が血涙でも流さん勢いでそう答えたのを見てテオフィルスは少し考えると立ち上がる。
「俺ちょっとコンビニでヘアゴム買ってくる」
 女子の部屋に行くだの何だの、そんなやり取りから抜け出す良い口実だったので部屋を出た。後ろから文句が聞こえたが気にしない。ついでにタバコでも吸おうかとフラフラしながら時間を見ると時刻は午後九時だった。
 何が消灯だ今時小学生でもこんな時間に寝ねぇよ、と考えながら眉間に皺を寄せる。テオフィルスは三日前に突然母であるナンネルから聞かされたとんでもない一言を思い出していた。
『テオ、あんた土曜日から勉強合宿だから行ってね!』
 また今度は何を言い出すかと思えば。
 ナンネルは興奮した面持ちでそう言ったが、端末片手に他校の女の子と連絡を取っている最中のテオフィルスは特に興味もなく空返事をするのみだった。
『は?土曜?』
『そう!土曜日から一週間!』
『長っ!!せっかくの高校最後の夏休みなのに一週間も潰してたまるかよ!!一、二年の時だってどうにか避けて来てたのに今更俺は行かねぇからな!!』
『そ、そんな…!!もうお金払っちゃったんだもん!!』
 母一人子一人。家計が苦しいのを見て知っている身としては金の話をされると足踏みしてしまう。ナンネルは更に続けた。
『それに、あんたサボり過ぎてて合宿で埋め合わせしないと出席日数足りないって!このままだと私…!って、担任のエレオノーラ先生泣きそうな顔でいらしたのよ!?』
 そう言われたテオフィルスは急に冷めた面持ちになる。何故ならあの熱血体育教師、元レディースの総長と噂された、並の男なら逆に泣かせてしまえそうなエレオノーラが泣くだって?
 少なくとも「女の子大好き」のテオフィルスのストライクゾーンに充分入り込むエレオノーラを悪く言う趣味は彼には無いが、それでも彼女の普段のキャラを考えれば怒る事はあれどさめざめと泣く事はイメージし辛い。
 つまり、泣き落としに弱そうな単純な性格をしているナンネルをまずは手中に収め、外堀を埋める形で自分を勉強合宿に向かわせようと言う魂胆だ。
『それに、これをテオに渡してって言われたの…中を見ないでって、テオにだけ渡してって…』
『………』
 受け取ったメモ、そこには「さめざめと泣く女」が書いたとはおよそ思えない荒々しい字で「お前の地頭なら良い大学目指せるんだからとにかくちゃんと卒業資格を満たせよ!尚、きちんと合宿に参加し、今後試験もきちんと受けるならばお前の他校女子との爛れた不純異性交遊に関しては不問とする!」と書かれていた。力技にも程がある。
『……流石エレオノーラちゃんだぜ』
『こら!先生をちゃん付けで呼びなさんな!』
『はいはい。俺行くよ、しょうがねぇから』
 そう言って合宿に参加したは良いものの。そんなに遠くも無い隣街の宿舎を借りてやる勉強会、周りを見れば普段遊ぶ見知った街の光景、なのに生活リズムだけが変わってしまう。やはり勉強漬け、教師の望む学生らしい生活を送ると言うのはあまりにも今までと違い過ぎてしまい、早くも一日目で参り掛けている。
 先程の他校生とはどうしようかと思いつつネットを漁っていると同じ年代の可愛らしい女の子と言うのは容易に見付かる。テオフィルスも器量良しな方なので、遊ぼうと思えば誰とでも遊べるのだが、何だか今はそれが虚しい。制服では無く部屋着だから見た目にも成人と遜色無いし、好き勝手に遊んでも良いだろうとも思うのだがいかんせんやる気が無かった。
「えーっと…ゴム、ゴム……」
 コンビニに着いて早速うろうろするが、何だか帰りたくなくてまともに探す気が無い気がする。棚を見つめるフリをしながら如何に時間を潰すかを考えていたら、後ろから「あれ?」と女性の声が聞こえた。
「テオ…?」
「…え?ヴォイド…!?お前、何でこんなとこに…?」
「だって、私勉強合宿来てたし。全学年皆同じ宿舎なんだしそうでなくても隣町なんだから」
 そこに居たのは、一つ年下の幼馴染であるヴォイドだった。普段見ない様なラフな格好にテオフィルスは思わずちらちら横目で見てしまう。いつも膝下の長い制服スカートで覆われている足は部屋着であろうやけに短い丈の短パンのせいで太ももまで露出しているし、心なしか胸元もいつもよりゆるめの下着を着けていそうな感じがする。
 女性のこんな姿、見慣れている筈なのにヴォイド相手に変にドキドキしてしまい直視出来ずに居ると、手ぶらなのにうろうろしていたテオフィルスを怪しむ様な目線を彼女は向けた。
「…もしかしてテオ、勉強合宿?」
「あ、あぁ」
「意外」
「仕方なかったんだよ…卒業を人質に取られたからな」
「やっぱ出席日数足りなかったんだ」
「足りなそうだから来いって言われたんだよ。まだ足りてる」
「ふーん…で?今は何しにコンビニに?」
「あぁ…ゴム探しにな」
 そう言われてヴォイドはまじまじテオフィルスを見た。今の彼は長い髪をそのまま伸ばしており、いつものすっきりとした三つ編みは無い。
「あれ?本当だ。髪どうしたの?」
「ゴムが急に切れたんだよ。しかも在庫無かったから…流石にこの髪じゃロッシ先生も見逃しちゃくれねぇだろ」
「そうだね。むしろ三つ編みを許してくれてるだけ凄かったよね」
「そうなんだよ。でもさっきから探してんだけど、なかなか見付からなくてさ」
 テオフィルスがそう言うと、ヴォイドも一緒になって棚をきょろきょろと見始める。テオフィルスはそんなヴォイドを後ろからじっと見つめた。
 ルームウェアであろう緩めの短パンは丈が短く、屈んだだけでヴォイドの腰周りがちらりと見える。普段はスカートに隠れて見えない体のラインが強調されてしまい、テオフィルスは視線が釘付けになった。
 あいつら友人達が女子の部屋に行ったとしてヴォイドが居なくて良かったとほっと一安心したり、ナンネル母親も似た様な格好をよくしているのに何故彼女にだけはこんなにドキドキするのだろう?と疑問に思ったり、子供の頃よく見てた筈なのにまるで別の人間の様だと思ったり。
「あれ…?本当だ…見当たらないね。おかしいな…こう言うところなら一通りあってもおかしくないのに…」
 棚をじっと見つめながらそう呟くヴォイド。しかし最早テオフィルスはヘアゴムの事などどうでも良かった。ヴォイドの後ろ姿を見ながら思春期らしい卑猥な妄想が頭を巡っては思考をピンク色に染めて行く。なまじ経験があるから尚更だ。
 いつもだったら。甘い言葉を囁いてムードを作ってどこでも良いから二人になれるところに連れ込んで……そう思うのにヴォイドを目の前にすると、それら全てが急に出来なくなる様な気さえした。
 彼女には今までのノウハウが何一つ通用しない様な、難関大学の応用問題を解く時の様な難しさがある。結局は自分も勉強は嫌いでは無いのでそんな例えをしてしまうのだ。
「変だな…コンビニなんだしゴムくらい売ってそうなんだけど」
 ヴォイドがどこの大学を目指しているかは分からないが、二年の今から合宿に来るくらいだから甘い考えでいるわけでは無いのだろう。だとしたら、このまま一足先に卒業して自分はどこでヴォイドを待っていれば良いのだろうか。
 今のままだと三流大学、下手したら大学に行く事すら出来ずにフリーターだろうか。例えそうだとして自分の置かれた場で懸命に生きると言うのは素晴らしい事だとテオフィルスは思う。
 現に若くして自分を産んだナンネルは学業を優先出来る人生を歩んでおらず、勉強に関しては小学校の低学年で「親に教えてもらう」と言うコミュニケーションを諦める程には出来ない。それでも今日の今日まで自分を不自由少なく育ててくれた。だからそう言う生き方でも誇らしく歩めるとは思う。
 だが、そこに「ヴォイドを待つ場所」と言う理由が付随すると話が違ってくる。今の何もかも投げ出して居る自分では母の様に強く、置かれた立場に縋り付く事すら出来なくなりそうで、それをすると隠れた努力家でもあるヴォイドに釣り合う男ではいられない気がしてしまうのだ。
 生きているだけで偉い。学がなくても良い。
 とは言うものの、それは自分の尺度であっても一生懸命努力しているならばと言う話で、今の様な努力している彼女の手本にすらなれない様な自分の事は自分が一番許せない。では自分は一体どこでやる気を出して死ぬ気で頑張るべきなのか。
 多分それはきっと「今」で、「学業」と言うフィールドだ。テオフィルスは唐突にそう自覚した。
「ねー、テオ。ゴム無いね。置いてないのかな?でも…無しってわけにもいかないよね」
 エレオノーラの真の目的が見えた気がして、彼女の手の平の上で転がされる気分になるが充分タイプと言える美人なのでまぁ転がされるのも良しとしておく。
「テオ?聞いてる?」
「おー……。聞いてる聞いてる」
「聞いてないでしょ」
「ちゃんと聞いてるって。ついでに今めっちゃやる気出てる」
「はぁ?何で?」
「何でも。何か今のテンションなら寝ずに頑張れそうなんだよ」
「はぁ?」
「俺、やる気になったら多分止まらねぇから。ヴォイドは?今日はもう寝るか?」
「…ちょっとは起きてるけど」
「今なら『ハゲ頭のパラドックス』で朝まで議論出来そうだ」
 明日から頑張るぞ、と決意を新たにすると、そんなテオフィルスの一人だけ妙に納得している様な返しに何故かムッとしたヴォイドがレジに居る店員に声を掛けた。
「……何か一人で妙に納得されてるのが気になるけど初めからこうすれば良かったんだ…。あの、ゴムってどこ置いてますか?」
 ヴォイドに声を掛けられた店員は一言「え?」と漏らすと少しばかり目を泳がせながら棚を指差す。そこにありますけど、と言われた指先に目を遣るとそこに鎮座していたのは避妊具であり、何故店員がそんな勘違いをしたのかと先程のテオフィルスとの会話の一連の流れと、自分の探し方がそう取られた可能性もあるのだと言う事に気付きヴォイドは顔を真っ赤にした。
 そしてテオフィルスもそれに気付き、恥じらいから沸騰しそうな彼女の手を引っ張ると即座に店を飛び出した。二人で手を繋いで夜の街をひた走る。何だかそれが青春の一ページの様で、これだけでも合宿に来た意味があったなぁとテオフィルスは一人こっそりそう思う。
「最悪……」
「気付かなくて悪かったって……」
 近くの公園のベンチに座ると自販機でジュースを一本買ってヴォイドに渡した。ヴォイドは尚も顔を赤くしたままで、耳まで真っ赤に染め上げながら下を向いていた。
「まぁ…そう言う勘違いもあるよな、うん」
「無い…!」
「…あ、あるだろ」
「あの店員…絶対私とテオが何か…何かすると思ってずっと見てたんだ…!」
「そうなるわな……」
 ルームウェアの巨乳少女、やたら親しげなチャラ付いたロン毛の男。何も起きないはずがなく……と、考える方が自然の様な。
「男ってそんなんばっかりだ…男女で居ればヤってると思ってる…」
「………」
 自分自身否定出来ないのが辛いところだが、とりあえず傷心と言うのか、照れてしまっているヴォイドを慰めるのが先だ。
 そう思ったが、テオフィルスは今この空気に乗ってみる事にした。ヴォイドは自分と関係があると勘違いされる事を嫌がっているが、そんなに嫌な事なのだろうか。そう思ったらそれはそれで悲しかったから、彼女がどう思っているのか確かめたくなった。
「…ヴォイドはそう言う目で見られるの嫌か?」
「え…!?あ、当たり前でしょ…」
「…いや、それはそうだよな、悪い。聞き方が悪かった。エロい目で見られたら誰だって嫌だよな。そうじゃなくて、俺とそう言う仲だって勘違いされるのが嫌なのか?」
「そ、それは……」
「俺は嫌じゃないけど?」
「テオは女だったら誰でも良いんじゃないの……」
「そうかもしれない。けど、『あの二人そう言う仲かな?』って目で見られて嬉しいって思っちまったの、今が初めてなんだよ」
 そう言いながら少しだけヴォイドに近付く。ヴォイドは体をぐっと強張らせたが距離は空けなかった。触れられる程まで近付いたテオフィルスがヴォイドの頭を優しく撫で、頬を両手で包み込む。ゆっくり自分の方に向ければ、照れているからか涙目になっている彼女の瞳と視線がぶつかりテオフィルスの中で何とも言えない高揚感が溢れた。
「はは、ただヘアゴム買いに行っただけなんだけどなー。でも、さっきされた勘違いが本当の事だったらどうする?」
「ど、どうって…」
「……俺とそう言うの、想像出来るか?」
「でも…テオは幼馴染だし……」
 幼馴染。その言葉を聞きテオフィルスは遠くを見つめた。そうか、幼馴染ってそう言う目で見れないものか。
 しかし、その後に続いたヴォイドの言葉はテオフィルスの想像とは違っていた。
「私年下だし……幼馴染で年下なんて…一番女に見られてない立場なんじゃ無いかってクラスの子が言ってた…初恋は実らないってそう言うところから来てそうだよねって…」
「へ?」
「だから、無理しなくて良いよ」
 何でかヴォイドの中では無理して便宜上期待させる様な言葉を羅列させている様に思えたらしい。彼女は常にニュートラルだが、一部分野において相当にネガティブな部分がある。特に異性との関わりについてが顕著であり、どれだけ捻くれているんだと少し呆れ気味になりながらテオフィルスはヴォイドの頭に手を置いた。
「あんま卑下すんなよ。周りが何て言おうが何だろうが、俺が・・嬉しいって思ったんだからさ」
「幼馴染でも……?」
「幼馴染の年上男の皆が皆年下の幼馴染の女の子を『ただの妹』って見做すと思うかぁ?それこそ論理的じゃねぇだろ」
「……それもそっか」
「……ヴォイド、お前意外と医者からの診断を『でもネットではこう書いてあった』って否定しまくる奴らと似てんな…」
「なっ…そ、そんなに分からず屋じゃない」
「似た様なもんだろ。いくらクラスの子がそう言ってたからって、俺本人が『違う』って言ってんのにそれ否定して逆の事信じる必要がどこにあんだよ」
 彼女がクラスの女子から聞いたと言う幼馴染に関するネガティブな考えを色々否定して、これはまるで好きだと言っている様だと思った。しかしヴォイドは気付いているのか居ないのか、尚も論理的に納得の行く落とし所を探している様でそれに気付いていない。もう一押しすれば、少なくとも自分がただ妹の様に見ているわけでは無いと言う事にヴォイドは気付くだろうか。そしてそれが自分自身の事だと彼女は自覚するだろうか。
 テオフィルスはもう一歩近付こうかと身を乗り出す。身も心も、まるで恋人の様な距離感に一歩一歩近付く。
「うふふ、おやおやおや。メドラーさんにヴォイド、こんな所に居たんですねぇ」
 だがその瞬間、若い男が二人に声を掛けて来た。このタイミングの悪さで声を掛ける男にテオフィルスは覚えがあった。
「いけませんねぇ。そろそろ消灯時間ですよ。あまりうろうろしていては、ねぇ?」
「あれ…ロード?」
 きょとんと名前を呼ぶヴォイドに一際優しい笑みを浮かべるその男。男は上下スウェットと言うラフな格好ではあったがテオフィルスは一目で気が付いた。
 不純異性交遊の権化みたいな遊び方をしている癖に、風紀委員会なんて真逆の委員に所属し剰え委員長を任されていた酔狂な男、ロードだ。根は真面目だが爛れた生活をしていた彼が本当の意味で優等生を目指した理由はヴォイドなのだと言う。風紀委員なんて一見冗談の様な委員会に入ったのも、彼女と釣り合う道を模索して行ったら自然とそうなったと言う。何故風紀委員になったのか、そこに繋がる理屈がテオフィルスにはよく分からないが。
「ロード…お前も合宿来てたのか?」
「ええ。あれ?メドラーさん気付いてなかったんですか?私昼食も三列後ろの席に居ましたし、先程大浴場でも五つ隣の洗い場使ってましたよ?」
 自分が気付いていなかったのに、昼から遠巻きに自分をロックオンしていたロードにテオフィルスは若干恐怖した。おそらく自分の動向を伺い、部屋を抜け出した事も気付いており、そうして追って来たのだろうこの男は。
「まぁ良いや俺……もう何でもさ」
「うふふふ、すみませんねぇ。良い雰囲気でした?空気壊してしまって申し訳ないですが消灯時間が迫ってますのでね」
 いけしゃあしゃあとよく言ったものである。
 恨めしそうにテオフィルスが睨むと、ロードはその視線を気にせずヴォイドを口説きに掛かる。やれ服が可愛いだのすっぴんも可愛いだの、好きだの何だのどストレートに。お互い普段と違う格好の所為か雰囲気が変わって少し満更でもない反応を示すヴォイド。そんな彼女の肩を抱こうと腕を伸ばすロードを見ていたテオフィルスは、カッと目を見開くとその手をがしっと掴んで静止した。
 先程の抜け駆けを阻止された腹癒せにとでも言うのか、『今度は俺が邪魔する番』だとでも言わんばかりに。
「おいおいロード、袖に埃が付いてるぜ?」
「……どうも」
「ねぇ二人とも、良いけど早く帰ろうよ」
 この状況に飽きたのか、一歩前を歩くヴォイドの後ろでテオフィルスとロードは横並びに並んで互いを睨みながら歩き始めた。二人ともちらちらとヴォイドの後ろ姿を眺めて惚けながら、そしてハッと気が付くと互いに互いの顔を睨みながら。
「うふふふ…抜け駆けは許しませんよ…?」
「やっぱり。消灯時間なんて尤もらしい事言いやがって、最初からそれが目的だろ」
「さぁて、どうでしょう?」
「ふん。お前が俺の抜け駆けを許すも許さないも知った事かよ。最終的に選ぶのはヴォイドアイツだ」
 ふわふわと根無草の様に誰にも自分の意思を示さなかったテオフィルスの突然の宣戦布告。ロードは一瞬目を丸くしたもののすぐにいつもの細さに目を細め、嬉しそうにニヤケ顔を見せた。
「うふふ。障害は多ければ多い程燃えますね」
「……吠え面かくなよ」
「そちらこそ」
 後ろで曲がりなりにも先輩と言う立場の男二人が自分の事で火花を散らしているとも知らず。ヴォイドは呆けた目で遠くを見ていた。
 何か今日だけでどっと疲れたなぁ。明日もあるし今日は早く寝よう。そんな事を考えながら端末で撮影しておいた画像を見る。
「明日…あ。明日は朝からビュッフェ形式だ」
 ヴォイドが見ていたのは明日以降の献立予定表だ。高校生と言う多感な時期ではあるものの、もっぱら彼女の興味は食に注がれていた。

 さて、宿に帰ったは良いがテオフィルスは目的であった筈のヘアゴムを結局買わずに帰ってしまった事に着いてから気が付いた。
 慌てていると横で見ていたロードが「仕方ないですねぇ」等と言いながらすっと一つ取り出す。
「い、良いのか?」
「ええ。あげますよ」
「おぅ!悪ぃな!これないとアキ先生に目ぇ付けられ……」
 渡されたそれは、ピンク色のボーダーの入ったカラフルなものであり、あろう事かうさぎのマスコットの付いたヘアゴムであった。
「……おい」
「はい?」
「お前、この生首ヘアゴムで髪縛れってか……?」
「背に腹はかえられぬ、でしょう」
「そもそも、よく考えたら何でお前こんなゴム持ってんだ…」
「少し前に遊んだ女性の忘れ物です。もやもやしたので後から連絡したら『可愛くないしいらない』と言われてしまったのですが処分を忘れて持ってたみたいです」
「………何だよ、この絶妙に可愛くねぇヘアゴムは」
「Don⭐︎Dokoshoデザインのキャラクターです。名前は確か…『つながりまゆげうさのしん』」
ふざけてんのか
 勉強合宿二日目にしてテオフィルスの髪には絶妙に可愛くないうさぎのマスコット、『つながりまゆげうさのしん』が鎮座まします事になった。友人からは笑われ、鏡を見る度に頭に付くこの可愛くないうさぎの顔を見るのも嫌で若干憂鬱になっていたテオフィルスだが一つだけ良い事があった。それは、同じく合宿に参加していたヒギリが参加者唯一と言って良い程のデザイナーの熱心な信奉者だったのだが、彼女が大袈裟に騒ぐおかげで他の生徒から陰で色々と言われなかったからだ。ヒギリが騒いで注目を集めたおかげで遠巻きに見られてヒソヒソ言われる事もなくテオフィルスは無事合宿での一週間を終えた。
 何だか決意を新たに色々考えた様な気もしたのだが、思い出が上書きされてしまう程にこの『つながりまゆげうさのしん』の印象とイメージが強く、この一週間程の全ての思い出が『つながりまゆげうさのしん』のものとして書き換えられてしまった気がする。これがロードの言う「抜け駆けは許しません」に対する攻撃なのだとしたらあまりにも強過ぎる。こんな精神攻撃あってなるものか。
 それにしても可愛くない。本当に可愛くないぞ『つながりまゆげうさのしん』。サムライモチーフなのか名前も独特だし何故それにしたのか分からないが眉毛は繋がっているし。
「おい、ロード……」
「はい?」
「お前、随分と呪われたアイテムくれたじゃねぇか……」
「………」
「素直に言えよ……『何か捨てづらかった』って……」
「『何か捨てづらかった』んです」
「素直にそのまま言うんじゃねぇよ」
 帰りのバスで隣の席になったテオフィルスはロードに突き返そうとするが、ロードはこれを激しく拒否。やんわり拒否ではなく激しく拒否したので結局テオフィルスが持つ事になった。
 色々と感情の複雑に絡み合った合宿はこうして幕を閉じ、テオフィルスの手には妙に可愛くないうさぎのマスコット付きの生首ヘアゴムが残された。
 むしろこの妙に可愛くないうさぎの顔を見る度に合宿中に再確認した勉強に対する決意とやる気を思い出す様になってしまった為にいまいち捨てづらく、その後もしばらくテオフィルスの目に触れる場所に置かれる事になったのだった。
「ヤだ……あの子ったら趣味悪いヘアゴム待ってるわ……」
 テオフィルスの留守中に彼の部屋に掃除に入ったナンネルがそれを見付けてどん引いたのは言うまでもない。思春期らしくアダルト誌でも置いてあるのではないかとそれを見付けてしまう事を覚悟して入ったナンネルだったが、まさかこんなに可愛くないうさぎのヘアゴムを見付けてしまうとは思わずリアクションに困る母の姿に何かを察したテオフィルス。いつもなら「勝手に人の部屋入んなよ」と文句の一つも言うところだが、今回の彼は違った。
「いや……やっぱ絶妙に変な趣味って感じのデザインだよな、それ…」
「テオ……これあんたの趣味…?」
「違うって!!俺も無理矢理押し付けられたんだよ!!ただ…それ見てると勉強にやる気出した時の事思い出すから…捨てるに捨てられないと言うか…」
「勉強のやる気…?これ見て…?」
「……あんまそこ追求すんなよ頼むから……」


 テオフィルス君、この夏の思い出は何ですか?──

 ──妙なデザインのヘアゴムに翻弄された事です。