薄明のカンテ - 今や誰も語らぬ話/燐花

前編

 その日、男はその女に目を奪われた。しなやかな肢体に豊満な胸。それだけで男は女にそういう・・・・魅力が溢れていて、それを武器に生きている人間だと分かった。それ以上に気になったのが、彼女の瞳の色だ。岸壁街に長く居るとあまり縁のない空と海。その二つを混ぜた様な綺麗な瞳は、男が今まで見て来た誰にも見た事のない色をしていた。
「……何?今日は店仕舞いだけど」
「あ?店仕舞い?」
「そ。今日はもうお酒切らしちゃったし。出せるものないの」
 男──フランクはその女の強気な態度を前に一瞬言葉を失う。しかし、普段ならば女性にこんな態度を取られれば怒鳴り散らし当たり散らす様なそんな気性を持っていたフランクも何故かこの女に対してはそれが出来なかった。
「……そうか。じゃあ、明日以降また来よう」
「随分あっさり引くのね」
「俺はちゃんと客として来たいんだよ。アンタが『今日は客を取らない』と言うなら、俺はそれを聞くまでだ」
「……良いよ。貴方一人くらい。気が変わった」
「良いのか?今日はもう閉めたんだろう?」
「ちょっと貴方とお話してみたくなったの。と言っても、つまみも無いし私が作ったレモンの蜂蜜漬けくらいしか食べるもの無いけど」
 予想外に受け入れられたフランクの呆けた顔に女は「ふふっ」と声を上げて笑った。
「貴方が今日は良いって言うなら別に無理に今日にしなくて良いよ。でも本当に気が変わったから」
「本当か?」
「疑り深いのね。その代わりお酒無いよって言ってるでしょ?それだけ」
「あぁ……」
 おそらくフランクはこの女に恋をした。最後までフランクが認める事は無かったが、おそらくこれは恋だった。
「俺はフランク・デュヴァル。アンタ、名前は?」
「ミューよ。ミュー・アクアリィ」
「聞いた事ねぇ珍しい名だな。どこの出身だ?」
「ふふ、私の出身は岸壁街ここよ?私はこの場所以外知らないわ。名前も自分で付けたの。星が好きだったから」
 ミューは岸壁街で生まれ、岸壁街以外の世界を知らなかった。しかし、元々頭が良いのかものをよく覚え、本を読む事を好み自分にも名前を付けたのだと言う。他の女が群れる様に纏まって娼館や私娼として働いたりしている中、彼女は一人で酒屋を切り盛りしていたと言うのも珍しい話しだった。
 フランクは彼女の生業を「娼婦」と間違えたのだ。彼女があまりにも魅力に溢れていたから。しかし、実際には表向きはただの飲み屋だった。ミューが来た相手を気に入った、或いは相性の良さそうな男が居たら、或いは彼女が一人になりたく無い気分だったら、一夜を共に出来るとただそれだけの事だ。
 しかし今はそんな事はどうでも良くて、頭が良く物覚えの早いミューと会話をするだけでフランクは幸せだった。仕事で外の世界にも顔を出すフランクが「それは何だ?」と質問をぶつける程深いミューの知識、それは本から得た物だった。ミューが何か知らない事を教えてくれる度フランクも何か読んでみようと言う気になる。そして本で読むだけではどうしても吸収できない知識をたまたま外の世界から得た時、フランクはこの上ない幸せに包まれた。つまり、外の世界の食べ物や飲み物を土産として持ってきた時だ。
 そんな二人が頻繁に逢瀬を重ねる様になり、懇ろな関係になるのに時間は掛からなかった。
 しかし、深い仲になって深まるのは愛情だけでは無い。独占欲も同様だった。

 * * *

 その日、フランクがミューの下を訪れると、彼女に言い寄っている男が居た。男の名はアンドレ・コーエン。フランクも見知った顔だった。
 岸壁街でもプレイボーイとして名を馳せていたアンドレはフランクの上司の友人でもあり、債務者の一人でもあった。
 アンドレが債務者でありながら上司の友人の肩書を持っているのには理由がある。彼は金の借り方が上手かったからだ。彼は負債を必ず色を付けて返すのでも有名な男だった。アンドレが金を借りに来る時は、その手段がどうであれ外の世界から莫大な利益を岸壁街にもたらす時。
 彼は確かに大金を借りて行くが、リターンがほぼ約束された男だ。今までずっとそうだった。これは今までの信用で成り立った話だ。だから上司は彼を信頼して金を貸し、利子以上の利益をもたらす太客の一人として扱っている。
 アンドレも、ボスの友人の立場を利用して岸壁街ではかなりわがままの通る人間になっていた。
 その男が、あろう事かミューの傍にいる。
 ただ金を持っているだけ。その程度の価値しかないこの鼻持ちならないプレイボーイ気取りの成金が良い顔をしてミューに近付くのも勿論気に入らないが、穏健派だか何だか知らないが武力や恐怖以上に信頼と結び付きなんて不確かなもので小さな関係性を作って満足する様な上司の狡いやり方も気に入らなかった。
「兄貴、ダメですぜ」
 大柄な男が飛び出さんと構えるフランクの体を制する。フランクは大男を睨んだ。
「兄貴。あの女が兄貴が最近贔屓にしてる奴ですよね。でもダメです。相手はアンドレ・コーエンだ。ボスが信用を置いてる客でウチの資金源の一つでもある。アイツが金ヅルである限り俺らは迂闊に動けねぇ」
「………」
「アイツを失った時の損失を考えたら手を出すのは得策じゃねぇ。抑えてくれ、兄貴」
「……なるほど、つまりアイツらからその価値を無くせばそれはそこまでだよなぁ…?」
 その日はそれで場を離れたものの、それで止まる様な男では無かったフランクは後日、ミューから離れたアンドレに近付き彼に暴行を加えた。
「二度とミュー・アクアリィに近付くな」
 フランクは目の前の男にそう吐き捨てると、男の眉間に銃口を突き付ける。そんなフランクの手を横に居た大男が抑える様に掴んだ。
「兄貴、やめてくれ!!ボスの怒りを買ったら俺達殺されるぞ!!」
 男はそう言いながらフランクの手から無理矢理銃を取る。もう一人の大男が傍で待機していたのだが、彼は銃口から解放されて少し気の緩んだアンドレの肩を掴むと起き上がらせてやった。
「大丈夫かよ?アンドレさんよ」
「…ゲホッ…!お前ら……サントル・オルディネの連中だな…!?俺を知らないのか…!?お前、俺にこんな事をしてタダで済むと思うなよ!?俺はお前のボスの一番の顧客だ!!」
 フランクを指差し、強く批難するアンドレ。この状況はかなりフランクにとって不利なのだが、フランクは慌てるどころか煙草を吸って一服すると、アンドレの前で契約書を一枚チラつかせた。
「おい、これ何だか知ってるか?」
「……死亡保険…?それがどうした?」
「それなぁ、大陸に居るウチの大ボスがこの岸壁街でお山の大将気取りの男に掛けた物だ」
「……はぁ…?嘘だ…嘘だ、そんな事…」
「お前さんが頼りにしてる『サントル・オルディネのボス』だがな、コイツを邪魔だって言ってる人がもっと上の世界にいるんだ。コイツが囲われたちっぽけなこの世界で人知れず私服を肥やしてるらしいってのがどっかから・・・・・漏れたんだなぁ。俺らは裏切りを許さねぇ。近々コイツはボスの座から離れ、組織の為に海神の子になってもらわなきゃならねぇ。悲しい事だな。そして次にボスになるのはこの俺だ。そして俺は、お前なんか宛てにする様な稼ぎ方は今後しないつもりだ」
 再び恐怖に襲われた男が悲鳴を上げる。それを聞きながらフランクはミューの事を思い出していた。
 後日、サントル・オルディネの大幹部ステファノ・ヴァラキは水死体で発見された。そしてそれを聞き、あれだけ懇意にしていると言い張っていたアンドレはステファノの死を目の当たりにし呆気なくこの街から出て行った。

 そろそろあの老いぼれはボスの席を誰かに譲るべきだったんだ。確かにアンドレ・コーエンは太客だ。だが、あの老いぼれが無駄に甘いせいで物を借りといて停滞させる輩が多過ぎる。
 信頼?繋がり?甘ぇんだ。穏健派だか何だか知らねぇが舐められて何も動かねぇならボスを名乗る資格はねぇ。岸壁街の連中の命なんざ金より軽ぃんだよ。命張って借りた金返えさねぇ奴らに『返せ』一言も言えねぇ弱い年寄りが俺の上にいるなんざ反吐が出る。
 恐怖と暴力を借りる側に浸透させろ。アンドレのリターンを待つより今貸してる奴らが期限に返す方がよっぽど利益がでけぇんだ。そいつが期限までに金持ってねぇなら取れるだけ全部取れ。
 目玉、臓器、何でも良い。渋ったら全世界におわすド変態の元へ永久就職が決まるだけだ。
 ここは岸壁街だ。国民コードも国に発行してもらえなかった「人もどき」の巣窟だ。ここには人としての権利なんてありゃしねぇ。
 俺だけがここの奴らに労力としての価値を見出して使ってやれる。岸壁街に籍を置く連中は皆俺のものだ。頭の先から爪先まで、髪の毛一本に至るまで俺の為に生きろ。俺の言う通りに働け。
 それがここで産まれた奴の義務であり幸福だ。

 フランクの傍に居た大男二人は、フランクが何をしたか知っていた。ステファノがあたかも私欲の為に莫大な金を動かしたかの様に見せ掛け、あまつさえ大陸本部にいる幹部に掛け合ったのだ。
 フランクは岸壁街でのボスと言う地位を得る為にステファノを殺害したのだ。
「キム、ギデオン。俺が恐ろしいか?」
 フランクからの問いに大男達──キンバリーとギデオンは首を振る。
「いや?俺のボスは拾われた時からアンタ一人だ」
「俺もあの老いぼれの人の良いフリした甘いやり方気に食わなかったんでね」
 ステファノ亡き後止める人間もおらず。フランクの一番近くにいる彼らもまた同じ価値観を共にする同志であった事が岸壁街の住人の悲劇とも言うのだろうか。
 ステファノがボスの時は上層の自警団とも持ちつ持たれつな良い関係を築いており、岸壁街下層の住人も上層に行ったり時折外に出る事もあった。何かトラブルがあった時、ステファノのよしみで自警団や自治団も対処してくれる事があったからだ。
 しかし、フランクは自警団や自治団にヘコヘコしているとしてステファノのやり方を嫌った。
 彼らの間に「ご近所のよしみ」と言う感覚は無くなり、それによってトラブルを起こしやすい人間は皆下へ下へ追いやられる様になる。下層以下はこれまでで一番の治安の悪さを誇って行くのだった。

後編

 ミューの肌は白く、陶器の様だとフランクはいつも思っていた。この白い肌を拝めるのをいい加減自分だけの特権にしたくなっていた。
「ミュー。俺はお前を囲いたいんだ」
 そう打ち明けた時、ミューは寂しそうに笑った。
「……私を?」
 ボスになったフランクは日に日に変わって行っているとミューは思った。カンテ国の吹き溜まりの王になるからには背負う重圧も勿論あるのだろうが、彼の元々持っていた尊大さや威圧感をミューは強く感じていた。
「おう。俺の女にしてやるって言ってんだ。一番付き合いの長い女が娼館に居るからそこに連れて行ってやる。そいつと顔合わせすりゃあもう何の問題もねぇ」
 ミューはこんなところからいつか逃げ出したかった。その為に金を貯めて、いずれは岸壁街から逃げ出し、国民コードを買って別人になってでもこんな生活とおさらばしてやるのだと。
 けれど、もしも誰かが自分だけを愛してくれるのなら、その人が望むならここに留まるでも良いと思ったのだ。そしてそれがフランクならとそう思った。
 しかし、フランクは愛する人をたった一人に絞れる様な男でない事も知っているしこの男は穏やかでは無い。曲がりなりにも岸壁街の人間、それも悪辣な輩を煮詰めた様な男であることには変わりなかった。
 自分が彼を変えられたら、などと言うのは驕りなのだと思い知った。
 それに加えて少し前のステファノとアンドレの件。フランクがこじつけに近いいちゃもんで穏健派だったステファノを貶めて命まで奪い、アンドレと言う経済的に利点の大きい客を私情で逃したのだ。ステファノが油断していたのではない、フランクが意地でもステファノを殺そうと躍起になってそれを叶えたと言うだけだ。
 ミューは、フランクがボスの座に就いてからただでさえ無法地帯とは言えそれなりに独自の秩序があった岸壁街からその秩序が消えた事を肌で感じて居た。ステファノが居なくなった岸壁街で女達は前より意地汚くなったし、男達は冗談が通じなくなった。男も女も、フランクの治める世界では余裕がない。
 そしてそれを作り出したのは他でもないフランクだ。私情を挟むと大人として全体を見据える事すら出来なくなるこの人には着いていけない。そしてそうさせる要因が自分だと思ってしまったら、もうフランクの傍に居てはいけない気がする。いつしかそう思う様になっていた。
「私達…しばらく離れましょう」
 ミューがふと漏らした言葉。フランクは聞き逃さなかった。
「何だと…?」
「色々考えたんだけど…私の為にも貴方の為にも良くない…と思う…。お金も貯まったし、私は外の世界でお店を出したかったのよ。たまに遊びに来るし、貴方にも落ち着いたらお店に来てもらえたら──」
 なるべく怒らせない様にと冷静に努めたミューの努力虚しく言葉は途中で途切れてしまう。フランクが思い切り彼女を殴り付けたからだ。
 足を絡れさせよろけたミューは机の端に手を置く。重さに耐えかねた机ががしゃんっ!と音を立てて横倒しになった。ミューは困惑を浮かべながら痛む頬を抑えてフランクを見上げる。フランクは見た事もないような怒りを浮かべていた。
「離れるだと…!?お前、身の程を弁えろ…!ここから出て行く事は許さないからな!!」
「…私、貴方の『モノ』になったつもりはないわ!!」
「うるせぇ!!お前は俺のモノだ!!」
「私をアンタのハーレムの一人になんてしないでよ!!」
 スパァンっ!と空を切る様な小気味良い音が響く。ミューもミューで手が早い女性ではあった。
 しかし、フランクに殴られた時ミューは心のどこかでこうなると気付いていた。彼と距離を近づけて居た頃、彼はミューに「気に入らないとそれ相応の行動を取る方なんだがお前にそれはやりたくない」と言っていた。
 何となく自分が特別な様な気がして嬉しかったが、それは裏を返せば周りに対する横柄で粗暴な態度は自分に興味や愛が無くなった時に出てくるものだと思った。
 つまり手を出された今、自分は彼にとって気に入らない態度を取って良い人間まで成り下がってしまったのだ。
「お前…出てくって言うのかよ……!?」
「い、言うわよ…!もうアンタなんかうんざり…!!」
「許さねぇ…絶対許さねぇ…!!」
 フランクは立ち上がるとどんどん足を鳴らしながら近付く。ミューはそのまま乱暴に髪を掴まれベッドまで引き摺られて行った。ここからしばらく、ただフランクの欲望を受け止めるだけの日々をミューは過ごす事になった。
 逃げ出せたのは、フランクが隙を見せた二ヶ月も後の話。そしてそれが、この二人が顔を合わせる最後になった。
 フランクはショックを受けた。二ヶ月も軟禁状態で飼い殺しとは言え、何不自由ない生活を与えたつもりだった。だからそれだけ一緒に居れば、自分の傍に居る事を当たり前に思い始めるだろうと。
 しかし、ミューは衣食住の確保だけでは満足しなかった。人間らしい権利と自由を望んでいたのだ。そしてフランクとは対等な関係でありたかった。だが、フランクは自分と対等と言う気は最初から無く、何故彼女が籠の鳥となる事が気に入らないのかとそればかり考えていた。
 彼がもしも人としてミューを尊敬する気持ちに気付き彼女にそれを伝えていたら。
 しかし、そんなたらればは最早夢でしかない。

 * * *

「アイリーン!見て!赤ちゃん!」
 寒さ厳しいカンテ国の冬。密閉された空間だからか意外にも暖かい岸壁街の冬。こう言う日に味わう煙草は美味いのだと物思いに耽っていたところを娼館の前で大声で叫ばれ、アイリーンは煙草を蒸しながら嫌そうに現れた。
「アンタはいちいちうっさいわねぇジャッキー」
「だって見てよ!?まだ産まれたばっかりじゃない!?布で包まれてる!!」
「それがどうしたのよ。ここじゃ良くある事でしょ?赤ん坊の死体なんて」
「死体じゃないのよ!生きてるのよ!」
 そう言われたアイリーンがよくよく見ると、ジャッキーの腕の中に居た赤ん坊はくりくりした大きな目でしきりに周りを見ていた。
「見て見て!!あくびしたわ!可愛い!」
「……で?」
 しかし、アイリーンの反応は冷たかった。
「赤ん坊が居たから何なのよ?ここじゃ良くある話だわ。ただでさえ娼館勤めの女と子供って相性悪いのよ。捨てて来なさい」
「えー!?アイリーン見てよこの子!可愛いもん!」
「赤ん坊が可愛いなんて当たり前でしょ?可愛くなきゃ誰も世話なんざしないじゃない」
「でもー…あ!見てアイリーン!この子の目、消滅の神様の話に出てくる芸妓さんみたいよ!?」
 そう言われて興味本位で覗き込むと、赤ん坊は空と海が混じった様な綺麗な瞳をしていた。その目でじっと見られ、思わずアイリーンは息を呑んだ。そう言う意味での綺麗さはあったし、歌をなぞるなら不吉な感じもしたのだ。
「わー!可愛いー!どこの子!?」
 そんな空気を吹き飛ばす様にもう一人女が現れた。それは、価値観がジャッキーと同じ感じで苦手に思っていたナンネルだった。
「ナンネル!見て見て!赤ちゃん!」
「可愛いー!うちの子もお貴族様譲りの綺麗な青い目してるんだけど、この子も綺麗な目ぇしてるわねー!え!?ジャッキーの子!?」
「えー、違うわよー。私出産なんてしたくないもーん。体型崩れるし絶対嫌ー」
「あ!ちょっとジャッキー、それ私の体型が崩れたって言いたいの?」
「ナンネル、ジャッキー。世間話してる場合じゃないでしょ?」
 煙草を口に咥えたままアイリーンがやってくる。キツい目付きで赤ん坊を見つめるが、赤ん坊はアイリーンの凄みなど何のその。楽しそうにきゃっきゃっと手をバタつかせるだけだった。
「……はぁ、とりあえず姐さんとママに相談してみましょ」
「え!?この子ここで世話出来るの!?」
「ナンネルがテオ君連れて自分の家買ったからそっち行くんでしょ?元々部屋一つ空く予定だったから一時そこで寝かせても良いんじゃない?とは言え、私らの一存で勝手に決めるのは無理だけど」
「じゃあ早く姐さんとママに相談しなきゃね!」
 その時、上から窓が開く音が聞こえ煙草の匂いが漂ってくる。この匂いを「辛くて美味しい」と気に入っている人間は一人しか知らない。
「姐さん!!」
「あら?アイリーンにジャッキー、ナンネルもかい?珍しい三人だねぇ」
「姐さん!そこに赤ちゃん居たのよ!うちで飼いたい!!」
「…はぁ?赤ん坊?それならナンネルに任せなさいよ」
「姐さん、うちはもうテオで手一杯なのよー」
「ねぇお願ーい!!ちゃんと面倒見るからー!!」
 まるで近場で犬や猫でも見付けた時の様なジャッキーを見て溜息を吐くアイリーン。煙草の煙を足でぐしゃりと踏み消すと、上を見上げ女性と目を合わせた。
「…見付けた手前、私も出来るだけ面倒見るわよ」
「そうね、その方が良いわ。ジャッキーだけじゃすぐ死なす気がするし」
「ひどーい!」
 女性は大きく息を吸い、ふーっと煙を吐くと煙草の火を消した。
「今からそっち行くから。ママにちゃんと話通すわよ」
「はーい!!ありがとう!ポリーン姐さん!!」
 後にサントル・オルディネのキンバリーやギデオンから「色々とでかいポリーン」と揶揄される彼女は、この時はまだスラッとした美女であり、誰もが羨むスタイルを武器に女達から羨望の眼差しで見られていた。

 ミューは、赤ん坊がポリーンの手に渡ったのを見て安心した様にその場を離れた。
 フランクから毎日犯される生活を送る中、ミューはもはやただ逃げ出す事だけを考える様になった。どうにかしてフランクの元から逃げ出したい。そして、ミューは彼の隙を突いてこの生活から逃げ出した。
 その後は今まで通りの生活が送れず、最下層まで逃げ出し、男に身を売る形で生きながらえていた。
 妊娠が発覚したのはすぐだった。しかし、それまでにミューが相手をした男はフランクも含めて五人はいた為、誰が父親か分からない。身重な事を隠して男に抱かれて日銭を稼ぐ日々の中、無理を承知でしている行為のどこかで赤ん坊が流れたらとも思っていた。しかし、この子は強かった。
 ミューから離れず、その内お腹は目立つ様になる。そう言うフェチの男もいた為客を取るには困らなかったが、かくして赤ん坊はこの掃き溜めの地獄に産まれてしまった。
「名前…どうしようかな…?」
 ミューは少し考える。名前なぞ付ければ情が湧いてしまう。でもせめて、名前だけは。
「……イオン」
 不意にそう口にすれば、赤ん坊は嬉しそうに微笑んだ。ミューはそれを見て満足そうに涙を流すと、赤ん坊をしっかりと布で包んで娼館の前に置いた。
 せめてこの子が少しでも生き延びる道に進めます様に。
 フランクの目を盗んで岸壁街の中で生きると言うのは無理だ。育てられない、連れて歩けない。だから子供は置いて行くしかない。そうだ、これはどうしようもない事だ。この子を置いて行くのはこれ以外選びようのない選択肢。良い機会だし外の世界に旅立とう。全く違う人間として生きるんだ。
 そう胸に誓ったミューはフランクの目を掻い潜りながら外の世界へ飛び出す。
 そして外の世界でしばらく自由に暮らしていたが、数年後病を患いとうとう国民コードが必要だからと避けていた病院に罹らざるをえなくなった。
 意を決して「岸壁街出身」と言う事情を抱えて病院に向かう。話をすると、一年前に兎頭国人の女性の行方不明事件から一気にその知名度を上げた「岸壁街被害者の会」が尽力してくれるからと医師から名刺を貰った。
 国民コード発行までは自費でと言われて財布は痛かったが、地上の世界で受け入れられる様にと一歩踏み入れたミューは、そこで後に夫となるウィンソン・チェンバースと出会った。

「ボス。餓鬼拾うなんざ正気か?」
 ギデオンに揶揄う様にそう言われ、フランクは不敵な笑みを見せる。キンバリーは、彼に連れられて来たこの子供が何となく彼の想い人であるミューと別れた時に産まれたくらいの年齢に見える事から何かを察した。
 あの後娼館に何人もお気に入りの娼婦を見付けた。大陸に行った際も、出先で現地妻を作っている。だが、それでもミューの事が忘れられないのだろうと。
 彼の連れて来た子供の歳の頃はミューと別れた歳まで遡るくらいだ。あの瞬間に子を成して産まれていれば確かにこのくらいにはなっただろう。そんな思いもあったのではないかと。
「気まぐれだよ」
「またまた、とんでもない事だぜ?餓鬼拾うなんてさ」
「そうでもねぇさ。コイツが地上から来た餓鬼じゃなかったら拾わなかったさ。利用価値がねぇだろ」
 しかしその言葉に、キンバリーは己の読みの浅さを認識した。
「あの老いぼれが治めてた時は奴がそう言うのに尽力してたからとか何とかで大人しかった「被害者の会」やら「アプリコット」やらクソみてぇな連中が急に俺らを悪者扱いして来やがる。俺らが『人身売買なんざ知らん』と言えば、それは『サントル・オルディネが糸を引いているからだ』って理屈なんだとよ。老いぼれは事件の調査に無償で人員を割いていたから、そこに金を取る或いは調査をしない俺らが気に入らねぇんだろ」
「それでここのところ地上の奴らがうるせぇのか」
「居なくなった兎頭の女の親が大分熱心だった様でな。しかしここまでこけにされちゃ俺も黙ってねぇ。そこで使えそうなのが拾って来た餓鬼だ。アイツは国民コードを持ってる。産まれは上だからな。成人したら頃合いを見て地上に送り込む。地上のお偉方とパイプ持てりゃこっちのもんだ。あいつらに文句は言わせねぇし俺をコケにさせねぇ。とにかくこれから連れてくる餓鬼は俺の息子として育てる。親には子供を利用する権利があんだよ。俺みたいな立場の人間なら尚更な」
 そしてフランクが乱暴に腕を引っ張って連れて来た子供。先程まで泣いていたのか、涙の跡が見えるその子は覚悟を決めた様にキンバリーとギデオンを見上げると、少しびくびくしながら声を上げた。
「ろ…ロード・マーシュ…です…」
「おぅ、よろしくな。ロード。俺はキンバリー、皆からはキムって呼ばれてる。こっちのでかいのがギデオンだ」
「うん…」
「よぉチビ。ん?ボス、コイツはロード・デュヴァルにならねぇのか?」
「しねぇよ。コードに載せられてるのはマーシュ姓だからな。それに、息子の様に育てるってだけで俺に利用出来ねぇ餓鬼は不要だ。うるせぇだけだからな」
 何となく、家庭を求めていそうなミューを思い出し「フランクとの相性の悪さ」を考えるキンバリー。どの道別れる事になってそうだとは口が裂けても言えず、父を名乗るフランク以上にギデオンの方が懐かれている様子を見て乾いた笑みを浮かべた。

 この十数年も後、息子ことロードはこの掃き溜めの街で一人の少女に一目惚れする。その愛は大人になっても冷めやらぬ、それ程までに大きな愛に発展するのだが、その少女がかつてフランクが手に入れなかったと嘆いた女性、ミューの娘だと言うのは何の因果と言うのだろうか。