薄明のカンテ - 黒猫怪奇譚/涼風慈雨

保護と説明

 早朝に鳴るインターホン。
「誰……?」
 部屋で趣味のゲーム作りに勤しんでいたミサキ。寝落ちて朝になってしまった為に背中がバキバキと不快な音を立てる。渋い目をして寝癖のついた頭でインターホンのカメラ映像を見る。
「黒い、獣……?」
 そっと玄関ドアを開けると、黒い子猫ーーではなく、ぶかぶかの黒い服を来た少年が息を上げて転がっていた。
「貴方、誰?」
 夜を切り取ったような黒髪と闇色の瞳。日の光を拒絶するような白い肌。少年が着ている服はユウヤミがよく着ている黒い服。見た目は6歳から7歳くらいのユウヤミ。だが、彼の親戚の子にしても似過ぎている。彼の立場的に子供もあり得ないし、あり得たとしてもミサキの元に来る理由がない。歳の離れた弟ならあり得るかもしれない、とミサキが考えたところで息を整えてふにゃりと笑顔を作った少年が口を開いた。
「ぼく、ユウヤミ・リーシェルです」
 その瞬間、ミサキは異常事態である事を理解した。子供に向けるものではない冷ややかな視線をユウヤミだと名乗る少年に向ける。
「悪戯?」
 冷ややかな視線にも少年は光の浮かない目で笑顔を作ったまま、眉一つ動かさずミサキと視線を合わせている。
「此処のお姉さんが助けてくれるってメモがあったの」
 少年が紙切れを出す。確かにユウヤミの直筆で道順が書かれている。「ミサキ・ケルンティアを頼るように」とも。
「他に行くところ無くて……」
「少年、話は中で聞く。入って」
 ふいにミサキが話を遮ってドアを大きく開けた。言われるまま少年が中に入りドアが閉まった直後、人の足音が聞こえてきたのでミサキの行動の意味を理解した。
 ミサキが携帯型端末でユウヤミに電話をかけるも、少年からコール音がする。少年が取り出した端末は確かにユウヤミのものだった。直接本人に連絡がつかないならヨダカに連絡したいところだが、ヨダカが面倒を見られる状態なら態々ミサキのところに少年をよこす必要はない。
 つまり、ユウヤミはどうしてもヨダカに頼れない、もしくは頼りたく無い理由があるという事だ。
「で?」
「……他に行くところ無くて。一緒に帰らなきゃいけないのに」
「何処に誰と?」
「家だよ。一緒にいたはずのクラリスも見つからないし」
「クラリス?」
「ぼくの妹。3歳」
 もしも、見た目だけを逆再生の如く縮めてしまう薬があったとしたらーーとSFチックな事まで考えていたミサキだが、ユウヤミは演技でも家族の話を堂々とするわけがない。妹の存在そのものが作り話の可能性もあるが、敢えて3歳の妹を探していると言ったところで害はあっても利はない。つまり、今の本人である可能性も低い。
「少年。これからどうする?」
 ミサキの問いに答えず、部屋の奥にズンズン入っていく少年。服はぶかぶかなので引きずったままである。追いかけたミサキに聴こえてきたのは少年の喜ぶ声だった。
「本がいっぱい……!」
 雑然と、しかし部屋の主であるミサキからすれば使いやすい位置に置かれた電子機器と本。入りきらない本が隙間にねじ込まれていたり、床に積まれたりしている。
「わかるの?」
「『人間と機械の境界線』面白かったよ?」
「コンピューティング・パラダイムの問題点は?」
「世界を上から見る観点だけど、一面しか見えないとこだね。絶対的な論理式が世界にあるのが土台になる考え方。人も物も多面的だから俯瞰するだけだと見間違えやすいし、サイバネティック・パラダイムと合わせて多角的に考えないと見極めが難しいよ。機械と人との差はその辺りにあるらしいけど、人だって変わらないよね」
 輝いた目で話す少年。単なる丸暗記ではなく自分の言葉で話している。6歳くらいの子が話す内容ではない。
「わかった。悪戯なら早めに言って。そして来たところに戻って」
「悪戯じゃないよ」
「ユウヤミ・リーシェルは既に26歳の大人。いくら似てても苦しい」
「お姉さん、ユウヤミ・リーシェルはぼくの考えた名前なのになんでそんな事言うの?」
 本の話をした時は輝いていた目が、もう曇っている。その目のまま口だけ笑顔で言う少年。
 仮面の表情も、嘘八百もユウヤミの得意技。もし歳の離れた弟がいたとして、しゃあしゃあと嘘と本当のギリギリラインを語ってもおかしく無い。矛盾点を指摘しなければ嘘の設定をそのまま使い続けるだろうが、今のところ指摘できる要素が見つかっていなかった。
「少年がユウヤミ・リーシェルなのはわかった。本名は?」
「諱と字って知ってる?」
「本名は嫌い?」
「嫌いじゃないけど、二つ名前があると便利だから。お姉さんには言わない」
 一度決めたら動かない。頑固である。
「少年、それだと協力も何もない」
「ぼくの言う事信じないくせによく言うね」
「もう1人のユウヤミ・リーシェルがそんな人だから」
 少年の服を調達してくる、と言って少しの時間消えたミサキは子供用の服の入った袋と共に帰ってきた。
「男女兼用だから着られる」
「兼用なの?」
 真顔で聞き返す少年に文句あるかとジト目を返す。
 ミサキが先程向かった先はアンの部屋であり、少年用に借りた服はマジュのものである。
「動けないよりマシ」
 渋々といったところだったが、少年は服を受け取って着替えた。その後、朝ごはんだとミサキが持って来たのは栄養補助食品のクッキーだった。
「お姉さん……いつもこれ?」
「嫌なら食べなくていい」
「じゃなくて理由」
「効率的に栄養が補給できる。食事に時間かける方が無駄」
「そんな気がしたよ」

 ミサキも今日は普通に仕事の日。部屋に少年を一人で置いておくわけにいかず、保育部に預けるか信頼できる人に預けるか悩んでいた。
 「しぐさで読み解く心理状態」の本を読み耽っていた少年がふいに頭を上げて叫んだ。
「ケルンティア君!?」
「歳上にその態度?」
「まさか、本当に拾ってくれるとはねぇ」
 本を閉じてミサキの前に移動する少年。
「兄の物真似?」
「う〜ん、そう思われても仕方ないねぇ。けど、今は26歳の方だよ」
 完璧な寸分の隙もない微笑みを作る少年。先程までの口だけの笑顔とは違う。
「は?」
 訝しんで少年の顔を覗き込むミサキ。
「ひっ!」
 相変わらずにこにこした顔のままの少年の目の奥に、全てを見透かすような色を見たミサキが顔を青くして少年からパッと離れる。
「おや、ケルンティア君にしては素直に信じるのだねぇ」
「さっきまで、と……顔と声の表情の作り方が違う……言葉の選び方も違う。子供に真似できると思えない……」
 ミサキの答えに少年ーー否、現在のユウヤミが深い笑みを返す。
「さっさと帰れ。出てけ」
 怒りを滲ませ、玄関ドアを指さすミサキ。対して、幼い顔でそれはそれは切なそうな表情を作るユウヤミ。
「今放り出すと、子どもを閉め出す悪い人になってしまいかねないと思うのだけれど?」
「本当、嫌い……!」
 意識があるなら絶対近づくな、と念押しされたユウヤミは小さい手をホールドアップした。
「で。何が」
 ミサキの質問に一つ真面目に頷いたユウヤミは、昨晩の話を始めた。
 晩酌の肴にいつもは自家製つまみのキノコペーストを準備しているのだが、今回は半額で買ってきたイチョウの実を試してみようと思い立った。東國や大陸の一部の国では食用で薬になると聞いたので、多めに食べればキノコペーストの代わりになるだろうかと考えたからだ。特に何の症状も出なかったのだが、ここ数日の疲れが出たらしく急激な眠気に襲われて寝落ちてしまった。翌朝目が覚めたら床とカーペットの隙間に倒れていて、体は小さくなっており、部屋も荒らされている。時計は起きる予定の時間より1時間遅れていて、ヨダカもいなかったーー
「ケルンティア君を頼るように、って置き手紙が功を奏したよ」
「どストレートに馬鹿」
 だよねぇと呟いたユウヤミは、ミサキの部屋で時計を確認し、元着ていた服からメモ帳を広い上げてそれに何事かを書き込む。
「驚かないで聞いてほしいのだけれど、1時間の間に5分だけ元の意識が戻ってくるらしいのだよ。多分、他の時間は6歳の私だと思う」
 確信を込めたユウヤミの話ぶり。同じ推理に辿り着いたミサキは納得して溜息をついた。
「それでなのだけれど、6歳の私に会ったらメモ帳をきちんと見返すように伝えてくれ給え。記憶は共有できないようだからねぇ」
「了解……ヨダカには?」
「私、軍警病院行きたく無いのだよねぇ」
「言ってる場合?」
「軍警病院でわかる事なんて何もないし、行くだけ無駄だよ」
「探されてるでしょ?」
「いや?ケルンティア君のところに行く旨は伝えてあるよ。探すならとっくに見つかっているよ」
 ヨダカが来ないのもおかしな話だが、考えても始まらない。5分のタイムリミットは直ぐそこに迫っている。
「名前、統一する?」
「6歳の方はリーシェル呼びの方が無難かな。親戚設定で。私は知り合いが危篤で呼び出された事にしておいてくれ給え」
「了解」
 何か言おうと口を開きかけたユウヤミの顔から、いつもの笑みが消えて口元だけ不自然に歪んだ。
「お姉さん、ぼくの読んでた本どこ?」
「リーシェル」
 質問に答えないミサキを何も言わずに見つめるリーシェル少年。
「私はこれから仕事だから、一緒にはいられない。保育部にいてもらう」
「保育園も学校もぼく行かないよ。あんな退屈なところ。だったらここで本読んでる」
「子供を1人にするのは世間が許さない」
 黙って言うことを聞けとリーシェル少年を睨みつけるミサキ。
 どうしても動きたくない少年。ミサキのデスクトップ型パソコンの配線を掴もうと手を伸ばした瞬間、手の甲をミサキに強く叩かれた。
「痛ぁい……暴力いけないんだぁ」
「責任取れない事はするな」
「ぼく子供だもん。ホコリ取ろうと思っただけだもん。お姉さんわかんなぁい」
「コンピューティング・パラダイムがわかる奴が言うことか」
「配線抜いた事ないもんね」
「やっぱり抜くつもりだったか。減らず口が」
 語るに落ちたと気づいた少年が黙り込む。
「ユウヤミの遠縁だって言っとくから」
「ユウヤミ・リーシェルはぼくなのに?」
「偶然にして貴方と同姓同名の人がいる。面倒だから遠縁。いい?」
 仕方なく頷いたリーシェル少年の手を取って、ミサキは保育部に連絡を入れて連れて行った。

脱走と悪戯

 保育部の入り口で待機していたオルヴォの元に、ミサキに手を引かれた黒髪の少年がやってきた。前線駆除班第6小隊長のユウヤミ・リーシェルの遠縁の子。偶然にして名前も同じ。とは言っても、オルヴォはユウヤミとほぼ面識がない。目の前にいる少年と似てるか似てないかすらよくわからない。とりあえず、ユウヤミとミサキは親戚の子を預けるくらい仲が良いのだろうと適当に解釈する。
「おはようございます、ユウヤミ・リーシェル君」
 オルヴォに微笑み掛けられた少年は、心理学の難しそうな本を抱えて黙ったまま視線を合わせようとしない。本に隠れた口元はオルヴォには見えなかったが、瞳は光を全て飲み込んでしまいそうな闇を孕んでいた。見かねたミサキがリーシェル少年の後頭部を小突く。
「返事」
「痛ったぁ……馬鹿になったらどうするの」
「多少叩かれて馬鹿になった方が生きやすい」
「意味わかんなぁい」
「ここにいればクラリスが誰かに保護されて来る可能性がある」
「……わかった」
 仕方なしというように頷いたリーシェル少年は、ようやく満面の笑みでオルヴォに挨拶を返した。

 保育部の部屋に通されて、オルヴォに紹介される。
 別れ際のミサキに言われた通りメモ帳を開くと「目立たない方が得」と書かれていたので、部屋の隅で目に闇を湛え心理学の本を抱えて座り込む。
 さてどう暇つぶししようかと考え始めたところで、いきなり少女に話しかけられた。
「あ、それあたしの服。君だったんだね、ミィ姐の預かった子って!」
 面倒そうに顔を上げた少年の目に、ブリックレッドの髪とヴァイオレットの瞳の少女が映る。
「あたし、マジュ・リョワ・シン!えーっと、君は……」
「ユウヤミ・リーシェル」
「そうそれ!どっかで聞いた気がするんだけど誰だっけ……?」
「前線駆除班の第6小隊に同姓同名の人がいるよ。ぼくの遠縁」
 リーシェル少年の言葉を聞いたマジュはきょとんとした。
「早口でなんだかわかんない」
 憮然としながらも、少年はもう一度ゆっくり区切りながら言い直す。それでもマジュには伝わらず「どーせぇ・どーけぇって何?とーえん?って?」と言われてしまう。
「ぼくと同じ名前で、親戚で、ここで、仕事している人が、いるの。」
「へ〜親戚で同じ名前なんだね!おもしろーい」
 楽しそうにニヒヒっと笑うマジュ。
「そっかそっか!わかった!じゃ、遊ぼ!」
「ぼく、本読んでたい」
「ふーん、ミィ姐みたいだね」
「ミィ姐……あ、さっきの色素薄いお姉さん」
「しきそ……?ミィ姐も小さい頃、本ばっか読んでたんだって」
 面白い事は特にないにもかかわらず、マジュはずっと楽しそうに話している。
「で?何の本?君もうさぎの絵本読む?」
「絵本?つまんない」
 少年が抱えていた本のタイトルに目を落とすマジュ。
「んー?『し……で……』?えー難しい……」
「『しぐさで読み解く心理状態』」
「そう読むんだ!すごいねーあたしまだわかんない言葉いっぱいなのに、君読めるんだ!すごいねーカッコいー!」
 カッコいい。そう言われたリーシェル少年は少し俯いた。僅か6年ばかりの人生のほとんどを可愛いとばかり言われ、それを目標としていた少年は混乱していた。だが、それ以上にマジュの大きな声に圧倒されていた。
「どーしたの?」
 目立ちたくなくて隅にいたのに、マジュに話しかけられてそれもパーになりそうだ、とリーシェル少年は唇を噛んだ。ざわざわとノイズ音が絶え間ない保育部の部屋にストレスが溜まってきた少年は、近づいてくるマジュの胸元をトンと突いた。
「……構わなくていいよ。向こう行けば」
「えー?遊ぼうよー?」
 突かれたにも関わらず、マジュはめげずに少年を遊びに誘う。やはり声が大きく、少年は耐えきれずに耳を押さえて蹲った。
「え?どーしたの?ゆーやみ君?」
 心配したマジュが余計に耳元で騒ぐ。見ていた別の子も来て「どうしたの?」と近寄ってきて更にノイズが大きくなる。
 騒ぎに気がついたオルヴォが慌ててリーシェル少年の方へ向かうと、様子を察した子供達が道を開けた。その隙間を全力ダッシュで駆け抜けてオルヴォの手もすり抜けた少年は、保育部の外へ飛び出してしまった。
「ユウヤミ君!?」
 オルヴォが廊下に顔を出すと遠くに少年の小さな背中が見える。他のメンバーに一声かけた彼は、抜け出した少年を回収すべくその背を追った。

***

 耳を押さえていた手をゆっくり外しながら廊下の隅でしゃがみ込むリーシェル少年。周囲を警戒しつつ、痛む胸を押さえて息を整える。廊下には誰もいない。
「ここなら、静かだよね……大丈夫」
 深く溜息をついて俯く。
 マジュの声は実はやや大きい程度で、やかましい程の大音量ではない。だが、人より聴覚が少し繊細にできているリーシェル少年には、とんでもない大音量に聞こえていた。保育部の中自体、色々な音が混ざっていて長時間いたい場所ではなかった。
「クラリスは多分、保育部どころじゃなくてどの場所にもいないんだろうなぁ」
 窓から遠くに見える街並みを見て呟く。どうも、生まれ育った街とは違う場所らしいと少年は理解した。
「マジュ・リョワ・シン……声が大きくて語彙がない。うさぎと絵本が好き。さっきのミサキ・ケルンティアの知人の子。遠慮とか推し量るとか考えなさそうだなぁ……面白くない」
 赤い髪の少女を思い浮かべながら俯く。
 ふと、心理学の本をうっかり置いてきてしまった事に気が付いて少年は落ち込んだ。いい暇つぶしになる面白い本だったのに、と。
 周囲がせっかく静かになったのに、こうつまらないのも退屈だと少年はまた歩き出す。なんだか眠いと思い始めた少年の視線の先に偶然あったのは、男子トイレだった。

***

 桃色の髪を頭巾に包んだ人影がコンコン、と個室の扉を叩く。少し待って何の反応もないので今度は強めに叩く音が響く。
「どうしたんだい?サン?」
 作業着姿の清掃部の恰幅のいい中年女性ーーザラが、同じく作業服を着たサンに聞く。
「ぃず」
 個室のドアを指さすサン。
「いや、ゆっくりさせてやれ……ん?」
 水を流す音がするのに、誰も出てこない。水を補充する音が止まるとまた水が流れる音が響く。不審に思ったザラが扉を「もしもーし」と言いながら叩くが、反応がない。鍵もかかったままである。
「まさか故障?」
 こうしちゃいられない、まずは鍵を開けないと、と言って外から開けようとするも謎の抵抗で扉は開かない。
「中で引っかかっているのかいね?サン、ちょっと椅子持ってきとくれないかい」
 サンの持ってきた椅子によいしょと掛け声付きで登る。上から箒で鍵を開けようと覗き込むと、中で鍵を押さえていた黒髪の子供とザラの目があった。
「こぉらぁー!!!」
 唐突な大声にビクッと肩を震わせる少年。
「なにやってんのアンタはぁ!?早く鍵、開けなさぁい!!!」
「……ないもん」
「はぁ!?」
 ザラの言葉に返事をする代わりに、光のない目でふにゃりと笑顔を作ると少年は鍵を開けた。

***

「はい、本当にすみません。このフロアに来ないよう、きちんと言って聞かせます」
「まったく……保育部の子がここまで入り込むなんて事があるもんだね」
 リーシェル少年を追いかけて上層役員のフロアまでやって来たオルヴォが出会したのは、たいそうお冠の清掃部のザラだった。
「チビさん、うちの子だったらゲンコツ落としたところだよ」
 ザラが怒っているのは鍵を開けなかったことではない。トイレの中にトイレットペーパー1ロール分を突っ込んでトイレつまりを起こした事である。便器の中には未使用のトイレットペーパーが大輪の花を咲かせており、当分の使用を受け付けないと主張していた。
 当事者たる少年はしゅんとした顔でオルヴォのエプロンの裾を掴んで立っている。
「まぁ、チビさんは反省しているみたいだし。同じ悪戯は繰り返さないと思うけど」
「ごめんなさぁい」
「ここのフロアは来ちゃダメだし、さっきみたいにトイレで遊ぶのもダメなんだよ。いいかい?」
「うん……本当にごめんなさぁい……」
 ペコリと頭を下げる少年。
「素直でよろしい」
 ザラの怒りが解けたのを見て、少年の顔に朗らかな笑みが浮かんだ。
「まぁまぁ、リーシェルさんに似て可愛いねぇアンタは」
 ザラに言われ、はにかんだ表情をする少年の中身は26歳だった。
 オルヴォが追いついたところで6歳と入れ替わってしまったユウヤミは、状況を飲み込むのに少し時間がかかった。トイレットペーパーでトイレつまりを起こしたのが6歳の自分であると言う現実も、どうやら保育部の部屋から随分離れた場所に来て追いかけられた現状も、怒られるのは何もしてない自分である事も。
 せめて穏便に済まそうと、いい子供を演じると共に最大限の愛嬌を振りまいて誤魔化したところだった。
 オルヴォのエプロンの裾を掴んで保育部へ帰る道中、6歳の自分はあんな悪戯をした事があっただろうかと記憶を検索するユウヤミ。
ーー受験勉強から解放された頃だったかーー
 息子の頭の良さに気付いた両親は、教育に力を入れて私立小学校に入れる予定にしていた。でも、その頃のユウヤミは図形パズルのような小学校受験問題には興味がなく、逃げ回った挙句に彼方此方で実験と称した悪戯を繰り返していた。計画だけして実行しなかった悪戯が今日のものだった事に思い当たったユウヤミは、1人納得する。
 同じ幼稚園に通う子供達とも話が合わず、親の言った「無理に背伸びしなくていい、みんなと同じでいい」を信じて、とりあえず大人の前で良い子を演じて乗り切っていた。だが、小学校でもそれを続けるのが嫌になって自分で態と不合格になった。
 隠れて父親の書斎で本を読んでいると、まだ早いと親に本を取り上げられた事も一度や二度ではなかったな、なんて懐かしく思い出すユウヤミ。
「ユウヤミ君。音が苦手なら、別の部屋に行ってもいいんだよ?」
 オルヴォが声をかけるが、何故か反応がない。
「ユウヤミ君?」
 覗き込むと、少し前の可愛らしい笑みではなく、口元だけが不自然に歪んだ表情になっていた。どうしたの?と手を取ろうとした瞬間、するりと手を抜けた少年はまたダッシュで駆けていく。
「ユウヤミ君!?どこいくの!?」
 子供の足なら追いつけると思ったオルヴォだったが、曲がり角で見失ってしまい、少年探しは振り出しに戻ってしまったのだった。



名前と疑問

 医務室に戻る途中だったヴォイドは、廊下の隅で蹲っている子供に遭遇した。
 パッと駆け寄ると、子供は胸を押さえてゼィゼィと苦しげな呼吸になっていた。
「どうしたの?何があったの?」
 小さく首を振る少年。
「いつもこうだから……しばらく安静にしてれば大丈夫」
 小児喘息の発作に似た症状だと気付いたヴォイドが水の入ったペットボトルを取り出しかけるも、それより先に症状は落ち着いた。息を整えて怠そうに顔を上げた少年の顔は、黒猫のような誰かにやたら似ていた。
「あれ……?ユウヤミ、縮んだ……?」
 驚くヴォイドに小首を傾げる少年。小さな仕草までユウヤミと同じ動きをするので一瞬本人かと錯覚してしまうが、現実的にあり得ないかと軌道修正をする。それにユウヤミが呼吸器系が弱いという話は聞いていない。
「あ、それともユウヤミの親戚の子?よく似てるね、可愛い」
 じぃっと見つめてくる少年の表情に何か違和感があったヴォイドだが、親戚ならユウヤミと似てるけど似てないくらいにはなるだろうと解釈する。本人から聞いた事はなかったが、親戚の子がいるんだろうなぁとしげしげと少年の顔を見返した。
「お姉さん、ユウヤミ・リーシェルって人、知ってるんだ?」
「うん、知ってるけど」
「ぼくね、その人の遠縁なんだよ。偶然にして同姓同名なんだ。だからぼくもユウヤミ・リーシェルなの」
 人懐こい笑顔を浮かべてヴォイドを見上げる少年。
 自分の顔を見て同姓同名の人物を連想するくらいだから、ヴォイドはその人と親しい間柄の人物だろうと少年は見当をつけていた。そうだとすれば、遠縁だと言えば味方になってくれるかもしれない。
「私、ヴォイド・ホロウ」
「お姉さん、それ本当の名前?」
「自分でつけた名前だよ」
「ふーん……じゃぁぼくと一緒だね。ぼくもユウヤミ・リーシェルって自分でつけた名前だもの」
「そう……一緒だね」
「昔ね、大陸に諱と字で呼び分ける実名敬避俗の国があったんだって。諱は本当の名前で、目上の人しか呼んじゃいけなかったの。字は自分で決めていいあだ名みたいなもので、普段はそっちで呼び合うんだって。今時、名前がわかるだけで電子世界で特定されちゃうでしょ?だから、字でユウヤミ・リーシェルなの」
 小さい子が楽しそうに話す内容ではない気がしたヴォイドだが、ユウヤミの親戚ならあり得るのではと妙に納得してしまう。
「そうなんだ……自分で名前を決めるんだ」
「そう。本名は大事な時しか使わないの。昔の人と理由は違うけど、同じような事してるの面白くない?」
 ね?と言って輝いた目で朗らかな笑顔を見せる少年。話の内容は随分と高度で年齢に見合わないが、表情はその年頃の子供らしく純粋だった。
「君、この後一人で大丈夫?一緒にいた方がいい?」
「うーん、どうしよう……あ、ぼく喉乾いちゃったなぁ」
「あ……飲む?」
 さっき取り出しかけたペットボトルを差し出すヴォイド。受け取った少年はふにゃりと笑顔を見せた。
 少しだけ飲んで返す少年。控えめな態度も計算のうちである。
「もういいの?」
 ヴォイドの問いにこくりと頷いて少年はお礼を言った。
「ねぇホロウさん。医療関係者?」
「そうだけど」
「やっぱり。病院の薬の匂いがするもの」
 「薬品とか消毒液の匂い、割合好きだからねぇ」とユウヤミに言われた事を思い出したヴォイドは無意識に首筋を摩っていた。
「じゃぁさ、目の前で人が死んだのって見た事あるの?」
「……あるよ」
「じゃぁ教えてよ。生物ってなんで生きてるの?」
 さっきまでの笑みは消えて、光の浮かばない闇色の瞳がそこにあった。全部の光を吸い込んでしまいそうな、飽くなき探究心の狂気とも表現できそうな深い色だった。
 どう答えようかと逡巡したヴォイドの答えを待たずに少年は矢継ぎ早に質問をぶつける。
「ねぇ、なんで知らないぼくを助けたの?医療関係者だから?それとも知ってる人の親戚かもしれないから?誰も本当に親戚だって証明してないのに?どこの誰でなくても助けたの?医療を知らなかったら何もしなかった?立場で行動を決めるの?なんでもなくても手を出すの?」
 ぐっと身を乗り出して早口でヴォイドに問うリーシェル少年。
「ねぇ、なんで?」
 答えを待って視線を逸らさない少年に対してのヴォイドの第一声は「……可愛くなっ」だった。
 まだ子供なのに。難しく考えなくていいのに。素直に生きればいいのに。子供の癖に可愛くない。
「でも、ユウヤミの血だね……よく似てる」
 博識なところも語彙の豊富さも頭の回転の速さも、ユウヤミ譲りなのかそっくりで関心した。小難しく考えがちというか、斜に構えているが故ユウヤミの見る世界はなんだか面白いし、この少年の事も素直に凄いと思うし、それもまた可愛い。
「答えてよ。ホロウさんなら答えてくれるでしょ?」
 何かを期待しているようにも思える闇色の瞳と視線を合わせたヴォイドは、細く息を吸った。
「なんで生きてるか、って事だけど」
「うん」
「生きたいから生きてるんじゃない?そんな難しく考えた事は無いけど、とりあえず美味しいものは美味しく食べられた方が得だよ」
「生きたいから生きてる……美味しく食べられる方が得……?」
 頷くヴォイド。どろりと溶けた闇の深い少年の目に、微かな光が揺れた。何事か真剣に考えているらしく、口元に緊張が走る。
「それで……なんで知らないぼくを助けたの」
「……だって、ユウヤミの親戚の子じゃないの?そうじゃなかったとしても、子供が一人でいたら放っとかないよ」
 ごく一般的な答えに納得できない少年は何も言わず、分析するような目でヴォイドを見つめる。シンプルに考えればいいだけなのだが、考えすぎる質にはそれが難しい。多くを語らずに、一人で考え込んでしまうのもユウヤミに似ていた。
「それから、立場で行動を決めるのかって事だけど」
 淡々と話すヴォイドの声に、わずかに目を見開く少年。
「その方が動きやすいからそうするんだって、君によく似たお兄さんは言ってたよ。たまに忘れても良いと思うけどね」
 答えを聞いた少年は、何事かを呟きながら左手を顎に添える。深い闇色の瞳が澄んだ黒になる。やがて、ゆっくりと目に強い光が宿った。
「ありがと、ヴォイドお姉さん」
 ヴォイドの額におでこをコツン、と仔猫のようにぶつける少年。
「あのね、大人って狡いからぼくが何を聞いても適当だったり、はぐらかしたりするの。誰も子供だからって真面目に取り合ってくれないんだ。けど、お姉さんは違う」
 ヴォイドも子供らしからぬ怒涛の質問に面食らわなかったわけではない。ただ、この子供は子供扱いし過ぎてはいけない、そんな気がした。
「聞きたい事があったら、また来ていいよ。変なはぐらかし方はしないから」
 ヴォイドの言葉にきょとんとした少年は、安心したような笑みを一瞬滲ませる。
「本当面白いね、ヴォイドお姉さん。じゃぁ今度の時は大陸の美味しいご飯の話しよ」
 憑き物が落ちたような、さっぱりした表情の少年。でも無表情に近いその顔は、以前黄昏に見たユウヤミの表情によく似ていた。
「うん、そうだね。ご飯の話しよう」
 頷くヴォイドに、約束だよ、と念押しする少年。
「あ、そうだ。お兄さんところ行かないとだったんだ。じゃぁね、後でまたお話ししよ」
「うん。一人で大丈夫?」
「大丈夫。行き方くらいわかるし、もう走らないもん」
 じゃぁね、と言うとリーシェル少年はヴォイドに背を向けてふわふわ歩いて去って行った。

***

 少年の行方を探していたオルヴォは、廊下にいた医療班の人からも情報収集していた。
「すみません!この辺りに黒髪の男の子来ませんでしたか?」
「あ、保育部の人。えっと……ワシ……レ……?」
 振り返った青いスクラブの人は、愛の日に薄着で保育部の外に立っていた人だった。
「ワシレフスキーです。ヴォイドさんでしたか。この辺りに黒髪の6歳くらいの男の子は来ませんでしたか?リーシェルさんの親戚の子なんですけど、保育部から脱走してしまいまして」
 保育部から脱走。ヨダカをよく撒いてるユウヤミにそんなところまで似ているとは、と何故か関心してしまうヴォイド。
「さっきまでいた。でも、ユウヤミのところに行くって言って向こうに歩いていったよ」
 廊下の先を指さすヴォイド。
「え……?リーシェルさん、今日は急用で休み取ったって聞いたんですが……」
「え」

***

 換気で開けてあった扉から中庭に出る少年。先程の「お兄さんところに行く」はその場を離れるための言い訳だった。そろそろオルヴォが来そうな予感がした故の行動。時間があるなら、あのままヴォイドと話していたかったのが少年の本音である。
 少年の身の周りの大人達は受験の話ばかりしていた。だが、幼稚園でしていた事は少年にとってつまらない事ばかりで、それ故にきっと私立小学校はもっとつまらないところだろうと少年は考えた。態と受験を落ちて公立の小学校へ入学したのだが、そこでも周囲と馴染めずに不思議ちゃんを演じるしかなくなってしまっていた。
 でもこの場所には、受験の話をする大人も、皆んなと同じでいろと言う親も、遠巻きに見るような同世代もいない。
「学校に行くより、父さんの書斎で本読んでる時とかさっきのヴォイドお姉さんと話してる方がずっと楽しいのになぁ」
 高い空を鳥が飛んでいく。風がさわさわと音を立てて梢をすり抜ける。
 同姓同名で、ミサキやヴォイドが言うには少年とよく似てるらしい、26歳のユウヤミ・リーシェル。同じ名前の人は親戚にいないし、名前が2つあるのはミステリ作家の祖母くらいである。
「どんな人なのかなぁ」
 少年の呟く声を聞く人は誰もいない。
「なんかまた眠いや……沢山走っちゃったからかなぁ」
 あくびをしながら植え込みに入っていく少年。トイレの隅で仮眠を取るより、植え込みの中の方がマシだろうかと考えながら木にもたれかかった。


生命と真実

「そう言えば、今日はユウヤミが行方不明らしいな」
「そうなんですよ……ヨダカさんが探し回っていますけど、まだ見つからないんです」
「ユウちゃん消えるんはようあるんやけど、こないに見つからへん事無かったのになぁ」
 立ち話をしているのは、ロナとエドゥアルトとガート。
 表向き、ユウヤミは知人が危篤という事で休みになっている。だが、ヨダカと会って話した人は事情を知っていた。
「ヨダカさんが気付いた時にはもう部屋にいなかったらしいですけど……何処に行ったんでしょうね?」
「部屋の鍵も全部掛かってたらしいねん。これ密室言うヤツやない?」
「悪戯メールだけが手がかりだとはな」
 書きかけで送信してしまったのか、暗号文なのか、最後にヨダカがユウヤミから受け取ったメール文は悪戯にも見える奇妙な文面だった。
「ユウヤミ先輩が大事になる事は無いと思うので、信じて待つのみです」
「せや!」
 確信に満ちたエドゥアルトと、となりで頷くガート。
 そんな様子を見ながら、ロナは愛用の胃腸薬を懐から出していた。
「ところで、ロナさん……いきなり第6小隊長の代打って大丈夫ですか?」
「あ、あぁ……心配させてすまない。大丈夫だ……」
 水無し一錠の胃腸薬を口に放り込んで飲み込むロナ。
 第6小隊長のユウヤミが不在の為、第4小隊はエリックに任せてロナが一時的に第6小隊の担当に回されていた。とは言え、第4と第6の空気感はかなり落差がある。いきなり第6を任されたロナはストレス性の胃の痛みで既にダウンしかけていた。
「あの……本当、ロナさん……?」
 個性の暴力のような第6は、前線駆除班でも異端のような存在。並の神経の者ではやっていけないイカれた部隊に、見たより繊細なロナを配属するとは中々に鬼畜の所業である。
「ロナって弱いんやなぁ」
「ちょ、ガートぉぉぉ!?ダメでしょそういうこと言っちゃぁぁぁ!?」
 何気なくガートの言った言葉が更に追い討ちをかける。
 早く薬よ効いてくれ!とロナが念じ始めた頃に、視界の端に黒髪の子供が映った。周囲を見回すロナだが、保育部のメンバーも他の子供の姿も見えない。
 ついにミオリ以外の幻覚が出るようになったか……と頭を抱えるロナを、エドゥアルトが心配そうに見つめる。
「頭痛も出てきちゃった感じですか……?」
「何も見てない子供なんて見てないし何も見てない……見てないんだ」
 精神的に追い詰められていくロナ。これは医療班で休んで貰った方がいいのでは?と考え始めたエドゥアルトの袖をガートが引っ張る。
「なぁなぁ、エドゥちゃん。あそこになんで子供おるん?」
「ゑ」
 エドゥアルトが振り返ると、ふわりとした黒髪の子供がこちらに背を向けて座り込んでいる。
「小さい子がなんでここにいるんだろ?」
「こんまいのがここにいるはず無いんやけどなぁ?先生どこ行ったん?」
 エドゥアルトとガートの声が聞こえたロナが顔を上げる。
「ロナさん、大丈夫そうですか?」
「あぁ……薬も効いてきたみたいだしな。すまない……俺のことより、問題はあの子だろう?」
 視線を子供に向けたロナは迷いなくそちらに歩いて行って少年の横に膝をついた。
「坊や、1人で何してるのかな?」
「つまんないから1人で遊んでるの」
 答える少年の手は甲虫を1匹捕まえている。
「そうか……保護者の方はどうしたのかな?途中ではぐれたのかな?」
 首を振ってロナを見上げる少年。その顔はハッとするほどユウヤミに似ていた。
「何?ユウちゃんちの子供?」
「ちょっと、ガートぉぉ!?先輩にいるわけないでしょぉぉ!?」
「本気なわけないやろ。やかましいわ!」
 後ろで漫才を繰り広げるエドゥアルトとガートはさて置き、ユウヤミ似の少年に再度話しかけるロナ。
「坊や、お名前は?」
 漫才コンビから目を離し、ふにゃりと笑った少年がロナに答える。
「ぼく、ユウヤミ・リーシェルっていうの。ここで働いてるユウヤミお兄さんの遠縁なんだ。名前が同じなのは偶然だよ」
 「ほら親戚だって」と言いながら小突き合うエドゥアルトとガート。
「そうか。もしかしてユウヤミお兄さん探してるのかな?」
「お兄さん、どこにいるか知ってるの?」
「あ、いや……今日はユウヤミお兄さん休みなんだ。此処にいても会えないんだ」
「ふーん……なぁんだ」
 素っ気なく言った少年が、手の中の甲虫をツンツン突つく。6本足をバタバタさせているのが面白いのか、何度も突つく。やがて、虫の足を掴むと力任せに引きちぎった。
 深い闇を湛えた瞳に奇妙な光が浮かび、口元には微笑が現れる。
「ユウヤミ君」
 トーンダウンした声でロナが少年の名を呼ぶが、反応しない。
 更に次の足を掴んで引きちぎる。
「暴れないでよ潰れちゃう」
 そう言いながら目を輝かせて次の足をまたちぎる少年。
 少年には、生物に触れると無性にバラバラにしたり、ぐちゃぐちゃにしてみたくなってしまう癖があった。うさぎの赤い目を見ればくり抜いてみたくなるし、蝶を捕まえれば羽をもぎ取ってしまいたくなる。人も例外ではなく、触れると力任せにつねったり叩いたりしてみたい衝動があった。
 そういえば、さっきのヴォイドお姉さんにはそんな感覚無かったなぁなんて思い出した少年は少しぼぅっとする。
「なぁユウヤミ君。それ楽しいんだ?」
「うん」
 答えながら少年は羽をむしる。
「どうして?」
「なんかね、生きてるんだなぁって思えるから」
 ロナの質問に楽しそうに答える少年。純粋無垢だからこその倫理観が未熟な子供の残虐さと解したロナが頷いて口を開く。
「そうか。けどなユウヤミ君、そんな事したら良くないんだ」
「なんで?みんなダメだって言うけど誰も理由を教えてくれないよ?」
 全ての光を飲み込んで闇に変えてしまいそうな瞳がロナを覗き込む。
「ねぇなんで?可哀想だとかルールだからとか言うけど、そんなの理由じゃないよ」
 単なる屁理屈だろうかとも思っていたロナだったが、どうもこの子は本当に理由を欲しているように感じられた。他者の感情より理論を優先するあたり、さすがユウヤミの親戚だとロナは思った。
「ユウヤミ君。自分が手とか足をもがれたらどう思う?」
「……遊べないし、歩けなくて困る」
 少し考えて慎重に答える少年。
「だろ?虫だって足をもがれたら困るんだ。生きていくの、大変になるだろう?」
 少年の手の中で足を喪くしても羽を喪くしてもうねうねと暴れ続ける虫。
「生きていくの大変なのに、生きようとしてる……なんで?諦めないの?もう美味しくご飯食べられないんだよ?」
 光のない目で無表情のままロナと視線を合わせて外さない少年。
「……そうだな。美味しくご飯を食べられないだろうし、遊ぶ事もできなくなるな。それが、虫も怖いんじゃないか?」
「怖い?」
「あぁ。楽しいことが全部取り上げられたら、ユウヤミ君だって嫌だろ?」
 ロナの言葉にゆっくり頷く少年。
「な?そうやってユウヤミ君が虫をバラバラにすると、その虫はこの後あったかもしれない楽しい事をできなくなるんだ」
 出来るだけ穏やかに。理論的に話せただろうか?と少し不安に思いながら、少年の目を覗き込むロナ。
 少年が何か言おうと息を吸った瞬間、いきなりびくっとした表情になって空気感が変わった。手の中にいる分解されてぐったりした虫を見て呆然としている。
「ユウヤミ君?」
 慎重に植え込みに虫とバラバラにしたパーツを土に埋める。さっきまで無表情だったはずの顔に明らかな焦りの色が浮かんでいた。
「ご、ごめんなさぁい……」
 急激にしおらしくなった少年は、ロナにぺこりと頭を下げる。
「もうしないよ。虫さん可哀想だから」
 少年の変わり身の早さに驚いたロナだったが、ユウヤミの血なのだろうと無理やり納得する。
 後ろで会話を聞いていたエドゥアルトが携帯端末を取り出した。
「ロナさん……ユウヤミ先輩の親戚の子なら、ヨダカさんに連絡を入れた方がいいですよね?」
「あぁ、そうだな。ユウヤミ君も知った顔のところに行ったほうがいいな」
「ヨダカさん?それってだぁれ?」
 きょとんとした顔でエドゥアルトを見上げる少年。
「え……?ヨダカさん知らないの?ユウヤミ先輩といつも一緒にいる機械人形だけど」
「だぁれ?お兄さんが機械人形と一緒にいるところ見たことないよ?」
 だから呼ばないで。言いかけて少年ーー否、現在のユウヤミは言葉を飲み込んだ。またしてもタイミング悪く意識が戻ってしまったユウヤミは珍しく焦っていた。ヨダカに見つかったら確実に軍警に連れていかれる。親戚筋のどこにも存在しない子供なのは直ぐに調べが付き、隠し子扱いになる可能性大である。とにかく、ユウヤミはヨダカに会うわけにいかなかった。
「知らないかもしれないけど、ヨダカさんは優しいから大丈夫だよ。直ぐ迎えに来てもらうから安心して」
 親切心からエドゥアルトがヨダカに連絡を入れようと端末の操作を始める。
「待って……?」
「うん?」
 少年に裾を掴まれたエドゥアルトが視線を落とす。そこには、透明感のあるつぶらな黒い瞳を潤ませた6歳児がいた。
「ぼくね、保育部から黙って出て来ちゃったの……ここでその『ヨダカさん』に会ったら怒られそうな気がする……」
 泣き出しそうな少年の顔を見たエドゥアルトの中で、何かが刺さった音がした。
「うーん、そうだね!怒られるのヤだよね!」
「エドゥちゃん、ちょろ」
 ガートの声をシャットアウトしたエドゥアルトは光の速さで端末を片付ける。
「エドゥ?保護者にはどんな事情があろうと連絡しないといけないだろう?」
「だってロナさん?この子がヨダカさんに怒られるところなんて可哀想すぎて見てられないです……!」
 「想像しただけで泣けてきた」と言い始めるエドゥアルト。呆れた視線をロナとガートから向けられても、既にユウヤミの術中に嵌っているエドゥアルトには効かない。
「ちょっと保育部まで送ってきます。あ、くれぐれもロナさんもガートもヨダカさんに連絡しないで下さいよ!?恨みますからね!?」
 エドゥアルトに連れられて保育部へ去っていく少年。
 ひらひら手を振ったガートがロナを見上げる。
「ロナちゃんは連絡すんの?」
「……連絡した方がいい気がするんだが」
「うちの主人がダメやって言うとる。うちの前で連絡したら張っ倒すからな」
 金色のガートの人工眼が鋭く光る。胃腸薬を飲んだはずのロナの胃がまたキリキリ痛みだした。

***

 その頃、ヨダカはユウヤミを探して結社内の敷地をうろうろしていた。早起きなウルリッカに責任者を頼み、朝のうちに付近の捜索をしたが手がかりは一向に掴めなかった。
 現在、ヨダカは単体で結社の敷地内を捜索中である。
 気が付いた時には自室に影も形もなく、窓は全部内側から鍵がかかっていた。ヨダカは夜間、玄関でスリープモードになっている事が多い。そのヨダカの監視の目を抜けて玄関から外に出る事はできないはずだった。
 だが、現にユウヤミはどこにもいない。行方不明である事はヨダカも軍警の担当者、ミフロイドに連絡済みである。結社内を探して何処にもいなければ捜査員が投入される手筈は整っていた。
 いつもなら何も言わずに消えたとしても、見つかる場所はほとんど変わらない。それなのに、今日に限ってどこにもいない。ヨダカの選択肢に処分の文字が浮かぶ。
「煙のように消えるはずもなし」
 束の間、歩みを止めたヨダカの横を栗色の髪をした男性が通りすがり、肩がぶつかった。
「あ、すみません!急いでいたもので」
「いえ、大丈夫です。其方こそお怪我は?」
 ヨダカにぶつかったのは可愛らしいアップリケのついたエプロンをしている男性だった。どうやら保育部らしい。
「ぼくも大丈夫です、ありがとうございます……ところで、この辺りで黒髪の男の子見ませんでしたか?6歳くらいの」
「男の子ですか。いえ、見てませんね」
「そうですか……あの子、前線駆除班のリーシェルさんを探してそっちに向かったって聞いたんですけど……」
 前線駆除班のリーシェル。黒髪。
「その男の子はどんな特徴があるんです?」
「あぁ、はい。ふわっとした黒髪で、くりっとした瞳も黒ですね。肌も雪みたいに真っ白な子です。着てた服は女の子っぽかったですけど男の子なんですよ」
 まるで、ユウヤミをそのまま縮めたかのような表現。服装が女児服という部分を除けばそのままである。
「音が苦手みたいで、保育部の部屋から脱走してしまいまして」
 深々とため息をつく男性。
 ヨダカがユウヤミの担当になって2年以上。前任のヨギリの修復データは引き継いでいたものの、20歳そこそこのユウヤミが何をしていたのか詳細をヨダカは知らなかった。
「そうですか……私も今、人を探していまして。もしかしたらその男の子が何かを知っているかもしれません。協力させてもらってもよろしいでしょうか」
 金銀のオッドアイに見つめられたオルヴォは、若干気圧されたように頷いた。


静寂と境界

「おやぁ……?リーシェルさんの子ど……まぁ、親戚のお子さんですかね」
 そう呟いたロードの視線の先にいたのは、ふわっとした黒髪の少年だった。黒の色素を持っている割に肌は雪のように白い。ユウヤミのこれまでの女性関係を知るわけではないロードは咄嗟に彼に隠し子がいたのかもしれないと発想する。だが直ぐに、彼がそう遊び呆ける事も無かろうと思い親戚の子だろうなと方向転換した。
 周囲を見回すも、他の子供や保護者らしき大人の姿はない。
「こんにちは、お兄さんを探してるんですか?ボク、誰と一緒に来たんですか?」
 しゃがんで少年と目線を近づけるロード。何故か少年は光の浮かない闇色の瞳で、口元だけ不自然に歪んでいた。
 「お兄さん」というのが自身と同姓同名の人物を指すと直ぐ理解した少年は、そういえば同姓同名の人は休みで此処では会えない事に気がついた。目の前にいるこの人なら本人のところまで連れて行ってくれそうだと判断した少年は、少し媚を売ってみる事にした。
「ぼくね、迷子になっちゃったみたい」
 ふにゃりと可愛らしさを目指してロードに笑いかける少年。だが、後ろ手に組んだ手はギュッと力がこもっていた。
 この少し前、少年は保育部にいた。5分だけ意識が戻った26歳のユウヤミの全力の演技に惑わされたエドゥアルトにより、無事に(強制的とも言う)送り届けられた結果である。だが、6歳のユウヤミからすれば逃げ出した場所に無理矢理連れ戻されたに等しいわけで、再度職員の目を盗んで脱走した。そしてふらふら歩いているうちに休憩所の近くまで来ていた、というわけである。ちなみに、保育部に戻ろうと思えば自力で戻れるので正確には迷子ではない。
「ユウヤミお兄さんといた筈なんだけど、気付いたらはぐれちゃったの」
 にこにこした顔で言う少年。保護者と逸れた時の心細そそうな表情ではないが、不安を笑顔で誤魔化すタイプの子供なのだろうとロードは考えた。
「それなら、ユウヤミお兄さんのところまで連れて行ってあげますよ」
「本当?」
「えぇ、勿論」
 笑顔で答えるロード。外回りから戻ってきたばかりだった故に、ユウヤミ本人が急遽休みを取っていると知らない。つまり全くの善意である。
「ボク、お名前はなんて言うんですか?」
「ユウヤミ・リーシェルっていうの。お兄さんは?」
「ロード・マーシュと言います。ユウヤミお兄さんとは……まぁ、お友達ですよ」
「そうなんだぁ……ユウヤミお兄さん、前線駆除班第6小隊長でぼくの遠縁なの。けど、同姓同名なのは偶然だよ」
 世の中何があるかわからないもんだねぇ、とわかったような事を言う少年に苦笑しつつロードは小さな手を取って歩き出す。
「あ!マテ……じゃない、マーシュさん!」
 歩き出した二人の元へアクアグリーンの眼鏡をかけた核弾頭のような女性が走り寄ってくる。
「フラナガンさん……いい加減、結社でその呼び方辞めて下さい」
「名前と苗字の最初の音が一緒っていう時点で奇跡と萌感じちゃってるんで自重はしてます、してますけどついつい引っ張られちゃうんで中々難しいもんですね」
 楽しそうに話すフィオナがロードと手を繋いでいる子供に目を落とす。
「……って、どこでこんな可愛い子猫ちゃん拾ってきたんです?」
「猫って……どう見ても人間ですよ。拾ってきたなんて人聞きの悪い事言わないで下さい」
「やだ可愛い〜!わたし、フィオナ・フラナガン。子猫ちゃん、お名前なんて言うの〜?」
「ユウヤミ・リーシェルっていうの」
 その名を聞いた瞬間、フィオナの顔から少し表情が消えた。そしてそれを見た少年は、このお姉さんはどうやら26歳のユウヤミ・リーシェルと何か因縁がありそうで、あまり関係性を主張してはいけないと察した。
「リーシェルさんの親戚の子ですよ。流石にお子さんなわけないじゃないですか」
「どっちかと言うと、APTX4869で縮んだ可能性高くありません?」
「某探偵漫画ですか?もっとあり得ないと思いますが。それに本人ならこんな大人しくないでしょう?」
「『不可能な物を除外していって残った物が、たとえどんなに信じられなくても、それが真相』ですよ」
「いきなり名言の暗唱ですか」
 唐突に漫画の話を始める大人二人を不思議そうに観察した少年は、光の浮かない目をフィオナに向ける。人が子供に逆行できる薬が存在するなんて夢がある考えだと脳内でツッコミを入れるが、勿論、声に出すと大人に見放されるかもしれないので言わない。
 なんだか低レベルな話をしている気がした少年は、退屈すぎてあくびを一つした。つまんない。ふと、繋いでいるロードの手に思いっきり爪を立てたらどうなるんだろうと好奇心が膨らんだ。
 指先に食い込む局所的な圧力に気付いたロードが少年の方を見る。闇色の瞳にどろりと溶けた何かは、がっかりしたような光を浮かべていた。
「こらこら、爪を立てるんじゃありません」
 猫に言うような台詞だなと思いつつ少年の手を握りなおすロード。
「あぁ、退屈してしまいましたか。お姉さんの話が長すぎましたねぇ」
 少年はそうじゃないと頭を振った。
「えっとぉ……ユウヤミお兄さんとはぼく、あんまり会った事ないの。いつもお仕事忙しいみたいで……今日会えるって楽しみにしてたんだけど……」
 俯く少年。
「けど、忙しいならいいよ。ぼく、ユウヤミお兄さん自分で探すから」
 健気な少年の様子に目元を綻ばせる大人二人。
 だが、実際はこれも少年の演技であり、目立つ廊下に留まるとオルヴォに見つかる可能性が高くなるのを危惧しただけである。
「子供がそんな事、気にするもんじゃありませんよ」
 優しく言うロードの声を聞いた少年は直感した。この人、子供好きかもしれないけど話の流れに簡単に操られる人ではない、と。
「前線駆除班に送りに行くんですか?」
「えぇ。リーシェルさんもそこにいる筈でしょうし」
「それなら、一旦保育部で預かって貰ったらどうです?前線駆除班に小さい子連れで行くのは危なくないですか?」
 フィオナの案を聞き、手の中にある小さくて頼りない手の温もりを確認するロード。
 確かに、銃火器や刀剣の置いてあるところに小さい子を連れて行くのはリスクが高い。勿論、前線駆除班の柄が悪いとかそういう意味ではないし、事故を防げないロードではない。
 とは言え万が一、この子に何かあったとしたらーー少し考え始めたロードの前で、フィオナから軽快なメロディが流れてきた。ナラ下テーマ曲のエレクトリカルなアレンジ版である。
 電話を受けたフィオナは二言三言会話して電話を切った。
「すみません、クレーム応対入っちゃったんで行ってきます!」
 ちゃんとマテオお兄さんの言う事聞くんだよ、と少年に言い残したフィオナはパタパタと総務部へ帰って行った。
「呼ぶなと何回言ったら覚えるんでしょうね?」
 溜息混じりのロードの声はフィオナには届かない。
 もう一度少年と視線の高さを合わせて座り込むロード。
「ボク、保育部で良い子に待っていられますか?その間にユウヤミお兄さんを呼んできますから」
「やだ。行かない」
 さっきまでの健気で大人しいイメージとは少し変わり、少年は嫌だと首を振る。
「少し待つだけです。ちゃんと呼んできますよ」
「やだ。あんな退屈で煩いとこ行かない!」
 力強く言い放つ少年。
 保育園やそれに準じるものに嫌な思い出でもあるのだろうかとロードは首を捻った。
「ここの保育部に怖い人はいませんよ。君に嫌なことをする人だっていませんから」
 そう言われても、少年は嫌だと首を振る。
「困りましたねぇ……保育部に行けば、同じくらいのお友達と遊んで待っていられるんですけどね?」
 退屈だと言う少年を慮ってのロードの台詞。だが、これが火に油を注ぐ結果になる。
「それが退屈なの。皆んなわかってくれないし、何言ってるかわかんないし。ちゃちな作り物の話の何が楽しいの?子供騙しのトリックしかない番組の何が面白いの?馬鹿笑いできればそれで良いわけ?良くない、ぼくはそんなの嫌だ」
 嫌だ、と暗い目でハッキリ言い切る少年。早口で捲し立てるところは、背伸びして大人になりたがっているようにも見える。だが、ロードは『皆んなわかってくれない』に引っかかりを感じた。
「……話が合わないから退屈、という事ですか」
「そうとも言う。皆んな他人の話で盛り上がって自分の意見言わないし、聞いても何言ってるんだって顔するし。代案も無いのに文句ばっかり言うし。なんだか忖度ばっかりしてるし。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、って言うでしょ?わかってくれない人にいくら言っても無駄なんだよ。ぼくだってわかってくれない人となんか話したくない」
 これくらいの歳の子に比べてかなり語彙が多い、というより大人ですら使わないような語彙が出てくる。流石ユウヤミの親戚というところだが、それにしてもこの年齢の子から聞く言葉ではない。
「どこでそんな言葉覚えてくるんですか……」
「ニュース見てれば誰だって覚えるし、わかるよ。父さんと母さんも普段から言ってるし」
 誇るわけでもなく、当然の事を聞かれたようにさらりと答える少年。
 さてどうするか……と考えていたロードの後ろから、休憩所から出てきた機械班の男性4人組がどやどやと歩いてきた。チラリとロードが見やるが、ワッハッハと大声で無遠慮に笑いながら話に夢中で足元にいる少年にもロードにも気付かない。
 蹴飛ばされないように少年を引き寄せようと視線を戻すと、少年は耳を押さえて蹲っていた。
「どうしました?何か……」
 聞きたくない、と耳を押さえたまま首を振る少年。辛そうにギュッと目も瞑る。4人組が去って行った後も押さえた手を外さない。
 今の4人の中に少年にとって嫌な人に似た声がいたのだろうか、とも考えられるが少年は口を閉ざしたまま何の質問にも提案にも答えない。
「あれ、マーシュさん。どうしたんです?」
 にっちもさっちも行かなくなったところに、上から声が降ってくる。見上げたロードの視界に飛び込んできたのは金髪に小麦色の肌と青いスクラブーースレイマン・アスランだった。
「リーシェルさんの親戚っぽい子ですけど、何があったんですか?」
 かくかくしかじかで、とロードの説明を聞いたスレイマンは、あぁ、と納得した。蹲る少年の前に腰を落とす。
「よ、少年君」
 ロードとは違う声に名を呼ばれて顔を上げる少年。
「あ、手は外さなくていいよ。もしかして、音が大きくて嫌なのかな?」
 スレイマンの言葉に少年は苦しそうに頷く。
「そっかそっか。そりゃ辛いな。なら、耳栓作ってやるよ」
「本当?耳栓?」
「あぁ。ちょーっとだけ待ってられるか?準備して、直ぐ戻ってくるから」
「頑張る」
 こくりと頷いた少年の頭をわしゃわしゃ撫でるスレイマン。
「おぅ、いい子だ。もう無理だって思ったらそっちのお兄さんに言うんだよ」
「うん」
 少年の返事を聞いたスレイマンは数分で戻ってきた。スレイマンから渡された小さな耳栓を耳にはめてみる少年。
「ごわごわしてなんか気持ち悪い」
「ごめんなぁ、今はこれしかないんだ。後でお家の人に相談するんだよ」
「うん。あ、でも、さっきより平気になった気がする……これ、ティッシュ?」
「お、よくわかるな。耳栓がない時、濡れたティッシュで作れるんだよ」
 ニッ、と爽やかな笑顔で少年の頭を優しく撫でるスレイマン。
「マーシュさん。出来るだけ、静かな場所でこの子を落ち着かせてあげて下さい」
「わかりました」
「それと、この子はちゃんと聞こえてるので声を張らなくて大丈夫ですよ」
 “聞きたくない”が内容ではなく音そのものだった事に若干意外性を感じつつ「そうでしたか」と答えるロード。
 爆撃音の響く防空壕で治療する時に必要だったんですよ、ティッシュ耳栓。
 そんな事を言いながら、スレイマンは医療班の部屋へ戻っていった。
「あのね、ロードお兄さん」
 くいくい、とロードの服の裾を引っ張って言う少年。
「ぼく絶対いい子にしてるから。ダメだって言う事絶対やらないから。だから、ユウヤミお兄さんのところに直接連れて行って」
 黒曜石のような瞳でロードを見上げて「ね?」と念押しをする。
 少し迷ったものの、ユウヤミに説得されればいくら強情な子でも話を聞くだろうとロードは了承する事にした。
「……仕方ないですね。ちゃんといい子にしてるんですよ?」
「わかってる。ありがと、お兄さん」
 礼を言った少年はまたふにゃりと笑った。


 少年の手を引いて前線駆除班に向かう途中、廊下の遠い先をヴォイドが一瞬だけ通り、そのコンマ何秒だけヴォイドに見入ったロード。
 じっとロードの様子を観察した少年は光の浮かない目で言い放った。
「お兄さん、やらしー事考えてそう。昼ドラみたいな」
「何言ってるんですか、大人を揶揄うんじゃありません」
「ふーん……わかんないって事にしてあげる。そうじゃないと大人の面目潰れちゃうんでしょ」
 子供の直感は侮れない、とは言うが妙に鋭い。世間的に言うクズを自認するロードだが、子供の前では出さないようにしている。筈なのだが。
 便利な言葉がある。「だってあのユウヤミ・リーシェルの親戚だから」。
 子供だからと気を抜いてはいけない、と気を引き締めるロード。その後は何を話しかけても少年は「ぼく、子どもだからわかんなぁい」としか返さなかった。

***

『見つかりましたか?』
「いえ……まだ見つからないです」
 ヨダカからの電話に溜息を吐きながら答えるオルヴォ。
『そうですか。いっその事、全館放送で呼び出したくなりますね』
「近所に名前がダダ漏れになるのはちょっと……親御さんに何を言われるか……」
『勿論です。あくまで一つの可能性ですから』
「こうなると、まだ探していないのは前線駆除班のエリアだけですね……子供が紛れたら誰かが見つけてくれる筈なのでいるとは思えないですが」
『いえ、あり得るでしょう。その子が前線駆除班のユウヤミ・リーシェルの親戚と言うならば常に最悪のケースを想定して下さい。大概、想定の少し斜め上を行きますから』

兄弟と時代

 前線駆除班のエリアに連れてきて貰った少年は、好奇心をくすぐるものを目にしてうずうずしていた。刀剣に銃火器。少年も本物を目にしたのは初めてである。だが、ここで我慢できないと保育部に連行される。我慢が肝要だ。
「こらこら、爪を立てるんじゃありません」
 またしても繋いでいたロードの手に意味なく爪を食い込ませる少年。三日月型の痕が4つ並ぶ。
 待機室を訪れたロードと少年だったが、見回してもユウヤミはいない。
 その代わり、少年が手を引かれて会ったのは栗皮のような茶色いポニーテールの女性だった。
「狐さん」
 開口一番、彼女はそう言った。
「と、隊長の弟……?」
「親戚のお子さんだそうですよ」
 目の前の女性がユウヤミ・リーシェルの部下らしい、と瞬時に理解した少年。媚を売っておくに越したことはなさそうだと判断し、最初にロードに会った時と同じような笑顔を作る。
「お姉さん、こんにちは。ぼく、ユウヤミ・リーシェルです。ユウヤミお兄さんと同じ名前なのは偶然だよ」
「ウルリッカ・マルムフェ。ウルでいい」
 短い自己紹介の間もウルリッカの視線は少年の髪から離れなかった。以前からユウヤミのふわっとした雰囲気の髪に触ってみたかったウルリッカはチャンスとばかりに少年に問う。
「……頭撫でてもいい?」
「うん、いいよ」
 にこりと笑顔で了承した少年の髪にウルリッカが触れると、思った以上にふわりと軽くて柔らかかった。弟がいたらこんな感じだろうか、と姉気分を堪能しつつウルリッカは少年の頭を撫でる。
 撫でられた少年は目を細めた。見たまま子猫である。だが、後ろ手に組んだ小さな手が爪痕がつくほど強く握られていた事には誰も気付かなかった。
「ところで、リーシェルさんは?」
「今、ヨダカが探しに行ってる」
 少年の頭を撫でながら答えるウルリッカ。表向きユウヤミは急用で休みであり、行方不明であることは他言無用だった。だが、ふわっと消えがちなユウヤミをヨダカが探し回るのはいつもの事。ロードは別段気にする事もなく「そうですか」と納得した。……何故か、微笑んだ表情を見た少年には生ゴミを見る目を向けられたが。
 「待ってればヨダカと帰ってくる」と断言するウルリッカに一抹の不安があったものの、そのうち戻ってくる事に違いはないので、ロードは少年をウルリッカに預けて自分の持ち場に帰って行った。
 ウルリッカの横にちょこんと座る少年の耳には白いものが詰めてあった。
「耳栓?」
「うん。ぼくね、大きい音が苦手だからさっき作ってもらったの」
 ふにゃりと笑って答える少年。
「飴、食べる?」
「本当!?ありがと、ウルお姉ちゃん」
 ウルリッカから渡される飴玉を頬張る少年。飴玉の出所はガートである。ガートは最近何故か飴をよく常備しており「飴ちゃん食べぇ」と誰彼構わず配り歩いている。エドゥと見ていたお笑い番組の影響だとかで、ウルリッカもそれを貰ったのだった。ちなみに、ガートの本日分の飴は朝のうちに第6と第5に配り切っているので少年に会った時は持っていなかった。
「お姉ちゃん、飴美味しいねー」
 にこにこして飴を舐めている少年を見て弟のお世話をしている気分を味わうウルリッカ。少年が喜んでいる子供の表情を演じているだけだとは気付かない。
「そぉだ、ウルお姉ちゃん」
「何?」
「ユウヤミお兄さんと一緒にお仕事してるんでしょ?いつもどんな感じなの?」
 小首を傾げてウルリッカに問う少年。少し考えたウルリッカがいつも通りの淡々とした調子のまま答える。
「隊長はいつも的確な指示をくれる。聞いてれば間違いない」
 大きな抑揚があるわけではないが、ウルリッカが相当ユウヤミを気に入っているのだと少年は理解した。テレビで見た様な、熱心に何かを拝む人と似た表情をしていると思った。
「それと頭が良くてかっこいい」
「へぇ、凄いんだねぇ」
 ほぼ同じ意味だと指摘するのは可愛い子供のする事ではないので、少年は飲み込んで笑顔に変える。
 ふいに待機室の扉が開き、ライラック色の髪の人影と桃色髪の人影が入ってきた。
「そうね、それなら先に頭をロックした方が良さそうね」
「これなら、隙をついて逃げられるって事もないからねぇ」
 シリルとヘラが話しながら入ってきたのでウルリッカが一声かける。
「お帰り」
「ウルちゃん、ただい――」
 シリルがその言葉を最後まで言う事はなかった。ウルリッカの隣にちょこんと座る少年の姿を見つけると、少年の特徴と1番近い人物をデータから検索する。そしてコンマ何秒で弾き出された計算結果は。
「あら、ヤダわ。隊長ったらこーんなカワイイ子供がいるなら教えてくれても良かったのにー!」
 そう言いながら少年の前に座って陣取るシリル。
「子供じゃなくて、隊長の……えっと、弟?」
「ユウヤミお兄さんの弟だよ。年は離れてるけど」
 本当の続柄が存在しないのをいいことに、少年は弟設定に乗り換えてにっこり笑う。
「弟って言うには20こくらい離れてるように見えるけどねぇ?」
「うん。すっごく年上だよ」
 絶対あり得ない年齢差では無いので、ヘラの疑問にも臆さない少年。
「それじゃ坊っちゃん、保護者の方はどうしたのかい?」
「ここでね、ユウヤミお兄さん待ってるの。途中ではぐれちゃったから、ここで待ってるの」
「そうかい……第6の小隊長さんも、随分な事するねぇ」
 小さい子を待たせるなんてさ、とぼやくヘラの隣でシリルは少年に「アナタ、お名前は?」「何歳?」などあれこれ質問をしていた。
「ヘラ、エドゥとガートは?」
「ロナさんの剣術指導が受けられるって喜んで貼り付いてるよ。元気なのは良い事さねぇ」
 ヘラがウルリッカの質問に答えている間に、シリルは少年の後ろに回り込み何やらごそごそ動いている。
「シリル……何やってんのさ」
「うふふ、このコーデならハーフアップツインテールが似合うと思うのよ。これでバッチリね!」
 呆れた視線のヘラの人工眼にハーフアップツインテールにされた少年が映り込む。着ている服が女児物に近い事や、少年自身の顔立ちが可愛らしいのもあり、妙に馴染んでいた。
「さて、と!ヨダカはいつ帰ってくるかわからないし、待ってるより……」
 悪戯めいた笑顔で少年の手を取って立たせるシリル。
「パパに会いに行きましょうね〜」
 シリルに手を握られ驚いて肩を跳ね上げた少年は素早く手を引っ込めた。さっきまでの可愛らしい子供の顔ではなく、光の浮かない漆黒の瞳を無表情でシリルに向ける少年。
「え……?お姉さん、人じゃないの?」
 何気なく少年が言った疑問でその場がピシリと凍りついた。シリルの手を振り払った少年の態度は機械人形に対する差別的な態度と解釈されても仕方なかった。
 ややあって、シリルが口を開いた。
「そう。人じゃなくて、機械人形よ。その証拠に髪がキレイな淡い色をしているでしょう?」
「淡い色の髪だけじゃぁ証拠にならないよ。そういうオシャレもあるのかなって思うもの」
 そう返しながら少年は自分の髪をくしゃりと掴む。己の常識も知識も、もしかしたら此処では通用しないのかもしれない――急に足元がなくなったような不安感で混乱した少年は呆然と立ちすくんだ。
「さっきの緑髪のお姉さんも、猫ロリィタコスプレだと思ってたけど……違うのか……?」
「もしかして……ずっと山で暮らしてたの?」
 ウルリッカの問いに小さく首を振って否と答える少年。ウルリッカの集落コタンも都市部から離れているが、機械人形はいた。その集落コタンより更に深く、閉鎖的なところが少年の出身なのかもしれないと考えたのだったが、そうではないらしい。
「リーシェルさん、いつも機械人形と一緒にいる訳だし、弟くんが見たことないとは考えにくいもんさねぇ」
 今時の6歳児が機械人形を見た事がない筈は無く、ユウヤミの弟なら尚の事あり得ない。一体何が起きているのかその場にいる誰にもわからなかった。
 唐突に待機室の扉が乱暴に開けられた。皆の視線を受け止めたのは色素の薄い小柄な少女だった。
「いた。探したんだけど」
「ミサキお姉さん」
 冷たい空気を纏うミサキの声には棘があったが少年は気にせずミサキに駆け寄る。
「ミサキお姉さん、あれ機械人形?動いてるの?自立してる機械人形なの!?」
「後で話す。今は黙って」
 ミサキに手を掴まれて外へ引っ張られる少年だが、話を勝手に終わらせるなと引っ張り返す。
「だって、あれ!まだ介護用と運送用しかない筈だよ……!?分身のじゃないよね!?」
 約20年前はようやく機械人形が一部の職種で販売されるようになった頃である。一般用が販売されるのは5年後の事で、今のように人にそっくりな姿をした機械人形は生活に溶け込んでいなかった。いたのは汎用性の効かない専門ロボットか重度の障害者用分身ロボットくらいである。それでも、今ほどの完成度ではなかった。
「ねぇ、ミサキお姉さん。答えてよ!」
「後で話すって言ってるでしょ」
 冷たく言い放つとミサキは少年の手を強く握りしめる。少年は小さく悲鳴をあげて涙目になった。
「嬢、小さい子にあんまり手荒にしちゃぁ……!」
「馬鹿の親戚だから問題ない。邪魔した」
 吐き捨てたミサキは少年を引きずるようにして待機室を後にした。待機室に残されたメンバーに陰鬱な影を残して。


 待機室から少し離れたところまで引っ張っていくと、ミサキは少年を見下ろした。
「さっきはごめん。手、まだ痛い?」
「ううん……騒ぐのは得策じゃなかった」
 首を否と振りながらハーフアップツインテールを解く少年。
「でもミサキお姉さん、なんで答えてくれなかったの」
「貴方がタイムスリップしているのを認める事になる」
「タイムスリップ?」
 鼻で笑うような表情をする少年に証拠だと言ってミサキが電子端末のカレンダーを突きつける。今年はラサム暦2174年。ついでに端末のOSバージョンも確認してもらう。
「本当に未来……20年くらい?」
「19年と何ヶ月先」
「それだけ経ってれば機械人形が生活の一部でもおかしくない……の……?」
 また髪をくしゃくしゃに掴んで狼狽し出す少年。
 ミサキ自身は、物心ついた時には機械人形が存在した。岸壁街なので品質の差はあれど存在自体をすんなり受け入れたので、少年が取り乱した理由がわからなかった。
「リーシェル。全部を理解する必要はない。現象が起きている、だから存在する」
 まだ腑に落ちず、悩んでいる少年を冷ややかに見下ろすミサキ。
「貴方、平行ではない2本の線を永遠に伸ばすとどうなる?」
「……どっかでぶつかる?」
「そう。でもこれを証明した人はいない。形式的な言明に過ぎず、自明の理ではない。公理」
 何かが掴めたのか、少年の目に少しだけ光が戻った。
「証明できなくても、受け入れれば他が矛盾無く成り立つ。突き詰めればなんでも答えがあるわけじゃない」
「現に起きてる事を否定するなって事?」
 少年の問いに是とミサキが頷く。
「理解できないものに抵抗するより、現実を受け入れる方が先。理屈は後から追いつく」
「それじゃ……もしかして、26歳の同姓同名のお兄さんって未来のぼく?」
「そうなる」
「ふーん……少なくとも26歳までは生きられるのか」
「未来は常に不確定。貴方が今未来を知った事で、書き換わるかもしれない」
「え」
「此処で働いてない未来に書き換わる可能性だってある」
 未来の職場が変わるかもしれない、なんて事をさも重大な事のように言うミサキを少年は不思議そうに見上げた。
 もしも、タイムスリップが良く作用して事件の起こらない未来に書き換わったとすれば。偽名を名乗らなくてもいい未来に書き換わったとすれば。今とは違う人生を歩んでいるはずだ。勿論、最悪の場合を想定すれば既に生きていない可能性もある。それでも、どうせなら良い方向に変わればいいとミサキは思った。
「ケルンティアちゃん、本当に申し訳ない……!仕事中に呼び出して……!」
 ミサキが顔を上げると、荷物を抱えたオルヴォが困ったような顔で少年の後ろに立っていた。
 はっとオルヴォを振り返った少年はダッシュで逃げようとした。だが、少年の手を掴んだミサキが指を食い込ませる。
「やだ!保育部には戻らない!やだ!」
 毎日タイピングで鍛えている指先を食い込ませるミサキに抵抗するように爪を立てる少年。
「ユウヤミ君、ちょっと聞いて」
「やだ」
 オルヴォに話しかけられても聞こうとせず、ミサキの手を振り払おうと指を引き剥がす少年。
「あ、あれ何?」
 咄嗟に明後日の方向を指さす少年。オルヴォは指さす先を向いたのでその隙を突いて逃げようと足に力を込めた少年だったが、ミサキは引っ掛からなかった。
「聞け!」
 廊下に響き渡るような鋭いミサキの一喝にリーシェル少年が縮こまる。
「リーシェル。保育部はいかない。このまま部屋に戻る」
「そうだよ。部屋に戻れるように荷物も運んできたんだから」
 確かに、オルヴォの手には子供用コートや「しぐさで読み解く心理状態」の本がある。そこまで気が付いて、ようやく少年は大人しくなった。
「保育部行かないの?部屋に戻れるの?」
「そう。ほら、コート着て。本も自分で持って」
 オルヴォから受け取ったコートを少年に渡すミサキ。オルヴォに見送られたミサキと少年は、寮の方へ歩を進めた。


夢道と対話

「ヨダカ?チビは回収した。部屋で」
『了解しました。御迷惑をおかけ致しまして、本当に申し訳ありません』
「馬鹿のやる事。気にしてる暇なんてない」
 少年の手を引きながらヨダカとの通話を切ったミサキは、ユウヤミの部屋に向かっていた。
「ヨダカって誰?」
「ユウヤミ専属の機械人形。現在のユウヤミの経歴を知り尽くした上に融通が効かないから適当な物言いをしない事」
「やっぱり機械人形だからかな」
「ユウヤミが迷惑かけ過ぎるから」
「……なんか、大人になりたくなくなってきた」
「大人は汚い。経験が増えれば必然的に。幾分かマシな大人になりたいなら、今から考えておくと良い」
 ユウヤミの部屋の前まで行くと玄関口にはヨダカが待機していた。
「本当に申し訳ありません。ミサキの手を煩わせる事になってしまうなんて」
 薄紫の髪を揺らしながら頭を下げるヨダカ。
「いい。あの馬鹿に怒るのは無駄」
 冷たく言い切るミサキだが、相手は機械人形のヨダカである。痛む心など最初から持ち合わせていない。
 ふわりと笑みを浮かべたヨダカが少年の前に膝をついて視線を合わせる。
「初めまして。私はヨダカ、機体名AGENT.005です。ユウヤミ・リーシェルを主人に持つ機械人形です」
「えっと……ぼくは20年前のユウヤミ・リーシェルです……?」
 今まで会った相手はユウヤミの親戚関係を知らない人達だったからこそ、その場の適当な関係性を騙れたのだがヨダカは違う。血筋も今までの経歴も大体把握している。困った挙句に少年は本当の事を言う事にした。
 静かに少年の様子を観察するヨダカ。
「耳栓……あぁ、そう云う事ですか。耳栓が必要な程の聴覚過敏まで似るとは思いませんでした」
 首を振ってヨダカは少年に向き合う。
「そう言えば怪しまれないと言われたのですね?大丈夫です。本当の事を言っても私は怒りませんから」
「ユウヤミ・リーシェルはぼくだよ。自分でつけたんだもの」
「冗談も大概にして下さい。そんなところまで似なくて良いです」
 信じる様子のないヨダカに少年が無表情を向ける。
「そうやって皆んな信用してくれないよね。ぼくが子供だからってそんなに信用できないの?」
 ブラックホールの如く、どんな光も吸い込んでしまいそうな漆黒の瞳がヨダカの人工眼に写る。
「貴方を信用していない訳ではありません。貴方に何かを吹き込んだであろう主人を信頼していないだけです」
 柔らかな口調で手厳しい事を言うヨダカ。ミサキの溜息が重なる。
「ヨダカが考えたような事、チビは何も知らない」
「どう言うことですか?」
「言ったまま。チビは嘘を言ってない」
 確信を込めて言うミサキ。ヨダカもミサキがユウヤミの悪巫山戯に協力するような人ではないと知っているが、それ故に状況が理解できない。
「ミサキ、続きは中で話すわけにいきませんか?廊下ではいつ誰に何を聞かれるかわからないですし」
 微かな足音をヨダカと同じく聞き取ったミサキはジト目をヨダカに向ける。
「問題ない。足音の主は此処まで来ない」
 ミサキが言い切ったように、途中で足音は別の部屋に吸い込まれていった。
「さっき、シリルやヘラを見て驚いてた。20年前は機械人形が一部の職種で販売され始めた頃だから、昔のユウヤミがタイムスリップして丁度計算が合う」
 朝、ミサキの部屋の前に転がっていたところから始まり、保育部に預けた事や脱走を繰り返した事、オルヴォから聞いたトイレ詰まりの悪戯を起こした事なども含めてヨダカに順を追って説明するミサキ。
「確かに、そっくり過ぎますね」
 ユウヤミの幼い頃の出来事も少しだけ知っているヨダカだったが、その情報から導き出される行動パターンは少年と酷似していた。
「もしや、主人に隠し子がいたのではと疑いましたが……本当に最悪の想定の斜め上ですね」
 痛むはずのないこめかみに指を当てるヨダカ。
「兎に角、軍警に連絡して指示を仰がなければどうしようもないです」
 そんなヨダカをとろんとし始めた目で見上げる少年。
「もしかして、眠いですか?」
 ヨダカの問いに眠くない、と首を振るが振った側からガクンと少年の首が下がる。
 廊下で寝られても困るとヨダカが抱き上げると、そのまま少年は軽い寝息を立て始めた。
「正確にはタイムスリップじゃないかもしれない。1時間に5分だけ現在の記憶が戻るその時に話せれば……」
「待ってください、ミサキ。タイムスリップも十分あり得ないですが、そうではないと?」
 今思いついた仮説、とミサキが前置きをした上で話し始める。
「単純化する為にタイムスリップだとチビには言った。けど、もしかしたらユウヤミの中身と外側が逆行しているだけかもしれない」
 真剣な表情でヨダカを見つめるミサキ。
「過去からタイムトラベルもしくはタイムリープして此処にやってきた訳ではなく、現在のユウヤミが幼児化したとする仮説。5分だけ今の意識が出てくるなら、可能性がある」
 ヨダカの腕で寝息を立てる少年を指差して言うミサキ。
「もしそうなら、此処でチビがどんな未来を知ったとしても、過去には何ら影響を与えない。現在のユウヤミの精神に影響が出るか出ないかくらいしかない」
「どちらにせよ、あり得ない事が起きている事に変わりはありませんね」
 抑揚のない声で言うヨダカに是とミサキは頷いた。
「ヨダカ、ユウヤミは最後に行き先を伝えたって言ってたけど」
「この悪戯メッセージですか?」
 ヨダカがミサキに見せたメッセージは奇妙な文字の羅列だった。暗号文だと思えばそうにも読めるし、ミスでこうなったとも見える。だが、ミサキは迷わなかった。
「文字化け」
「今までそんな事はなかったのですが……」
「それでも探偵助手?」
 冷ややかな視線をヨダカに向けるミサキ。探偵助手ならそれくらい推理できて当然と言わんばかりに。
「文字コードの設定を変更して」
 復旧した文面は「緊急事態。ケルンティア君のところに行ってくる」というごく普通の文面だった。暗号でもなんでもない、言葉遊びも入っていない。だが、簡潔な文面なのはユウヤミがかなり追い詰められていた事の裏返しでもある。
「伝えるべき事は言った。後は好きにすれば良い」
 勝手に話を終わらせたミサキはヨダカの声に振り向く事なく、去って行った。

 まずは本当の主人たるミフロイドに連絡せねばと算段を立てつつ、部屋に入っていくヨダカ。
「あるせぇ……ぅ……ぁから」
 寝言なのかポツリと少年が呟いたのは、消さざるを得なかった本名だった。
「ぅあぃす……」
 次に呟いたのも、やはり消さざるを得なくなった妹の本名だった。
「創作物であれば、子供時代をやり直したいとか言う強い意志で逆行するらしいですが……一体何があったのやら」
 呟くヨダカはとりあえず少年をベッドに横たえた。
 小学生の頃は授業のほとんどを寝て過ごしていたとヨギリから引き継いだデータに書かれているのを参照したヨダカは、体力の無さ故だろうかと推論する。
 前触れもなく、少年がパチリと目を開けた。不思議そうに周囲を見渡す。
「お目覚めですか?」
 ヨダカの声に反応を見せない少年は、壁にかけてあった時計を見ると慌ててキッチンの方へ走っていった。
「どうされたんです……?」
 少年の行動が読めないヨダカがキッチンの方を向くと、少年は保存してあったイチョウの実を引っ張り出していた。
「もっと良いものありますよ、わざわざイチョウの実にしなくても」
 近寄るヨダカを完璧に無視した少年は殻をつけたままのイチョウの実を口に放り込んでバリバリ噛み砕く。更に水で無理やり流し込むと、追い討ちをかけるようにまた水を飲む。
「無理して食べるものではありませ……」
 少年の横に座り込んだヨダカの表情が変わる。
「それ以上飲まないで下さい!子供の身体では危険です!」
 少年の手からコップを奪い取るヨダカ。
「それは水ではないです!アルコールです!」
 コップを取られた少年はヨダカに見向きもせず、いつの間に準備したのか酒瓶から直接飲み始める。
「いけません!」
 酒瓶も取り上げようとするヨダカにニヤリと笑いかける少年。
「ヨダカ、これは重大な実験なのだけれどね?」
「まさか……!?」
 見覚えのある表情の作り方を見たヨダカが少年ーー否、ユウヤミに吠える。
「主人、巫山戯ないで下さい。どんな状況かわかっているのですか?」
「当然だろう?だから先を憂いて危険な橋を渡っているわけじゃないか」
「だからと言ってこれは容認できません」
 実力行使で酒瓶を取り上げて手の届かないところに片付けたヨダカは、別のコップに牛乳を注いで幼児化している己の主人に手渡す。
「無理に吐かせるより、牛乳で薄める方が負担が少ないでしょう」
「これくらい大丈夫なのだけれどねぇ」
「幾らワクな貴方でも6歳からアセトアルデヒドを分解できるとは思えないのですが」
 ヨダカの呆れた視線を受けたユウヤミは返す言葉が出るより先に口元を押さえた。
「う゛っ……」
「体調最悪のタイミングで6歳児が出てきたらどうするんです?吐くならトイレに行って下さいよ」
「わかってる、わかってるから……このまま寝れば戻れるから……」
 ふらふらと足取りも重くベッドを目指して歩いていくユウヤミ。
「何を根拠に言うんです?軍警に連絡入れますからね」
 ヨダカの言葉に何を言い返す気力も無く、寝具に少年の姿のユウヤミは埋もれた。
 
***

 目の前が真っ黒になった。
 再び目を開けた時、どこでもない場所で寝転がっていた。自分の手の大きさを見て、元の姿に戻れたことを実感する。
 起き上がってみると、少し先に6歳くらいの子供が立っていた。分厚い本を抱えて無表情で虚空を見つめている。その顔は、長く“ユウヤミ・リーシェル”の仮面の下に隠し続けた表情そのものだった。
 闇を塗り固めたような瞳同士の視線がぶつかる。
「20年後の、ぼく?」
「……そうだよ」
 頷くと、20年前の自分が数歩近寄ってきた。
「聞きたい事があったんだ」
 光の浮かない瞳が静かに私を見つめる。
「なんで、生物は生きようとするの?ねぇ、普通って何?20年後のぼくは答えを見つけられたの?」
 無表情なのに、どこか泣きそうにも見える顔で問う小さい自分。
ーー幼き日に抱えたまま、20年以上経過した今もまだ見つかっていない。掴めそうで、やはり掴めなくて。歳を重ねる毎に息苦しさが増していく。それでも、マルフィ結社に来てから何かがわかりかけた気もしているーー
 一つ、息を吸う。
「探し続けるものかもしれない」
「……まだなんだ」
 あからさまにガッカリする少年。
「けどね、生物が生きようとする理由についてなら、発見があった」
 静かに少年の目を見て言葉を紡ぐ。
「死んでみようと思った事がある。けれど、何をどうしても身体は、細胞は、意志に反して生きようとする。他人も同じだった。人生に絶望しようとも、身体は生命を維持させようと動く。それはもう自分の意思を離れた動きだ」
「意思を離れてる……なんだか気持ち悪くない?」
「そう。身体がある事に違和感を感じるよ……今でもね」
 少年の漆黒の瞳に溶けた何かが蠢いた。
「“普通”の定義だけど」
 “ユウヤミ”の仮面も、求められるキャラクターを演じる事も、生きやすくする為にはどうしても必要だった。一種の自己防衛なのは今も昔も変わらない。何も演じない方が不利になるのは間違いない。
ーーあの時、言って欲しかった言葉はーー
 頭に渦巻くどの言葉も、当時から頭の片隅に既にあった事ばかり。目から鱗な真新しい事は無きに等しい。して後悔した事より、せずに後悔した事の方が大きいものだから。
 また、一つ息を吸う。
「同世代に変だと言われても、知識欲は損にならないよ。けれど、『知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩』なのはわかっているだろう?同世代といるのが辛いのはわかる。だから、もっと年上の大人の友達を探す勇気を持って欲しい」
 ミサキにアンがいたように。仕事とは言え、ハーロックが話を聞いてくれたように。
「色んな人の意見を聞いてくれないかな。子供にも真面目に答えてくれる人は、世間に割といるから」
 小さな自分は納得していないらしく、曇った顔のままだ。
「それからーークラリスは君が思う何倍も凄い子だよ」
「クラリスが?」
「うん。クラリスがいるから、アルセーヌは独りじゃなかったんだ」
 何もかも、気付くのが遅すぎた。当時は冷静に考えるより、好奇心が優っていたのも要因だ。結果的に周囲を壊し、己の欠落したところは更に壊れてしまったように思える。
「そっか、独りじゃなかったんだ」
 泣き笑いのような顔で一つ頷いた少年が本を置いて私の胸に飛び込んでくる。抱き留めたはずなのに少年はいなかった。
 振り返ると少年は青年になっており、白い服を着た後ろ姿が見えた。今の私と同じくらいの年齢だろうか。
「ーーーーー」
 白い服の青年が振り返る。何か言ったようだが声は聞こえない。口元が「アルセーヌ」と言ったところだけは読み取れた。
 青年は私とよく似た顔立ちではあるものの、表情が違った。仮面でも無表情でもない、素直な表情。
 黒い服の自分、白い服の青年。
「ーーーーーーー」
 やはり声は聞こえない。「大丈夫」と動いたところだけ読み取れたが、他は分からなかった。ふわりと青年が微笑んで、目元から涙が一雫流れた。
 今度は、目の前が真っ白になった。


終幕と始末

 朝。ユウヤミは割れる様に痛む頭を抱えて目が覚めた。今度は、ここ数ヶ月で使い慣れた寝具の中だった。
ーーなんだか、夢を見ていた気がする。子供の頃の夢をーー
 夢の残り香を手繰り寄せると、思い出すのは何故か視点の低いマルフィ結社の廊下だった。3歳のクラリスを探していた気がするから……6歳くらいだったのだろうか。こんな場所で子供時代を過ごしたかった願望なのだろうか。
 寝返りを打つと机の上には酒瓶と食べかけのイチョウの実が置いてあった。
 そうだ、昨日実験と称してイチョウの実を……あれ?寝落ちたと思っていたのに、何故ベッドにいるんだ?
 枕元に置いてあった端末のカレンダーを見ると夢の中で見た日付と同じだった。
「本当に、夢か……」
 それにしては随分現実感がある。その日の朝にタイムリープしたような、そんな感じがした。
 起き上がってテーブルを見ると「しぐさで読み解く心理状態」の本が置いてあった。そう、確かこれはケルンティア君の蔵書を借りて……あれ?ケルンティア君が私に貸してくれるはずはないのに?
 理由はともあれ、早々に返さないとあらぬ疑いを掛けられて不利極まりない状況に追い込まれる。
 ……不可解な事が多い。
 カーテンを開けると白い朝の光が部屋に入ってくる。眩しさに一瞬目を細めると、ガラスに映った自分の顔には一筋の白い涙の跡があった。欠伸か……?
 枕元にはティッシュでできた耳栓が落ちていたが、子供用サイズなのか随分小さかった。
「記憶が無い、なんて事は無い筈なのだけれどねぇ」
 首を捻っていると、ヨダカが廊下から顔を覗かせた。
「主人、そろそろ起きてください……って今日は早いですね」
「いつも寝坊してるみたいに言われるのは心外だねぇ」
「時間通りに起きてくるなんてひと月振りですよ」
 いつまで突っ立っているんですか、とヨダカに背を押される。なんて事ない、いつも通りの朝になった。
 
 例の本を持ってミサキの元に返しに行く。顔を合わせたミサキは見るからに嫌そうな顔をした。始業からお前の顔など見たく無いとでも言いそうな不機嫌な表情である。
「何」
「ケルンティア君に借りた本を返しに、ね」
「アレなら返して」
 まぁ慌てずに、と出そうと内ポケットに手を入れるもユウヤミの手は空振りをした。
「あれ……無い。おかしいなぁ、確かに入れた筈なのに」
 ミサキの溜息。いつもなら絶対零度の視線を向けてくるところで、ミサキは呆れた視線をユウヤミに向けた。
「どストレートに馬鹿……って言いたいけど、奇遇。私も今何か忘れた気がする」
「ケルンティア君も忘れる事があるのだねぇ……あれ?それで何だっけ?」
「は?用がないならさっさと戻れ」
 虫でも追い払うかの様に手であっち行けと言われたので早々に退散するユウヤミ。
 何を忘れたんだろうか、と考え始めたところで前からエプロン姿の中年の女性が歩いてきた。
「あ、おはようございます。カルラティさん」
「あらぁ、今日もリーシェルさんいい男!早くお嫁さんの顔が見たいわぁ〜!」
 あっはっは、と笑いながらユウヤミの背中を息が詰まる勢いで叩くザラ。
「朝から若い子の顔を見られて眼福ってものよ?リーシェルさんになら、いつでも良い子紹介するからねっ!あ、でも今仲の良い子いたんだっけね」
 両目をギュッと瞑ってから去っていくザラの後ろを、三角巾を巻いたサンがちょこまかとついて行く。
「ウインク……のつもりなのだろうねぇ」
 おばさん達の口コミ伝播速度を見込んでザラを懐柔した訳だが、日々その速度は増しているように見える。誰彼構わず吹聴する訳ではないので信頼に足るのが良いところだ。
 歩いて行くユウヤミの思考からは既に本の事も、イチョウの実の事も、夢の中で起きた事も全て消えてなくなっていた。
 ヘラとシリルが何やら「先に頭をロックした方がいい」と話し合っているところを横目で見送った後、ふらりふらりと歩いていると廊下の先をヴォイドが歩いているのが目に入る。ペットボトルを持っている事に気がついて何故か一瞬、喘息持ちだった過去がフラッシュバックした。でも、それは過去の事で今とは関わりがない。
 今度会ったら大陸の伝統料理の話をするって約束したんだっけねぇ、と口の中で呟いたユウヤミは一歩踏み出した。