薄明のカンテ - 甲斐なき星が世を明かす/涼風慈雨

生者必滅

 握った手が、滑り落ちていく。
 長く息が吐き出され、目を閉じた顔の筋肉から力が抜けて行く。
 名前を呼んでも、揺すっても、返答はない。
 近くにいた軍警医が心拍と呼吸を確認し、目蓋を持ち上げて瞳孔をペンライトで照らす。瞳孔散大・対光反射消失は覗き込んだ僕にも見えた。
 今の時間を告げる軍警医の無情な声が頭に響く。
 何億光年離れても輝きを届ける恒星のようだったひとから生命の息吹が消え去った。

7月16日〜19日 後悔臍を噛む

 ケンズで診療所を開いている医師、アキヒロ・ロッシは亡骸となった婚約者カレンの手を握り直して跪いたまま、その場から動かなかった。
ーー最後に元気な声を聞いたのは昨日の朝だった。もっと早く帰っていればこうはならなかったかもしれないーー
 少し前からアキヒロは医療セミナーに参加すべくスラナに滞在していた。普段は診療所で看護師として働いている機械人形マス・サーキュのフユを秘書役にして、勉強に打ち込んでいたのだ。
『今日の夕方には帰れるよぉ』
『そっか!しっかり勉強して成果見せてよね!』
 そう電話越しに昨日話したのが、カレンの元気な声をアキヒロが聞いた最後の時間だった。
 16日は汚染のばら撒きと都市部で機械人形マス・サーキュの暴走、17日はミクリカの大規模テロ。沢山の死傷者が出て、災害に関して何か要請が来るだろうかと考えていたアキヒロは、昨日18日の犯行声明の動画でギロク博士が言った『次のテロ』がまさかケンズで起こると思っていなかった。
 何も知らないアキヒロが予定通りに自家用車でケンズに帰ろうとすると、途中の主要な道は大渋滞が起きていた。電子世界の情報は見られず、頼りの綱のラジオ放送ではミクリカの様子ばかりが報道されていたので、アキヒロはそのあおりだろうと勝手に推測していた。結局、渋滞があまりに酷い為に車中泊に切り替えることになり、連絡しようとカレンに電話をしたがカレンは出なかった。たまに電話に気付かない時もあったので「そういう時もあるか、いきなり帰って驚かせてみよう」と暢気に考えていた。
 翌日19日、つまり今日。前日よりは台数の減った道をのろのろと進んでいき、ケンズの近くまで来たアキヒロはようやく渋滞の意味を悟った。軍警の検問が設置され、誰も街に入れないようになっていたのだ。周囲には規制線が張られ、住民すらも中に入れなくなっていた。
 ようやく順番が回って来て、ケンズの住民であると証明したアキヒロは街から外れた避難所の方に向かうよう指示された。
 この時になってもアキヒロはカレンならあの生命力があるからと無事を疑っていなかった。双子の兄ナツヒロは自分よりずっと勘が鋭いので、兄家族も皆んな無事だろうと疑っていなかった。都市部のミクリカじゃあるまいし、片田舎のケンズの町が壊滅に追い込まれるとは想像していなかったのだ。
 連れていた機械人形マス・サーキュのフユは帽子を被せて電源を切り、裏に停めた自家用車に残してアキヒロだけ避難所へ向かう。
 だが、避難所が野外病院に大きな遺体安置所がくっついたような状態で騒々しく人が出入りしているのを見て、ようやくアキヒロは事の重大さに気付いた。
「そんな……嘘じゃ……?」
 野外病院に次々と運び込まれるストレッチャーに乗せられている人に付けられるトリアージは黒と赤ばかり。赤のトリアージを付けられた人は凄いスピードで何処かへ担ぎ込まれて行く。
ーー黄色や緑の比較的優先度の低い患者がほぼいないーー
 黒のトリアージは無呼吸か助けられない程の状態を指す。つまり、ここでは助からないと切り捨てられた人が相当数いるという事だ。
 早る気持ちを抑えつつ野外病院の中を探し回ったアキヒロが、ようやく見つけたカレンの右腕には赤のトリアージが付いていた。目を閉じたカレンの顔や腕は蒼白で脈と呼吸はいつもより速かった。トリアージの内容にさっと目を通すと、既に出来る処置は全て終わっており、腹部の深い挫創(切り傷)の洗浄と縫合をした事や、出血性ショックの為昨日から輸液中の旨が書かれていた。だが、カレンの繋がっている無くなりかけた輸液袋の隣りに補充用は下がっていなかった。
「ア……ぇ……ぱ……?」
「カレン……!?」
 掠れたカレンの声が聞こえて弾かれたように顔を上げるアキヒロ。そっと握ったカレンの手は氷のようにひんやりとして少し湿っていた。
「無事、れ……よかっ、た……」
 水色の瞳の視線は焦点が合っていなかったが、確かにしっかりと微笑んでそう言った。意識がある事に少し安堵したアキヒロも微笑みを返す。
「ありがとう。けど、僕の心配なんてしてる場合じゃないでしょ?」
「そ、っか……」
「早く治そうね、カレン。まだドレスも見に行ってないんだからね?」
「ぉだね……」
 例え気休めでも、前向きな思考になるだけで症状が改善する例もある。大量出血しても輸液で補っている間に全体の血液量が増えれば助かるーーそこまで考えて、アキヒロは輸液袋の追加が無い事が引っかかった。いくらカレンでも、この状態で見放されたら死までのカウントダウンが始まる。
 近くで作業をしていた看護師にアキヒロが声をかけて状況を聞くと、物資も機械も人員も何もかもが不足した状態だと苛ついたように答えた。機械人形マス・サーキュはいつ暴走するかわからないから使えず、災害医療の拠点になるはずのケンズ総合病院も被災して使い物にならないのだと。他地域への搬送もままならない状況だとその看護師は零していた。誰かに呼ばれて走り去っていく看護師の背中をアキヒロは呆然と見ていた。
 『防げる死を防ぐ』ことが災害医療の鉄則であり、トリアージを付けていくのも『最大多数に対する最大幸福の達成』だと頭ではわかっていても、アキヒロの胸の奥で芽吹いた違和感は現実を受け入れ難くさせていた。
 カレン1人にこれ以上投与すれば、助かるはずの他の人が助からなくなるのだとわかっていても、私情を拭うことはできなかった。
「ごめんね、カレン」
 また眠ったのかアキヒロの声にカレンは答えなかった。
 できればずっと隣に居たいアキヒロだったが、他にも探さなければいけない家族がいる。カレンを探している途中でナツヒロもレイナもカヤも見かけなかったので、まだ確認していない場所を見ておきたかった。
 アキヒロは野外病院の中をあちらこちら探したが、結局兄家族は誰も見つからなかった。
 カレンの救助された場所は診療所の中だと書いてあったので、もし外出中でなければ近所の兄家族の家も既に捜索は終わっている筈。まだ救助されていないだけなのか、他地域に搬送されたのかアキヒロにはわからなかったが、犯行声明の動画で宣言された時間からそろそろ24時間が経過しようとしていた。時間が経つごとに生存率は下がるが、72時間の壁を超えると生存率は急激に下がる。
ーー無事でなくても、生きていて欲しいーー
 己の半身とも言える兄の顔が、幼馴染の兄嫁の顔が、生まれた時から知っている姪の顔が、アキヒロの脳裏に浮かんで消えていった。
 ともあれ今はカレンの隣に居てあげたい、そう思ったアキヒロがカレンの元に戻ってくると、無くなりかけていた輸液は撤去されていた。点滴の跡の赤黒さがアキヒロの心に影を落とす。握ったカレンの左手はやはり冷たかった。
 実際のところ、カレンは生死の境を彷徨うほどの大怪我や大病になった経験はなかった。普段元気な人が必ずしも大怪我から回復するわけではなく、唐突に亡くなってしまう事もある。
 災害医療に参加するべきなのかもしれないとアキヒロの頭に少しよぎったものの、カレンの隣りにいれば少しでも長く生きてくれるのではないか、奇跡みたいな事が起こるのではないか、と捨てきれない期待が込み上げて動けなかった。医療の現場で経験してきた数多の看取りとは全く別次元の辛さにアキヒロはただ唇を噛むしかできなかった。
 ひたすら左手を握って、カレンの生命力があるなら大丈夫だと自分に言い聞かせる。そうしないと心の堰が崩れてしまいそうだった。
「せ……ぱ……」
「カレン……」
 ふと目を開け、何かを探すように首を動かしたカレンが動きを止める。
「輸液……?」
 不思議そうに呟いたカレンに胸が締め付けられる思いがしたアキヒロの眉は歪んだ。
「何も出来なくて、ごめんね」
「いい、の……助か、る人……多く、なぇば……」
 アキヒロの言葉で点滴が無くなった事の意味を悟ったのか、カレンは微笑んだ。一人残されてしまうアキヒロを心配させまいとした気丈な微笑みだった。
「あの、ね……テロ、が起ぃた、日にも……生まぇ、た……赤ちゃ、が、いぅの……」
 蒼白な顔のカレンは話すのも辛そうで、早い呼吸の合間になんとか話しているような様子だった。それでも、アキヒロに笑って欲しいカレンは言葉を止めなかった。
「端末、ぃ……写真、あるぁら……見ぇいぃお……」
「カレン……」
「うぐっ……!」
「カレン、あんまり話すとお腹の傷が痛むでしょ?」
 顔を顰めるカレンの額からオレンジ色の髪を払うアキヒロは、時が止まってくれればと何度も思っていた。ちゃんと治療できる環境があれば助かるのに、と。
「赤ちゃ、とお母、さん……守ぇた……よ?」
 傷が痛むのか、呂律がうまく回っていないカレンは止める声を聞かずに話し続けた。
「アキ、せ、ぱ……人の役、ぃ立ってぉ……?」
 忙しない呼吸、蒼白の額、掠れた声。痛みに耐えながら話し続けるカレンが居た堪れず、アキヒロは束の間目を伏せた。
 カレンの鼻の先、指先、末端の皮膚が青く変色していて、血液中の酸素が減っていることを示していた。死がすぐそこにいるのがわかるだけにアキヒロは耐えられなかった。
「いっ……!けど、死にたぅ、ないなぁ……」
「一緒に生きよう。カレン」
 今できる精一杯の優しい声で言いながら、カレンの顔を両手で包むアキヒロ。
 カレンが話すのを聞きたくなかった。確実に永遠の別れが直ぐそこに迫っているのをこれ以上考えたくなかった。1秒でも長くアキヒロはカレンに生きて欲しかった。
「そぇ、聞けれ、良かっや……」
ーーそんな穏やかな顔をしないでよ、まだ生きたいのに悔しいって言ってよ。そんなのカレンじゃないよーー
 アキヒロの願い虚しく、時間は残酷に進んでいく。握り直したカレンの左手を頬に当てると室温のような温度だった。
 力を振り絞るように満面の笑みを浮かべたカレンが青ざめた口を開いて言葉を紡ぐ。
「最期、に……夫婦っぽ、い、事さぇて……?あな、た……あ……ぃ……」
「カレン……!」
 最後まで言い切る事なく、どこか力の抜けたカレンの口からしゃくりあげるような妙な呼吸が出た。呼吸のはずなのに、胸が動いていなかった。
ーー死戦期呼吸……!!ーー
「カレン、まだ!まだだから!」
 そう言いながらアキヒロはすぐに胸骨圧迫を始めた。でも、いくら続けてもカレンの心臓は答えてくれず、脈を取ろうとしたカレンの左手はアキヒロの手の中から滑り落ちたのだった。巡回に来ていた軍警医が確認し、カレンの死亡が確定した。

 いつの間にか日は暮れ落ち、外は軍警車両のヘッドライトが眩しい時間になっていた。
 カレンの黒に変えられたトリアージが走り回っている人の振動で揺れる。
 そもそもカレンとアキヒロは中学時代からの知人だった。アキヒロには一方的にカレンに好意を寄せられて逃げ回っていた時期があり、同じ大学に進学してきてどうしても鬱陶しくて本気で怒った日からカレンが付き纏うのやめたという経緯がある。
 カレンが視界に入らなくなって、最初は少し寂しい気持ちがしなくも無かったが、勉強にサークル活動にバイトにと追われるうちにアキヒロは彼女の存在を忘れていった。
 ふと、彼がカレンを思い出してしまったのは医師免許に合格できた日だった。家族や友人と喜んでいる中で人生で何か大きな転機がある時、そこにはカレンがいて自分以上に一喜一憂していた事を思い出してしまったのだった。
 大学附属病院で研修医として働く傍ら、カレンの消息を探し始めたアキヒロ。近況さえわかればいいと思っていた彼だったが、何故か消息は掴めずに数年が経過し、ようやく居場所を突き止めたのは、後期医療研修に行ったケンズの病院で紹介された診療所の後釜に据えられた頃だった。
 カレンはケンズの助産院に勤務する、助産師の1人になっていた。探し始めてから6年が経とうとしていた。
ーーもっと早くに僕がカレンの気持ちに答えていたらーー
 考えるだけ詮無きことだとしても、自分を責めずにはいられない。ウェディングドレス姿で笑うカレンが見たかった。同じ時間をもっと共有したかった。もっとカレンを大事にしたかった。何の疑いもなく一緒に歳を取るのだと思っていたのに。
 自転車で坂を駆け上がって来たカレンが、6年越しに会った時のカレンの笑顔が、いつだって太陽のようにアキヒロの世界を照らしていたカレンが、目蓋に浮かんでは消えていく。
ーー愛してる。最期に言ってあげられなくてごめんーー
 夢ならばどれほどよかっただろうか、と湧き上がる後悔の念に押し潰されそうになったアキヒロの呼吸は上擦っていた。
「すみません、診療所のアキヒロ・ロッシ先生ですよね?」
「そう、ですけど……」
 唐突に声を掛けられて振り向いたアキヒロの目の前には1人の男性がいた。服装から軍警の関係者にように見える。
「できればお力を貸して頂けないでしょうか。あまりに被害に遭われた方が多くて、今いる法医学者だけだと手が足りないんです。地元の先生に死体検案に加わって頂けると大変助かるのですが……」
 控えめだが追い込まれているのがわかるほど、目がギラついていた。
「とてもお辛い時期だとは思います。それは重々承知しております。ですから、無理にとは言いません。ですが、困っている人は沢山いるのです。それをわかって頂ければと思います」
 ほんの一瞬、どこか此処ではない場所を見つめたアキヒロは一つ頷いた。
「わかりました。微力ながら検案に加わらせて下さい。うちの機械人形マス・サーキュのデータを使えば身元特定は楽になると思います」
「そうですか。ご協力に感謝します」
 遺体安置所へ向かう軍警関係者の背中を追って、遺体となったカレンの元から離れるアキヒロ。
ーーきっと、カレンが望んだのはこういう事なんだーー
 何のやる気もアキヒロには起きなかったが、医師としての責任感とカレンの「人の役に立って」という言葉に押されて無理やり足を進めた。

 一部のカルテを保存していた個人用電子端末とフユのデータを持ち、死体検案作業へ加わったアキヒロを待ち受けていたのは、安らかとはとても言い難い見知った顔の大量の遺体だった。
 かろうじて泥や血痕の洗浄は終わっているものの、損壊の激しい遺体もあった。
 軍警のデータベースは今は参照できないので、容貌の確認できる人は自分の記憶や機械人形マス・サーキュの顔認識データから照合して個人を特定する事、所持品や治療痕や発見場所からも推理する事、わかる範囲で死因を特定する事などを法医学者から大体の訓練を受けたが、アキヒロにはぼやけた音に聞こえていた。
 渡された端末に表示されている案内のしおりを手引きに作業を始めるアキヒロ。

 この男性には花粉症で抗ヒスタミン薬と鼻水止めを処方してた。
 このお婆さんは血圧が高めで血圧を下げる薬の処方箋書いたっけ……不安だからって必要以上に薬を欲しがるのを説得したっけね。
 この少年はクラブ活動で捻挫してたな……小さい頃は鼻の検査を嫌がって大泣きしてたんだ。
 この奥さんは喘息持ちだった。来る度に旦那さんの愚痴まで聞かされたんだよね。
 このお爺さんは糖尿病一歩手前で、生活習慣の指導があったな……採血も嫌いだったっけ。

 個人を見ればカルテに書き込んでいない分の記憶が次から次へと浮かぶ。酷い死顔を見ながら死因を探れば亡くなった瞬間の辛さを考えてしまう。そんな死体検案の作業で既にアキヒロの心のキャパシティは限界を迎えていた。
 生命力の塊だったカレンが死んで、己は生きている不思議さ。数日前まで診療所に来て生きていた人たちが物言わぬ亡骸になっている異様さ。体育館ほどの広さの遺体安置所が新たな遺体でどんどん埋まり、死の臭いを上げる中で動いている数少ない人。
 人の出入りが激しいはずの遺体安置所はアキヒロには何故か静謐な場所に感じられた。
 ただ、その静けさは幼馴染でもある兄嫁の遺体を見つけるところまでだった。
「レイナ……」
 青っぽい黒の髪。左手首にある2つ並んだホクロ。小学生の頃についた右脚の傷痕。レイナではないと証明できる要素はまったく無く、首についた手型の締め痕と縦の引っ掻き傷、それに頭部の打撲痕が何があったのかを示していた。
 発見場所に兄家族の自宅の住所が書かれているのを目にしたアキヒロの中で何かが弾ける音がした。
 カレンの発見場所は診療所内、レイナはその近くの自宅。それなら、ただ遺体が見つかっていないだけでナツヒロもカヤも亡くなっているに違いない、と考え至ったアキヒロは1つの結論に行き当たった。
ーーそうか、僕が生きている事がおかしいんだーー
 それは「指を切ったら血が出てくる」というくらい当たり前で至極当然の事のようにアキヒロの胸の中にストンと落ちてきた。
ーーカレンは人に役に立ってと言ってくれたけど、自分には役に立ちたいと思える相手がもういない。誰もいない世界に1人放り出されて尚、生きていたいなんて思えないよーー
 己の半身とも言える双子の兄ナツヒロと、人生の伴侶となるはずだったカレンを一度に亡くし、今まで診ていた患者たちのほとんども亡くなった傷は深かった。

 1日のうちに色々あり過ぎてぐったり疲れたアキヒロは避難所の一区画で夜を過ごした。死ぬ為に動く事すら億劫になっており、せめて邪魔にならない場所にいようと短い距離を移動した結果だった。
 機械人形マス・サーキュのフユは連れているわけにいかず、電源を切って自家用車の中に置きっぱなしになっていた。

7月20日 喪家の狗

 翌朝。
 身体中に泥がまとわりつくような倦怠感で頭痛が酷いアキヒロだったが、昨日よりは思考が明瞭になっていた。髪を結い上げる気力は無く、適当に後ろで縛る。死ぬ前に最低限身の回りの整理はした方がいいことに気付いたアキヒロは、死体検案を放り出して診療所兼自宅へ向かった。
 歩きながら変わり果てたケンズの町を見るアキヒロ。機械人形マス・サーキュの暴走だと聞いていたが、火事もあったらしく黒焦げになっている区画が数カ所あった。破れたガラスが道に散らばっていたり、衝突した自動車がクシャクシャに潰れてオイル溜まりの中でそのままになっていた。
 飛び散ったままになっている血液を迷い犬が舐めている。空からカラスの群れが舞い降り、至る所を我が物顔で闊歩していた。猫が血塗れに見える何かを咥えて引き摺って歩き、地面に線を描いていた。
 普通なら吐き気がしておかしくない状況を見ても、アキヒロは何も感じていなかった。
 むしろ、一刻も早く自分の息の根を止めて犬にでも食い尽くしてもらえればと思っていた。
ーー犬が食べてくれるなら遺体処分も楽だろうな。その辺の影から暴走した機械人形マス・サーキュが出てきて僕を殺してくれたら直ぐに片が付くのになーー
 軍警に会ったら家まで戻れないだろうなとぼんやり危惧していたアキヒロだったが、軍警だけでなく機械人形マス・サーキュにも人にも誰にも会わずに診療所兼自宅まで辿り着いた。

 鍵が掛かったままの2階の自宅内は無傷だったが、1階の診療所は酷かった。
 玄関のガラス扉は大破して外に粉々になったガラスが飛び散っていた。風除室には血溜まりができており、鉄っぽい血の臭いと体液のすえた臭いが混ざり合って淀んでいた。
 ふとアキヒロがしゃがんで見ると、血溜まりには足跡の泥と共に見慣れたオレンジ色の髪が数本沈んでいた。
ーー軍警が救助に来た時、カレンはここにいたーー
 待合室の中に進むと、所々に血が垂れていた。マガジンラックが引き倒されて雑誌が床に散らばり、キッズコーナーの絵本やおもちゃが何者かによって踏みつけられた跡があった。裂かれた椅子から綿とスポンジが飛び出していた。
 それとは対照的に、受付の棚に保管されたファイルの類いはそのままで、棚だけ見たら凄惨な現場になったとは誰も思えないほど綺麗だった。
 処置室の方は何かが暴れた後の形跡はまるでなく、機材だけが荒らされた形跡があり、開けっ放しになった引き出しは泥棒が侵入して物色したかのような散らかり方をしていた。
ーー空き巣だろうか……でもそんな事どうでもいいかーー
 医療用機械人形マス・サーキュのハルはフユと並んでバックヤードの隅に充電ボードを置いていたはずだが、充電ボードごと何処かに消えていた。

 自分が死んだ後の手続きを楽にしないとな、と考えたアキヒロは印刷物や電子端末に保存してあったカルテの整理を始めた。
 カルテにしてもレントゲン写真にしても、数年の保管が義務付けられている。ここに保管されている診療記録の大半が今回のテロによって死亡した人のものだが、何かの調査があればまだ使うかもしれず全部を処分するわけにはいかなかった。
 カルテを見るアキヒロの青緑の瞳にはもう何の光も浮かんでいなかった。漂う悪臭に眉一つ動かさず、事務的に手を動かす。ただ、一刻も早く作業を終わらせて目覚めない眠りに落ちたいとアキヒロは思っていた。
 アキヒロが戸棚の整理を始めた時、掛けた覚えの無いS字フックで開かないようにされた最下段の扉が目に入った。
ーーここには鍵の必要なものは入れてなかったはずーー
 不審に思ってS字フックを外し、開けてみたアキヒロの目に幼い子供の姿が映った。
「カヤ!?」
 棚の中にはクマのぬいぐるみをぎゅっと抱えて丸まった4歳の姪、カヤがいた。右側の頬から肩にかけてべっとりと朱殷しゅあん色が付着した白い頬のカヤは目を閉じたまま動かなかった。レイナそっくりの青みがかった黒髪が蛍光灯の光を弾く。
 パッと目に死斑は浮いていなかったが、動かないカヤを前にしたアキヒロはほんの少しだけカヤを羨ましく思った。
ーー両親を亡くして1人になった事を知らずに逝けるなら、それも幸せと言えないかな?ーー
 自嘲気味な笑みがアキヒロの口元に浮かんだ時、カヤの抱えたクマのぬいぐるみの毛が微かに動いた。何処かの風ではなく、規則正しく揺らめいている。
 消えかけた灯火に燃料が追加されるように、アキヒロの眼に凄絶な光が灯った。
 カヤは、まだ生きている。
 戸棚の中から慎重にカヤを横抱きで出し、診察台に寝かせて足をマッサージするアキヒロ。
 長時間同じ姿勢でいると、停滞した血中のどこかで血栓ができてしまうことがある。その血栓が肺の太い動脈を詰まらせてしまえば肺塞栓症になる。俗に言うエコノミークラス症候群だ。
 残っていた機材を集めてカヤに点滴をし、名前を呼びながらアキヒロはマッサージを続けた。頬についていた血を拭ってみるとカヤに外傷が無い事がわかったが、見えない箇所に怪我があるかもしれないと気は抜かず、外傷の確認と共に必死に名前を呼び続けた。
 どれくらい経ったのだろうか。
 白くなっていたカヤの頬に少し血の気が戻った頃。ふいにカヤの薄くて小さな目蓋が一瞬痙攣して、そっと目を開けた。
「カヤ、気付いた!?」
 不思議そうにぼんやりと天井を見ていたカヤはずっと聞こえていた声の主の方へ顔を傾けた。
「……パパ……?」
 その一言にアキヒロはどうしようもなく悲しさが募った。両親がもうこの世にいない事を知らないままで居た方がやはり幸せだったのではないか、と。
「アキ、くん……」
 やっと焦点が定まったカヤがじっとアキヒロの顔を見つめる。望んでいた人物ではなかったものの、見知った人が目の前にいる安堵からかカヤの大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れた。
「カヤ……」
 思わず、アキヒロはカヤを抱きしめていた。縋り付いて声を上げて泣くカヤの背中をさする。アキヒロの腕の中にすっぽり収まってしまう小さなカヤは頼りなくて、不安で、それでも確かな温もりがあった。

 泣き疲れたのか少しするとカヤは眠ってしまった。
ーーカヤが生きたいと願うなら、僕は死ぬわけにいかないなーー
 そう考えながら、身辺整理を中断して野外病院でも使えそうな資材を鞄に詰め込んだアキヒロは、カヤを抱き上げて避難所の方へ戻る事にした。一通り確認した診療所の中にも自宅にもナツヒロはいなかった。
 何も言わずに死体検案を放り出した事を平に詫びるアキヒロを取り立てて責める人はいなかった。野外病院で使えそうな資材を寄付した事もそうだが、子供を救助して戻って来た事は苛ついた人を静めるに足る事だったらしい。
 「今日の作業はこちらでやる、今は姪っ子ちゃんと一緒にいてあげて」と上司に当たる軍警医に言われたアキヒロは、人の少ない避難所の隅でカヤを膝に乗せていた。
「アキくん……」
「なぁに、カヤ?」
 レイナの作った少々不恰好なクマのぬいぐるみを抱えたカヤがアキヒロの服を引っ張って見上げる。
「パパとママは……?」
「……会いに、行こうか」
 答えるアキヒロの様子がおかしい事に気が付いたのか、カヤは不安げに瞬きをした。
 アキヒロに手を引かれて遺体安置所に向かったカヤは、入り口でもう不穏な空気を感じ取って足をすくませた。繋いだ手にギュッと力がこもる。
「行きたくない?カヤが嫌なら行かないよ」
 しゃがんで視線を合わせたアキヒロをじっと見たカヤは首を否と振った。
「ううん……行く」
 「そっか」とだけ答えたアキヒロは火葬を待つばかりになったレイナの遺体のところまでカヤを連れていった。
 遺体袋を開けて見せると、ふらつきながら駆け寄ったカヤがレイナの肩を揺らした。
「ママ……?ねぇなんで寝てるの、ねぇ起きて」
 力なく揺れて何も反応しない蒼白の母親を見たカヤの目に大粒の涙が浮かぶ。
「ママ!」
 カヤの叫びが聞こえるはずもなく、目を閉じたレイナはそこにいるだけだった。
「あのね、パパがね、ゆったからね、カヤ良い子にしてたの。くまちゃんとね、一緒にね、良い子にしてたの。」
 必死に母親を起こそうとして話し続けるカヤ。
「ねぇ、ママ!」
 アキヒロの説明にも耳を貸さず、カヤは母親に張り付いたまま離れようとしなかった。
 ようやく4歳になったばかりのカヤに今の状況が理解できるはずもなく、そっとカヤの頭を撫でるしか出来ないアキヒロもあまりの居た堪れなさに涙を堪えていた。
 目蓋をこじ開ければ起きると思ったのか、レイナの顔に手を伸ばすカヤ。だめ、とアキヒロが止めようとした瞬間、カヤは激しく咳き込んだ。
「カヤ!」
 ゼィゼィ、ヒューヒューという小児喘息特有の呼吸音になっているのに気づいたアキヒロがカヤを抱き上げて遺体安置所の外へ連れ出した。死の臭いが漂う場所の空気が良い筈もなく、喘息持ちのカヤが発作を起こしても仕方ない場所だった。空気も、疲れも、発作の引き金になる要素が今のカヤには多すぎた。
 風通しの良い日陰まで移動してアキヒロが手持ちの吸入薬を使うと落ち着いたのか、白くなっていたカヤの唇に血の気が戻ってきた。発作が収まり、ぼんやりと何処かわからない場所を見つめるカヤは、そのままふわりと消えてしまいそうなほど儚さを纏っていた。
 あ、と何か気付いたカヤが口を開く。
「アキくん、パパは……?」
 心配そうに見上げるカヤに「死んでいるかもしれない」とアキヒロは口が裂けても言えなかった。これ以上追い討ちをかけるような事を、見える証拠のない事を、カヤに伝えると考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
「わからない……まだ僕も会ってないんだ、カヤ」
 期待をもたせるような言い方は後で余計に辛くなるかもしれないと思ったアキヒロは、ぼやかした言い方しかできなかった。
「パパは」
 アキヒロの言葉を受けたカヤは何か確信があるようだった。
「パパはね、どっかね、いるの。カヤにね、良い子で待っててね、ってね、ゆったの」
「ナツが……」
 カヤが1人で診療所に入って棚に隠れた訳ではないとアキヒロもわかっていたので、鍵を持っているナツヒロが何かの理由で来ていたであろう事は推測していた。だが、ナツヒロが意味なくカヤを連れて休みの診療所に入るとは考え難い事だった。
ーーそうか、あの時カヤに付着していた血はナツのものだったのか。それなら、診療所でハルが暴走してナツとカレンを傷つけたのだろうか?ーー
 少なくとも、カヤに待っててと言ってS字フックを掛けたなら、ナツヒロには戻る意思があったという事だとアキヒロは思い至った。
「でも……パパ、なんでカヤのところに来てくれないの……?」
 ふと考え込んで無言になってしまったアキヒロの袖を握りしめるカヤ。
「カヤが、悪い子だったから……?ママにいじわるしたから……?パパの言う事、聞かなかったから……?」
 小刻みに震えながら唇を噛み締めるカヤの顔をアキヒロの大きな手が包んだ。
「カヤ。カヤの所為じゃないよ」
 見開いた目でカヤは叔父を見上げた。父親と瓜二つの青緑の瞳が優しく光っていた。
「パパだって、カヤの事が嫌いで戻ってこないわけじゃないよ。仕方ない理由があるだけだよ……」
 震えそうになる声を必死に御して言葉を紡ぐアキヒロ。野外病院の記録にも軍警の記録にもナツヒロの痕跡はなかった故に、双子の兄が生きているとはカヤほど自信を持って言えなかった。
ーーカヤが信じるなら、僕の他に誰が一緒に信じて上げられる?ってカレンなら言うのかなーー
 浅く息を吸ってカヤの頭を撫でるアキヒロ。
「今は、カヤも疲れてるんだよ。まずは休もう?」
 少し迷った素振りを見せたカヤだったが、小さく頷いてクマのぬいぐるみを抱え直した。

7月21日以降 涙を呑む

 カヤの為に死ぬのを先送りにしたアキヒロは翌日からすぐに現場に戻った。カヤの事は心配だったが、死体検案の作業も死亡診断書の作成も山積みのままで、泣き言を言う暇はなかった。
 相変わらず見知った顔の遺体と薄い死の臭いと明らかな腐敗の臭いに紛れて一日中働いていると、やはり自分が生きている事がおかしく感じ始めてしまう。それでも、避難所に戻ってカヤの安堵した顔が見られる事でアキヒロは生に引き戻されていた。
 カヤもアキヒロも避難所で「もしかして」と人違いに幾度となく声をかけられた。子供を亡くした母親が近くにいたカヤに「どうしてアンタは生きてるの」と言葉を投げつけた事もあった。カヤが母親に似た人にうっかりついていきそうになったり、アキヒロもカレンに似た人を探してしまっていた。
ーーこの町は、誰もが誰かを探しているーー
 カヤが暗闇を火がついたように泣いて怖がる為、夜中は小さなライトを付けっぱなしにして2人で眠った。戸棚の中に1人でいた時間が恐怖として刷り込まれているのは当然と言えば当然で、アキヒロが起きて横にいて安心するまでカヤは寝られなかった。フユがいればもう少し楽になったかもしれなかったが、起動させるのが怖かったアキヒロは相変わらず自動車の中に置きっぱなしにしていた。
 カヤを寝かしつけている間に昼間の事がアキヒロの脳裏に浮かんでは消えていく。死後硬直で苦しそうな表情のままの遺体、死後硬直も溶け始めて黒ずんだ死斑が浮いている遺体、腐敗が始まって腹部が緑色になった遺体、損壊が激しく内臓が飛び出た見るも無惨な遺体、全身黒焦げの焼死体……
 老若男女の遺体を見続けるのは、軍警医でもなく、法医学者でもない、ただの町医者の背に重かった。
 カレンが亡くなった瞬間の事も何度も何度も繰り返し甦ってきて、あの時もっとこうしていればああしていればと後悔ばかりがアキヒロにのしかかった。あの日休みだったのだから診療所にいなければ、と考えたところではたと疑問にぶつかった。
ーーそういえば……なんでカレンは休みで誰もいないはずの診療所にいたんだ?ーー
 いくらアキヒロが考えても理由は出ず、引き取ったカレンの遺品からわかったのも当日に自宅出産の仕事で外出していた事だけだった。
ーー『テロのあった日も生まれた赤ちゃんがいる』と言ってた事と、カレンが診療所にいた事に何の関連があるんだろう?ーー
 浮かんだ疑問は答えが出ずにそのまま宙に浮き、アキヒロの心を圧迫していった。

 気がかかりな事があろうと悩みがあろうと時間は待ってくれない。手早く死体検案を進めなければナマモノは腐ってうじが湧くのみ。故人の尊厳を守るためにも、アキヒロは仕事に専念する必要があった。
 発見場所が自宅やその近辺が多いお陰と言うのも微妙だが、身元確認は割とスムーズに進んでいた。
 検案した中のとある1人にアキヒロを掛かり付け医にしていたエミリア・マシマがいた。発見場所は半焼した自宅。運び込まれた時点で死亡推定時刻から随分経っており、皮膚は全体的に紫に変色していた。まだ容貌は崩れていなかったので、フユの顔認識データでエミリア・マシマだと判別できたが、見ただけではアキヒロも誰だかわからなかった。開けてみた口腔内は真っ黒な煤だらけで、喉の奥に火傷痕があった。他の外傷は特に見当たらず、髪の毛に隠れた傷もなかったので、火事に巻き込まれて一酸化炭素中毒で亡くなったとアキヒロは判断した。
ーー死亡に至るまでに一酸化炭素中毒なら失神する。亡くなる瞬間が辛くなければどんなに良いことかーー
 エミリアの口を閉じさせ、諸々の所見を端末に書き込んだアキヒロは遺体袋の封を閉めた。
ーーエミリアさんは姉のヘレナさんと2人暮らしで機械人形マス・サーキュはいなかったはずーー
 他の家から失火した火が燃え移ったのだろうかと、黒焦げになった区画のことをアキヒロは思い出した。燃え残った柱だけがぽつんぽつんと残っているだけの建物だった黒い物体を。
ーーヘレナさんの遺体はまだ上がってきていない……捜索が難航しているのか、そこにいなかったのかーー
 どちらにせよ、無事では済んでいまいと落ち込んでいく気持ちを無理やり切り替えてアキヒロは別の遺体の検案を始めた。

 死体検案の中で特に酷かったのは、機械人形マス・サーキュが運転手をしていた市内循環バスの事故の犠牲者だった。あまりの凄惨さにプロの法医学者だけが検案を勤めざるを得なかったほどの事件だ。
 発見した時には乗客を乗せたバスは道路沿いの商店に横倒しで突っ込んで燃えていた。燃料タンクを損傷して爆発したのだと言う。乗客に生存者も動ける機械人形マス・サーキュも誰もおらず、何人かは手足どころか全身がバラバラに吹き飛び、また何人かは重さですり潰された状態で発見されたのだそうだ。
 遺体も持ち物も全て燃えてしまい、軍警も電子世界を使用できないので乗客リストも入手出来ず、犠牲者の特定は難しかった。吹き飛んでしまったりすり潰された数人分の肉塊も判別が難しく、死体検案のプロである法医学者たちも頭を悩ませていた。
 アキヒロはその検案に直接関わらなかったものの、漂ってきた凄まじい悪臭が鼻について離れなかった。検案をした法医学の専門家も殊に緊張した空気をまとい、他の作業をしていた人にもそれは伝染して心身ともに余計に疲弊していった。

8月1日近辺 白髪三千丈

 ケンズでテロが起きてから約2週間が経過していた。まだナツヒロの遺体は上がらず、足取りも掴めず、軍警の資料でも行方不明のままになっていた。充電ボードごと何処かに消えたハルも行方がわかっていなかった。
 早期に上がった比較的綺麗な遺体の死体検案はほぼ完了していた。1週間を超えたあたりから新しく上がる遺体が腐敗によって原型を留めなくなり、2週間経過した現在では歯型や歯の治療痕を見る歯科的特徴を使った死体検案に切り替わった。
 その頃、歯科医師ではないアキヒロは検案の仕事を外されて野外病院での仕事を割り振られていた。遺体に囲まれていた時よりは幾分か楽な気持ちでアキヒロは患者に向き合えたが、治らない一生の怪我を負って放心状態になった人や1人だけ生き残った事を悔やむ人の姿はあまりに痛々しかった。
 人手が足りないのも資材が少ないのも相変わらずで、軍警医や軍の医療部隊に混じって仕事をしていると1日が終わる頃にはぐったり疲れていた。
 中でも体力と精神力を使うのは重傷者の治療と看護だった。自力で動けない患者ばかりなので、床ずれ防止、筋力低下防止、血栓予防なども含めて気を遣う必要が多い。
 この重傷者の区画でアキヒロは不思議な患者と出会った。
 ネビロス・ファウスト。昏睡状態で運び込まれた際に赤のトリアージを付けられ、現在に至るまで昏睡と昏迷を行ったり来たりしていた。呼吸がたまにおかしいものの、止まってはいないので呼吸補助のチューブが挿管されていた。
 中手指節関節が変色し極度に擦り減っていた事から何かを殴り続けた事は明白だった。その他に骨折も数カ所あるが命に別状がある程ではなく、心拍にも異常はない。瞳孔の対光反射もある。関節を叩いた時の自動反射もつねった時の反応も異常はない。
ーーこれで目を覚まさないのは……心的要因だろうかーー
 死亡者リストの中に同じ苗字の『ルミエル・ファウスト』という女性がいた事を思い出し、もしかしたら家族だったのかもしれないとアキヒロは思った。
 「ファウストさーん、床ずれ防止に動かしますよぉ」と声をかけたアキヒロの中で何かが引っかかった。
ーーファウスト……何処かで聞いた覚えがあったけど何だっけ……?ーー
 ネビロスを床ずれ防止の為に向きを変えたり褥瘡が出来ていないか確認しながら頭の隅で考えるアキヒロ。
ーーそうだ、うちの診療所を受診していた子供の思い出話で託児所の話を聞いたんだ。お母さんのお菓子よりずっと美味しい、とか言ってあの子は母親を困惑させてたっけなーー
 のほほんとした話を思い出して緊張が緩みそうになるのを頭を振って引き締める。
 ただ、話を聞いた当時のイメージと今目の前にいる人物があまりに乖離していた為に、アキヒロは同じ人物なのか確信を持てなかった。
 実を言うと、ネビロスが経口摂取できない代わりに点滴に繋がれているのを見て、最初はこの人に使った分の一部でもカレンに回して貰えていたらとアキヒロは思わずにはいられなかったのだ。でも、今はそういう問題ではないと思っていた。
 カレンの死因は大量出血によるショック死ではなく、脳挫傷血腫。
 とっくにカレンの遺体は火葬されているので、最後の時間を思い出してアキヒロなりに検証してみた結果だ。カレンが亡くなった瞬間を思い出すのも辛い事だったが、きちんと死因を特定する事が今カレンにしてあげられるせめてもの事だと思い、アキヒロは耐えた。
 意識が回復するくらいには全身の血液量が戻ってきていた事、出血性ショックなら直前まで話せるはずがない事、そして意識が無くなってから死亡までがあまりに早すぎる事。
 そこから出血性ショックに起因する死ではないのでは、と思い至った。
 カレンの焦点が合わなかった事、呂律が回っていなかった事、何度も短く寝ていたのが意識混濁で、顔を顰めていたのは傷ではなく頭痛の所為だとしたら。
 もし、腹部の大きな出血に気を取られて表面に出なかった頭部の傷が見過ごされたとしたら。脳の出血が起きていた事にアキヒロ自身も含めて誰も気付かなかったのなら。
ーーあってはいけない医療ミスだーー
 とは言え、あの混乱した現場の中で最善を尽くした事だけは信じたかった。最前線で働いていた軍警医や軍の医療部隊の人の苦労もわかるだけに、アキヒロは彼らを責められなかった。
ーーもし、設備の整った病院に搬送されていればーー
 今更とは言えアキヒロは悔やんでも悔やみきれず、「もし」と仮定の過去に囚われた心はずっとカレンの影を探して彷徨っていた。
 別の原因が見過ごされた結果の死であれば、輸液のストックが十分あったとしてもカレンの死は回避できなかった。それ故にネビロス1人を責めるのはお門違いも甚だしいわけだ。
 骨折の回復状況も診つつ、ネビロスの意識が回復した時に動けるよう、最低限の筋力を維持し骨が溶け出さないようにする為に足を動かし腕を動かし、看護師達と共に地道な理学療法をアキヒロは続けた。

 そして、もう1人。ネビロスの病床の近くに死なせてくれと誰彼構わず頼み込む老いた男性がいた。辛くも命は助かったものの、片足を失くした挙句に頚椎損傷で思うように全く動けない人だった。
「先生お願いです、死なせてください。家内も倅もみぃんな死んじまいました」
 言われたアキヒロは「僕の一存ではできない事なんですよ」「せっかく助かったんですし」と説得しようとしたが、その老人は頑なに受け入れなかった。
「この老ぼれが一人生きて何になると言うのでしょう……社会のお荷物になって生きていくのは耐えられません」
 自らを荷物と例えた事にアキヒロはゾッとした。例え体がそれなりに回復できても、この老いた男性の前に続いていく道にあるのは誰にも望まれずに生きる孤独感と地域社会からの乖離なのだと。
「どうか、死なせてください」
 そう語る老人の目に光はなく、倦怠と諦めの境地にいるような表情をしていた。
 翌日、その片足を失くした老いた男性は亡くなった。死因は心臓麻痺だったという。薬剤保管庫からアンプルが一つ消えたと騒ぎになり、看護師の1人が軍警に連れて行かれた。

8月4日 闇夜の灯火

 その日、勤務時間の終わりに重傷者の区画をアキヒロは見回っていた。夕暮れの蜜色の光が重傷者のビニールテントの中まで入ってきていた。
ーーこの人はいつか目を覚ます日が来るのだろうかーー
 未だ昏睡状態のネビロスを見てアキヒロは静かに溜息をついた。
 普通、脳の異常で昏睡状態になった場合は6時間以上経過した時点で回復が危ぶまれる。それ以外の理由だとしても時間がかなり経過している事を加味すれば、仮に意識が回復しても以前の通りには動けないかもしれないのだ。理学療法は続けているが、それでも限界はある。
 カルテに書き込まれた中に『状況証拠から機械人形を鉄屑同然になるまで殴ったのではないか』と書いてあった事を思い出し、なんとなしに事情を察したアキヒロの目に暗い光が灯った。
ーー何も知らず、死んだら……きっと楽だろうな。家族が亡くなった事も、自分がどんな状態になったかも知らないまま眠れるなら、それは幸せと言えないだろうか?ーー
 生き残った事を悔やんで死なせてくれと言った人の姿や酷い表情のまま死後硬直していた遺体の様子がアキヒロの脳裏をかすめていく。苦しみながら亡くなったカレンの顔も。カヤが縋って泣いた遺体のレイナの顔も。
ーー僕はカヤがいるからまだ死ぬわけにいかないけれど、この人に引き止める人なんていないならーー
 ネビロスと繋がっている点滴筒を見上げるアキヒロ。ゆっくり輸液の雫が点滴筒に落ちていた。
ーー薬剤保管庫に筋弛緩剤きんしかんざいが残っていたようなーー
 筋弛緩剤きんしかんざい。緊張性頭痛や痙攣抑制、更に全身麻酔にも使用する薬だが、使用法によっては呼吸不全によって死に至る毒物としての側面を持つ薬だ。
 昏睡状態から体調が転落していっても怪しむ人はいないだろう、と考えたところで薬が勝手に減ったら怪しまれるなとアキヒロは気付いた。
ーー植物由来の神経毒でも同じ作用が期待できるはずーー
 かのカルティア・リュシーが暗殺未遂された時の矢毒には狩猟に使う植物由来の神経毒が塗られていた、とナツヒロが得意げに言っていた事を思い出したアキヒロ。「探せばケンズなら何処かに生えているのでは」と考えながらネビロスのいる重傷者の区画を離れた。
 次の担当者との引き継ぎを済ませたアキヒロは野外病院から出たところで、1人の女性に声をかけられた。
「すみません、アキヒロ・ロッシ先生ですよね……?」
「そうですけど……何でしょう?」
 アキヒロの顔を見てどこか安心したような、それでいて泣きそうな顔になった女性は、カレンの同僚で助産師のエマだと名乗った。
「私も災害医療に参加してて……これまで忙しかったんです。話せなくてごめんなさい」
 頭を下げたエマがアキヒロに語ったのは、ケンズでテロが起きた日、カレンとエマが経験した事だった。
 その日の午前中、自宅出産を希望していた妊婦から破水したと連絡が入り、長く相談に乗っていたカレンとエマが妊婦の自宅に向かったのだと言う。出産自体は大きな問題もなく、母子ともに無事だったのだが直後その家の家庭用機械人形マス・サーキュが暴走。カレンとエマと赤ん坊の父親の3人掛かりでなんとか押さえつけて機械人形マス・サーキュのリセットボタンを押す事に成功したが、その際に父親が深傷を追ってしまったのだ。救急車を呼ぼうとかけた電話は繋がらず、応急処置だけで長時間待つのは無理だと判断したカレンは近所のアキヒロの診療所から資材を分けて貰ってくる、と家を飛び出したのだと言う。
「今日はいないんじゃないのって聞いたら『診療所のトイレの窓は壊れてるから』ってニヤッと言ったんですよ、カレン。あの子だって足を捻って痣ができてたのに。それで、そのまま帰ってこなかった……」
 そっと涙を手で拭うエマ。
 軍警と救急隊が到着した際、その一家は新生児もいると言うことでケンズ外の病院に搬送されたのだと言う。野外病院で見つけたカレンにあの一家の行方を手短に伝えると、一言「よかった」と言って満足そうに微笑んだのだと。
「診療所で何があったか話せる状況ではなかったので聞いてないのですが……あんな酷い怪我になるなんて、一体何があったんですか?」
 不安げに聞くエマの目を見ていられず、アキヒロはスッと目を逸らして伏せた。車両のヘッドライトが眩しい青く沈んだ周囲の様子は、カレンが亡くなった時間とよく似ていた。
「僕も聞いてないんです。会えた時には話すのもやっとの状態になっていたので……」
「そう、ですか……」
 残念そうに肩を落とすエマを見たアキヒロは、最期まで話すのをやめようとしなかったカレンの苦しげな声が耳に蘇るようだった。
「あの時、私が引き止めていれば……カレンはっ……!」
 両手で顔を覆ったエマの食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。
「カレン、なら。」
 溢れそうになる涙を必死に堪えるアキヒロは声が震えないように気をつけて口を開いた。
「やると言ったらやりますよ。誰が引き止めても。……執念深い、ですから」
 エマが涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、アキヒロの目元を赤く染めて涙を湛えた青緑の瞳と視線が合った。
「だから、エマさん、あなたは自分を責めないで下さい。あなたもカレンも立派に仕事を貫いたんです」
 エマに慰めを口にしながらアキヒロは「窓をもっと早く直して置くべきだった」と深く悔いていた。何処からも入れない状況になっていれば、鍵を持っていないカレンは診療所に侵入する事も暴走したハルに襲われる事も無かったのに、と。
 宙に浮いたままだった疑問が解決したアキヒロだったが、また別の影が心を圧迫した。
「カレンの事、教えてくださりありがとうございました」
 今は涙じゃない、心配しないように笑って言わなくちゃと無理に笑顔を作って言うアキヒロだったが、それを見たエマはアキヒロの表情にカレンが混じっているのがわかって余計に泣き出してしまった。
「折角です、最期にカレンが取り上げた子を見てあげてください」
 しゃくりあげて泣きながらもエマが取り出した端末の写真。写っている生まれたばかりの赤ん坊は、小さくて頼りなくて心許なかったが、間違いようのない生命の光を放っていた。カレンが多少の無理をしてでも守ろうとしたものはやはり、カレンらしいものだった。

 エマと分かれたアキヒロが避難所に戻ると、カヤは大きなリボンを頭に乗せてご機嫌だった。
「おかえぃアキくん。見て〜リボン!」
「ただいま、カヤ。リボン可愛いね、どうしたの?」
「あのね、うんとね……もらったの」
「そうなんだ、貰ったんだねぇ。誰に貰ったのかなぁ?」
「えっと……」
 あれ?と小首を傾げるカヤの後ろから「私です」と1人の女性が近づいてきた。
「あなたは……」
 ハッとした顔のアキヒロを見てその女性は決まり悪そうに眉を歪ませた。以前、カヤに「どうしてアンタは生きてるの」と人目を憚らずに言葉を投げつけた張本人だったからだ。
「その……あの時はすみませんでした。私も取り乱してしまって……あんなに呆気なく娘も夫も私を置いて逝ってしまうなんて受け止めきれなくて。だからってお嬢さんに八つ当たりするのは違うなって……」
 本当にすみませんでした、と母親に頭を下げられたアキヒロは目を丸くしていた。
「いえ、そんな……皆んな辛いのは一緒ですし……そんなに気にされなくても」
 しどろもどろに答えるアキヒロに母親は悲しそうに目を伏せながらカヤの方を見た。
「このリボン、うちの娘が使ってたものなんです。お嬢さんより幾分か年上だったんですけどね、せっかくなら誰かに使ってもらった方がって思って。」
 そう言った母親は疲れた様子ではあったものの、亡き娘のリボンを気に入って嬉しそうなカヤを見て口元を緩ませていた。
ーーそうか、この母親はもう家族の死を乗り越えつつあるのかーー
 問題に直面した時は乗り越えられない高い壁に感じるかもしれない。でも、壁は絶対乗り越えられないものではない。地道に登っても、梯子をかけても、壊しても、回り道をしても、壁の向こう側に辿り着く事はできる。
ーーたとえ一番苦しくない方法が諦めてしまう事でも、本人の意思が確認できないのであれば出過ぎた事かーー
 一種の悟りに至ったアキヒロの目から暗い光は消え、もし神経毒の植物を見つけてもネビロスに使うのはやめておこうと思った。

8月10日 不倶戴天

 安楽死を諦めた後も変わらずアキヒロは重傷者の区画にいるネビロスの治療をしていた。
 いつ目覚めるかわからない中での治療は果てしないものだった。最初同じ区画にいた人達も、徐々に回復して別の区画に移動したり、治療の甲斐なく亡くなったりとして、人数が減っていた。
 出来ることをやらねばと患者に向き合うアキヒロだったが、はたと気付いた事があった。
ーーなんで重傷者がまだ野戦病院にいるんだろう?ーー
 通常、大規模災害が発生した場合は現場で応急処置をし、野外病院ではトリアージをつけてもう少し応急処置をしてから近くの病院に割り振る。そこで手に負えないなら更に大きい病院へ搬送する、と手順が決まっている。それなのに、ほとんどの患者はケンズ外の病院に搬送されていなかった。ケンズ総合病院が被災して使えなかったにしても、ミクリカの惨劇が前日にあったにしても、扱いが酷いのではないかとアキヒロは訝しんでいた。
ーーネビロス・ファウストが昏睡状態で運び込まれてから数週間。何故この人は点滴に繋がれたままここにいるんだ?野外病院はその場の医療しかできない場所なのに、何故ちゃんとした病院に運ばないんだろう?ーー
 野外病院に勤務する医療関係者も何故か軍警関係者ばかりだったのもおかしい事だった。災害が起きればどこかのNPOなりの医療団体も協力にくるはずだが、アキヒロが会ってないだけなのか見かけていなかった。
ーーカレンもケンズ外の救護病院に指定されているところに運べば助かったはずーー
 「もし」「はず」の仮定の過去から伸びる手は抗い難く、鬱々とした影をアキヒロの心に落としていた。
ーー医療崩壊?それとも?ーー
 休憩室に置いてあったラジオからはミクリカの情報ばかりが流れ、ケンズの話題が登った事はなかった。CBC国営放送のニュース番組でもケンズの被災した様子は流れなかった。
 情報統制されているのは一目瞭然で、アキヒロは政府の隠蔽工作をふと疑ってしまいそうになった。だが、全ての事の発端は最初に電子世界ユレイル・イリュに汚染を撒いたギロク博士。アキヒロが大学受験の為に必死に勉強していた頃、年下なのに飛び級で大学を卒業し、一時期天才だと持て囃された人物だった。
 カレンを亡くしたアキヒロにはギロクの語る犯行動機の気持ちが痛いほどわかった。
ーーそれでも。
 死んで当然な人間なんて存在しない。誰にでも、どんな人にも、生きる権利がある。そして他人がその権利を奪っていい理由なんてない。ギロクが恋人に生きて欲しいと願ったように、ギロクが奪った命にも生きて欲しいと願う人がいる。
 ギロク博士は生きている人を自分が裁こうと言うのだろうか?
 しかも、こんな苦しむ方法を使うなんて残酷にも程がある。
 確かに人間が種として地球環境を壊してきた事実はあるだろう。人間同士がいがみ合って憎み合って起こした戦争も数知れない。
 でも、それはカレンが死ぬ理由になんてならない。まだ幼いカヤが両親を亡くす理由にもなってない。病原菌が地球の一部なら、人間も含めて地球の一部なのだから。
 破壊は何も生まない。作る気がない破壊は自らをも滅ぼしてしまう。
 報復で解決すると本気で思っているのだろうか……否、本気だから事件を起こしたのか。ーー
 自らが滅びようとも報復を望むギロクの在り方はあまりに寂寥感ばかりで、それ故にアキヒロの中に憎悪が生まれた。生きたいと願っても届かない人がいると言うのに、自己都合に巻き込んでいくギロクがアキヒロは許せなかった。
 そして、大きな災害の前での己の無力さも悲しかった。
「命を救う、なんて烏滸がましいね。微力な手伝いしかできないのに」
 溜息と共に呟くとこの3週間ほどの疲れが押し寄せてくるようだった。
 ふと「それでも、精一杯命に寄り添うのが大事なんじゃない?」とカレンの声が聞こえるような気がした。何だっけ、と思い返してみると癌患者の緩和ケアについて考えていた時にカレンが言った言葉だった。
 手すりにもたれて天を仰ぐアキヒロ。
ーー今でもカレンは僕の光だーー
 迷いがある時、カレンなら何と言うだろうかとついアキヒロは考えるようになっていた。生きて隣りで笑っていた頃はそんな思考は無かったのに、だ。
 もう一度溜息をつくアキヒロ。その様子を見ていた人物がいた。
「すみません。随分お疲れのようですけど……大丈夫ですか?」
 唐突にアキヒロに声をかけたのは真っ直ぐな瞳をしたスーツ姿の人物だった。
「あぁ、いえ、ご心配ありがとうございます。大丈夫です……えー、どちらの所属の方ですか……?この区画は医療関係者以外入れないのですが……」
 医療関係者に見えないスーツ姿の相手に怪しむ視線を向けるアキヒロ。
「あ、すみません!えっと、わたしはフィオナ・フラナガンと申します。マルフィ結社の者でして、ケンズの悲劇の調査で特別に許可をいただいてこちらの区画にお邪魔させて頂いています」
 にこりと笑ってその人は首から下げた許可証をアキヒロに見せた。
「マルフィ結社……?」
 アキヒロに力強く頷いたその人は、ギロク博士の起こした事件に対抗する為に新たにできた民間組織だとアキヒロに語った。立ち上がったばかりで知名度も低いので、色々なところで情報を流してもらっており、人もまだまだ少ないので、事件調査をしながら勧誘や協力者探しもしているのだと。
「そもそも人と機械人形マス・サーキュは一緒に暮らしてたわけですから、また安全な存在になれるはずなんです」
 鼻息荒く語るその人は機械人形マス・サーキュと暮らせる未来を固く信じ、目を輝かせていた。
「安全、ですか……機械人形マス・サーキュの汚染は消せるものなんですか……?」
「えぇ、今その為のツールを開発中です。電子端末が汚染されているかどうかのチェックならすぐできますよ」
 ケンズに着いた時から充電もせずにずっと置きっぱなしになっているフユと、行方不明になったハルの事がアキヒロの脳裏に浮かんできた。
「マルフィ結社はこれ以上ギロク博士の好き勝手になんかさせません」
 堂々と言い切ったその人は確信を込めて微笑んだが、見ていたアキヒロは寂しそうに眉を下げた。
「そうですか……良い活動だとは思いますけど、生憎僕はツテもあまりないですし、工業分野にも明るくないのでお力にはなれないと思いますよ」
 その答えに結社の人はイヤイヤ、と手を振った。
「それぞれに出来る事は限られていますから。それぞれが出来る事を持ち寄ってマルフィ結社は成り立つんですよ」
「出来る事ですか?」
「はい。例えば、単発で起きるテロ鎮圧の裏で救急隊が来るまでの間に被害に遭われた方の応急処置をする役があるとすればどうですか?」
 その言葉を聞いたアキヒロの眼に閃きにも似た凄絶な光が刺した。仮に心停止した場合、最初の6分間での対処が明暗を分ける場合が少なくない。
「そういう守りの立場で被害を減らす活動にご協力いただければ嬉しいです」
 アキヒロの反応に好感触を抱いた結社の人が人員募集用のチラシを見せる。
 マルフィ結社の掲げるものは理想論と言えばそうだったが、投げ捨てるには惜しいほど生命の光にあふれていた。ケンズが被災した後からほとんど見ることがなくなっていた光だ。
 カレンなら、と考えたアキヒロが思い出したのは「人の役に立つ、って必ずしも答えが一つって事はないんじゃない?」とテレビで国会中継を見てカレンが呟いていた事だった。
 「検討してみます」とチラシを受け取って眺めるアキヒロ。
 正直、野外病院の仕事には行き詰まった感覚のある疲れが出ていた。ギロクが身内や知人達をことごとく奪い去っていった事への怒りも喪失感も行き場をなくして渦巻くばかりだった。
ーー気持ちを整理して『人の役に立つ』には今はきっとこれが最良の方法なんだろうなーー
 診療所の後片付けも、カレンの両親への報告も、カヤの今後の事も、ナツヒロの行方を探す事も、やらなければならない事はたくさんあった。
それでも、アキヒロはまず生命の光をまとったマルフィ結社という場所を知りたかった。

 カヤの手を引き、フユを連れ、カレンの遺髪とレイナの遺髪も携えたアキヒロは新たなスタートに立っていた。不安そうに見上げるカヤにここならきっと大丈夫、と微笑んでみせる。
 その日、8月12日。
 マルフィ結社へ、ようこそ。



 ナツヒロがなぜ、カヤを置いて行方不明になったのか。
 それはいずれまた語る事としよう。