薄明のカンテ - 崖の下の挿話/燐花
 物心のついた頃にはこの醜い世界が全てだった。
 盗み、暴力、殺しですら横行しているこの世界が私の全て。
 ある時、何の気なしに長い物に巻かれて、そいつに盗みを命じられ遂行した時、 褒美を渡される瞬間にそれは起こった。
「お前は?名前は何だったかな?」
「なまえ」
「無いのか?せっかくこんなに盗んで来れたのになあ。名 前も無い程卑しい子供には給金は与えられんなぁ」
たったそれだけの理由だが、取り分が全て消えた。やはり名前が無いと言うのは不便だ。私はその日からヴォイドと名乗る事にした。
 ヴォイド・ホロウ。虚しい人間と言われ続けたからこそチラついていた単語をただ貼り付けただけ。もう少しマシな名前をと言われた事もあったが、固有名詞がある便利さを早く欲すればその辺りはどうでも良かった。
 私はこう言った出来事が起きる度色々と学ぶ。
 名前が無いと不便と言う事、私の体で金を稼げると言う事、学びを怠るとすぐ搾取されると言う事。
人より物を知らないと言う事は、この世界ではそれだけ相手に隙を見せてしまう。 つまり、ゆくゆく自分の損になるのだ。
 体を売るのは簡単だが、一生ものの稼ぎには出来ない。需要と供給の関係もあるし、何より私が病に倒れたら商品として使えなくなる。
 ここには余裕の無い人間しかいないからとは言えど、サービスを求める客の目線としては貧富の差関係なしに皆平等に飢えている。早い内に新たな稼ぎに着手しなければと思っていたら、珍しい身なりの男性が倒れているのを見付けた。 白衣に医療カバン、しかもカバンの中には見た事のない薬品や金が入っている。気絶してる内に金だけ取り出して逃げても良かったが、私は継続的に衣食住の確保が出来るビジョンを頭に浮かべ、そんな未来に投資をしようと彼を助けた。
 彼は、一般的なミクリカに住んでいる人間で医者だった。定期的に岸壁街に足を運んでは無償で治療をしているらしい。
 この日は入り組んだ街に足を取られ、 転んで動けなくなったところに私が通りかかったそうだ。彼は大層私に感謝し、そして医療を学びたいと言う私に感激し、 その日から私の師となった。
 人に慕われると、人間はここまで心を開いてくれるものか。彼は私が盗みを働いた時、身を呈して庇ってくれた上、金までくれた。医学の勉強を終えるまでそれ以外の事はしなくて良いと言うのだ。金と庇護者とそれによる信用の確保が出来た。
 しかし、それも長くは続かない。彼はある時病に倒れた。私は昼夜を問わず必死に看病した。 金も庇護も信用も、 彼が生きてこそ成り立つのだから。
「ヴォイド……君は熱心だな……」
「無理に喋らないで先生。体に障る」
「体に障るか……出会ってすぐの頃はそんな言い回し使わなか ったな……知らなかったものな……なあヴォイド、 君はそのまま、熱心に勉強を続けてくれ。 一生の宝になる」
 彼は喋れなくなるまでずっとこの言葉を口にしていた。
 彼が亡くなって人々は悲しみに暮れた。主に、彼が熱心に診察をしていた売春婦や孤児達は彼を「親父」と呼び涙を流した。
 私は生前彼の往診に助手としてついている事もあり、この地区の闇医者として認識されるのに時間は掛からなかったが、弊害もあった。
「定期健診の結果だけど、見る限り特に問題ないよ。まあ、定期健診だからね。 定期的にやる事に意味があるから」
「ん。ところでヴォイド。アタシお金無いんだけどこのまま帰って良いわよね?」
「良いわけない。診察費は払ってもらう」
「はあ!?何でよ!?先生は無償でアタシら診てくれたのよ!?」
「私は無償では診ない。そんな財力ない。文句あるなら無償でいい加減な診察してくれる医者にでも行けば良い」
 彼のそれは、ある意味金持ちの道楽だったのかもしれない。
 奥さんとも死別し子供が居なかったなんて話も出ているから尚更私が全て相続したとでも思ったのだろう。 残念ながらぼっと出の人間に全てを譲る程彼はお人好しで無かったし、私自身信用されていなかったはず。彼は気紛れにスラムに住む女に知識と幾ばくかの金を与えると言う「善行」を生きている内にやっておきたいと思い立っただけだ。
 私に無償のサービスを求められ担否をすれば刃傷沙汰。金を取る事の意味を理解し、私が医療をビジネスとしていると納得されるまでそれは続いた。刃先を喉元に向けられても私は折れなかった。
 彼がそうだったからと言われるまま先立つ物もなく無償で手につけた職を大盤振る舞いして永劫搾取されるより、都度医療をビジネスとする主張と死の危険を天秤にかける方が私にとってはまともだったからだ。
 刃を向ける者も減ってきた頃、私にとってのビジネスは方向を少し変えた。
 治す、と言うのは人それぞれ意味が違ってくる。 それを実感する治療が増えたのだ。
「ヴォイド、コイツ頼むわ。 俺のダチなんだ。このままにしておきたくないんだよ」
「良いよ。ただし、 この誓約書にサインして。 何があっても私には責任追及しない。それを残しておいて」
 友を廃人にしてくれ。そんな依頼は多々あった。 麻薬密売組織の下請けの多いここでは体の傷もそうだが心の傷が深刻だった。重度のPTSDに心を蝕まれ、 今までのように戻る事が出来ない友を連れてくる人間が多かった。
「ヴォイド、女を五人程連れてくるから頼む」
 薬で根気よく治す方法も一応ある事は伝えた。 しかし往々にして拒否される。何故ならそんな時間を掛けられる余裕も、金銭を掛けられる余裕も彼らには無い事が多いからだ。 何より、麻薬密売組織の存在をすぐ近くに感じているからか薬に対する印象が治すものとは違うのだ。
 私はこの様な依頼がある度にアイスピックを握った。 麻酔の代わりに電気ショックを頭に浴びせ、眼窩から挿入する。それだけで、人を廃人に変えてしまうが効果はまちまちだ。
「良いよ。じゃあ誓約書にサインしておいて」
 売買に使う商品になった人間に施す様頼まれる事も多い。奇しくも町民から嫌悪される麻薬密売組織は生活の中枢にいたのだ。人々は生活する為の金、仕事を彼らからもらったり時には彼らのばら撒く薬を求めたり、 それでいて「悪い物」と言う認識があるのか彼らを嫌悪したが、私にはどうでも良かった。
「疲れた……」
 白衣だけを脱ぎ、そのまま風呂に飛び込む。
 普段身に付けているのは白衣、ネグリジェ、水着、ストッキングだけだ。そのまま洗えるし、洗濯の手間もかからない。
 見た目も肌の露出だけを見ればそこまででは無い為錯覚を起こせると言う点も重宝している。やはりよくよく見られて襲い掛かってくる者もいるが、金を払わないなら今の私にとって体を売るのはリスキーなのでそんな仕事はしない。そう言う時は伸ばされた手にアイスピックを突き刺せば沈静化出来てる。昔みたいに殺す必要がないと言うのは気が楽だ。
 躊躇わずに先制する事でイニシアチブを取れれば割りと平穏に衣食住の確保を確固たるものに出来るのだ。
 私は闇医者。普通の医者とは違う。 師匠は真っ当な医者だったが、彼が死んでこの地に順応した働き方を模索したらこのやり方に行き着いた。
 PTSD患者から一瞬でいを払ったり、商品として出す予定の人間から自由を奪ったり、 治療を求めに来た人間をカルテなしで治療したり。 無法地帯ならではのその場しのぎの治療が私と言う間医者のやり方だ。ここでは盗み、 殺し、搾取が目にも留まらぬ速さで 行われる。だからこそ、私の治療法も瞬く間に行われるものが好ましい。
 ほら。あのテロの時も。
 住処を奪われるのは一瞬だった。私はまた搾取される側に居た。だから私は、私を救う手を早める。
「ヴォイド・ホロウ。 医療班への配属希望。免許は無いけど処置なら出来る」
「とは言え……岸壁街のかなり下層のスラムから来た人間か……」
「最下層の人間は麻薬密売組織との関係の深さも指摘されるしな……」
「確保したいのは衣食住。それを手放す可能性のある行為を行う程馬鹿ではないよ」
 次の投資はここ、マルフィ結社。


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