薄明のカンテ - 花細し/べにざくろ



静の巨人、動の巨人

 あ、今日もいた。
 お昼ご飯を食べようと食堂に足を踏み入れたウルリッカは“ 彼 ”を見つけて足を止めた。お昼時の食堂はそれなりに人も多く混み合っているが、その中でも彼は目立つ。
 理由は至極単純だ。彼がとても大きいからである。
 殆どの人間が自分よりも大きい存在に見えるウルリッカであるが、その中でも青みがかった黒髪の彼は特に大きかった。あれだけ大きい熊だったら狩ったら楽しそうだろうなぁ、と若干ズレたことを思いながら食事を受け取る列に並ぶ彼を見つめる。
 その時、背中に衝撃と「 おう、ごめんなー! 」という明るい声がして青い彼を見つめていた目を後ろに向けた。そこに立っていたのは先程まで見つめていた彼とは対称的な橙色に近い茶髪の男性だ。どうやら入口にウルリッカが突っ立っていたせいでぶつかってしまったようだ。しかも彼もまた青い彼と同じように大きくて、きっとぶつかるまでウルリッカなんて視界に入っていなかったに違いない。下から見ているからなのか顎髭が凄く印象的な明るい雰囲気の彼は確か前線駆除リンツ・ルノース班の人で、ウルリッカにとっては狩猟仲間のヘレナと一緒にいるところを見たことがあった。
 青い彼が静の巨人なら、こちらは動の巨人といったところか。
 そんなことを思いながら「 大丈夫 」と伝えるために首を横に振って動の巨人へ道を譲る。
「 おお!? 悪いな! 軍師さん、行くぞー 」
 そう言って楽しそうに歩いていく動の巨人。彼が印象的すぎて見えていなかったが、どうやら巨人には連れがいたらしいとウルリッカは彼の言葉でようやく気付く。巨体に隠れる小柄な「 軍師さん 」と呼ばれた黒髪眼鏡の大人しそうな男性はウルリッカに会釈してから動の巨人に付いていった。確か彼もヘレナと一緒にいるところを見たことがあった気がするから、同じ第四小隊の人なのかもしれない。そんなことを思いながら彼等に続いて食事を買う為の列に並ぶ。
「 モナちゃん、こんにちは! 」
 前の方ではふわふわの金髪の男が幾分か上擦った緊張した声で配膳に勤しむヒギリに声をかけていて、ヒギリがそれに笑顔で返している姿が見えた。食堂の利用が多いウルリッカは彼女とそれなりに会話をする仲であり――スリーサイズの一番上のパーツにおいて親近感があったこともある――彼女の笑顔がいつもより嬉しそうに見えた気がした。それはウルリッカの勘違いだろうか。
「 あ、エリックさん! 」
 うん。勘違いだったみたい。
 ヒギリは金髪男子を見送って何人か捌いた後に順番が回ってきた「 軍師さん 」にキラッキラの笑顔を向けていた。どうやら「 軍師さん 」はエリックという名前らしい、とウルリッカはヒギリの声で理解する。
 二言三言、エリックと笑顔で言葉を交わして彼に食事を渡した後、ヒギリの紫色の目がウルリッカを捉えた。だから挨拶もそこそこにウルリッカは口を開く。
「 今の人のこと、好きなの? 」
 ウルリッカはいつでも言葉が直球だった。
 ヒギリは顔を赤くして否定するように手を振る。
「 ファン!! ファンなの!! 」
「 ファン? 」
 確かその単語を別の砂漠色の髪の人に向けているのを聞いたような……と思いながらヒギリを見るとウルリッカの顔にその疑問が書いてあったようで「 どっちもファンなの 」とはにかんだ笑みが返ってきた。乙女心は難しいものである、と思いながら食事を受け取ったウルリッカは後にも人が並んでいたのでヒギリへの追求を諦めることにした。
 そして、食事を手にしてぐるりと食堂を見回した。今日はお昼時真っ最中に来てしまったから、どこも混んでいて空いている席がなかなか無い。
 しかし、そこは狩猟で鍛えられた視力の良さのあるウルリッカだ。ポツンと空いた席を見つけると獲物を見付けた時のように躊躇うことなく向かっていく。
「 ここ、空いてる? 」
「 空いてるけど…… 」
 それは食堂で最初に見つめていた静の巨人の前の席だった。
 許可を得てさっさと座ったウルリッカはじっと彼を見つめる。椅子に座っていても彼はやはり大きいなぁ、なんて思いながらも本日の昼食の汁麦ジュ・バツを口に運ぶことは止めない。
 そのうちウルリッカよりも先に食事を始めていた静の巨人はデザートにとりかかりだす。今日も彼はプリンを食べていた。

 大きな身体の男の子が毎日のようにプリンを食べている。

 それがウルリッカが静の巨人を目で追うようになった理由だった。
 彼のプリンを食べる観察日記をつけても良いくらい、彼はよく食堂でプリンを食べていた。表情を変えることも無く黙々とプリンを食べているだけなのだが、その姿が何だか可愛らしく見えて、ついついウルリッカは彼を見てしまう。
 普通の人ならこれだけ見つめられていたら視線が気になるだろうが、彼は全く気にした様子を見せなかった。あっという間に今日のプリンであるミルクプリンが彼の体内に消えていく。
「 プリンあげる 」
「 え? 」
 自分で食べようと思っていたプリンをウルリッカは彼に差し出した。
 いきなり初対面の女にプリンを差し出された彼は驚きと警戒の入り交じった目で見てくるが、ウルリッカはそんな視線を気にするような女ではない。
「 プリンが君に食べられたがってたから 」
「 ……ありがとう? 」
 結局、彼は警戒心よりもプリン愛が勝ったのかプリンを受け取ってくれた。彼がウルリッカのあげたプリンを食べるのを見て、ウルリッカの表情が和らぐ。
 弟ってこんな感じなのかな。
 ウルリッカは三兄弟の末っ子である。兄は二人もいるけど弟妹はおらず昔は欲しくてたまらなかった時期もあったから、勝手に弟の面倒を見ている姉気分を味わう。
 彼がプリンを食べ終えた時、ウルリッカはプリンを食べなかったのに満足した気分だった。だって念願のお姉ちゃん気分を味わえたから。
 それを見届けたウルリッカは席を立つ。自分のお昼ご飯はとっくに胃の中だ。
「 俺、シキ・チェンバース。調達ナリル班 」
 さっさと立ち去ろうとしたウルリッカに静の巨人ことシキが名乗る。名乗られたら名乗り返さなければ失礼だろう。
前線駆除リンツ・ルノース班第六小隊、ウルリッカ・マルムフェ。ウルでいいよ 」
 それだけ言って今度こそウルリッカはシキの前から立ち去る。
 巨人さん、シキって名前なんだ。と思いながら。

沈んだ心、浮かれた心

 軽やかな足取りでマルフィ結社の廊下を進むウルリッカのポニーテールが今日も浮かれた気持ちを示すように揺れる。
 彼女が向かっているのは崇拝するユウヤミ・リーシェルの部屋だ。理由は良く分からないけれどシリルに「 隊長が呼んでるわよー 」と呼ばれたのだ。シリルが呼びに来た時に余計なオマケで兄のアルヴィがくっ付いてきていたが、それは完全に無視をしてやった。ユウヤミに呼ばれたという楽しい気分に水を刺されては仕方ないからだ。
「 隊長、呼び……? 」
 ユウヤミに呼ばれた部屋の扉を開けたウルリッカは目を丸くした。
「 ヨダカの子供……? 」
 呟くウルリッカの目に飛び込んできていたのはユウヤミが抱いているヨダカと同じ髪色の子供の後ろ姿だった。
機械人形マス・サーキュに子供は出来ませんよ 」
「 じゃあ、その子は何? 」
 呆れたようにユウヤミの後ろに控えているヨダカが呟くとウルリッカは疑問を彼等にぶつけた。そんな彼女に喉の奥でくつくつと笑ったユウヤミは抱いていたヨダカの子供(仮)を顔が見えるようにウルリッカに向ける。その子のヨダカと同じ金と銀の虹彩異色症オッドアイとウルリッカの目が合った。しかし目が合ったと思ったのはウルリッカだけだ。ユウヤミが抱いていたヨダカの子供(仮)は、ぬいぐるみだったのだ。
「 良く出来ているだろう? 」
「 うん 」
 ヨダカぬいを見つめてから呆れた顔をしている本物のヨダカを見つめて、本当に良く似ているなぁとウルリッカは感動しながら目を輝かせる。
 その目を見ていたヨダカは彼女がこの顔をしているのを見たことがあると過去の記録映像から記録を呼び起こす。今のウルリッカの顔は、ユウヤミとヴォイドを追跡して訪れたミクリカ食い倒れ祭で鹿肉と猪肉のハンバーグステーキというジビエ料理を見た時の表情に酷似していた。つまり、彼女はこのヨダカに似て作られたぬいぐるみが欲しくてたまらないのだ。
( ウルがこの反応をすることを分かっていて見せているのでしょうね、この性悪主人マキールは )
 未来予知の如く人の行動を予測することに長けたユウヤミが分かりやすいウルリッカの反応を予測していない訳がない。しかし、ヨダカはユウヤミがこれをウルリッカに渡さないことを既に知っていた。
「 マルムフェ君には、お使いを頼もうと思って 」
「 おつかい? 」
 ヨダカぬいから目を離さないウルリッカがオウム返しに言うとユウヤミは頷く。
「 コレを総務部のフィオナ・フラナガン君に届けて貰いたいんだよねぇ 」
 ウルリッカの目から光が消える。
 ユウヤミの言う“ コレ ”とはヨダカぬいのことである。それを、フィオナに? 確かに彼女はヨダカのことが好きで好きで『 しろいの 』とか良く分からないことを言っている人だけど、何でコレをフィオナにあげるんだろう? 私だって欲しいのに。
「 お使い、やってくれるよね? 」
 だけどウルリッカにとってユウヤミのお願いは絶対のことだから「 嫌 」とは言えない。
「 はい。お使いします…… 」
 ションボリとしながら紙袋に仕舞われたヨダカぬいをユウヤミから受け取る。ヨダカのぬいぐるみ。ユウヤミが作ったヨダカのぬいぐるみ。
 恨みがましい目でユウヤミを見ることは憚られたので代わりにヨダカをじっと見つめておく。あ、逸らされた。
「 よろしくね 」
 満面の笑みでユウヤミが駄目押しのように言ってくるので、死んだ魚のような目でウルリッカは頷く。
「 ……行ってきます 」
「 うん、いってらっしゃい。くれぐれも、そのぬいぐるみはあまり人目に触れないようにしてくれ給えよ 」
 ユウヤミにヒラヒラと手を振られ、ウルリッカはポニーテールすらしょんぼりとさせてヨダカぬいぐるみの入った紙袋を手に部屋をトボトボと後にした。

 * * *

 何であろうとユウヤミの命令は必ず果たさなければならない。
 そう思ってフラフラと総務部の部屋へと向かうウルリッカ・マルムフェの目に見慣れた赤っぽい黒髪と薄緑の髪の二人組が映った。
「 エドゥ……ガート…… 」
「 何シケたツラしとん? 」
 近付いてきたガートはウルリッカの持つ紙袋の中身を見ると露骨に顔を顰めた。自分の機械人形マス・サーキュがそんな顔をするのでエドゥアルトも同じように覗き込んで同じ顔をする。
「 何なん、これ 」
「 ヨダカのぬいぐるみ 」
「 それは見れば分かりますけど…… 」
「 隊長の手作りだよ 」
 そう言った瞬間、「 さすが先輩! 」とエドゥアルトから声が飛んだ。気持ちは分かる。このヨダカぬいぐるみ、すごく精巧に出来ててとても素敵だもの。
「 ユウちゃんに貰ったん? 」
 あまり表情の変わらない顔のウルリッカにしては珍しい暗い顔でガートの問いに首を横に振る。
「 総務部のフィーに届けに行くの 」
 言った瞬間、一人と一体はウルリッカの暗い表情の理由が分かって納得した。「 あー…… 」と、どちらともなく何とも言えない声を出す。
「 あの、何て言ったら分からないですけど……頑張ってください 」
「 総務部の場所分かるか? ここを真っすぐにドーンと下って、2つ先の角を左にシュッと曲がってドンつきを右にトコトコ歩いた先やで 」
「 大丈夫。忘れてない 」
 頷いて、一人と一体と別れたウルリッカは再び歩き出す。
 その足取りはやはり見るものを不安にさせるもので、エドゥアルトとガートは彼女が無事に総務部に辿り着くことを祈る他なかった。

 * * *

 足取り重くウルリッカは進む。するとガート曰く「 真っすぐにドーンと下って、2つ先の角を左にシュッと曲がる 」所で子供達の声が聞こえて咄嗟的に立ち止まった。
「 えっへへー! あたしがいちばーん! 」
 野生の勘で立ち止まっていると、赤レンガのような髪色をした女の子が追いかけっこでもしているらしく勢いよく飛び出してきた。そのまま歩いていたら衝突していたことだろう。ぶつからなくて良かったと安堵しながらウルリッカは女の子の脇を通り過ぎていく。
「 結社の建物の中で追いかけっこは禁止だよ! 」
 沢山の子供達にまとわりつかれたエプロン姿の男性が女の子に向かって声を張り上げると女の子が「 ごめんなさーい! 」と元気に笑う。子供が元気なのは良い事だと思いながらも、保育部の男性に目を走らせて彼は大変だなーとウルリッカは呑気に思った。
 保育部の集団を上手く躱してガート曰く「 ドンつきを右に 」曲がると、そこを歩いていた女性が目に入ってウルリッカの死にかけていた目が光を取り戻す。
「 姫様!! 」
 廊下を歩いていたのは愛する貴族のサリアヌだった。今日も優雅で歩く姿はまさに百合の花のよう。
「 御機嫌よう 」
「 こんにちは、姫様 」
 微笑まれるとついつい同性ながらもうっとりと見つめてしまう。貴族万歳。いや、でも同じ貴族でも服装からしたら王子様っぽいギルバートを見てもここまでうっとりしないから、これはもはやサリアヌの人をうっとりさせる才能に違いないと、微妙にギルバートに失礼なことを思う。
 気品溢れるサリアヌと会えて、ちょっとだけ気分が浮上した。
 頑張ってお使いをちゃんとこなさなきゃ。そう思いながら総務部の部屋のドアをノックして開ける。
「 フィー、いる? 」
 声をかけつつ見回すとフィオナはいなかった。席にいた人にフィオナの行方を確認すると、どうやら彼女は休憩中で休憩室に行っているらしい。
 ヨダカぬいぐるみを真面目に仕事をする総務ロル・タシャ班の部屋で出す訳にはいかなかったし、ユウヤミから『 そのぬいぐるみはあまり人目に触れないようにしてくれ給えよ 』と頼まれているのだから、此処でフィオナに見せる訳にはいかなかったので丁度いいと思ってウルリッカは休憩室へ向かう。
「 さあ、メドラーさん!! そんな訳で髪を染めましょう!! 」
「 ごめんな、フィーちゃん。俺にはどんな訳だか全く分かんねぇ 」
 休憩室を覗くとフィオナのシナモンのような美味しそうな色のボブカットが目に入った。そんなフィオナに詰め寄られているのは見知らぬ砂色の髪の男だ。
「 ではせめてその三つ編みを切っていただければ、より一層ジョアモニが楽しめるんでお願いしていいですか? 」
「 いやいや、これは俺のアイデンティティーだから可愛いフィーちゃんのお願いでも切らねぇよ? 」
 慌てる男の深青の目が、ふとウルリッカの存在に気付く。
「 フィーちゃん、フィーちゃん 」
「 何ですか? 」
「 多分、フィーちゃんにお客さん」
「 え? 」
 振り返ったフィオナの美味しそうなカフェオレ色とコーヒー色の目がウルリッカを射る。
「 マルムフェさん。どうしたんですか? 」
「 よし。じゃあ、俺は休憩時間も終わるし帰るから! 」
 助かった、と小さく呟いて男は休憩室を出ていく。男が出て行った休憩室には他に人がおらずウルリッカ的に好都合だった。
「 隊長からお使い 」
「 くろ……リーシェルさんから、わたしにですか? 」
 何だろう、と小首を傾げるフィオナにウルリッカは頷く。
「 これ 」
 早速、紙袋をフィオナに突き出して渡す。突き出されたフィオナは不思議そうな顔をして受け取ると、紙袋の中身を見て表情を一変させた。袋から取り出したヨダカぬいぐるみを驚愕の表情で見つめると、感激と興奮で震える手でありとあらゆる角度から眺め倒す。
「 これは神の偶像か何かですか……? デフォルメされているのに立派なしろいの……いやいや、ヨダカさんにそっくりじゃないですか。あ、髪の毛はちゃんとくじら繊維工芸の耐熱繊維を使ってる……ということは、これはヨダカさん御本人と全く同じ品番の物なのでは!? え、それはつまりヨダカさんの髪の毛を公式から供給されたということ!? 何それ、わたしどんな善行積みましたっけ? それとも明日死ぬんですか、わたし!? あー、もう本当に可愛すぎてお迎えが来そう。嘘、もう限界。今までありがとうございました。生物的には生きているけど、精神が尊さで浄化されて死にそう。嘘嘘、まだ死ねない。わたし、この子を置いて死ぬなんて出来ない!! 」
 ウルリッカにはフィオナの言っていることが全く理解出来ない。でも、フィオナがとっても喜んでいることだけは分かる。
「 良かったね、フィー 」
「 はい!! ありがとうございました、とお伝え下さい!! 」
 ヨダカぬいを抱いて頬を紅潮させているフィオナは本当に可愛らしくて喜んでいる感情がビシビシと伝わってきて、彼女にヨダカぬいが渡されて良かったと思う。きっと、ヨダカぬいも本望だろう。そう。きっと私が貰うよりヨダカぬいも本望……。
「 マルムフェさん? 」
「 それ、人目に晒しちゃ駄目だって隊長が言ってたから気を付けて 」
「 えっ!? そうか……ダイヤちゃんにも見せられないのかぁ…… 」
 残念、と呟くフィオナにくれぐれも人に見せないように念を押してウルリッカは休憩室を後にする。ちゃんと渡せたこと、隊長に報告に行かなきゃと思いながら。

舞い落ちる花弁、見上げるは青空

「 中庭の桜が綺麗に咲いてきたらしい。エル、見に行かないか? 」
「 そうね。それくらいなら後で時間が作れそうだわ 」
 肩を落としてトボトボと廊下を歩くウルリッカの耳に入ってきたのは、そんなカップルの会話だった。二人とも瑠璃色のスクラブを着ているから医療ドレイル班の人間なのだろう。
 彼等が去っていく様をぼんやりと見送ったウルリッカは彼らの言っていた桜でも見に行こうと思い付く。花だけが咲き誇る桜はカンテ国でも人気が高い。ウルリッカの暮らしていた山の中にも桜があって綺麗だった。
 綺麗なものを見たら心が癒されるかもしれない。
 そう考えて中庭へと足を進める。途中、赤毛が見えて兄かと思い警戒するが、それは前線駆除リンツ・ルノース班のロナ・サオトメだと気付いて会釈して通り過ぎた。その隣には同じような赤毛をツインテールにした女性もいて、ひょっとしたら兄妹だったりするのだろうか。全然、似てなかったけど。
 中庭に出ると、室内とは違う日光が眩しくて目を細める。
 さて、桜はどこだろう。
 あまり中庭に来たこともなければ、当然ながら木をじっくり見たこともなかったウルリッカは桜を探すために光に少しずつ慣れてきた目を辺りに向ける。そして、見回したウルリッカの目が一本の桜の木に縫い止められた。
「 すごい…… 」
 マルフィ結社が出来るずっと前から、いや今、結社が使用している建物ができる前からそこにあったのであろうという年齢を重ねた見事な白い桜がそこにはあった。
 見事な桜にしばらくの間見惚れていたウルリッカだが、ふと今の季節に桜が咲くだろうかということに気付く。中庭には上手く日光が入るように建物が設計されているらしく桜にも日光が良く当たっているが、それにしても咲くのが早すぎはしないだろうか。
「 ウル! 」
 悩みながら桜を見つめていると聞き覚えのある声が自分を呼んだ。声の方向へ顔を向ければ「 ウルも桜を見に来たですのー!? 」と声を上げながら近付いてくるヘレナと、それを呆れたような顔で見つめるユリィ、それに楽しそうな笑みを浮かべた薄紅色の髪の機械人形マス・サーキュが歩いてくる姿が見える。
「 ヘレナとユリィと…… 」
「 あたしはヘラって言うさねぇ 」
 そう言って柔らかい青緑色の目を細めて微笑むヘラに、思わずつられてウルリッカの表情も和らいだ。
「 三人で桜を見に来たの? 」
「 そうなんですの! “ 雪の女王スノークイーン ”が咲いてるって聞いて見に来たんですの! 」
「 “ 雪の女王スノークイーン ”? 」
「 この桜の品種だね 」
 ユリィに言われて改めて桜を見つめると、風に吹かれて舞い落ちる白い花弁が確かに雪のようにも見えた。更に此処にある桜の木が月日を重ねた大樹であることも相俟って、正しく女王の名が似合う。
「 この国独自の品種らしいよ 」
「 ユリィはユリィだから花に詳しいの? 」
 かつて彼女と初対面した時に「 ユリィ・セントラル。中央に百合が咲いてるって覚えて 」と名乗られたことをちゃんと覚えていたウルリッカは、花の名前を持つ彼女だからこそ花に詳しいのだろうかと問いかける。問いかけられたユリィは若干の苦笑の色を顔に浮かべて「 仕事で使うことがあってね 」とだけ呟くので、これは余計なことは聞かない方が良いと悟ってウルリッカはそれ以上先を聞くことだけは止めた。
 暫く無言で桜を見上げる三人と一体。
 風がひときわ強く吹いて花弁が再び空に舞った。

 * * *

 第四小隊の二人と一体が仕事がある、と雪の女王スノークイーンの元から立ち去ってもウルリッカは、まだ動かないでいた。
 雨は嫌いだけど、雪は好き。
 はらはら舞う雪のような真白な桜の花弁に、生まれてから二十二年間ずっと集落コタンで見ていたカヌル山の雪を重ねて郷愁に思いを馳せる。
 ウルリッカはマルフィ結社に来るまでの殆どを集落コタンと山中で過ごしてきたため、マルフィ結社に来てからは電子世界ユレイル・イリュやテレビでしか得られなかった情報を現実に目の当たりにすることが多くて驚きの連続だ。此処に来なければ桜の品種に白い花弁のものがあることも、それに雪の女王スノークイーンなんて素敵な名前が付いていることも知らないままだった。
 外の世界はとても楽しい。もっと色々なことが知りたい。
 でも、山神様に庇護された集落コタンを愛しいと思う心もあって。
「 懐郷病かな 」
 彼女にしては珍しく難しい言葉を独りごちる。
 それは高校のない集落コタンを出て高校と大学に通った長兄のアルヴィが休暇のたびに帰って来ては最終日に言っていた言葉だったから、さすがのウルリッカも覚えていた。あの時は泣き言を零すアルヴィを幼心なりに「 情けない男だな 」と思って見ていたが、自分が集落コタンを離れたことによって彼と同じ状況になってみると、もう少し優しくしてやっても良かったかもしれないと反省する。
 桜を見つめながら密かに凹んでいたウルリッカは何らかの気配を察知して、視線をそちらへと向けた。彼女の目が少しだけ驚きを示すように丸くなる。
「 巨人さん? 」
 そこにいたのは巨人のような体躯を持つ青年、シキ・チェンバースだった。今日は休みなのだか彼の日常のファッションなのだかウルリッカには分かりかねるが、何だか迫力のある犬のついた黒いジャージを着ていてちょっと怖めに見えなくもない。
 上から下まで眺めるウルリッカの視線の動きを見ながら彼女の元へやってきたシキは桜を見上げてポツリと「 綺麗な花だな 」とだけ呟く。
「 桜。雪の女王スノークイーンって名前 」
「 ふーん 」
 先程ユリィから聞いて得たばかりの知識を披露すると、シキからは興味があるのか無いのか分からない力の抜けた返事があった。しかし、知識を披露できただけで満足なのでウルリッカは気分を害することもなく並んで桜を眺める。
「 兄貴に貰ったんだ 」
 桜を見ながら唐突にシキが呟いた。何を、と聞き返そうと思ったウルリッカだったが、その前にシキが自分の着ていたジャージを引っ張って見せたのでジャージの話だと悟る。
「 お兄ちゃん、いるんだ 」
 ウルリッカの想像ではシキの兄は二メートル超えの巨人だった。だって、シキの兄だし。尚、両親は三メートルくらいを想定している。だって、シキの親だし。外の世界にはそれくらい大きい人間がいたっておかしくないに違いないから。
「 兄貴は結社にいるから知ってると思う 」
 シキが言うけどウルリッカは首を傾げる。二メートル超えの巨人なんてマルフィ結社にいただろうか。もしや、支部勤務のシフトが丁度ずれていて、たまたま会っていないだけなんだろうか。
「 人事部のロード・マーシュ。知ってる? 」
 ウルリッカは目を瞬く。
 ロード・マーシュの事は知っている。何か高価そうなスーツとか靴とか身にまとっていて本能的にヤバそうな黒い狐のような男だ。長身ではあるとは思うが決して二メートル越えではないし、第一、髪の色も目の色もシキと違う。顔だって別に似ていない。
「 知ってる。でも、小さいね 」
 だって、二メートル超えてないし。
 そういう意味で言ったのだが、シキには何だか哀れんだ目で見られた。お前の身長でそれを言うか、と目が言っているような気がする。
 ウルリッカだって集落コタンに帰れば、昔から集落コタンに住んでる人間の平均身長は百五十センチメートルだから丁度平均身長だ。外の世界は大きい人間が多くて困る。
「 だってシキより小さい 」
「 別に兄貴になるのに身長は関係ないだろ。いや、でも…… 」
 兄になるには弟妹よりも身長が必要か否か。
 そんな謎の思考の海にシキの脳内は沈んでいく。
「 お父さん! あっち、あっち! 」
 沈黙に包まれていた空間を破ったのは無邪気な男の子の声だった。
 ウルリッカとシキ、揃って声の方向を見れば黒髪をオールバックにした男性が金髪の男の子を肩車している光景が目に入った。隣には男の子に似た金色の髪の女性がいるから彼女が母親なのだろう。
「 フランソワ、急がなくても桜は逃げないわよ 」
「 分かってるー! 」
 フランソワと呼ばれた男の子は言いながら風に舞う花弁を掴もうとでも言うのか小さくて短い手を空にいっぱいに伸ばしていた。フランソワが空に手を伸ばすから重心が崩れた父親は体制を崩しそうになって、それを見た母親が軽やかな笑い声をたてて笑う。そんな微笑ましい光景に心が和む。
「 こんにちはー! 」
 近付いてきたフランソワが笑顔で二人に挨拶をしてきた。ウルリッカは軽く頭を下げるくらいのことしか出来ないが、シキの方は意外にも笑みを浮かべて「 こんにちは 」と優しく返事をしていてウルリッカは驚いてしまう。
「 子供好きなの? 」
 フランソワとその両親が立ち去った後、ウルリッカは早々にシキに問い掛けた。
「 うん、好き。相手をするのも好きだし、子供や友達を抱っこするの好きなんだ 」
 家族が去っていった方向を見送りながらシキが答える。
 それを聞いてウルリッカは一つ思いついたことがあった。自分は子供でもなければ、シキの友達でもないけれど彼ならばやってくれそうな気がしたからだ。
「 ねぇ、シキ 」
 自分より四十センチメートルは上にあるシキの顔を見つめる。シキの青と緑が混じった様な、空と陸が同時に存在している様な不思議な地球色の目が綺麗だな、と思った。
「 抱っこ……ううん、ジンジョコして 」
 親にねだる子供のように両手を彼に伸ばしてお願いしてみる。
 するとシキは惚けたような顔でウルリッカを見下ろしてきた。やはり馬鹿馬鹿しいお願いだったのだろうか。
「 じんじょこって何? 」
「 え? 」
 今度はウルリッカが惚けた顔をする番だった。「 ジンジョコ 」は「 ジンジョコ 」であって、それ以外の何物でもない。
「 さっきの子がしてもらってたやつ 」
「 肩車? 」
「 それ、だと思う 」
「 良いよ 」
 シキがウルリッカに向けて背を向けてしゃがみ込む。ウルリッカはジャージの後ろに描かれた主張バッチリな耳の垂れたベージュ色の犬のイラストと目が合った。君に乗っかるようでごめんね。イラストの犬に内心で謝りながらウルリッカはシキの肩に足をかける。その足をシキの大きな手が掴んだ。
「 上がるよ 」
「 うん 」
 危な気なく立ち上がったシキの上でウルリッカは目を輝かせる。
 桜が近い。
 二メートル近いシキの身長のおかげで桜の枝にも手が届きそうだ。
「 きれい…… 」
 普段の自分の見ている世界と全然違う世界がそこにはあった。
 地面が遠い。空が近い。
 雪の女王スノークイーンはこんな花の形をしていたのか。
 好奇心の赴くまま、ウルリッカはシキの上で首を巡らせて色々なものを見つめておく。
「 怖くない? 」
「 全く怖くない 」
 高い所に登って怖くないかと気遣ってくれるシキのさり気ない優しさに感謝しつつもウルリッカは桜に夢中だった。何とかと煙は高いところへ上る、と言うがウルリッカも例外なく高い所が好きなのだ。
「 じゃあ…… 」
 茶目っ気を出したシキが桜の木の周りを歩き出す。歩かれれば恐怖心を感じそうなものだかウルリッカは少しも怖くなかった。むしろ浮かれて「 もっと早く 」と言い出す始末だ。
 シキが走ればウルリッカのポニーテールが風に揺れる。
 傍目には幼い子供と優しいお兄さんが遊んでいる光景に見えなくもないが、実態は十九歳の青年に肩車をされている二十二歳の成人女性という恐ろしいものである。とはいえ、二人はそんなこと気にもしていない。
 はしゃぐ二人を止めたのは。
「 何やってるんですか…… 」
 呆れた顔のロードと同じ表情をしたセーラー服の女の子だった。

憧れのセーラー服、蔑みのスーツ

「 何やってるんですか 」
「 それはさっきも聞いたよ、兄貴。もしかしてけた? 」
「 お前、随分と生意気な口を聞きますね…… 」
 シキに肩から降ろしてもらって地上に降り立つと、先程までは見下ろせていたのにロードも隣の女の子も見上げる形に変わってウルリッカは内心でガッカリした。現実に引き戻された感が強い。
 ロードの身長は元々分かっているものの、女の子も背が高い。多分、兄のアルヴィと同じ位はあるんじゃなかろうか。
「 別に肩車してただけだけど 」
「 それ保育部の子相手に商売出来ませんかね? 乗馬体験みたいに 」
「 クロエ……今は商売の話じゃないでしょう 」
 セーラー服の女の子はクロエという名前らしい。商売のアイディアを嬉々として述べたもののロードに一蹴されて彼女は眉を顰める。
「 くそ兄さん。商機を逃しちゃお終いですよ」
 クロエはロードに何やら商魂逞しい発言を続けていたが、ウルリッカの耳には入っていなかった。
「 狐さん、いっぱい弟妹いるんだね 」
 そして空気を読まず、発言する。ロードのことをシキは「 兄貴 」と呼び、クロエは「 くそ兄さん 」と呼んだ。随分と似てない兄弟だが、きっとそこは複雑な家庭環境があるに違いない。ウルリッカが勝手に結論づけたことなのだが、ロードは「 お前への説教は後です 」とシキに言い放ちウルリッカに向き合う。
「 シキもクロエも私の兄弟ではありませんよ。二人が勝手に私を呼んでいるだけです 」
「 そうなの 」
 何だ兄弟じゃないのか、つまらない。そう思いながらシキに「 どれだけ子供を肩車をした状態で走れるか 」等を聞いているクロエを見る。ひょろっとした薄い体には親近感が湧くものの、彼女にはウルリッカにはない身長があって直ぐに親近感が遠のいていった。
 変わりに抱くのはクロエが着ている服への疑問だ。
「 ねぇ、その服は私服? 」
「 え? ああ、これですか? これは通ってる学校の制服ですよ 」
「 何だ。私服じゃないの 」
 クロエの返答にウルリッカは目に見えてガッカリする。
「 ウルリッカさん。まさか着たかったとか言うんですか? 」
 その様子に察しの良い出来る男、ロードが問い掛けるとウルリッカは頷いた。
 ウルリッカは集落コタンの小学校と中学校とは名ばかりの小さな学校に通った経験しかない。そんな小さな学校に制服なんて物はなく、彼女は電子世界ユレイル・イリュやテレビで見た制服というものに密かに憧れていた。特に憧れたのはセーラー服という制服の方。親しい医療ドレイル班の少女、ミア・フローレスの高校は残念ながらブレザーだったので借りようと思っていたウルリッカの夢は叶わないままだった。
 その夢のセーラー服を身に纏った女子が目の前にいる。
 貸して貰えないかな。あ、でも身長が全然足りないか。
「 成程。制服にも一定の需要がある訳ですね…… 」
「 イメクラでも開く気ですか 」
「 くそ兄さんは黙っててください 」
 ピシャリとロードを黙らせるクロエ。しかしロードはへこたれることなく「 うふふ……制服も良いですが女教師も良いですね。いや、やはり女医物が…… 」などと呟きながら誰かのことを――ヴォイドのコスプレ姿を妄想してニタリと微笑んでいた。怖い。
「 シキは? 制服好き? 」
 シキの服の裾をクイッと引っ張ってウルリッカはシキに問い掛ける。
「 別に。俺は高校にも行ってないし好きでも嫌いでもない 」
「 そっか 」
 残念そうに呟くウルリッカの頭を慰めるようにシキは撫でた。気持ち良さそうに撫でられているウルリッカは大型犬にじゃれつく仔犬か何かのようだ。というか、そんな幻影がクロエと現実に帰ってきたロードに見えた。
「 シキは……ウルリッカさんが歳上だと気付いているんでしょうか 」
「 さぁ、どうでしょうね 」
 ロードの呟きに興味無く答えるクロエの脳内では「 シキによる幼児向け肩車体験 」と「 あえて私服として制服体験 」の二つの商売案が巡っていた。どちらも案外需要があるかもしれない。

――この後、クロエの手によってマルフィ結社内で密かに制服がブームになったとかなってないとか。

狂喜乱舞の人間、唖然失笑の機械人形

 シキの肩車ジンジョコのおかげで元気を取り戻したウルリッカはユウヤミの部屋への道程を進んでいた。それにクロエという少しだけロードに似た喋り方をする女の子から憧れのセーラー服を調達して貰えるというのも嬉しい。
 浮かれながら歩いていると金髪の大柄な女性と黒い和服の女性が前方から歩いてくるのが見える。ウルリッカは彼女達と既知の間柄だったから、軽く声をかけた。
「 バル、セリカ 」
 2人と挨拶を交わし、中庭の雪の女王スノークイーンという品種の桜が綺麗だったことを告げる。
「 お姉様、折角だから見に行きましょうよぅ 」
「 そうね。まだ出立には時間があるから行ってみましょう 」
 2人の会話を聞きながら、ウルリッカはそういえば2人が所属する第三小隊( バル――バーティゴは小隊長だ )は支部勤務に行くシフトだったと思い出す。それと、もう一つ思い出した。
「 セリカ。ギャリーは? 」
 美味しいものを沢山食べさせてくれる男、ギャリー・ファンのことをセリカに問いかけるとセリカの顔が笑みを浮かべたまま固まった。その顔には「 何故、私に其れを聞くのでしょう? 」と思いきり書いてあるような気がしてウルリッカは口を開く。
「 一緒にいること多いから 」
 そのウルリッカの言葉に笑い声をたてたのはバーティゴだった。そんなバーティゴに非難めいた目を向けた後、セリカは「 別に一緒にいたくている訳じゃないですよぉ。たまたまですぅ 」とウルリッカに言い聞かせる。
「 そうなの? 」
「 そうですぅ。もうっ、お姉様ったら笑いすぎですよぅ! 」
「 ごめんなさいね。まさか他隊にまでそう思われているとは思わなかったのよ 」
 バーティゴは身体も大きく顔にも傷があるために恐ろしい女に見えがちだが、日常で会話する分には優雅なお姉さんといった感じの印象が強く見える女性だ。その口振りだけ聞いていると優雅さはサリアヌに勝るとも劣らない気がしてくる。
 そんな華麗な女達と別れてウルリッカは先へ進む。
 いよいよユウヤミの部屋が見えてきた。
 ユウヤミに、ちゃんとフィオナにヨダカぬいぐるみを渡せたことを報告しないと。自分は欲しがらずにユウヤミの「 そのぬいぐるみはあまり人目に触れないようにしてくれ給えよ 」の言伝も、ちゃんとフィオナに伝えられた。おつかいは完璧。百点満点。
 それなのに任務終了の報告をするとなると胸が弾まず、浮かれた心があっという間に沈んでいく。ユウヤミの部屋の前に到着してインターフォンを押すとヨダカが出てきた。
「 ……お疲れ様です 」
 総務部に行って帰ってくるだけなのだから疲れる筈なんてないのにヨダカにそう言って声を掛けられるからウルリッカは鼻の奥がツーンと痛んだ。
「 隊長は奥? 」
「 はい 」
 精一杯冷静に言ったつもりだったのに、ウルリッカの声は微かに震えていた。でも絶対に泣かない。泣いたら負けだ。小さい身体なりに胸を張って部屋へと入る。
「 隊長。戻りました 」
「 ご苦労。ちゃんと渡せたかい? 」
「 うん 」
 暗い顔のウルリッカに反比例するような良い笑顔を浮かべるユウヤミにウルリッカの心は余計に沈み込む。時々、ユウヤミの笑顔は表面的な薄っぺらいものに見えるけれど、今日の笑顔は特に作り物のように見える気がした。しかしそう思うのも単に自分が笑えなくて、そう見えるだけかもしれない。
「 それじゃ、帰ります 」
 報告を完了させて尚、ユウヤミの部屋に居座る用事は無い。踵を返すと後ろに立っていた何とも言えない表情をしているヨダカのオッドアイと目が合った。あのヨダカぬいぐるみは、本当に良く出来てたな。デフォルメされているのにヨダカの金と銀の綺麗な目はそのもののようだった。
「 待ち給え 」
 ユウヤミがウルリッカを呼び止めるから無視をする訳にもいかなくなって、再び彼に向き直る。
「 マルムフェ君。君は勘違いしているようだから言っておくけど、私は任務を終えた部下に褒美も与えない程、薄情な人間では無いつもりだよ 」
「 え? 」
 死にかけていたウルリッカの目に光が戻った。なお、その後ろではヨダカが「 どの口が言っているんですか 」と言いたげな顔でユウヤミを見ているが、ユウヤミはそれを軽く一瞥して見なかったことにした。
 ウルリッカに笑みを向けてからユウヤミはそれ・・をテーブルの上に置く。それ・・の正体を認識したウルリッカの目が真ん丸に見開かれた。
「 フラナガン君にあげたものと同じものでも良いとも思ったのだけど、君の場合はこの方が良いと判断してねぇ 」
 興奮で震える手を伸ばし、それを両手の上に聖遺物でも受け取ったかのように恭しく乗せる。
 ユウヤミからのおつかいのご褒美。それは両手に乗るくらいの小さなヨダカぬいぐるみだった。小さいだけあってフィオナが貰ったヨダカぬいぐるみよりはデフォルメ度が高い部分はあるけれど、それでも良く出来ていることは変わりない。
「 ありがとう、隊長! 」
 先程までの表情とは一変して輝いた表情で小さなヨダカぬいぐるみを見つめ、彼女の豹変ぶりに唖然としているヨダカ( 本物 )と何度となく見比べる。
「 これなら連れて何処でも行けるね 」
「 どうだい? 気に入ったかい? 」
「 うん! 」
 ユウヤミの問いにウルリッカは小ヨダカぬいを抱き締めて頷く。
「 殉職させないよう気をつけます 」
「 殉職……どこまで連れていく気ですか 」
 固い決意をユウヤミに告げるとその言葉にヨダカが眉を顰めるが、ウルリッカは背を向けているのでヨダカの表情に気づくことはない。
「 どこへでも連れて行ってくれるよね? 」
「 うん、連れてく。隊長、ありがとう 」
 小ヨダカぬいを抱えたウルリッカは来た時とは別人のようなうってかわった軽やかな足取りでユウヤミの部屋を後にした。

 * * *

 パタリと扉が閉まる。
 マイナスの印象からプラスの印象に変化する度合いが大きい程、相手に与える影響が大きくなる心理効果ゲインロス効果が上手くウルリッカに働いたことを確信したユウヤミの唇が弧を描いた。
 これでウルリッカの自分への崇拝度は更に上がることだろう。
 やはり扱いやすい手駒は多い方が良い。
主人マキール、最初からこうなるようにウルにお使いを頼みましたね? 」
「 当然だろう? 」
 冷たい目を向けるヨダカに微笑んだユウヤミは、全てが己の計画通りに進んだ事への満足感と、全てが己の計画通りに進んでしまった興醒めの相反する思いを抱きながら、ゆったりと椅子の背もたれに身体を預けた。