薄明のカンテ - 愛日独歩/涼風慈雨

am6:00 配達依頼

 日も昇らぬ朝6時。
 黒のトートバッグを持った人物が、とある寮の部屋をノックしていた。
「はーい」
 あらかじめ話はついていたらしく、インターホンではないのに部屋の主が出てくる。ひょいと顔を覗かせたのはエドゥアルト・ウーデットだった。
「ユウヤミ先輩!ヨダカさんも!早いですね!」
「そうかい?時間丁度だと思うのだけれど」
 エドゥアルトに優雅に微笑んで答えるのはユウヤミ・リーシェル。エドゥアルトが先輩と呼んで慕っている仕事の上司である。その後ろに従者の如く控えて静かに佇んでいるのが機械人形マス・サーキュのヨダカである。
「中に入ってもいいかい?」
「どうぞ。外は声が響きますもんね」
 隙間からするりと中に入るユウヤミとヨダカ。さながら猫のようだとエドゥアルトは思った。
「今回はすまないねぇ、私の我儘を聞いてくれて」
「何の、先輩の代理人なんて見に余る光栄です」
 目を輝かせ胸を張って言うエドゥアルトに仔犬を見るような視線を返すユウヤミ。
「渡してもらうお菓子は全部このトートバッグに入っているよ。それぞれにタグが付いているから間違うことはないと思う」
 トートバッグをユウヤミから受け取ったエドゥアルトはとりあえず開けて中を見てみる。だが、トートバッグに入っているお菓子はどれもしっかりラッピングされている為、中身は透けて見えなかった。
「このメモの通りの場所に時間通りに行けば全員に会えるから、よろしくね」
 紙切れを一つユウヤミから手渡されるエドゥアルト。
「はい。頑張ります!」
「ふふ。元気がいいねぇウーデット君は。そんなウーデット君には私から直々にお菓子をあげよう」
 何処から出てきたのか、手品のようにユウヤミの手の上に水色の袋に緑のリボンでラッピングされたものが出現していた。勿論、タグには「エドゥアルト・ウーデット」と名前が書いてある。
「先輩……!ありがとうございます!!」
 有り難そうにおし頂くエドゥアルト。そして、あ、という顔つきになって「ちょっと待っててください!」と言うと部屋の奥に一旦入っていった。
「オレ、お菓子の手作りは無理だったんで市販品なんですけど」
 そう言ってエドゥアルトが差し出したのは安定の味、メープル製菓のお菓子詰め合わせ缶だった。インスタント紅茶ラテ付きである。
「先輩、頭たくさん使うからできるだけ甘いものにしてみました。いつもオレたちを引っ張ってくれてありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げながらエドゥアルトから差し出される缶。勿論、ユウヤミの頭脳ではエドゥアルトが何をどう準備しているかほとんど見当がついていた。それでも、いざ目の前に差し出されると何だかふわふわした不思議な感じがした。素直な尊敬だけが詰まった贈り物。盲信でも一方的な片想いでも何某かの下心も入っていないものはいつ振りだったか。
「ありがとうね、ウーデット君」
 受け取ったお菓子の缶は握りしめていた所為なのか少し温かかった。
「そうだ。ウーデット君は代理人なのだから、受け取りも兼ねていると忘れないでくれ給えよ。相互で交換になった場合以外に貰ったお菓子は、名前を控えて現物の写真を撮ったら勝手に食べてもいいからね」
「本当ですか!?」
「きっと、私がいなくてもウーデット君が代わりに配っている噂は直ぐに結社内に回るよ。結構な数が集まると思うねぇ」
 ユウヤミの言葉に素直に凄いと思う気持ちと、何やってるんだこの人はという2つの気持ちに挟まれたエドゥアルトの表情が微妙に曇る。
「私の言葉が信用できないのかい?ウーデット君?」
 ユウヤミに顔を覗き込まれたエドゥアルトがいやいや、と手を振る。
前線駆除リンツ・ルノース班ってそんなに内勤の人と顔を合わせないのに不思議だなって、先輩凄いなって思ったんです」
 にへ、と笑って答えるエドゥアルト。エドゥアルトの表情にやはり素直な尊敬だけしかないのを確認したユウヤミは「そうなんだね」とだけ返した。
「先輩、何でまた愛の日にいないんですか?先輩なら嬉々として参加しそうなのに」
「何、怖ぁいお爺さんに呼びつけられていてねぇ。去年から行くって約束してたんだよ」
「だからって……」
「皆んなにはすまないとは思ってるよ。けれど、あのお爺さんは怒らせると私でもお手上げなんだ」
「先輩でもそんな人がいるんですか!?」
 驚くエドゥアルトに深く頷くユウヤミ。
「そう。昔お世話になったから無下にも出来なくてねぇ」
「でも丸一日いないなんておかしいです」
 いい子に引き下がらないエドゥアルトがユウヤミを見上げる。
 初めて会った時は取り憑かれたような表情をしていたのに、今はしっかり自分の足で立とうとしている。後輩の成長を見た気がしたユウヤミは微笑んだ。
「疑問を持つのはいい事だよ。ウーデット君は探偵としての素質があるかもしれないねぇ」
「本当ですか!?」
 頷くユウヤミ。
「だからこれは先輩からの助言だよ。大抵の疑問は何処にも模範解答はない。だから、自分の頭で考えて答えを探してご覧」
ちょい、とエドゥアルトの頭を白手袋に包まれた指先で小突くユウヤミ。
主人マキール
「うん?そうだね、そろそろ行かないとだねぇ」
 後ろにいたヨダカに声をかけられたユウヤミがエドゥアルトに背を向ける。
「ウーデット君。きちんとお菓子を届けてくれ給えよ」
「もちろんです。先輩、いってらっしゃい」
「ふふ、いってきます」
 ひらり、と手を振って答えたユウヤミがヨダカと共にエドゥアルトの部屋から出て行く。去年のユウヤミが望んでいた、独りぼっちの愛の日が始まろうとしていた。

am7:30 敬老精神

 その頃ユウヤミとヨダカは結社の外のとある邸宅にいた。
「ありがとうございます、シード・・・さん」
 テーブルの向こうにいる人物に軽く頭を下げるユウヤミ。その後ろに立って一緒に頭を下げるヨダカ。
「何、毎年の事じゃろて。どうせ年寄りは朝が早い」
 ユウヤミが持ち込んだ手作りスコーンをお茶請けに、紅茶の入ったカップを傾けるのは白髪の老夫ハーロック・シード。ちなみにユウヤミの分のカップはない。
「2月14日になるとここに逃げ込んでくる。変わらないのぉ、アルセーヌ?」
「やめてください、消された名です」
「そうか、そうか。そうは見えんかったからな、つい癖でな」
 半笑いで答えるユウヤミにニヤリと意地悪そうに口角を上げるハーロックはカップを音もさせずにソーサーに戻した。
「今の職場でも逃げる必要があったか、ラウール。連絡があれば軍警の検査日は変えても良かったのだぞ?」
「自衛の一部です。浮かれた人間がうじゃうじゃいるのはやはり神経が疲れますから」
「モテる男は辛いとはっきり言えば良いものを」
「はて、何の事でしょう?」
 茶化す老人に戯けて笑ってみせるラウール。
 普段から常人より多量の情報の中で生きているラウールだが、殊に愛の日になると情報量が通常より格段に多くなる。そうすると、止まらない思考に振り回されて余計な事まで考えて疲弊してしまう、というわけだ。勿論、勝手な勘違いで一方的に送りつけられる物の処分に困ってきたという過去もある。
「いつ振りだったかな、ラウール」
「結社に加入してからは忙しくて……全く顔も出さないですみませんでした」
「心にもない事を言うと信用を失うぞ」
「いえいえ、忙しいのは本当ですから」
 いつもにように微笑んで答えるラウール。
「表情を作るのも上手くなったが、まだ精進が足りんな。雑念がある」
 ハーロックの鋭い視線はラウールの仮面を容易く剥がし、斬り捨てた。
「シードさんには隠し立てできませんね」
 くす、と笑ったラウールがテーブルに手をついて飛び越す。そのままの勢いでハーロックの首に編み棒の先を向けるが、刺さる刹那、杖が編み棒ごとラウールの手を薙ぎ払った。
「……!!」
「驕るなよ、ラウール」
 杖の運動エネルギーを諸に受けた左手を庇いながら転がって受け身を取るラウール。編み棒の動きより何より、杖を掴んだハーロックの手の方が素早く動いた結果だ。
「確かにお前は強くなった。だが、殺気が隠せていない」
 冷たい視線でラウールを見下ろすハーロック。その視線を冷静に分析するように見つめるラウール。再度床を蹴って距離を詰めるラウールだが、老人の杖にまた薙ぎ払われた。
「ラウール。お前は未だに殺しが好きだろう。というより、死が好きなのだろう?」
「シードさん。興味と好きは、」
「距離を詰めた瞬間にお前から歓喜が伝わる。機械人形相手ならそれでも良いだろう。三下ならそれで萎縮させられるかもしれん。だが、お前の望む普通の人のする事ではないぞ?」
 話を遮られ黙って座り込んでいるラウールを尻目に、ズレたお茶セットを直しながらハーロックが語る。
「ワシの片脚を吹き飛ばしたのはお前だろう。もう片方も狩れるように励むのだぞ」
 ぽん、と片膝を叩いて見せる。
「この怪我の所為で、現場第一主義だったわしが管理職を受け入れざるを得なくなったのだからな」
 ハーロック・シード。その名を聞いて少年院に勤める職員は大抵震え上がる。
 彼こそが15年前起きた血の絵画事件の犯人であるアルセーヌ・ラプラスを一般市民ラウール・ケレンリーにした伝説の法務教官である。更に探偵業を教えてユウヤミ・リーシェルになれるよう鍛えた師匠である。
 ハーロック自身元非行少年であり、更生後に警官となったが諸事情にて退職し法務教官となった異色の経歴の持ち主でもある。
 少年院に収容されたアルセーヌの止まらない知的好奇心と発想力を受け止めたのも、編み棒と軍警の逮捕術を応用した護身術をアルセーヌに叩き込み、うっかり・・・・人を殺すことがないように訓練したのもハーロックだった。体を張ったその姿勢のお陰かアルセーヌは徐々に好奇心を自身で制御する方法を覚えていき、今のラウールになった。
「まぁ、今はこうやって偶に茶飲みに教え子が来る生活だがの」
 息を吐き出して席に戻れと杖を振るハーロックの指示に従うラウール。椅子に座るのを確認したハーロックが改めて口を開いた。
「ワシの馬鹿孫はどうしとるかいの?」
「馬鹿だなんてご謙遜を。別の班ですが、副小隊長として毎日頑張っていますよ」
「いんや、彼奴は馬鹿だ」
 首を振って否定するハーロック。
「レールを嫌って不良になった挙句、軍警学校も卒業できんとは……」
「まぁまぁ、シードさん。彼の存在は役に立っているようですし、無駄ではないと思いますよ?」
「どうせ戦闘一回毎に倒れておるのじゃろ」
「よくご存知で」
「孫の事くらいわかるよ。そもそも彼奴に……エリックに軍警は合わなんだ。それをあの馬鹿息子どもが煽ったせいで……」
 やるせ無い溜息をつくハーロック。孫の幸せを願う一介の祖父の顔が一瞬浮かんだが、すぐにその表情を消す。
「アルセーヌ。血の絵画事件の被害者の男児の顔は覚えておるか?」
「えぇ。もちろん」
 間髪入れず答えるラウールの脳裏には当時小学4年生だった画材・・の顔が浮かんでいた。
「あの男児に弟がおってな。養親の元で文系の大学に進学したらしいんだが、例のテロが起きて学校を辞めてマルフィ結社に入ったらしい。今は20歳になった頃であろうな」
「やはり、彼がそうでしたか……文系大学は彼に合わないはずです」
 ラウールの脳内に今朝会ったばかりの、素直な尊敬の眼差しを向けていた青年が浮かんでいた。兄の顔にはあまり似ていなかったが、疑わないところと言い絵が下手なところと言い、画材少年によく似ていた。
「勘がいいな。流石じゃの」
「お褒めの言葉、恐縮です」
 ハーロックの滅多にない褒め言葉に頭を下げつつ素直に微笑みを見せるラウール。
「二手三手先を読んで動けるお前に言うておくぞ。目の前の一手の間違いはその先に見た未来を覆す。いつぞやの取りこぼしを繰り返すでないぞ」
「……肝に銘じます」
 厳しいハーロックの言葉。10年以上の付き合いがあるハーロックだから言える、今のラウールが求めていた言葉だった。エドゥアルト・ウーデットを人の道に導くという最大の償い方法が揺らがない為の言葉だ。
「それとじゃの、クラリスのその後は調べたかの?」
 事もないようにハーロックが出した“クラリス”という名に、ラウールは一瞬呼吸が止まった。
「いえ……調べたところで会いたくないでしょう、彼女は。両親も何も言っていないですし」
「かかか、それもそうであろうな。だが、トリガーを引いたのはお前だ。いずれは考えねばなるまい」
 ラウールの反応を観察するようにハーロックの眼光が光った。
「シードさんはどこまで?」
「うん?そっくり名前を変えて、今はクリスティーヌと名乗っておるぞ。経歴は平々凡々だ。可もなく不可もなし、今時ここまで面白みのない経歴にはお目にかかれないであろうな」
「面白みがない、それ故に面白い……CC事件との関連は?」
「無いとは言い切れん。ホシの知人の友人だと些か遠いがな」
「でも関連があるのですね」
 ゆったりと頷くハーロック。
「もしかしたら、クラリスの方がお前よりタチが悪いかもしれぬな」
「まさか。クラリスは私と違って真っ当な人間でしょう?」
 半笑いで答えるラウールにハーロックが投げやりに言葉を続ける。
「気になるならお前が調べればいい。止めはせんぞ。だが、あやつは逃げ足が速い。少なくとも、お前の背中を見ての行動ではあろうな。血を分け共に育った兄妹きょうだいならば」
「共にと言っても私が11歳の時までですけれど?」
「幼い頃の経験は深層心理に刷り込まれるものじゃろ。クラリスも随分と美人に成長したのだが、これで何の受賞歴もスカウトもないときたら不思議なものじゃろ?」
 一枚の写真をファイルケースから取り出したハーロックがラウールに見せる。
 ゆるいカールをしたセミロングの漆黒の髪、少し憂いのある上品な微笑みを浮かべている闇色の瞳。写真を見ただけで血の繋がりがよくわかる顔立ちをしている。マルフィ結社の面々が見ればユウヤミが女装していると遠目に勘違いしても不思議では無い。
「お前とよく似ておる。クラリスは整形手術も視野に入れておるかもしれぬな。」
 写真に写るクラリスの顔とラウールの顔を見比べてハーロックが言い、苦笑をラウールが返す。
「十分考えられますね。憎んでいる兄から逃げようとしたのにこれでは」
「お前も気を付けねばな。一般人の知り合いが増えれば、クラリスに及ぶ迷惑もあろう」
「そうですね……こういう意味での迷惑は本意じゃありませんし」
 ラウールの返答にそうかそうかと頷くハーロック。
 続いて結社での仕事ぶりなどを聞いているうちに時間は進み、9時近くになっていた。
「ラウールよ、もし良いがいたらまずわしのところに連れてこい。他の連中は過剰反応し過ぎるだろうしの」 
「もしいたら、連れてきますね」
 ふわり、と笑うラウールの表情からは何処まで本気なのか読み取れない。
「もう26であろう?年取って拗らせるより、早めにという話じゃよ。軍警の中ではお前が恋人や伴侶を持つことに否定的な輩が多い。説得するには時間がかかろうて」
「説得して下さるんですか?」
「お前にも軍警にもプラスになる人物ならばな。反対する理由がないなら潰す理由もなかろう」
 なるほど、有難い事です。そう答えたラウールの中には青と緑の混ざったガラス玉のような目を持つ彼女の姿が見えていた。興味本位で近付いてみただけだったが、遠くて近くて遠く、己と似て非なる唯一無二のものを持つ彼女。
 やたらと距離が近いが、あれは本来同性の友人同士の距離感なのだろうとラウールは分析していた。一般的な女性より判定がただ緩いだけで恋人というよりただ性別が違う友人。ちょっと気になるのは偶に小動物を見るような目の時がある事くらいか。そうやって線を引いてもらえると助かる、というのがラウールの本音だった。知り合って数ヶ月。しかも陽の下にやっと出てこられた人物を軍警と己の事情に巻き込むわけにはいかない。
「シードさん。書庫、見に行っていいですか」
 不意なラウールの要望にハーロックは鷹揚に頷いた。この家で「書庫に行く」というのは「考え事をしたい」の同義だ。
 ありがとうございます、とだけ答えたラウールが隣室の書庫に消える。それを見送ったハーロックが残ったヨダカの方に視線を向けた。
「ところでヨダカ。ラウールが普段気にしておる娘はおるか?」
「2人ほど心当たりが」
 聞かれるであろうと予測していたヨダカが間髪入れず答える。
「というと?」
「1人は岸壁街出身でプログラマのミサキ・ケルンティア。14歳です。年齢を軽く通り越した知能指数を持っていると推測できます。ラウールが14歳の時に計測した数値とほぼ同等と思われます。少々コミュニケーションに難がありますが、仕事ぶりは至って真面目で勤勉です」
「ふむ。もう1人は」
「こちらも岸壁街出身で元闇医者、ヴォイド・ホロウです。年齢は26歳。医師免許を持っていないはずですが、手荒ながら治療の腕は相当高いです。ですが彼女の普段の言動がかなり危うく、日常のだらしなさも加味すればラウールの側に置くには不適切な人物かと」
「過去なら構わんよ。軍警にも昔ヤンチャしていた連中は多い。むしろ犯罪者の気持ちは犯罪者にしかわからん」
 スコーンを口に放り込む元非行少年のハーロックの言葉は重い。
「岸壁街か。此方で調査するには少々厄介な連中だな。だが、ああいう場所にいた相手だからこそ考えが刺激されるのだろうて」
 ハーロックの目尻から少しだけ力が抜けた。
「あの顔は何かを見つけたな、ラウール。最後に会った時よりも地に足がついた感じになった」
 思えば遠回りしたもんだな、と小さく呟くハーロック。
「ミサキ・ケルンティアにヴォイド・ホロウ。2人ともソーニャの二の舞にならぬ娘ならば良いが」
「そう言われると2人ともソーニャ・アドレルに比べれば至って普通の人と言えますね」
「それなら見ていられるな」
 狂女ソーニャ・アドレル。ラウールがユウヤミとして探偵業を始めた頃の依頼者の1人であり、生き人形事件の犯人である。ラウールを気に入り生き人形にしようと画策したが、失敗した末に自ら氷水に飛び込んで狂死した。
「ラウールに面倒な人間を殺さない方法を覚えさせるには良い人材だったがな」
 溜息をつくハーロックにヨダカが前から浮かんでいた疑問を口にする。
「担当は変わって今は退職されたのでしょう?何故未だにラウールの面倒を見ておられるのですか」
 ハーロックは片眉を上げてーーそれからニヤリと笑った。
「迷い犬になっていると気付いておらぬ仔犬が1匹おったでな。生き物は拾ったら最期まで面倒見ねばなるまい」
 ハーロックなりの責任の負い方なのであろうと解釈したヨダカはそれ以上何も言わなかった。
「この後は本庁だな。ヨダカ、ガニマールによろしく言っといてくれよ」

am10:00 近況報告

 書庫から出てきたラウール。面倒と途中でボヤいた為ヨダカに危うく足を踏まれそうになったが、結局は大人しくソナルトにある軍警の本庁舎を訪れた。
「本当に久し振りだねぇ」
 高い吹き抜けのロビーからガラスのはまった天窓を見上げるラウール。そこへ現れたのはスーツの上からジャンパーを羽織ったがっしりした体躯の壮年の男性だった。その後ろには若い職員の男性が立っている。
「ラウール、久し振りだな」
「やぁガニマール君。今日も趣味の悪いネクタイは健在のようだね」
「余計なお世話だ」
 不機嫌そうに答える男の名はミフロイド・ガニマール。軍警のエージェントを勤める機械人形達の管理者であり、ラウール・ケレンリーの担当者でもある。
「AGENT.005のヨダカ。お勤めご苦労」
「ありがとうございます。主人マキール
「此奴と組んでもうすぐ3年か。今のところ問題は無いんだな?」
「今のところは」
「そうか……ヨダカはこれからメンテナンスだったな。報告は後で受け取る」
「承知しました。ハーロック・シード氏より主人マキールに宜しく伝えるようにと言伝を預かっています」
「あの爺さんも物好きだな」
「彼にとっての責任なのでしょう」
 では、これで失礼します。淡白にそれだけ告げると若い職員に連れられてヨダカはメンテナンス室へ去って行った。ひらひら手を振るラウールの事など見えていないように。
「此処だと何だ。面談室で話を聞こう」
「取り調べの間違いじゃないのかい?」
「なら取り調べと言うぞ」
「何の事件の被疑者なのかな?不当な拘留は違法だよ」
「その減らず口、永久に聞けなくしてやろうか」
「ガニマール君、怖ぁい。この程度で怒ると寿命が縮んじゃうよ」
「原因はお前だ、ラウール」
 ミフロイドがラウールに足払いをかけるが、軽やかに避けるラウール。
「ふん、小賢しい奴が」
「必要な修正ならちゃんと受けるよ」
 へらりと笑うラウールの顔を見たミフロイドは大きな舌打ちをした。

 面談。というものの話した内容は記録され、プライバシーガラスを挟んだ隣室から様子を伺う事もできるのでほぼ取り調べである。
「こうやって話すのは久し振りだな、ラウール」
「ふふ、そうだね。ガニマール君」
 机に頬杖をついて答えるラウールにじとりとした視線をぶつけるミフロイド。
「いきなり行方不明になった時は肝が冷えたが」
「あの時は申し訳なかったねぇ、てっきり反対されると思っていたものだから」
「お前でも間違う事があるんだな」
「たまには、ね」
 棘の多い言葉に肩をすくめて見せるラウール。ギロク博士の撒いた汚染ズギサの影響で電子世界ユレイル・イリュからの情報が遮断された後、ラウールはヨダカの前から一度姿を消した。ヨダカは単独で動くわけにいかず、急遽ミフロイドと連絡をとってラウールの痕跡を追って捜索した。ようやく見つけたラウールは混乱の最中のミクリカでギロク博士の単独調査をしているところだった。
 もしこの時、ミフロイドが止めなければヨダカはラウールを処分していたかもしれないーーそれくらい危険な橋をラウールは渡っていた。
「俺が止めなければ今頃生きていなかったんだぞ」
「勿論。感謝してるよ、ガニマール君」
「スカした顔で言われても嬉しくないな」
「そりゃ残念だ」
 憮然とした表情のミフロイドに対して、一欠片も残念と思っていないのがラウールの口振りからわかる。
「生も死も善も悪もお前には大差ないかもしれんが、俺たちはお前を生かすのが仕事だ。そして応えるのがお前の義務だ。わかってるだろうな」
「ふふ、勿論」
 相変わらず腹の底が読めない笑顔のままで頷くラウール。
「ところでガニマール君」
 ラウールの目に面白がる光が浮かんだ。
「取り調べならもっと上手くやらなくちゃ。そのお説教スタイルじゃ誰からも情報が聞き出せないよ?いつぞやの時みたいに私が変わってあげられないんだから」
「余計なお世話だ。これは面談だ」
「じゃぁ何も話さなくてもいいんだ」
「お前、立場わかって言ってるのか?」
 ピクリと眉を動かすミフロイドに冗談に決まってるでしょ、と手をひらひら振るラウール。呆れた溜息をひとつ吐き出したミフロイドがもう一度息を吸う。
「今の場所の居心地はどうだ?」
「まずまずってところかな。皆んな経歴が様々で面白いよ」
「今日は平日だが、休暇が取れる程余裕があるようだな」
「優秀な人材がたくさんいるから大丈夫だよ。軍警に引き抜きたいくらいにはね」
「お前が引き抜きなんて言うとは珍しいな」
 マルフィ結社での事、ギロク博士の起こした事件に対する見識、捜査中の難航している案件。たまに茶々を入れながらもラウールは聞かれた事に大人しく答えていく。その姿をもしマルフィ結社にいる信奉者が見れば大人の対応だと言うだろうが、本性を知る者達からすれば従順さに気味の悪いものを感じるだろう。
「捜査中のこの案件だが、気になるところはあるか?」
「そうだねぇ、この水死体の発見場所は不自然じゃないかい?」
「だから軍警も川の上流を捜査したぞ」
「上流……近隣の池のある公園を探してみると何か見つかるかもしれないねぇ」
 生かして使う。軍警の生きた道具として飼われる人生を受け入れているのは、ラウール自身が己の危うさをわかっているからに他ならない。軍警の締め付けのお陰で人の形を保っていられる自覚があるからだ。“普通”でいる為の優に一億を超える必要事項を意識的に守る必要のある欠陥品。外見は辛うじて人の形を保った皆目見当のつかない何か。軍警はラウールの探しているものの鍵になりそうなものを提供し、ラウールは軍警の言う通りの仕事をする。それがラウールがモノクロの世界のあわいに溶けてしまいそうになる瞬間を繋ぎ止める方法。網を振り払おうと思えばできるのに、そうしない理由だ。
 かれこれ2時間ほどミフロイドとの面談は続いた。
「今軍警が聞きたい事は以上だ。午後は軍警病院で検診だよな?」
「そうだよ。送ってくれるのかい?」
「05がいないなら仕方ないだろう」
 記録係に一声かけたミフロイドはラウールを連れて取り調べ室ーーではなく面談室を出て広い休憩所に向かう。
「俺は先に昼休憩取るぞ。お前は俺の視界の範囲から出るな」
「言われなくてもわかってるよ」
 休憩所の片隅で弁当を広げるミフロイドの前に座ったラウールは「法医学から見る犯罪心理学」のペーパーバック本を取り出して読み始める。本の帯には「バラバラ殺人は猟奇的ではない!」と煽り文句が踊っている。
「ラウール……昼飯時に読む本じゃないだろ」
「ガニマール君が読むわけじゃないでしょ?」
「食ってる奴の目の前で血生臭い本を見せつけるのは酷くないか?」
「この後検診だし、しばらく食べられない人の前で堂々とお弁当広げるガニマール君の方がよっぽど血も涙もないよ」
「それはお前の都合だろ」
 そんな会話をするミフロイドとラウール。2人組の若い軍警職員が彼らの後ろの席に何気なくついた瞬間、ミフロイドがそこにいる事に気付いて居住まいを正した。そして反対側に闇を切り取ったような男のラウールが座っているのが見えるとサッと表情から血の気が引いた。
「ガニマールさんの前にいる奴、もしかしてアレが……?」
「確かそうだ。噂通り薄気味悪いな」
 本人たちはコソコソしているつもりだろうが、ラウールにもミフロイドにも筒抜けである。
「あれはガニマール君の後輩君かい?挨拶した方がいいかな?」
「何もするな。有名人の仕事だと思え」
 涼やかな顔でラウールに答えるミフロイド。
 本人達に筒抜けとは知らない若い職員達は会話を続ける。
「ガニマールさんも大変だ」
「アレ……軍警で“飼って”んだよな?冗談みたいな話だ」
「不思議だよな。ホワイトハッカー的な考えらしいが、アレは食うに困って犯罪に走ったわけじゃないんだろ」
「それな。大人しく飼われてるもんかな」
「無害そうに見せて腹の底で何考えてるかわかんないし怖いよな」
「でもアレが難事件の解決に一役買ってんだよな……」
「ふん、犯罪者の手を借りないといけないとかなんか悔しいよ」
 なんだかなーと言いつつ、時間ないしさっさと食べよ、と若い職員達は話を切り上げた。
「なんか随分な言い草じゃない?私、泣いちゃうよ?」
 犯罪心理学の本を優雅にめくりながらにこりと笑うラウール。およそ泣くとは無縁の表情である。
「お前が誰に責められて泣こうが死のうが俺からしちゃ知ったことじゃない。メンタルケアは俺の仕事の範囲外だ」
「毒舌ぅ」
 ミフロイドの仕事は軍警のモノであるラウールが網から逃げないように監視する事。締め上げる事はあっても、普通の人間相手のようにはしない。
「仕事でもなければ俺もお前みたいな輩とは一緒に居たくない」
「流石言う事が違うねぇ、鬼のガニマール様は」
 素知らぬ顔で本のページを捲るラウール。
 今までミフロイドに何を言われてどう扱われようが気にしていなかったのに、少しだけ、ほんの少しだけ胃のあたりにラウールは痛みを覚えた。
 マルフィ結社にいる大半の人は平凡で、面白みが無くて。それでも非効率な中の暖かさに触れてしまったからか。けれど、ほんの一瞬だけ感じた痛みはページを捲ると何処かへ消えて行ってしまったのだった。

pm2:30過ぎ 廉頗負荊

 14:30はすぎて15:00よりは前。
 警察病院の検診の予定が完了し、トイレの片隅にはユウヤミの顔を被り直したラウールがいた。
『今電話しても大丈夫かい?』
 そう書いてヴォイド・ホロウに送ったメールは返信の代わりに直接電話がかかって来た。
「やぁホロウ君」
『ユウヤミ。なんで今日いないの』
ーーホロウ君の声がいつもより力がこもっていてややトーンが高い。少し前まで医療ドレイル班が激務だったかのような荒い息遣いでもある。でも、本当に仕事が忙しいなら電話をかけるよりメールで『無理』と一言返すはず。もしくはメールに気付かないか。電話口の向こうの音も騒がしくないし、前線駆除リンツ・ルノース班の動向も何も私の手元に届いていない。だから仕事が忙しい可能性はない。
 今日は愛の日。マメな医療ドレイル班ならたくさんお菓子も食べられて機嫌が良いはずだが、それを塗りつぶすほどのトラブルが起きたと考えられる。基本的に感情が平坦な彼女がこんな荒れ方をするとしたら、思い当たるのは1人しかいない。人事部新規勧誘課のロード・マーシュ。
 当座の危険は無いだろうと判断し、過去に何があったかは無理に聞かない事にしているが、根深い痴情のもつれの類いがあって酷い別れ方をしたのだろうと分析から予測はついている。
 そして今日はどっちに転ぶだろうかと危惧はしていたものの、矢張り彼はやらかしたんだなと推測できた。医療ドレイル班がこれ以上荒れない方向に、ホロウ君が落ち着ける方向に持っていかないと今後が色々危うい事も推測できた。
 つまり、今私にできる事は確定している。想定の3割り増しで謝り倒すのみーー
此処まで0.31秒。
「ホロウ君、すまない。こればっかりは謝って済むとは思わないけれど、ごめん」
『なんで、いないの。ユウヤミ』
 謝罪を口にするユウヤミに同じ質問を繰り返すヴォイド。さっきより疑問の方に気持ちが向いたのか、尋ねるような口調に変わっている。
 午後休のサリアヌ・ナシェリがいつ結社の建物から出て、ロードが今日のいつヴォイドに接触して医療ドレイル班の部屋を後にするか。人事部の動きを予め把握した上での予測に基づいてユウヤミはヴォイドにメールを送っている。
ーーマーシュ君も結社で仕事が続けられるくらいだし、現状の危険はそこまでないと判断していたがどうも甘かったらしい。愛の日だけでなく、イベント事は人の冷静な判断を奪う。確認するまでもなく、マーシュ君との間でただ不機嫌になるだけではない問題が起きた後なのがわかる。
 感情が揺れている状態だと何に対しても疑念を抱きやすい。勘のいいホロウ君に対して妙に嘘で塗り固めると後が面倒になるし、言える範囲の本当の話をした方がいいだろうーー
此処まで0.25秒。
「ホロウ君、よく聞いてくれるかい?今、私は軍警にいるんだ」
『ふーん……え?』
 戸惑うヴォイドの声が電話口を通してユウヤミの耳に入る。いきなり軍警を持ち出されて冷静でいられる人の方が不自然だ。派手に驚かれなくて良かったと少し安堵するユウヤミ。多分これでさっきまでの荒れた思考が中断されたはずと想定して次の言葉を続ける。
「私の前職が私立探偵だって話したのを覚えているかい?その時警察関係のコンサルティングもしていてね、今でもたまに相談されるんだ」
 警察。国家権力。守って貰える側ならいざ知らず、反発すれば無傷でいられる保証のない相手。ヴォイドの息が詰まる。
「軍警に呼び出されたら私も拒否できないんだ。ホロウ君に何も伝えてなくて申し訳ないね」
『今まで聞いてない』
「うん、テロ以降にしばらく難事件はなかったみたいでね。探偵業は休業中だし」
『早く言ってよ』
「そうだね。ちゃんとホロウ君に連絡を入れるべきだったね。……ごめんね、ホロウ君」
 しおらしく。受け止めるように、平身低頭に。三拝九拝の勢いで。
 依頼人たちが余計な言い訳をして喧嘩別れしていた様子がふとユウヤミの脳裏に浮かんだ。
『探しちゃったでしょ……』
 返ってきたヴォイドの声はユウヤミの予想よりトーンダウンした小さな声だった。いつもの何処か無機質な感じではなく、何かを期待して探したのに見つからなかった残念さのある声。それでいてハリがあって、屈さない芯もある。
 普段と空気の違うヴォイドの声に、どうやら“愛の日”の空気に彼女は上手く乗れてるんだなとユウヤミは推察した。それと同時に、ヴォイドがそんなに自分を探していると思っていなかったユウヤミは申し訳なさと羨ましさで少し胸骨が冷えたように感じた。
「そっか。探してくれてありがとう、ホロウ君。いなくて本当にごめんね」
『近くにいるの?』
「ソナルトの本庁だよ。走ってすぐ行ける距離ではないねぇ」
『そっか……』
「本当に、今直接会いに行けなくてごめんね。ホロウ君」
 この会話で6回目の謝罪の言葉を口にした時、ユウヤミの中で一つ何かが動いて気が変わった。
「そうだ、夜中の9時過ぎちゃうけど、今日ホロウ君の部屋にお邪魔してもいいかい?」
 ヴォイドの息を呑んだ音が電話口を通してユウヤミの耳に届く。
「ウーデット君に頼んで昼間の間にお菓子を届けてもらうつもりだったけど……君の声を聞いて気が変わったよ。夜の9時過ぎ、直接行くって言ったら待っててくれるかい?」
 時が止まった。1秒にもならない時間だが、何倍にも引き伸びて感じる時間が流れた。
『……うん、わかった。待ってる』
 ヴォイドの顔が見えなくとも、声のテンションが上がっている事を確認したユウヤミは予定を変更して良かったと緊張を解く。
「ありがとう、ホロウ君。待たせる事になって申し訳ないね」
『絶対、来るよね?』
 束の間、何を不安がっているのだろうかと思考を巡らせてみたユウヤミだったが、理由は今重要ではないと切り捨てて約束に集中した。
「ねぇ、ホロウ君。前線駆除リンツ・ルノース班の中で1番負傷者が少ない班ってどーこだ?」
 何が言いたいのか計りかねたヴォイドの声が一瞬詰まる。
『……第6』
「当たり。私は守れない約束はしない主義だよ」
 自然と口元に笑みを浮かべるユウヤミ。
「大丈夫だよ、絶対行くから」
 ふふ、とユウヤミが笑い声を立ててみせる。実行する側が自信を見せなければ待つ方も信じにくいものである。
「あ、ホロウ君。今私が軍警にいるってあんまり皆んなに言わないでくれるかい?変に勘繰られるとホロウ君まで被害が及ぶかもしれないから」
『え、なんで……?』
「軍警そのものに苦手意識のある人もいるし、君の過去と繋げて余計な妄想を膨らませる輩がいるからねぇ」
 大丈夫だろうけど、念のためと付け加えて言うユウヤミ。

 じゃぁと通話を切った後、長い溜息を吐き出した。
 去年の今頃も、その前もずっと、ただただ愛の日はユウヤミにとって煩わしい日だった。
 どうせ面倒な日なら最初から予定を入れてしまえと、ハーロックとの面談も軍警の検査日も同じ日に入れていた。自由があるようで無い中でちょっとユウヤミが我儘言った日付指定が、まさか今年はこんな事態を引き起こすなんて思わなかったわけだ。
 でも、こんな都合は誰にも言えない事。
 警察とユウヤミの繋がりはまだ隠していなくてはいけない事で、覚悟の無い人を巻き込むわけにいかない。血の絵画事件。2つの本名。軍警の網。ヨダカの任務。家族の話。誰とも表面的にしか付き合わないのであれば幾らでも隠し通せる自信がユウヤミにはあった。
 だが、友人と言える人にいつまでも上手く隠し続けられるか?と言うと、ユウヤミですら自信が揺らぐ。言える範囲の本当の事から勘付かれたらと考えれば他者に鬼を見てしまう。
 もう一度長く溜息を吐き出す。
 兎も角、愛の日の空気にヴォイドが上手く乗れているのを確認できて良かったとユウヤミがひとりごちる。ヴォイドのちょっとした反応の差でいくつか不安が浮かんで弾けて消えていく。その不安も何故か愛しい、と。
ーー彼女が空気に乗れるのであれば、もしかしたら私にもいつか楽しめる日が来るのかなーー
 柄にもなく、そうユウヤミは思った。
 エドゥアルトに予定変更のメールを送って端末をしまい、トイレから出て次の検査へ向かうユウヤミ。その顔にはいつもの貼り付けた笑みではなく、少し力の抜けたラウールの顔があった。

***

 同時刻。エドゥアルトはユウヤミから送られたメールを受け取っていた。
「先輩が予定変更って珍しー……」
 少し前。エドゥアルトはユウヤミのメモ通りにガート共に医療班に向かい、部屋から出てきたロード・マーシュを捕まえてユウヤミの用意した朱殷色の包みを渡し、無事にお菓子の交換が済んだところだった。もちろん、包みの中身が毒ギリギリラインのものだとは誰も知らない。
「うーん、なんか……なんかなんだよなー」
 さっき会ったロードはエドゥアルトの尊敬するユウヤミ先輩に何処か似ていて、でも絶対何かが違う。イメージが黒で似てるのに海藻じゃなくてサラサラストレートヘアとかそういう事ではなく。何とは言えなかったが、この感覚は……既視感デジャヴか?
 そういえば大学で連んでた奴でベッドの下に大量にエロ本持ってたマンフレートに空気が似てたな、なんて思うエドゥアルト。真面目で優等生ぶってたけど、共通の友人に誘われて遊びに行ったら色々イメージをぶち壊しにきたマンフレート。うん、なんか似てる。マーシュさんはオレらよりずっと年上だけど、ああいう大人もいるんだろうなぁ、いても面白いんだろうなぁ、とひとりごちる。
 上の空で歩いていたエドゥアルトは何もないところで躓いて転んだ。
「エドゥちゃん、どしたん?」
「さっきの人、なんか大学の友達に似てたなーって思って」
「エドゥちゃん……絶対年上やで、あの人」
「似てるに年齢は関係ないんだよ」
 マンフレートに会ったら言ってやろう。割と人間適当に生きられるもんだな、って。

pm7:00 借家掃除

 ヴォイドとの通話を切ったユウヤミ。あの後、心理検査だけで2時間以上費やし、迎えに来たミフロイドと本庁に戻り、ヨダカのメンテナンス終了を待ちーーそして19:00の現在、ソナルトから海岸線ルートの直通バスでアスに到着したところだった。
 まだ開いている店で夕飯用に弁当を調達したユウヤミは、ヨダカと共にとある雑居ビルに入っていった。メインストリートより一本奥に入ったところに所在するビル。法律事務所に電子機器の救済に歯医者など、小さな企業が詰まったアパートの様な雑居ビルは、雨宿りに集まった人の集団に似ていた。
「こんな時間なのにご苦労なことだねぇ」
 細く明かりの漏れている法律事務所の横を通り、進むユウヤミとヨダカ。
 郵便受けに広告が大量に挟まっている最近人の出入りが無さそうな扉の前まで来たユウヤミは、鍵を取り出すと迷わず開けて中に入っていった。
 入り口にかかっている看板にはこう書いてある。「リーシェル探偵事務所」と。

 中はそこまで広くない。事務所で一部屋、居住スペースに一部屋、最低限の水回り。ワンルームアパートが2つ繋がったくらいの猫の額の如く小さな空間。無彩色アイテムが多いが、ところどころ木目も見えたり、本の背表紙がカラフルだったりして重くなり過ぎないような配色になっている。
 ぱっと目を引くのは大きな本棚で、鍵のついた本棚には今まで関わった事件の捜査ファイルが収まっている。ずらりと並ぶバインダーの背中には事件の名前が記入されている。普通の本棚には参考資料用の本が大量に収まっており、分野ごとにきっちりグループ分けされて探しやすくなっている。
 事務机はデスクトップパソコンと筆記用具の類いが乗っている他はシンプルに片付いている。だが、これは仕事がない時の机である。依頼が舞い込んで忙しくなるとこの事務机は資料のバインダーと本と証拠物品とお菓子で埋まる。同様に机の横にある大きなホワイトボードも今は真っ白だが、依頼が有れば情報整理の為に大活躍する。
「久し振りの我が家は落ち着くものだねぇ」
「適当な事を言って口が腐り落ちませんか?座る前に掃除してください」
「はいはい」
「はいは一回です」
「はーーい」
 マルフィ結社に加入してから借りっぱなしのまま放置していた事務所。誰もいなくてもホコリは積もり、あらゆるものを灰色に染めていた。ユウヤミとしては探偵業を廃業する気は全くなく、休業中の間にアルバイトで社会経験を積むくらいの軽い感覚で結社にいる。故にテナント料を払いつつ探偵事務所の維持も続けているのだ。
 窓を開けて換気し、挟まっていた広告を片付け、ヨダカと手分けしてホコリを払い、掃除に勤しむユウヤミ。途中で何を思い出したのかぼんやりして手が止まるとヨダカから叱責が飛ぶ。
「手を動かしてください。寮に戻れない時間になりますよ」
「家なのに帰ってきた事にならないのは不思議だねぇ」
「考え事なら手を動かしながらにしてください。小学生ですか?」
 ヨダカの睨みつける視線に微笑みを返すユウヤミ。それはまるで、「宿題終わった?」と親に聞かれた子供が答えを写せばばいいと閃いた時のような顔だった。今までの蓄積されたデータから同じ表情を検索したヨダカは危険な事の前兆だと気が付いた。
主人マキール。危険な実験はやめてください」
「ん?掃除の手間を省く妙案を閃いたから実践してみようかと思っただけなのだけれど?」
「それが実験遊びならやめてください。階下のテナントに賠償金の交渉しに行くのはごめん被ります」
 休む事なく箒を動かしながら言うヨダカ。
「今度こそ追い出されますからね」
「それは流石に困るなぁ」
 以前、床を水浸しにして階下のテナントに水漏れになった事があり、その際保険やら賠償やらで随分時間を取られる羽目になったのだった。その時の面倒を思い出したユウヤミの眉間に皺が寄る。
「急がば回れですよ、主人マキール


 掃除の終わった事務所内でユウヤミは弁当を食べ、ヨダカは充電する。
「何冊か寮に移動させておこうかな」
「本棚に入り切る量にして下さいね」
 食べ切った弁当箱を片付け、寮に持っていきたい本をカバンに詰め込むユウヤミ。
「『犬はしつけで賢くなるーー50の秘訣』。今の仕事で役に立ちそうだなぁ」
 そう呟くユウヤミの脳裏にはウルリッカとエドゥアルトが映っている。
「『大人のファッションは「軸色」で作れ』。ホロウ君のコーデに一役買いそうだねぇ」
 カバンの中に本を入れて物色を続けるユウヤミ。
「『完全版・自殺の手引き』。自殺を此処まで丁寧に扱いながら推奨していないと宣うなんて面白い本だよねぇ」
 凄く誰かに勧めたい本だ、と言いつつこれもカバンに入れる。
「『黒髪少女は微笑まない』……」
 著者はリーブル・ルブラン。ユウヤミの祖母である。イヤミスというジャンル自体は嫌いではなく、むしろ好きに入るユウヤミだったが、祖母とその作品はどうも苦手意識があった。
「3巡目行けば慣れるものかねぇ」
 いずれは向き合う必要のある相手であり、作品。それは分かっていても、向き合い方が未だにユウヤミにはわからなかった。
主人マキール。自殺の手引きなんて人前に出さないで下さいよ?」
「うーん?そうだね。わかってるよ」
 口ではそう言いながら「完全版・自殺の手引き」を持ち上げてパラパラめくって微笑むユウヤミ。
「良い本は何度読んでも、良い本だよ」
 パタン、と閉じたユウヤミはそろそろ帰ろうか、とヨダカに声をかけた。


「休暇なのになぁ……」
 夜道を歩いて停留所へ向かうユウヤミとヨダカの背後から金属製の硬質な足音が響いていた。細い路地に入っても足音はついてくる。
「ねぇヨダカ。わかっているならハートの7よろしく」
 ユウヤミの言葉を聞いたヨダカが暗闇の中頷くと、闇に溶けてどこかへ消えていった。見送ったユウヤミはひとつ欠伸をする。
「今日ね、私凄く疲れているのだよ。できれば何事もなく戻りたいんだ。けれどーー」
 水たまりの手前で歩みを止めて後ろを振り返るユウヤミ。
「どうも君は死にたがりみたいだから叶えてあげるよ」
 路地の向こうを通過した車のヘッドライトでユウヤミの顔が一瞬逆光になる。
「ギロク博士のポーン
 ユウヤミの視線の先には人工眼から禍々しい赤い光を放つ汚染された小柄な機械人形が1体佇んでいた。靴は履いておらず、既に人工皮膚が破けて金属部分が剥き出しになっている。
 声の響きが消えるかどうか、それくらいのタイミングで機械人形マス・サーキュが地面を蹴って距離を詰める。飛びかかられる直前でしゃがんで躱すユウヤミ。
機械人形マス・サーキュとしての枠も忘れて赴くまま、か」
 勢い余って通り越した機械人形マス・サーキュが水たまりに転がりこんでずぶ濡れになりながら懐から白いものを取り出す。何処でも手に入るセラミックの包丁だ。
「光り物は怖いねぇ。けれど、閉まっておいた方がいいのではないかな?」
「人間ハ邪魔ダッ……!」
 ユウヤミに刃先を向ける機械人形マス・サーキュ
「えぇ、とても邪魔です……貴方が」
 再び跳躍しようとした機械人形マス・サーキュが背後から現れたヨダカに首を掴まれる。
「機械人形法第3条。いかなる機械人形マス・サーキュも生命維持支援以外の目的で、人間に故意に傷害を負わせてはならない。違反した場合、所有者には2年以下の懲役もしくは15万イリ以下の罰金を課す事。該当の機械人形マス・サーキュは真相究明後、速やかに処分する事」
 ヨダカの金銀の人工眼が掴んだ機械人形マス・サーキュを見下ろす。
「ギギ、ギロク、様……」
 すり替えられた己の主人の名を呟く機械人形マス・サーキュの耳に汚染駆除用のプログラムが入ったフラッシュメモリを差し込むヨダカ。
「何者も私の仕事を邪魔させません。彼を殺すのは私の仕事ですから」
 正常に汚染駆除が完了したらしく、赤い光を消して力なく崩れ落ちる機械人形マス・サーキュ
「いやぁ見事だったねぇ、ヨダカ。結社の方に連絡は入れておいたから、もう少ししたら回収に来るよ」
主人マキール。ここでいきなりハートの7を使うとは思いませんでした」
「探偵助手だろう?いつ、如何なる時も観察と分析は忘れてはいけないとしっかり記憶し給え」
 作戦コード「ハートの7」。とある国で潜水艦の開発コードがハートの7だった逸話から取られた作戦名である。1人が囮になり、もう1人が敵の視界の外へ移動して逃げたと思わせる。囮になった方は確実に1度は敵から攻撃を引き出し、それから隠れていたもう1人が不意打ちする作戦だ。
「それで。その電子ライターはなんですか」
「道端で拾ったんだよ」
 ユウヤミの手の中には薄汚れた電子ライターがある。
「感電ですか」
短絡ショートさせれば1人でも対処できるかなって思ったのだけれど、ヨダカが早かったから使わずに済んだんだよ」
 いやぁ、良かった良かったと言いながらカバンの中の本がよれていないかチェックし始めるユウヤミ。問題はなかったらしく、直ぐにカバンを肩にかけなおした。
「この機械人形マス・サーキュ、元はかなり大事にされていた機体なのだろうねぇ」
「そうですね」
 小柄というより8歳くらいの子供と表現した方がいい体格である。既に髪はバサバサになっていたが、元は綺麗に結い上げてあった事だけは確認できる。着ている服も決して安いものではなかった。機体に付いている傷はどれも新しい。
「調達班のミーナ君のような愛玩用だった可能性が高いねぇ……此処まで誰にも破壊されていないという事は、性能自体も良かったのだろうね」
 帰るの遅くなっちゃうなぁ、寒いの嫌だなぁ、とぼやきながらユウヤミとヨダカは回収しにくる人を待った。

pm9:00過ぎ 延頸鶴望

 アスでの捕物帳の後、高速バスになんとか間に合ったユウヤミとヨダカ。21時を少し過ぎたくらいにはマルフィ結社の寮に帰って来ていた。そして出迎えるのはドアノブにかかっている黒のトートバッグとーー黒薔薇と白薔薇の一輪挿しである。
「ヨダカ、君はこの状況をどう推理する?」
「何処で買った恨みですか?」
 間髪入れずにジト目で答えるヨダカ。
「そうなるよねぇ……でもこれはマルムフェ君だよ」
「ウルが……!?幾らあの通りとは言え、常識はあるはずです」
「ヨダカも甘いねぇ。彼女はアホのという分類だよ?単にイメージカラーに合う花を選んだらこれだった、居ないなら部屋の前に置いておけばいい、枯れないように水に刺しておこう……それで現状ってところかな?」
 黒薔薇の花言葉は「憎しみ」「恨み」「貴方はあくまで私のもの」「決して滅びることのない愛」「永遠」などである。どの言葉にしてもウルリッカにしては意味が重すぎる。あるとすれば「リーシェル教徒としての決して滅びることのない愛」だろうか。

 数時間前。トートバッグを返しにきたエドゥアルトは一輪挿しを目撃していた。
 一目この状況を見た瞬間、「お供え物かよォォォォ!!!!」と叫んだエドゥアルト。
「勝手に先輩死なせんなァァァァ!!!!」
「やかましいわ!」
 バンッ、とエドゥアルトの背を叩くガート。
「いやだって、コレ絶対そうにしか見えないでしょォォォ!?この空間だけお葬式になってるじゃないの!!出棺の音楽が聞こえてきちゃうからァァァ!!」
「ギャーギャーうるさいねん、エドゥちゃんは。ユウちゃんがこんな程度で死ぬわけあらへんやろ」
 それもそうか、と静かになるエドゥアルト。
「ウルさんの『部屋の前に置いてきた』ってこういう事だったのか……」
「ほんま、ウルちゃんのやる事わからんなー」
「でもこれ、先輩に見せちゃって大丈夫なのかな……まぁ、全部お見通しだから心配する事もないか!」
 預かっていたトートバッグをドアノブに掛けたエドゥアルトはガートと共に去っていった。敬愛する先輩の代役を果たし切った満足感と共に。

 そして時間は戻って現在である。
「意味はともかく、黒薔薇は綺麗だしドライフラワーにしようか」
 黒薔薇の花瓶を持ち上げて黒のトートバッグを手に取りながら言うユウヤミ。
「ヨダカはどうする?白薔薇」
 白薔薇の花言葉は「純潔」「私はあなたにふさわしい」「深い尊敬」である。「深い尊敬」はともかく、他の意味ならズレている。
 白薔薇の花瓶を持ち上げてじっとヨダカが花を眺める。
「私には不要な物です。ですが、円滑なコミュニケーションの為に部屋の何処かに飾っておきましょう」
「それは大事だねぇ」
 鍵を開けて部屋に入っていくユウヤミとヨダカ。ヨダカが花瓶をどこに置いておこうかと見回していると、妙に部屋の中が静かな事に気がついた。
主人マキール?」
 ヨダカが振り返るとどこにもユウヤミの姿はなかった。持ち歩いていたカバンとトートバッグと黒薔薇が玄関にぽつねんと取り残されていた。ハッとした顔をするヨダカ。
「あの放蕩主人がっ……!何時だと思ってるんですか……!」
 玄関から飛び出して左右を見渡してもユウヤミの姿も見えないし足音も何も聞こえない。ただ夜の空虚な闇があるだけだった。
「疲労はピークの筈……この近くを探せば見つかるでしょうか」


「『疲労はピークのはずだから近くにいるはず』。先入観はよくないよ、ヨダカ」
 けれど今回はその先入観が役に立つ。
 大きな白っぽい紙袋を持ったユウヤミが1人夜道をふわふわ歩いていく。紙袋の中には愛の日用にラッピングした最後のお菓子が入っている。疲れてでも向かう目的はただ一つ。夜9時の約束を果たす為だ。
 『遅れてごめん、これから行くね』とヴォイドに送信したメールには『いいよ、了解』とだけ返ってきた。朝からかなりハードスケジュールを組んでしまった為に、既に疲労がピークに達していたユウヤミだったが、もう少し頑張ろうと息を吸い込んだ。
 “夜の恐怖”と言うが、薄暮の住人だと自負しているユウヤミにそんな感覚はない。むしろ夜は親近感と暖かさのあるものだった。
ーーそう言えばマーシュ君に渡したマシュマロは仕事してくれたかな?香辛料とキノコのペーストが入ったおつまみ用マシュマロ。美味な代わりにアルコールと合わせると凄まじい悪酔いを引き起こすキノコペーストはーー
 酒はザルを超えてワクのユウヤミが、飲んだ気分になる為に開発したある意味毒のお菓子である。もちろん、使用する材料は全部食用なので法律には触れない。
ーーマシュマロのお菓子言葉は「貴方が嫌い」。彼は玩具にしてもそう簡単に壊れないから丁度いいし、味方に付ければ強力な武器にもなる。けれど、ホロウ君にあれ程嫌われてるようじゃぁねぇーー
 人の良さそうな笑顔の下に下卑たものが見え隠れする様子は全く美しくない、とユウヤミは常々思っていた。どうせ隠すならもっと上手く隠せばいい。余りに中途半端な所為で神経が逆撫でされる、と。人事部の仕事の関係で偶に話し合う事もあるにはあったが、嫌なところばかりが目についた。
ーーそもそも野郎は美しくないし、何しようとたかが知れているし、どうでもいいけどーー
 心底どうでもよさそうに欠伸を1つ。
ーーいつもの笑顔を忘れないように。疲れているのは言い訳にならないからねーー
 自分で頬をぺしぺし叩きながら、数少ない友人であるヴォイドの元へ向かっていった。


 3回のノックの後、玄関口に出てきたヴォイドはいつも通りのほぼ下着状態だった。
「やぁホロウ君。相変わらず随分と不用心だねぇ。鍵くらいかけ給えよ」
 疲れを微塵も感じさせない、いつもの声で軽く言うユウヤミ。
 「やぁユウヤミ」と返すヴォイドのやや明るい声が聞こえているのかいないのか、焦点の揺れた目でユウヤミの脳内は爆走していた。
ーー鍵くらいかけてって今言ったけど、最近の空き巣狙いって巧妙化してるから鍵かけても開けられちゃうし別にかけてもかけなくても変わらないのかな?寮の鍵くらいなら私でもピッキングできるし、実際のところ誰でも入れるのではなかろうか。でも一流の空き巣ばかりって事もないか。通りすがりの思いつきで侵入する場合を防ぐなら、鍵も無いよりあったほうが安全だしできれば普段からチェーンを使う事も考えて欲しいところだな。この条件下での侵入経路はありすぎて事件が起きたら捜査難航しそうだ……動機も多岐にわたるだろうし。鍵が開いているって事は知人や訪問者の方向から容疑者の絞り込みが出来なくなる。通りすがりもあり得てしまうから次は監視カメラの映像の確認か。それだって犯人の顔が確実に映っているとは限らないわけだし。普段からベビードールの格好でうろうろしていればどんな輩に狙われてもおかしくないし……まぁホロウ君なら返り討ちにできるからいいのか……?美の追求にはリスクが伴う、っていうよりめんどくさがりの代償って事で。いやいやいや良くないよな。先制攻撃が得意なホロウ君とは言え返り討ちにできない相手だったらどうするのか考えているのだろうか。危険なことに遭わないに越した事はないのに……何言っても面倒で結局何もやらないのはわかってるけど妙に心配なのだよね。尤も、何か事件に発展しても迷宮入りなんて私がさせないけどーー
 此処にいるヴォイドではなく、その向こうを見るような、見えない何かを見ているかのような茫洋とした眼差しのユウヤミ。いつもの貼り付けたような笑みも鳴りを潜めて無言のまま玄関口に佇んでいる。
 いつもの笑顔が無いどころでは無い。元から不思議に白い顔が最早青ざめている。
「……大丈夫?」
 顔色の悪さに心配になったヴォイドがユウヤミに手を伸ばす。まるで、通い猫が軒先でうずくまっているところを心配する人のように。
 黒猫を思い浮かべながら、そっとヴォイドが手で触れたユウヤミの髪は想定よりふわりと軽くて柔らかかった。
 軍警での仕事はそんなに大変なのだろうか、それとも此処からソナルトまで距離がそんなに遠いのだろうか、と疑問を浮かべながらユウヤミの頭を撫でるヴォイド。前線駆除リンツ・ルノース班の仕事が立て続けにあってもユウヤミがこんな表情になったところをヴォイドは見たことがなかった。
 触れられた事に気付いていないのか表情の動かないユウヤミだったが、揺れていた焦点が定まってきた途端、小さく肩が跳ねた。
 もしかして嫌だったろうかとヴォイドが手を引っ込めて様子を伺っていると、瞬きをしたユウヤミの口元に薄く笑みが広がった。
「んにゃ?」
「え」
 唐突な猫語に驚いたヴォイドが固まる。猫を重ねて見ていたのがバレたのだろうか、と少し不安になる。
「ふふ、美の究明と空き巣の相互作用について考えていただけだよ。ぼーっとするなんてねぇ……軍警で仕事しすぎて疲れちゃったみたいだ」
 そう言ったユウヤミはいつもの通りに微笑んだ。顔色は悪いままだったが、調子が戻ってきた事に安堵して目から力を抜くヴォイド。
「よくわかんないけど、ユウヤミも疲れる事あるんだ」
「それがあるのだよねぇ、実は」
 意外かな?と言いつつ小首を傾げるユウヤミ。その様子を見たヴォイドはゆっくり瞬きをした。
「お茶、飲んでく?」
「いいのかい、ホロウ君?」
「うん。ユウヤミ、結構顔色悪いから。見るからに体調悪そう」
 調子の優れない人を放置するなど、ヴォイドの医者のプライドが許すわけがない。
「ホロウ先生は目敏いねぇ、隠せないなぁ」
 困ったように笑い、それじゃお邪魔するね、と言ってユウヤミは部屋の中に入っていった。

pm9:30 茶薬同根

 コポコポと音を立てて注がれる温かいお茶。机を挟んでカップが2つ。
 礼を言ってお茶を一口含んだユウヤミの目が見開かれた。何かを考えるように右へ左へゆらゆら視線を揺らして少し目を閉じた。
 緑のクリアな湯。一見単なる緑茶に見えるが、実は特殊なブレンドティーである。
「……このお茶、兎頭とず国の薬膳茶じゃないかい?」
「うん。この間買った薬学の本にオマケで付いてきた。兎頭ではお茶が薬なんだって」
「知識にはあったのだけれど……こういう味もあるのか……」
 柔らかい苦味に鼻通りのいい爽やかな香り。少しピリッとする後味も悪くないが、兎に角香りのクセが強い。
「処方箋」
 そう言いながらヴォイドがユウヤミの前に出した袋には「兎頭国ブレンド茶」と印字してある。
「菊花茶、緑茶、生姜茶のブレンド。血行促進、眼精疲労対策、リラクゼーション効果も期待できる。独特の香りには自律神経を整える効果があるみたい」
 成分表示を指差しつつ説明したヴォイドが顔を上げる。
「……ユウヤミ、随分疲れてそうだったから。軍警の仕事、お疲れ様」
 ヴォイドの労いの言葉に眦を下げるユウヤミ。
「ありがとう、ホロウ君。まさか此処で薬膳茶が出てくるとは思わなかったよ」
「今の症状に1番合うと思ったから」
 そう言いながら自分のカップをすするヴォイド。中身は普通のミルクココアである。
他人ひとの家で目を開けたまま寝るなんてねぇ」
「あれ、寝てたんだ」
「意識がぷっつり途絶えてしまってねぇ……ホロウ君に会うと想定外が多くて面白いよ」
 ふふ、と笑いながら白の紙袋から紫の包みを取り出すユウヤミ。
「ホロウ君、いつもありがとうね」
 薄紫に細かいレース柄のプリントされた包み。濃い青リボンと薄緑のチュールリボンでラッピングされており、エレガントで華やかな空気を醸している。タグにはヴォイド・ホロウと書かれており、鳥が飛んでいた。
 差し出された包みを受け取るヴォイドの視線は包みから離れない。
「ミクリカの食い倒れ祭りの時には、危険な事に巻き込んでしまったからね。その分のお詫びも兼ねて」
 無言でぼんやりと包みを見つめるヴォイドにユウヤミの声が届いたかはわからない。だが、反応が一呼吸遅れる事を織り込み済みのユウヤミとしては大きな問題ではなかった。
 先行して0.2秒だけ口角の少し上の筋肉が動き、その後ほんのりと頬に赤みが刺す。徐々に口元が緩みそうになっていき、それに気付いたのか恥ずかしさからか表情を崩すまいと必死で引き締めようとしている。
 どうやら喜んで貰えたらしい。
「嬉しい……」
 やっと出てきた言葉は少し震えていた。
「それは良かった。鳥には空がよく似合うからねぇ」
 頬を上気させながら包みを握るヴォイドの手に力がこもる。
「これ、開けて良い?」
「いいよ。君に渡したのだから、お好きにどうぞ?」
 嬉々としてリボンを解いて包みを開けていくヴォイド。コロリと出てきたのは薄い茶色の可愛らしい丸い焼き菓子だった。
「マカロン」
「そう。キャラメルマカロンだよ。焼き菓子だけどクリーム付きだから消費期限3日以内ってところかねぇ」
 マカロンの間にサンドされたキャラメルクリームにはアラザンまで散らしてある。
 ひとつ口に放り込むと、さく、と軽い食感と共に甘さが広がる。キャラメルの包み込むような温かみのある味は安定感がある。アラザンの硬いプチプチしたところも楽しい。
 キャラメルマカロンがお気に召したようで、破顔して堪能しながら頬張るヴォイド。
 ユウヤミはその様子を微笑みながらお茶をすすって見守る。
ーーキャラメルマカロンの意味は気付かなくてもいい。楽しそうな顔が見られた事自体が収穫だなぁーー
 さっきまで喜んでマカロンを口に運んでいたヴォイドの表情が、何を思い出したのか一瞬翳り、小さく「あ」と呟いた。
「どうしたんだい?」
「お菓子言葉……」
「意外だね、ホロウ君気にする方だっけ?」
「なんか、気になって。ティラミスの時にユウヤミも言ってたから」
 少し笑う目のユウヤミがふぅん、と相槌を打つ。
「自分で調べないと知識にならないよ、ホロウ君?」
 のらりと躱して答えを教えない。食い下がろうとしたヴォイドの頬にユウヤミの指先が触れた。
「ほらほら、お菓子が頬についちゃってるよ」
 そう言うユウヤミの手は白手袋をしていない素手だった。薬膳茶の温もりが移ったおかげか白い手の中で指先だけ赤らんでいた。
ーーそっか、人間ってこんなに柔らかくて暖かいのだったねぇーー
 軽く払っただけ。それだけなのだが、手袋がなかった事に気付いたヴォイドの頬が一拍遅れてぽわりと染まった。今まで、ユウヤミが手袋を外しているところをヴォイドは見たことがなかった。
「ん?手袋したままは失礼かと思っただけだよ」
 事もなくさらりと答えるユウヤミの言葉に、ヴォイドのガラス玉のような青と緑の瞳が更に揺れ、感情が言葉にならないのか口元に緊張が走る。
 染めた顔をぱっと背けたヴォイドが何も言わずに席を立って部屋の隅に行く。後ろ姿は何かを真剣に迷っているように、あたふたと揺れていた。
 やっと戻ってきたヴォイドは紅潮させた頬のままで包みをひとつ持っていた。どうやら、一度火照った顔は簡単に収まらないらしい。
「これ……愛の日の」
 ヴォイドからユウヤミに差し出される小さな包み。
「ユウヤミ用のお菓子」
 束の間、真顔になるユウヤミ。気圧されたように受け取るとスッと目を閉じた。
 何かを噛み締めるように柔らかな笑みが口元に広がり、ゆっくり目を開ける。貼り付けたような味気ない微笑みでもなく、愛想笑いでもなく、間違いなく嬉しくて笑みが溢れていた。
 例えるなら少年のような。打算ではない、屈託のない笑み。いつもは見透かしたような光を浮かべている闇色の瞳が、今は素直な喜びの色を浮かべていた。
「ありがとう、ホロウ君」
 いつもと余りに表情が違うからか、赤い頬のままやや唖然としながらユウヤミの顔を見つめるヴォイド。こんな表情かおもできるのか、と妙に冷静に頭の後ろで考えてしまった。
 何も言わないヴォイドに構わず、ユウヤミは言葉を続ける。
「ホロウ君がいるとね、余計な事を考えなくて済むんだよ」
 なんだか普通の人になれたような気がするんだ、と喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。見た目だけは人の姿に生まれた自分が言える事ではない、と。
「なんだか、らしくない事を言ってしまった気がするねぇ」
 包みを大事そうに紙袋に入れると、誤魔化すように薬膳茶を口に含むユウヤミ。
「ユウヤミ……」
「どうしたんだい?」
 既にいつも通りの顔に戻ったユウヤミが微笑む。
「やっぱり、猫みたい」
 真面目な顔のヴォイドから受けた唐突な猫宣告に虚をつかれるユウヤミ。一瞬きょとんとして、それから吹き出すように笑い出した。
「そう来るとは思わなかったよ。流石ホロウ君だ」
「そんなに笑う?」
 訝しむ表情のヴォイドに頷いて「にゃー」と返すユウヤミ。
「猫って認めるんだ……」
「なんだか、ホロウ君に言われたらしっくりきてねぇ」
 うん、悪くない。そう言われたらヴォイドとしてもちょっとむず痒い気持ちになる。

 ユウヤミの笑いが収まった頃、クシュン、とヴォイドがくしゃみをひとつ。
「おや?寒いのかい?」
 暖房があって密閉性もある建物とは言え、ヴォイドの格好はピンクのベビードールである。と言っても、普段から薄着でふらふらしているので寒いというより心因性かもしれないが。
「薄着じゃ仕方ないねぇ」
「そんなに寒くない。暖房で結構暖かいから」
 なのに珍しい、と明後日の方向を見ながら首を捻るヴォイド。視線を戻すと向かい側にユウヤミがいない。
 腰を浮かせかけた時、ふわりと肩に暖かい布の感触があった。びくっと肩を震わせたヴォイドが一瞬臨戦態勢になって見上げると、すぐ横に両手を広げたユウヤミが立っていた。
「似合ってる。綺麗だよ」
 肩にかかる暖かいコート、隣で微笑んでいるユウヤミ。状況が飲み込めないヴォイドは意外そうに目を見開いて固まった。
 ぼんやりした表情で肩にかかっているコートをきょろきょろ見回し、それからもう一度ユウヤミを見上げた。
「何これ……?」
「何ってカイロで温めたコートだよ。コートを1枚上から着てるだけで暖かいし普通に着てるように見えるからね、ただのパーカーより暖かいよ」
 ふわりと微笑むユウヤミが「さっきのお返しだよ」と言ってヴォイドの頭をぽんぽん、と優しく叩いた。
 またしても言える言葉が見つからないヴォイドは、口元に緊張を走らせて黙って頬に朱を乗せた。青と緑の混ざった瞳が少し潤みがちにも見える。
「さて、そろそろおいとましようかな」
 視線を切って紙袋を持ち上げるユウヤミ。
「面白いお茶ご馳走様。ありがとう、美味しかったよ。お陰で体温が戻ってきたみたいだ」
 使ったカップをシンクに置いたユウヤミが玄関に向かう。その背を追うようにコートを羽織ったままヴォイドが玄関まで軽く駆けてくる。
「ユウヤミ」
「どうかしたのかい?」
「その……ありがとう。来てくれて」
 2人の視線がひたりと合う。
「あんなに疲れてたのに」
 来た時は青ざめていたユウヤミの白い頬が、今は血の通った色になっている。
「気にしないでくれ給え。スケジューリングに失敗したのは私の方なのだからねぇ」
 なんて事ない、とでも言いそうな気軽さで答えるユウヤミ。
「愛の日のお菓子もありがとうね。後で大事に頂くよ」
「中身聞かないの」
「こう言うのは、わからない方が面白いからねぇ」
 肩をすくめて言うユウヤミにそれもそうか、と頷くヴォイド。
「え、っと。マカロン、美味しかった」
 良かった、作った甲斐があるよ、と答えるユウヤミ。
「そうそう。うたた寝って安心できる場所じゃないとできない事だよねぇ」
 当たり前の事をなんで今言うのだろうかときょとんと見上げるヴォイド。
「うーん、寝る前でいいのだけれど、やっぱりホロウ君、鍵かチェーンかかけた方が良いと思うよ」
「面倒……」
「だよねぇ、知ってた」
 苦笑したユウヤミが扉に手をかける。
「じゃぁね。今度は普通にお茶会しようよ」
 薬じゃなくてね、と言い残してヒラリと白手袋の手を振ったユウヤミは濃密な夜に溶けて帰って行った。


pm9:45 愛日独歩

 ヴォイドの部屋を後にしたユウヤミは自分の部屋にほど近い遊歩道のベンチに腰掛けていた。隣にはぽつんと佇む街灯があり、ベンチの半分を消えかけの光が照らしていた。
 紙袋を膝に乗せて夜空を見上げるユウヤミ。吐いた息が白く消えた。
「寒い……」
 声に出してみるとまた息が白く伸びていく。
 体内から出た水蒸気が急激に冷やされて水滴になるだけの現象。体温を持つ生物ならば平等に同じ現象が起こる。

 ……そっか、私も生物か。

 揺るがない自然現象に存在を肯定された気がしたユウヤミの眦が下がる。
 さっきヴォイドから渡されたお菓子の包みを開けるユウヤミ。出てきたのは手作り品と思しき生チョコだった。
「ホロウ君らしいねぇ」
 繊細な動きが苦手なヴォイドらしく、不恰好な見た目をしている。口に放り込んでコロコロ転がすとチョコレートの甘味がゆっくり口内に溶け出してきた。市販品のような素直な口溶けとはいかず、少しだけ引っ掛かりのある舌触り。だが、作り手の性格をそのまま反映しているかの様でなんとなしに嬉しくなってしまう。
「甘いなぁ」
 チョコレートのお菓子言葉は「貴方と同じ気持ちです」。
 知っていてこれにした訳ではないだろうが、とても無難だとユウヤミは思った。
 もう一つ、口に含む。今度は転がさずに一気に噛む。
「なんだか苦いねぇ」

 バロメーターでも煩わしいものでもない愛の日はいつぶりだったろうか。
 もしかしたら、家族で過ごした16年前の2月が最後かもしれない。

 その年の8月、ユウヤミもといアルセーヌ・ラプラス少年は血の絵画事件の犯人として逮捕されている。翌年の2月14日は既に少年院におり、家族とは離れて集団生活をしていた。差し入れとして家族が持ってきたお菓子の他は、全て人気のバロメーターか袖の下に見えていた。
 少年院を出て、里親の元で大学進学した後は愛の日が煩わしいものになっていた。少年院の行事であれば恨みっこなしなのだが、自主的に参加する外の世界では受け取った分だけ返さないといけないらしいと覚えたからだった。
 愛とつく何もかも、当時のラウール少年にはいま一歩理解が及ばないものだった。そんなものがあるらしい。よくわからないが、普通の人はそれに振り回されるらしい、と。
 損得だけで測れるものではない感情。単なる好き嫌いの話ではなく、執着したり包み込んだりできるもの。果てには自身の損さえ厭わないもの。
 探偵業を始めて、色々な人の生の感情に触れて。警察から相談される事件の解明に協力して、色々な人の生と死と伴う感情に触れて。それでも、愛に振り回される人たちは意味なく生きようとしているように見えて、不気味に思えた。
 そして、理解できていない己はやはり人ではないのだろうとユウヤミには思えた。

 怖くないのだろうか。
 損得も何もないところに労力を傾けるのは。
 怖くないのだろうか。
 理由もなくただ生きるだけなのは。
 ねぇ、ホロウ君。

 暗闇に沈む建物達をぼんやりと見つめるユウヤミ。輪郭の溶けた黒い影がのしかかってくるように見える。少し、息が苦しかった。
 
 普通ってなんだろう。
 生物が生きていたいと思うのは何故だろう。
 抱え続けた疑問すら、君の隣にいるならば深く気にせずにいられる。
 そんな気がしたんだ。
 見様見真似で人の姿を保っている自分でも、何気なく生きていけるような気がする。
 縋ってみても悪くないかな、なんて柄にもなく思ってしまった。
 ……らしくない事ばっかりだ。

 もう一つ、チョコレートを口に含むユウヤミ。溶け出した甘さが息苦しさを押し流す。
 生きている理由はないが、死ぬほどの理由もなく。モノクロの世界のあわいに溶けてしまいそうになりながら泡沫に揺蕩っていた。死ぬと怒られるし、とりあえず今は生きていよう、と。
 そう思っていたユウヤミだが、ヴォイドの様子をもう少し見守りたいと思い始めていた。
 愛の日だからなのか何なのか、コロコロ変わる表情は初めて会った時の名前通りの空虚な表情と見違える程だったのだ。

 今日は、とても人っぽく見えた。
 電話をした時の嬉しそうな声。
 心配そうに頭を撫でてくれた時の手。
 お菓子の包みを受け取って喜んでいた口元。
 素手で触れてしまった時の驚きと照れが同時に出た頬。

 じっと己の手を見るユウヤミ。
 ヴォイドの頬に触れた時の温もりと柔らかさをユウヤミは思い出していた。長らく忘れかけていた生き物の温もりを。触れて殺してみたくなるなら触れるな、と言われた少年の日から遠ざかっていた温もりを。

 きっと彼女はこれから、もっと“人”とか“普通”とか言うものに近づいていくのだろう。
 もしも彼女が“人”になれるなら、私にも理解できる日が来るのかもしれない。
 誰かを損得抜きで大事に思う事を。
 誰かに迷わず手を差し伸べる優しさを。
 空想や幻想ではなく事実に基づいた夢にできるだろうか。
 ……これって生きてる理由にして善いのかな。

 少し風が出てきて、ユウヤミの前髪を揺らした。近くに生えている枯草達もゆらゆら揺れている。冷たい風が頬に当たってもユウヤミは何も気にしていなかった。

 彼女の事が好きかと言えばそうなのだと思う。
 恋かと言えば違う気がする。
 恋ならばもっと盲目的だろう。
 なんだかホロウ君には転がされてる気がするけれど、本質は見失っていない。
 と、思う。
 柔らかくて固い、冷たくて熱い、近くて遠い彼女。
 似て非なる唯一無二の存在。
 お互い真逆を向いていて、でも嫌ではない。
 単なる興味や仲間意識ではどうもしっくりこない。
 ぽつん、と思うのは「どうか幸せに生きていて欲しい」という事だ。
 ……この感覚自体が久しい。
 手駒でも権威者でもなく、顧客や通りすがりの人でもない。
 近しい何かな気がしても友人以外の言葉が見つからない。
 知友?
 朋友?
 高山流水?
 情緒纏綿じょうしょてんめん
 わからない。

 ぽっかりと空いた夜空を見上げるユウヤミ。うっすら見える上空の雲はやたら速く過ぎ去っていった。
 生に迷いが無くなっても、飼いきれないと判断されたら軍警に殺処分される。それを思い出したユウヤミの背に寒いものが走った。生きていたいと執着してしまったら、その時に辛くないだろうか、と。

 ねぇ、ホロウ君。
 明日死ぬってわかっていても、君は生に執着するのかい?
 
 近付き過ぎれば消えてしまう光にも思えるヴォイドに、声には出さず問いかけるユウヤミ。誰もいない虚空に疑問が溶けていく。
 聞いてみたい意見、見てみたい反応。解くのが困難で厄介な難事件に翻弄される程、知りたい事が増えてしまうのだった。
 両手で顔を覆い、俯く。
 
 私はちゃんと表情が作れていただろうか……

 幼き日に被り始めた笑顔の仮面。徹底的な自己管理をしているユウヤミだったが、目敏いヴォイドの前では上手く仮面が機能しない事があった。さっきも他人の家で目を開けたまま寝てしまった事を思い出し、少し不安になる。
 手を膝に置いてぼんやりした顔で考えるユウヤミは、ヴォイドからお菓子を渡された時に自然に笑みを溢していたと気がついていなかった。
「あ」

 愛の日は楽しめたのか本人に聞くのを忘れてしまった。
 後でまた聞けばいいか。
 話のネタが増えたと思えばいい。
 総じて悪くはなかったろうと推察できるけれど、感想は本人の口から聞きたいな。
 キャラメルマカロンのお菓子言葉は「安心できる特別な人」。
 手袋に頼らなくてもいい人。
 それだけの存在でいい。
 今は。

 まずは自分の事をどうにかしないといけないな、とひとりごちる。面倒で意味がわからなくて距離を置いてしまった、血の繋がった家族とのわだかまりだ。
 ハーロックから聞いた妹のクラリスの状況は、思ったよりも深刻だった。逃げ足が速いと評されていたが、それだけ捨てた物が多く、この状況を作り出した根源への憎しみも深いはずだ、と。
 許して欲しいとか罪悪感とかそんな事は毛の先ほども考えていないユウヤミだったが、ただ、何を思っているのか確認しておきたくなっていた。
「にゃぅ」
 ふ、とため息を吐きつつ口角を上げたところに、見慣れた白くぼやけた人影が現れた。
主人マキール。ようやく見つけましたよ」
「やぁヨダカ。仕事の途中で逢引きかい?隅におけないねぇ」
 ヨダカが白い花束を持ったままユウヤミに近づく。
「いえ、途中で会った方を寮の前まで送っただけです」
「ふぅん?それにしても遅かったね」
 ユウヤミが花束を指差しながら言う。帰ってきた時点でヨダカの出待ちをしていた人物に気付いたので、ヨダカの足止めに利用して計画に織り込んでいた。
「『遅かったね』じゃありません。一体何処に消えたかと思ったら……」
「夜空が綺麗だったから、つい、ね」
「それだけではないですよね?」
 ユウヤミの手元に視線を落とすヨダカ。手作り生チョコの包みがそのまま膝に乗っている。
「何処に行っていたのですか?報告は義務ですよ」
「昼間に配りきれなかったところに配達だよ」
「場所を聞いているんです。理由ではありません」
 冷たい視線のヨダカを笑った目で無言で見上げるユウヤミ。しばし視線が絡まった後、視線を切ったのはヨダカの方だった。
「ヴォイド・ホロウのところですね。そうだと思いました」
「バレていたのかい?」
「白い紙袋が無くなっていましたからね。中身がレディースコートなのは確認済みです。貴方がわざわざ服を準備する相手など殆ど候補がいません」
 静かな視線で見下ろすヨダカ。
「それに、エドゥの作成した一覧表に彼女の名前がありませんでした。こちら側でお菓子を準備した第6小隊のメンバーの名前が書いてあるのに、同じく準備すると豪語していた人物の名が無いとあれば疑わざるを得ません」
「ヨダカ……成長したね」
「お褒めの言葉、恐縮です」
 全く恐縮していなさそうな淡々とした声で返すヨダカ。これ以上遅くなる前に帰りますよ、とユウヤミの腕を引っ張る。
 頷いたユウヤミはチョコレートの包みを紙袋に戻して立ち上がり、ヨダカと並んで部屋へ向かって歩き出す。
「ねぇヨダカ。両親に会う算段を立てたいのだけれど、どうしようか?」
主人マキール……寄生虫にたかられてませんよね?」
 やや眉根を寄せて答えるヨダカ。普段の軽口の延長だろうかと疑ってしまう。
「やっぱり、おかしいよねぇ」
「いえ。気が向いたなら早めにアポを取りましょう。10時近くなっているので、明日でもよろしいでしょうか」
 構わないよ、と答えるユウヤミ。
 ユウヤミに想定外の行動をさせるヴォイドは危険極まりないのではと考えていたヨダカだったが、偶には良い方向に作用する事もあるのかとデータに書き加える。計算式もアップデートし、少しだけ好転の数値を上げておく。
 まずは、帰ってからのお小言の時間をヨダカは少し減らす事にした。

 愛の日を独り歩む。
 存在は独りでも、来年は1人ではないのかもしれない。