薄明のカンテ - 愛日燦々/涼風慈雨


am xx:xx 芝蘭結契

 愛の日なんか無くなっちまえ。

 いつものヘッドホンを付けたまま、イオ・アスキーは暗い目をテオフィルス・メドラーに向けていた。
 「は!?ミサキちゃん、今日在宅なのかよ!?」とテオフィルスの不機嫌な声が汚染駆除班に響いたのは少し前の事。イオからは背を向けたテオフィルスの顔は見えない。だが、女性たちにまめまめしく菓子を配って黄色い声を浴びているのがよく見えた。実際の声が聞こえた訳ではないので、イオの妄想が混じっているのだが本人は気付いていない。
 ガラスに反射した自分の顔が醜く歪んでいると気付いたイオは慌てて俯く。

 天才は良いよな、仕事そっちのけで甘いもの配っても文句言われやしねーんだから。どうせ誰も俺を見ない。当然か。こんなゴミクズでお荷物を見る時間だって惜しいよな。

 舌打ちをしそうになって止めるイオ。ただでさえ仕事のペースが遅い上にイメージダウンまでしたら、本当に結社を追い出されてしまうと唇を噛む。
 実際のところ、イオは別に遅くない。むしろ平均より速いペースで仕事をしているし、彼より遅い人や回りくどいコードを書く人もいる。だが、イオの目には天才少女ミサキ・ケルンティアや天才肌のテオフィルス・メドラーなどの次元の違う人しか見えていない。
 ブラック企業のまま思い込んでいるイオは、マルフィ結社が瑣末な理由で人を辞めさせる事をしない場所だとも気付いていなかった。

 早く進んでくれよ、時間。姉ちゃんのところに行きたいのに。ミサキが居なくて楽だけど。

 イオの姉、リズ・アスキーはテロで大きく負傷した後からリハビリを続けている。現在は職場で色々調整して貰い、仕事とリハビリを両立させていた。
 今でも一人で遠くの病院まで通うのは大変で、必ず彼氏かイオが付き添っていた。そして、今日はリズが半休でリハビリに行く日であり、イオが付き添いの日だった。頼めば病院が迎えに来るのだが、リズがどうしても一人で行くのが嫌だと言った為の策だった。
 ヘッドホンに流れる音楽の音量を上げて外界との接続を絶つイオ。
 ディスプレイに集中していると、視界の端で何かがちょろちょろ動いていたのに気付いてイオの集中力がふっつりと切れた。
 顔を上げると黒マスクをした人物がイオの横で菓子の箱を持って立っていた。髪には紫メッシュが入っている。
「イオさん、一つどうぞ」
 黒マスクの人物ーーエフゲーニ・ラシャが菓子の箱をずずいとイオの眼前に差し出す。
 取っていいのか裏はなかろうかとイオが悩んでいると、エフゲーニは夜明けのような水色の目を細めた。
「今日出勤の汚染駆除班の皆さん全員に渡しているものなので、お気になさらず」
 そう言われても踏ん切りが付かないイオが手を空中に彷徨わせていると、後ろから金髪頭のトニィ・イコナが覗き込んだ。
「お、エフさん菓子配りっすか?」
「配り歩けば誰もあぶれないですから。企画は乗って楽しんだ者勝ちだと思います」
「ひゅ〜流石元配信者〜!」
「あまり大きな声で言わないでくださいよ……トニィさん、どさくさに紛れて二つ持っていかないで下さい」
「ばれたか……あざっす、エフさん」
 二つ摘んだ菓子を一つイオの手に落とすトニィ。
「イオも貰っとけよ、糖分ないと死ぬぞぉ〜?」
 怖い話でもするかのような声を出してトニィがイオを小突く。
「さてと、もうひと踏ん張りぶっ潰しに行くとすっかい」
 一つ伸びをして眼鏡を掛け直すと、トニィは唖然としているイオを放置して自分のデスクに戻っていった。
「ケルンティアさんは在宅なので仕方ないですよね……メドラーさんは集中して仕事中ですね。休憩の時にでも渡しましょう」
 ぐるっと汚染駆除班を見渡して呟くエフゲーニ。

 俺……“全員”に入ってたのか……壁際の埃にまでエフは優しいんだな……

 トニィに渡された菓子をじっと見つめるイオ。動かないイオを心配そうに見たエフゲーニは何かを察したらしく、その場に膝立ちになってイオと目線を合わせた。
「イオさん」
 名前を呼ばれて菓子から目を上げるイオ。エフゲーニの水色の目が真っ直ぐに覗き込んで来るのが怖くて瞬間目を逸らす。
「世間は思うよりまだらですよ?場所によっては冷たい人もいますが、暖かい人も同じくらい別のところにいるものです」
 落ち着いて聞かせるようなエフゲーニの声。別に大きくはないが、確たる芯のある声だ。
「ケルンティアさんは冷たい人ですが、人としての一線は超えないようにしていると思いますけどね」
 また軽く目を細めると、言いたい事は終わったとでも言うようにエフゲーニは次の人のところへ菓子を持っていった。

 エフは元々動画投稿サイトで配信者をしてたんだっけな。そんなチヤホヤされてきた奴に言われても嬉しくねーよ。良い人ぶって、恩義の売り付けかよ?

 「欲を言えば女子から貰いたかった」と思った故のイラつきだと気が付かないイオは、菓子に手を付けずに仕事へ戻る。
 その数分後。汚染駆除班の静かな部屋に大声が響き渡たると誰が想像しただろうか。
 控えめなノック音の後に大胆な音を立ててドアが開く。
「よっ!邪魔するぞ!」
 入って来たのはガタイのいい堂々とした男と自信なさそうに縮こまる小柄な男。
「ビクターさん、声大きいです……!」
「ん?あーそうか!すまん!」
 ワハハハ、と遠慮の無い大声で笑うビクター。汚染駆除班の中で数人が殺気のこもった視線をビクターに向けるが気にするような小さい男ではない。
 エリックは彼らの殺気に涙目になりながら、本当にすみませんと隣で頭を下げる。
「それで……イオどこだー?」
 ぐるりと部屋を見回したビクターが、デスクで気配を消しながら作業に勤しむイオを見つけてずかずか近づいていく。その後ろを相変わらず縮こまりながら着いていくエリック。
「仕事中に悪いんなー、イオ」
 作業の手を止め、天井まで届きそうにそびえて見えるビクターを恐る恐る見上げるイオ。

 ダメだ。怖くても顔に出しちゃダメだ。怒られたって恐怖を出しちゃダメだ。逃げたいけど逃げちゃダメだ……!

 青褪めた無表情のイオがなんとか声を絞り出す。
「えっと……何だ……?」
「つまみ、持ってきたぞ!やる!」
 ドヤ顔で味違いタラ干しが複数入ったビニール袋をイオに突きつけるビクター。状況が理解できないイオは氷漬けになったかのように動けない。
「遠慮なんていらねーぞ?」
 ずい、と差し出される袋を見つめて動けないイオの脳内は混乱を極めていた。

 理由がわからない。仕事の都合で少し話した事はあるものの、物を貰うような間柄だとは認識していない。しかもなんでつまみなんだ?嫌がらせか?嫌がらせなのか?どうせ誰からも何も貰えないとかで要らないお節介で周囲に悪印象ってか?だからってなんでつまみなんだ?俺が酒に弱いのを笑いに来たのか?なんだよそれ!!つっても受け取らないと印象悪いよな。うわ、これどっちに転んでも嫌だ。どうすりゃいーんだよ。

 考え過ぎたイオが完全にフリーズする。心配そうにエリックがイオの前で手を振るが反応がない。
「あの……イオさん?だ、大丈夫ですかっ!?」
「……ぇで」
 振り絞るようにイオが言葉を紡ぐ。
「何で、俺なんかクズに構うんだよっ……」
 一瞬、イオの言う意味がわからなかったビクターとエリックが頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。二人のうち、先に口を開いたのはビクターだった。
「愛の日だからな!友達に渡すのは当たり前だろ?」
 眩しい笑顔でイオに言い切って答えるビクター。その隣で同じく、とエリックが頷く。
「イオさん、いつも休憩室に行かないじゃないですか。渡すならここまで来ないと」
 至って真面目なエリックの顔を直視できず、俯くイオ。
「どうせ……みんな……」
「何だ?イオだから俺は渡しに来たんだぞ?」
「こ、こんなっ……埃にっ……」
「ホコリじゃなくて、イオに渡しに来たんだぞ?」
「ビクターさん、物の例えです……」
 微妙に通じないビクターにツッコミを入れつつ、エリックが口を開く。
「えっと、その。イオさんが昔に何があったかぼくは知りませんし、ぼくからは敢えて聞きません。け、けど、多分、イオさんが前に思った嫌な事と同じ事は、そうそう起きないんじゃないかなって、思っていいんじゃないでしょうか」
 緊張故か何処かぎこちないエリックの言葉。
「ぼくは、夢を潰されて、ここに来たんです。でも、ここで、イオさん含めて色んな人に会えたから、無駄じゃ無いって思ってます」
 固いエリックの声を聞いたイオは、前線で体張って戦績上げてる奴に言われたって説得力ねーよ、と脳内で悪態をつく。
「今は第四に入れて貰ってるんですけど、前にいた第二ではヤクネタ扱いだったんです。何やってもダメな奴だって」
「え……?」
 エリックもダメな奴だと言われていた事を意外に思ったイオがぱっと顔を上げる。
「でも第四に来てわかったんです。ぼくに足らなかったのは、言葉だったんです」

 ダメな奴の言葉なんて誰も聞きやしないのに何を言っているんだ……?けど、目の前の此奴もダメな奴だったんだよな……?どう言う事だ?

「イオさん。人を完全に解る事なんて出来ません。超能力者でもできないと思います。だから、解ってもらえない事は怖い事じゃないんです。言わずに縮こまらない事が大事じゃないかなって思うんです」
 そこまで言ったエリックが不意に視線を外して床を見る。
「すみません、歳上の人に説教垂れるとかダメですね。アヤつけたいわけじゃないんで勘弁してください」
「アヤ……?」
 イオに聞き返されたエリックがしまったと口元を押さえる。
「あ、すみません!つ、つい癖で……!気にしないでって事です!」

 エリックの言うアヤがなんだかわからないが、怒られているわけじゃないんだよな……?ダメな奴でも、声を出さないと出来ることも出来ないって事なのか……?これは何かビクターに返礼しないといけない奴だよな……何も、ないのに……

「えっと、あの、折角持ってきたんで、これも良かったらどうぞ」
 エリックがイオに渡したのはどこのスーパーでも売っている、普通のチョコ菓子だった。
「仕事なのに邪魔してすみませんでした」
「んじゃっ、良い愛の日過ごしてくれよな!」
 深々と頭を下げるエリックの隣りでイオを小突くビクター。
「あ、のっ」
 帰ろうと背を向けかけた二人に、イオの迷った果ての声が届いた。
「返せる物、これくらいしか……ない、けど……」
 足元のカバンの中からイオが取り出したのはテイクアウト容器によく使われている再生紙パックだった。相当緊張しているのか、手がガクガク震えている。
「あ、姉に作った分の残りって言うか……お裾分けって言うか、その、良かったら、これ、お返しです……」
「おぉ!?イオ、自分で作ったのか?マジで凄いな!?ありがとな!」
 間髪入れず答えるビクターが輝かしいばかりの笑顔を泣きそうなイオに向ける。パックを開けて中身がクッキーである事を確認したエリックも小さく歓声をあげる。
「自分で作ろうなんて考えもしなかったです。イオさん凄いですね!」
「そ、その……はい……」
 消え入りそうなイオだったが、自分の出したもので相手が喜んでくれた事に安堵も覚えていた。
 ビクターとエリックが出て行って、さて仕事に戻らねばと思うイオ。だが『解ってもらえない事は怖い事じゃない』の意味が分かりそうで分からず、モヤモヤが解けない。考え過ぎると仕事に支障が出てもっと遅くなって納期遅れになる、と考えたところで板挟みになったイオはまた思考停止する。
 それを打ち破ったのは、またしてもビクターの大声だった。
「イオー!」
 戻ってきたビクターが迷いなくイオを目掛けて突進する。
「ひぃっ!?」
「すっごくこのクッキー美味い!すげーな!」
 目を見開いて怖がっているイオに堂々と言い放つビクター。
 追いついたエリックに「ビクターさん、静かに!!」と注意されて少し小さくなるが、やはり大きい声であれやこれやとクッキーが美味しかった事を話し始める。
 ビクターの言葉を聞いているうちに、恐怖で固まっていたイオも次第に頷けるようになった。
 
 やいのやいの男三人が言っているところを遠くから見守る人達は、生暖かい視線で事の成り行きを見守っていた。
「なんすか、あのキラキラすぃ〜空間は」
 ずり下がる眼鏡を持ち上げつつ、弄るような口調で言うトニィ。
「まぁまぁ、イオさんが負の空気をスプリンクラーで撒き散らさなくなるだけ良いじゃないですか」
 目尻を下げて言うエフゲーニに、呆れた視線をぶつけるトニィ。
「……エフさん、たまに笑顔で怖い事言うっすよね」
「あれ?そうですか?」
「自覚無いんすか……」

***

 昼過ぎ。イオは姉のアパートの前に来ていた。
「姉ちゃん!」
「イオ、迎えありがとう」
「いいよ、姉ちゃんの為だから」
 あまり表情の変わらないイオだが、長年一緒にいた姉のリズには機嫌の良さが見て取れた。
「姉ちゃん、今日は愛の日だから姉ちゃんの好きなシナモンクッキー作って来たよ」
「ありがとう。イオのシナモンクッキー、美味しいのよね」
 ニコニコしながらクッキーをつまむリズ。
「イオ、職場はどうだった?」
「職場は……つまみ、貰った」
「イオ……」
 イオの答えに目を見張るリズ。ややあって、とても優しい表情で一言呟いた。
「良かった」

 姉ちゃんが、笑ってた。花が咲くみたいな、安心したような笑顔だった。
 うん、これなら。
 愛の日があって良かったんじゃないかな。

pm0:30 自衛手段

 ラウールがミフロイドに連れられて軍警病院に検診に向かった頃。ミサキ・ケルンティアは一人自室で栄養補助ゼリーに乗せてカルシウムサプリを身体に流し込んでいた。目の前にある個人用電子端末はスリープモードになっている。
 在宅勤務だと通常よりこなせる仕事量が減ってしまうが、それも今日は致し方ないとミサキは割り切っていた。
 そう、今日は愛の日。岸壁街での愛の日とはやることが違う、という事くらいはずっと前に電子世界ユレイル・イリュから仕入れた情報でミサキも知っていた。だが、この結社の中で行事としてしっかり行われるらしいとアンから聞いた時、どんな感情より嫌悪が先にきた。
 邪魔。非効率的。五月蝿い。
 世間の人がなんでこんな面倒な事をしたがるのか、ミサキには理解できなかった。日付がどうであってもお菓子はお菓子で言葉も言葉だ。人間が勝手に決めた日付で何か成分が変わるわけではない。言いたい時に言えばいいのに、わざわざ日付を待つなんて効率の悪さに目眩がしそうだった。それに、仕事場に余計な私事を持ち込んで問題が起きる危険を考える人はいないのだろうか。
 世間の空気も空気だ。全員が何某かの形で参加する事を強要するような空気。何もしない人に哀れみの視線を向けて、自分の考えは間違っていないと確信しているあの目。
 放っといて。いつも無関心なクセに日付を理由に近寄らないで。仲良しごっこに付き合う暇はない。
 恋愛に目が眩んだ人間もミサキは嫌いだった。世界には自分と相手しか居ないと思い込んでいて、そのクセ邪魔が入るとその時だけやたら怒る。感情に振り回されている姿はとにかく見苦しいと常々ミサキは思っていた。
 理解不能。意味不明。馬鹿馬鹿しい。
 同じものを見てもミサキが受け取れる情報量が一般的と言われる範囲より多い事も要因の一つだった。イベント事で浮かれた人から読み取れる情報は常時より格段に上がる。その情報を元にすれば見たくないところまで予測が働いてしまい、疲れ切ってしまうというわけだ。
 だから、ミサキは愛の日を敢えて在宅勤務にした。元々甘いものが苦手なミサキとしては、要らないものを勝手な思いを乗せた他人から貰うのは負担だった。世の中ギブ&テイクで出来ているわけで、それはイベントでも変わらないだろうと。
 栄養補助ゼリーを飲み終えたミサキが今度はラムネ菓子の小瓶を引っ張り出す。数粒口に放り込んでバキバキ噛んで飲み込む。ブドウ糖でできたラムネは素早く脳のエネルギー源になるし、喉も痛くならないのでミント系タブレット菓子と並べてミサキは常備していた。
 朝から作業を開始し休憩も忘れてノンストップで昼になった。一つ伸びをすると背中がバキバキ音を立てる。首を回せばやはりパキパキ音が鳴る。
「頭痛い……」
 ブルーライトカットの眼鏡をしていてもディスプレーの青い光は完全には防げないし、目の乾燥も抑えられない。
 眉間を軽く揉んだミサキが眼鏡を外して目薬をさし、良い目薬が軽く手に入るようになって良かった、とひとりごちる。
 大きく息を吐き出してみた時、玄関のチャイムが鳴った。今日は来客の予定は無いので警戒しつつ上着を羽織りながら外の様子を伺う。足音を殺しながらインターホンのカメラ映像を見ると、見慣れた赤毛の人物が見えた。応答ボタンを押しながら「はい」とだけ答える。
「ミサキ女史?ロナ・サオトメだ。今大丈夫か?」
「わかった、待ってて」
 チェーンをつけたままドアをそっと開けるミサキ。
「近くまで来たし、今なら休憩中かと思ったんだが……大丈夫だったか?」
「問題ない。要件は」
「今日は愛の日だろ?だから……」
 ロナが言い終わる前に不機嫌そうな視線をぶつけるミサキ。
「……そうだな。ミサキ女史はこういうイベントは好きじゃないよな」
 困った様に笑いながら頬をかくロナ。
 「アサギ」と後ろに呼びかけるロナ。鞄とも袋とも思えるものを持ったアサギがロナの後ろから顔を出す。礼を言いつつ袋の中からお菓子の包みを一つ取り出すロナ。
「ミサキ女史。日付がどうとかは一旦横に置いて、俺の話を聞いて貰えないか?」
 ロナの真っ直ぐな瞳を見たミサキの面倒な気持ちが溜息になって外に出る。
「外は声が響く。入って」
 扉に引っ掛けているチェーンを外すミサキ。すんなり聞いてくれる事に驚いたロナが固まる。
「早く」
 扉の取手を渡されたロナがアサギと共に部屋の中へ入る。その後ろで扉が閉まった。
「で?」
 腕組みをして不機嫌そうに見上げるミサキの目を静かにロナは見つめた。
「改めてお礼が言いたかったんだ。アサギのPL-pluginの事もそうだし、俺を結社に拾ってくれた事も」
「結社に必要だと思っただけ」
 「個人の為じゃない」と続けて言うミサキ。
「ミサキ女史はそう思っただけかもしれない。だが、その決定に俺は救われてるし、アサギも助かっている」
 静かなロナの表情にふわりと笑みが浮かぶ。
「ありがとう、ミサキ女史」
 続いてお菓子の包みをミサキに差し出すロナ。他の人に作った包みに比べてシンプルで幾分小さい包みだ。
 じっとお菓子の包みを見つめたミサキが細く息を吐き出した。
「言いたい事はわかった。くれるなら貰う」
 もしこれで絶対零度の視線で突っぱねられたらどうしようかと一抹の不安もあったロナだったが、渡せた事に安堵する。
「ミサキ」
 アサギに呼ばれたミサキの視線がついっと動いてアサギの紅白の人工眼を見る。
「これ、やる」
 アサギが差し出したのは一枚のポストカード。ミサキは食べ物以外の方がいいとロナに言われて描いてみたものだった。色鉛筆で描かれた抜けるような青空が眩しい。
「アサギ……」
 ミサキのペールブルーの瞳が見開かれる。
「その……なんつーか、諸々のお礼」
 アサギに言われてもミサキの表情はほとんど変わらない。だが、大人しく受け取ったという事は嫌ではないのだろうとアサギは判断した。
「待ってて」
 ロナから渡された包みとアサギから渡されたポストカードを持って一度ミサキが奥に引っ込んだ。戻ってきたミサキの手には小さい茶色の紙袋と白の紙袋があった。
「逃げても貴方達なら来ると思ってた」
 そう言ったミサキがロナに差し出したのは茶色の紙袋。近所の薬局のロゴが入っている。
「ジョニー・ヘルスケアのストレス胃専用の薬」
「あ、あぁ。ありがとう……ミサキ女史」
 手持ちの薬が残り少なくなっていた矢先に渡された薬。余りのタイミングの良さにロナは驚いた。
「アサギにはこれ」
 今度はアサギに白い紙袋を差し出すミサキ。ロゴは近所の電子機器の店である。
電子錠剤ユレイル・ニツ。いつでも充電できるとは限らない」
 自分が貰える側にいる事に驚きつつ礼を言って紙袋を受け取るアサギ。お菓子を選ばないところはミサキらしいと言えばミサキらしい。
「ロナ、在宅って知ってたの?」
「汚染駆除班に配りたい人達がいてな、その人に教えてもらったんだ」
「やっぱり」
 そろそろ仕事に戻りたいとミサキが言うと、長々居てすまなかった、と言ってロナはアサギを連れてミサキの部屋から去って行った。
 
 個人用電子端末の前に戻ってきたミサキは、先程アサギに渡されたポストカードを眺めていた。
「これもできたんだ……」
 絵を描くのは人でも向き不向きが分かれる分野。そう言えばアサギのシステム内には絵を描く為のソフトがインストールされていたか、と思い出して少しだけミサキは納得した。それでも使いこなす為の学習期間は必要だ。その努力をしてみようと思ったわけだから、PL-pluginに押さえ込まれていた時より確実に学習を重ねて成長している。アサギが機械人形の枠を覚えて人間と共存できる道をしっかり歩んでいる事に安堵したのか、ミサキの目元が少し緩む。
 ロナから貰った包みを開くミサキ。出てきたのはうす焼きのクッキーだった。齧ってみるとサクサクとした食感がして柔らかく溶けていく。控えめな甘さが何故かひどく懐かしい感じがした。理由はわからなかったが、ふと記憶に蘇ったのはとある家族の姿だった。孤児院でささくれだらけの手で掃除をしていた時、大人の男性と女性と男の子が連れ立って窓の向こうを歩いて行った。
ーー愛の日どうしようかしらね?ーー
ーーお菓子食べられる?ーー
ーーいい子にしてればなーー
 じっと見ていたら手が止まっているのが先輩にバレて腹を思いっきり蹴られたんだった、と思い出してそっと腹をさする。見てただけで蹴るなんて論理性に欠けると噛みついて余計に殴られたんだったか。
 自分の部屋を見渡すミサキ。
 床も窓も壁もほとんど物に覆われて見えない部屋。足の踏み場がないほど散らかっていたが、孤児院の水漏れをする天井や抜けそうな廊下を思えば最高の空間だ。何より此処に自分の世界を邪魔する人はいない。
 愛の日にチョコレートではなくクッキーを選んだのはロナに優しさだろうか、他の小隊の小隊長にも渡したのだろうなと考えた時、できれば関わりたくない人の顔がミサキの脳裏に浮かんだ。
 ユウヤミ・リーシェル。前線駆除班第6小隊の小隊長。良い人の空気を出そうとしているが、その実は赤ん坊が核爆弾のスイッチを持っているような人だ。被った良い人の皮に騙されて信奉者が地味に増えているらしいが、何を考えているかわからず苦手意識を持つ人もいる。
 ミサキにはそういった感覚は最初からなかった。良い人を演じているのが丸わかりで、初めて会った時から危険なにおいがした。そのにおいは誰でもない、自分とよく似たにおいだった。目的を達成する為なら自分自身も道具にする人。興味関心の為なら知人でも赤の他人でもなんでも使う人。
 ミサキ自身はアンに何度も言い含められて、出来るだけ非情と言われる手段を取らないように調整してきた。それでもまだ足りていないらしいが、ユウヤミはわかっているクセに直すどころか開き直っている。
 嫌い。大嫌い。
 何を考えているのか大体わかる。だから嫌い。
 単語しか話さなくても会話が成り立つ。きっと即興の暗号でも会話ができる。それくらいお互いの考えている事がわかる。
 一見無謀に見える作戦も別に無謀じゃないし、遊んでいるようで意味がある時もある。論理性が考え抜かれた上で遊びをちらつかせる、その微妙な無駄さが嫌いだった。ミサキが責めようのないギリギリラインを踏んでくるところも嫌いだった。
 そして今日はユウヤミが丸一日休みの日。細かいことはミサキも把握していなかったが、軍警に監視されている事は知っているのできっとその関係であろうと推測していた。なぜ今日なのかもミサキは薄っすらわかっていた。
「情報過多は疲れる……」
 自分がどんな大人になるか、まず大人になった自分すら想像できないミサキだったが、ユウヤミのような大人にだけはなりたくないと固く決意した。

お昼頃 諸行無常

 ぼくはどこと言って特徴の無い人間だ。何でかわからないけれど、誰にも顔を覚えて貰えない。その場は認識されても、数時間会わなければ記憶から消える。学生だった頃は1人足りなくても先生に気付かれなかったし、同じエリックという名前の同級生がいれば「じゃない方」と呼ばれる。低身長だからすぐ人の波に飲まれるし、そこにいない事にされる時もある。
 様々な色味の溢れるこのカンテで真っ黒な髪は珍しいとも思うが、その特徴だけだと被りが多い。結局覚えては貰えない。その証拠に軍警学校同期で且つ現在同僚のルーウィン・ジャヴァリーの記憶には1ミリも残っていない。ぼくにはステルスの異能力でもあるのではなかろうか。いつもの事だから別にいいんだけど。
 不良グループにいた頃は「記憶に残らない」を武器にして立ち回った事もあったけれど、それはもう昔の話。色々な技術は習得できたけれど、人生の汚点でもあると思っている。だから誰にも昔の話はしない、そう決めた。
 自分の話をしない人がとっつき難いのはわかっている。でもどうしても言いたくない事は言いたくない。そんな頑固さ故か、第2小隊に配属された時はどうしても小隊長の指示が理解できなくて、もっとこうしたら良いのにと考えてイマイチ仕事に身が入らず、結局ヤクネタの使えない奴とレッテルを貼られた。そう言えば名前で呼ばれた事なかったな、あの小隊。
 そんな時、第4小隊に異動になった。小隊長のロナ・サオトメは丁寧な人だった。個別面談してメンバーの状況把握をしたり、こまめにメモを取って情報が間違わないように気をつけていた。そのお陰なのか、ぼくはロナさんから名前以外で呼ばれる事はなかった。それに、ぼくの中に渦巻いていた戦術論を見事に汲み上げてくれて副小隊長のポジションまで与えてくれた。メンバーもキチンと顔と名前を覚えてくれた。家族と師匠以外できっちり覚えてくれた人達は初めてかもしれない。
 そして、もう1人ぼくを覚えていた人がいた。
 食堂のアイドルことヒギリ・モナルダだ。食堂のアイドルと呼ばれるだけあって、誰にでも笑顔を振りまいてるがぼくの時は少しテンションが高い。最初は気の所為かもと思ったけれど、どうもそうでは無いらしいと気が付いた時から情報集めを開始した。
 「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」とは古代兵法書に書かれている格言だ。相手のことも自分のことも熟知していれば、無益な衝突は避けられる。
 素直に嬉しい気持ちはある。どんな男だって可愛い女の子に「気になります」って視線を向けられたらテンションが上がるものだ。そうでないのは明確にタイプが違うか、既に強く想える人がいる場合くらいだろう。
 ぼくがなぜ浮かれるより先に情報集めから始めたかと言えば「ヒギリ・モナルダはディーヴァ×クアエダムのローズ・マリーである」と知っているからだ。最初は他人の空似かと思ったけれど、モナルダさんのよく通るあの声がローズの声とよく似た声だったところからもしやと思った。一曲だけ手元にあるディーヴァ×クアエダムの曲にはローズ・マリーの歌声がはっきり聴こえるフレーズがある。食堂に響く声とこの歌声を聴きくらべると、限りなく同一人物の可能性が高いと結論した。
 ぼく自身はディーヴァ×クアエダムのコアなファンだとは思っていない。なにせ、イベントに行った事もなければディスクもグッズも買った事もない。一曲だけ凄く気に入った曲があって、それだけ電子世界からダウンロードしただけだ。勿論ファンクラブに入った事もない。芸能雑誌で動向を追いかけることもないし、何気にメディアにグループが映っていたらちょっと嬉しいとかそんな程度だ。グループ解体のニュースも時間差で知ったくらいだし。
 後、全員のメンバーを覚えているわけでは無い。不動のセンターソフィア・マーテル、その隣りで踊っていた子はなんとなく気に入って覚えていた。それから、買った一曲で良い味を出していた声の主たるローズ・マリー。この3人だけだ。
 そんなわけで「ぼくが気付くわけだからファンとか音楽好きの人ならわかるはず」と踏んで現在のモナルダさんを取り巻いているものを確認しようとした。
 彼の兵法書にも「疾きこと風の如く、徐かなるは林の如く、侵掠すること火の如く、動かざることは山の如し」と軍隊の心得が書かれている。忠実に守りつつ様子見をした結果、可哀想なくらいに認知されていない事がわかった。モナルダさん自身気に入っている人が複数人いるということもついでにわかった。
 まずは汚染駆除班テオフィルス・メドラー。それから、人事部タイガ・ヴァテール。そこにぼくを並べてみるけど全くもってモナルダさんの趣味には一貫性がない。
 恋愛的な好きだとしたら節操がないと言えるけれど、モナルダさんがその方面で奔放とは思えない。とすれば漠然と良いなの類いと考えるのが順当だろう。他の2人と接点があるかは知らないが、少なくともぼくに食堂以上の接点はない。画面の向こうの誰かに憧れるのと似てるのかなと思う。他の2人は兎も角ぼくに目をつけるのは見る目ないと思ったけれど。
 別に話すわけではないし、ぼくはモナルダさんがいつか音楽の道に戻れるなら戻ってくれたら良いなぁと思うだけ。モナルダさんだって何もぼくに向ける視線は本気ではなかろう。
 そう結論していたのに。愛の日に何気なく食堂の列に並んだら、配膳をしていたモナルダさんに呼び止められた。
「あ!あのぅ……エリックさん……!」
「あ、はい……?」
 まさか声をかけられるとは思わなかった。驚きすぎて動きがぎこちなくなってしまう。
「あのぅ……あのぅ……!!」
 モナルダさんが胸に手を当てて妙に苦しそうに見える。え、なんで緊張?緊張だよね?急性のアル中とかニコチン不足とかシャブの禁断症状じゃないよね?あ、シャブは違法薬物だったか。
「あのぅ……!」
「はい……」
 モナルダさんの次の言葉を固唾をのんで待つ。
「ファ、ファンです!もらってください!!」
「えっ!?」
 あまりにも唐突な話に照れるより驚きが勝って瞬きをするしかない。だって起こる筈が無い話だったから。期待していなかったし、ぼく自身ファンと呼べるかわからない立ち位置だし、と言うかモナルダさんその言い方もっと他に何かあったんじゃなかろうか。
 フリーズしたぼくとお菓子を差し出したままのモナルダさん。そして放置される後ろに並んでいる人達。見かねたのか出てきたノエさんに勧められるまま、ぼくは取り敢えずなんとか捻り出した笑顔でお菓子を受け取った。

夕方 記憶思巡

 自室にて。脱ぎっぱなしの服を退けてとりあえず座る椅子を確保する。男1人の部屋なんてそんなものだ。
 今日は色々あった。ビクターさんと一緒に第4メンバー等のお世話になっている人にお菓子を配れた。
 イオさんから渡されたシナモンクッキーは地味な見た目に反して軽い口当たりでとろけるように消えていく絶品クッキーだった。思わず走り出して大声で感想を伝えたビクターさんの気持ちがよくわかる。それくらい美味しい。
 ロナさんから渡されたトリュフチョコは本人曰く「大量生産した物だから気にしなくて良い」らしいが、これまた中々に美味しかった。ロナさんの料理スキルも製菓スキルも侮ってはいけない。一家に一台欲しいくらいだ。
 ビクターさんから味違いタラ干しを渡されたけれど、ぼくは好んで酒を飲むわけではない。タラ干し自体は美味しいから、非常食にでもしておこうか。
 そして、モナルダさんから渡されたベリーのガトーショコラ。流石給食部なだけあってかなり美味しい。ショコラの甘さをベリーの酸っぱさで苦味の方も際立たせた絶品な一品は食べ切ってしまうのが勿体ない程だった。
「失礼か。いや、失礼だよな……」
 モナルダさんからお菓子を貰えた事は嬉しい。というか女の子から貰えた事自体がとてつもなく嬉しい。
 学生時代にどうしても好きな子がいて勇気を振り絞って渡した事が一回だけあったけれど、あの時は「ダサ眼鏡君がお菓子とかウケるんですけど。キショい」と言われて受け取られることもなかった。勿論自宅の壁に投げつけたし、砕けたお菓子は泣きながら自分で食べた。
 その後は男ばかりの環境にいた所為ですっかりご無沙汰だった。まともに参加する愛の日は今回が久しぶりだった。
 そんな今回にモナルダさんから貰えたわけだけれど……この事をぼくは単純に喜べなかった。
「やっぱりモナルダさんはアーティストであって、ぼくのタイプとは違うんだよな……」
 多分、同じ物をメドラーさんやヴァテールさんにもあげているだろうと思う。
 問題なのは交換にならなかった場合、後日何らかのお礼の品を準備しなければいけないのではないかと言う事だ。くれた事を感謝するだけで良いものだろうか……出来ればローズとしてのモナルダさんに伝えたいけれど、本人が秘匿しているなら余計な事は言わない方がいい。
 目の前の食べかけのガトーショコラに視線を落とす。
 あれ……?そう言えばヒギリ・モナルダって聞いたか読んだかしたような気がするんだよな……何処でだったかな……
 首を捻ってなんとか思い出そうとするも出てきそうで出てこない。もどかしい。
「そうだ、ドラマのタイアップ……!」
 タイトルが面白そうだと思って確認した、ドラマの公式ホームページ。その音楽の項目にヒギリ・モナルダがいた。なんだか奇抜な名前だと思って記憶に残っていたんだ。
 なーんだ。そっか。ローズ・マリーの名義じゃなくなったけれど、ちゃんと歌手やってたんだ。名前が違うから気付けなかった。
「あれ?でもあの後直ぐか、テロが起きたのは」
 あの時まだドラマは放送していなかった。つまり、モナルダさんはテロでチャンスを失った人の1人なのだろうか。
「聞きたかったなー……モナルダ名義になってからの歌」
 ぱく、ともう一口食べたベリーのガトーショコラはやっぱり文句なしに美味しかった。

pm9:00すぎ 追跡調査 


 わたしは総務班総務部、フィオナ・フラナガン。
 前線駆除リンツ・ルノース班のウルリッカ・マルムフェとヨダカ様の写真の交渉の為に会いに行って、食い倒れ祭の時の怪しげな写真を目撃した。
 貰った写真を見るのに夢中になっていたわたしは、背後から近づいてくるもう1人の黒い人に気づかなかった。
 わたしはその人物に肩を叩かれ、気が付いたら……写真が消えていた!
フィオナ・フラナガンがまだ写真を持っていると黒い人にバレたらまた写真を消され、ウルリッカ・マルムフェにも迷惑が及ぶ。
 ロード・マーシュの助言で写真を隠すことにしたわたしは、彼にITに強い知人はいるかを聞かれて、咄嗟にそんな便利な知り合いはいませんと言い、ヨダカ様の写真を守り抜くロックをかける為に、テオフィルス・メドラーがプログラマーをしている汚染駆除ズギサ・ルノース班に転がり込んだ。

 たった1人の推しを推す、見た目は人間、好きなのは機械人形マス・サーキュ
 その名は、迷探偵フィー。

***

 とある寮の前。暗闇の中フィオナは一人で佇んでいた。冷え込む時間でありながらじっとその場所を動かないのは、人を待っているからだ。どこかハンターを思わせるフィオナの瞳。今なら視線だけで射殺せるのではというくらい目力が鋭い。
 話は半年ほど前に遡る。


 フィオナはマルフィ結社が立ち上がった頃から参加している。故に人が集まるまでは結社内の何でも屋総務部らしく、手の足りない部署をよく手伝いに行っていた。
 多分、人事部の手伝いをしていた時だったと思う。高い棚にあった資料を取ろうとした時、目的と違うファイルに指が引っかかってフィオナの顔面目掛けて落ちてきた。フィオナの左目はサイボーグアイ。もし顔に当たれば本物の目にぶつかった時よりリスクが高い。
 咄嗟に左側を庇うように手で覆って衝撃に備える。だが、降ってきたのはファイルの重みではなく、聞き慣れない機械人形マス・サーキュの声だった。
「危ないですよ、横着しないでください」
 ぱっとフィオナが振り仰ぐと、ラベンダー色の前髪を切り揃えた金銀の人工眼の機械人形マス・サーキュが落ちかけたファイルを支えていた。
 金銀の人工眼を瞬きを忘れて見つめるフィオナ。脳内はパニックになっていた。
ーーえっと……何これどこの少女漫画のシチュエーション?ストロベリーラテもびっくりだよ?てか金銀の人工眼ってしろいのそっくりだよね擬人化版のしろいの様そっくりだよね顔立ちもどことなく似てる気がするし!!うわ、顔が良い。何よりも顔が良い。完璧すぎないあの睫毛。輪郭最高。え、しかも『横着しないでください』ってしろいのの口癖そのまんまじゃない??わざと?わざとなの?わたしがナラ下好きなの知ってる誰かのイタズラか?え、本物??尊すぎない!?無理しんどい心臓に悪いーー
 唖然として返事をしないフィオナに機械人形マス・サーキュは困ったように微笑んでファイルを棚に戻し、隣りのファイルを抜いてフィオナに渡すと去っていった。
 放心しながら機械人形マス・サーキュの後ろ姿を目で追うと、黒いシルエットの人物の隣りにその機械人形マス・サーキュは落ち着いた。
ーーは?くろいのまでセットでいるとか何の冗談!?!?白のシルエットと黒のシルエットが並んでるとか現実にあり得るの!?あの時の俳優さんじゃ無さそうだし、え、全部偶然??予定調和じゃなくて!?とりあえず今日人事部の手伝い来てて良かった……!尊いものが見られたしもう思い残すことないなとか思っちゃったけど待って供給が多すぎて理解が追いつかない公式ふざけないでよ!!ん?公式って誰だこの場合ーー
 お礼を言えなかった事も忘れ、仕事の事も忘れ、フィオナは機械人形マス・サーキュに見入っていた。
「ヨダカ、随分あの女性に気に入られたみたいじゃないか」
「人助けは当然の職務です」
「それだけかな?」
 主人マキールであろう黒い人に話しかけられてもクールな表情のまま、澄まし顔のヨダカを見たフィオナは恋に落ちる音を聞いた。

 ヴィニズム。別名、機械人形マス・サーキュ偏愛症。恋愛対象として機械人形マス・サーキュを見てしまう性癖をそう呼ぶ。殆どを妄想で補ったり、理想の姿を作り上げようとする人形偏愛症とは区別されている。
 ヴィニズムの語源は機械人形マス・サーキュが発売されるよりずっと前に書かれた小説「0と1の恋心」という作品の主人公ヴィーナである。ヴィーナは街で見かけた男性型機械人形マス・サーキュに恋をして、人生を狂わせてしまい最後は悲しい結末になる。だが、ヴィーナは満足そうに笑っていた、という話だ。
 フィオナはこのヴィニズムだった。いい歳した大人が恋心を機械人形マス・サーキュに向けるのは一般的に歪んで見えるのはフィオナもわかっている。だが、人間に全くときめかないのだから仕方ないと開き直っていた。
 ヨダカに向けるフィオナの恋心は決して叶う事のないもの。主人マキールを失って上層部預かりになっているならともかく、結社に来た時から主人マキールと一緒なら望み薄だ。現在の主人マキールに談判して譲渡して貰う事も出来なくもないが、そこまでヨダカとユウヤミは希薄な関係性でもないらしい。
 わかっていて尚、諦めるのも想いを消すのもできず、陰ながら存在を応援したり、仕事上のできる範囲で協力するしかできないフィオナだった。


 そして今日のお昼の食堂である。
 午前中にウルリッカと会ったフィオナは、ヨダカがユウヤミと共に丸一日外出すると聞いて膝から崩れ落ちていた。エドゥアルトに渡せば手元に渡るとも聞いたが、フィオナが渡したいのはヨダカであり、断じてくろいののなり損ねなユウヤミではない。
 ヨダカ様と黒い人の行方を知っていそうで第6小隊以外の人物って誰だ?とお昼ご飯を食べながら考えたフィオナはユウヤミと絡みの多い人を脳内でリストアップする。ヨダカの情報を集めようと思えば必然的にその主人マキールであるユウヤミを知る事になるので交友関係も色々知っていた。
ーー黒い人の信奉者は割と多いけど、第6小隊のマルムフェさんが知らないなら信奉者も知らないんだろうなーー
 トマト味の汁麦ジュ・バツをもぎゅもぎゅ食べながら考える。
ーー前に人事部のマーシュさんと黒い人が話してて、そこに影みたいにヨダカ様が寄り添ってたの凄く格好良かったぁ……!真摯な眼差し最の高で尊い。うーん、でも行き先を伝えるほどマーシュさんと仲良さそうには見えなかったなーー
 ひき肉の卵包みを飲み込みながら決めつける。
ーー汚染駆除ズギサ・ルノース班のミサキ・ケルンティア。あの子も随分黒い人に気に入られてるのよね。待機してそっと見守ってるヨダカ様の横顔ウルトラスーパーむちゃくちゃ格好良かった……!けど、黒い人はケルンティアちゃんに冷たくあしらわれてなかった?ーー
 汁麦ジュ・バツの残った汁を飲み干してコン、とトレイに器を置く。
ーーそれなら!ーー
 食べ切ったトレイを返したフィオナは午後の業務に医療ドレイル班に行く仕事をねじ込むことにした。幸いと言っては失礼かもしれないが、医療ドレイル班所属の人物から提出された書類に不備があり、確認をする必要があったのだ。期限は随分先なので直ぐでなくても良いわけだが、適当な理由をつけるにはうってつけだ。ニヤ、とフィオナの口角が上がった。


 15:30近く。
 書類を片手に医療ドレイル班へ向かって書類の不備を直して貰ったフィオナは、最大の目的の人物を見つけて歩み寄る。
ーーヴォイド・ホロウ。黒い人がヨダカ様を放置しては会いに行っている2つの意味でナイスバディな人物。彼女なら何か聞いているかもしれない。それにしても、ヨダカ様を困らせるなんて酷い主人マキールだよなーー
 尚、フィオナが勝手に思い込んでいるだけである。ユウヤミがヨダカを撒いて居なくなる時の原因はヴォイドの事ばかりではない。別件で動いている時もあれば、単にサボっている時もある。
 さささ、と素早く移動して出来るだけ気配を消しつつ耳をそば立てて近寄るフィオナ。さながら、小動物を狙うイタチのようである。
 ターゲットが何かボソリと独り言。
「9時か……」
「何が9時なんですか?」
 いきなりフィオナに話しかけられたヴォイドが慌てた様子で頬を染める。
「ユ、ユウヤミと会う……の……」
「……と言う事は、その時間は確実に居るんですね……!?」
 ユウヤミがヴォイドに会う時にヨダカを連れたまま行くとは思えない、と即座に気付いたフィオナの口角が満足そうに釣り上がる。眼鏡に蛍光灯の光が反射して目元もよく見えない。
 一拍遅れてヴォイドは自分に話しかけてきた人物が医療ドレイル班でもなければ特に親しい人物でもない事に気が付いた。
「誰……」
 もう既にフィオナの耳にヴォイドの声は聞こえていない。脳内は今後の予定と自身の妄想と感謝の言葉で埋まっている。
ーーともすれば、ヨダカ様だけに会うことも可能かもしれない!ーー
 普段はヨダカを困らせるユウヤミに良い印象のないフィオナだったが、今回ばかりは放置してくれる事を感謝せずには居られなかった。
「ホロウさん、御協力感謝します!」
 若干潤んだ目でヴォイドに言い切ったフィオナはスキップせんばかりのテンションで医療ドレイル班を後にした。
 居なくなった後で、ヴォイドは話に聞いたサイボーグアイの人が今の人物だったのではと気が付いて「目がバラせる……」と呟いて通りすがったメンバーを凍らせた。
 様子を全部見て居たジークフリートはフィオナの行動が理解できずに首を捻り、同じく一部始終を見て居たアキヒロは生暖かい視線で見守っていた。


 というわけで、フィオナは推したるヨダカとその主人マキールであるユウヤミの帰りを待っていた。
 闇に溶けるような黒いシルエットに寄り添う白い姿が見えたフィオナの心臓がドクン、と音を立てる。
 いつ物陰から出ようかと様子を伺っていると、ユウヤミの面白がる声と呆れたようなヨダカの声が響いてきた。
「ヨダカ、君はこの状況をどう推理する?」
「何処で買った恨みですか?」
ーーえ、恨み!?ヨダカ様に恨みですと!?そんな不敬な輩がこの世界に存在するとかあり得ないっていうかヨダカ様は相当な苦労人だぞ尊敬し感謝し崇め奉りこそすれ恨みとかあり得なすぎて理解に苦しむんですけど。もっとも?アンチの考えなんて理解したくないけど?ーー
 聞き捨てならない言葉を聞いてフィオナの脳内は爆走していた。勿論、彼らの会話の続きは聞こえていないので愛の日にウルリッカが善意で準備した花の話だとは知らない。
 考えているうちに部屋の扉が閉まる音がして、ハッと顔を上げる。
ーーもうお帰りなの……?時間的に9時は過ぎているけど、先にホロウさんのところに行ったようには見えなかったなぁ……行くとすればヨダカ様置いて行くだろうしーー
 そう考えたフィオナはもう少しここで待ってみようと考えた。
 すぐそこを黒い影の人ががさささと平べったい虫のように動いていったのをにおいで感じ取ったフィオナは自分の勘が当たった事を確信した。
「疲労はピークの筈……この近くを探せば見つかるでしょうか」
 そんなヨダカの声が微かに聞こえてきたので影で待機していると、少し時間が経ってから白い人影ーーヨダカが大股歩きで登場した。
「あのっ!」
 チャンスだとフィオナがヨダカに声を掛けるも、集音できていないのか、敢えて不要な音として無視されているのか、無反応だった。
「すみません、ヨダカさんっ」
 負けじともう一度声を掛けるフィオナにようやくヨダカが振り返った。
「何でしょう、フラナガンさん……これから主人マキールを探しに行くところなのですが」
「あ、忙しいですよね、さっき黒い人出てきましたもんね。だから手短に済ませます」
 訝しむようなヨダカの表情を見、あぁどんな表情でも格好良いなと思いながら、準備してきたヨダカ用のプレゼントを引っ張り出す。
「ヨダカさん、今日、愛の日なので」

 これどうぞ。ずっと、ずっと、好きでした。今も、大好きです。

 そう言ってフィオナが差し出したのはカスミソウの小さい花束。
 フィオナの行動が想定外だったらしく、ぴたりと動作停止するヨダカ。フィオナの鼓動とヨダカの微かな駆動音だけが宵闇に溶けていく。時間が引き延ばされていく様な感覚に襲われたフィオナの耳に、ようやく言われた事に対する言葉が見つかったらしいヨダカの声が聞こえてきた。
「……いえ、私は機械人形マス・サーキュなので。そういう好意なら受け取れません」
 あの涼やかで真面目な表情で答えるヨダカ。そうだよね、知ってたよ、とフィオナは思いながらも浮かんでくる涙を堪えるのに必死だった。
「その律儀なところ好きです。そうですよね……じゃぁ、一介のファンからって事で受け取って頂けませんか?アイドルとファンの関係なら問題はないですよね?」
 泣き笑いの顔でもう一度カスミソウの花束を差し出すフィオナ。
「アイドルになった覚えはないのですが……仕方ないですね。より円滑なコミュニケーションの為に受け取りましょう」
 早く引き下がって貰いたい事と、余計な荒波を主人マキールの周囲に立てない為に受け取る事を承諾したヨダカ。
 小さいとは言え花束の重みがヨダカの手に移った瞬間、フィオナはくらりとその場で座り込んでしまった。
「フラナガンさん!?」
 さっと花束を横に置いたヨダカがフィオナの肩を掴むと彼女は焦点を彷徨わせた放心状態になっていた。
「フラナガンさん、大丈夫ですか?」
 とんとん、とヨダカがフィオナの頬に軽く触れても無反応である。微かに動いた口元から漏れ出る音を拾おうとヨダカが集音機能を調整していると「いっぱいちゅき……」「尊い……」という声が聞こえてきた。
 好きなものに対する感情が大き過ぎ、最早言語化出来なくなった人間によく見られる反応だと解したヨダカは何も聞かず何も言わないのが得策だと判断した。
 尊すぎると人って本当に死ぬんだな、と思いながら口元を緩ませているフィオナ。ヨダカから見ればだらしない表情以外に表現しようがない顔である。暗視モードだと正確な色は確認できないが、顔の表面温度上昇と脈の速さでフィオナが興奮状態である事だけはヨダカにもわかった。
 フィオナの焦点が定まってきた頃を見計らってヨダカは口を開いた。
「脈が速すぎますし、体温も異常ですね……医療班に連絡する程ではなさそうなので部屋の前まで送ります」
「ひゃぃ!?あ、あの、リーシェルさん探しに行くんじゃなかったんですか……?」
 天地がひっくり返ったような慌てふためき方をするフィオナに静かにヨダカが微笑む。
主人マキールが何処に行ったかはおおよそ見当が付いていますのでご心配なく」
 またくらりと倒れそうになる意識をフィオナはなんとか繋ぎ止めて「リーシェルさんの事、よく知っているんですね。流石ですぅ」となんとか言葉を返した。「主人マキールですから当然です」と返したヨダカの言葉が聞こえてきて信頼関係の強さにまた眩暈がする。
 片手に花束を持ったヨダカに手を引かれて立ち上がり、言葉に甘えて一緒にフィオナの部屋を目指して並んで歩く。
ーー待て待て待て。これは?話の流れとは言え?ヨダカ様と並んで歩いてる??わたし??妄想じゃなくて現実だよね?わ、ヨダカ様の横顔ウルトラスーパー格好良すぎて目が潰れそう潰れないけどやばいわ何あの圧倒的造形美これが国宝か否これは世界遺産レベル全世界が保護の為に予算注ぎ込んで然るべきでしょ!でも大勢の大衆の目にヨダカ様が晒されるとか無理ダメ絶対許さん好奇心だけで来た奴許さん本命で来る奴はもっと許せんーー
 脳内爆走状態のフィオナは折角隣りにヨダカがいるというのに一言も発せていない。ヨダカとしては根掘り葉掘り聞かれるよりずっと楽なのだが。
ーーそうだ向かう先はわたしの部屋?あっ、心の準備が……!って思ったけどよく考えたらヨダカ様はそもそもただの家庭用機械人形マス・サーキュだし仕事に恋愛の設定は含まれてないよね。ていうかあの黒い人にヨダカ様の恋愛設定組み込まれるとかその方が耐えられないしあり得ないし絶対ろくでもない設定書き込まれる予想しかないし。やっぱり今のままのヨダカ様が好きだわ。あれ?そういえばヨダカ様、普通の機械人形マス・サーキュにしてはスペック高すぎるようなーー
 考えているうちにヨダカの歩みが止まった。ハッとしてフィオナが周囲を見回すと自室のドアの前だった。
「此方の部屋で間違いないですね?」
「ひゃ、はい……」
 首振り人形の如くガクガクと頷くフィオナ。
「いくら結社の敷地内と言っても、この時間に女性一人で外出するのは宜しくないかと」
 機械人形マス・サーキュらしい、人当たりの良さそうな微笑みでフィオナに語りかけるヨダカ。
「慎重なフラナガンさんなら既にしていると思いますが、きちんと鍵とチェーンをかけてくださいね」
「ひゃい……」
 では、と背を向けて歩き出そうとするヨダカにフィオナの声が追い縋る。
「あ、のっ!」
「何でしょう?」
「れ、連絡先をっ、教えてください!」
 考え過ぎたフィオナの口から飛び出したのはそんな台詞だった。暫し動作停止したヨダカだったが、直ぐに計算し直して回答を導き出した。
「フラナガンさん、アイドルとファンだと言いましたよね。アイドルの個人の連絡先を知るのはファンの行動として逸脱していませんか?」
「そ、そうです、よね……」
 消え入りそうな声で引き下がるフィオナ。
「それでは失礼します。良い夢を」
 次は何を言っても振り返る事はなく、ヨダカはカスミソウの花束を持って夜に溶けていった。
 
 部屋に戻ったフィオナが一人で膝から崩れ落ちていたのは言うまでも無い。
「はぁ…無理尊いしんどいあれはズルい、ズルすぎる。一回断られたけどそれがヨダカ様らしすぎてらしいしなんなん最高ですか最高ですね尊いなんて言葉で片付けていいものじゃないでしょあれは。ていうか、ヨダカ様のご尊顔があんな間近に見られるなんて何のご褒美ですかしんどい無理つらたん」
 圧倒的造形美な横顔を思い出したフィオナの顔が火照る。
「ダメだ何言っても『尊い』以上の言葉が見つからない……!」
 声を押し殺しながら転がるフィオナ。推しのサービスショットを見たオタクと大差ない。
「はぁ…」「無理…」「しんどい」「わかる」「それな」「尊い」「しゅき……」
 語彙力が本当に崩壊して荒ぶっていたフィオナは寝る前ルーティンを全部忘れ、気づいたら朝になって大慌てしたのであった。
「よし、この尊さはマテ……マーシュさんに語らなければ」