薄明のカンテ - 愛逢月までもう少し/燐花


Side Gary.

『追悼式典の前後の予定、まだ全然調整利かせられると思うから、なるべく早い内に予定の相談してみてね』
 それだけ打ったメッセージをセリカへ送る。
 いつもの調子なら全然そんな事はないのに、ギャリーはこの程度の文を送るまでに実に三十分も悩み続けていた。
 亡き夫へのケジメとして、テロから一年の日までは彼のものでありたいと言うセリカ。先日のデートで彼女と恋仲になれる事を期待していたギャリーにとっては一度フラれるのと同義だった。よくよく考えれば彼女の誕生日プレゼントを買いに行った時、ホテルへ行く事や泊りと言う単語に難色を示していた辺りで少し察する事も出来たかもしれないのに、彼女の反応から「自分と両想いなのではないか?」と淡い期待を抱いていたギャリーの観察眼は見事に曇ったわけだ。
 結婚などと言う人生の大イベントをこなした女性。一緒になってくれと言う申し出を受け入れたのだから、彼女は亡き夫を相当愛していたに違いない。例え何か二人の間にあったとして、夫婦と言うのは愛と同じくらいに情だってある。そう簡単に「はい、次」と切り替えられる訳がない。夫婦の間には絆が往々にして存在する。そしてそれは自分がおいそれと超えられるものではない。
 彼女が「人妻だった」と言う事を忘れたギャリーの大き過ぎる判断ミスだ。セリカの夫への愛を軽んじたわけではないが、心のどこかでそれ以上に自分を好いてくれているのではないかと言う夢物語の様な期待をしていたのは確かだ。
 だからこそ、それを突き付けられてギャリーは考え、一度落ち込んだものの彼女と共に自分も真剣に向き合う為の期間にしようと決めた。せめて同僚らしい距離感でその期間を過ごそうと思ったものの、いつもなら理由を付けて彼女のところに行っていた所為で今の状況はまるで蛇の生殺しだ。
 会いたいのに自由に会いに行っては決意が揺らぐ。亡くなった彼女の夫の為にも、自分もケジメとしてその期間は彼女を「セリカ・ピンカートン」として見なければと思うのに。決意に反して何だかモヤモヤとした気持ちが心の中を覆ったままだ。
「……お!ユリアちゃん!ネイル変えた?可愛いねー」
「あ、ギャリーさん!こんにちはぁ!よく気付きますねぇ」
「勿論!女の子の些細な変化にはそれはもうビンカンに反応しちゃうからね!その綺麗なネイルもっとゆっくり、ちょっと暗いところで見たいなぁ…と言うわけで今夜、一緒に食事でもどうだろう?」
「あははは!ギャリーさん誘い方雑すぎますよぅ」
「え、そう?」
「はい!勿論行きませぇん」
 元より彼氏がいると分かりきっているので結末は分かってはいたが、ユリアに「勿論」まで付けた強めのお断りを食らいめそめそ落ち込むギャリーの目の前をミアが通り掛かる。ギャリーはユリアに手を振り、一度ミアに拝む様に手を合わせると包子パオズを片手に彼女に近付いた。
「ミアちゃん!おはよ」
「あ!ギャリーさん!おはようございます!」
「今日もミアちゃんは元気で可愛いねー。ぐひひひ、そんな可愛い君にはオヂサンが包子パオズをあげようねー」
「ギャリーさん、朝からどんなテンションなんですか!?おじさんなんて言わないでくださいよー!全然若くて綺麗なのに…!」
 無論、『ネビロスの次に』だ。
「お?若くて綺麗で格好良くてセクシーで年上キラーだって!?かわい子ちゃんにそこまで褒めて貰えるならオヂサン今日は頑張っちゃうぞ!」
 わざとらしく怪しげにくいくいと前後に腰を動かす動作をしながら包子を手に持つ。そんな不審者をほったらかす程ミアの防犯システムネビロス・ファウストは甘くない。
 どこからともともなく現れると、ネビロスはミアの頭を愛おしむ様にぽんぽんと撫でながら静かにギャリーに圧を掛けた。
「…おはようございます。何やら朝から無駄に・・・元気な様ですね」
「そうかや?まぁ、俺は『朝から』元気なのが取り柄なの」
「普段眠たそうにしている癖に、今日は一体どうしたんです?」
「え?いつも俺元気だよ?」
「……いつもより冗談が些か下品ですよ」
 ネビロスには冗談の下品さがバレていた。しかもそれが空元気に近い強がりの様なものであると言う事も。
 ギャリーは居た堪れ無さそうにぽりぽりと頬を掻くとネビロスにも包子を手渡した。
「それ、ミアちゃん向けに用意した甘い餡子の包子だよ。ネビロスも甘いの好きだったずら?やるからへぇ、見逃してくれや」
「ギャリー、待ちなさい」
「まぁまぁ、それでも食べて落ち着きましょ。さてさてバカップルの惚気に当てられる前に俺はそろそろお暇するかな」
 そう言いながら経理部へ向かうギャリー。ネビロスは少し呆れた様に、ミアは少し心配そうにその背中を見送った。
 いざ仕事が始まると本人はいつも通りに過ごしていたつもりだが、それでも様子がおかしかったのか昼頃になるとアルヴィが難しい顔をし出した。
「ベネットさん、あの…」
 こそりと耳打ちする様に囁く。ギルバートが作業をしながら体を少しアルヴィの方に傾けると、アルヴィは言いにくそうに呟いた。
「何か…ファンさん変じゃない?」
「変?いつも通りじゃないか?」
「いやぁ…何かこう、何か変な気がするんです…違和感レベルですけど…」
「違和感ねぇ…?少なくとも僕にはいつものチャランポランに見えるが?」
「うーん…そうかなぁ…?」
 心配そうに見つめるアルヴィに気付き、ギャリーは何を言うでも無くただにこりと微笑む。
 確かに元気そうには見える。いつも通りに元気そうならば一体何がこんなに違和感なのだろうか。ギルバートがこんなにも普段通りに思っているところから考えるに、自分の勘違いと言う事もあるのだろうか。
 時間だけがただただ過ぎて行き、気付けば休憩に入ったのでアルヴィは飲み物を求めて自販機に向かう。ゆっくり選びたいものだったが、自販機前には既に先客が居た。
「あ、すみません。退きます」
「い、いいえ!お気になさらず!!」
 若々しい、おそらく十代の子達だ。もう三十三歳になるアルヴィは若さ溢れるオーラに圧倒され、無意識に縮こまりながら遠慮がちに言葉を交わした。
 若々しい三人の内、二人はアヴルーパであまり見ない黒い肌。調達班のオルソン兄妹だろうか。もう一人は肌と髪もアヴルーパでよく見る色素の薄さだが、前線駆除班のセリカ・ミカナギよろしく和服を着た少女だった。
 そこでアルヴィは気が付いた。そうだ、ギャリーに対して何か変だ変だと思っていたが、そう言えば何かと理由を付けて仕事を抜け出しセリカに会いに行っていたのに、今日に限ってそれが無いのだ。ギルバートが怒り出すから確かにちょっと困ったところではあったのだが、急に無くなるとそれはそれで不思議な気持ちになる。ギャリーは確かに抜け出すが、最近は休憩時間の少し前に飛び出すので仕事における実害はあまり無いのだ。
 そんな事を考えていたアルヴィの耳に、サーラの元気な声が飛び込んで来た。
「ねぇ!エンマあの噂知ってる!?『人妻に告白した不審者』!」
 アルヴィは飲んでいたペットボトルのお茶を噴きそうになりながら、「良くはない」と思いつつこっそり耳を傾けてみた。最近の若い子の好む話題にしては何と言うか、爛れている。
「何じゃ急に」
「深夜に女子寮の前で大声で告白した人が居たんだって!しかも!しかもその人奥さんだけじゃ無く旦那さんともエッチしたいとか何とか言ったらしいんだって!!」
 アルヴィはとうとう茶を噴いた。
 少女の和服の印象に引っ張られてか、『人妻と言えば前線駆除班のセリカ・ミカナギさんみたいだなぁ』などと考えていたらまさかの『奥さん』、『間男』、『旦那』まで爛れた登場をするとは思わなかったのだ。
 十代の子の何故か好んでいる爛れた話を盗み聞きした上に茶を噴くなどバレたら社会的に死ぬ。そう思いながら一瞬血の気の引いたアルヴィだったが、幸か不幸かもっと大きな声を着物の少女──エンマが上げた事で事なきを得た。
「な、な、何を言っとるかサーラこのたわけが!!大和撫子たるもの貞淑さを忘れずに!!じゃ!!」
「えー?普通じゃん?それに、ヤナトナベヒコ?目指してるのはエンマでしょ?」
「ふふふ…妾はセリカさんに次ぐ大和撫子を目指しておるからな。…いやいやそうじゃなくて、普通な訳あるか!!そもそも、お主の話も何だか『らしい』ってあまりにも他人事だな!?聞いたわけでもない話をおいそれと言いふらすな!」
「だってー、私その時女子寮に居なかったんだもん!」
「どこにおったのじゃ?」
「男子寮」
「………この不良娘が!!!」
「誤解してるとこ悪いけどエンマちゃん、サーラは僕の部屋に居たんだよ」
「カールの部屋か?ま、まぁ…双子の兄妹だし不思議では無いか……」
「うん、僕の部屋で賭け神経衰弱やってたんだよ」
「二人揃って何でこうも健全じゃないのじゃ!?」
「え?僕らのはただのおやつを賭けた神経衰弱だよ。ペアを当てる度にお皿からチョコ一粒食べれるんだ」
「前言撤回!何て平和な遊びじゃ!?」
 アルヴィはまたも噴きそうになる危険性を考慮し、とうとう三人から離れる事にした。
 しかし、エンマは何と言うか空気がそこはかとなくギルバートに似てるなぁと思い出したアルヴィは一人笑う。間合いと言うか話し方と言うか、やっぱりある種の「ツッコミ」の様な人が居てくれると場が締まるのだろうなぁと思いながらいつもの自分達に重ねてみた。
 女の子を求めて仕事を早々に抜け出そうとするギャリーとツッコミに精を出すギルバート。これがいつもの日常で、今日これのどちらも無いと言う事はやっぱりギャリーの今日の様子は何となく普段と違うのだと確信を持ち、アルヴィは経理部の部屋に戻った。そしてギルバートの席に向かうと、抜け出さないギャリーに気を良くしている様でありつつ少しソワソワしている彼を見て微笑んだ。
「やっぱり、ベネットさん本当は気付いてるんじゃないですか」
「……言うな。せっかくアイツの脱走癖が改善されて今日一日良い気分だったんだ、僕は」
「ふふ。でもその割にはソワソワしてるから。ファンさんの様子のおかしさには気付いてるんですよね?それに、やっぱり何だかんだ気にしてた感じするし」
「……はぁ。僕の見間違いでなくやっぱり様子、おかしいよな……」
 ギルバートもアルヴィもギャリーに違和感を抱いていた。何だかんだ、半年も一緒に居ればそれなりに見えてくるものがあると言うもの。
「…しょうがない。またラーメンでも食べに行くか」
「良いですね。ファンさん、ラーメン食べに行くと生き生きしますから」
「全く…。僕より年上の癖に本当周りに心配ばかり掛けるんだよ、彼は」
 何と無く口には出さないが、セリカ絡みの事では無いかと察した二人。素知らぬ顔をしながらギャリーを仕事終わりにラーメンでも食べに行くかと誘いに行く。
 しかし親の心子知らずならぬ、友の心我知らずとでも言うのか。人事部の仲良し三人組を絶賛ナンパ中だったギャリーは彼等の登場に一瞬あからさまに嫌そうな顔を見せたので、ギルバートは今日一番と言う雷をここで落とし掛けたのだった。

Side Celica.

「君、そりゃ随分痛いとこ突いたなぁ」
「え?そうなのですかぁ?」
 前線駆除班休憩室。カンテ国では少しだけ珍しい黒髪の二人が揃って茶を啜って居た。二人が飲んでいるのは兎頭国のブレンド茶で、今日は敢えて温めて飲んでいる。
 黒髪の一人──セリカはこの飲み方を好んで居た為普段通り特別な事は無いが、もう一人の黒髪──ゼンは初めてだった様で口に運んだ瞬間一瞬眉間に皺を寄せたが、「まぁ、苦いが悪く無いな」と呟くとごくごくと喉を鳴らした。
 ゼンがお茶を飲む度に彼の喉仏が上下に動く。
 美味しく飲んでくれている事に安心していたセリカに「そう言やデートはどうだったのかね?」といやらしい顔で聞いたゼン。
 全く。この人は本当にデリカシー無くズカズカ来るのだから。
 一瞬そう思ったが、ゼンの目がいつもの万物を見下す様な死んだ目では無く、柔らかく優しい目をしていたのでセリカはほんの少しだけ警戒を解く。そしてつい先日のデートの話を、ちょうど警察にも協力して来たところだしと何の気無しに話した。まさかのギャリーが痴漢にあってしまって大変だったと言う世間話をしただけのつもりだったが、ゼンは意外と真面目な顔をした。
「……君、本来ガキ大将気質だったりしないか?」
「え?セ、セリカがですかぁ?」
「あぁ。ガキ大将気質で面倒見が良くて正義感に溢れて曲った事が大嫌い。だからあのアシューアン兎頭国人が標的にされた時我慢ならなくなった、違うか?」
「そ、それは……」
「あ、それ以前に君の場合はアレ・・が惚れた相手だからか。いかんいかん間違えた」
「………」
 わざとらしい物言いにセリカがムッと頬を膨らませるとゼンは携帯端末を弄り、帽子を取って髪の毛をわしゃわしゃと掻いた。
「ほら。君がその痴漢野郎に突き付けてやったの、この時俺が教えた奴だろ?」
 端末に写っていたのは第三小隊の皆で任務帰りに飲みに行った時の写真だ。この日は色々と大変だった。
 バーティゴが義肢である事に絡んで来た男達に酔った勢いで次々腕相撲を仕掛けるわ、その場の空気に酔って過度に飲みまくっていたルーウィンが吐くわ、酒癖の悪さを発揮したジョンが人知れず表で一対複数で喧嘩を始めるわ、酔って気が大きくなって女性を口説きに掛かったゼンが人知れずフラれ人知れずヤケ酒を煽ってルーウィン同様吐くわ。
 唯一節度ある飲み方をしていたセリカだけがこの阿鼻叫喚に直面して吐いた男二人を看病したし、あらゆる火消しに奔走して楽しく飲むどころではなかった。ちなみにキッカは最初こそ参加していたが子供ノーマンを理由に途中で帰宅している。彼女はこの惨劇を上手く回避するなかなかの運の強さを発揮した。
 その後一番暴れたバーティゴとジョンを結社で正座させ流石にお説教までしたセリカだったが、その前に帰りの電車でゼンを見直す事件があった。
 それがゼンの言いたかった「本題」だ。
 結社に戻る電車の中、痴漢に遭った女性が居た。その場に居た全員がグロッキーな中、一度吐いてスッキリしたのかゼンが様子のおかしい女性を見付けた。
「あの子……おっぱいのサイズは俺好みだし髪型も髪色も俺好みの今風の小綺麗な美人って感じだしメイクも主張し過ぎず且つすっぴんには見えない薄さで良い…とても良い……服も年代に合わせた程良い露出で何から何まで俺好みだ……」
 そんな事を口にしたのでセリカは勿論一度無視した。そうこうしている内に電車を降りる彼女に合わせてゼンが席を立ったので流石にこの時はセリカも慌てる。まさか酔いが覚めた様に見えて実はまだベロベロに酔っていて好みの女性にストーカー的な追い掛けも辞さない程理性が消えているのかと最悪の事態も想定したが、ゼンは仕事でも見せた事のないキリリとした表情でいつの間にか現れた男に詰め寄っていた。
「貴方、今さっきまでそちらの女性の体をずっと触っていましたよね?おまけに、ここが最寄りと気付いてやっとの思いで帰ろうとした彼女から一歩遅れて一緒に降りてその後は一定の間隔で後を追っていた。本当は貴方の最寄りはここでは無いのではないですか?そして駅を出たところで酔ってフラついている彼女を力任せに連れ込み乱暴しようとした、違います?」
 セリカが唖然としつつもその光景を見つめていると、軍警も駅員も現れゼンは渦中の人となった。ゼンがテキパキと証拠を提出したからかすぐに帰してもらえたが、この時セリカもゼンと一緒に下車してしまった為にバーティゴとジョン、ルーウィンはそのまま結社まで乗って行ってしまったしセリカはゼンと二人きりで帰る羽目になった。
 せっかくお姉様と女子寮のお部屋の前までご一緒出来ると思いましたのに。そう言いたかったが、普段接点も無く仕事を離れればあまり話さないゼンと言葉を交わす良い機会かと思い、様子を伺ってみた。
 しかし、この時ゼンの発した一言で一度二人の間に亀裂が入り、次また飲みに行くまで関係が修復出来なかったと言う苦い過去があるのだが。
「そうそう、その時のですぅ。でもゼンさんったら酷いんですもん」
「何が?」
「私がこの時の事で質問したらゼンさんったら『君も気を付けろよ。ま、君みたいなタイプはあんまり狙われる気がしないけどな』って吐き捨てる様に全てを見下す顔で仰いましたもん」
 ゼンのものまねなのか、全てを見下す勢いの死んだ目で高圧的な言葉を口にするセリカ。ゼンは『まさかと思うがそれ、俺の真似じゃないだろうな?』と言いつつセリカの誤解を解かんと口を開いた。
「それは君の誤解と言うものだ。俺は君の事を『魅力的な女性じゃないから狙われない』と言ったのではない。あのテの人間は、反抗しない言いなりになりそうな人間をターゲットにする。だから君は狙われないと俺は思った。それだけの事だ」
「まぁ確かに、狙われそうと思われるのも嫌ですねぇ」
「どっちにしろ嫌なんじゃないか」
「でもゼンさんの言い方が不躾だったのも本当ですぅ」
「あーはいはい。じゃあトータルで俺が悪いよ」
 面倒臭そうにそう口にするのでともすると「優しさが足りない」と思われがちなゼンではあるが、根っから悪い人間ではないと言う事も共通の仕事をこなしたセリカは知っている。
 ちなみに、ゼンが痴漢に言った『本当は貴方の最寄りはここでは無いのではないですか?』の言葉はセリカが後から聞いたところによるとハッタリとの事だった。
『好みの女性だったからただ眺めていただけじゃないぞ?何だか隣の男の手と視線が随分と怪しかったからな。実際スカートの中に手を入れようとしたり胸元に手を伸ばしたりしていたから最初は痴態を晒して興奮する系のカップルかもとも思ったのだが、にしては女性が随分と男に対してよそよそしかったんだ。恋人くらい距離が近いなら、彼氏が見せ付けるタイプの変態だったとして彼女がそれを拒否したいならきちんと伝えるだろう?それが出来てない時点で仮に恋人同士だとしてもいわゆる暴力の一種として成立する。その上酔っ払った女性が男を置いて降りようとして、且つ男が一歩距離を置いた様な降り方をしたから恋人同士でない完全な赤の他人と見た。となると車内での触り方はもう法に触れる。そこだけに留まらず追い掛けたと言う事は、見て見ぬ振りをしていたらそれ以上をやる可能性が高い。そこまでをトータルで見た可能性として考えたハッタリだよ』
 そしてそのハッタリをかましてやったら酷く動揺していたので隠し撮りをしていた触った瞬間の映像やら何やらが役に立ったのだ、とゼンはそう言った。
「確証があったのでセリカも詰め寄りましたけどぉ……あんな風に噛み付いてこられると思わず驚きましたぁ…」
「だからまぁ、気を付けろよ。被害に遭う事の多い側に居る人間に『犯人らしき不審者に気を遣え』と言うのも変な話だがな。自分が手を出さなければ誰も嫌な思いをせず自分も前科者にならずに済んだはずなのに被害者が告発したらそれを逆恨みする、そう言う無茶苦茶な理屈で動く人間は少ないとは言え居るからな」
「そんな方…いらっしゃるんですねぇ」
「変態の中の更に突き抜けた奴によく見るんだなこれがまた」
 それが彼の仕事。とは言え、きっと今までにもあったのだろう。明らかに犯人と分かっている人間を『無罪だ』と弁護せねばならなかった事が。実に難儀な仕事である。
「現状、手に付着した物を調べる微物検査、これは出たら犯人の疑いが強まる物だが、出なかったからと言って『犯人ではない』と容疑を否定する物にはならないんだ。出なかった、は『そうですか出ませんか』で終わり。だから現状、裁判に有用な検査を知っていたら知っていただけ容疑者を追い詰められる。勿論、本当に冤罪だった場合でもそれは適用されてしまうから使い所には気を付けろよ」
「そうですねぇ」
「冤罪が引き起こされてる裏で生贄を差し出して免れた真犯人が今日も元気に痴漢してるなんて虫唾の走る話だがそれも仕方ない、それが司法だ」
 しかし、そんな話をしたいんでは無いのだよ。
 ゼンはそう言ってセリカの目の前で手をひらひらと動かした。
「で?デートはどうだった?」
「あー……」
「痴漢の話なんて聞きたく無いんだよこっちは。そんなもん前職で嫌って程見てるからな」
 正直上手く言えず、遭遇した痴漢の話でお茶を濁そうかとも思ったのだが。下手に逃げても仕方ないかと観念して洗いざらい話してしまうと、意外にもゼンは嬉しそうに笑った。
「そうか…あの色男気取りのアシューアン兎頭国人、フラれたか」
「フッたと言うと語弊がありますが…」
「いやいや、前向きに人生を進む為の良いステップじゃないか。自分の人生、自分の為に進んで楽しんでこそなんぼだからな。その為に設置したケジメとなれば、前向きなのは良い事だ」
「ゼンさん…」
「何より、あの色男がみじめにフラれる様を見るのは気分が良い」
「もう、ゼンさん…」
「しかし、七月までだろ?放置してて大丈夫なのかねぇ?」
「え?」
「今四月だろ?七月の半ばまで約三ヶ月……三ヶ月も待ったを掛けられて同僚の距離感で放置だろ?いやいや、俺は絶対無理だねそんな遠距離恋愛モドキ。近くに居るのに距離感遠距離とか尚更嫌だぜ。絶対もっと面倒じゃ無い恋愛するし何なら風俗くらい行くよ」
 ゼンは確かに良い人だ。口調こそぶっきらぼうで高圧的で勝手な面も目立つし、何より他人は全て自分よりレベルの低い人間であると言う態度を臆面もなく晒す様な彼だが優しいところも多分ある。多分。おそらく。
 しかし、セリカはそれでも自分の同僚や友人にゼンを紹介したくない理由があった。それは、彼のこの全ての良さを帳消しにすると言わんばかりにどうしようもなくデリカシーの無いところだ。
「………」
「しかし三ヶ月先まで待ってくれと言えてしまう君らの関係性が羨ましい限りだね全く」
 そんな言葉すら、きっと彼の事だから言葉の通りの感情しかない筈なのに、何故か遠回しな嫌味に聞こえてしまう。
 それはきっと、多分自分が一番ギャリーを傷付けていないか心配で、そしてそれを考えると忽ち余裕が無くなってしまうから。
「………」
「あ?黙りこくってどうした?セリカ」
「……そ、……」
「は?」
「そ…そんなに言う事…無いじゃないですかぁ……!!」
 ゼンのギョッとした顔を見てセリカは自分がボロボロと涙を流している事に気が付いた。
 普段なら「はいはい」と言って流せてしまう、デリカシーの無いゼンの「俺だったら論」。あくまで彼ならそう思うと言うだけの事なので普段なら気にも留めずに流せてしまうのだが、ギャリーの気持ちと自分のケジメを秤に掛け珍しく自分の気持ちを優先した事に不慣れなのか情緒不安定な今のセリカには彼の配慮の無さは痛かった。
 さめざめと泣くセリカを見ながら居た堪れ無さそうに壁や天井に目線を走らせるゼン。何を言えるでも無くただ分かりやすく目線を泳がせている。いつもの饒舌さはどこへやら。

 * * *

「あぎゃー……」
 じーっ…と遠くを見つめながらキッカがぼそりと口にする。隣で缶コーヒーをぐびりと飲んだジョンはそれを見て一言呟いた。
「キッカさん、出て・・んぞ」
「はっ…!!」
 こほん、と恥ずかしそうに咳払いをし、誤魔化すキッカにへらりとした笑みを見せるジョン。二人の視線の先には、十代の少年少女がキャッキャと声を上げながらバスケットボールを楽しんでいた。
「若ぇな……」
「…ええ」
「俺なんてあんな頃なんざ軽く三十年は前だぜ」
「私も、二十年は前です」
「ノーマン君が後数年もすりゃあんな感じか……」
「時が経つのは早いですね…」
 そんな遠い目をしながら眩しい眩しい十代の少年少女達を見つめていると、その内のすらりと手足の伸びた少年が目に付く。カンテ国には珍しい色黒で、真っ黒の髪をした彼は爽やかな笑顔でバスケをしていた。ジョンが彼ばかり目で追ってしまうのは肌の色にシンパシーを感じるのか、それとも彼に似た友達でも思い出していたのか各々の理由で若い彼らをぼうっと見つめていると、少年が屈託のない笑顔で口にした。
「ねぇサーラ。そう言えば知ってる?」
「何を?」
「昨日女子寮にいる子から聞いたんだけど、この間人妻を口説いてる人が現れたんだって」
「え!?何それ何それ!?面白そう!!」
 そんな話に気を取られている少女──サーラからサッとボールを取り、少年は華麗にゴールを決めた。
「あ!!カール酷い!!」
「集中力切らしがちなサーラの負けだね。勝負の最中によそ見は厳禁だよ」
「だって…そんな面白そうな話題…!!あ、もしかして作り話!?私の集中削ぐ為の!?」
「いや?それは本当の話。何かね、その子が言うには人妻に盛大な口説き方して挙句に『旦那さんともエッチしたい』とか何とか言ったらしいって」
「きゃーっ!!」
 サーラは口を手で覆いながらキャーキャー騒ぎ立てる。もうこうなったらバスケの試合の行方はどこへやらだ。ボールそっちのけでカールに詰め寄り、話の続きを求めた。その上、「後でエンマにも教えよー!!」と、更に広めそうな感じだ。
 若い子のあまりにもませた話の内容に先程まで昔を懐かしんでいた二人も一瞬固まり、何を言うでも無く互いに顔を見合わせる。
 キッカのヘーゼルの瞳と、ジョンの前髪がパチリとぶつかった気がした。
「……随分とおませさんだねぇ、最近の若い子は」
「あら?身に覚えありませんか?」
「え?人妻と遊んだ事はあるけど流石にその旦那も一緒なんざ覚えは──」
「そっちじゃないですよ、思春期の頃そう言うちょっと過激な話をしなかったか、と聞いたんです」
「あ、そっちねぇ。いやー、あのくらいの頃が何ならおっさんの一番純粋な頃だったからなー。そんな時にあんな話聞かされたら恥ずかしさで失神してそうだ」
 ジョンは飲んでいたコーヒーをゴミ箱に投げ入れる。放物線を描き、まっすぐにシュートされた缶がカランカランと音を立てた。
「後数年もしたらノーマン君もそんな話題を楽しみ出したりしてな」
「まぁ、いきなりは驚きますがむしろ健全に成長してくれたらそうなるでしょうね」
「意外だな。生理的に無理!とか拒否反応示しまくるかと思ったぜ」
「まさか。男と女、分かり合えないところはあるでしょう、それが母と子の関係でも。自分にとって理解が難しいからと言って全部拒否していたら人と人との関係なんてとても狭いものになってしまいます。似た様な価値観の者同士で作る関係における新たな刺激は微々たるものです。それでも平和で良いですけど、世界は広いに越した事はありません。耳の聞こえないあの子の為にも、お手本の親たる私の許容範囲が狭くてどうします?」
「…そりゃ良い母ちゃんだ。ま、男の思春期ほど面倒臭ぇもんもねぇよ。もし何かあったら、抱えて共倒れする前に俺でもゼン君でもルー君でも誰でも良いから言うんだぜ」
「……お気遣い痛み入ります」
 その内二人の脳裏に大人になったノーマンの姿が浮かび上がって来た。真っ黒の髪を携え、キッカの息子だからもしかしたらあまり背の高い方ではないかもしれない。そんな事を妄想しながらもやもやとノーマンの姿を構築していく。その内、何故か二人の脳内で彼の姿が第六小隊小隊長、ユウヤミ・リーシェルの姿に変わって行った。
「……小童め…」
 第六小隊に在籍していた時、垣間見えたユウヤミの裏の顔、無茶な指示とそれによって何度も九死に一生を得た事を思い出し思わず口から毒が飛び出る。
「あがー……」
 同じ様にユウヤミの姿を想像したのか、「何故彼が出て来たの?」と言わんばかりの奇声を隣でキッカが上げていた。
「…まぁ良いや。戻ろうぜ。ゼン君とセリカさんだけ置いて来ちまったからな」
「まぁ、あの二人なら何も心配ないと思いますが」
「まぁな?でも根が真面目な二人だろ?会話がなぁ…続くのかなぁ…?」
「意外と相性良かったりするかもしれませんよ?セリカはちょっとお転婆なところありますから多少の無茶も利きますし、ゼンはクサってる様で真面目なところは真面目ですから。二人ともちょうど良い感じで──…」
 そう言いながらガチャリとドアを開ける。
 二人の目の前に飛び込んできたのは、ポロポロ涙を流すセリカと、その前で帽子を目深に被り頭を抱えるゼンであった。
「……あぁ、やっとお帰りかよ…遅ぇよおっさんオバさんどこで道草なんぞ食ってたのかね…」
 ゼンの悪態があまりにも酷く、これは何かトラブルかとジョンもキッカも直ぐに悟った。
 頭を抱えるゼン、ハンカチで涙を拭うセリカ。どう見てもゼンが何かやらかしたのだろう、これは。
「……ゼン…?セリカに何をしたんです…?」
「……いや何もして無いね!!人を何某かの犯人の様に扱ってくれたが俺が何かしてる様に見えるのかな!?」
「この状況どう見てもお前が何かやったろ」
 ジョンの至極当たり前の感想にゼンの強気な顔がぐっと歪む。帽子を深く被り直すとしどろもどろ口を開いた。
「……セ、セリカがさぁ…」
「セリカさんが?」
「セリカが?」
 その時、バンッ!と乱暴な音を立ててルーウィンが扉を開ける。両手どころか視界前方も荷物で塞いでしまっているらしい彼は、足で蹴破る様に登場した。
「ちーっす!あれ?皆もう部屋に居ます?なら、キッカさんでも副長でもゼンさんでもセリカさんでも誰でも良いから荷物運び手伝って欲しいっす。今そこで荷物運ぼうとしてた姐さんに会って一緒にここまで来たんすけど、流石に俺でも重い荷物だったんで…って、え!?セリカさん何泣いてんすか!?もしかしておっさんが泣かせたんすか!?」
「何ですって……?」
 ルーウィンの言葉、これは目の見え辛いバーティゴでも状況を把握するのに充分過ぎる程に丁寧にゼンの罪状を言い表していた。地獄の底から響く様な低い声と共に180cmの巨体──それでも実際にはルーウィンより少し低い筈なのだが、彼より何故か数メートルも大きく見える──を揺らし、ぬっと身を捩じ込んで部屋に入ってくるバーティゴ。彼女の白濁とした目に睨まれ、ゼンは真っ青になり今にも嘔吐しそうな顔をしていた。
「こ、このどてかぼちゃ・・・・・・め……!!おっかな巨乳の前で見たまま全部言いやがって…!!」
「あらぁゼン…ルーの言った事は本当かしらぁ……?」
「ひ、ひぃぃぃぃいっ!!」
「ジョン!キッカ!ゼンを確保!!」
「嫌だぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!」
 ルーウィンが放った一言により皆の注目がゼンに注がれる。盛大な鬼ごっこが始まってしまったのだが、ゼンも捕まったら何をされるか分からないと言わんばかりに必死に逃げていた。普段あまり激しく動くタイプの仕事をしないゼンはやはり他メンバーに比べて自主トレの頻度が低くバーティゴにとっても懸案事項だったので、『ちょうど良い運動だわ』と満足げにそれを眺めていた。
 やっと落ち着きを取り戻したセリカはその横で携帯端末を広げる。そこには、朝始業前にギャリーから来たメッセージがあった。
『追悼式典の前後の予定、まだ全然調整利かせられると思うから、なるべく早い内に予定の相談してみてね』
 メッセージ自体はいつもの調子の彼に安堵しつつ、セリカもやっとメッセージに返事をする。
 当たり障りのないいつものセリカとギャリーのやり取り。彼曰く「そっけなくなるかも」と言っていたのに全然そんな事は無く、やはり彼はこんな時でも優しいままだ。

 七月までもう少し。
 ベンジーを喪って一年が経つまでもう少し。
 新たな自分への一歩を踏み締めるまで、もう少し──……。

「お前のおかげで酷い目に遭ったんだが?」
「何でセリカなんですかぁ?ゼンさんがデリカシー無いのが悪いんですぅ」
「俺は思ったままを口にしただけだけどね!」
「じゃあその『思ったまま』を聞いて嫌な思いする方も多いかもしれないので今後少し考えて喋ってくださいよぅ」
 後日、やはりゼンは同僚としては相性も良いし時折兄の様に面倒見も良いが、恋人にと考える事や知人に紹介する等の世話を焼くのは絶対にやりたくないとセリカは改めて思った。