薄明のカンテ - 愛逢月で待っていて/燐花

前編

 ガタンゴトン…ガタンゴトン…。
 そんな規則正しい音とノスタルジックな気分に浸れる夕日に包まれ、ついつい体を揺らしていると不意にぽすんと柔らかくて硬いものに触れる。
「セリカちゃん、大丈夫?」
 こちらを覗き込むギャリーの顔に思わずハッとなるセリカは触れていた「柔らかくて硬いもの」がギャリーの胸板であると言う事に気付き少し慌て気味に視線を逸らした。
「だ、大丈夫ですぅ…すみません」
「そっか…わ、分かるよ!電車って何か規則的に音立ててるから…何かどうしようもなく眠くなったりするんだよなぁ…」
 そう言うギャリーの服装はいつものゆったりしたカンフースーツではなくいつぞやの様にジーパンを履き、しかしセミフォーマルな印象のかっちりした服装だったからだ。髪の毛もいつもの緩さは無くいつもより気合を入れている。
 セリカもセリカで今日は着物では無く、ワンピースを着ていた。ヤサカからの助言もあり、女性であるバーティゴと出掛ける時以外でまだ着ていないワンピースだ。ショルダーにボリュームのあるフォルムでいつもより体のラインの分かるタイトなもの。彼女にしては少し冒険したデザインの服だった。
 今日も後数時間で終わる。
 思惑渦巻く電車の中、二人は絶妙な距離感で揺られていた。
「あ、あのさ」
「はい?」
「カンテ国来て驚いたんだよね。兎頭では無かったけど、この国は夏になるに連れて日が長くなるじゃん?」
「そうですねぇ。遅い時間まで明るいので不思議な感じしますよねぇ」
「俺…ガキの頃この景色ってすっごい嫌だったんだよね。日が暮れたら友達と別れて家に帰らないといけないし、何か一日の終わり!って感じで。大人になってそう言う感傷に浸るのが全く無いくらい良い加減な生活しててさ…なのに今また、あの頃の嫌な気持ちもあり、大人だからこそのこれからが本番!って気持ちもあり、変な気分だよ」
「ふふふ、ノスタルジックと言うやつでしょうかぁ?」
「…さぁ、どうだかね?俺にそんな殊勝な感性あるかやぁ…?」
 その時、ガタン!と一際大きな音を立てて電車が揺れる。セリカが思わずよろけると、即座にギャリーの腕が支える様に伸びて来た。
 ギャリーの手が、少し空いた襟首に触れる。そこは普段の着物ならば隠れている部分だった。
「っと…!!ごめんっ!!」
 不意に素肌に触れてしまった事で、真っ赤な顔で謝るギャリー。彼はどぎまぎと手を引っ込めると、改めてセリカの背中に触れるか触れないかくらいの距離感で手を置いた。
「ぶ、ぶつかったらいけねぇし」
「はい…」
「よろけたら…掴まって良いからね」
「……はい」
 そんな少し初々しい二人を乗せた電車は、ゆらゆら揺られアスに向かう。
 ギャリーはその瞳の奥に覚悟を宿していたし、セリカもまた同様に覚悟を決めていた。
 ギャリーの言う『これからが本番』と言うのは今の自分達には言い得て妙だと二人とも密かにそう思った。

 二人のデートの始まりは、昼前まで遡る。

 * * *

「は、早く来過ぎたか…?」
 午前九時。珍しく細身のジーパンに身を包み、カットソーとジャケットで品良くコーディネートを施した今日のギャリーはいつものゆるりとした髪型ではなく全体に編み込みを施したキチッとした結い方と言う風貌、いわゆる『コーンロウ』と言う髪型である。これは昔から心機一転したい時や気合を入れたい時に珍しく朝早く起きて美容院に行く事でセットしてもらう髪型だ。
 そんな気合の入った髪型を携えたギャリーは、サボり魔の彼の印象とはなかなか結び付かない「待ち合わせの時間より一時間早くに来る」を実行していた。
 何故こんなに気合が入っているかと言うとギャリーはこの日、マルフィ結社女子寮の前でセリカを待っていたからだ。目的はデート。ともすれば気合の入れ様も頷ける。
「あらぁ…?ギャリーさん?」
 気付けば九時半を回った頃、鈴を転がす様なお上品で少しのんびりとした声がギャリーの名を呼ぶ。待ち合わせの時間よりも三十分も早くやって来たセリカの声に一安心しながら彼は努めて元気良く振り返った。
「セリカちゃん!?おは…よ…」
 コートを片手に、いつも和装な彼女が洋装でそこにいた。
 まだ肌寒い季節に合うニットワンピースは袖がいわゆるパフスリーブと言うやつで、普段の彼女からはなかなか想像しづらいが似合っている服装だった。おまけに髪の毛も普段しないだろうに、サイドを編み込むスタイルにしておりそれを掛ける事で露出された耳にはギャリーがプレゼントしたイヤーカフが光っている。
 ──それより何より、胸元が。
 ギャリーはがっつりとセリカの胸元を凝視した。普段着物姿だと分かりにくい気がしていたので正直セリカの胸のサイズがこんなに大きいと予想出来ていなかった。
 女性らしくふっくらとした胸元は、洋装するのに気合を入れているのか胸を張るセリカの自信に合わせて尚の事大きくなって見えてしまい、ギャリーは『透けて見えたりしないかな』と言わんばかりに食らい付く様に見入ってしまった。
「あ、あのぅ……」
 セリカに呼ばれてハッと我に返る。
 しまった。胸ばかり見ていたのがバレたのかと一瞬焦るが、セリカはギャリーの髪に目を奪われていた。
「ギャリーさん…そのお髪は…?」
「え?ああ…気合い入れる時の俺の髪型」
「……あぁ…そうですかぁ…」
 ギャリーがセリカの滅多にお目に掛かれない洋装に驚いていた反面、セリカはセリカでギャリーの姿に驚いていた。
 セリカにとってほんのちょっとだけ背徳的な瞬間が数年前にあった。道に迷って困っていた時に道案内をしてくれた親切な男性。彼は兎頭国の伝統的な衣装を着ていた。そして薄く化粧を施し、髪を編み込んでいた。ちょうど今のギャリーの様に。
 その後、結社に入社してその時の彼と同じ様な衣服に身を包んだギャリーに出会い、はしたない事と思いつつ時折彼に想いを馳せる事もあった。
 まさかその彼と同じ髪型をギャリーがするだなんて。
 その時の思い出も脳裏に蘇り、余計にどきりと胸が高鳴る。思わず落ち着かせようと胸に手を当てると、ギャリーの下瞼がピクリと上擦った。よくよく彼の視線を追ってみれば、どうやら胸元を注視しているのが見て取れた。
「…ギャリーさん、もうっ…」
「ん?」
「……さっきからずっと…どこを見ているんですかぁ?」
 おずおずとそう口にすると、ギャリーは顔を真っ赤にして何故かぶわっと鳥肌を立てた。そしてしどろもどろ言い訳がましい事を口にしたと思ったら頭を抱えた。
「やべぇ…今や存在がギルティ…」
「はい?」
「へぇ思わず鳥肌立ったわ……」
 『』って何だ。
 そうは思うが口に出すのは辞めておく。一つ分かった事は、ギャリーもセリカもいつも以上にはしゃいでいると言う事だ。

 * * *

「結構人居んなぁ……」
 電車に乗り込んだは良いものの、通勤時間と被るのか人の出入りが激しい。座れそうに無かったので、セリカを出入り口付近まで少し押し、ギャリーは自分の身を盾にした。
「セリカちゃん、苦しくない?」
「はい。大丈夫ですぅ」
 セリカはそんなギャリーを見ながら懐かしさを感じる。亡き夫、ベンジーもそんな風に気遣ってくれ事があった。
 ベンジーは昔堅気の人だった。正確に言うと、東國に強い男尊女卑があった時代の家長の様な男性だ。ベンジーは家庭内で絶対的な長であり、「妻は夫に従うのが当然」と思っていた。妻は従順であれと思う理由の最たるところに「女性は男性より弱いから」と思っている節がある。実際にベンジーは実家の道場で見ている限り剣の腕は良かったし、だからこそこう言う時同じ様に自分の身を盾にしてセリカを守ろうとしていた。
『セリカ、苦しくないか?』
『はい、大丈夫ですぅ』
『辛くなったらすぐに言うんだぞ』
『はい、ありがとうございます旦那様』
 そんなやり取りをした事もあったなぁと思う。懐かしさから少しはにかんでいると、電車が一際ガクンと揺れた。
「きゃっ…!」
「おっと…!!」
 足元の揺れる中ギャリーの手が伸び、セリカの体をがっしりと掴む。車内アナウンスなのか、線路内に機械人形のパーツが落ちておりそれを踏んだ為揺れが起きたと釈明していた。
「お、おどけたぁ……」
「はい…」
「いやぁ……結構揺れたね…」
 ギャリーの腕がセリカの体を掴み、まるで抱き締める様に引き寄せられている。その状況に気付いたセリカが思わず声を漏らすと、ギャリーは慌てた様に手を離した。
「あ、ごめん…セクハラするつもり無かったんだけど…」
「ふふ…そんな、ギャリーさんにセクハラされたなんて思ってませんよぅ…」
「あー…。俺が過敏になってるだけかや?前さー、電車乗ってて女の子が凄い思い詰めた顔してるとこ見ちゃって」
「お、思い詰めた…?」
「しばらくして気付いたんだけど、どうも後ろのオッサンがその子の事触ってたっぽくて」
「あぁ…なるほど…混む電車ならある事なんですねぇ」
「今日もさ、セリカちゃんの格好本当可愛いし…いや、格好だけじゃなくてセリカちゃんそのものが可愛いんだけど!だからさ…そんなセリカちゃんにちょっと疚しい目ェ向ける奴が居たら嫌だし、そんな事する奴に遭遇しちゃうのも嫌だったから。でも逆に近くに居過ぎて今の揺れで俺結構押し潰しちゃったよね?ごめんごめん」
 結局その女性にギャリーがまるで『道端で偶然再会した知り合い』の様に声を掛けた事で、警戒したのか男は離れて行ったと言うが、故に軍警にも被害届として出す事も出来ず終わってしまったと言う。勿論届けを出す事は出来た筈なのだが、いかんせん痴漢は立証に時間が掛かる上、白黒はっきりする前に報復されたらと言う可能性を考えると声を上げるよりやり過ごす方を考える人が多いのだと言うのは国内でも話題になっていた。
「いやー、しかし本当こんなところでさ、女の子の体触ろうなんてどんな神経して……」
 ピタッとギャリーが言葉を止める。急に黙ってしまったギャリーを見、どうしたのかとセリカもキョロキョロし出すが、いかんせん人が密集していて自由の少ない車内で窺うことは難しかった。
「ギャリーさん?あのぅ…」
「セリカちゃん……」
 ぎゅっ…と抱き寄せられる体。セリカは慌てて綺麗にメイクで整えた大きな金の目をぱちくりさせた。先程から言ってる事と今の行動は真逆では無いか。
「ギャリーさん…!?白昼堂々公共の場ですよぅ…!?」
「………」
「もうっ…ギャリーさん…!!」
 ギャリーに抱き締められている事もそうだが、車内の角へ角へと押しやられてしまっているので苦しくもなって来た。和服で来ないで良かったとも思いつつ、ふと何故ギャリーが急にこんな無茶な押し方をして来たのか疑問が浮かぶ。
 確かめようと顔を上げると、彼は物凄く悪い顔色で何とも言えない表情を浮かべていた。
「ギャリーさん…!?もしかして気持ちが悪い、とかですかぁ…!?」
「あ、ある意味…では…!!」
「ある意味…!?」
 まだ目的地であるラシアスの駅までは少し掛かる。一度降りた方が良いのかと思いつつとりあえず労ってあげようと背中に手を回した時、セリカはある事に気が付いた。ギャリーの背中より少し下の辺りから何かの気配を感じる。
「あらぁ…?」
 生き物が生き物の気配を感じる時、それは科学的に説明が出来ない物も含まれる。
 例えば過去に軍人の男性と恋人の女性がデート中、擦れ違った男が振り返りざまに突然彼女に襲い掛かった事件があった。しかし、大事に至らなかったのは軍人の男性がそれを制圧したからだ。まるで男が襲い掛かってくるとわかっていたかの様に。
 実際、彼は擦れ違ったその瞬間、男の発していた空気に『良くないもの』を感じ取ったのだと言う。男はその日元々心に疚しいものを抱えており、それをぶつけようとしたのがその女性と擦れ違った時だったと言う。そして男性は、恋人にこれから襲い来るであろう危機をその瞬間に察したのだ。別に男から何某かの数値が高く出ていたとかそんな話ではない。完全に勘で状況を打破した。そう言う生き物同士で感じ取る『何か』、それを読み取る事自体は珍しい物ではない。
「…ギャリーさん……」
 スッと下に手を下ろせば、ギャリーの尻の辺りにギャリーのものではない・・・・・・・・・・・手が置かれている事に瞬時に気が付く。セリカは、電車の揺れに後押しされる様にその手にグッと力を込め、爪を食い込ませた。ともすれば手の組織すら抉り取る勢いで爪を滑らせる。一瞬低い声で呻いたのが聞こえた気がしたが、ラシアスの駅に着きドアが開くと波の様に出ていく客に紛れて分からなくなってしまった。
「ギャリーさん……申し訳ありません、まさか痴漢されていたなんて…」
 あの手は、明らかにギャリーの尻を掴んでいた。
 駅のホームにあるベンチで少し休みがてら話をするとギャリーは青い顔のままセリカを見た。
「いや…アイツ最初狙ってたのはセリカちゃんだよ……」
「え?セリカですかぁ?」
「最初…セリカちゃんの事触ろうとしてたんだよ…」
 痴漢に遭っている瞬間の女性と電車で出会った話をしている最中、ギャリーが会話を不自然に止めた時の事をセリカは思い出す。あの時、既にあの男の手はセリカを求めて伸ばされており、それに気付いたギャリーは押し込める形でセリカを守る壁に徹したらしい。伸びてくる手、体を動かし邪魔するギャリー。そんな攻防を繰り広げた結果、まさかの予想外な出来事が起きた。
 男は諦めても諦めきれなかったのか、ギャリーの尻を撫で始めたと言うのだ。
 困惑しながらも尚守りに徹すると、今度は男の手がギャリーを除けようとするのでなく意思を持って尻を掴み始めたと言う。
「駅員さんか…軍警に…」
 セリカが連絡をしようと立ち上がるが、ギャリーは彼女の腕をぐっと優しく掴みそれを制した。
「待って」
「ギャリーさん?」
「良い…あんな奴の事で、セリカちゃんとのデート邪魔されたくねぇし…犯人っぽい男の顔も見れてねぇから多分、言ってもあまり意味ないかも…」
「ギャリーさん……」
「とりあえず、ちょっと休んだら色々見て回ろうぜ。せっかくラシアス来たんだし」
 とりあえず腰を摩って欲しい。そう言って笑うギャリー。顔色の悪い彼を慰めようとそっと隣に座ったセリカは頼まれた通りに腰の辺りを摩ってやった。
 するとセリカからの慰めの気持ちを察したのか、ギャリーがおずおずと口を開いた。
「ありがと、セリカちゃん…」
「いいえ…セリカこそ…ギャリーさんが守ってくれていたなんて気付かず…」
「俺さ…」
「はい…」
「俺…」
 先程までの顔色の悪さはおそらくそれが理由だろう事をギャリーが口にした。
「俺…男にあんな執拗にタマ触られたの初めてだ……うげぇ、気持ち悪……」
「……え、えぇ…」
「尻掴まれた時もちょっと痛かったのに、あんな尻掴んだその勢いでタマ掴まれたからちょっと今気持ち悪くて…そもそも男に触られたなんて思い出しただけでも…うぇ……」
「え、えぇ……えっと、はい…」
 しかし、女性のセリカにはよく分からない事だったのでとりあえずただ笑うわけにもいかず、ギャリーを心配しながら微笑むしかないのであった。ベンジーはそんな話はしなかったけれど、男性も大変なのだなぁと思いながら。
「ああ言う時の女の子の気持ちが少し分かった気がする…!!」
「そ、それは何より?ですぅ…」

中編

 ギャリーが元気を取り戻したのでラシアスの街を歩いてみる。最先端の流行の揃う街などと昨今の若者人気は凄いものではあるが、それでもセリカにとったら昔から変わらない店もあったり、街も基本的には変わらないので最先端とは似ても似つかないノスタルジックな気持ちにさせてくれた。
 そこをギャリーと歩けるのが嬉しくて思わずウキウキしてしまう。周りを見ながら歩き回っていると、すぐ横でギャリーが着いて来ていない事に気が付いた。
「あらぁ…?」
 慌てて来た道を戻ると、ギャリーが誰かと話している。それが若い女性であった事にセリカは一瞬どきりと背筋に寒いものが走った気がした。
「あ、セリカちゃん!悪ィ、ラシアスの街詳しいずら!?」
「え?」
 一瞬彼が自分とのデートの最中に女性をナンパでもしたのかと思ったが、ギャリーの反応を見るにどうもそうでは無いらしい。呼ばれたので慌てて近付いてみると、若い女性一人かと思いきや隣に祖母らしき杖を突いた老婆もおり、どうやらギャリーに道を訪ねていた様だった。
「あらまぁ、悪いわねぇ。お兄さんデートしてらしたの?」
「もうお婆ちゃんったら、人のプライバシーに首突っ込んじゃダメっていつも言ってるでしょ?」
「そんな事言ったって私らが道分からなかったからお邪魔しちゃったんじゃ無いの。こんな可愛い娘さんとねぇ、デートの途中なのにこんなオババが道なんか聞いて申し訳ないわねぇ」
「はははっ、良いって良いって」
 不思議だ。こんな治安の悪そうな髪型で治安の悪そうな格好をしているのに、背だってこんなに高いのに。ギャリーの優しさに気付いてしまうのかお年寄りや子供が安心して彼を見ている。
「それにしてもお兄さん良い男ねぇ…!」
「あはは、婆ちゃんが後二十歳若かったら俺喜んでデートお誘いするでね?」
「まっ!上手いこと言うじゃない!」
 お婆ちゃん子だと言っていたギャリーがあんまり嬉しそうに老婆と話すので、セリカも一生懸命になって道を教えた。二人はレイレントから来たそうで、のどかな地元に比べて人の多いラシアスで少し目が回ってしまったそうだ。
 二人を見送り一息ついた時、ギャリーは自然に自然にセリカの手を取った。
「ごめんね。角曲がった時お婆ちゃんが地図持ってんの見えてさ。気にしてたらセリカちゃん見失っちゃって。そしたら後ろに孫っぽいお姉さん居るの見えてさ、まさか二人して迷ってんのかと思ったらついついね。ごめん」
 最初に見付けたのも若いお孫さんの方でなく、お婆ちゃん。
 その部分だけでもギャリーの普段の人柄を感じ、セリカは手を握り返すとにこりと微笑んだ。
 ほんのちょっとでも、ナンパをしに行ったのかと疑ってごめんなさい。心の中でそう考えていると、ギャリーはにやりと笑ってセリカの顔を覗き込む。
「もしかして…俺がナンパしてるとか思ったでしょ」
「え!?」
「まぁ、あの婆ちゃん可愛いお婆ちゃんだったしねー。でも流石に俺の守備範囲は超えてたなー」
「あ、お婆ちゃん…ですかぁ…」
 先程のお婆ちゃんの事を思い出したのか、田舎の自分の祖母を懐かしんでいるのか。ギャリーは少し目を細めて遠くを見つめていた。
 不思議だ。編み込みの髪型なんて威圧感の方が大きく出てしまうのに、彼の周りにはそれでも気圧される空気は無くむしろ暖かいものが流れている気がしてしまう。
「お婆ちゃんとお喋りして喉乾いたなー。セリカちゃん、ちょっとそこのカフェでお茶しません?」
 そう言って指差したカフェは、セリカが前々から気になっていたところだった。カンテ国には珍しく東國でポピュラーな抹茶を扱っているカフェで、大体甘めに出しているお店が多い中、茶葉本来の苦味のまま出してくれる珍しい店だった。
 確かに前々から気になっていて行ってみたいと思っているとはギャリーに言った記憶があったが。
「連れて行って…くださるのですかぁ…?」
「え?うん、勿論。俺と一緒に行ってくださいますか?」
 少しわざとらしく、恭しく手を取り悪戯っぽく手の甲にキスをする。
 セリカがそんな彼の行動に頬を赤らめると、ギャリーは満足そうににこりと笑った。
「どう?俺、格好良いずら?」
 先程からまるで心の中全てを見透かされている様で恥ずかしくなり、セリカは「もうっ」と一言だけ漏らしてみる。初めて行ったカフェは予想通り東國の文化に染まっていて楽しめたのだが、せっかくの苦味が売りのお茶なのに何故か甘く感じてしまったのは彼と一緒に居るからだろうか。

 * * *

 ラシアスで買い物デートを楽しみ、次の目的地に向かう為また電車に揺られる。
 普段見ない洋装にドキドキしたり、日の沈みかけた景色を見てノスタルジーに浸ったり。微妙な距離感の中に緊張を灯しながらアスに向かった。
 ギャリー曰く、「すっごい嫌」と言っていた景色を電車の車窓から眺めながら今日の楽しかった事を振り返ってみた。
 ラシアスに着いてすぐギャリーが痴漢騒動で少し元気が無かったので駅のホームで休み、その後すぐに「トワ・エ・モワ」と言う雑貨屋を周り、そこでショッピングを楽しんだ。「トワ・エ・モワ」は直訳すると「君と僕」と言うらしい。名前の響きも可愛らしくて気になっていたのだが、店の雰囲気も置いてあるものもベンジーの興味を惹けるものでは無かったので、結婚前から彼と出掛ける際には立ち寄らない店だった。
 案の定、店内は控えめながら可愛らしいもので溢れており、ギャリーはその中の一つ、フリルの付け襟がセリカに似合うのでは無いかと手に取る。確かに和装した時に付けたらアクセントになって良さそうだ。
 思わず見惚れて居ると、ギャリーが会計をし「プレゼント」として渡してくれた。セリカも好みのデザインのハンカチを購入する。そしてそれをギャリーへの「プレゼント」として渡した。
 その後、歩き回っていて道に迷った祖母と孫に出会う。彼女達に道案内をし、次に行った先は「茶寮セレモニ・デュ・テ」と言う東國の緑茶や抹茶が楽しめる喫茶店だ。結社の自販機にもあるブレンド茶程度の苦味を想像していたらしいギャリーは少し変な顔をする瞬間もあったが、セリカが美味しそうに飲む姿と一緒に頼んだケーキの甘さも手伝ってか段々表情が変わって行き、飲み終える頃には大変満足した顔をしていた。
 他にも色々なところを巡った。
 ルノワール通りを懐かしみながら通ったけれど、やっぱりよく利用していたお花屋さんはあの時のまま、時間が停まった様に佇んでそこにあった。物悲しさを感じるが、それ以上に少し嬉しいのがそこに貼られていた結社の張り紙だ。
これを見たから結社に来たんですぅ」と指差してみるとギャリーはそれをまじまじと眺めた。そして拝んだ
 素っ頓狂な態度に思わず笑ってしまうと、ギャリーも笑いながら「だってこれがあったから俺はセリカちゃんと出会えたわけでね。大事大事」と有り難そうに更に拝む。
 人前だろうが誰が相手だろうが、こうも何回も頭を下げてしまうこの人が何だかとても愛おしく思えた。
 夢の様に楽しい時間だった。
 一日を振り返って居た二人の耳に、次にアスの駅に停車すると車内に鳴り響いたアナウンスが飛び込んで来た。セリカがハッと窓の外を見ると発電所の煙突が高々と聳え立っている。この街の雰囲気、本当にアスなんだと感傷に浸ってしまうのは、ベンジーと観た世界は彼と出掛ける場所が限られていた事もあってあまりアスの様な街に来た記憶がなかったからだろう。
「……へぇ夕暮れ時も良いもんだな。俺も歳取ったかや?」
「え?」
「さっきは昔を思い出すと『もう帰る時間』って印象強くて嫌だなって思ったんだけど……こうやって一日を振り返ってみたりすると今日が良い一日だったからか凄く良いものに見えるわな」
 つってももう八時半だけど。
 そう言いながらギャリーは鞄の中に手を突っ込んで、そこにある物・・・を確認した。それはギャリーの勇気の一部だ。ちゃんと箱があって、リボンをヨレていないのを確認するとちょうど電車のドアが開く。
 自然と手を差し伸べてくれるギャリーにセリカもつられて手を添える。はしたないと思っていた事をこんなに自然に出来る様になっているのは、きっと彼の女性慣れした様な仕草に慣れたから以上の理由があるのだと言う事もセリカはもう理解していた。

 * * *

 アスにあるそのレストランは『ジェラール・シャリエ』と言う名前だった。フリッツ・カールの弟子だった同名のシェフが開いたレストランで、フリッツ・カール程格式高くしなかったのは元々庶民派で大衆食堂を開きたいと言う夢から料理人を志したからだと言う。
 それでもフリッツの下修行をする内、調理技術も然る事ながら洗練されたレストランの雰囲気にも魅了された彼の開いたこの店は、フリッツ・カール同様に機械人形のプログラムと店員への教育が行き届いており、この近辺で仕事をしている人間が部下への労いとして連れて来る事がままある程には上品だった。
「予約していたミカナギです」
 店のフロントでギャリーが店員にそう告げると、セリカは驚いた顔で彼の方を向いた。それに気付いたギャリーは悪戯に成功した子供の様な愛嬌のある笑顔をセリカに向ける。
「ミカナギ様、お待ちしておりました。お席にご案内致します」
 恭しく頭を下げ、席へと誘導するスタッフの後ろでセリカはギャリーの上着の袖を遠慮がちにちょんちょんと引っ張った。
「ギ、ギャリーさん……ミカナギで予約したのですかぁ…?」
「ああ、俺の名前ってどっちも苗字じゃないんだよね、感覚的に」
 そう言われてセリカは、ギャリーが苗字を持たない兎頭国人である事を思い出した。しかし、だからと言ってミカナギ姓で呼ばれて彼に返事をされると何だかこそばゆい様などこかちょっと恥ずかしい様な複雑な気分になってしまう。
「俺が『ミカナギさん』で返事するの、変かや?」
 わざと顔を近くに寄せそう口にするギャリーにセリカはほんの少しだけ頬を膨らませた。分かっている癖にとそう訴えるつもりだったのはギャリーにも伝わったらしく、ギャリーはぽんぽんとセリカの頭を撫でた。
 席に着くとスタッフがセリカとギャリーが座り易い様にと椅子を引いてくれる。上品な雰囲気漂う空気の中、二人の前には食器とワイングラスの準備がされた。
「今日はコース頼んだよ。乾杯のドリンクはメニューから選べる様にしたけど、何が良い?」
「あ、ではヴァンロゼロゼワインで…」
 ギャリーも同じ物を頼み、二人の前に布巾で包んだボトルを上品に持ったスタッフがゆっくり歩いてくる。セリカとギャリーのグラスにそれぞれゆっくりと綺麗な薄ピンク色のロゼワインが注がれた。
「綺麗ですぅ……」
 思わずぽつりと呟いたセリカを満足気に眺めたギャリーは、グラスを持ち上げると彼女に目配せする。セリカはそれに気付き、ギャリーが何を求めているか把握したので同じ様にグラスを持ち上げた。
「君の瞳に…乾杯…!」
「………ふふっ…!!」
「えー?笑う事無いずら?」
「ほ、本当にその言葉を口にする方初めて見ましたぁ」
「えー?これでも精一杯格好付けてみたんだけどー?」
「ふふ、ギャリーさんってば、そんな事なさらなくても──…」
 そこまで言ったにも関わらず褒める言葉を最後まで口にする前に止まってしまったのは、優しく微笑むベンジーの顔が脳裏を過ったから。それは、初めて自分が好きになった彼の顔だったから。
 普段と違うニットのワンピース。丸みのある袖が視界にちらちらと入ってくるが、普段している和装とは違うのだと自覚していた筈なのに。髪の毛も普段はしない編み込みにしているのは、耳に付けている大切なイヤーカフに目立ってもらいたいから。こんなにも昔と違う新しい『セリカ』の装いで来たのに、の知らない『セリカ』で来たのに。目の前のギャリーを褒める言葉を躊躇ってしまった。
「……とりあえずまぁ、乾杯。せっかく美味い肉食えるしね!こんな贅沢滅多に無いんだからね!!」
 少し伝わってしまったのか、空元気な返事をするギャリーに何だか申し訳なくなってしまう。そうだ、今日は彼とデートなのに何故こんな気持ちで居るのだろう?それはきっとこれから彼に『何を伝える』か決めてきたから、それを伝える勇気が今ひとつ足りなくて、苦しいんだ。
「それにしても…ギャリーさん、テーブルマナーがしっかりしてらっしゃるの意外でしたぁ」
「そう?まぁ、ちょっと色々あって上品な所作を目指した事あったでね……」
「色々…?」
 それはギャリーにとって苦い記憶だった。
 高校卒業も後一年と控えた年。十八歳になったギャリーは将来を憂いた。学生で居られなくなると言うのに、将来やりたい事が見付からない。
 仕事はしたく無いし、かと言って進学する熱意も勉強に対する意欲も無い。そこでギャリーは考えた。一生遊んで暮らす為にどうしたら良いか、そうだ『金持ち美人のヒモになろう』と。
 その後は色々妄想を膨らませて行った。
 まず、金持ち美人ならば何か夜毎パーティーしていそうな気がする。それくらい金銭的余裕がありそうとなると上品な店に連れて行かれる可能性が高いので、先ずはテーブルマナーを完璧にする。
 テーブルマナーを完璧に、上品な振る舞いが出来る様になったら次は日常の所作にも上品さは必要だろうか。そしてヒモになるくらいの能力と魅力を兼ね備えるとなると家事や炊事をある程度こなせないといけないのかもしれない。
 そう思案して次々と習い事を考えてみる。そして、「これ普通に生きてくより初期費用掛からねぇ…?」と結論付いたのは、普段のギャリーなら迷わず遊びに行くのに使うだけの額がレッスン費になっていたテーブルマナー講習に申し込みをした後だった。
「……とにかく、色々あって何故かテーブルマナーだけは身に付いたんだよね」
「その『色々』が気になりますぅ」
「ははは、まぁその内話すよ。ただの笑い話だから」
 いつも通りに笑って、出される料理に舌鼓を打つ。ギャリーは『ジェラール・シャリエは機械人形のプログラムが行き届いている』と言う店の売りを見たくて来たわけなのだが残念ながらテロの影響か機械人形は一切居らずスタッフは全員人間だった。
 前職で機械人形に多く触れていたからか少し残念がっていたギャリーだが、デザートが運ばれて来た際スタッフに質問したところ『機械人形はテロを思い出してしまうお客様が居らっしゃいますので厨房で調理をする型のみを稼働させています』と言う返事が返って来て納得の理由だと思いそれ以上の言及は飲み込んだ。
 しかし、『それよりも』とギャリーは静かに焦っていた。
 セリカとの会話を楽しみながら鞄の中を漁るが、手が一向に『例のもの』を探し当ててくれない。今から伝える事にはこれが必須なのに全く探り当てる事が出来ない。
 とは言えアスに降りる直前、電車の中で鞄にあるのは確認したしそこからはまっすぐ店に向かいその間無茶苦茶な歩き方もしていないから落としたと言う可能性は極めて低い。にも関わらず見付からないとはどう言う事だろう。
 段々と焦りが顔に出始めていたのか、セリカはギャリーのそんな様子にくすりと笑った。でもその顔は、どこか優しさだけではない決意の様なものも見え隠れしていた。
「ギャリーさん。実は、今日セリカはギャリーさんにお話したい事があるんですぅ。セリカから先にしても宜しいですかぁ?」
「あ、ああ!良いよ!勿論!」
 一旦鞄を探る手を止めて姿勢を正し、向き直る。そんなギャリーの姿をじっと見つめたセリカは、一度目を伏せ少し呼吸を整えた。そして次に目を開けた時には、決意の強さの籠る瞳を真っ直ぐ彼に向ける。しかし泣きそうな顔にも見えた。
 そんな彼女のただならぬ姿にギャリーが見入っていると、少し経ってやっとセリカは口を開けた。

「セリカは……は、ギャリーさんの事をお慕いしております……貴方の事を一人の男性として、優しい貴方に…恋をしております……」
 世界から音が消えた気配さえする。
 そのくらいに時が止まり、二人きりになったと錯覚する様な静かな世界でギャリーの鼓動がどくんっと高鳴った。自分が言いたかった事に対する聞きたかった返事。それなのに素直に喜べないのは、彼女の顔が酷く辛そうに見えるからだ。
 しかし覚悟を決めたセリカは辛そうな顔を見せたものの涙を浮かべる気配は無い。いつもの彼女に思う様な、凛とした強さを携え言葉を続けた。
「少し…ほんの少し前の話をさせてください。セリカは…セリカ・ピンカートン・・・・・・は、旦那様の妻ではありましたが最期まで『愛する女』だったかは分かりません。セリカ以上に愛された『もの』が彼の方のすぐ近くに居たのです……もしかしたら間違いかも、旦那様に限ってとそう思いましたが…旦那様のセリカに触れる回数が日毎月毎目に見えて減って行き……確信を持ちました。よくある、話なのですが……」
「…そ、それってつまり……不倫…?」
「……いいえ、不倫ではありません・・・・・・・・・。法的には。ですが…ええ、きっとセリカ以上に愛してしまったのだろうと。酷い方なんですよぅ…もう。どうせ裏切るのなら分からぬ様に振る舞ってくださった方が粋ですのに……そう言うところは本当に、真っ直ぐで嘘を吐けない方でしたから…良くも悪くも」
 自分より愛した人。隠して欲しかった裏切り。
 自分もそんな扱いを受けた事のある身としては、ギャリーはセリカが何を指しているかよく分かってしまった。しかし彼女を裏切った亡き夫へ怒りをあらわに出来なかったのは、彼女がモノの例えと言えるのか、夫の裏切り相手を『人』では無く『もの』と呼んだからだ。彼女が例え裏切りに加担した人間相手でも『もの』等と呼ぶ事は無いだろう人間なのにそう呼んだからだ。
 礼節を重んじるセリカが、礼儀を忘れた言い方をする筈がない。そうなると相手は本当に『人間では無い』可能性がある。その思考に混乱し怒るに至らずに居たギャリーだが、それ以上に言葉の端々からセリカの亡き夫への想いが見えてしまった。
「…でも、テロの日。機械人形の暴走が起きて…ケンズでしたのでセリカは渦中にいました。旦那様は暴走した機械人形に襲われて……最期の最期に、旦那様は『セリカ、窓から逃げろ』と仰ったのです……好いた女に殺された彼の最期の瞬間をセリカは見ていません。彼は自衛しようと思えば出来たでしょうに…結局好いた女に手を下せず、ならば形ばかりの妻など捨て行けば良かったですのに…」
 ギャリーの中でセリカの過去に関するキーワードがどんどん合致していく。やはり彼女の言い分から察するに、亡き夫と裏切り行為を重ねたのは機械人形だ。人間同士の不倫と違いまだ法整備があまりされておらず、現行では被害者側の意を汲んでなのか離婚手続きがスムーズに行えると言う利点こそあるものの『家族が機械人形にうつつを抜かした』と言う噂が広がる事への社会的な批判を背負う面や、やはり人間では無く機械なので間違っても機械人形に賠償請求は出来ずにいる点から未だ被害者が全てを赦せば丸く収まる側面の強いケースだ。
 ギャリーも前職でそう言う妻に出会った事はある。本来なら一般家庭に販売していない、業者が買う様なデータのクリーニングソフトを吟味したいとやって来たので記憶に残っていた客だった。数ヶ月後、軍警が事件の聞き取りにやって来た事からギャリーの耳にもその顛末が入った。
 その妻は前々から夫の不可解な隠し事に気付いており、アスで探偵を雇って浮気調査をしたものの物証は出て来ない。外泊した形跡や、夫以外の人間の毛髪の回収は出来なかったのだ。しかし、どうしても夫の動きがおかしいと思った妻は、夫の留守中に機械人形のデータを違法に全て確認するとこれを消去した。おそらく岸壁街の闇市ででも買ったのだろうソフトでプロテクトを外し、機械人形の性格も何もかも全て変えてしまった。データ削除の際無理が生じてしまったのか、人間の倫理観を元にした簡単な思考回路も危ぶまれる製品以前の段階までデータを削除されてしまい、ホームヘルパーを任せるには危険な状態となってしまっていた。
 帰宅した夫が機械人形の異変と奇行に気付き、ハッカーにデータの盗用でもされたかと相談した事で発覚したこの事件、軍警に問い詰められた妻が『証拠を集めようと違法ソフトで機械人形のデータの開示を行った。主人と機械人形が男女として交わる様子を機械人形の目線で録画していた記録を見てカッとなってやった』とそう口にした。
 機械人形が各個体の人工知能の学習の為に目に内蔵されたカメラから映像を残す事が殆どなのだが、当たり前にそれはその家族のプライベートを映しているのでそれが誰であれ覗き見るのは禁じられている。この夫婦の場合、主人登録されていたのは夫であり所有権、機械人形の最終決定権はこの夫にある。
 登録されていない妻が記録を覗き見た末に業者を通さず性格や記録を初期化してしまうと言うのは家族であれ一方的に財産に手を付ける行為であり、機械人形も一瞬にして培ったデータや個性を破壊されたとなると機械人形を人間と同等に保護すべきと訴える団体に隙を与える事例となってしまう。
 そう言った事からこの事件は大きなものとなり、軍警はデータの抜き取りを可能にしたソフトの出所探しに奔走したし、機械人形の人権を訴える団体とそれとは逆に機械人形を危険な存在だからと排除する事を目的とした団体、そして女性の人権を守る団体それぞれがこの件に関して声明を発表する大事になった。
 結局法と照らし合わせた結果、この妻は夫婦の共有財産たる機械人形を無闇に傷付けた事等を重く判断され実刑判決が下された。しかし夫の不貞に関しても、機械人形と言う法の穴を潜っての不貞行為が表に出てくる事が多発している現状を省みて上告、現在これを受けてまだ裁判が行われている。当該の機械人形は無理矢理プロテクトをこじ開けた事で中のデータを破損させてしまい、処分となった。
 対岸の火事だと思いながら見ていた機械人形絡みの不貞行為。それの当事者だったと言うセリカ。挙句その機械人形に最後は夫の命まで奪われたと言う。ギャリーは急な情報の雪崩に目眩がしそうだった。
 だが、これだけはセリカに伝えねばと重々しく口を開く。本当は言いたくなどない、ないけれど、言わなければならない。
「…形ばかりの妻なんて事、無いよきっと。本当に本当に愛してたのは…セリカちゃんなんだよ…その、旦那さんも」
「……」
「今となってはそんな言葉、聞きたくでも無いかもしれねぇけど。少なくとも俺は、そう思う」
「……聞きたくない、なんて事はありませんよぅ。ただ、確認の取りようも無い希望に縋るのはやめようと、そう思っただけなのです。だから私は私の為に、私自身の今後の幸せの為に、生きているからこそ今後の人生を幸せに生きる為にケジメは付けなければと思いまして」
 それが貴方に伝えたい事なのです、とセリカが口にしたので思わずギャリーは身構える。セリカもそれに気付いてかくすりと笑って、しかし覚悟した様に口を開いた。
「セリカは、ギャリーさんをお慕いしております。ですがセリカがその気持ちに素直になる前に、どうしてもセリカ・ピンカートンとしてケジメを付けなければと思っております。旦那様の亡くなられた日、ケンズのテロの一周忌までは、彼の望んだセリカ・ピンカートンで在りたいのです。ごめんなさい…優しい貴方にそんな話をしたら思い詰めてしまうかもと思いもしました。けれど、私の都合で有耶無耶な関係を続けるよりかははっきりと旦那様の事もお話ししようと思ったのです。ご存知の通り、セリカはかつて他の人の妻でした。独り身で、貴方と出会って恋をするのとやはり少し違います。その前提をお話しした上で貴方に恋をしてしまいましたと告白させていただきました……もし仮に、セリカに対してギャリーさんが良い返事をして下さるとして。そのお返事は、私が『セリカ・ピンカートン』で居ようと思っていた期間を過ぎてから聞かせていただきたいのです。それまでは、セリカは身も心も旦那様のものだと思っております……」
 身も心も旦那様のもの。絶対に超えられない存在。それが、テロから一年を迎えるまでと言うのは分かってはいる。分かってはいるが、現実として改めて突き付けられると流石に堪える。
 その時、鞄に入れたギャリーの手にこつんと何かが当たった。それはベロア調のリングボックスであり、中に誕生日プレゼントを買った後にこっそりソナルトで購入した指輪が入っている。
 今の今まで見付からなかった癖にあっさり出て来んなよと悪態つきたくなりながら、ギャリーはぼーっとセリカの言葉を聞いていた。
「その時期までは、どうしてもセリカ・ピンカートンで在りたいのです。セリカ・ピンカートンとしての生き方を全うして未来に進みたいのです…もしも…そんなセリカが重いと感じられてしまうのなら……深い仲になる前にギャリーさんには他の女性と幸せになってもらいたいとすら思ってしまうんですぅ……」
 ミクリカの惨劇の追悼式典まで残り三ヶ月。たった三ヶ月ではあるが、『セリカがかつて誰かの妻だった』と言う事実は一生付き纏う。何となくギャリーの態度から自分に好意を持っているであろう事はセリカも気付いていた。そしてセリカも、彼を恋しく思っている自分の気持ちにも気が付いていた。
「本当に…私の勝手でごめんなさい……でも、わがままを言わせてください……。セリカの人生には…旦那様の思い出が不可欠なのです…それをもしひっくるめていただけないとしたら、それはとても悲しい事ですから……もし叶わないのにこれ以上ギャリーさんと深い仲になってしまったら…セリカは今度こそ誰かを失う痛みに耐えきれなさそうでしたので…」
「セリカちゃん…」
「お願いします……セリカと…お友達のままいてくださるとしても…そうで無いとしても……一度じっくり熟考していただけたら、と思いますぅ…それでもしも難しそうだったなら、もうこれ以上貴方を恋しく思わない様努力しますので……」
 とりあえず、ギャリーの今の頭でやっと分かった事は『セリカは亡き夫の一周忌を迎えるまでは喪に服したい』と言う事。そして、『セリカを好きになると言う事は普通の独身の女性と恋をするのと違う、亡き夫の思い出がついて回る』と言う事。そして『それを踏まえて本当に後悔しないか考えて欲しい』と言う事、そうで無いのなら『深い関係になる前にお友達のまま終わりにしましょう』と言う事。
 だが、一番身に染みたのは、『今この瞬間自分は一度フラれたのだ』と言う事実だった。
 急に鞄の中で謎に行方不明になった指輪のタイミングの悪さが恨めしい。
「と、とりあえずお会計……」
 ギャリーは力なくスタッフにそう告げた。
 スタッフはただならぬ空気を感じ、極めて丁寧に見送ってくれたのだった。

後編

 ジェラール・シャリエから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。時計を見ればもう夜十時。今の時期、いくら日の長いカンテ国と言えどこの時間は暗くなる様だ。ここまで長い日の出を経験してまだ数年のギャリーは「慣れないなぁ」と思いつつ隣にいるセリカに目を遣る。
 彼女の告白からすぐにお会計をし外に出たは良いものの、それ以来一言も交わせていない。
 今まではどうしていたっけ?と思考を巡らせ、求める様にすぐに手を伸ばしてしまう。そして、触れるギリギリのところで思い帰り、手を引っ込めた。セリカはそれに気付いたのか申し訳なさそうににこりと笑う。ギャリーもつられて、少し切なそうににこりと笑った。
「……ちょっとしばらく、手ぇ繋ぐのやめよっか」
「………ギャリーさんがそうなさりたいのなら」
「…いや?本当はそんな風にしたくないよ!?したくないけどさ…何か、その…申し訳ないし」
 何故だろう。先程から草葉の陰から旦那に見られている気がする。
 ギャリーはそんな妙な想像を巡らせ一人くっくっと笑う。セリカから話を聞いた時は驚きはしたし悔しくもあったが、よくよく考えれば彼女は夫の居た身。夫なんて立場の人間、死ぬ程好きでなければその立場に収まれない筈なのだから。
 いくら拗れた部分があったとして、二人の間に何一つ絆が無い等あり得ない。そう思うとセリカの一年喪に服すと言うのは区切りとしては納得だし、その間はその旦那だって彼女の傍に居るのではないかと非科学的な事をギャリーは思った。そして自分がもし旦那の立場なら、何処の馬の骨とも知れぬ男が大事な大事な妻に手を出そうとしている等と言う状況は気が気でないだろう。
 もしも旦那の魂とやらが傍に居ると仮定して、もしもセリカを守ろうとしていたとして、やっぱりそうなると男として彼に悪い気もするから『手を繋ぐのを遠慮する』と言う自分なりの礼儀は尽くすべきだよなとギャリーは思う。或いは、せめて明るい時間帯に限定して大人な艶めいた雰囲気を出さない様にするだとか。
 そんな事を考えているギャリーの横でセリカは言えた清々しさ以上に言ってしまった後悔に襲われていた。これでギャリーと今までの様に過ごせなくなったらどうしよう。
 案の定ギャリーはジェラール・シャリエまでの道で自然にしてくれた手を取ると言う動作を『しばらくやめよう』と言った。これが何かに遠慮しての動作でなく、もしも距離を置く為の準備だとしたら。
 覆水盆に返らずとは言うが、いつか言わなければならなかった事だが、言わない関係のままはやはり安心出来て良かったのにとセリカらしからぬ後悔を抱えながら二人はまた駅に着く。もう結社に戻る帰り道だ。名残惜しさもなくすんなり来てしまった辺り、本当に距離を置く為の準備だとしたらどうしよう。そんな事を考えながらギャリーと共にセリカは電車に乗り込む。この時間だからか、ドア付近に立っている男性客が一人いるだけでほぼ貸し切り状態だった。
「セリカちゃん…俺ちょっと寝て良い…?」
 長椅子に座るとギャリーがそう口にする。先程から珍しく口数が少ない彼がとうとう寝たいとまで言い出した事に少しどきりとしつつセリカは努めて気にしない素振りを見せた。
「ええ、お疲れでしたらどうぞぉ。セリカももしかしたら一緒に寝てしまうかもしれません」
「まぁ、結社まで少しあるしねー…」
 そう言いながらこくりこくりと船を漕ぐギャリー。安心して寝て良いよと言わんばかりにとんとんと優しく叩いてやると、その内すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえた。
 いずれ伝えなくてはならなかった。けれど、答えが貰えずこんなに不安になるならば伝えない方が良かった。そんな事を思いつつセリカも目を瞑る。敏感になった聴覚にギャリーの寝息が聞こえてしまい、余計に愛おしく思えてしまった。いけないいけないと髪を整える仕草を取り、編み込みの髪に手を添えた際イヤーカフに触れた。
 彼のくれた大事なもの。大事な思い出。これを貰ったその瞬間に戻りたい。その瞬間から、今日の朝までのわくわくした雰囲気に戻りたい。自分がイヤーカフを付けているのを見て嬉しそうに目を見開く彼の居た時間に戻りたい。自分の思いや都合等、何も知らなかった彼との時間に戻りたい。無邪気に、恋に恋する乙女の様な距離で居た頃に戻りたい。
 考えれば考える程マイナスな感情に支配されて行く。もしかしたらもう駄目かもしれない。彼と今まで通りに居られなくなるのかもしれない。そう考えると、我慢していたのにじわりと視界が歪んできてしまった。
 泣くな、泣くな。自分が『伝える』と決めたんじゃないか。
 ツンと痛む鼻を押さえてセリカは涙を我慢する。目を閉じて、呼吸を整えて、落ち着けばきっと普段通りのセリカで居られる筈だから。
 呼吸が整うと気持ちも落ち着いて来た。セリカはそっと目を開けると携帯端末を手に取った。
 ふと視界の端、ギャリーの隣に誰かいる事に気が付く。セリカとギャリーしか座っている客は居なかった筈だが、先程ドア近くに立っていた男性が何故かギャリーの隣に座っていた。
 こんなに席が空いているのに何故こんな密集して座ろうと思うのだろう?セリカは素直に疑問に思った。こんなに貸切の如く空いているのに、ギャリーを挟む様に男性と並んで座ると言うのは何だか違和感だ。
 薄らと目を開けて様子を窺う様にしてしまうのはそうした疑問の方が大きかったからだ。先程からギャリーは寝ているし、呼吸を整える自分の姿も寝ている様に見えたのだろうがだからと言ってこんな近くまで普通やって来るだろうか。他人のパーソナルスペースの程近くまで無理して入る等誤解されやすい行為に他ならないだろうに。
 少し警戒しながら様子を見る。男性は特に動きは見せず、次はスラナだと言う車内アナウンスを聞いて降りる支度を始めた。スラナはソナルト行きやラシアス行きの電車も入り組んで居るからか調整の為に停車時間が長い。なのでゆっくり支度をしていた。
 取り越し苦労だったかと少し安心しつつも寝たふりを続ける。男性は荷物をしっかり確認すると立ち上がる為に前屈みになるのだが、立ち上がる瞬間、椅子から尻を浮かす瞬間まるでバランスを取る時に自分の足に手を乗せる程にさり気ない動作の様にギャリーの股間に手で触れると、彼がジーパンと言う硬い素材のボトムを履いているからか『分かりやすく触っている』くらいには強めの力で握る様に手を動かし、そして何事も無かったかの様に電車を降りようと出口に向かう。
 セリカはその現場をしっかりと見てしまった。
「ん……!んん…?」
 触られた事で目を覚ましたギャリーが声を上げる。その声に突き動かされる様に、咄嗟にセリカは立ち上がり、降りる前の男性に声を掛けていた。
「あのぅ…すみません……」
「……」
「今、ご自分が何をなされたか。お気付きで無い筈ありませんよねぇ?」
「俺が何したってんだよ」
「…あんなに席が空いているのに気付いたらお近くに来られていたのでちょっと寝たふりをして居たんですぅ。そして貴方が私の隣に居た男性の体を触って出て行かれようとしているのが見えまして」
 その瞬間、男性は眉間に大きく皺を寄せると小馬鹿にした様に大きく溜息を吐いた。そして、セリカに対して一言吐き捨てる様に呟いた。
「証拠あんの?」
「証拠…」
「やったって言う証拠。普通さ、痴漢されるって男より女が多いだろ?でもアンタ自分はやられてないってのに横で見たとか何とか言って出て来たんだろ?でもさ、俺普通に女が好きだし男なんて触る筈ないんだよ。って事はこれ完全に名誉毀損だよね?自分がやられたわけでもないのに近くに俺が居たから冤罪吹っ掛けて小遣い取れる良い標的が見付かったとでも思ったんだろ?」
「はぁ……?そうは言われましてもぉ…貴方が女性が好きだから男性に触る筈無いと主張されましても、それは貴方の主観でしかないので逆に言うとそれもやっていないと言う確たる証拠にはなりませんよぅ…?男性同士であろうが無かろうが、寝ている無防備な方の体に触れると言うのは失礼な行為では無いのですかぁ…?」
 セリカがそう言うと男性はあからさまに面倒臭そうに顔を歪めた。寝ぼけ眼でそれを見ていたギャリーも、流石に男性の様子のおかしさに気付いてセリカの下に近づいた。
「おい、アンタ俺の連れに何だよ」
「……お前男?彼氏?言い掛かりと難癖を他人に簡単に言える様な女連れてるなら迷惑掛けない様にしっかり見とけよ」
「は?」
 ギャリーがちらりとセリカを見ると、セリカは下唇を噛み何かに耐えながら考え事をしている様だった。状況を何となく察せられないかと色々と観察してみるに、少なくともセリカが触られた訳では無い様でそこだけはギャリーも安心した。
 そして、「もしかして俺また触られたの?」と酷く落胆した。同時に今が厄介な状況な事に気が付いた。
 もし仮にこの目の前の男性が痴漢だったとして。おそらく被害に遭ったのは寝ていたギャリーであり寝ていた為に触られた瞬間の記憶はほぼ無い。セリカは隣で見ていたと言うが見ていたと言うだけでは確実な証拠とは言えないし、何より相手が『無実』と言う事に対して絶対的な自信でもあるのか無駄に逃げるでもなくむしろこちらを責め立て自分を『誹謗中傷の被害者』の立ち位置に置こうとすらしている。
「でも…セリカは見たんですぅ……」
「見たとか見てないとかそんなんクソの役にも立たないっつってんの。物証持って来いって言ってんの。これ名誉毀損だよ?立派な名誉毀損。アンタみたいな男に寄生してそうな女に慰謝料なんて払える訳?」
 その言葉を聞いてギャリーは怒りに身を震わせた。そして男性の手を取ると逃さない様に強く掴む。
「おい、物証だかなんだかお前の欲しいもんよく分かんねぇけど、彼女に言った言葉は名誉毀損にならねぇの?明らかに侮辱だろ?それ」
「こんなん口喧嘩レベルだろ?それに、俺は痴漢の冤罪さえ一方的に被せられなきゃ言わなかった。つまりこれは正当な言葉の防衛だ!それ以前に録音もしてないからこれも証拠なんてどこにも残って無いだろ!それより、お前も同じだな。手を掴んで逃げられない様にするって暴行にならないのか!?」
 完全に男性のペースに飲まれてしまい掛けたその時、セリカはギャリーの手に視線を這わせ、そして気が付いた。
「…あ………」
 彼の手一つで証拠になる。
 セリカはしっかり前を向くと、にこりと微笑んで男性に毅然とした態度で向かった。
「……やっていない、と仰るなら何故堂々となさらないのですか?」
「身に覚えのない疑い掛けられたら怒るのなんて当たり前だろ!」
「では、きちんと軍警の方にしっかり精査していただきましょう?それでもしも本当に何も出なかったならセリカは誠心誠意謝ります。お望み通り慰謝料もお支払い致しますし、貴方が望む事はセリカの身一つで叶う事ならやりましょう」
「セリカちゃん!?」
 心配そうにこちらを見るギャリーを安心させる様ににこりと笑うと、セリカは男性の手を指差した。
「……セリカの友人に『変態専門の弁護士』を自称されてる方がおりまして。その方、そう言う事件の弁護が多かったからか、守り方は仕事として勿論把握されておりますが同時にそう言う方の糾弾の仕方も知っておられるんですぅ」
「糾弾だと…?」
「…物証が欲しい、でしたよね?だとしたら、貴方の手。そのまま軍警の方に調べていただきましょう?貴方が触った様に見えたのがセリカの見間違いであれば貴方の手には何も無い筈です。ですがもしも見間違いで無いのなら、貴方の手には彼のズボンの繊維片が残っている筈ですから」
 怪しいとは思っていた。冤罪で疑われた時、実際にしてしまった時、どちらも大事なのは証拠集めだ。本当に無罪の場合、無罪である証拠が今後を左右する重要な材料となる為やっておいた方が良い事が多々ある。
 一つ、逃げずに否認を続ける。これはこの男性はまずやっていた。しかし逆を言うと彼のやっている事はそれのみなのだ。
 セリカとのやりとりの録音もしなければ、微物検査、DNA鑑定は求めずこれを拒否。一番の鉄則である「逃げずに証拠収集に協力し、その場で疑いを晴らす」と言う行動が彼から見られないのも疑わしかった。
 まるで、本当はやっているのに大声を上げることでこの場を無理矢理収めようとしている様に見えてしまったのだ。
「え?俺、やっぱまた触られてたのか……?」
 今の言葉を聞いてげんなりしたギャリーが絶望しきった顔で口を開く。そんなギャリーの隙を突いてとうとう男性は彼の手を振り解き、走って逃げようとした。
「待って!!」
 セリカが気付いて声を張り上げる。男性は足をもつれさせながらも何とかその場から逃げようと走る。
 しかし改札まで目の前と言うところまで迫ったその瞬間、何故か男性は勢いよく派手に転びそのままの勢いで改札を目前に力尽きた。顔から床に突っ込み痛みで動けないまま蹲る男性を逃がすまいとセリカとギャリーも慌てて電車を降り、男の元へ近付く。するとどこからか煙草の匂いが漂ってきた。
「ばーか」
 駅と言う公共の場であるにも関わらず、喫煙所でも無いのに煙草に火を点け一服している女性がそこに居た。随分とマナーの悪い女性だが、立ち振る舞いはまるでモデルの様ですらある。羽織ったコートはウエストのくびれが目立つデザインになっており彼女のスタイルの良さが際立つ。彼女の真っ黒で綺麗なワンレンのロングヘアよりも、タンクトップのシルエットからその豊満な胸に下着を着けていないのが分かってしまいセリカはぎょっとした。ちらりとギャリーを見ると、彼もそれに気付いてかしっかり鼻の下を伸ばしながら見ていたのでとりあえず脇腹をつねってみる。
 ギャリーから「ひゃいっ!!」と情けない声が聞けたところで二人に気付いた女性がにっこり微笑んだ。
「ありがとね、アンタ達。私ずっとコイツを捕まえたかったの。助かったわ」
 捕まえたかった。つまり、この男性を転ばせたのは彼女か。
 いくら痴漢の容疑者とは言え、全力で走っている人間に足を掛けるなど下手をしたら大怪我を負わせる事もある。何て乱暴な手口で捕らえたのだろうと呆気に取られていると、女性はふぅと煙を吐き煙草の灰をわざと男性の顔目掛け落とした。
 男性が叫び声を上げると、女性は殊更満足そうに微笑んだ。
「私ダニエラ。コイツは名前は知らないけど、きっとラシアスからソナルトを根城にしている痴漢。アンタ達も被害に遭ったんでしょ?追い立ててくれてありがとね。お陰で上手く捕まえられたわ」
「あ…私はセリカと申しますぅ……こちらはギャリーさん。被害に遭ったのは私では無く実は彼なんですぅ」
「やっぱ俺本当に触られてたのか……」
「でも…ダニエラさん…セリカが言うのも変なのですが…本当にこの方痴漢なのですかぁ?人違いと言う事は……」
「あぁ、私ね。人の顔覚えるの得意なの。兄の店の手伝いで週に二回、午後五時に電車を使うんだけど、スラナ周辺で高頻度で痴漢に遭ってたのよ。兄にも兄の友人にも手伝って貰って監視カメラの画像も貰って、私が被害に遭った日全てに映ってる男の存在を確認したんだけどそれに勘付いてか私に近寄らなくなったのよ。私と時間をずらして駅を利用してるみたいで、一切見なくなったから捕まえるチャンス逃しちゃって。でも、時間だけ変える知恵は付けてもそもそも『痴漢を辞める』って発想に至る程賢くは無かった様ね。全く、こんなクソ男に振り回される私は間抜けかしら?」
 ダニエラが心底下劣なものを見下す様に男性に目線をやる。男性は何も言わぬまま地面に突っ伏し先程のセリカに冤罪を主張する勢いはどこへやら、しかし現実を受け入れる余裕が無いのか『俺は悪くない、俺を認めない社会が悪かったから』とぶつぶつ文句を言っていた。
「やっと捕まえたわよ、痴漢野郎。男にまで手を出すなんて救えないわね。こっちはアンタの為に証拠までしっかり用意してこの日を待ってたんだから。大人しく認めなさいよ?別に抵抗しても良いけど、軍警に捕まった方が身の為だと思うわ」
「おいダニー!痴漢ってのはコイツか!?ぶっ殺してやるから覚悟しろ!!」
 ダニエラの背後から息を切らした大柄な男が現れる。薄い眉、眉間に刻み込まれた深い皺、体に入れられた刺青とどう見ても穏やかではないその姿にセリカもギャリーも思わずヒュッと喉を鳴らしそうになった。
 その大柄な男。彼はソナルトで遭遇以降『二度と会いたくない』と二人に思わせたエメリー・ストーヴィントンだった。
「……あぁ?奥さんとですだよ・・・・か?何でこんなとこに居んだよ?」
「俺達はちょっと出掛ける用事があって……お前こそ何してんだよ!?ここソナルトじゃねぇだろ!?」
「あぁ?俺がソナルト以外の街に来ちゃいけねぇのかよ!?」
「エメリー、このイカしたお兄さん知り合い?」
「知り合いなもんか。俺の店でイカサマやった命知らずのエイリアンだ。色々と卑怯な男だぜ」
 聞くに、ダニエラはストーヴィントンの妹らしい。彼女は兄の手伝いに店に通い、その都度この男性と電車で遭遇。痴漢を繰り返されそれを聞いたストーヴィントンもスタムバルも協力し、彼を捕まえようと尽力していた。ともすれば軍警を介さず自分で報復しようとすらしていたストーヴィントン。しかし、駅員が知り合いだからと半ば脅す形で監視カメラの映像を入手した事で軍警から警告を受け、転んでもただでは起きない彼の妹はその際軍警に痴漢逮捕の協力を煽いだのだと言う。そして証拠も揃え、後は本人を現行犯で捕まえるのみと言うところでセリカ達に遭遇したのだ。
 軍警の到着を待つ間、ダニエラと少し世間話をする。ストーヴィントンはセリカとギャリーが一緒にいる事に納得していないのだろう、会話に入って来ようとすらしなかったがそこもダニエラが補足するところによると、
「エメリーったらね、一時期『サムライ』に憧れてよく東國に旅行してたのよ。そこで大昔のサムライの価値観植え付けられて帰ってきたのよねー。大和撫子な女を持ち上げる様になったのもこの頃だったわ」
 ──との事。セリカは何となく彼がベンジーに惹かれた理由に納得しつつも、しかし自分の人生なのだからいくら知り合いとは言えやはり彼にとやかく言われる筋合いは無いなぁともこっそり思った。勿論それは同じ女性であるダニエラも同様で、兄のその昔の東國的な男尊女卑の思想を「片一方に都合の良いだけの迷惑な御都合主義」と断じた。その時だけはストーヴィントンが愛する妹に価値観を叩っ斬られた寂しさからか悄気しょげた顔を見せた為「ああ、彼も一人の人間、一人の妹を愛する兄なのだなぁ」と少しだけ親近感を覚えた。
「…おいダニー。早くこいつポリ公のとこ連れてくぞ」
「ええ、証拠もあるし後はこいつ含めて全部提出するだけね。あ、イカしたアシューアン兎頭国人、これ捨てといてくださる?」
 去り際、ダニエラがギャリーに煙草の吸い殻を渡す。何故自分が選ばれたのかと疑問符を浮かべていると、彼女はギャリーに擦り寄る様に近付いてすんすんと鼻を鳴らした。
「やっぱり、アンタ喫煙者よね?ちょっと煙草と違うけど。携帯灰皿くらい持ってんでしょ?」
「え?分かるだ?俺煙草臭いのか…?」
「臭くは無いわよ、私は好き。喫煙者だから似た様な匂いに敏感に反応しちゃうのかもね」
 くすくす笑いながらまるで誘惑する様にギャリーに密着し、そう口にするダニエラにセリカが慌てて口を開こうとするがそれより早く声を上げたのはストーヴィントンだった。
「おいダニー!そいつに色目使うんじゃねぇ!!」
「何でよ?私がボーイフレンドに誰を選ぼうとエメリーには関係ないでしょ?」
「だからってそのクソエイリアンが言い訳あるか!ソイツはそこの──っ!!」
 そこに居る奥さんの男だから辞めておけ。
 それを言えば絶対にダニエラが諦めると分かっているが、それを言ってしまったら二人を認めた様で嫌だ。しかし、可愛い可愛いダニエラがこんな男にうつつを抜かすなどもっと嫌だ。
 その葛藤を抱いて次の言葉を出しあぐねているストーヴィントンを見て「勝負あり!」と言わんばかりにダニエラは笑った。
「あ、やっぱ彼がこの大和撫子の恋人って認識はちゃんとしてるんだ?」
「……うるせぇ!!俺はあの先輩の奥さんがこんな野郎に靡くなんざ認めてねぇからな!!」
「どこの小姑よ、往生際が悪いわよエメリー」
「お前はまだ分からねぇと思うが女はなぁ!亭主を立て亭主を想い生きるのが幸せなんだよ!亭主が外で敵と戦ってるんだから守られながら家で内助の功すんのが幸せだろうが!!」
「内助の功も何も、その外で戦う亭主そのものが居なくなったらどう生きろってのよ?それでも家に居ろっての!?その間どうやって食ってくのよ!?旦那思うだけで腹が膨れりゃ苦労しないわよ!」
「そ、それは、だな……だけど旦那を想えば他の男になんざうつつ抜かさずに居るのが正解じゃねぇか!!」
「それはエメリーがそうであって欲しいって思ってるだけの話でしょ!?旦那想って家に居ろ、家に居て旦那を立てろ、でも生きる為の行動は自分でしろ、だけど他人との関わりは深く無い様にしろってめちゃくちゃじゃない!馬鹿丸出しだからエメリーは絶対このテの話題で議論しちゃダメよ!」
 その様子にセリカは思わず吹いてしまう。しかしギャリーとしては、そんな微笑ましい会話をしている間もずっと足で踏まれて自由を奪われている痴漢の男性が一体この後どうなるのか、無事に軍警に引き渡されるのかそれともストーヴィントンの私刑リンチを食らうのか。そう考えると穏やかではいられなかった。
 そうこうしている内に軍警が到着し、男性を担ぎ上げる。ストーヴィントンは一発殴らないと気が済まない勢いだったが、それをやったら今度お前を傷害罪で逮捕すると嗜められ何とか抑えた。
 余談ではあるが、結局男性はギャリーに触った事も後に認めた。元々執着していたのはダニエラだったが、彼女が泣き寝入りする性格では無かった事、彼女の恐ろしい兄とその一味に報復されそうになり満足に痴漢と言うスリルを味わえなくなった事でフラストレーションが溜まっていたそうだ。
 ギャリーとセリカがデートに出掛けたその日の午前中、満員電車でセリカに狙いを定めたのも彼でありギャリーに邪魔をされた事で腹癒せに彼を乱暴に触ったのだった。しかし邪魔をされた報復として彼に攻撃を加えたものの苛立ちは抑えきれず、夜になってもう一度同じ電車に乗ったところギャリーを再び見掛けたので再度腹癒せに乱暴しようと近付いたのだと言う。ついでに、ギャリーが兎頭国人でもあり見目から本当に男性か疑わしく思った様で確かめたかったと言う知的好奇心もあったらしいが。
 捕まらずに犯罪を重ねた慢心か、スリルを求めた末の愚行か。人の居ない車内で大胆な行動に出たのが決め手になった。少なくとも監視カメラでギャリーは思い切り触られていると判断出来る状況だった為、おそらく過去に起こしたダニエラへの行為も加われば悪質と言う判断は免れないのだろう。
 ギャリーとセリカは軍警に連絡先を渡し、後日事情聴取に応じるとしてその場を離れた。
 時刻は午後十一時近過ぎ。流石のカンテ国ももう夜の闇に包まれている。
「はぁ…今日は盛り沢山な一日だったわな」
「そうですねぇ……」
「まさか二回も痴漢に遭ってストーヴィントンにも再会するだなんて……」
「ふふ、そうですねぇ…」
 相変わらず女子寮までしっかり送ってくれたギャリーは、いつもなら手を繋いでいるその道中で手を取らず、少し距離を空けながらそう言った。
 セリカは努めて笑顔で相槌を打つ。しかしギャリーといつもは無い距離感が生まれているのは否めなかった。
「……今度また今日みたいに出掛けようぜ。もしその、気分的にアレだったらエレオノーラちゃんとか誰か誘って皆ででも良いし」
「……『皆』で…」
「あぁ…二人でも良いなら良いけど。俺と二人が行きづらかったらね、そう言うのも有りなんじゃ無いかな」
 そんな事は決して無いのに。しかし今日ギャリーが想いを伝えてくれる前に一度「今すぐは恋人にはなれません」と断ってしまったのだ。それも、ギャリーがおそらく今日自分に想いを伝えようと気持ちを昂らせていると分かった上で、彼が今すぐにでも恋人になりたいと思っているだろうと推測出来た上でだ。
 彼から『今日想いを伝える』と言うチャンスをそもそも奪ったのだ。彼の出鼻を、愛した人を理由に挫いたのだ。酷な事だとも思う。けれど自分にとっては前に進む為の大事なタイミングだと思っている。だからつまり、それを越えても好意を寄せられると言う事は、ギャリーにも生半可な気持ちでいて欲しくなかったのだ。
 とは言えそれは自分の願望だけであり、『一周忌を迎えるまでは旦那様の妻でありたい』と言う願望を貫く為に色々用意してくれた彼の想いを突っ撥ねたのも確かなのだ。
 彼の事を大事に思う自覚が大きく芽生えたセリカのケジメとして『まだもう少し待って』と言う主張。
 彼女への想いが急速に膨れ上がったギャリーの『俺の恋人になって』と言う主張。
 時期がずれていれば問題なかったのだが、何の運命の悪戯か、どちらも同じタイミングで伝えようとした結果片一方を諦めさせる話になってしまった。もう女子寮も目の前、デートは後数歩で終わると言う距離。何だか少しこのままだと何だか少しモヤモヤした終わり方をしそうだなぁと少なくともセリカは思った。
「……皆で、そうですねぇ…大所帯でお出掛けと言うのも楽しいものかもしれません。セリカ、ケンズとラシアスならご案内出来ますよ?ラシアスは今日行きましたが、ケンズは行った事あります?」
「あー…カンテ来てからまだ行ってないかも」
「じゃあ、きっと気に入ってくれますよって太鼓判押させてもらいますぅ。良いところですよ、ケンズもラシアスも」
「うん……うん……?」
 その時、ギャリーの目がカッと見開かれセリカを見つめる。セリカは突然のギャリーの反応に一瞬慌てるが、次に彼が口にした言葉に心臓が跳ねた。

「……セリカちゃん、去年同じ言葉をさ、誰か他の男に言わなかった?例えば、今日の俺みたいな髪型して兎頭国のカンフー服着てる様な男に」
「…え?」
「去年、もしかしてセリカちゃんさ、こんな髪型で少し化粧した兎頭国人に会わなかった?」
 セリカは、実は少し前から勘付いていた。過去に出会ったあの優しい青年がギャリーではないかと言う事に。
 だからこそ、あの時彼に人知れず惹かれていてその彼にそっくりなギャリーだったからこそ出会ってから余計に気を許す速度が早かったとも言える。
 セリカが言葉を詰まらせ黙っていると、ギャリーは嬉しさを噛み締める様にふっと微笑んだ。
「あ…えっと、その…」
「……もしかして心当たり、ある?」
「あ、あの…セリカは……えっと…」
「『お姉さんこそこう言う服似合いそうだから着れば良いのに。どっちかって言うと着物の方が似合いそうだけどね』」
「あ……」
「……やっぱり。あのお姉さん、セリカちゃんだったんだね…?」
 ギャリーは薄めた目でセリカの顔を眺める。髪型が変わっているし服装も変わっている。見た目に大分変化のあったセリカ相手なのでギャリーも言い回しや反応で判断するしか無いのだがそれでも、自分と例の彼女しか持ち得ない思い出をセリカは「知らない」と言い切らず何かを言いたげに言葉を詰まらせた事で確信を持った。
「……旦那様との待ち合わせに向かうところで……あの時のセリカは…まだ髪も長く服装も今の様でなかったのに…」
「そっか。やっぱセリカちゃんだったんだね、あのお姉さん」
 ギャリーは顎に手を当て、何かを考える様なポーズを取る。そして、うんうん唸った末にセリカを見た。真面目な顔ではあるが、口元は喜びを隠しきれないのか少しニヤけている。
「……今から俺の独白を聞いて欲しい」
「独白ですかぁ?」
「そう、独り言だでね。これ、俺のでっかい独り言だから。だから聞いてる様な聞いてない様なそんなフリして欲しい」
「は、はい…」
 ギャリーはくるりとセリカを背にし、おもむろに月を見上げる。そして深呼吸をする様に大きく息を吸うと、そのままの勢いで大きく声を張り上げた。
……俺はァ!!あの時あのお姉さんに一目惚れしたぁぁぁぁぁあ!!
「ええっ!?」
 夜十一時を回っていると言うのに、怒られやしないかと言う大きな声でギャリーは叫ぶ。セリカは制止しようとしたが、ギャリーが何を言いたいのかしっかり聞き届けたい気がして伸ばし掛けた手を引っ込めた。
「勿論旦那居るって分かってたからもうただの良い思い出だよ!俺そんな危ない恋愛にのめり込まないどこうと思ってたから思い出だけどさ!思い出の中のお姉さんが好きで童貞みてぇな憧れ方した日もあった!似た様な雰囲気の子とワンナイトしたりとか!無いとは言い切れない!!」
「ちょ、ギャリーさん!!」
 大声で叫ぶには不適切な単語が出たので思わず慌てるセリカだが、それでもやはりギャリーは止まらなかった。
「……マジで一目惚れだったよ!!本当にあるんか?って半信半疑になるくらいには!!突然好きになったんだよ!!それはそれとして思い出で終わったけど!!それから着物美人に出会った!!お姉さんと似てるとか似てないとかよく分かってなかったけど、何かどんどん好きになった!!勿論それはその子だったから好きになったんだけどさ!!俺『運命』って言葉マジで信じたくなった!!あの時惚れたお姉さんがその子だなんてさ!これが運命じゃなかったら何なんだよ!?」
 セリカは最早何も言えなくなっていた。ただギャリーから紡がれる言葉を赤くなりながら聞くだけだ。ギャリーも未だにセリカに背を向けて居る為どんな表情で言っているかは分からない。ただ、青白い月に照らされているにも関わらず彼の耳は赤くセリカには見えた。
「俺…俺は…君が好きだー!!実はあの時のお姉さんだったって事実さっ引いても今の君が好きだー!!旦那の事思い出したって良い!!旦那の存在が俺よりデカくたって良い!!大事な思い出なんだからむしろたまに思い出して幸せな気持ちになって欲しい!!何なら思い出ごと、もう旦那ごと二人まとめて抱いてやる!!……いや!俺男を抱く趣味は無いから本当には無理だけどそのくらいの覚悟でいるからさ!!」
「ギャリーさん……」
 その時、やっとギャリーがセリカの方を向いた。言い切ってスッキリしたのか、或いはこの勢いでも想いを口にしたからか。酒でも飲んだかの様に真っ赤で、少し覚悟を決めた様な顔でセリカと目を合わせた。
「……旦那さん、俺達には見えなくてもどっかで見てたらいけねぇで今日は手ぇ繋いだりとかは遠慮しとくよ」
「は…はい…」
「…セリカちゃんが『この日までは』って決めた時までは……俺はただの同僚の距離感で居るつもり。一応ケジメとしてそこは守ろうと思うから下手したら、いつもより距離のある感じに思うかもしれないけど…セリカちゃんの事嫌いになんてなったわけじゃ無いから心配しなんでくれや。俺の気持ちは、さっき叫んだ通りだから……」
「……ええ」
「……一年の節目にさ、追悼式典やるだろ?この間人事部からも話が出た。人員を割く話と、それに伴う経費を出す話。つまり、結社も何らかの形で関わるんだろうなーって気はしてる。前線のメンバーを…護衛に回したりするんだろうって」
「そうなんですかぁ……要人護衛…結社は適任と言えば適任かもしれませんねぇ」
「うん。基本現地集合現地解散だと思うから……追悼式典の日さ、俺と泊まりで海見に行かねぇ…?」
 セリカの心臓が、今度こそ分かりやすくどくりと音を立てた。突き動かされる様にパッと顔を上げると、優しく微笑んだギャリーと目が合う。
「……セリカちゃんにとっても節目の日にさ、新しい夜明けを一緒に見たいって言うかさ……どう?」
「……」
「その節目を迎えるその日にさ、俺が隣に居たらダメ…?」
 ベンジーの望むセリカ・ピンカートンで居ようと思った最後の日。その日から新しい自分であろうと思う次の日その瞬間一緒に居たいと言うギャリー。彼の想いを聞いて、彼への想いを自覚して、そんなセリカに拒否をする理由は最早無かった。
「……はい、大丈夫ですぅ」
「本当に大丈夫?……先に言っとくけど、ただ惚れた腫れた言うだけで終わる様な子供の恋愛と違うぜ?」
 耳に触れるか触れないか、もどかしい手付きでギャリーがセリカのイヤーカフに触れる。まるでここだけは今自分のものだと主張するかの様に。
 セリカはこくんと頷く。彼の言いたい事は分かっている。私ももう大人だから。
「大丈夫、ですぅ……」
「……ありがとう。俺、その時にちゃんとセリカちゃんの顔を見て伝えたいからさ…あと、渡したいものもあるし……」
 今九割程伝えてもらった気もするが、残り一割たる『彼がどんな顔をしていたか』をその日までの楽しみに取っておくとして。ギャリーも、今日渡せなかった指輪をその時に渡すと心に決めてふと携帯端末を開く。時間を見れば、もう日付が変わろうとしていた。
「……さて、そろそろ帰らなきゃね。午前様にしちゃ悪いし」
「あ、ギャリーさん…」
「んー?何?今日は帰り際のチューもハグも無しだよ?」
「なっ…!?元々してないじゃないですかぁ…!!」
 いつもの調子のギャリーに少し安心しつつ、セリカは気持ちを改めてギャリーの目を見る。姿勢を正した彼女の口から飛び出したのは感謝の言葉だった。
「ギャリーさん、今日はありがとうございますぅ。セリカは…セリカは本当に楽しかったです」
「……こちらこそ。俺もだよ」
「きっときっと、何年経っても今日の事忘れられないと思うんですぅ」
「うーん……俺が痴漢にタマ握られたのは忘れて欲しい……」
「ふふふっ、それも含めてですぅ」
「はははっ、酷ぇー」
 手は握らず、目線だけを絡めると名残惜しそうに『お休み』と一言残して帰るギャリーをセリカは見送る。

 色々あった一日。
 お互いにお互いを想うからこそ、タイミングが合わない時にこんなにも悲しくなる。
 新たに人を好きになる気持ちを自覚したからこそ、思い出したそんな気持ち。
 セリカはこの想いと共に前に進もうと思えたし、ギャリーも覚悟を決めてこの本気の恋愛と向き合おうと男子寮までの道中考えていた。

 今日の事を振り返る。
 ああ、今日はなんて素敵な一日だったのだろうか。

 * * *

 後日、軍警から呼び出されたギャリーとセリカは痴漢された当時の状況整理に少しだけ貢献した。帰り道、相変わらずギャリーはセリカを寮まで送ったのだがやはりこの日も彼は手を繋ごうとしなかった。
 傍目に見ていた結社の人間が、あんなにセリカにあからさまに好意を見せていたギャリーの一見すると冷めた様な態度を不思議に思い、『セリカにフラれたのでは無いか』と噂を立てたのは言うまでも無い。
 事実ギャリーも勘違いしたギルバートとアルヴィに驚く程気を遣われた日々を過ごしたし、ギャリーの自分とベンジーに対する決意に惚れ惚れしたは良いが、矢張り以前より好意を見せて来ない彼に対して不安を募らせたセリカの情緒が少し不安定になったのだが。

 それは七月十八日までの短い間に起きた、また別の話だ。


 ──そしてそれとは別に、十二時直前と言う深夜に女子寮の前で告白したギャリーの大声の所為で『未亡人に言い寄る不審者』の噂がしばらく持ち上がり、危うくマルフィ結社七不思議に組み込まれそうになったのだった。
 名前を出した告白をしなかったから特定されなかったものの、真実を知るセリカとギャリーはいつ身元がバレるか気が気でなかったと言う。