ジェラール・シャリエから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。時計を見ればもう夜十時。今の時期、いくら日の長いカンテ国と言えどこの時間は暗くなる様だ。ここまで長い日の出を経験してまだ数年のギャリーは「慣れないなぁ」と思いつつ隣にいるセリカに目を遣る。
彼女の告白からすぐにお会計をし外に出たは良いものの、それ以来一言も交わせていない。
今まではどうしていたっけ?と思考を巡らせ、求める様にすぐに手を伸ばしてしまう。そして、触れるギリギリのところで思い帰り、手を引っ込めた。セリカはそれに気付いたのか申し訳なさそうににこりと笑う。ギャリーもつられて、少し切なそうににこりと笑った。
「……ちょっとしばらく、手ぇ繋ぐのやめよっか」
「………ギャリーさんがそうなさりたいのなら」
「…いや?本当はそんな風にしたくないよ!?したくないけどさ…何か、その…申し訳ないし」
何故だろう。先程から草葉の陰から旦那に見られている気がする。
ギャリーはそんな妙な想像を巡らせ一人くっくっと笑う。セリカから話を聞いた時は驚きはしたし悔しくもあったが、よくよく考えれば彼女は夫の居た身。夫なんて立場の人間、死ぬ程好きでなければその立場に収まれない筈なのだから。
いくら拗れた部分があったとして、二人の間に何一つ絆が無い等あり得ない。そう思うとセリカの一年喪に服すと言うのは区切りとしては納得だし、その間はその旦那だって彼女の傍に居るのではないかと非科学的な事をギャリーは思った。そして自分がもし旦那の立場なら、何処の馬の骨とも知れぬ男が大事な大事な妻に手を出そうとしている等と言う状況は気が気でないだろう。
もしも旦那の魂とやらが傍に居ると仮定して、もしもセリカを守ろうとしていたとして、やっぱりそうなると男として彼に悪い気もするから『手を繋ぐのを遠慮する』と言う自分なりの礼儀は尽くすべきだよなとギャリーは思う。或いは、せめて明るい時間帯に限定して大人な艶めいた雰囲気を出さない様にするだとか。
そんな事を考えているギャリーの横でセリカは言えた清々しさ以上に言ってしまった後悔に襲われていた。これでギャリーと今までの様に過ごせなくなったらどうしよう。
案の定ギャリーはジェラール・シャリエまでの道で自然にしてくれた手を取ると言う動作を『しばらくやめよう』と言った。これが何かに遠慮しての動作でなく、もしも距離を置く為の準備だとしたら。
覆水盆に返らずとは言うが、いつか言わなければならなかった事だが、言わない関係のままはやはり安心出来て良かったのにとセリカらしからぬ後悔を抱えながら二人はまた駅に着く。もう結社に戻る帰り道だ。名残惜しさもなくすんなり来てしまった辺り、本当に距離を置く為の準備だとしたらどうしよう。そんな事を考えながらギャリーと共にセリカは電車に乗り込む。この時間だからか、ドア付近に立っている男性客が一人いるだけでほぼ貸し切り状態だった。
「セリカちゃん…俺ちょっと寝て良い…?」
長椅子に座るとギャリーがそう口にする。先程から珍しく口数が少ない彼がとうとう寝たいとまで言い出した事に少しどきりとしつつセリカは努めて気にしない素振りを見せた。
「ええ、お疲れでしたらどうぞぉ。セリカももしかしたら一緒に寝てしまうかもしれません」
「まぁ、結社まで少しあるしねー…」
そう言いながらこくりこくりと船を漕ぐギャリー。安心して寝て良いよと言わんばかりにとんとんと優しく叩いてやると、その内すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえた。
いずれ伝えなくてはならなかった。けれど、答えが貰えずこんなに不安になるならば伝えない方が良かった。そんな事を思いつつセリカも目を瞑る。敏感になった聴覚にギャリーの寝息が聞こえてしまい、余計に愛おしく思えてしまった。いけないいけないと髪を整える仕草を取り、編み込みの髪に手を添えた際イヤーカフに触れた。
彼のくれた大事なもの。大事な思い出。これを貰ったその瞬間に戻りたい。その瞬間から、今日の朝までのわくわくした雰囲気に戻りたい。自分がイヤーカフを付けているのを見て嬉しそうに目を見開く彼の居た時間に戻りたい。自分の思いや都合等、何も知らなかった彼との時間に戻りたい。無邪気に、恋に恋する乙女の様な距離で居た頃に戻りたい。
考えれば考える程マイナスな感情に支配されて行く。もしかしたらもう駄目かもしれない。彼と今まで通りに居られなくなるのかもしれない。そう考えると、我慢していたのにじわりと視界が歪んできてしまった。
泣くな、泣くな。自分が『伝える』と決めたんじゃないか。
ツンと痛む鼻を押さえてセリカは涙を我慢する。目を閉じて、呼吸を整えて、落ち着けばきっと普段通りの
セリカで居られる筈だから。
呼吸が整うと気持ちも落ち着いて来た。セリカはそっと目を開けると携帯端末を手に取った。
ふと視界の端、ギャリーの隣に誰かいる事に気が付く。セリカとギャリーしか座っている客は居なかった筈だが、先程ドア近くに立っていた男性が何故かギャリーの隣に座っていた。
こんなに席が空いているのに何故こんな密集して座ろうと思うのだろう?セリカは素直に疑問に思った。こんなに貸切の如く空いているのに、ギャリーを挟む様に男性と並んで座ると言うのは何だか違和感だ。
薄らと目を開けて様子を窺う様にしてしまうのはそうした疑問の方が大きかったからだ。先程からギャリーは寝ているし、呼吸を整える自分の姿も寝ている様に見えたのだろうがだからと言ってこんな近くまで普通やって来るだろうか。他人のパーソナルスペースの程近くまで無理して入る等誤解されやすい行為に他ならないだろうに。
少し警戒しながら様子を見る。男性は特に動きは見せず、次はスラナだと言う車内アナウンスを聞いて降りる支度を始めた。スラナはソナルト行きやラシアス行きの電車も入り組んで居るからか調整の為に停車時間が長い。なのでゆっくり支度をしていた。
取り越し苦労だったかと少し安心しつつも寝たふりを続ける。男性は荷物をしっかり確認すると立ち上がる為に前屈みになるのだが、立ち上がる瞬間、椅子から尻を浮かす瞬間まるでバランスを取る時に自分の足に手を乗せる程にさり気ない動作の様にギャリーの股間に手で触れると、彼がジーパンと言う硬い素材のボトムを履いているからか『分かりやすく触っている』くらいには強めの力で握る様に手を動かし、そして何事も無かったかの様に電車を降りようと出口に向かう。
セリカはその現場をしっかりと見てしまった。
「ん……!んん…?」
触られた事で目を覚ましたギャリーが声を上げる。その声に突き動かされる様に、咄嗟にセリカは立ち上がり、降りる前の男性に声を掛けていた。
「あのぅ…すみません……」
「……」
「今、ご自分が何をなされたか。お気付きで無い筈ありませんよねぇ?」
「俺が何したってんだよ」
「…あんなに席が空いているのに気付いたらお近くに来られていたのでちょっと寝たふりをして居たんですぅ。そして貴方が私の隣に居た男性の体を触って出て行かれようとしているのが見えまして」
その瞬間、男性は眉間に大きく皺を寄せると小馬鹿にした様に大きく溜息を吐いた。そして、セリカに対して一言吐き捨てる様に呟いた。
「証拠あんの?」
「証拠…」
「やったって言う証拠。普通さ、痴漢されるって男より女が多いだろ?でもアンタ自分はやられてないってのに横で見たとか何とか言って出て来たんだろ?でもさ、俺普通に女が好きだし男なんて触る筈ないんだよ。って事はこれ完全に名誉毀損だよね?自分がやられたわけでもないのに近くに俺が居たから冤罪吹っ掛けて小遣い取れる良い標的が見付かったとでも思ったんだろ?」
「はぁ……?そうは言われましてもぉ…貴方が女性が好きだから男性に触る筈無いと主張されましても、それは貴方の主観でしかないので逆に言うとそれもやっていないと言う確たる証拠にはなりませんよぅ…?男性同士であろうが無かろうが、寝ている無防備な方の体に触れると言うのは失礼な行為では無いのですかぁ…?」
セリカがそう言うと男性はあからさまに面倒臭そうに顔を歪めた。寝ぼけ眼でそれを見ていたギャリーも、流石に男性の様子のおかしさに気付いてセリカの下に近づいた。
「おい、アンタ俺の連れに何だよ」
「……お前男?彼氏?言い掛かりと難癖を他人に簡単に言える様な女連れてるなら迷惑掛けない様にしっかり見とけよ」
「は?」
ギャリーがちらりとセリカを見ると、セリカは下唇を噛み何かに耐えながら考え事をしている様だった。状況を何となく察せられないかと色々と観察してみるに、少なくともセリカが触られた訳では無い様でそこだけはギャリーも安心した。
そして、「もしかして俺また触られたの?」と酷く落胆した。同時に今が厄介な状況な事に気が付いた。
もし仮にこの目の前の男性が痴漢だったとして。おそらく被害に遭ったのは寝ていたギャリーであり寝ていた為に触られた瞬間の記憶はほぼ無い。セリカは隣で見ていたと言うが見ていたと言うだけでは確実な証拠とは言えないし、何より相手が『無実』と言う事に対して絶対的な自信でもあるのか無駄に逃げるでもなくむしろこちらを責め立て自分を『誹謗中傷の被害者』の立ち位置に置こうとすらしている。
「でも…セリカは見たんですぅ……」
「見たとか見てないとかそんなんクソの役にも立たないっつってんの。物証持って来いって言ってんの。これ名誉毀損だよ?立派な名誉毀損。アンタみたいな男に寄生してそうな女に慰謝料なんて払える訳?」
その言葉を聞いてギャリーは怒りに身を震わせた。そして男性の手を取ると逃さない様に強く掴む。
「おい、物証だかなんだかお前の欲しいもんよく分かんねぇけど、彼女に言った言葉は名誉毀損にならねぇの?明らかに侮辱だろ?それ」
「こんなん口喧嘩レベルだろ?それに、俺は痴漢の冤罪さえ一方的に被せられなきゃ言わなかった。つまりこれは正当な言葉の防衛だ!それ以前に録音もしてないからこれも証拠なんてどこにも残って無いだろ!それより、お前も同じだな。手を掴んで逃げられない様にするって暴行にならないのか!?」
完全に男性のペースに飲まれてしまい掛けたその時、セリカはギャリーの手に視線を這わせ、そして気が付いた。
「…あ………」
彼の手一つで証拠になる。
セリカはしっかり前を向くと、にこりと微笑んで男性に毅然とした態度で向かった。
「……やっていない、と仰るなら何故堂々となさらないのですか?」
「身に覚えのない疑い掛けられたら怒るのなんて当たり前だろ!」
「では、きちんと軍警の方にしっかり精査していただきましょう?それでもしも本当に何も出なかったならセリカは誠心誠意謝ります。お望み通り慰謝料もお支払い致しますし、貴方が望む事はセリカの身一つで叶う事ならやりましょう」
「セリカちゃん!?」
心配そうにこちらを見るギャリーを安心させる様ににこりと笑うと、セリカは男性の手を指差した。
「……セリカの友人に『変態専門の弁護士』を自称されてる方がおりまして。その方、そう言う事件の弁護が多かったからか、守り方は仕事として勿論把握されておりますが同時にそう言う方の糾弾の仕方も知っておられるんですぅ」
「糾弾だと…?」
「…物証が欲しい、でしたよね?だとしたら、貴方の手。そのまま軍警の方に調べていただきましょう?貴方が触った様に見えたのがセリカの見間違いであれば貴方の手には何も無い筈です。ですがもしも見間違いで無いのなら、貴方の手には彼のズボンの繊維片が残っている筈ですから」
怪しいとは思っていた。冤罪で疑われた時、実際にしてしまった時、どちらも大事なのは証拠集めだ。本当に無罪の場合、無罪である証拠が今後を左右する重要な材料となる為やっておいた方が良い事が多々ある。
一つ、逃げずに否認を続ける。これはこの男性はまずやっていた。しかし逆を言うと彼のやっている事はそれのみなのだ。
セリカとのやりとりの録音もしなければ、微物検査、DNA鑑定は求めずこれを拒否。一番の鉄則である「逃げずに証拠収集に協力し、その場で疑いを晴らす」と言う行動が彼から見られないのも疑わしかった。
まるで、本当はやっているのに大声を上げることでこの場を無理矢理収めようとしている様に見えてしまったのだ。
「え?俺、やっぱまた触られてたのか……?」
今の言葉を聞いてげんなりしたギャリーが絶望しきった顔で口を開く。そんなギャリーの隙を突いてとうとう男性は彼の手を振り解き、走って逃げようとした。
「待って!!」
セリカが気付いて声を張り上げる。男性は足をもつれさせながらも何とかその場から逃げようと走る。
しかし改札まで目の前と言うところまで迫ったその瞬間、何故か男性は勢いよく派手に転びそのままの勢いで改札を目前に力尽きた。顔から床に突っ込み痛みで動けないまま蹲る男性を逃がすまいとセリカとギャリーも慌てて電車を降り、男の元へ近付く。するとどこからか煙草の匂いが漂ってきた。
「ばーか」
駅と言う公共の場であるにも関わらず、喫煙所でも無いのに煙草に火を点け一服している女性がそこに居た。随分とマナーの悪い女性だが、立ち振る舞いはまるでモデルの様ですらある。羽織ったコートはウエストのくびれが目立つデザインになっており彼女のスタイルの良さが際立つ。彼女の真っ黒で綺麗なワンレンのロングヘアよりも、タンクトップのシルエットからその豊満な胸に下着を着けていないのが分かってしまいセリカはぎょっとした。ちらりとギャリーを見ると、彼もそれに気付いてかしっかり鼻の下を伸ばしながら見ていたのでとりあえず脇腹をつねってみる。
ギャリーから「ひゃいっ!!」と情けない声が聞けたところで二人に気付いた女性がにっこり微笑んだ。
「ありがとね、アンタ達。私ずっとコイツを捕まえたかったの。助かったわ」
捕まえたかった。つまり、この男性を転ばせたのは彼女か。
いくら痴漢の容疑者とは言え、全力で走っている人間に足を掛けるなど下手をしたら大怪我を負わせる事もある。何て乱暴な手口で捕らえたのだろうと呆気に取られていると、女性はふぅと煙を吐き煙草の灰をわざと男性の顔目掛け落とした。
男性が叫び声を上げると、女性は殊更満足そうに微笑んだ。
「私ダニエラ。コイツは名前は知らないけど、きっとラシアスからソナルトを根城にしている痴漢。アンタ達も被害に遭ったんでしょ?追い立ててくれてありがとね。お陰で上手く捕まえられたわ」
「あ…私はセリカと申しますぅ……こちらはギャリーさん。被害に遭ったのは私では無く実は彼なんですぅ」
「やっぱ俺本当に触られてたのか……」
「でも…ダニエラさん…セリカが言うのも変なのですが…本当にこの方痴漢なのですかぁ?人違いと言う事は……」
「あぁ、私ね。人の顔覚えるの得意なの。兄の店の手伝いで週に二回、午後五時に電車を使うんだけど、スラナ周辺で高頻度で痴漢に遭ってたのよ。兄にも兄の友人にも手伝って貰って監視カメラの画像も貰って、私が被害に遭った日全てに映ってる男の存在を確認したんだけどそれに勘付いてか私に近寄らなくなったのよ。私と時間をずらして駅を利用してるみたいで、一切見なくなったから捕まえるチャンス逃しちゃって。でも、時間だけ変える知恵は付けてもそもそも『痴漢を辞める』って発想に至る程賢くは無かった様ね。全く、こんなクソ男に振り回される私は間抜けかしら?」
ダニエラが心底下劣なものを見下す様に男性に目線をやる。男性は何も言わぬまま地面に突っ伏し先程のセリカに冤罪を主張する勢いはどこへやら、しかし現実を受け入れる余裕が無いのか『俺は悪くない、俺を認めない社会が悪かったから』とぶつぶつ文句を言っていた。
「やっと捕まえたわよ、痴漢野郎。男にまで手を出すなんて救えないわね。こっちはアンタの為に証拠までしっかり用意してこの日を待ってたんだから。大人しく認めなさいよ?別に抵抗しても良いけど、軍警に捕まった方が身の為だと思うわ」
「おいダニー!痴漢ってのはコイツか!?ぶっ殺してやるから覚悟しろ!!」
ダニエラの背後から息を切らした大柄な男が現れる。薄い眉、眉間に刻み込まれた深い皺、体に入れられた刺青とどう見ても穏やかではないその姿にセリカもギャリーも思わずヒュッと喉を鳴らしそうになった。
その大柄な男。彼は
ソナルトで遭遇以降『二度と会いたくない』と二人に思わせたエメリー・ストーヴィントンだった。
「……あぁ?奥さんと
ですだよか?何でこんなとこに居んだよ?」
「俺達はちょっと出掛ける用事があって……お前こそ何してんだよ!?ここソナルトじゃねぇだろ!?」
「あぁ?俺がソナルト以外の街に来ちゃいけねぇのかよ!?」
「エメリー、このイカしたお兄さん知り合い?」
「知り合いなもんか。俺の店でイカサマやった命知らずのエイリアンだ。色々と卑怯な男だぜ」
聞くに、ダニエラはストーヴィントンの妹らしい。彼女は兄の手伝いに店に通い、その都度この男性と電車で遭遇。痴漢を繰り返されそれを聞いたストーヴィントンもスタムバルも協力し、彼を捕まえようと尽力していた。ともすれば軍警を介さず自分で報復しようとすらしていたストーヴィントン。しかし、駅員が知り合いだからと半ば脅す形で監視カメラの映像を入手した事で軍警から警告を受け、転んでもただでは起きない彼の妹はその際軍警に痴漢逮捕の協力を煽いだのだと言う。そして証拠も揃え、後は本人を現行犯で捕まえるのみと言うところでセリカ達に遭遇したのだ。
軍警の到着を待つ間、ダニエラと少し世間話をする。ストーヴィントンはセリカとギャリーが一緒にいる事に納得していないのだろう、会話に入って来ようとすらしなかったがそこもダニエラが補足するところによると、
「エメリーったらね、一時期『サムライ』に憧れてよく東國に旅行してたのよ。そこで大昔のサムライの価値観植え付けられて帰ってきたのよねー。大和撫子な女を持ち上げる様になったのもこの頃だったわ」
──との事。セリカは何となく彼がベンジーに惹かれた理由に納得しつつも、しかし自分の人生なのだからいくら知り合いとは言えやはり彼にとやかく言われる筋合いは無いなぁともこっそり思った。勿論それは同じ女性であるダニエラも同様で、兄のその昔の東國的な男尊女卑の思想を「片一方に都合の良いだけの迷惑な御都合主義」と断じた。その時だけはストーヴィントンが愛する妹に価値観を叩っ斬られた寂しさからか
悄気た顔を見せた為「ああ、彼も一人の人間、一人の妹を愛する兄なのだなぁ」と少しだけ親近感を覚えた。
「…おいダニー。早くこいつポリ公のとこ連れてくぞ」
「ええ、証拠もあるし後はこいつ含めて全部提出するだけね。あ、イカした
アシューアン、これ捨てといてくださる?」
去り際、ダニエラがギャリーに煙草の吸い殻を渡す。何故自分が選ばれたのかと疑問符を浮かべていると、彼女はギャリーに擦り寄る様に近付いてすんすんと鼻を鳴らした。
「やっぱり、アンタ喫煙者よね?ちょっと煙草と違うけど。携帯灰皿くらい持ってんでしょ?」
「え?分かるだ?俺煙草臭いのか…?」
「臭くは無いわよ、私は好き。喫煙者だから似た様な匂いに敏感に反応しちゃうのかもね」
くすくす笑いながらまるで誘惑する様にギャリーに密着し、そう口にするダニエラにセリカが慌てて口を開こうとするがそれより早く声を上げたのはストーヴィントンだった。
「おいダニー!そいつに色目使うんじゃねぇ!!」
「何でよ?私がボーイフレンドに誰を選ぼうとエメリーには関係ないでしょ?」
「だからってそのクソエイリアンが言い訳あるか!ソイツはそこの──っ!!」
そこに居る奥さんの男だから辞めておけ。
それを言えば絶対にダニエラが諦めると分かっているが、それを言ってしまったら二人を認めた様で嫌だ。しかし、可愛い可愛いダニエラがこんな男にうつつを抜かすなどもっと嫌だ。
その葛藤を抱いて次の言葉を出しあぐねているストーヴィントンを見て「勝負あり!」と言わんばかりにダニエラは笑った。
「あ、やっぱ彼がこの大和撫子の恋人って認識はちゃんとしてるんだ?」
「……うるせぇ!!俺はあの先輩の奥さんがこんな野郎に靡くなんざ認めてねぇからな!!」
「どこの小姑よ、往生際が悪いわよエメリー」
「お前はまだ分からねぇと思うが女はなぁ!亭主を立て亭主を想い生きるのが幸せなんだよ!亭主が外で敵と戦ってるんだから守られながら家で内助の功すんのが幸せだろうが!!」
「内助の功も何も、その外で戦う亭主そのものが居なくなったらどう生きろってのよ?それでも家に居ろっての!?その間どうやって食ってくのよ!?旦那思うだけで腹が膨れりゃ苦労しないわよ!」
「そ、それは、だな……だけど旦那を想えば他の男になんざうつつ抜かさずに居るのが正解じゃねぇか!!」
「それはエメリーがそうであって欲しいって思ってるだけの話でしょ!?旦那想って家に居ろ、家に居て旦那を立てろ、でも生きる為の行動は自分でしろ、だけど他人との関わりは深く無い様にしろってめちゃくちゃじゃない!馬鹿丸出しだからエメリーは絶対このテの話題で議論しちゃダメよ!」
その様子にセリカは思わず吹いてしまう。しかしギャリーとしては、そんな微笑ましい会話をしている間もずっと足で踏まれて自由を奪われている痴漢の男性が一体この後どうなるのか、無事に軍警に引き渡されるのかそれともストーヴィントンの
私刑を食らうのか。そう考えると穏やかではいられなかった。
そうこうしている内に軍警が到着し、男性を担ぎ上げる。ストーヴィントンは一発殴らないと気が済まない勢いだったが、それをやったら今度お前を傷害罪で逮捕すると嗜められ何とか抑えた。
余談ではあるが、結局男性はギャリーに触った事も後に認めた。元々執着していたのはダニエラだったが、彼女が泣き寝入りする性格では無かった事、彼女の恐ろしい兄とその一味に報復されそうになり満足に痴漢と言うスリルを味わえなくなった事でフラストレーションが溜まっていたそうだ。
ギャリーとセリカがデートに出掛けたその日の午前中、満員電車でセリカに狙いを定めたのも彼でありギャリーに邪魔をされた事で腹癒せに彼を乱暴に触ったのだった。しかし邪魔をされた報復として彼に攻撃を加えたものの苛立ちは抑えきれず、夜になってもう一度同じ電車に乗ったところギャリーを再び見掛けたので再度腹癒せに乱暴しようと近付いたのだと言う。ついでに、ギャリーが兎頭国人でもあり見目から本当に男性か疑わしく思った様で確かめたかったと言う知的好奇心もあったらしいが。
捕まらずに犯罪を重ねた慢心か、スリルを求めた末の愚行か。人の居ない車内で大胆な行動に出たのが決め手になった。少なくとも監視カメラでギャリーは思い切り触られていると判断出来る状況だった為、おそらく過去に起こしたダニエラへの行為も加われば悪質と言う判断は免れないのだろう。
ギャリーとセリカは軍警に連絡先を渡し、後日事情聴取に応じるとしてその場を離れた。
時刻は午後十一時近過ぎ。流石のカンテ国ももう夜の闇に包まれている。
「はぁ…今日は盛り沢山な一日だったわな」
「そうですねぇ……」
「まさか二回も痴漢に遭ってストーヴィントンにも再会するだなんて……」
「ふふ、そうですねぇ…」
相変わらず女子寮までしっかり送ってくれたギャリーは、いつもなら手を繋いでいるその道中で手を取らず、少し距離を空けながらそう言った。
セリカは努めて笑顔で相槌を打つ。しかしギャリーといつもは無い距離感が生まれているのは否めなかった。
「……今度また今日みたいに出掛けようぜ。もしその、気分的にアレだったらエレオノーラちゃんとか誰か誘って皆ででも良いし」
「……『皆』で…」
「あぁ…二人でも良いなら良いけど。俺と二人が行きづらかったらね、そう言うのも有りなんじゃ無いかな」
そんな事は決して無いのに。しかし今日ギャリーが想いを伝えてくれる前に一度「今すぐは恋人にはなれません」と断ってしまったのだ。それも、ギャリーがおそらく今日自分に想いを伝えようと気持ちを昂らせていると分かった上で、彼が今すぐにでも恋人になりたいと思っているだろうと推測出来た上でだ。
彼から『今日想いを伝える』と言うチャンスをそもそも奪ったのだ。彼の出鼻を、愛した人を理由に挫いたのだ。酷な事だとも思う。けれど自分にとっては前に進む為の大事なタイミングだと思っている。だからつまり、それを越えても好意を寄せられると言う事は、ギャリーにも生半可な気持ちでいて欲しくなかったのだ。
とは言えそれは自分の願望だけであり、『一周忌を迎えるまでは旦那様の妻でありたい』と言う願望を貫く為に色々用意してくれた彼の想いを突っ撥ねたのも確かなのだ。
彼の事を大事に思う自覚が大きく芽生えたセリカのケジメとして『まだもう少し待って』と言う主張。
彼女への想いが急速に膨れ上がったギャリーの『俺の恋人になって』と言う主張。
時期がずれていれば問題なかったのだが、何の運命の悪戯か、どちらも同じタイミングで伝えようとした結果片一方を諦めさせる話になってしまった。もう女子寮も目の前、デートは後数歩で終わると言う距離。何だか少しこのままだと何だか少しモヤモヤした終わり方をしそうだなぁと少なくともセリカは思った。
「……皆で、そうですねぇ…大所帯でお出掛けと言うのも楽しいものかもしれません。セリカ、ケンズとラシアスならご案内出来ますよ?ラシアスは今日行きましたが、ケンズは行った事あります?」
「あー…カンテ来てからまだ行ってないかも」
「じゃあ、きっと気に入ってくれますよって太鼓判押させてもらいますぅ。良いところですよ、ケンズもラシアスも」
「うん……うん……?」
その時、ギャリーの目がカッと見開かれセリカを見つめる。セリカは突然のギャリーの反応に一瞬慌てるが、次に彼が口にした言葉に心臓が跳ねた。
「……セリカちゃん、去年同じ言葉をさ、誰か他の男に言わなかった?例えば、今日の俺みたいな髪型して兎頭国のカンフー服着てる様な男に」
「…え?」
「去年、もしかしてセリカちゃんさ、こんな髪型で少し化粧した兎頭国人に会わなかった?」
セリカは、実は少し前から勘付いていた。
過去に出会ったあの優しい青年がギャリーではないかと言う事に。
だからこそ、あの時彼に人知れず惹かれていてその彼にそっくりなギャリーだったからこそ出会ってから余計に気を許す速度が早かったとも言える。
セリカが言葉を詰まらせ黙っていると、ギャリーは嬉しさを噛み締める様にふっと微笑んだ。
「あ…えっと、その…」
「……もしかして心当たり、ある?」
「あ、あの…セリカは……えっと…」
「『お姉さんこそこう言う服似合いそうだから着れば良いのに。どっちかって言うと着物の方が似合いそうだけどね』」
「あ……」
「……やっぱり。あのお姉さん、セリカちゃんだったんだね…?」
ギャリーは薄めた目でセリカの顔を眺める。髪型が変わっているし服装も変わっている。見た目に大分変化のあったセリカ相手なのでギャリーも言い回しや反応で判断するしか無いのだがそれでも、自分と例の彼女しか持ち得ない思い出をセリカは「知らない」と言い切らず何かを言いたげに言葉を詰まらせた事で確信を持った。
「……旦那様との待ち合わせに向かうところで……あの時のセリカは…まだ髪も長く服装も今の様でなかったのに…」
「そっか。やっぱセリカちゃんだったんだね、あのお姉さん」
ギャリーは顎に手を当て、何かを考える様なポーズを取る。そして、うんうん唸った末にセリカを見た。真面目な顔ではあるが、口元は喜びを隠しきれないのか少しニヤけている。
「……今から俺の独白を聞いて欲しい」
「独白ですかぁ?」
「そう、独り言だでね。これ、俺のでっかい独り言だから。だから聞いてる様な聞いてない様なそんなフリして欲しい」
「は、はい…」
ギャリーはくるりとセリカを背にし、おもむろに月を見上げる。そして深呼吸をする様に大きく息を吸うと、そのままの勢いで大きく声を張り上げた。
「
……俺はァ!!あの時あのお姉さんに一目惚れしたぁぁぁぁぁあ!!」
「ええっ!?」
夜十一時を回っていると言うのに、怒られやしないかと言う大きな声でギャリーは叫ぶ。セリカは制止しようとしたが、ギャリーが何を言いたいのかしっかり聞き届けたい気がして伸ばし掛けた手を引っ込めた。
「勿論旦那居るって分かってたからもうただの良い思い出だよ!俺そんな危ない恋愛にのめり込まないどこうと思ってたから思い出だけどさ!思い出の中のお姉さんが好きで童貞みてぇな憧れ方した日もあった!似た様な雰囲気の子とワンナイトしたりとか!無いとは言い切れない!!」
「ちょ、ギャリーさん!!」
大声で叫ぶには不適切な単語が出たので思わず慌てるセリカだが、それでもやはりギャリーは止まらなかった。
「……マジで一目惚れだったよ!!本当にあるんか?って半信半疑になるくらいには!!突然好きになったんだよ!!それはそれとして思い出で終わったけど!!それから着物美人に出会った!!お姉さんと似てるとか似てないとかよく分かってなかったけど、何かどんどん好きになった!!勿論それはその子だったから好きになったんだけどさ!!俺『運命』って言葉マジで信じたくなった!!あの時惚れたお姉さんがその子だなんてさ!これが運命じゃなかったら何なんだよ!?」
セリカは最早何も言えなくなっていた。ただギャリーから紡がれる言葉を赤くなりながら聞くだけだ。ギャリーも未だにセリカに背を向けて居る為どんな表情で言っているかは分からない。ただ、青白い月に照らされているにも関わらず彼の耳は赤くセリカには見えた。
「俺…俺は…君が好きだー!!実はあの時のお姉さんだったって事実さっ引いても今の君が好きだー!!旦那の事思い出したって良い!!旦那の存在が俺よりデカくたって良い!!大事な思い出なんだからむしろたまに思い出して幸せな気持ちになって欲しい!!何なら思い出ごと、もう旦那ごと二人まとめて抱いてやる!!……いや!俺男を抱く趣味は無いから本当には無理だけどそのくらいの覚悟でいるからさ!!」
「ギャリーさん……」
その時、やっとギャリーがセリカの方を向いた。言い切ってスッキリしたのか、或いはこの勢いでも想いを口にしたからか。酒でも飲んだかの様に真っ赤で、少し覚悟を決めた様な顔でセリカと目を合わせた。
「……旦那さん、俺達には見えなくてもどっかで見てたらいけねぇで今日は手ぇ繋いだりとかは遠慮しとくよ」
「は…はい…」
「…セリカちゃんが『この日までは』って決めた時までは……俺はただの同僚の距離感で居るつもり。一応ケジメとしてそこは守ろうと思うから下手したら、いつもより距離のある感じに思うかもしれないけど…セリカちゃんの事嫌いになんてなったわけじゃ無いから心配しなんでくれや。俺の気持ちは、さっき叫んだ通りだから……」
「……ええ」
「……一年の節目にさ、追悼式典やるだろ?この間人事部からも話が出た。人員を割く話と、それに伴う経費を出す話。つまり、結社も何らかの形で関わるんだろうなーって気はしてる。前線のメンバーを…護衛に回したりするんだろうって」
「そうなんですかぁ……要人護衛…結社は適任と言えば適任かもしれませんねぇ」
「うん。基本現地集合現地解散だと思うから……追悼式典の日さ、俺と泊まりで海見に行かねぇ…?」
セリカの心臓が、今度こそ分かりやすくどくりと音を立てた。突き動かされる様にパッと顔を上げると、優しく微笑んだギャリーと目が合う。
「……セリカちゃんにとっても節目の日にさ、新しい夜明けを一緒に見たいって言うかさ……どう?」
「……」
「その節目を迎えるその日にさ、俺が隣に居たらダメ…?」
ベンジーの望むセリカ・ピンカートンで居ようと思った最後の日。その日から新しい自分であろうと思う次の日その瞬間一緒に居たいと言うギャリー。彼の想いを聞いて、彼への想いを自覚して、そんなセリカに拒否をする理由は最早無かった。
「……はい、大丈夫ですぅ」
「本当に大丈夫?……先に言っとくけど、ただ惚れた腫れた言うだけで終わる様な子供の恋愛と違うぜ?」
耳に触れるか触れないか、もどかしい手付きでギャリーがセリカのイヤーカフに触れる。まるでここだけは今自分のものだと主張するかの様に。
セリカはこくんと頷く。彼の言いたい事は分かっている。私ももう大人だから。
「大丈夫、ですぅ……」
「……ありがとう。俺、その時にちゃんとセリカちゃんの顔を見て伝えたいからさ…あと、渡したいものもあるし……」
今九割程伝えてもらった気もするが、残り一割たる『彼がどんな顔をしていたか』をその日までの楽しみに取っておくとして。ギャリーも、今日渡せなかった指輪をその時に渡すと心に決めてふと携帯端末を開く。時間を見れば、もう日付が変わろうとしていた。
「……さて、そろそろ帰らなきゃね。午前様にしちゃ悪いし」
「あ、ギャリーさん…」
「んー?何?今日は帰り際のチューもハグも無しだよ?」
「なっ…!?元々してないじゃないですかぁ…!!」
いつもの調子のギャリーに少し安心しつつ、セリカは気持ちを改めてギャリーの目を見る。姿勢を正した彼女の口から飛び出したのは感謝の言葉だった。
「ギャリーさん、今日はありがとうございますぅ。セリカは…セリカは本当に楽しかったです」
「……こちらこそ。俺もだよ」
「きっときっと、何年経っても今日の事忘れられないと思うんですぅ」
「うーん……俺が痴漢にタマ握られたのは忘れて欲しい……」
「ふふふっ、それも含めてですぅ」
「はははっ、酷ぇー」
手は握らず、目線だけを絡めると名残惜しそうに『お休み』と一言残して帰るギャリーをセリカは見送る。
色々あった一日。
お互いにお互いを想うからこそ、タイミングが合わない時にこんなにも悲しくなる。
新たに人を好きになる気持ちを自覚したからこそ、思い出したそんな気持ち。
セリカはこの想いと共に前に進もうと思えたし、ギャリーも覚悟を決めてこの本気の恋愛と向き合おうと男子寮までの道中考えていた。
今日の事を振り返る。
ああ、今日はなんて素敵な一日だったのだろうか。
* * *
後日、軍警から呼び出されたギャリーとセリカは痴漢された当時の状況整理に少しだけ貢献した。帰り道、相変わらずギャリーはセリカを寮まで送ったのだがやはりこの日も彼は手を繋ごうとしなかった。
傍目に見ていた結社の人間が、あんなにセリカにあからさまに好意を見せていたギャリーの一見すると冷めた様な態度を不思議に思い、『セリカにフラれたのでは無いか』と噂を立てたのは言うまでも無い。
事実ギャリーも勘違いしたギルバートとアルヴィに驚く程気を遣われた日々を過ごしたし、ギャリーの自分とベンジーに対する決意に惚れ惚れしたは良いが、矢張り以前より好意を見せて来ない彼に対して不安を募らせたセリカの情緒が少し不安定になったのだが。
それは七月十八日までの短い間に起きた、また別の話だ。
──そしてそれとは別に、十二時直前と言う深夜に女子寮の前で告白したギャリーの大声の所為で『未亡人に言い寄る不審者』の噂がしばらく持ち上がり、危うくマルフィ結社七不思議に組み込まれそうになったのだった。
名前を出した告白をしなかったから特定されなかったものの、真実を知るセリカとギャリーはいつ身元がバレるか気が気でなかったと言う。