薄明のカンテ - 愛は哀とて藍の如し/涼風慈雨


 愛は逢とて間に至り
 堅い契りは時に廃れる
 人の想いは人を斬るが
 愛は哀とて藍の如し

逃亡犯

「至急本部に通達、護送中の殺人犯セルゲイ・トカレフが逃亡した模様!近隣住民の車で南西方向に向かって逃亡中!」
 宵の入り口になる時間。一人の警官が猛スピードで走るパトカーの中で警察無線に叫んでいた。続いて車種やナンバーなど個を特定できる情報を伝える。
『負傷者の状況は』
「護送メンバーのうち1人が重傷を負っています。うさぎは我々で追跡中です」
 セルゲイが法定速度を軽く超えるスピードで一般道を爆走し、その後ろをパトカーがサイレンをけたたましく鳴らしながら猛スピードで追跡する。
『Nシステム並びに国道3号に捜査員を緊急配備する。君たちは追跡を続けてくれ!』
「「了解!」」
 運転手の警官がさらにアクセルをふかし、セルゲイの車ににじり寄ろうとするも巧妙に一般車両を盾にして逃げていく。「そこの車、止まりなさい!!」と拡声器で言われても当然無視して突き進むセルゲイ。
 そのうちに、前方からやってきた他の警察車両が道路を塞ぐように停車した。急ブレーキで減速したセルゲイはサイドブレーキを使って遠心力でUターンする。そして追跡していたパトカーの正面へ突っ込むように加速した。先頭にいたパトカーが慌ててハンドルを切って避けると、玉突き状態になった後続のパトカーの隙間を縫ってセルゲイは逃亡していった。
 それから、3ヶ月。逃亡に使用された車は発見されたが、セルゲイ本人は煙の様に消えてしまい、全く足取りが掴めなくなった。
 あらゆる監視カメラ映像をアカシア所有の人工知能Meltで解析したが、セルゲイは一向に見つからなかった。
 その代わり、奇妙な事件があった。
 周囲に池や湖のない山中で軽装の女性の水死体が発見されると言う不可思議な事件だ。翌日にはズタズタになった別の水死体が都市部の河口付近で発見された。どちらの遺体も体内の残留物から多量の赤錆が検出されたが、発見場所の近くにあるとは考えられなかった。
 山中の水死体はプールか何かで殺したのを隠蔽しようとして犯人が運搬したのではという線で捜査が進められ、河口付近の水死体は上流の公園から流されて途中で傷が大量についたのだろうと、とある軍警コンサルタントの助言を元に考えられた。
 だが、赤錆の理由も犯人に繋がるものも逃亡から5ヶ月になる今に至るまで何もなかったーー

あぶない邂逅

「あ」
「何?」
 ここ数日雨でまた雨が降りそうだったその日、ナヤブックセンターでプログラミングの本を立ち読みしていた一人の子供と医学書を抱えた一人の大人が邂逅した。
「ミサ……キ、だっけ」
 小さく頷くミサキ。
「ミサキ・ケルンティア。貴女はヴォイド・ホロウ?治療の荒い医療班が何?」
 警戒心の滲む表情でヴォイドを見上げるミサキだが、ヴォイドはミサキの手にある「sapphireで作るゲームアプリ」の本を見つめて聞こえていない。
「難しそう……宝石でプログラミングってできるんだ……」
「sapphireはオブジェクト指向のスクリプト言語。蒼玉じゃない」
 溜息と共に答えたミサキは、特に用があって話しかけてきた訳ではないらしいと理解した。ヴォイドの手には「外科系医師が知っておくべき新・創傷治療」の本がある。
「何処で知った?」
「何の事……?」
「貴女と話した事は無い。私を何処で知った?」
 そこまで言われてようやくヴォイドはミサキが言いたい事がわかった。
「前に、ユウヤミが話してた。子供ながらに仕事好きな子がいるって」
「別に好きじゃないし、必要だから」
「後、言葉を省略し過ぎだって。『解だけを提示しても人は聞かない』って言ってた」
「説明面倒……探偵屋の仕事じゃないでしょ」
 ユウヤミにヴォイドを使って説教されている気がしたミサキは不機嫌な顔をより一層不機嫌にする。そのオーラに驚いたのか、後ろで雑誌を立ち読みしていたモスグリーンの服を着た男性が肩を震わせ、逃げるように去って行った。
「貴女、この後の予定は?」
「予定……特に無いけど」
「じゃ、ちょっと付き合って」
 それぞれに本を買ってナヤブックセンターを出ると、ミサキに連れられたヴォイドは表通りから一本奥に入った古びた古物商の「インディゴ」に入った。
 一歩入ると、様々な物の古びた匂いに包まれる。雑多な物が置かれた店の奥に偏屈そうな老人が座っていた。彼は新聞の隅からチラリと二人の客を見ると直ぐに視線を戻す。綺麗に禿げ上がった頭がライトに照らされて眩しい。
 無愛想な店主の前にツカツカと歩み寄ったミサキが台を叩く。
「店主、例のものは」
 新聞から視線を外さずに答える店主。
「……見つかった。高く付くぞ」
「構わない。出す」
 言い切るミサキの前に薄くて大きい紙袋を「2000イリ」と言って店主が出す。出された紙袋を開けて中身を確認したミサキは詰めていた息を少し吐いたようだった。
「2000イリ……」
 後ろで会話を聞いていたヴォイドが首を捻るが、紙袋に品物を戻したミサキは目に力を込めながら口を開いた。
「1850」
「いや、2000」
「1880」
「2000」
 ミサキと店主の間で火花が散る。
「1972」
「2000」
 値下げ交渉に応じる気はないと一歩も店主は引かない。
 先に折れたのはミサキの方だった。黙って携帯型電子端末を電子決済の機械にかざして2000イリを払う。
 「まいど」と呟いた店主に背を向け、紙袋を持ちヴォイドを促して外に出るミサキ。茶色のダッフルコートの襟を寄せながら、紙袋から改めて中身を出し日の下で見直す。それは、うさぎの絵本だった。
「絵本……」
「マジュの本。一巻が欲しいってせがまれた」
 表紙では子うさぎが青い服を着てカゴを下げている。タイトルは「ブルーぼうやのはじめてのおつかい」だった。絵の描き込みがとんでも無く細かく、子供向けにしては力が入り過ぎているくらいの物だった。
「全く……絶版になって久しい図書館にもない本だなんて……」
 眉間を押さえるミサキの様子から随分苦労してマジュの為に見つけたらしい、と理解するヴォイド。
「これ、持ってて」
 いきなりミサキから本の入ったマイバッグをヴォイドは押し付けられた。勢いに押されて素直に持ってしまった後で疑問が湧く。
「長くその重さのもの持ってられないから」
 聞く前に答えて、グーパーさせるミサキの手は黒手袋に包まれているが、さすっている様子は随分痛かったのだろうと察せられる。折れそうな細い指先に持ち手が食い込んでもおかしくない。
 確かに、ミサキが長時間重い本の入ったカバンを手に持つのは難しそうだとヴォイドも納得してカバンを持ち直す。
「ミサキ、荷物持ちで私を連れて来たの?」
「あの店主に一人で会いたくなかったから」
 ヴォイドの問いに答えるミサキの顔は心なしか血の気が引いており、小さく震えているように見えた。
「怖いの……?」
「今日は誰にも会いたくない、早く帰る」
 無愛想に言って歩き出そうとしたミサキと荷物持ちになったヴォイドの横に後ろから白いバンが停車した。ヴォイドのブルーグレーのコートが揺めき、ミサキが膝をつく。そのバンが去っていく時にはヴォイドもミサキも忽然といなくなっており、ただ一陣の風だけが残されていた。

 夕方。マジュ・リョワ・シンはミサキの部屋のインターホンを鳴らしていた。先程から何度も鳴らしているが、一向に出てくる気配がない。
「ミィ姐ー!おかずだよー!」
 大声で言うマジュをお裾分けのおかずを持って隣りにいるアン・ファ・シンが止める。
「もう寝ちまッたか……否、集中して作業中か。無理に呼び出すと面倒だよなァ……」
 そっとしておくか。10年近い付き合いのあるアンはミサキの寝起きが恐ろしく悪い事も、不機嫌になると収集がつかなくなる事も身を持って知っていた。故に、携帯型電子端末に何も連絡を入れず、マジュを連れて部屋を後にした。
 翌日、あの時連絡していればと後悔するとは知らずに。


そして、二人もいなくなった

 始業から5分ほど経過した汚染駆除班の事務所には、陰で言われるところの“絶対零度の女王クイーン・オブ・アブソリュートゼロ”の姿がなかった。
「ミサキちゃん、まだ来てねぇの?」
「そーっすよ。きっと寝坊っすよ」
 ミサキが使っているデスクを見て首を捻るテオフィルス・メドラーにトニィ・イコナが軽く言う。近くで話を聞いていたイオ・アスキーの眉間に皺が寄る。実際既に何回か寝坊が元で遅刻したミサキの事なので、テオフィルスも寝坊説を否定できない。
「また夜中まで趣味に勤しんでいたんじゃないでしょうか?」
 黒マスクのエフゲーニ・ラシャが書類をめくりながら言う。
「ありそーっすよね。前も『ゲームの下書きしてたら寝るの忘れた』とか言ってましたし」
「寝食忘れるとは言いますけど、物の例えですよねー」
 ははは、と笑い合う男三人。やがてスッと真面目な表情になったテオフィルスが携帯型電子端末を取り出した。
「それでも遅いよな?ちょっと呼び出すか……」
「いくらケルンティアさんが巻き返せるからって、上に目ぇ付けられる前にお願いしゃっすよ、テオさん」
「おうよ」
 一旦席を外したテオフィルスがミサキの端末に電話をかける。だが、一向に出る気配が無くコール音が響く。もう一度かけ直すが全く出ない。
「前はこれで出てくれたのになぁ」
 頭に疑問符を浮かべながら、次の行動を考えるテオフィルス。
「上に言う前にアンちゃんに聞くか……」
 連絡先一覧からアンの番号を呼び出して電話をかける。
 アンは法律上ミサキの保護者に該当し、何か問題が起きた時の為にテオフィルスと連絡先を交換しているのだ。
「あ、もしもし?おはよう、アンちゃん?」
『はよ、メドラー。ミサキ、来てねェのか?』
「お、流石話が早いな。そろそろ始業から5分経つんだが、まだ来てねぇんだ。電話も出ねぇし……何か知らねぇか?」
『どうせ寝坊だろ。早く寝ろッつッてンのに聞かねェから……』
 電話越しにアンの呆れた溜息がテオフィルスにも聞こえた。
『いい。あーしが呼びに行ってくッから、待ってろ』
「悪いな、アンちゃん」
『其奴はあーしの台詞だ。ミサキには謝らせッから」
 アンが呼びに行くなら大丈夫だろう、そう考えたテオフィルスは自分のデスクに戻っていった。

 同時刻。ヴォイドが出勤しない事を訝しんだ医療班からミア・フローレスがヴォイドの部屋の前に来ていた。
 「無断欠勤は社会人としてあるまじき事」とアペルピシア・セラピアが危うく雷を落としそうになったのは少し前の事。アペルピシアはスレイマン・アスランに諌められ、ミアは様子を見ていたアキヒロ・ロッシから部屋まで行って様子を確認して来て欲しいと言われたのだった。
 ヴォイドの部屋に行くまでに数回電話をかけたミアだったが、ヴォイドが出ることはなく、最後には「おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていない為かかりません」とアナウンスが流れた。
「充電切れかな……?」
 ヴォイドの部屋のインターホンを押して少し待つミア。それから数回鳴らしたがヴォイドは出てこない。
「もしかして、中で倒れてるとか!?」
 不意にミアの脳裏を掠めていった嫌な予感。慌ててドアを開けようと手をかけるとすんなり開いてしまった。鍵がかかっていなかった事に驚いて一瞬固まったミアだったが、覚悟を決めて改めてドアを開ける。
「勝手に失礼します!!」
 一声叫んで中に突入していくミア。
「ヴォイドさーん、朝ですよー」
 声をかけながらそーっと室内を進む。きょろきょろ見回すミアだが、ヴォイドは何処にもいない。ドアというドアを開けてもどこにもヴォイドはいない。パニックになったミアはとりあえず医療班にいる人に電話をかけた。
「ど、どどどどうしましょう、ネビロスさん!」
『ミア?どうしましたか?』
「あの、あのあの、えっと……」
『ミア。落ち着いて下さい。一旦深呼吸して……」
 ネビロスに言われた通り、深呼吸して気持ちを落ち着けたミアが声を低めて言った。
「ヴォイドさんが……部屋にいません」

 テオフィルスとの通信を切ったアンはミサキの部屋のインターホンを鳴らしていた。数回鳴らすが昨日と同じく反応はない。
「おーい、ミサキ。邪魔すンぞ」
 勝手に合鍵でドアを開けて上がり込むアン。
「いつまで寝てンだよッ」
 梯子を登ってロフトに置いてある掛け布団をアンがひっぺがす。だが、いつもの場所にミサキはいなかった。
「ハァ?どこでひっくり返ってンだか……」
 部屋の中をあちらこちらと探し始めたアンだったが、どこにもミサキはいなかった。端末に電話をかけると「おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていない為かかりません」とアナウンスが流れただけだった。
「充電切れか……?否、そんなヘマはしねェよなァ」
 昨日ミサキは休みを利用して本屋に行くと言っていた事を思い出すアン。マジュにせがまれた古い絵本を探していた筈だとも思い出せたが、行方を眩ますような要素は何も思い当たらなかった。
「誘拐か、人買いか……壁じゃねェからッて油断してた……!」
 主人のいない部屋にアンの舌打ちと壁を殴る音が鋭く響いた。

 人事部社内人事課にヴォイドが無断欠勤の上音信不通になったと発覚したのは、それから間も無くの事。まだミサキの件が届いていない社内人事課は、事件や事故に巻き込まれた可能性を深く考えていなかった。
 仲のいい人の部屋に転がり込んでいてもおかしくない、と言うことでヴォイドと幼馴染みで仲もいいテオフィルスの元にタイガ・ヴァテールから電話が入った。
『もしもしテオ君?』
「うん?いきなりどうしたんだよ、タイガ?」
『いきなりだけど、ホロウさん、どこ行ったか知らない?』
「はぁ?幾ら幼馴染みだからってそこまで知らねぇよ……医療班にでも聞いてくれ。で?ヴォイドが何だって?」
『あ〜テオ君も知らないか……』
 困ったようなタイガの溜息が受話口を通してテオフィルスに届く。
『ホロウさん、無断欠勤の上に音信不通なんだよ。寮にも居なくて』
「なんだって!?」
『ね?事件とか巻き込まれてないといいけど……まさか、汚染された機械人形マス・サーキュに襲われたりとか!?』
 狼狽するタイガの声が上擦る。その声を聞いたテオフィルスも頭を抱えて溜息混じりでミサキの事を話した。
「タイガ、ミサキちゃんも無断欠勤で音信不通なんだ。寮にも居ないのはアンちゃんが確認してくれて、今そっちに連絡入れようとしてたところだ」
『えぇっ!?』
「ヴォイドとミサキちゃんに接点があるとも思えねぇしなぁ……でも無関係とも思えねぇんだよな」
『寮から出勤するまでの間に何かあった……とか』
「それこそわからねぇよな。案外近くを探せば見つかるかもしれねぇよな」

 同じ日の朝から行方不明者が二人。どちらも電話が繋がらず、寮にもおらず、知人たちも何処に行ったか知らないと言う。結社の敷地内を手の空いたメンバーたちが探したが、皆の願い虚しく何の痕跡も見つからなかった。


MLA:特別捜査班

 二人の行方が完全にわからなくなった事を受け、マルフィ結社は警察にヴォイドとミサキの行方不明者届を出した。だが、二人とも普段から一人で自立した生活をしている人である事を理由に、積極的な捜査はしないと返答された。
 そこで。マルフィ結社は独自で捜査を進めると決定した。元探偵で人探しのプロフェッショナルであるユウヤミ・リーシェルを主軸に据え、助手を務めてきたヨダカ、失踪した二人と交流が深く且つ情報収集の迅速さからテオフィルスが選ばれ、仮の部署が出来上がった。
 その名も「マルフィ結社特別捜査班」。今までのどの部署にも所属しない、独自に動き回れる新しい部署がここに生まれたのだった。

「さて」
 狭い室内にいるテオフィルスとヨダカに微笑むユウヤミ。
「特別捜査班として宜しくお願いするね、メドラー君」
「おう……」
 彼らが集まっているのはテオフィルスの部屋である。社内の空き部屋を使っても良かったのだが、一から部屋を整備する時間はない。それに、情報収集役のテオフィルスの慣れた電子機器を使った方が直ぐ対処できるだろうとの判断もあった。
「この状況で随分余裕だな、ユウヤミ……心配じゃねぇのかよ」
「確かに二人のことは心配だよ。けれど、ノルアドレナリン過多は思考の妨げになるからねぇ」
 いつもと変わらず、薄紙一枚乗せたように微笑むユウヤミ。その冷静さからはまったくヴォイドとミサキを案じている様には見えない。既に心配と怒りで荒れた後のテオフィルスは彼の澄ました顔に釈然としない物を感じた。
「出来ることは大まかに二つ。データ調査と知人への調査だね。とは言っても……」
 指を二本立てて言葉を濁すユウヤミを静かに見つめるテオフィルス。
「ホロウ君もケルンティア君も電話が繋がらないからGPSは期待できないし、普段乗っている自動車がある訳でもない」
 顎に添えていた手を振ったユウヤミが空中を指さした。
「うん、まずはメドラー君。ダメ元でGPSで二人の居場所を探れないか挑戦してくれ給え。同時に結社内の防犯カメラで何時に二人が出かけたのかの確認と今日出勤していない裏取りも頼むよ。その間に私とヨダカで知人達を洗って来るからねぇ」
「……まぁ、まずはそうだろうな」
「それと、もし思い当たる事があったらオンラインホワイトボードに付箋ツールで書き込んでくれ給え」
 机の上にユウヤミが自分の端末を出し、アプリを指さす。オンラインホワイトボードを使えば、判明した事実を素早く把握でき、即時の情報共有が可能になる。
 「それじゃ、宜しくね」とテオフィルスに告げたユウヤミは彼の部屋を出た。そして表札の下に「特別捜査班本部」と書いた紙を貼ると軽い足取りで結社の建物へ向かっていく。
主人マキール
「どうしたんだい?ヨダカ?」
「あの二人は確実に犯罪に巻き込まれていると思うのですが」
「私もそう思うよ。出来れば警察の力を使いたいところなのだけれど、生憎向こうは重大さに気付いていないからねぇ……今行っても煙たがられるだけだよ」
「……どうされました?」
 一瞬だけいつもの微笑みが崩れたように見えたヨダカが声をかける。だが、ユウヤミは直ぐにいつも通りの調子で独り言を続けた。
「ケルンティア君にホロウ君か。二人の失踪に関係があるかないかまだ言い切れないねぇ……何分、普段関わりのない二人だからねぇ」
 此処ではない何処か遠くを見るように、視線を漂わせるユウヤミ。
「一緒に居るのであれば、早急の危険はないと思うのだけれど……」
 ミサキはユウヤミが認める頭脳明晰さを持つが、体力が無い。ヴォイドは発想の転換や常識に囚われない思考力と体力があるが、一般常識には疎いところがある。協力すれば二人分以上の力が出せると前々からユウヤミは思っていた。
 歩きながらあれこれ思考を巡らしたユウヤミは誰にも聞こえないように口の中で呟いた。「生きて会おう」と。

 まずユウヤミとヨダカが向かったのは機械班のアンの元だった。彼女以上にミサキを知っている人は何処にもいない。
 憔悴しきった顔のアンからミサキについて聞き出した事をまとめると、ミサキは昨日休みで本屋に行く予定だった事、随分前に絶版になった絵本を受け取りに行った筈である事、出かけてもいつも短時間で帰って来る事、昨日の夕方からもしかしたら帰っていないかもしれない事がわかった。
「昨日、届け行った時に気付いてりャァ……」
 後悔からか、強く唇を噛み締めるアン。
「出来ンなら、あーしも探し行きてェよ……」
 深く溜息を吐いて、ぎゅっと拳を握る。
「シン君、あまり思い詰めない方が良いのではないかな?ケルンティア君が簡単に負ける訳ないだろう?」
「流石言う事が違ェな、探偵屋はよ……下手な慰めならいらねェよ」
 心配した表情を作るユウヤミに怠そうな視線を向けるアン。ミサキの長袖の下には孤児院時代の無数の傷跡があるわけだが、きっとこの探偵屋はそれを知らないのだろうと溜息を吐く。
「ミサキはンな奴だが、あーしの大事な妹分なンだ。絶対、見つけてくれ」
 随分疲れた表情をしているアン。それでもミサキを案じる様子は普段と何一つ変わらず、優しさと脆さを強さと諦めで覆い隠していた。
「楽観は端からしてねェ。どんな状態になってても良い。見つけて連れ帰ってくれ」
 淡々とした口調から、ミサキが既に死んでいる最悪の展開までこの人は現実的に捉えているのだろうとユウヤミは察した。
「勿論、受けた依頼はきっちり捜査するからね。必ずケルンティア君を見つけるよ」
「……頼んだぞ」
 アンから差し出された手を握り、約束の握手を交わす。アンの手は使い込まれた道具のような、自力で生きてきた人の温もりがあった。
「いつにも増して仕事熱心ですね」
 アンと別れた後、いつもながら冷たい表情でヨダカに言われるユウヤミ。
「ひょっとしなくても人命が掛かっているのだよ?」
「それは普段から聞きたい台詞です」
 実際のところ、今回の失踪事件は「ヴォイドが何処にいても必ず見つけられる」と自負しているユウヤミのプライドも掛かっている。その意味で前線駆除班の仕事に比べると、特別捜査班の仕事はユウヤミの中でかなり比重が大きいのだ。
「くれぐれも、違法捜査はしないで下さい」
「当然だろう?わかっているよ、ヨダカ」
 それからユウヤミとヨダカは第6小隊長代理を引き受けたロナ・サオトメのところへ行ってミサキから何か聞いていないか確認したり、途中で第3小隊長のエレオノーラ・ブリノヴァとセリカ・ミカナギに呼び止められて少し聞かれたりもし、医療班に聞き込みに行く頃にはミサキの情報だけ随分集まっていた。
「ケルンティア君、意外と知り合いが多いのだねぇ……」
 オンラインホワイトボードを開けてみると、GPSにバツ印がしてあった。ただ、貼ってある付箋には最後に記録された座標が書き込まれていた。都市部と山間部の中間地点のような地域であり、ストリートビューで見ると交差点のど真ん中だった。
「どうやら、GPSの線は潰えたようだねぇ」
「これで一つ方向性が決まりましたね」
「ホロウ君とケルンティア君は同一犯に連れ去られた可能性が高いね。ほぼ同じタイミングで電話が切られているし、最後に記録された座標が同じだもの」
 ユウヤミも先程聞いた情報を付箋ツールに書き込んでオンラインホワイトボードに貼っていく。関係性を表すマーカーも引き、アプリを閉じた。

 次にユウヤミ一行が向かったのは医療班近くの休憩所だった。行ってみるとスレイマンが缶コーヒーを前にして机で突っ伏していた。ユウヤミに声を掛けられたスレイマンは大きく伸びをして固まった骨を解す。
「随分お疲れの様ですね、アスラン先生?」
「第6のリーシェルさん……じゃなくて今は特捜班でしたっけ。いやぁ、ヴォイドが居ないと結構キツいですよ〜」
 乾いた笑いをしながら無糖コーヒーをぐびっと飲むスレイマン。今日休みのメンバーが入って頭数は揃っているらしいが、ヴォイドと同等かそれ以上に働けるかというと別問題である。
「よく一緒にいるリーシェルさんがわからないとなると……随分怖い話になってますね」
「えぇ。流石に彼女の行動を全て把握は出来ないですからねぇ……無事を願っていますよ」
「比較的今のカンテ国は落ち着き始めていますけど、岸壁街から追われた裏社会の人が此方に流れていてもおかしくないし、余計に怖いですね」
 腕組みをして天を仰ぐスレイマンだが、直ぐに「そうだ、行方探しに必要な事調べているんですよね」と膝を叩く。
「ヒントになるかわからないですけど、この間『創傷をもっと綺麗に治したいから参考になる本を教えて』って言われたんですよ。それでこの本を紹介したんです」
 スレイマンが端末に表示させたのは「外科系医師が知っておくべき新・創傷治療」という本だった。
「わかりやすくて良い本なんですけど、医学書を多く扱う書店に行かないと置いてない本なんですよ。取り寄せだと時間かかって嫌だって言うから、書店の地図も書いて渡したんです。ナヤブックセンターって言うんですけどね」
 スレイマンから色々聞いた後、大変参考になりました、と言って休憩所を後にするユウヤミとヨダカ。開けてみたオンラインホワイトボードにはまた付箋が追加されており、昨日ヴォイドとミサキが寮を出て結社の敷地外に行った時間が書き込まれていた。先にヴォイドが出発し、そのしばらく後にミサキが出発している。
「矢張り、出かけた後で会ったと考えるのが妥当だろうねぇ」
 そうなると、何処へ向かったかである。ヴォイドはスレイマンの言う通りであればナヤブックセンターに行った可能性が高い。だが、ユウヤミの記憶が正しければナヤブックセンターは大通りに面しており、反対側には駐在所もある場所だ。そんなところで誘拐をするかと言うと疑問が残る。
「これは、オランウータンにでも攫われたのかねぇ……」
主人マキール。失礼ながら貴方様の目は節穴ですか?」
「高尚な冗談なのだよ」
 顎に親指を添えて軽く思考を巡らせるユウヤミ。
「ホロウ君の部屋で裏取りしたかったのだけれど……その時間は無いだろうねぇ」
「そうですね。幾ら捜査の為と言っても不法侵入になります」
「はは、確かにそれはまずいねぇ」
 いつもと変わらないようなふわりとした足取りで外へ向かっていくユウヤミ。一歩下がって見守るヨダカはその足取りがいつもより5%ほど速くなっている事に気が付いていた。

 ヴォイドが向かったであろうナヤブックセンターで聞き込みをすると、「外科系医師が知っておくべき新・創傷治療」と「sapphireで作るゲームアプリ」が連続で売れている事を教えて貰えた。更に頼みこんで見せてもらった防犯カメラ映像にはしっかりヴォイドとミサキが連れ立って店を出て行く様子が映っていた。許可を貰って映像のコピーデータをテオフィルスにも送る。
 聞いた情報をオンラインホワイトボードに書き込むと即座にテオフィルスが「sapphireでゲーム開発するって何日か前に言ってた」と付箋を貼った。
 軽く指を顎に当てたユウヤミは店を出た時間を口の中で呟くと何かを思い出したらしく、黒いピーコートから出した端末でテオフィルスに電話を掛けた。
「メドラー君、この辺りの古本屋で一番近いところってどこだかわかるかい?」
 「ちょっと待ってくれ」と言った受話口の向こうでテオフィルスが何やらキーボードを打つ音が響く。
『古本屋か……500m先にある一華堂って古本屋が最寄りだな』
「うーん。出来れば、最近営業していなさそうな古物商も含めてくれないかい?」
『古物商だって?』
「そうだよ。シン君が言うにはケルンティア君は古い絵本を探していたらしいからねぇ」
 ミサキが絵本を探していた事実がミスマッチに思えるような、でもそんな姿も見てみたいと思いつつ古物商を検索するテオフィルス。
『一件ヒット。すぐ裏にインディゴって店がある。営業してるかしてねぇかわからねぇけど、これで良いのか?』
「勿論。今その通りに来てみたのだけれど、大通りの近くなのに人気が無いし物陰も多いのだよ。犯罪の起こりそうな典型的な道ってところだねぇ」
 インディゴのある通りはトラックが一台なんとか通り抜けられるくらいの道幅だった。正に日陰の通りだ。シャッターを閉めた古い店もあちこちにあり、野良猫が雨ざらしの段ボールで丸くなっていた。
 テオフィルスの言う店は随分古ぼけた店だった。看板は薄くなっており、ショーウィンドウに貼ってあるポスターは随分青くなっていた。
 偏屈でセキュリティ意識の高いインディゴの老店主をなんとか説き伏せたユウヤミは、監視カメラ映像を見せて貰いながら老店主にも話を聞いた。
「嬢さん方が出て行って、車が通って、少し止まった気がしたがそれだけ」
 もごもごしながら話す老店主はユウヤミの隣にいる機械人形マス・サーキュのヨダカを睨んでいた。
「わしゃぁ新聞読んでたからな。外の事なんぞよぅわからん」
 ぶっきらぼうな言い方をして新聞を広げる店主。
 「すみませんねぇ」と人当たりの良い笑顔を浮かべるユウヤミだが、記録映像のあるところまで見た瞬間表情が消えた。
 店を出て行ったヴォイドとミサキ。その背を追うようにナンバープレートを隠した白いライトバンがゆっくり店先を通過する。二人の横で止まったかと思うと、後部座席から飛び出してきたモスグリーンの服を着た焦茶色の短髪の人物がヴォイドを背後から捕まえた。咄嗟にヴォイドが腰を落とし足を絡めて反撃しようとするが、軽くいなされて体勢を崩したところで力が抜けて車に押し込められる。隣にいたミサキもほぼ同じタイミングで頽れて車に押し込められた。
「催涙スプレー……」
 それだけ呟いたユウヤミの顔は蒼白になっていた。元から白い頬が貧血になりそうな青褪めた色になる。
主人マキール?どうされました?」
「送って車種製造年」
「承知しました」
 映像を巻き戻して見つめるユウヤミを置いてヨダカがテオフィルスと連絡を取る。
「テオ、インディゴで撮影された動画を送ります。白い自動車の車種と大体の製造年を調べて頂けますか?生憎私のデータベースには記録されていませんでしたので」
『了解。……犯人は顔もナンバーも映ってねぇんだな』
「えぇ。ですが、主人マキールは何かを掴んだようです」
 チラリとヨダカがユウヤミの顔を見やる。
「ヨダカ、書店の映像で二人が出て行く少し前に同じ人物が写っていると思うから探して」
「……だそうなので、書店の映像のチェックもお願いします」
『はいよ。人使い荒いな……これでヴォイドの居場所に近付けるんだよな?』
「捜査は地道なものです。信じて一歩一歩進みましょう」
 その後、インディゴの店主に礼を言ったユウヤミとヨダカは二人が連れ去られた現場へ向かった。ふと、足元にきらりと光った物が見えて膝をつくユウヤミ。その物を見つけると彼の目が三日月型に変わった。
「流石だねぇ……」
 そこにあったのはつい最近落ちたボタンだった。映像を見る限り、ヴォイドやミサキの服についていた物ではない。咄嗟にヴォイドかミサキがモスグリーンの服を着た人物の手がかりになりそうな物を落としたと考えられる。
 落ちていた証拠写真を撮影したユウヤミはボタンを小さいジッパー袋に入れると、捜査本部へ戻ると宣言した。

 特別捜査班本部もといテオフィルスの部屋に戻る道すがら、ユウヤミは軍警のミフロイド・ガニマールに電話をしていた。
「あ、ガニマール君?いきなりだけど、うちの結社から行方不明者が同時に二人出てしまってねぇ……それで一つ聞きたいのだけれど」
『行方不明者の捜索なら部署が違うぞ』
 いつもながら不機嫌なミフロイドの声である。
「知ってるよ。聞きたいのは、生き人形事件の時のセルゲイ・トカレフが今どうしてるかって事」
『……お前、何処から聞いた?何を企んでいる?』
 セルゲイの事を持ち出したユウヤミに疑うような声で聞き返すミフロイド。
「何処って……行方不明になった同僚を探していたら、監視カメラ映像にセルゲイによく似た人物に連れ去られる様子が映っていたのだよ。それで可能性を潰すべく君に聞いているのだけれど?」
 ややあってからミフロイドは嫌そうに切り出した。
『そうか……そうだな、お前も関わりがあるな。公表はしていないが、セルゲイ・トカレフは5ヶ月前移送中に逃亡してから見つかっていない』
「ガニマール君……2月14日の面談でなんで言わなかったの」
『話したら今の仕事を放棄するだろ。そこから関係性を疑われる』
「あっそ、そんなところだと思ったよ。それでなのだけれど、セルゲイの情報を此方と共有できないかい?多分、行き着く先は同じだから」
『……上には話しておく。だが、期待はするなよ』
「御偉方の頭の硬さは固い意志すら砕くからねぇ」
 ミフロイドとの通話を切ってオンラインホワイトボードを開けると、書店の防犯カメラに写っていたモスグリーンの服を着た人物と、ヴォイドとミサキを連れ去った人物のスクリーンショットが貼ってあった。いずれも焦茶色の短髪で浅黒い肌の人物だ。ヨダカが試算した身長と体重をおよその値として書き込む。
「流石に当時と体型は変わっているとは思うのだけれど、まぁ想定の範囲内の数字だねぇ」
 詰めていた息を少し吐き出すと、ユウヤミは二人が拉致された状況を流れ図にして付箋で書き込んだ。

ノンナチュラル

 特別捜査班本部兼テオフィルスの部屋にユウヤミ一行が戻ると、車種の特定に疲れたテオフィルスが伸びていた。
「やぁ、メドラー君。順調かい?」
「……見えるかよぉ……この会社、そっくりなライトバンどんだけ作ってんだよ?」
 照合に時間かかるじゃねーか、くそったれ。呟くテオフィルスの前でユウヤミはいつも通りに優雅な微笑みを浮かべていた。
 何もかもいつも通りってのもなんか気味悪い事もあるんだな、と疲れた目でユウヤミを見るテオフィルス。
「そろそろかな」
 ユウヤミが言うが早いか、蝶番が吹き飛ぶんじゃないかという勢いで玄関のドアが開いた。
「今、何が起こっているか詳しく教えてくださいませんか!?」
 殴りかからん勢いで転がり込んで来たのはロード・マーシュだった。
「ヴォイドが部屋に戻った形跡が無い上に誰か侵入した形跡があっておかしいと思っていたら……!」
 焦りと怒りの炎を背負ったままツカツカと入ってくると何とか冷静に話そうと息を吸ったり吐いたり繰り返すロード。だが、わなわなと震える拳は収まらない。
「妙な事件の話を小耳に挟んで居ても立っても居られなくなったんですよねぇ……!」
 行き場のない感情を拳に変えて鋭く壁に打ち込むロード。天井からはパラパラと埃が降り、打ち込まれた壁は見事に陥没していた。
「ちょっ、俺の部屋ぁ……!」
 ロードの気持ちもわかるが、壁に凹みをつけられた衝撃でテオフィルスは涙目になりそうだった。
「来る頃だと思っていたよ。真打君」
 荒れるロードの様子を静かに見たユウヤミがいつもと変わらない調子で言う。しんと冷え込んだ夜のような瞳を一切動かさないユウヤミに数歩近寄るロード。その隙間にヨダカが割るように入り込む。
「マーシュ君。目先の感情に囚われて、狩るべき相手を見誤らないで貰いたいね」
 胸中渦巻く煩悶とした感情を、目に入るものを投げつけたくなるような苛立ちを、なんとか押さえ込もうと何度か深呼吸すると、ロードはもう一度壁に拳を叩きつけて怒らせた肩を下げた。
「……リーシェルさん、状況説明をお願いできますか」
 よくできました、と言いそうな顔で頷いたユウヤミはタブレット型端末に表示させたオンラインホワイトボードと紙の地図を机に広げる。
「ホロウ君とケルンティア君は昨日外出した後、帰宅していない。防犯カメラ映像が証明しているし、ケルンティア君についてはシン君が証言してくれている。まず結社敷地内での犯行ではないね」
 一旦言葉切ってロードを見るユウヤミ。
「因みに、ホロウ君の部屋の侵入者はフローレス君だよ。様子見に来て中まで上がり込んだそうだから」
 侵入者の正体がわかったロードは少しだけ力が抜けた様だった。
「昨日の行動だけど……二人とも全くバラバラに寮からナヤブックセンターに行ったようだね。そこで偶然会った二人は裏通りの古物商インディゴに行き、出てきたところを白いライトバンに乗ったモスグリーンの服を着た男に連れ去られた」
 ユウヤミが結社の寮から道順をなぞっていく。
「犯人は男性。身長は180cm〜190cmくらいで格闘技有段者レベル。利き手は右で利き足は左。手際が良すぎるし、この手の犯罪に慣れているね。恐らく大家族の末っ子で放置されて育った感じかな。少なくとも共犯者が1人。連れ去られた位置と最後のGPS座標から逃走方向はおよそ北西。車は今頃何処かに乗り捨てているだろうね」
 車の照合を続けていたテオフィルスが目を剥くが気にするユウヤミではない。
「犯人は用意周到で比較的慎重だね。でも、ターゲットを決めるのは突発的なようだ。確実に勝てそうな細い人を狙ったとも考えられるけれど、プロレス技を覚えているホロウ君を軽くいなしている事を鑑みれば犯人は冷静な思考で犯行に及んでいる」
 ヴォイドとミサキが話し始めた少し後に去っていくモスグリーンの男の映像を指さすユウヤミ。
「二人が入店した時点では何も気に留めていないし、他の客に緊張する様子はない。ホロウ君とケルンティア君の立ち話の内容がトリガーになったと考えられるね」
「……一体何の話をしたら誘拐事件になるんです?」
「女性同士の話に首を突っ込むのは感心しないけれど……恐らくケルンティア君がインディゴに同行してくれるようホロウ君に頼んだのだろう事はわかるね」
 ユウヤミは自分がヴォイドにぼやいたミサキについての批評がトリガーだろうと気付いていながら、それは今言う事ではないと横に置く事にした。
「インディゴに用があったのはケルンティア君だし、何よりあの店主の元に付き添いなしで行くはずがない」
 ヨダカが記録したインディゴの店主の映像をタブレットに表示させる。何とも陰気で頑固そうな小汚い老人だ。
「成る程な。ミサキちゃんは余計にダメだろうなこういうジジィは」
 厳しい顔で言うテオフィルスにその場にいる全員が頷く。
 ミサキは男性恐怖症である。同じ空間にいたり話すところまでは我慢の範囲らしいが、直接触れるのは勿論の事、ミサキの許可なく触れられる距離に入るのは禁忌なのだ。
「逃走したと思われる北西の山麓には過疎化した集落がある。もしそこに潜伏していたら見つけるのはより困難になる」
 ナヤブックセンターやインディゴのある市街地から北西方向にある山麓の集落は空き家や放置された廃墟が比較的多い。犯罪者の潜伏には持ってこいの建物が多い上に住民も少なく監視カメラの記録映像も格段に減る場所だ。
「このボタンを調べれば指紋とDNA鑑定で犯人の正体がわかると思うのだけれど……現在地はこれではわからないからねぇ」
 机の上に拾ってきたボタンを入れた小さいジッパー袋を置くユウヤミ。
「此処迄で何か質問は?」
「それで、ヴォイドは今何処にいるんです?」
 ユウヤミならそこまで推理しているのだろうとやや棘があるように言うロード。だが、ユウヤミの返答は至極現実的だった。
「今の時点では情報が少な過ぎて明確なことは言えないね。北西の集落とその近辺までは確実だと思うのだけれど……真逆虱潰しに調べるとか言い出さないよねぇ?」
「えぇ、それくらいしたいですよ。ヴォイドの為なら」
 地の底から捻じり出てきたようなドスの効いた声で返すロード。
「気持ちは立派だけど、大量に捜査員のいる警察じゃないからねぇ。しかも此処にいるメンバーが拉致事件担当の最大人数だよ」
「それくらいわかってます」
 今すぐ飛び出して行きたいのをぐっと堪えて拳を握るロード。その時、ユウヤミの携帯端末に着信が入った。
「ちょっと失礼」
 画面に表示された相手は行方不明になっているヴォイドだった。
 表情から笑みを消して無言で応答ボタンを押したユウヤミは録音開始と共に受話音量を最大にした。そこで耳に届いたのはヴォイドの声ではなくもっと幼くて少し掠れた声ーーミサキだった。
『そちらはユウヤミ・リーシェルのた、たんまつでまちがいないですか』
「うん。そうだよ?ケルンティア君から電話をしてくれる事もあるものだねぇ」
 敢えて時間稼ぎとミサキを動揺させない為の軽口を叩いてミサキの声を超高速で分析するユウヤミ。声はミサキだが言葉選びが普段とは全く違い、口調も小学生が難しい本を読み上げるような辿々しさがある。つまり、目の前にある原稿を読み上げるよう強要された可能性が高い。ミサキの次の言葉は予想した通りだった。
『おれはセルゲイ・トカレフだ』
 聞きながらヨダカにハンドサインを送るユウヤミ。しかと読み取ったヨダカがパソコンの前にいるテオフィルスに囁く。
「ヴォイドのGPS探査をして下さい。ダメ元ですが」
「もうやった。どっちも今の座標は取得できねぇ」
 首を振ってテオフィルスが答える間もミサキの声は続く。
『ユウヤミ・リ、リーシェルとかかわりのふ、ふかいじんぅぶつをらちした。ミサキ・ケルンティアとヴォイド・ホロウだ』
 一歩踏み出しそうになったロードの肩をヨダカが掴んで、端末に文面を表示した。
〈犯人に余計な情報を与えないで下さい。恐らく犯人はマーシュさんやテオとも関わりが深い二人とは知らないでしょう〉
 ユウヤミが一人で対応していると思わせておいた方が犯人の油断を誘える。冷えてきた頭で気付いたロードが浮かせかけた足を収めた。
〈いつもの主人マキールなら指示だけ出して不貞寝してます。真面目に働いていると言う事は、それだけ心配していると言う事なのです。ご理解いただけると幸いです〉
 静かに笑みを作るとヨダカはロードの側から離れて音も無くユウヤミの隣りに戻った。
『16じ27ふんまでにユウヤミ・リーシ、シェルほんにんが、がここにこい』
「場所は教えてくれないのかい?招待状なら貴人と神からの愛を求める文言も必要だよ?」
 何故か辿々しくつっかえながら読み上げるミサキにいつもの軽口を返すユウヤミ。
『じかんまでにこなけ、ければふたりのいのちはな、ない。けいさつときたらすぐころす』
 ミサキがそこまで言うと、一方的に電話は切れた。
「録音は出来たのだけれど、逆探は携帯会社の協力が必要か……」
 通話終了と書かれた画面を見ながらユウヤミが呟く。
主人マキール。ミサキと思われる声の検査終了しました。電話口で聞こえるミサキの声に極めて近いと言えます」
「録音の可能性は?」
「極めて低いでしょう」
 深く頷くユウヤミにロードが詰め寄る。
「リーシェルさん、どう言う事ですか?明らかに犯人は貴方を狙っていますよね?ヴォイドとケルンティアさんまで巻き込む程の何を一体隠しているんです?」
「この後説明するよ。けれど先ずは警察に連絡させて貰う」
「おいおい……警察と来たら殺すってさっき言われたばっかじゃねぇかよ」
 不安と呆れが混じったテオフィルスにユウヤミは軽く答えた。
「一緒に行かなければいいのだよ。時間内に確実に居場所を突き止めるには警察の力は必須だよ?警察に友人がいるからちょっと話を聞いて貰うだけ」
「今だってヴォイドの無事すら確認出来ていないじゃないですか……!」
 半ば叫ぶようなロードに不思議そうに小首を傾げるユウヤミ。
「何を悲観的になっているんだい?ホロウ君もケルンティア君も今さっきの時点では怪我無く無事だよ。恐らく何処ぞのユニットバスに監禁されているのだろうね」
「今のでそんな事が……もしかして!?」
 何かを閃いたのかロードの目に光が灯る。教師が生徒を見るような微笑みを浮かべるユウヤミは彼らの前で先程の録音を再生した。

『そちらはユウヤミ・リーシェルの、たんまつでまちがいないですか』
「うん。そうだよ?ケルンティア君から電話をしてくれる事もあるものだねぇ」
『おれはセルゲイ・トカレフだ』
『ユウヤミ・、リーシェルとかかわりの、ふかいじんぅぶつをらちした。ミサキ・ケルンティアとヴォイド・ホロウだ』
『16じ27ふんまでにユウヤミ・リー、シェルほんにん、がここにこい』
「場所は教えてくれないのかい?招待状なら貴人と神からの愛を求める文言も必要だよ?」
『じかんまでにこな、ければふたりのいのちは、ない。けいさつときたらすぐころす』

 録音を聞き終わったロードは少し落ち着いたようだった。
「ただ吃ったのではなく、それが暗号になっていたと。た、り、ふ、し、が、け、な。並べ替えれば『二人怪我無し』……ケルンティアさんはこれを緊張感漂うその場で考えて実行したんですねぇ……」
「成る程……流石うちのお姫様だ。んで?ユニットバスだってのは?」
 一つ頷いてユウヤミが口を開く。
「ケルンティア君が吃らずにはっきり発音しなかった音はぶの音だけ。つまりUとBでユニットバスの略だよ。催涙スプレーの影響で掠れ声だったし、他の略があるかもしれないけれど、今可能性が高いのはそれだねぇ」
 じゃ、電話かけてくるから。そう言い残したユウヤミはヨダカを伴って一旦部屋を出て行った。止めようにも止められないロードとテオフィルスはその背を見送る。
「ミサキちゃんも脅されて読み上げさせられたんだろうな……絶対怖かったろうな」
「そうでしょうねぇ……セルゲイとやらが何者か知りませんが、ケルンティアさんの男性恐怖症に人間の例外はいないようですからねぇ」
「ん?例外はいるぞ。前線駆除班のロナは何でか知らねぇが懐かれてる」
「成る程……ケルンティアさんはああいう男がお好みですか……お若いのに堅実な事で」
 心の中の弱いところを突かれたテオフィルスが言い返そうとして言葉が浮かばず、一人で机に沈む。
「そう言えば、セルゲイ・トカレフ……何処かで聞いたような気がするんですけどねぇ……一体どこで聞いたのやら全く思い出せないんですよ」
「検索するか」
 秒速で復活したテオフィルスがパソコンで検索を始める。直ぐにセルゲイ・トカレフについての情報が上がってくるが、トップに登場した辞典の見出しは聞き馴染みのない名前だった。
「生き人形事件?お前、知ってるか?」
 渋い顔をして首を振るロード。
「『2168年にアスで起きた連続殺人事件。子供を含む4人の男性が次々と失踪し、うち2人は遺体となって発見された』……って書いてあるな」
 電子世界上の有志で作る国際百科事典のページをスクロールしていくテオフィルス。
「『主犯のソーニャ・アドレルは死体愛好ネクロフィリアの癖があり、事件以前から気に入った人物をエンバーミング後冷凍保存していた』とかエグくね……?」
 そこまで聞いたロードは漸く思い出せたらしく頷いた。
「思い出しましたよ、68年アス連続失踪事件。当時ニュースで連日報道されていましたねぇ……そう、被害者の方が割と近所に住んでいて驚いたものですよ」
 テオフィルスは更にスクロールしていく。
「それでセルゲイは何をやったか、つーと?『ソーニャ・アドレルの共犯者。セルゲイは裁判の間も自分はソーニャの彼氏であると主張していたが、知人たちの証言によれば「良いように使われているだけで相手にされていなかった」』『4人の被害者並びに事件以前の被害者はいずれもセルゲイが拉致し監禁したと本人が証言している』『格闘技有段者であり、素人は太刀打ちできない』……一生関わりたくねぇ奴だな」
 此処まで読んだロードは首を傾げた。
「何処にもリーシェルさんらしき人物が出て来ないのは……調査する側で逮捕に貢献したからという事ですかね。決め手になる証拠をリーシェルさんに押さえられたので恨んでいるのかもしれないですねぇ」
「カンテ国の犯罪史に残る狂女だよ、ソーニャは。最後は自分の不注意で冷凍庫に入って凍死するなんて出来の悪い芝居みたいじゃないか」
 いつの間に戻ってきたのか、壁にもたれながらユウヤミが二人の会話に入り込んできた。
「しかも、その不注意の原因が私だと思い込んでいるものだから、セルゲイには“愛しのソーニャを殺した人”として一方的に恨まれているのだよ」
 呆れた溜息を吐くユウヤミ。ソーニャの死因までよく読んでいなかったテオフィルスがページを上にスクロールして目を見開く。
「喜び給え、警察と捜査協定が結べたよ。これで向こうの情報が此方にも流して貰える。勿論、此方が調査して新たに判明した事も提出しないといけないけれどね。捜査方法はマルフィ結社特別捜査班に一任して貰えたけれど、何をどう捜査したかは全部報告する義務が付いて来たから其処のところ宜しく頼むよ」
「何勝手に決めてんだよ」
「最後まで粘ったのだけれどねぇ……全部報告する約束がないと許可できないと頑なに言われて仕方なしだよ」
 眉を顰めるテオフィルスに肩をすくめるユウヤミ。
「先ず、ホロウ君とケルンティア君を拉致したのは本物のセルゲイ・トカレフだって事から話そうか」
「電子世界の情報にはセルゲイは服役中だって書いてあるのはどう言う事だ?脱獄でもしたのかよ」
「軍警に確認したら、5ヶ月前の移送中に逃亡してから見つかっていないらしい。国中の監視カメラをアカシアのMeltが解析したけれど、それでも尻尾が掴めていない。恐らく、Meltの想定したセルゲイの姿が実際と大きく異なって居たのではないかと思う」
「囚人逃走にMeltにアカシア!?そこまで軽く教えてくれるモンかよ?」
 素っ頓狂な声を上げるテオフィルスにユウヤミは小首を傾げる。
「あれ?言ってなかったけ。私、結社に来る前は警察のコンサルティングもしていてね、向こうにはちょっとばかし顔が効くのだよ」
「は?警察関係者……え、ユウヤミ、そうなのか?お前知ってたか……?」
 横にいるロードに聞くが彼も首を振る。
「いえ……初耳です。人事部の資料にも無かったので」
「顧客の個人情報に相当するだろう?履歴書に書くわけにいかなくてねぇ……吹聴は避けてくれ給えよ?」
 飄々と答えるユウヤミにテオフィルスは少し顔色を悪くする。
「では、今回の拉致事件は生き人形事件解決後に遺恨を残してしまった結果だと?リーシェルさんらしくないですね」
「生き人形事件に関して言えば、私は被害者側だと主張するよ」
「被害者ですって?」
 意外そうに眉をピクリと動かすロード。
「あの時私も巻き込まれてね、危うく4体目の遺体になるところだったのだよ。そうなる一歩手前で警察が追いついたから死に損なったのだよねぇ」
「『最後に拉致された4人目の人物は軍警関係者であり、発見当時重体』って書いてあるぞ……?え、これユウヤミの事なのかよ!?」
「そうなのだよ。捕まった時に結構な勢いで血を抜かれて意識飛んだのだよねぇ……長く入院生活を強いられて大変だった嫌な思い出だ」
 無意識に首を摩りながらユウヤミは一人で頷く。信じたくないテオフィルスに視線を向けられたヨダカは深く頷いた。
「本当です。助手を務めた先代の機械人形マス・サーキュから当時のデータを引き継いでいますので」
「マジなのか」
「まぁ兎も角、拉致された時の経験から言えばモスグリーンの服を着た人物はセルゲイで間違いないと思うよ。背格好が近くて手口も動きも全く同じ。足を絡めとる術は当時私もやったけれど軽く避けられて、頸動脈を押さえ込まれてしまってねぇ」
 頸動脈洞失神。格闘技の世界で絞め技と言われるものである。訓練を積んだ人物に技を掛けられた場合、脳への血流が滞り数秒とせず意識が落ちてしまう。それがヴォイドが大して抵抗できずに拉致された理由だった。
「それなら、ヴォイドとケルンティアさんにも準ずるような危機が迫っていると……!?」
「指定時間内に見つければ死にはしないと思う。けれど無傷の保証はないね」
 部屋から飛び出すのをなんとか抑えようとしているのか、ロードがまた拳を握る。
「セルゲイの指定は今日の16時27分。けれど、二人を無傷で取り返すには2時間半以内に見つけないといけないね」
 神妙な顔で頷くロードとテオフィルス。
「ミサキちゃんの勇気を無駄にしない為にも、こっちが複数で動いている事をセルゲイにバレないようにしねぇとな」
 テオフィルスの言葉に頷くユウヤミ。
「冷静で優秀な無駄のない一手より、追い詰められた凡人の悪手の方がずっと怖いものだからねぇ」
 だが、この状況は実に面白い。そんな事を思いながらユウヤミは考えついた作戦を語り始めた。


鍵のかかったUB

 時間は巻き戻って前日の夕方。ヴォイドは全く知らないユニットバスの床で目が覚めた。眼前には元は白かったのであろうアイボリーになった壁が見え、流れ出た赤錆が逆三角形を描いている。どうやら両手首と両足首を養生テープで固定されていると気がついたヴォイドは持ち前の身体の柔らかさでよいしょと座り直した。
 電子機器やアイスピックも含めて持ち物は無くなっているが、着ていた服はそのままだった。
 浅いVネックのベージュトップスに焦茶のスキニーパンツ、ブルーグレーのコート、スニーカー。この間漸く泥が落ちきってクリーニングから帰ってきたトップスなのだが、また汚れるかもしれないと思うとヴォイドも気分が下がった。因みに、ブルーグレーのコートは愛の日にユウヤミからプレゼントされたものであり、これも汚れたらどうしようかと不安になる。
 ぐるりとユニットバス内を見渡すと、壁に小型カメラが設置されていた。古い部屋の中でカメラだけ妙に新しいので監視用であろうと見当を付けるヴォイド。ずりずり移動してドアノブを掴んでみたが空回りしているのかドアは開かなかった。
「う、う……ん」
 後ろのバスタブから声がして振り返る。中には同じく養生テープで拘束されたミサキが転がっていた。じっとヴォイドが見つめていると、薄っすらミサキが目を開けたのだが、直ぐに閉じると器用に寝返りを打って軽い咳をしながら眠ってしまった。
 この状況、二度寝してる場合じゃない気がするんだけど。そんなヴォイドの心の声なんて聞こえないミサキは眉根を寄せた顔で眠り続ける。
 一人で脱出方法と拘束解除方法を考えて実行するより、二人で考えた方が早く進むはず。まずはミサキを起こした方がいいだろうと結論したヴォイドがミサキに声をかける。
「ミサキ、起きて。ミサキ」
 全く聞こえていないのか、ピクリとも動かないミサキ。
「起きて」
 ヴォイドが手を伸ばして揺すってみると、勢いよく寝返りを打つミサキの手が鼻先を掠めた。少しずれていたら頬にクリティカルヒットしていたところである。
 10年近く付き合いのあるアンならば確信がない限り素手でミサキを起こす事はしない。十分距離を確保した上で傘の持ち手の部分を使って起こしたり、掛け布団を剥がすだけに止める。油断して蹴られたり殴られたりという事が過去に何回かあった故の防御策である。
 とは言えここでそんな事を教えてくれる人はいない。少し考えたヴォイドはミサキを放置する事に決めた。
 一人で出来ること。まずは、どうしてここに居るのかを思い出す事にした。
 創傷治療の本を買いにナヤブックセンターに行って、偶然ミサキに会った事。ミサキがインディゴという古物商のところに行くから付き合って欲しいと頼まれて、行くだけならとついて行った事。ミサキが絵本を値切ろうとして失敗した事。それで店を出てきて歩き出したら隣りに白い車が来てーー?
「プロレス技、教えてもらったのに使えなかった……」
 残念そうに呟くヴォイド。少し前に、機械人形マス・サーキュに襲われた時の為と言ってユウヤミからヴォイドはプロレス技を幾つか教えて貰っていた。練習がてらユウヤミもロードも締め上げたヴォイドだったが、実戦に応用するのは随分勝手が違った。
 白いライトバンから顔を出した運転手が道を聞いてきたので、深く疑わず近寄ったところ音もなく後ろから羽交い締めにされ、咄嗟に腰を落として片足で足払いをかけようとしたものの、あっさり躱されて体勢を崩した時には首を絞められて意識が無くなってしまったのだ。気付けばこのユニットバスで転がされていた。
「此処どこなの……」
 見回しても何も変わらない。随分古いユニットバスである事は確実で、掛かっているシャワーカーテンがボロボロの破片になっていた。でも、その割に埃は落ちていない。
「う、ふあ」
 ヴォイドがバスタブを振り返ると、ミサキが小さく欠伸をしながら漸く本当に目を覚ましたところだった。パチ、と二人の視線が合う。
「ミサキ、腫れた……?」
「OCガス……!」
 何気なく見たままを言ったヴォイドに耳慣れない単語を返すミサキ。噛み締める唇は赤く腫れ上がっていた。目元までほんのり赤くなっている。
「おぉしぃ?」
「オレオレジン・カプシカム。催涙ガスの一種。唐辛子に含まれるカプサイシンを主成分にしたもの」
「あ、トウガラシスプレーの事?通りでさっきから辛っぽい匂いがすると思った」
 誘拐犯はヴォイドには絞め技を使ったが、ミサキにはOCガスを使用した。護身用として一般的に販売されている手の出しやすいもので、一度浴びると数時間は不快感に悩まされる。擦ると悪化させてしまうので水で洗い流すのが妥当なところだが、此処に水はない。
 試しに立ち上がって洗面台の蛇口を捻ってみるヴォイドだが、何も出て来なかった。
「ゲホッ、ゴッ、ゲホゲホッ!」
「ミサキ?」
 ヴォイドが見下ろすと、肩で息をしながらミサキは咳き込んでいた。誘拐犯からスプレーを掛けられた時に咄嗟に目はガードできたが、エアロゾルになったOCガスは口から鼻から呼吸器に入り込んでいたのだ。
 苦しそうに咳き込むミサキ。原因を取り除けないならばせめて軽減させるには、と考えたヴォイドは手首の養生テープを歯で噛み切り、足首のテープもちぎるとバスタブに入り込んだ。
「な、何!?」
 驚くミサキの肩を掴んで引き起こすと、鎖骨の外端下のくぼみからさらに指1本分下にいった場所にぐっと指を食い込ませるヴォイド。
「中府。呼吸器に効くツボだってジークが言ってた」
「痛っ……!」
「深呼吸して。張ってる感じが取れるまでやって」
 咳で胸が痛く、肩も押さえつけられて痛い。自棄になったミサキは大人しくヴォイドの言う通りにゆっくり深呼吸する。数回吸って吐いてを繰り返すと最初より呼吸が楽になった。
「止まった?」
 小さく頷くミサキを確認したヴォイドは肩から手を離した。
「荒い。けど、止まったから感謝する」
 細く息を吐きだしたミサキは手首のテープを器用に口で剥がし、足首のテープは食いちぎって剥がした。服の上から拘束されたお陰か、そこまで痛くならずにすんだようだ。
「……漸く見つけた本だったのに」
「あの絵本?」
「そう。古本屋で二巻目だけ買ってマジュにあげたら一巻目が読みたいってテロ前から駄々捏ねてて」
 探した時間と金返せ。溜息を吐くとミサキは腕組みをしてバスタブの壁に背を預けた。
 不意に、ユニットバスのドアがガチャリと音を立てて開いた。注視するヴォイドとミサキの目の前で暗がりからぬっと小さい缶を持った手が出てくる。続いて出てきたのは茶色の紙袋を頭から被ったモスグリーンの服を着た人物だった。肩幅も身長もあり、何か格闘技をしていたのか引き締まった体付きをしている。ふわりと漂ってきたにおいは年季の入った物のようなにおいだった。
「お前ら、ユウヤミ・リーシェルを知ってるよな?」
 ボソボソと呟く男。紙袋を被っている所為で余計に聞き取りづらい。
 紙袋の男を倒せば外に出られるが、相手の手にある缶はミサキの言うOCガスつまりはトウガラシスプレーである。此方も丸腰で下手に刺激する事はしない方がいいーーそこまで考えたヴォイドが口を開く。
「知ってる」
「連絡先を教えろ」
「連絡先……端末の中にある。端末を渡してくれれば答える」
「ダメだ。此処から出るな」
「此処から出るな?言ってる事が無茶苦茶なんだけど」
「知ってるのか、知らないのか」
 紙袋を被った男が貧乏ゆすりをしながら呟くが、ヴォイドは番号の暗記などしていない。知っている体で何か有利になる条件を突き付けてもいいが危ない橋だ。チラリとヴォイドがミサキを見ると、頭をトントンと叩いて口は「知ってる」と動いていた。
「知ってる。答えたら此方の安全は保証する?」
「リーシェルが来るまでならな」
「来るまで。なら、それまでの水分か食料が無いと交渉には応じない」
 頑ななヴォイドに痺れを切らした紙袋の男は拳を振り上げて壁に叩きつけた。
「ぐちゃぐちゃうるせぇな。さっさと番号教えろよ!」
 威圧するように大声で怒鳴る紙袋男。身体で威圧する輩は表面的な強さしか持たない事を知っているヴォイドは表情を動かさない。
「けっ、とんだ頑固者が」
 今度は壁を蹴る紙袋。それからヴォイドの身体をジロジロと睨め回し「良い体型だけどソーニャには及ばないな」と呟いて乱暴にドアを閉めて鍵を掛ける音を響かせると何処かへ去っていった。
「嫌な奴」
 紙袋がいなくなると直ぐ吐き捨てるように呟くヴォイド。横にいるミサキに目を落とすと、無表情で青褪めていた。
「ミサキ?」
 トントン、と肩を叩くと一瞬ビクリと肩を振るわせてから軽く頭を振った。
「何でも、ない」
 小さく答えるとミサキは一切目を合わせる事なく膝を抱えて座り直した。
 ミサキの妙な行動から男性恐怖症である事を思い出したヴォイドは、今の一連の状況が相当な恐怖だったのだと理解した。今日だって、インディゴから出てきた時も震えていたのだ。
「怖かった……?」
 ヴォイドの問いにややあってからミサキは首を振って否定した。
「怖くなんかない。院の性悪兄貴連中の方がずっと怖かった。あんなのは怖いに入らない」
 怖くないと言っている割に黙りこくるミサキの手に力が籠る。
 「相手が話したくない時に無理に聞き出そうとしても余計に拗れるだけだから、一旦別の話題を振ると良いよ。遠回りに見えるのだけれどね、これが意外と近道なのだよ」とユウヤミが以前言っていた事を思い出したヴォイドは実践してみる事にした。
「ユウヤミの電話番号、暗記してるんだ」
「記憶は誰にも奪えないから」
「そっか、記憶は誰にも盗られないよね」
「そう」
 短くミサキが答えると、小さなユニットバスの中には静寂が流れた。
 会話になるような、ならないような。ヴォイドからしても誰かと話している感じがしなかった。ユウヤミが認めるほど頭の回転が早い少女らしいが、とにかく可愛げがない。
 何を考えているのか此処ではない何処かを見つめていたミサキが不意に口を開いた。
「目的はユウヤミに接触する事で私達は餌。来る前に処分する理由がない。だから、次は直ぐ答える」
「え、何て?」
 早口で内容を端折って言われたヴォイドは困惑していた。だが、ヴォイドが付いてこられていない事などお構い無しにミサキの独り言は続く。
「個人的な怨恨……生き人形の彼……」
 何事かぶつぶつ呟いた後、ミサキは盛大な溜息をついた。
「馬鹿馬鹿しい。死ぬなら一人で死ねば良い」
「えっと……いきなり何の話?」
「説明面倒」
 一言答えるとミサキはバスタブの壁に背を預けた。
「気になるんだけど」
 じっとヴォイドに見つめられたミサキはやや不機嫌そうに目を閉じて淡々と話し始めた。
「誘拐犯はセルゲイ・トカレフ。2168年アス連続失踪事件の犯人で多分ユウヤミを死ぬほど恨んでる」
 ユウヤミが探偵業は恨まれやすいような事を言っていたとヴォイドも思い出す。
「主犯のソーニャ・アドレルはユウヤミに惚れ込んでた。隣にいたセルゲイには目もくれず、ユウヤミに執着した挙句振り向いて欲しさで2人殺害と1人殺人未遂。ユウヤミも拉致された後軍警に救出されるまでに重体になった。回復するまでひと月以上掛かったはず」
「えっ!?」
「見ての通り今は馬鹿出来るほど元気だけど」
 ミサキの評価は手厳しいが、それよりもユウヤミが重体になるほど追い込まれた事があった方にヴォイドは驚きを隠せなかった。いつも静かに何とも表現し難い無の笑みを浮かべて飄々としているユウヤミが、大抵の事は先読みして手を打っているユウヤミが、そんな事になっていたとは、と。
「何でそんなに知ってるの……」
 ユウヤミの重大事件を自分より先にミサキが知っていた事実に愕然とするヴォイド。
「趣味」
 一言で答えるミサキにもしやユウヤミから直接聞いたのではとヴォイドは憮然とした顔で疑念の視線を向けるが、ミサキから返されたのは絶対零度の視線だった。
「目障りな奴がいると、知り尽くさないと気が済まないだけ」
「目障りって……」
「身を守る情報集めに善も悪もある?」
 どうやらミサキは相当ユウヤミが苦手らしい。奇妙な安心感と自分を否定されたような一抹の悲しさがヴォイドの中にポツンと浮かんだ。
「言っとくけど、あの馬鹿と仕事以外の話はした事ない。煩い奴は嫌いだ」
 ヴォイドの心情を汲まないミサキは容赦なく言葉を投げつける。
「ユウヤミと貴女の間にどんな関係があるかなんて私は知らないし、興味もない。勝手にすれば良い」
 一方的に話を切り上げるとミサキは目を細めながら狭いユニットバスの中を見回した。
「この後此処は水牢になる。逃げ場は換気扇の先くらい」
 天井近くの壁に付着した泥が真横に線を描き、排水溝は接着剤で固められていた。天井の換気扇には格子状のプラスチックカバーがついている。
 脱出方法を考え始めたミサキはヴォイドが憮然とした顔のままだと気付いていなかった。
「……ミサキ、そういう事言うんだ」
「何の事?」
「ユウヤミは馬鹿じゃないし、ミサキが思うよりずっと優しいよ……マカロンだって美味しかったし」
 胸の奥でモヤモヤとわだかまる気持ちが何かわからず戸惑いながらも言葉にするヴォイド。
「百歩譲って苦手だって仕方ないけど言い方があるでしょ?」
「この話は平行線になるから辞めた方がいい。見てる角度が違いすぎる」
 絶対零度の女王クイーン・オブ・アブソリュートゼロとも称される冷ややかな目で黙ってヴォイドを見下ろすミサキ。
「逃げるんだ?」
「じゃ、言わせて貰うけど。優しいかどうかじゃない。わかり過ぎるから嫌い」
「え、わかるの?本当……?」
 意外な方向に話が転んでヴォイドは目を見開いた。
「情を重んじろってアンに言われるから、出来るだけ私は頑張ってる。でも、あの馬鹿は涼しい顔で開き直ってる。だから嫌い。学べるところは結構……あるけど、ああいう大人にはなりたくない」
 いつもは表情の薄いミサキがやたら嫌そうに話す。
 ヴォイドとしても普段親しい相手が悪く言われるのは気持ちのいいものではない。だが。ユウヤミを悪く言っているのかと思いきや微妙にフォローを入れるミサキの事の方がよくわからなかった。
「勘違いしないで欲しいんだけど、私は彼奴の能力も見識も評価してる。普段の思考が合わないと言ってるだけ」
 更に嫌そうに言い切るミサキだが、完全にこき下ろしている訳でもない。
 少し考えたヴォイドは医学知識からそれらしい答えを見つけた。
ーーもしかしてこれって反抗期では?ーー
 ミサキは14歳で思春期真っ只中。つまりは性ホルモンバランスもまだ乱れがちで感情の起伏に自分でも振り回されていると言える。
 考えてみればユウヤミとミサキは12歳くらい離れているわけで、流石に噛み付くのは大人げなかったか、とヴォイドも思い直した。
 因みにミアとネビロスもそれくらい離れている事をヴォイドが思い出したのは後日の事である。

 夜になったのか、照明が消えてユニットバスの中は真の闇に包まれた。
 監視するなら24時間灯りを付けっぱなしにすればいい気もするが、セルゲイは発電機の残油量を気にしている。勿論、監禁されているヴォイドとミサキは知らない話である。
 この時期の陽の当たらない場所は兎角寒い。昼間は段々と暖かくなっているが、夜は冷え込む。岸壁街出身の二人は暗さも寒さも慣れていると言って過言ではないが、歯が触れ合うカチカチという小さい音が部屋に響いていた。
「寒い?」
 音の主であるミサキにヴォイドが聞くと、ややあってから答えが帰ってきた。
「折檻部屋に入れられたら一食抜きは確定してたし、もっと窮屈な場所だった。此処は1人じゃないし、空間も広いし、コートだってある。何より隙間風がない」
 ミサキの震える吐息が闇に溶ける。
「けど、寒いのは嫌い」
「えっと……入る?」
 少し前の寒かった日、ロザリーがフランソワをコートの下に入れていたのを思い出したヴォイドは試しに声をかけてみる。二人でくっついている方が暖かくなるし、子供を放っておくのも気が引ける、と。
 怒ったのかどうなのかミサキは何も言わなかった。
 暗闇でやる事もないヴォイドがうつらうつらし始めた時、もぞりとミサキが動いた。
「え、ふぇっ!?」
 いきなり踏まれて慌てるヴォイドの事など全く意に解さず、無言のミサキはヴォイドの前にすっぽり収まった。ミサキの寒さで緊張していた肩がゆっくり下がっていく。
 ミサキの肩は折れそうなほど華奢だった。栄養失調の子供は岸壁街では全く珍しくなかったが、外の世界である此処では年齢に見合わない軽い体格は異様だった。
「ミサキ、細いね。ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
 そうは言うが、あくまでミサキの主観である。栄養補助ゼリーやサプリやタブレット菓子の類いは食べているの範囲には本来入らない。偶にアンのお裾分け料理を貰うのでそれで食い繋いでいる。食堂に行かないのは周囲の雑音が気に障るのと、単に面倒だからだった。
「ここは岸壁街じゃないし、楽に食料が手に入るんだよ……?何で最大限利用しようとしないの?」
 ヴォイドの真っ直ぐな問いにも答えずミサキは溜息を吐き出した。
「デカ乳は嫌いだ」
 この間ウルリッカに深海魚の如き闇の深い目で揉まれた豊かなヴォイドの胸に頭を乗せながら呟くミサキ。羨ましいと言ったり、嫌いだと言ったり、当事者以外は酷く勝手なものである。
「小さいうちから女子だからって変な目で見る輩がいて凄く嫌だった。それでいて色素の薄い見た目を貶すなんて笑うしかない。けど、この外見で、女である以前に私は一個の人間だ」
 ゆったりとしたヴォイドの心臓のリズムを聞きながらミサキの言葉は続く。
「壁も外も、人間の本質はそう変わらない」
「結社にいる人は岸壁街よりずっと……優しすぎるくらいだと思うけど?」
「表面的には」
 それだけ答えたミサキはヴォイドのコートの縁をきゅ、と掴んだ。どれくらいそのままだったかわからないが、不意にミサキが息を吸った。
「アンは……私の身代わりになったんだ」
 絞り出すように言ったミサキの掴む力が強くなる。
「院の性悪兄貴連中に脱がされそうになった時、庇ってくれたのはアンだけだったから……身代わりにされたんだ」
 細いミサキの呼吸音がやたら大きく暗闇に響いた。
「戻ってきたアンは『ミサキが無事で良かった』って言いながらボロボロでフラフラで。なのに院の職員も他の連中も当然みたいに見て見ぬ振りするばかりで。道端に落ちてるなら兎も角、仕事じゃないの?何もせずに飲んだくれて気に入らないと子供殴ってそれで金貰うって?馬鹿馬鹿しいにも程がある」
 吐き捨てるように言うミサキは震えていた。
「何で私もアンも痛い思いしないといけないの?煙草で焼かれる痛みも鉛筆で刺される痛みも殴られる痛みも折檻部屋に押し込まれる痛みも我慢しないといけないの?何で私達ばっかり……!」
 言い切る前に大袈裟な程ぎゅぅぅぅとヴォイドはミサキを抱き締めた。
「な……」
「いいんだよ、ミサキ。もういいんだよ」
 ヴォイドの抱き締める力が強くなる。
 食い逃げをして殴られたとか、煩いから蹴っ飛ばされたとか、生活の為に身体を売ったとか、そういう事ならば自分の決定の結果だと無理に飲み込める。だが、ミサキやアンの受けた仕打ちの理屈は皆無に等しい。しかもそれは本来仕事として守ってくれる筈の立場からの仕打ちが含まれている。
「今いる結社は孤児院でも折檻部屋でも岸壁街でもないんだから。もう、いいんだよ」
 「ちょ、苦しい……」と呟いたミサキの声はヴォイドの胸に吸収された。
「多分、そういう事やってた連中は今頃碌でもない結果になってる。何も真面目にやらない連中はそれなりの結果になるから」
 抱き締めていた腕を解くと、ミサキの頭をそっと撫でるヴォイド。いつものミサキなら確実に嫌がるところだが、今は大人しく撫でられていた。
「……話し過ぎた」
 呟いたミサキは目を閉じる。
 暗闇の中、ヴォイドとコートに包まれていると、なんだか世界にぼんやりと二人だけで浮かんでいるような変な心地になった。折檻部屋に押し込まれていた時やアンと薄い毛布に包まっていた時とは違う悪くない圧迫感があった。

ブルーアイズ

 不意にヴォイドは目が覚めた。照明が点いて周囲が明るくなったからだった。昨日と何も変わらずユニットバスの中にいて、コートの内側ではミサキが丸くなっていた。
 時計も陽の光もない場所では時間が歪んでいるような感じがする。どれだけ眠っていたのか、現在の時刻も何もわからない。ただ、身体の強張りと戻ってこない眠気から、朝になったのだろうと推測した。
 遅れて目が覚めたミサキは少し表情が和らいだようだった。
「昨日は、ありがと」
 ぶっきらぼうに言ったミサキは直ぐにユニットバス内の調査を改めて開始したが、脱出ルートは換気扇しかなく、いずれ水牢になるだろうとの結論は昨日と変わらなかった。
 そして、なんとか出る方法を考えようと換気扇の下で頭を捻っていた。
「このカバー外せる?」
「どうかな……やってみる」
 バスの縁の足を掛けて換気扇に手を伸ばすヴォイド。普通はメンテナンスしやすさの為に引っ張れば開く構造になっている。だが、中で止めている針金が錆び付いているのか、揺すっても引っ張ってもびくとも動かなかった。
 それなら仕方ない、と一呼吸置いたヴォイドは拳を握った。
「そいやっ!!」
 渾身の力を込めた見事なアッパーカット。既に劣化していたプラスチックの格子カバーは難なく破れ、ヴォイドの拳サイズの穴が空いた。
「強い」
「これくらいならね」
 何となく得意げなヴォイド。カバーの破れなかった部分はパキパキ指で折っていく。
「次、肩車」
 ミサキに言われるがままヴォイドが肩車をすると、大判ハンカチで顔を覆ったミサキが換気扇の解体を始めた。
「ロックだけの換気扇なら楽だけど……」
 何やらぶつぶつ言いながら手を伸ばすミサキ。
「いける」
 フィルターを外し、隙間をカバーするベルマウスを外し、中のシロッコファンはネジ止めせずスライドロックしてあるだけだったので軽く外す。途中で中の埃やら小さい羽虫の死骸やらが落ちてくるが気にしてはいられない。
「ドライバー……はないか」
「どうしたの?」
「これ以上の解体はドライバーでビスを外さないとできない」
「何もないよね……」
「ない」
 ドライバー代わりになる身近なもの、例えばコインやキーホルダーの縁、ハサミでも代用品になる。だが、今は何もない。
 ボタンを千切れば使えるのでは?とミサキ気付いた時、不意にドアロックが解除される音がした。前日と同じくスプレーを持った手がぬっと突き出てくる。その間にミサキを肩車から下ろしたヴォイドは身構えた。
「何やら妙なことをしているな」
 紙袋男もといセルゲイは昨日と同じモスグリーンの服を着て、ボソボソ話していた。
「まぁいい。おい、そこのチビ」
 ミサキを顎で示すセルゲイ。
「そっちの薄い奴。出て来い」
 何か言おうとしたヴォイドを片手で制したミサキはバスタブから出て大判ハンカチのマスクを外した。
「私が行く。それが最適解。貴女の恩義には報いる」
 ミサキはアンに言われた「恨みは忘れろ、だが恩は忘れるな」の言葉を胸に歩みを進める。
 セルゲイに連れられたミサキはユニットバスから出ていき、鍵のかかった小さな空間にはヴォイドだけが残された。


 セルゲイに腕をむんずと捕まえられたミサキは恐怖を押し殺しながらユニットバスの外へ出て驚いた。そこは廃墟のようなホテルで、まるで在りし日の岸壁街を彷彿とさせるような空間だった。だが、ガラス窓から見える外の景色は寒々しい北の海ではなく、陽の光を浴びた新緑の反射光だった。
「お前はこれを読みあげろ」
 渡されたノートの切れ端のようなメモはナメクジが暴れたようなお世辞にも綺麗とは言い難い文字が書かれていた。それでもミサキにはそれが何となく読めてしまった。同じく字の汚い者同士の勘かもしれない。
「ユウヤミ・リーシェルにかけろ」
 そう言われてミサキが渡されたのはヴォイドの携帯型電子端末だった。
「私のじゃない……」
「さっさとかけろ」
 セルゲイは人の話を全くと言っていい程聞かない。学習したミサキは何も言わずに少し考えながらロック解除の数字を打ち込んだ。ヴォイドなら何の数字をロックに使うだろうかと咄嗟に何通りも考えてその中で一番確率が高いと判断した数字だ。
 果たしてその数字は合っていた。ロック解除された画面の中から電話アプリを立ち上げてユウヤミの電話番号を打ち込む。その短い時間の中でセルゲイから渡された文面で如何に暗号を作るかを超高速で思考を巡らす。
ーーこれならセルゲイにはバレないしユウヤミには伝わる!ーー
 そうして考えついたのが、「吃る場所でアナグラムを作って暗号を伝える」だった。吃っても不自然にならないよう「恐怖心から読み上げ方が辿々しい子供」を演じる事を意味していたが、それくらいの演技ならミサキは自信があった。
「いいか。完璧に読み上げろ。余計な言葉を言うな。質問にも答えるな。終わったら即切れ。出来たら飯をくれてやる」
 セルゲイは何か妙な事を口走るのではないかと既に危惧して条件を提示している。食料と暗号文。天秤に掛けたミサキは暗号文を選択し実行した。
 電話を切った後、間髪入れずセルゲイはミサキの腕を掴んで捻り上げていた。
「完璧に読めって言ったよな。なんだ?あの変な読み方は。おちょくってんのか?」
「読みにくい」
 捻り上げられながらも、絶対零度と称される瞳でセルゲイを睨みつけるミサキ。だが、既にまともな思考を放棄しているセルゲイには何の影響もなかった。
「ざっけんな!チビのくせに生意気なんだよ!」
 セルゲイに力任せに突き飛ばされたミサキは壁に激突した。衝撃で肺が押し潰されそうになって苦しかった。それでもミサキの表情は対して変化しない。
機械人形マス・サーキュみたいな面すんじゃねぇ!」
 人間なんか男なんか大嫌いだ。ミサキがそんな思考に至っているとは知らないセルゲイは紙袋を被ったままゆらゆら揺れる。
「勝手にダクトに登ろうとしたみたいだけどなぁ、あの先には振動を感知する爆弾がわんさと置いてあんだよ」
 けけけ、と笑うセルゲイは倒れているミサキの首根っこを掴んで立ち上がらせると少ない食料を入れたビニール袋と共にユニットバスに放り込んだ。
 ユニットバス内では先にヴォイドが倒れていた。それもその筈で、昨日の夕方から何も口にしておらず、朝食も食べていない。獣の咆哮と聞き間違えそうな勢いで腹の虫が唸りを上げていた。
 戻ってきたミサキと共に飛び込んできた食料の匂いで起き上がるヴォイド。その胸に真っ直ぐ飛び込んだミサキは、食料を放ったらかしにしてぎゅっとヴォイドに抱きつくと、小さな声で「怖かった……」とだけ呟き、カタカタ小刻みに震えていた。そんなミサキをヴォイドはそっと抱き締め返し、落ち着くまでゆっくり小さな背中を摩っていた。
 ミサキが落ち着いてヴォイドから離れた頃に、渡されたビニール袋の中のおにぎりと缶ジュースを二人で分けて食べ始めた。
 もぐもぐ食べながらミサキは、さっきユウヤミに電話した事や渡された文面を使って無事を知らせる暗号を送った事を小声で話した。
「ユウヤミ、どうしてた?」
「いつも通りに軽口叩いてた。でもあれは演技。私が逆の立場でも同じ事をする」
「らしいと言えばらしいよね」
「昨日ボタンを引きちぎって落としといたし、電話が来る前に予測できてた筈」
「そんな事してたの……?」
 驚くヴォイドに頷くミサキ。
「どうせユウヤミなら今頃、実に面白いとか思ってるんでしょ」
「そうかな……まぁ、あるか」
「で、ユウヤミも暗号送ってくれた。『招待状なら貴人と神からの愛を求める文面が必要だ』って言ってた」
 ヴォイドの頭に疑問符が飛んでいるのを見たミサキが解説をする。
「事件の捜査にテオとロードも参加してるって事」
「え!?」
「テオフィルスって名前には『神から愛される』って意味があって、ロードの綴りはLordだから意味は『貴人』。あの2人が噛むなら迎えまでかなり短縮される」
 成る程、と頷くヴォイド。元探偵のユウヤミの他にロードもテオフィルスもいるとなると随分大きな話になっていそうだと俯いた。そこまで来てはたとヴォイドは首を捻った。
「ミサキ、あいつ……ロードと何か絡みあったの?」
「ない。危険なにおいがしたから一方的に調べた」
「調べたの……!?」
「探っても目ぼしい情報が出てこない。重度の遊び人なんてそこまでの情報じゃないし。けど、ある時点から過去がすっぱり切れている」
 おにぎりを缶ジュースで流し込むミサキ。
「推測は出来るけど、これ以上調べるには面白さが足りないから辞めた」
「……賢明だと思う。好奇心は猫をも殺すから」
「そう」
 食べ終わったミサキは缶のタブを捻じ切ってしげしげと見つめた後、口角が少し上がった。
「密室は、破れた」
「ミサキ、何するの?」
遊戯ゲームと同じ事。挑戦されたら勝機を見るまで後には引かない」
 またヴォイドに肩車して貰ったミサキはタブを使って換気扇のネジをどんどん外していく。足元のバスタブの中には落ちたネジと詰まっていた埃が積もっていく。
 しばらくして換気扇はミサキによって綺麗に解体され、排気孔ダクトまで丸見えの状態になった。
「ロザリーみたい……」
「褒め言葉ありがと」
 話し込んでいる二人は、ユニットバス内が音も無く徐々に赤い水で浸食されている事に気付いていなかった。

砂漠頭が早すぎる

 特別捜査班本部テオフィルスの部屋。警察からアクセス権限を貰ったテオフィルスは警察の監視カメラ科学捜査システムを使って前日の録画を見直しながら、誘拐犯の白いライトバンを追いかけていた。
「そこの交差点、右だな」
 インカムでロードに指示を出すテオフィルス。誘拐犯のライトバンが何処をどう通ったのか、実際の現場をロードが移動して確認している最中である。本来は画面上で行えばいい事なのだが、居ても立っても居られないロードを部屋に押し込めておくより何某かをさせておいた方がいいだろうとのユウヤミの判断である。
 テオフィルスの後ろではユウヤミがタブレット端末で動画を眺めていた。片手には大きい耐熱プラスチックコップがある。これだけ見れば休憩中に思えるが、動画の内容はリーシェル探偵事務所の入っている雑居ビルの防犯カメラ映像である。雑居ビルの大家に頼んで送ってもらった動画にはユウヤミの予想通り、逃走して日も浅くないうちに探偵事務所までセルゲイが来ていた。その時点で既に逃走した時の服装とは大幅に変わっている。マスクで顔もろくに映っておらず、何かで負傷したのか歩き方がいつもと違っていた。それでも映像の人物がセルゲイであると確信できるのは、探偵事務所と雑居ビルの周囲を嗅ぎ回るように練り歩いていた唯一の人物だったからである。
「ユウヤミ……その匂いどうにかなんねぇのかよ?」
「何か問題があるかい?」
「いや……甘ったるい匂いが充満してて気が散るんだけど。そういうのが好みなのか?」
 ユウヤミのコップの中身は黒糖牛乳(牛乳に練乳と黒糖を溶かしてホイップクリームを浮かべバニラエッセンスで香り付けをした激甘飲料)である。
「これは譲れなくてねぇ……味は別に好きではないのだけれど、効率よく糖分補給しないと血中糖度が下がって捜査中に睡魔に襲われるのだよねぇ」
 そう言いながら持ち込んだ黒糖菓子をポリポリ齧るユウヤミ。
 女の子ならいざ知らず、成人男性が掃除機の勢いで食べていても全く可愛げがないのでテオフィルスは視界からユウヤミを消した。尚、掃除機という表現はテオフィルスの主観である。
「そこの丁字路左な」
『この道の先は山奥のモンパ村ですよね?』
「あぁ。奥の集落には提携してる監視カメラは無いらしくてデータはここまでだ」
『そうですか。モンパ村の防犯カメラを見せて貰いましょうかねぇ』
「1時間半くらい動画を早回ししてみてくれ給え。車が降りてくると思うよ」
 道を進もうとしたロードは一旦歩みを止め、その間にテオフィルスが映像を確認する。
「マジだ。その後は……レンタカーだったのか。ナンバーのカバーも外して返しに行ってんな。これは……ジャーニー・レンタカーって店か」
「じゃ、マーシュ君。その店に地取りしといて」
『地取り……聞き込みですね?確認してきます』
 ロードがインカムの通信を切ると、山奥の集落のストリートビューを見ていたユウヤミがポツリと呟いた。
「昔のリゾート地なのだよねぇ……モンパ村。古い民家、廃業してそのままの店。廃れた宿も多い。住民の殆どが老人で数十年後に廃村になってもおかしくない。潜伏するには持って来いな場所なのだよ」
「モンパ村の写真を見る限り、昔は賑わってたような感じもあるが……想像つかねぇなぁ」
 電子世界で探してきたモンパ村内の写真を見たり、ストリートビューを確認しながらぼやくテオフィルス。
「その村は以前から消滅危機のある村と言われていてね、起死回生の一手で温泉を掘り当てて一躍有名になった村だったのだよ。だけれども、大陸戦争が始まったのと同じくらいの時に汲み上げるパイプの目詰まりで湯枯れが起きて翌年に湯治場は閉鎖。元々超高齢化していたモンパ村は他の目玉になる観光資源もないまま廃れてしまった……」
 軽く天井を仰いだユウヤミは頬杖をつく。
「お礼参りなら直接来ればいいのに回りくどい事をするものだねぇ……そう言えばソーニャも回りくどかったけねぇ」
「なぁ、ユウヤミ」
「どうしたんだい?メドラー君」
 少し迷って視線を下げたテオフィルスだが、意を決してユウヤミに浮かんだ疑問をぶつけた。
「ソーニャちゃんとセルゲイって一体何者なんだ?生き人形事件を読んでもエンバーマーと電気工事屋でなんか頭のヤバい奴ってイメージしかねぇんだけど」
「その認識で合っているよ。正確なところは私も憶測の域を出ないし。二人とも同情の余地のある生い立ちで精神疾患を抱えていた事は確かだけれど、それは被害者にとって免罪符にならないからねぇ」
 まるで被害者に自分が含まれていないかのような、何処か他人事のように話すユウヤミにテオフィルスは違和感を覚えた。だが何か言うわけでもなく、押し黙ってユウヤミを見た。
「書いてあったと思うけれど、セルゲイは既に懲役30年が確定しているのだよ。遺族は極刑を求刑していたのだけれど、ソーニャに操られていた事と精神疾患を理由に無期懲役にもならなかったのだよねぇ」
 虚空を見つめるユウヤミには何が見えているのか、黒の瞳は1ミリも揺らがなかった。
「ソーニャは……二度と会いたくない、とだけ言っておくよ。正規のエンバーマーになるには高度な教養が必要だし、狂気の中での綿密な計画……勿体無いほど随分優秀な女性であった事は確かだけれどね」
 大抵の事は面白がるように話すユウヤミらしからぬ、無感情な口調だった。無意識なのか右鎖骨を摩っている。
「マーシュ君が荒れないよう黙っていたのだけれど……セルゲイが指定した今日の16時27分はソーニャが亡くなった日時なのだよ」
 その言葉にテオフィルスの脳裏に嫌な予感が走った。
「敢えてセルゲイがその時間を指定しているって事は……時間に間に合うかどうか関係なくヴォイドもミサキちゃんも殺す気だって事かよ!?」
「予測が外れて欲しいものだよ」
 思わず叫ぶテオフィルスに寂しそうな笑みを返すユウヤミ。
「いつから気付いていたんだ……?」
「行方不明事件の情報を読んだ時点で怪しんだね。確信に変わったのは防犯カメラにセルゲイが映っていた時だよ」
 唖然とするテオフィルス。
「さてと。我々も動こうか」
「そうですね、主人マキール
「お、お前ら……何処行くんだ?」
「何、レツ……じゃない共犯者の話を聞いてみようかと思ってねぇ」
 一気に黒糖牛乳を飲み切ったユウヤミはヨダカを伴ってロードの行った先を追いに行った。

『ジャーニー・レンタカーで確認したところ、借主はヒン・ヌゥと言う男性ですねぇ』
「ふぅん……知ってる範囲にはいないねぇ。警察に身元照会してもらうよ」
 グレーのキャスケットを被るヨダカが運転するワンボックスカー。それに揺られているユウヤミの元にロードからジャーニー・レンタカーでの地取りもとい聞き込みの結果が報告された。ミフロイドへ照会依頼を送ると1分しないうちに情報が転送される。
「ふむ……前歴は2年前の窃盗が一件か。執行猶予をフル活用してからムショ入り、と」
 因みに現在ヨダカが運転しているワンボックスカーは結社の社用車である。拾ったボタンを警察の科学捜査研究所に預けた後、ジャーニー・レンタカーへ向かっていた。
「ヒン・ヌゥの情報はオンラインホワイトボードに掲載したから各々見てくれ給え。メドラー君、今現在ヌゥ氏が何処にいるか探してくれないかい?」
 おー……と生返事をしながらテオフィルスは監視カメラ科学捜査システムを駆使し、数分経たずヒンを見つけ出した。
『ヒン見つけたぞ、ダンプリング坂公園のベンチに座ってんな』
「なぁるほど?マーシュ君」
『それなら一番近いのは私ですね。お話を伺ってみますよ』
 ユウヤミの声をみなまで聞かず、ロードが動き出す。
「くれぐれもゴリ押しのゴリさんにならないようにね。警察の委託なのだからね?」
『うふふ……わかってますよ』
 ダンプリング坂公園に一人で向かったロードはテオフィルスの言う場所で池の前でベンチに座るヒンを見つけ、インカムを外して近寄る。
「すみません、お隣りよろしいですか?」
「あ、どーぞ……」
「ありがとうございます。今日はいい天気ですねぇ……昨日までのグズついた天気とは大違いで」
「そ、そーっすね……」
「こちらの公園には良く来られるので?」
「あぁ、まぁ……あの、アンタは?こんな時間にスーツっすか?」
「仕事で外回り中なんですよ。休憩がてらこちらの公園に立ち寄ったところです」
「そうっすか……お疲れ様っす」
「ありがとうございます。どうもお疲れのようですね?顔色が優れないようですが?」
「アレっす。色々、仕事であったんすよ」
 力なく笑うヒン。
「心中お察しします。仕事の疲れは大変ですよね。差し支えなければどんなお仕事をされていらっしゃるのか教えて頂けませんか?」
「俺、フリーターなんす。色々渡り歩いてんすよ。リーマンのアンタからしたら随分下の仕事っすけど」
「いえいえ、沢山の職種を渡り歩くのも器用でなければ難しいでしょう?素晴らしい事ですよ」
「そ、そーっすかね?」
「そうですよ。アブナイ仕事をする事もあったのでしょう?」
 ロードの言葉に乗せられてニヤニヤしながら鼻の下を擦っていたヒンは一気に血の気が引いて表情が固まった。
「おやぁ……?どうされたんです?まるで何かの片棒を担がされたかのような慌て方をされますねぇ?」
「し、知らねぇよ」
 途端に目を泳がせ始めるヒン。足先が外側に向き、一刻も早くこの場から逃げたがっていることが全身の動きから読み取れる。
「何を知らないと?」
「あ、用事を思い出したんで失礼しゃっす」
「あぁ、お待ち下さい。忘れ物がありますよ」
「え?」
 立ち上がりかけたヒンに携帯型端末に白いライトバンの画像を表示させて見せるロード。
「ひっ!?」
 目を細めて写真を見たヒンが脱兎の如く走り出す。追いかけてすぐさま前に回り込んだロードはヒンの顔を覗き込んだ。
「此方の車に見覚えがあるようですねぇ?」
「知らない、俺は何も知らない」
 笑みを貼り付けたロードにヒンが食ってかかる。
「知らねぇってんだろ!?」
 半狂乱になって叫ぶヒンに対してロードの笑みが深くなる。
「うふふ……『3つのF』ですねぇ」
「な、なんだよ!?」
「危険を察知した動物が本能的に取る行動段階の事です。freeze、flight、fight。貴方は見事に全部やってくれましたねぇ?」
 ヒンは「アブナイ仕事」と言われてfreezeし、「何かの片棒を担がされた」と言われて場を離れようとflightし、行手を阻まれた時にfightしている。
「さて、何を隠していらっしゃるので?」
 ヒンは喉元に見えない刃を突きつけられたような恐怖で立ちすくんだ。それをかき消したのは別の方向からやってきた凛とした静かな声だった。
「そこまでにし給え、マーシュ君」
「リーシェルさん」
「彼が萎縮してしまっているだろう?」
 ユウヤミに何か答えようとしたロードだったが、結局何も言わずに一歩下がった。
「いやぁ、すまないねぇ。彼はちょっとばかし血の気が多くて急ぎ過ぎるところがあってね。我々も時間が無いものだから」
 人の良さそうな笑みを浮かべてヒンに近づくユウヤミ。
「でも、今のはやり過ぎだよねぇ。あんな脅すみたいにされたら世間話だって話せなくなるよねぇ」
「で、誰なんだよアンタら」
 もう騙されないぞ、と目力を込めるヒンに軽くユウヤミが答える。
「しがない探偵屋でね。行方不明者の捜索を依頼されているのだよ。君にはほんの少し人助けを頼めないかと思っててね」
「人助け?」
 風向きが変わったと思ったヒンが眉間の皺を緩める。
「そう、人助け。続きは座って話そうじゃないか」
 ユウヤミに促されたヒンは大人しくベンチに座り直す。
「それで、これなのだけれどね?」
 白いライトバンの写真をヒンに見せるユウヤミ。サッとヒンの表情が陰るが計算通りである。
「何も君を警察に突き出そうなんて考えてはいないよ。君の知っている事を教えて欲しい、ただそれだけだよ」
「知ってる事なんて……なんも……」
「不安なら知り合いの弁護士を紹介してあげるよ。騙されたのなら刑は軽くしてもらえる筈だからね」
 穏和な笑みを浮かべてヒンと目を合わせるユウヤミ。漂っていたヒンの視線が落ち着いて上がっていた肩が下がって行く。
「俺はっ……!確かに雇われてバンを運転した!けどそれだけっすよ!あんな拉致の仕方するなんて知らなかったし、ただのイベントスタッフだと思って引き受けたんすから!」
「成る程、それは災難だったねぇ……それで?君は何処まで運転したのかな?」
 ユウヤミの隣りでヨダカが集落周辺の紙の地図を持ち出して目の前に広げる。
「いや、その……口止めされてんすよ、俺……言ったら……」
 頭を抱えて追い詰められたように狼狽するヒン。濁す言葉尻をユウヤミが継いだ。
「『言ったらお前の両親を爆死させる』。違うかい?」
「な、んで……?」
 見開いた目をユウヤミに向けるヒンだが、目の前には意味深に微笑むユウヤミしかいない。
「心配には及ばない。既に調査済みだよ。君の関係者の家に爆発物は取り付けられていない」
 縋るような呆然とした表情でヒンはユウヤミを見る。
「君は、私が指さす先を見て『いいえ』と答えればいい。それだけだよ。不安になる事はない。わかるね?」
「そんな……」
 尚も不安そうにあたふたするヒンに優しく声を掛けるユウヤミ。
「大丈夫。君には聞いていない。君の大脳辺縁系に聞いているのだよ」
「だいの……?」
 ヒンに静かに穏やかに微笑むユウヤミ。夏の夜に吹く熱気を消し去る湿気を孕んだ風のような微笑みである。いつもの無のような微笑みではなく、見る者を籠絡させるような妖しさを含む笑みを見せられたヒンはドギマギしながら頷いた。
「は、い……」
「それじゃぁ、バンを何処まで運転したのか教えてくれるかい?」
 モンパ村とその周辺の地図を地区ごとに指差していくユウヤミ。ヒンの答えは全て「いいえ」一択だが、目の微かな動きや自然に見える動作の中の不自然な動作を読み取るユウヤミには話しているのと同じくらいの情報量があった。やがて、ユウヤミの口元は満足気に弧を描いた。
「ふふ、ご協力感謝するよ」
 ユウヤミが最後に指差していたのはモンパ村内北側の地区だった。枯れた湯治場の一歩手前の地区である。
「こ、これで良いんっすか?」
「勿論」
 確信を込めて頷くユウヤミにホッと目から力を抜くヒン。
「あぁそうだ。君、何度も目を細めていたようだけれど、今度からちゃんと日曜日に眼鏡をかけておくのだよ?」
 一瞬驚いてキョトンとしたヒンは直ぐに破顔した。
「あざっす、そうしゃっす」
 一つ咳払いをしたヒンは目の前にいるユウヤミを真っ直ぐに見た。
「やっぱり、俺やっちまった事警察に言おうと思うんす」
「そうかい。賢明な選択だと思うよ。知り合いの刑事さんに話を通してあげるからね。きっと君にも良くしてくれる」
「あざっす」
 いつもの無のような微笑みを張り付けたユウヤミはミフロイドに一言二言電話で伝える。そちらの通話を切ると今度はインカムでテオフィルスに話しかけた。
「メドラー君、モンパ村内北側地区の廃業した宿泊施設を全てリストアップしてくれるかい?」
『はいよ。本当に人使い荒いな……第六の連中には同情するぜ』
「第六の彼らは仕事好きだから喜んでこなすけれど?」
『うわー……』
 テオフィルスの脳内ではウルリッカがユウヤミに嬉しそうな熱い視線を送っていた。
 多分あれ、仕事じゃなくてユウヤミの事が好きなんだろ?なんか隊長さんに勘違いされてんじゃねぇかウルちゃん。
 事情を知らないテオフィルスはそんなにユウヤミって鈍いのか?いやそんな事ないよな?と地味に迷宮入りしそうになっていた。
 やってきたミフロイドの部下である警官にヒンを引き渡してワンボックスカーに向かうユウヤミとヨダカ。その後ろをロードが追いかける。
「リーシェルさん、私をダシにしましたね?」
「あ、怒ってる?典型的な怖ぁい刑事と優しぃ刑事の尋問方法で単純なヌゥ氏なら歌うと踏んだだけなのだけれど?」
「別に怒ってませんよ。そうだろうと思っていましたし。それに、リーシェルさんのアノ表情はそう見られるものではありませんからねぇ。不幸中の幸いでご馳走様です」
「うわぁ、相変わらず。ホロウ君とケルンティア君が懸かっていなければ野郎相手にあんな演技つけるなんて愚劣の極みな事したくないのだけれどね」
「うふふ……そこまで含めて好きなんですよねぇ」
「何度でも謹んで御辞退申し上げるよ」
 話すのも面倒臭いとでも付け加えそうな怠さで答えるユウヤミ。
「あんまりこれやりたくなくてねぇ……偶に勘違いして暴走する人間がいるからねぇ」
「もしかして、それがソーニャ・アドレルだったんです?」
「そうだよ。仕事上の事務的なやり取りしかしてないのにねぇ……犯罪心理学者としては実に興味深い事件だったのだけれど」
 また無意識に右鎖骨を摩るユウヤミ。ロードは恋に時間は要らないと言おうとした口を閉じる事にした。
「ところで主人マキール
 横から不意にヨダカがユウヤミに話しかけた。
「古傷が痛むならカイロをお使いになられますか?」
「あれ?そう見えたのかい?」
「今朝方より何度も首回りを摩っていますので」
「カイロねぇ……今は必要ないよ」
 一般的に首回りを摩る動作は不安や緊張を表す。それでロードはソーニャの話を深掘りしない方がいいと判断したのだが、ユウヤミの場合はもう一つ理由があった。生き人形事件で拉致監禁された時、エンバーミング用の薬剤は右鎖骨付近から注入されている。当時の傷口は完全に治っており天気で痛む事もないのだが、生き人形事件に纏わる事を思い出すと無意識に庇ってしまう癖があった。
「承知致しました。それから、爆発物がセルゲイの虚言・・・・・・・・・・・である事の根拠はどちらにあるのでしょうか」
「情報の通り、ヒンは2年前に窃盗で逮捕されていてねぇ。刑期を終えて出てきたばかりだと、5ヶ月前に逃走したセルゲイに身辺調査は出来ないだろう?」
「聞くまでもありませんでしたね、失礼しました。仕事嫌いな貴方が珍しく覇気に満ち満ちている時に失言でした」
「私はいつだって仕事熱心だよ?きちんとデータに書き加えておき給え」
「はい、アップデートしました、と私が言えるように継続して下さい。主人マキール
 自己所有の機械人形マス・サーキュのはずのヨダカに辛口批評を突きつけられているユウヤミを見ていたロードは「マゾですかねぇ……」とうっかり声に出して呟いていた。
「身近に甘い事ばかり言う人を配置するのは愚者のする事です」
 振り返るヨダカの金銀の人工眼が滑らかに動く。
「あれ、聴こえてましたか?」
「甘言耳に快く、諫言耳に痛し。諫言の士は道を違えぬ為に必要なのですよ」
 自らを諫言の士と呼び、薄紫の髪を揺らしキャスケットを深く被り直すヨダカ。
「諌めを進むる者は、すべからく虚懐なるべし。探偵の相棒ならばそう在りたいものです」
 虚心坦懐というより慇懃無礼の間違いではなかろうかと指摘する人はその場にいなかった。

***

「いいのですか?ガニマール警部。情報だけ受け取って脱走犯の捜査も拉致事件の捜査もするなとは……!」
 マルフィ結社特別捜査班一行がヒンを見つけた頃。警察の会議室で、一人の刑事がミフロイドに噛み付いていた。
「そうですよ、アレがやってる事なんですよ!?警察の威信の関わる事に、我々が動かずしてどうするんですか!?」
 隣にいる刑事も吠えるが、ミフロイドは眉一つ動かさない。
「構わない。ラウールは確かにいけすかない奴だが、捜査の腕も、事件に対する真面目な向き合い方も上に評価されている。どうしようも無い奴なら今頃ムショ暮らしか精神病棟送りのはずだろ」
「ま、まぁ確かに……」
「ラウールを信じろとは言わん。だが、奴を信じる俺を信じてくれ」
「警部の事は勿論信頼しております。ですが、今回の脱走犯はアレと関わりが深すぎます。アレが暴走する状況は揃っていると言っても過言ではないと思います」
「まだ理解していないようだな?」
 不安そうな刑事二人を睨めつけるミフロイド。
「ラウールは人の形をした化け物だ。人間の感性で測ろうとする時点で既に間違っている」
 冷ややかなミフロイドの言葉に刑事二人はゴクリと唾を飲み込んだ。
「奴からしてみれば、ソーニャは兎も角セルゲイはどうでもいい人物だ。研究対象になっていない上に注意すべき相手とも認識していない」
「殺されかけたのに、ですか」
「そうだ。ラウールの思考に善も悪も生も死も大差無いからな」
 納得いかない刑事二人は戸惑った表情でミフロイドを見る。
「三下のセルゲイ如きでラウールは利用価値のある生きた道具の立場は捨てんよ」
 ミフロイドの瞳には信頼とも呆れとも言えない奇妙な光が浮かんでいた。
「面倒な事を嫌うあの頭脳でセルゲイの動きを読み切って今日中に片付けてくるだろよ。それに、今回拉致されている人物も捜査に加わっている人物もラウールが高評価していた者達だ。滅多な事はそう起こらない」
「そんなものなのでしょうか……」
「俺たちはラウールからの連絡で現場に急行し、セルゲイを捕獲する。それだけだ」
 揺るがぬミフロイドの姿勢に二人の刑事も背筋を伸ばす。
「周囲を危険に晒す行動があれば監視者たるヨダカが実力行使で止める。喪うには惜しい頭脳だがな」
 不意にミフロイドの携帯型端末に着信が入り、二言三言話すと彼の目に強い光が宿った。
「ラウールから連絡があった。共犯者を落としたから迎えが欲しいそうだ。行ってくれるな?」
「「了解です!」」
 ピシリと敬礼を返した刑事二人は「あの時のような取りこぼしをするなよ、ラウール」と口の中でミフロイドが呟いた声に気が付かなかった。



山麓にほえろ!

 ヒンから得た情報を基に早速モンパ村北部の地域へ向かう。ヨダカが運転するワンボックスカーのトランクには様々なサイズのタオルと毛布が積まれていた。途中でホームセンターに寄るよう指示したユウヤミがロードと手分けして買い込んだ物である。
 他にロープやビニール紐やエマージェンシーシートにウェットティッシュにカイロなど、サバイバルにでも行きそうなグッズが勢揃いした頑丈そうな箱も置いてある。これはユウヤミの私物であり、外に捜査しに行くときは必ず積んでいる箱である。
「用意周到ですよねぇ……タオルに毛布に何に使うのだか」
「使わずに済めば良いのだけれどね」
 テオフィルスがリストアップしてオンラインホワイトボードに共有した廃業宿泊施設一覧を読みながらユウヤミが答える。
『なんか出発まで時間かかってんなーって思ったらそれだったのか』
 インカムから流れてくるテオフィルスの声に合わせてシガーソケットに繋がった小型マルチコプターがゆらゆら動く。車に機材を持ち込んで一緒に行動できないテオフィルスの代わりにマルチコプターが目になっているのである。ちなみに、隣のドリンクホルダーにはスティックシュガーが数本差し込まれている。
『航空写真で取り壊されてるのが確認できたところは省いてんぞ』
「流石メドラー君だねぇ……」
 丁寧にも航空写真までついてきている。水タンクが錆びつきながら未だに取り外されていない屋上と撤去された屋上の様子を見ながらこめかみを軽く叩いていると、端末にミフロイドからのメールが二件入った。さっとメールに目を通したユウヤミは目を三日月型に細めて不敵な笑みを浮かべた。
「なぁるほど、ねぇ……謎は解けたよ、トカレフ君」
 よくもまぁ、やってくれたものだ。脳内で呟いたユウヤミは一つ息を吸う。
「メドラー君、ホテル・モルガンテの間取り図を頼めるかい?それとナビのデータ転送も。ヨダカの地図にはそんな昔の建物の情報は入っていないからねぇ」
『よし来た』
 短く答えたテオフィルスは早速ナビデータ作りを始める。常日頃ミサキの無茶振りを聞いているテオフィルスは、疑問を挟まずに言われた事をしなければいけないタイミングを知っていた。
 ユウヤミの挙動に気づいたロードが後部座席から声を掛ける。
「何か新しい情報でも?」
「警察からね、科捜研に提出したボタンの解析結果が送られてきたのだよ」
 確定した犯人が気になり、少し身を乗り出すロード。
「ボタンからセルゲイの指紋とケルンティア君の指紋が検出されたから、犯人が本物のセルゲイだと確定したよ」
 ぐっと拳を握るロードをマルチコプターが心配そうに見た。
「それから……ここ5ヶ月以内に発生した未解決殺人事件の情報が入ったのだよ」
 助手席に座りながらも助手らしい事を一切せず、端末をスクロールして情報を読むユウヤミ。
「一覧の中でめぼしい物と言えば……2ヶ月前の奇妙な青鬼の女性の事件かな」
「2ヶ月前と言えば2月ですか……その水死体が今回の拉致事件に何か関わりがあるんですね?」
「大有りなのだよ。二件あるうち一件は水気のない山奥にビニールに包まれて放置されていてね、その場所がモンパ村の隣にあるルナス村の山だったのだよ。もう一件は河口付近でズタボロ状態で発見されていてね、上流のダンプリング坂公園あたりから流して河口まで行ったのだろうと思う。司法解剖の結果で死因は溺死なのだけれど、二件とも胃の中から多量の赤錆が検出されたのだよねぇ……」
「ダンプリング坂公園って、さっき尋問した公園ですよねぇ……?しかも、モンパ村よりルナス村から公園までの方が近い……溺死で多量の赤錆……同一犯で、その犯人もセルゲイだとリーシェルさんは考えていらっしゃるので?」
 ロードの問いに何も答えず、ユウヤミは事実だけを並べていく。
「ルナス村の山中で発見された遺体は頭の天辺から足の先まで真水でずぶ濡れで、爪の中まで赤錆が入り込んでいた。河口の水死体は随分流れ落ちていたものの、やはり奥まで赤錆が入り込んでいた。それにテープで後ろ手に拘束された痕跡があったようでね、事故で溺れた訳ではないらしいのだよ」
 携帯型電子端末に周辺地図を表示させながらロードはユウヤミの次の言葉を待つ。
「被害にあった女性二人は仲のいい文学科の大学生で、主に東國の推理小説の愛好家だったそうだ。そして、山奥で発見された女性は癖っ毛の黒髪で苗字はリーシェルだった」
「容姿と苗字で狙われたと……?リーシェル姓はかなり一般的ですよねぇ?流石にこじつけが過ぎませんか?」
「その二人もインディゴに行った後から行方がわからなくなっているとしたらどうだい?」
「まさか……」
 ロードの脳裏にインディゴ店主の禿げ上がった眩しい頭と頑固そうな表情が浮かんだ。共犯か利用されただけかの判断はつかないが、無関係でない事は確かである。
 進行方向を見据えるユウヤミの全てを見透かすような瞳は揺らがなかった。
「ヒントは雨水タンク」
 廃業宿泊施設一覧を読んでいたロードの瞳に納得の色と押さえつけていた怒りの光が浮かぶ。
「だからホテル・モルガンテが現場……成る程?許すわけにいきませんねぇ……!」
 再び熱を帯び始めたロードの口調に対し、『300m先、左方向です』とナビが言う声がやけに冷たく車内に響いた。

 長い崖沿いの道路を通過すると、ようやくモンパ村の入り口が見えてくる。古びた看板には「ようこそ富毛の湯の里モンパ村へ」「湯治場この先5km」と書いてあった。
『色褪せてんなー……』
 思わず呟いたテオフィルスは「富毛の湯」の看板を二度見していた。以前誰かに砂漠頭と言われたからかもしれない。
「以前来た時よりずっと廃れてしまったものだねぇ」
「おや?モンパ村に来た事がおありですか?」
「18年くらい前かな。子供だけでね」
 それ以上は口を噤むユウヤミ。忙しい親の目を盗んで妹の手を引き、ホテル・モルガンテに宿泊というか缶詰めになっていた祖母に会いに行った事があったのだが、話すほどの事でもない。
 実を言うと、モンパ村もホテル・モルガンテもユウヤミにとっては因縁深い土地である。幼い頃にそうやって訪れた事の他に血の絵画事件の模倣犯がこの村に現れた事もある。セルゲイは偶然にしてこの場所を選んだのだろうが、運命の悪戯とでも表現したくなる巡り合わせを感じずにはいられなかった。
 曲がりくねった道の先に現れたメインストリートは必要最低限の店だけ営業しており、他はシャッターが閉まっていたり、割れた窓ガラスの中で色褪せた準備中の札が留守番していたりと夢の痕跡だけが残っていた。
 旧湯治場に続く北側の道をワンボックスカーは道なりに進む。
 細い路地に廃れた色町の看板が並んでいるのが見えたロードはふと視線を漂わせる。昔は相当賑わっていたのであろう場所も、日中の白い光の中で色が抜けて存在すらも消えかけていた。自然に飲み込まれている様はまるで街の角から“黒髪少女”が出てきそうな、虚構と現実が交錯するような非現実の空気を纏った場所だった。廃墟ホテルを基に広がった岸壁街には場末で行き止まりなりの活気があったが、モンパ村の廃墟群は白化した珊瑚礁のような静謐な場所だった。
『ホテル・モルガンテの図面見つけてきたぞ。ボードに貼っておくから参照してくれ』
「速いね、メドラー君。助かるよ』
 マルチコプターに向かって貼り付けた笑顔を見せるユウヤミ。マルチコプターのテオフィルスはカメラを進行方向に向けて見なかった事にする。
「図面通りにいかないのが廃墟なのだよねぇ……」
 指先でこめかみをトントン叩くユウヤミ。
主人マキール。ナビの経路が倒木によって通行不能です」
「そりゃ大変だねぇ……」
 前方を見ると昨日まで降り続いた雨の所為なのか、立派な木が根から抜けて倒れていた。
「脇道になる山中の道は備え付けのナビにも私の地図にも登録されていません。如何致しましょうか」
「ヨダカ、少し待っていてくれないかい?」
「何方へ?」
 悪戯っ子の笑みを浮かべたユウヤミは助手席をするりと降りる。
「住民に道を聞きに行くのでしょうかね?」
「うちの主人マキールに限ってそんな真っ当な事はしませんよ。常に最悪の事態を想定して下さい。その斜め上を行くのがユウヤミ・リーシェルですから」
『凄ぇ言いようじゃねぇか』
 ヨダカのキツい物言いに少しユウヤミに同情するテオフィルス。
 鍬を担いで道を歩いていた老女二人組と何か話しているユウヤミの背中だけが車内から見える。最後に老女達が妙に頬を染めると、ユウヤミは涼しい顔でワンボックスカーに戻ってきた。
「そこの脇道を行くと途中で二つに道が分かれる。立て看板には片方に『出口』もう片方に『地球の裏側』と書いてあるから、『地球の裏側』の方向に行くとモルガンテがあると教えてくれたよ」
「脇道というより獣道ですね」
 ヨダカの見る先には申し訳程度に車の轍がついていたが、伸び始めた草木に埋もれかけていた。ヨダカは遠慮なくその獣道に車で突っ込んでいく。
『気になるんだけど、「出口」に行ったらどうなるんだ?』
「御婦人の話によれば大蛇に溶かされるらしいね。いやぁ怖いねぇ」
『大蛇?ファンタジーな言い伝えの類いだよな?』
「周辺地図を見て下さい、メドラーさん。ここの山には強酸性の死の池、大蛇池がありますよ」
 ロードに言われて周辺地図を確認したテオフィルスは納得したと同時に微妙な表情をしていたが、様子を見られない二人と一体は何も知らなかった。
「それにしてもリーシェルさん……あちらの御婦人方がやたらと熱い視線を送っているように見えたのですが。一体何をされたんです?」
「え?ただ労ってこれからも健やかにお過ごし下さいと言っただけなのだけれど?」
 あっけらかんと答えるユウヤミだが、さっきの老女達の反応は只事では無い。
「村外の人に久しぶりに会った衝撃で不整脈でも出たのかもしれないねぇ。それなら悪い事したねぇ。謝らないとだ」
 大袈裟に表情を作る様子を見たテオフィルスが『役者に転職すればいいじゃねぇか』と言った事はユウヤミに黙殺された。
「そうだ、さっきの方々が言うには業者が昨日モルガンテに出入りしていたらしいよ。正確な時間は不明だけれど、日が傾いた頃合いだったと言っていたのだよ。丁度、例の白いライトバンが来た頃になるのではないかな?」
「うふふ……現場はモルガンテで確実ですねぇ」
 ロードの口元が不自然に弧を描く。目が笑っておらず口元だけ不自然に歪めた不完全な笑顔は窓ガラスに映り込み、山の景色に溶けていた。

***

 ホテル・モルガンテの屋上から様子を双眼鏡で確認していた人影が愉快そうに鼻歌を歌う。童謡の「しずかなよるに」を歌っている人影は住民のものではないワンボックスカーが倒木で通行止めになった道から獣道に突入したところを見たばかりだった。
 そして、雨水貯水タンクの蛇口を全開にした。

***

 エンジンが唸りを上げながら整備されていない山道を登っていく。二つに分かれる道を立て看板の通りに「地球の裏側」へ行った先には廃墟になった喫茶店があった。消えかけた看板には「地球の裏側」と書いてある。木々の隙間からホテル・モルガンテが見えたところで一旦ワンボックスカーは停車した。
「うわ、これじゃぁモルガンテより遺体安置所ル・モルグの方が似合いそうな風貌だねぇ」
 軽口を叩くユウヤミに「物騒な事を言わないでください」とツッコミを入れながら、ヨダカはマルチコプターとシガーソケットを繋ぐ充電コードを引き抜いた。
「充電で動ける時間は約30分です。それまでに戻ってきて下さい」
『了解。偵察に行ってくる』
 ヨダカの手からテオフィルスのマルチコプターが空高く登っていき、偵察を開始する。マルチコプターは音は出るが本体のサイズが小さい。人が動き回るよりも効率よく周囲の情報収集が出来るので、最初からテオフィルスの偵察役は決まっていた。
 木々の隙間を縫って上空でホバリング。獣道はホテルの裏手である北側に続いていたので、必然的に北側の偵察から始める。
ーー昔、ヴォイドが俺の世界から居なくなった時は俺はヴォイドにとってその程度の存在で扱いだったのだと結論した。そして思いに蓋をした。だが、今回は違う。ヴォイドが行方不明になった理由がはっきりわかっている。後は巫山戯たセルゲイとか言う野郎をぶっ潰すだけーー
 マルチコプターをぐるりと一回転させて周囲の様子を伺いつつ、現場の実況中継をしながらテオフィルスはホテルに近づく。
 北側に見える非常階段は日が当たらない所為なのかジメジメしており、鉄の階段は腐食が酷かった。非常口の扉はしっかり閉まっていない箇所もあり、そこから中に侵入できそうだった。
 図面通りならもう一つの非常階段がある東側へ回り込む。途中、今日の青空がカメラの視界にうつりこんだ。
ーー透けるような青空はミサキの薄い水色の瞳によく似ている。ミサキの瞳を思い出すと、瓦礫の下に片足と共に置いてきたナンネルもチラつく。今度は、救いたい。機械人形マス・サーキュか人間かの違いはあっても、これ以上大事な存在を喪うのは御免だーー
 強い願いを抱えて東側の非常階段を見て回るテオフィルス。乾燥しているからか腐食も北側ほどではなかったが、非常口の扉は全部セメントで塗り固められていた。
 此処まで、人影の見えた窓はない。見ていない場所にいるのか、そもそもこの場所自体間違いだったらどうしようかと脳内が不安に侵食されていく。頭を振って想像を散らし、テオフィルスはマルチコプターを操作する手に力を込めた。
 南側に回り込むと、駐車場に見知らぬ貨物乗用車が一台停まっていた。早る気持ちを抑えつつロビーの割れたガラス窓から建物内部へ侵入する。
 1階から4階までロビーは吹き抜けになっている。ロビーには残留物なのか不法投棄されたのか雑多な電化製品や家具が積み上げられていた。老朽化しているのか鉄筋コンクリート製の壁に亀裂が入っていたり、崩れている場所もある。何処を見ても矢張り、人影はない。セルゲイも居なければヴォイドもミサキも居ない。8角形になっていないめちゃくちゃな蜘蛛の巣の下を潜り抜けて客室の廊下をマルチコプターで覗き込むが矢張り誰もいない。床のカーペットは水を含んで捲れ上がっていた。
 内部の探索を一旦切り上げたテオフィルスは破れた窓ガラスから外へ出ると、屋上が見える位置まで上昇する。
 そこには、雨水を溜める貯水タンクの隣りにモスグリーンの上着を着た人物がポケットに手を突っ込んだまま立っていた。
『セルゲイ……!?』
 マルチコプターの羽の音が聞こえたのか振り返る人影。顔はフードの影で見えず、口元もマスクで隠れている。ユウヤミの語ったセルゲイのプロファイリングに比べて小柄な様に見えたが、テオフィルスの考えかけた事はユウヤミの声で遮断された。
「メドラー君、右へ!」
『おわっ!?』
 慌ててマルチコプターを右へ下降させるテオフィルス。ピントを合わせ直すと、人影は輪ゴムを指に引っかけて小石をパチンコの要領でマルチコプターに飛ばしていた。小石は当たりはしないが直ぐ近くを通過していく。
「撤退だね。人影に見えないようにしながら車へ戻ってくれ給え」
『了解』
 テオフィルスはユウヤミの指示に大人しく従い、ワンボックスカーに戻る方に舵を切った。
ーー俺一人だったら……見つけられたかと言うと自信がない。たとえ技術があっても、片足の俺だけならどうにもならなかった。だから、このメンバーで動けたのは正解だったーー
 ワンボックスカーは裏口の北側から正門のある南の駐車場に移動していた。
「マーシュ君、セルゲイの確保を頼めるかい?私は二人を迎えに行ってくるから」
 箱を漁りながらロードに言うユウヤミ。
「こう云う屋内での戦闘は得意なのだろう?」
「うふふ……知っている程度です。買い被りすぎですよ」
 車内で伸びをして準備を始めるロードの話を聞かず、ユウヤミは言葉を続ける。
「警察との約束でね。セルゲイを最小限の怪我だけで捕獲しなくてはいけないのだよ。過剰防衛だと警察に判定されたら結社の立場も悪くなるからねぇ」
 ヤダヤダと言いながら、箱から畳んだエマージェンシーシートを取り出すユウヤミは1枚をロードに渡す。
「私だと退治は出来ても捕獲は出来そうにないのだよ。セルゲイ自身、私を見たら見境無く攻撃してしまうだろうからねぇ」
 もう1枚のエマージェンシーシートをポケットに入れるユウヤミの肩をヨダカが叩く。
主人マキール。幾ら何でも前線駆除班にいるわけでもない一般人に任せるのは如何なものかと」
「初歩だよ、ヨダカ。この間汚染された機械人形マス・サーキュに対して囮になった挙句一人で殆ど機能停止に追い込んだのは誰だっけ?」
「まぁ……あれは私に多少の心得があった事と、偶然・・が重なっただけですよ。実際大怪我しましたし?」
 横からしゃあしゃあと答えるロード。それを聞いたヨダカのユウヤミを見る視線が強くなる。仕方ないのでユウヤミは超小声でヨダカに耳打ちする。
「あれはただの格闘家の動きではないよ。想定外が起きる本当の戦場を知らないと咄嗟には出来ない事」
 わずかに目を見開くヨダカ。
「はい、そこまで。過去に何があったにしろ、今問題にすべき事ではないだろう?」
「うふふ……そんなに褒めないで下さいよ」
 タオルの山の中からガーゼ生地のフェイスタオルを持ち上げる地獄耳なロードがまたもや横から口を出す。
「事実から推測した範囲の話に褒めるも何もないと思うのだけれどねぇ」
 カッターとウェットティッシュもポケットに入れるユウヤミ。戻ってきたテオフィルスのマルチコプターをヨダカが電源に繋ぐ。
「グニゴム取られた状態は本当にやりにくいねぇ……」
「グニ……え?」
「人質取られるのは厄介だって話だよ」
 薬を懐に入れると、不意にユウヤミの携帯型端末に着信が入る。表示はヴォイドだった。最初と同じく録音を開始し音量を最大にしてから受ける。
「はぁい、もしもし?」
『名乗らずともわかるよな』
「トカレフ君だね?」
『覚えているなら4月28日16時27分がなんの時間かわすれるな。おれの怨みは宇宙大法廷にも認められているのだ。警察と来なかったことはほめてやる』
「きちんと時間までに来たのだから、人質の安全は保証してくれるのだよね?」
『おっと、時計がこの部屋にないようだ。リーシェルの言う事が本当か確かめる術がなくなった。お前が妙なことを言うからだ。生きたまま地獄に送ってやる』
 それだけ言うと唐突に通話は切れた。
「今の話……そっくりそのまま返したいですねぇ?」
『売られた喧嘩は買わねぇとな』
 いつも通りの笑顔を貼りつけてロードとテオフィルスのマルチコプターを見るユウヤミ。
「さて、奪還作戦開始と行こうか」

謎解きは奪還の後で

「ミサキ、大丈夫?」
「今は」
 ユニットバス内ではヴォイドがミサキを抱えて換気扇の外されたところに手を掛け、赤錆の溶け出した赤茶色の水にいた。バスタブの縁に体重をかけている状況はかなり不安定である。ミサキはダクト内にあったもう一つの換気扇の解体を完了させ、突破口を開いたところだった。
「これで外へ行け……!?」
 心なしか明るくなったミサキの声がダクトの中を覗き込んだ途端に急降下した。
「どうしたの?」
「ダクトが潰れてる」
「押さえれば出られないの?」
「無理。私の力だと動かない。解体作業の所為でもう腕も動かない」
 震えの出ているミサキの腕を見るヴォイド。もうミサキには休んで腕を冷やして欲しかったが、今は悠長な事を言える状況ではない。残った狭い空間には赤錆の臭いが充満しており、ダクト内は埃とヤニ塗れの空気が待ち受けていた。
「押さえるところまではやってみる。ミサキはその先の様子を見て」
「わかった」
 腕の力と浮力を使ってダクトに腕を伸ばすヴォイドがひしゃげたダクトの天井部分を押し上げる。大判ハンカチをつけたミサキは軽く目を閉じ、顔に受ける風からどちらへ向かって空気が流れているかを計算した。
「外は……出て左側。貴女、火薬とか甘いにおいする?」
「うーん……しないね、ニトロの甘い香りもしないよ。なんで?」
「さっきセルゲイに言われた。『ダクトの先には振動を感知する爆弾がわんさと』置いてあるって。砂糖と風邪薬を混ぜて潰すと静電気で爆発する爆薬が作れるから、まさかと思ったけど……」
「癇癪玉なら簡単に作れるよね」
 癇癪玉の薄紙に火薬と小石が入っている簡易な構造は、市販の花火やマッチを分解すれば簡単に模倣できるのである。
「この換気扇に外された形跡はなかった。ダクトはセルゲイのサイズだと入り込めない」
 ヴォイドが押さえていた手を外すと大きく音を立ててダクトは閉まった。
「老朽化で歪んだダクトに入っても助かるかわからないね」
「留まって溺死するか、進んで転落死するか。二つに一つ」
 ユニットバス内の排水口は全て接着剤で塞がれているので自然に水が抜ける事は期待できない。老朽化による亀裂でもあれば水を抜く事ができたが、それもなかった。勿論、ドアも開かない。
「ミサキ、水のスピード速くなってる気がするんだけど……」
 少し前までヴォイドの腰あたりだった水嵩が、今は胸が水没し掛かっていた。
「何かでダクトを押さえれば一緒に退避できるのに……!」
 必死にミサキが頭を捻る。その背中をヴォイドが摩るが、考えている間に水嵩はどんどん上がっていく。
「そうだシャワーカーテン!」
 何かを閃いたらしきミサキだが、水に揺蕩っているシャワーカーテンをヴォイドが軽く引っ張るとボロリと崩れてしまった。掴むと粉々になって水に沈んでいく。
「ここまで朽ちてると燃料以外に使えないよ」
 ヴォイドの言葉に悔しそうに唇を噛むミサキ。また必死に思考を巡らせ始める。
「ここで溺死するか、進んで転落死するか、だっけ?」
 不意に、ヴォイドはミサキをダクトに押し上げた。
「何を!?」
「ミサキなら外まで行ける。大丈夫」
 慌てるミサキに静かに、それでも確信を込めて力強く言うヴォイド。
「ミサキだけでも先に出た方が、私も生き残る可能性が高そう」
「それだと貴女が……!」
 ふっと顔から力を抜いてヴォイドは微笑んだ。水を入れたジュースの缶もミサキに渡す。
「押さえてるから、早く行って。もし火薬が本当だったらこの水を使って」
 少し迷ったミサキだったが、ヴォイドの言う事も一理あると意を決して暗いダクトの中に振り返らず飛び込んで行った。
 残されたヴォイドはダクトの天井を片手で押さえ、もう片手で換気扇の縁に掴まっていた。辛うじて足先がバスタブに掛かっているが時折滑りそうになっていた。暗いダクトの先はどうなっているか見えない。ミサキがどこまで進んでいるのかも微かな衣擦れしか判断材料がなかった。そして、その音もいつの間にか聞こえなくなっていた。
「もう限界……」
 ずるりとヴォイドの腕が下がる。大きな無情な音を立ててダクトの天井は落ちた。
 ふやけた手の爪が紫になりかけ、チアノーゼが出始めていた。足先も感覚が薄い。4月、日も当たらぬ場所で長時間水に浸かれば何が起こるかーー低体温症である。何故か水は最初から温い温度だったが、体温より低い温度である事は違いなく、徐々に体温が奪われていた。
ーー私、何で迷わず外にミサキを出そうとしたんだろうーー
 今まで、損得を優先して自分の利になる方へヴォイドは動いてきた。それならば、多少の危険は投資と考えて少しでも生き残れる選択肢、つまりはダクトを進む道を選んだ筈だった。それなのに今ヴォイドはミサキが確実に生き残れる選択肢を選び、自分はどうなるかわからない状況になっていた。故にヴォイドは自分で自分の行動が理解できなかった。
 どのみち、この老朽化したダクトは軽い子供でなければ通れない。ヴォイドが押し通ったところでダクトの方が耐えきれずに何処とも知れない場所に投げ出されて死ぬのが関の山だ。2人分の体重を支えきれるのかも怪しい。そう言ってしまえば納得してしまいそうだが、それだけではない感情が絡まっていた。
ーーミサキには……もっと沢山の良い事を知って欲しいって思ったからかなーー
 昨夜、寒いユニットバスで肩を寄せあっている中でミサキの語った過去の話。誰かに話すには生々しい話。語るには勇気が必要だっただろうとヴォイドは思い返した。それと共に誰かに「好き」を返す時の不安だった気持ちを思い出すと、尚更ミサキには未来を願ってしまった。
 既に水嵩は胸を超えてそろそろ顔も半分浸かる程になっていた。水圧で上手く呼吸が出来ない中必死に酸素を求めて上を向く。ぽっかりと空いた換気扇の穴が虚ろにヴォイドを見下ろしていた。
 なんだか換気扇の穴から幼い頃の自分が覗き込んでいる気がしたヴォイドの脳裏に、一枚の記憶が浮かんだ。岸壁街でその日暮らしをしていた幼き日に、白いワンピースを着た仕事帰りのテオフィルスをおかえりと迎えていた記憶だった。
 そこから、記憶がまるで日めくりカレンダーのように目まぐるしく映り変わって行った。
 親を知らず、子供だけのコミュニティで生活をした事。ゴミ拾いの報酬が貰えず自分に名前を付けた日の事。娼婦たちの手を借りて生きていた時、食い逃げが命綱だった事。
 テオフィルスの持ち帰る食料を家族のように一緒に食べていた頃、庇護者のようなテオフィルスの事が確かに好きで恋をしていた事。
 仕事も食い逃げもうまく行かなくなった頃に売春に手を出し、客として現れたロードとそのまま2年過ごした事。憎からず思うようになり一緒に暮らすのが当たり前になった頃、置き去りにして不意にロードは消えてしまった事。その2年を恨むしかなかった事。
 医療の師匠と出会い、利を考えて闇医者になった頃にテオフィルスと再会した事。
 テロで岸壁街の殆どが崩壊した後、身一つで結社に就職した事。ここでテオフィルスが同僚としてまた近くにいるようになって、ロードも同僚として再会した事。
 他にも沢山の大事な人が結社に増えて、その中で同僚のユウヤミと出会えた事。今まで会った誰とも違う彼の世界に好奇心がうずいて、気付けばよく話すようになっていた事。
 水嵩は依然として増えている。爪先立ち状態で口だけを水の外に出していたヴォイドだったが、そろそろ2日分の疲労とエネルギー不足で限界が来ようとしていた。
ーーテオ、ロード、ユウヤミ。皆んなに「居なくならないで」なんて言ったのに。今も3人は探してくれているのに。正に今私が居なくなりそうーー
 爪先の感覚が無くなる。換気扇の穴にかけた指先と浮力でバランスを保ち続けるヴォイド。
ーーそっか……「居なくならないで」なんて私が皆んなに確認したから……消滅の神様は私の方を消す事にしたんだ……もう潮時だってーー
 生ぬるい水は真綿で首を絞めるように体温をゆっくり奪っていき、末梢から感覚が薄くなっていく。ヴォイドの中に、この状況を作り出したセルゲイへの恨みも、逆恨みを買う結果になったユウヤミへの恨みもなかった。ただ、出会いへの悲しさだけがあった。
ーーロードに「消滅の神様との縁は切れました」って言って貰ったのに。よっぽど消滅の神様は私がお気に入りなのかもしれない……ユウヤミの「嘘になったら嫌だから」ってこういう事だったのかなーー
 つるりとヴォイドの足が滑り、世界が泡に溶けていく。換気扇の穴から手が離れる。
ーーどうか、皆んながこれ以上危ない目に遭わなければいいーー
 騒ぐでもなく、ヴォイドは静かに赤い水の中へ沈んでいった。

 あ。そう言えば。
 次のマカロン、まだ食べてなかった。

***

 暗い換気口を進んでいると、小さな光が見えた。ドリルの様な音が少し響いたが気にせず光の方へ這いずっていく。
 埃を吸わないように最小限の浅い呼吸だけをして行き着いたその先はーー
「ミサキ、いました!」
 急に周囲が明るくなり、目の前が真っ白になる。ヨダカの叫ぶ声に続いて伸ばされた手に腕を掴まれたミサキは外へ引き摺り出され、後ろでガシャンと微かな音がした。
 聴き慣れた機械人形マス・サーキュの静かな駆動音に包まれる。まだ周囲がよく見えていないミサキは、誰か人の手に移された事に気付いた途端全力で振り払おうとした。
「あーほらほら、ケルンティア君。暴れると人間ジャムになってしまうよ?」
 緊張感のないユウヤミの声がミサキの耳元で聞こえた。パニックになりフリーズしたミサキを抱えて東の2階非常階段へ降り立つユウヤミ。ミサキの大判ハンカチマスクを外して新鮮な空気が入るようにし、埃とヤニと汚れに塗れた顔をウェットティッシュで拭いていく。
「ずぶ濡れという事は……矢張り水獄か」
 ユウヤミの腕の中で蒼白な顔でぐったりしているミサキ。ダッフルコートはぐっしょり濡れている上にあちこちほつれ、ダクト内のあらゆる汚れにモップをかけた状態になっていた。勿論髪にも大量に埃が付着している。
 唐突に吐くような咳が飛び出すと、ミサキの咳は止まらなくなった。
「はい、喘息の薬」
 結社を出発する前にテオフィルスの発案で、念の為とアンから預かっていたミサキの喘息の吸入器である。ユウヤミから渡された吸入器を大人しく受け取って吸い込むミサキ。
 呼吸しやすいようにしっかり頭と背を支えるユウヤミの手は怖い大人の手ではなく、頼れる安心感のある人間の手だとミサキは思った。
「ベントキャップも外してあるし、構造的にはホロウ君もダクトから出て来られる筈……」
 ミサキの出てきた換気口は、外側のカバーであるベントキャップをヨダカによって外されていた。子供か細身の人であればギリギリ通り抜けられるほどの穴が空いており、その前でヨダカがひさしに乗って待機していた。
 少し前にテオフィルスが偵察した範囲から見えた保存状態の良さそうな部屋と、換気ダクトの配管状況の予想、貯水タンクの位置、内部から響く音などを総合的に分析した結果、ユウヤミが導き出した答えがこの場所だった。のだが。
「大馬鹿野郎!その頭は飾り物か!」
 吸入薬と新鮮な空気で咳が落ち着いたミサキがいきなりユウヤミの耳元で大声を出した。
「ケルンティア君……耳痛いのだけれど……」
「老朽化。221B」
 射抜くような瞳のミサキから単語二つを聞いたユウヤミは大きく目を見開いた。冷え込んだ夜のようだった瞳に微かな焦りが浮かぶ。
「ホロウ君……」
 小さく呟いたユウヤミはひさしの上にいたヨダカを見上げた。
「ヨダカ。ホロウ君は出てこない。ケルンティア君の側にいてくれ」
「何があったのですか?」
 聞き返すヨダカに無言でエマージェンシーシートを投げるユウヤミ。ほんの一瞬、ミサキと鋭い視線を交換すると、降りてきたヨダカに震えの止まらないミサキを預け、非常階段を駆け降りて行った。
「マーシュ君、メドラー君、聞こえるかい?」
 階段を降りながらインカムの通信を開いて話しかけるユウヤミ。
『えぇ。屋上に人の気配はありませんでした。全開になっていた貯水タンクの元栓は閉めましたが』
『俺の見てる範囲から外に出た奴は誰もいねぇぞ』
「マーシュ君はそのまま屋上から内部に侵入してくれるかい?私が一階から入るから。メドラー君は外の見張りを続けてくれ給え」
 インカムを通し、少し早口で言うユウヤミから焦りを察したロードの脳裏に嫌な予感が走った。
『ケルンティアさんの後、ヴォイドは換気口から出て来なかったんですか!?』
「想定以上にこの建物の老朽化が進んでいたらしい。221B室内部のダクトは大人が通れる状況ではないとケルンティア君が言っていた」
『な……!』
 言葉を失うロードと鋭く響くテオフィルスの舌打ち。駐車場に停まっている車を走りながらチラリとユウヤミが見やったが、中に人影は見えず周囲に新しい足跡もないようだった。
『……わかりました。セルゲイを見つけ次第退治・・でしたっけ?』
「退治より難しい穏便に捕獲・・だよ。優秀なマーシュ君なら出来るよね?」
『はぁ……狡い人ですねぇ……!』
 一方的に切れる無線。既に殺気立っているロードには、狩るべき相手さえ間違えなければ盛大に暴れて貰って構わないと思っていたが、ユウヤミには少し懸念があった。普段は問題無くとも、ヴォイドが絡んだ途端にどの方向でも抑えが効かなくなるロードの癖だ。ロードがどうなろうともユウヤミからすれば玩具が一つ無くなっただけのところだが、ヴォイドは気にするだろう。それはユウヤミの本意ではない。つまり、ロード本人が暴れすぎた事による本当の不幸が降りかからないようにしなければならないのだ。
 鹿を見て森を見ないように本質を見誤るわけにはいかない。深く息を吸う。
「メドラー君、車にヨダカがケルンティア君と戻ると思うから宜しくね」
『あ、あぁ……わかった』
 ホテル・モルガンテの玄関は以前は戸板で塞がれていたらしく、草むらに朽ちた板が落ちていた。入ってすぐの玄関マットがつい最近ずらされたような痕跡を見たユウヤミはそっとマットを持ち上げる。その下に入っていた小石ほどの物をニヤリと口角を上げながら慎重に取り出すとポケットに入れた。
 気配を消しながら慎重にエントランスを覗き込む。ユウヤミの右手には左横髪を留めていたヘアゴムがセットされていた。
 マルチコプターから見えた通り、雑多な電化製品と家具が積み上げられているのが見える。同型の物ばかりなのは、入り込んだ誰かがこのホテル中から金になりそうな物を集めた故だろうか。
 普通、ホテルは利益を上げる為に部屋数を優先した作りになる。だが、このホテルはエントランスを吹き抜けにしガラス窓から燦々と陽が差し込む贅沢な作りだった。割れた窓から雨が吹き込んだのか、苔むした窓枠で小さな幼木が育っていた。
 入って正面奥には受付カウンターがあり、左にガラス張りのエレベーター、右に螺旋階段がある。ユウヤミの記憶の中では白い螺旋階段だったが、今は塗装が落ちて腐食が進んでいた。その向こうには片付けていないショーケースが並ぶ土産物店があり、盗難に遭わなかった当時の物が放置されていた。
 家具と電化製品の影に隠れながらユウヤミは周囲の様子を探る。カビ臭い空気と雨の腐臭の中で気配を消して浅い息をする。
「居た……」
 3階の廊下を歩く人影。190cm近い高身長に格闘技経験者らしい隙のない歩き方。利き手は右で利き足は左。焦茶色の短髪。浅黒い肌。だが、モスグリーンの上着を着ていない上に屋上にいた時とズボンの色が違った。
 声を殺しながらインカムに向かって状況を掻い摘んでユウヤミが説明する。
『もう1人この場に共犯がいる可能性が出てきましたねぇ』
「ほぼ100%、と言っておくよ」
『マジか……着替える理由もねぇもんな』
 屋上で見た人影に違和感を感じたのは正しかったのかとテオフィルスは独りごちた。
主人マキール。真に重要な事を忘れぬようお願いします』
「手厳しぃねぇ」
 ちなみにヨダカの隣りには濡れた服を脱いでタオルと毛布でぐるぐる巻きになった上からエマージェンシーシートを羽織っているミサキがいる。休むようにヨダカは言ったが、気丈なミサキは既に予備のインカムを装着して戦力に回っていた。
『私は会ってない。ただ、セルゲイから古いにおいがしたってホロウが』
「ふぅん……了解。食堂に誘導するから後はマーシュ君宜しくね」
『煮ても焼いても構いませんよね?』
「法治国家にいる意識を忘れないでくれ給えよ」
主人マキール……!』
 ヨダカの声を綺麗に無視したユウヤミは2階大広間、つまりは221Bの客室がある方向とは逆に視線を走らせる。セルゲイは螺旋階段で2階に向かおうとしている。2階の大広間よりできれば直ぐ下の1階食堂に行って貰った方が時間稼ぎにもなる。
 さっき拾った物を電化製品の隅に置き、セルゲイの死角になる場所を選びながら土産物店のショーケースの影へユウヤミは移動する。右手に引っ掛けたヘアゴムにさっき拾った小石ほどの物ーー癇癪玉をセット。
「ケルンティア君、しゃがんだ状態からゴムで小石を遠くに飛ばすにはどうしたらいい?」
『数字』
「8m」
『……41.4度の角度で秒速8.32m。市販の輪ゴムなら最速30km出せる』
「了解」
 電化製品にセットした癇癪玉にロックオンし41.4度の角度でヘアゴムを極限まで引っ張った後、指を離すユウヤミ。綺麗な放物線を描いた癇癪玉は不安定な電化製品に当たって大きな破裂音を響かせた。2階の途中まで降りていたセルゲイの足音が早足に変わって駆け降りてくる。ぐらぐらしていた電化製品の山が崩れ轟音が鳴り、セットした癇癪玉も潰されて五月雨式に破裂音を響かせる。
「来たか、リーシェル……!」
 電化製品の山へ慎重にセルゲイが向かっていくのを見たユウヤミはショーケースの影から螺旋階段の裏を通って受付カウンターの中に潜り込んだ。食堂の3つある入り口のうちエレベーターの直ぐ隣りにある扉目掛けて癇癪玉を投げつける。乾いた破裂音がまたエントランスに響く。
 電化製品の山に人の気配が無いと気付いたセルゲイは次の音が響いた食堂の方へ目を向ける。中で何かが動いた気がしたセルゲイは食堂へ消えて行った。
 その隙に螺旋階段を駆け上がるユウヤミ。破裂音を聞いてロードが駆け足で3階から2階へ降りてくる。すれ違い様にいつも通りの笑顔を向けるとユウヤミは221B室のある東館の暗い廊下へ飛び込んで行った。

 明かりのない暗い廊下。水の腐ったような臭いとカビ臭さが濃厚になる。ペンライトを点灯させて廊下の奥へ向けるユウヤミ。館内図面の通りであれば突き当たりには非常口があるのだが、それも見えないほど廊下には乱雑に様々な物が放置されていた。
 天井まで積み上げられた木椅子のバリケード、ひっくり返って重なったマットレス、散らばったBB弾。何故か馬の頭部剥製や鹿の全身剥製まで置いてある。セルゲイら犯行グループが出入りしにくいように敢えて置いたのであろう事は明白だった。
 椅子のバリケードを慎重に解体し、隙間をすり抜けるユウヤミの頭にはヴォイドとの約束が浮かんでいた。愛の日の翌日に「居なくならないよね」と確認された時に語った自分の言葉を。

【消滅の神様からは絶対に逃げ切る事を約束するよ】

 もしも“消滅の神様”とやらがいるとして。私を消そうとしてセルゲイを動かしたと考えるなら、ホロウ君の命が危うい現状は矛盾点だろう。“消滅の神様”は当人を諌め守る為に行動するのだから、本来なら過去の因縁を持ち出した時点で危険な目に遭うのは私だった筈。
 対して現状は“消滅の神様”は行動パターンから外れ、論理性にも欠けた状態になっている。

 故に【私に何か悪い事が起きたとして、それは絶対に君が向けた好意のせいじゃない】。

 でもきっと、水獄の中で追い詰められた時に浮かぶのはホロウ君が長く怯え続けた概念であろう。誰に何を言われても、己の芯に絡みついた恐怖はそう簡単には外せないものだから。本人に変わる意思があっても、幼い頃に根付いた思考を清算するのは難しい。
 この事件は人間の身勝手な怨念が生んだものだし、司法機関の杜撰な管理にも起因する。更に元はと言えば当時上手く解決できなかった私の問題だ。巻き込んでしまったのは私の方で、ホロウ君は何も悪くない。
 だから。
 頼むからホロウ君は自分を責めないでくれ。
 胸を張って被害者の権利を主張してくれ。
 そうでないと、無関係な荷をホロウ君が負う事になってしまうじゃないか。

 部屋番号の刻まれた扉を確認し、バリケードのように置いてあるものの隙間を縫って奥へ進む。空気も滞留しているのか淀んでいた。進むほどに踏むと水が染み出す絨毯が増えるので、滑らないように足を置く場所を慎重に選ぶ。壁にペンライトを向けるとX状の亀裂が入っていた。
 亀裂の隣りの扉にライトをずらすと「221B」と書かれており、上から下までしっかり養生テープで目貼りされているのが見えた。
「221B到着したよ。目貼り剥がして入るね」
 インカムに軽く言いながらユウヤミは養生テープに爪を立てて音を抑えつつ剥がしていく。
「銃刀法は此処にもあると思いたいねぇ……」
 剥がし終わると壁際に隠れながら扉を蹴飛ばして全開にする。直後、破裂音が響き周囲に煙幕が広がった。
 口元を覆いながらそっと221Bの中に視線を走らせるが、人の気配は無い。窓枠の中に緑の穏やかな山の絵画が見えているばかりである。足元に細切れになった焦げた紙が無数に落ちているところを見ると、手製の煙玉が仕掛けてあったようだ。
 入って右の監禁場所たるユニットバスにもやはり目貼りがされているが、こちらは短く切ったテープが幾重にも重ねて貼られていた。
「ユニットバスにも目貼りされているね。かなり厳重だ」
『マジか……何か必要な物はあるか?』
「カッターがあるから今は大丈夫だよ」
 カリカリと音を立てて刃を出したカッターを突き立てるが、ふにゃりとした妙な抵抗がある。切り口を浅くして養生テープだけ先に切ると、その下から出てきたのはドアの隙間に詰め込まれた接着剤だった。
『ユウヤミ。私が出てきた時点で水面は天井から15cmだった。屋上で水を止めても管に残った水は流れ落ちる。急いで』
「テープの目貼りに接着剤まで流してあるとは恐れ入るねぇ」
 ミサキからの情報を聞きながらカッターの刃を通常より長く出し、接着剤に突き立てるユウヤミ。
 接着剤の剥がし方は何通りもあるが、どんな接着剤にも共通する最終手段がある。刃物でこそげ取る方法だ。シンナーや湯がなくとも、これなら何処ででも通用する。
「そろそろ向こうの仕掛けは作動した頃かねぇ……」
 呟きながら慎重に、されど速くカッターで接着剤とテープを切り裂いていく。流し込まれてからそこまで時間が経っていないらしく、まだそれなりに柔らかいのは有難い事だった。
 雨水貯水タンクはよく日の当たる場所に設置されているので、水獄に使われている水は温い筈。冷たい水では無いだけマシだが体温より低いのなら時間が掛かるほどにヴォイドの体力を消耗させてしまう事に違いはないーー不安が鎌首をもたげているのを押し込め、ユウヤミは作業を続けて遂に全部切り終えた。
 ドアノブも接着剤で回せないように固められていたので、慎重にカッターを突き立ててこそげとる。
 接着剤を剥がし終えたドアノブに手を掛けた一瞬、開けていいのだろうか?とユウヤミの脳裏に疑問が過ぎったが、愚問だと切り捨ててドアノブを捻った。
 そこからは全てがスローモーションのように見えた。
 ドアの隙間から吹き出す水。赤錆色の水流が全身にまともにぶつかってきたユウヤミは息を詰まらせる。一歩引きかけた時に中から流れ出てきた何かに押し倒されて仰向けにひっくり返るユウヤミ。肺を押し潰されながら後頭部を強打した衝撃で意識の空白が出来る。
「痛ったぁ……」
 意識の戻ったユウヤミが顔を顰めながら身体の方を見ると、人の頭が目の前にあった。
「ホロウ君!?」
 見慣れた青みがかった黒の髪。ブルーグレーのコート。どうやら仰向けのヴォイドに激突されて押し倒されたようだった。とりあえず見つかった安堵で他のメンバーに報告を入れる。
「うん、ホロウ君を発見したよ。連れて戻るね」
『マジかっ!?良かった……!!』
『まだ警戒を怠らないで下さいね、主人マキール
 胸を撫で下ろし嬉しさの滲み出るテオフィルスの声と冷静なヨダカの声。ミサキからは安堵のため息が聞こえたが、一番煩そうなロードの声がしない。セルゲイに相当梃子摺っているのなら何か手助けしようか、暴走するなら止めた方が良いだろうかと考えながらヴォイドの頬をぺしぺし叩くユウヤミ。
「ほら、起きて?ホロウ君」
 だが何故かヴォイドはぐったりとしたまま何の反応もしなかった。嫌な予感が脳裏を掠めていく。
「ホロウ君……ホロウ君!?」
 まさかと思い起き上がって見るとヴォイドの顔は蒼白だった。首に手を当てるも脈は確認できず、口元の呼吸も感知できなかった。

 ヴォイドは呼吸も鼓動も停止していた。

 目を見開いて思考停止状態に陥ったユウヤミは膝の上にいるヴォイドを呆然と見ていた。
 シミュレートに無かった訳ではない。だが、ユウヤミは最悪且つ確率も低いと踏んでいた事が現実に起きている事を受け入れきれずに動けなくなっていた。
 壁にはX状の亀裂が入り、天井からも妙なミシミシという音が響きながら砂埃が降る。
 次の瞬間、壁と天井は崩落した。

 

人事部マーシュの名推理

 螺旋階段でユウヤミとすれ違った瞬間に視線を交換したロードは、足元に癇癪玉が無いか注意しながら食堂の入り口へ向かった。
 中をそっと窺うと、割れた窓辺で破けた豪奢なカーテンが風に揺れていた。流石に元レストランだけあり、影に隠れられそうな木製テーブルが沢山あるが何故か椅子は無かった。運び出すつもりだったのか、陶器の皿が大小様々に積み重ねられている。
 その中でセルゲイは隠れる気がさらさら無いらしく、何かを探すようにあちこち見て回っていた。
 ロードの仕事はセルゲイを出来るだけ穏便に捕獲する事である。相手は最推しで愛しのヴォイドと推しのミサキを危険な目に遭わせ、過去においては推したるユウヤミを殺害しようとした張本人だが、感情に任せて退治してはいけないと言う。お役所は面倒な事をいちいち言うものだが、その隙間を突くのが民間である。
 現在の持ち物を脳内にリストアップしてからボールペンの入っている位置を確認すると、食堂の中へ足音を殺して一歩踏み込んだ。
 突然現れた気配に勢いよく振り向くセルゲイ。
「誰だお前?」
 威嚇するように肩を張りながら訝しんでセルゲイは入り口にいるロードに近づく。190cm近い長身の人物なだけあり、威圧感も大きい。
「愛する人に手を出して生きて帰れると思わないで下さい?」
 だが、その威圧感に気圧される事なく堂々と更に一歩前に出るロード。
「貴方もそうだったのでしょう?」
 不自然に口角を吊り上げながらロードが言う。並の感覚を持っている者であれば危険だと踏みとどまったかもしれないが、既にまともな感性を放棄しているセルゲイは不思議そうに首を捻るだけだった。
「オレの敵はリーシェルだけだ。お前には用ない。てか、誰?」
「貴方が拉致した人物の同担拒否強火独占欲過激派ガチ恋勢ですよ」
「は?言葉しゃべれよ」
 よく噛まずに変な言葉が言えるもんだとピントのずれた感想を持つセルゲイ。食堂の中に他の気配が無い、つまり自分はユウヤミの誘導に引っ掛けられただけだと気付いたセルゲイは一刻も早く、本人を探したかった。
「他にも私の推しを悉く面倒事に巻き込んでくれたようですねぇ?」
「知らん。生きて帰る気は元からない」
 投げやりに答えるセルゲイは早々にロードに興味を無くしたらしく、迷惑そうな顔をした。
「そこどけよ。ただの人間にはキョーミない」
「退きません。此方も博愛主義ですし法治国家の下に居ますから出来れば無闇な傷害事件は起こしたくないんですよ。大人しく警察に出頭して頂けると大変助かります」
 貼り付けた笑顔でこめかみの血管をひくつかせながら、拳を鳴らして威嚇するロード。
「聞かねぇよ!意味わかんねー事ほざくな!」
 頭に血が上ったセルゲイから鋭い拳が繰り出されるが、ロードは軽く攻撃を受け流す。
「さて、行方不明になっていただきましょうかねぇ」
 言いながら足払いをかけるが、見越していたようにセルゲイに躱される。
 カンテ国の法律では格闘技のプロは護身の為であっても人間に自分から手を出してはいけないとされている。比較的平和な国なら何処でもそうだろうが、先に手を出しただけで過剰防衛と見られて不利になるのは此方側だ。勿論岸壁街で叩き込まれた技術はプロにはカウントされないだろうが、心得がある事は隠せない。
 故に、セルゲイが自分から最初の手を出すようにロードは仕向けていた。
 連続してセルゲイの突き出す拳を片手で捌きながら後方へ下がるロード。流石に重量があるらしく、まともにぶつからないようエネルギーを分散させていく。
「お前、リーシェルの仲間なのか?」
「うふふ……同僚且つ推しですねぇ」
「意味わかんねー」
「理解してもらおうなんて思ってませんよ」
 ぼろぼろのテーブルクロスを煙幕代わりにロードが距離を詰める。だが、クロスの向こうにセルゲイはいなかった。
 この時点でロードは一つ間違っていた。セルゲイはオタクの知識が無いばかりか、国語の知識も浅い。故にロードの話した内容の3割ほどしか理解できていなかった。その代わり機敏さだけは人一倍だった。
 風圧の気配を感じ咄嗟に身を低くするとセルゲイの回し蹴りが空間を切り裂く。無防備になったセルゲイの軸足の膝裏に蹴りを入れるロード。体勢を崩したところを狙って首元に手刀を叩き込む。更に首に腕を絡みつかせて背後からセルゲイを絞めあげる。
「てゆーか、なんでわかったんだよここが……!」
「推理などと言う面倒事は探偵に任せておけば良いのです」
 苦しそうにガラガラの声で問うセルゲイに無情なロードの声が返される。
「ですが……少しならお話ししましょうか?」
 最後まで言い終わらないうちに首元のロードの腕を支点にして投げ飛ばすセルゲイ。宙を舞ったロードは背中から床に叩きつけられたが、直ぐに転がって距離を取った。
 近くに積んである皿の中からゾウの絵皿とキリンの絵皿を持ち上げるロード。
「うふふ……ゾウさんとキリンさん、どっちが良いですか?」
「マジで意味わからん……」
 本気でロードの言葉の意味がわからないセルゲイに一瞬隙が出る。
「ではキリンさんからいきましょう」
 不敵な笑みを浮かべたロードは言いながらキリンの絵皿をセルゲイに投げつけるが、顔面にぶつかる直前に片手で払い除けられ、絵皿は床で粉々になった。
 その隙にテーブルを飛び越えて間合いを詰めたロードが勢いそのままに回し蹴りを放つ。片腕でガードしたセルゲイは受け身を取りながら横へ転がっていく。積まれた食器の中から木のスプーンが落ちる。
「さてーー2月に上がった奇妙な水死体の女性2人の事です」
 語りながらまるで親しい友人に対するかのように歩み寄るロード。セルゲイは低い位置から睨むように様子見をしている。
「川や池で溺れても多量の赤錆は入り込みませんし、人工池も浄化装置が付いているので赤錆塗れにはならない。普段使われている水道も赤錆だらけにはならないし、使われていなかった水道にしろ出している間に錆は流れてしまう。更に頭だけならまだしも全身を覆うほどの水を準備するのは骨が折れる。それならどうするでしょうねぇ?」
 割れた絵皿の破片を掴むセルゲイがロードに雨霰と投げつける。だが、軽く掠るばかりでほとんど当たらない。偶にある当たりそうな物は弾かれていく。
「うふふ……どこまでも手間のかかることを」
 手持ちの破片が無くなったセルゲイは手近にあったプラスチックのビールケースを振りかぶって投げつける。コントロールが悪いのか、やはり当たらない。
「犯人は考えたのです、ビジネスホテルにあるようなユニットバスなら1人2人監禁して溺死させることができると」
 腰を落としてタックルをかけようとロードに突っ込んでいくセルゲイ。当たる刹那、セルゲイの肩に手をかけたロードは彼の背中で宙返りすると後ろに降り立った。
「そして、溜めた雨水を使えば水道の止められている廃墟で実行可能であると。ケルンティアさんの暗号も役立ちました」
 振り返ったセルゲイの腹に拳を連続で突き出すロード。その横腹にセルゲイの蹴りが襲いかかる。力を逃すようにロードは転がって距離を取った。
「ここ以外にもホテルならあるだろ!?」
「それは完全に貴方の思い込みです。ただの貯水タンクを設置したままになっている廃ホテルは他にもありましたが、雨水を溜める貯水タンクはこのホテル・モルガンテだけなんですよ」
 タンクの種類まで深く考えていなかったセルゲイは目を見開く。
「一般的な貯水タンクは水道水を汲み上げて溜めておきますが、此処だけは水道と雨水の両方のタンクがありました。航空写真で確認できましたし、先程のマルチコプターからも確認できましたから」
「なんかすっげーしゃべるな?」
「うふふ……楽しい事はきちんと言葉にした方がもっと楽しくなるじゃないですか」
 口角を上げながら背中に隠しておいた絵皿を取り出すロード。
「次はゾウさんですねぇ」
 フリスビーのようにゾウの絵皿を投げる。皿を躱したセルゲイは直ぐさま拳を放つが、ロードに触れた途端に宙に舞った。セルゲイが状況を認識した時には後ろ手に捻りあげられて捕まえられていた。
「騙したのでしょう?ヌゥさんを」
「はぁ!?ショーコあんのか、ショーコ!?」
 耳元で聞こえるロードの声にパニックになるセルゲイ。
「彼なら良心の呵責に耐えきれずに直ぐ吐きましたよ。この村の事も教えてくれました」
 粘着質な声に対して理解が追いつかないセルゲイだが、ヒン・ヌゥが村を教えた事だけは理解できたらしく、苦々しい表情に変わる。
「今は警察に出頭して事情を話している筈です。貴方達に何をどう言われたのか洗いざらい」
 セルゲイの鋭い舌打ちが響く。
「それから、被害者四人とも古物商インディゴに行った後から行方不明。且つ店主の強固で非協力的な態度……今回の計画担当は店主ですね?」
「ふざけんな……ふざけんな!なんだよ、だまれよ!」
 ロードの手を振り払おうと暴れるセルゲイだが、動くと腕に痛みが走る為にそれ以上動けない。
「一つ、気になる事があります。遺体を何故強酸性の死の池である大蛇池ではなく、地面や川に隠したんです?」
「はぁ?キョーサンのダージャイケ?お前意味わかんねーし!」
 未知の物を見て怯えるように答えるセルゲイ。どうやら店主に計画を丸投げしただけあり、セルゲイは本当にそこまで賢く無い人物なのだとロードは理解した。
「……貴方達のやった事はまるっとお見通しですよ。大人しく投降して下さい」
「んだよっ……」
 歯噛みしながら肩を落としかけた時、ロードのインカムから声が流れた。
『221B到着したよ。目貼り剥がして入るね』
 ユウヤミの声が聞こえたセルゲイの目に新たな闘志の光が宿った。腕が痛むのも構わず、力任せにロードの手を振り払うセルゲイ。関節に無理をかけるどころでは無く、脱臼しそうな勢いの力に押されたロードの手が離れた。その隙にセルゲイは食堂からエントランスへ飛び出す。
「させませんよっ……!」
 ヴォイドの救出が終わっていないというのに、221Bのある東館にセルゲイを行かせるわけにいかない。最小限の怪我で穏便に捕獲と言われていたが、そんな悠長な事を言っている場合ではなくなっていた。
 セルゲイの背を追うロードは走る勢いそのままに飛んだ。背後から右腰のやや上に飛び蹴りを喰らったセルゲイはつんのめって倒れる。
 一声吠えたセルゲイは続いて飛びかかってきたロードの襟首を締め上げながら立ち上がると、容赦なく投げ飛ばして背を床に叩きつける。受け身を取ったものの、衝撃でロードの肺から酸素が抜けた。
「うっせーんだよ!知らねぇ奴のくせに!」
 力任せに引きずられたロードは必死の抵抗虚しく、開きっぱなしだったガラス張りのエレベーターのカゴに放り込まれた。
『ユニットバスにも目貼りされているね。かなり厳重だ』
『マジか……何か必要な物はあるか?』
『カッターがあるから今は大丈夫だよ』
 インカムから聞こえる声によれば、どうやらユウヤミは221B室に辿り着いて中に入れたらしい。エレベーターのカゴ内でゆらりとロードは立ち上がった。何がなんでもセルゲイを向こうに近付けてはいけない。
「だまってろ外野!」
 叫んだセルゲイは手近にあった電化製品に家具に癇癪玉に様々な物を投げつけてくる。ぶつかればただで済まなそうな物ばかりである。エレベーターの操作盤があったであろう穴がぽっかり開く強化ガラスの壁の影に隠れて直接当たらないようにしつつ、次の行動を練るロード。
『ユウヤミ。私が出てきた時点で水面は天井から15cmだった。屋上で水を止めても管に残った水は流れ落ちる。急いで』
『テープの目貼りに接着剤まで流してあるとは恐れ入るねぇ』
 硬質なミサキの声に次いで、あまり緊張感のないユウヤミの声が続く。だがその裏に高速でカッターを動かす細かな音がインカムから聞こえた。
 急く気持ちに反し、ヴォイドの救出にはまだ少し時間かかりそうだ。セルゲイを少しでも遠ざけておかなければいけないが、この狭いエレベーターの中に居続ければロードの方が持たなくなる。
 この状況を打開すべく思考を巡らせる。その中に一つ引っかかりがあった。
 食堂の調理器具と食器の山の中に木製のスプーンはあったが、金属製のカトラリーは無かった。この規模のホテルなら無いのはおかしい。その他、金属製の食器や調理器具も山の中には無く、ガラスや陶器だけだった。このエレベーターも操作盤の部分がそっくり無くなっている。天井にも妙な黒ずみが付着している。そこから導き出せる答えはーー?
「一か八か……賭けてみる価値はありそうですねぇ」
 脱出経路は決まった。だが、セルゲイの意識が一瞬でも別のところに向いて貰わなければ動きようがない。
 懐からエマージェンシーシートを引っ張り出し、銀色の面を外側に向けて準備をする。名刺入れを出そうとした瞬間、癇癪玉が破裂する音が東館から聞こえた。セルゲイの意識が音に向く。
 エレベーターに顔を戻したセルゲイの前からロードは消えていた。
 不思議そうに首を捻ったセルゲイだったが、ユウヤミの様子を見る方が先決だと螺旋階段へ向かっていく。
 2階へ登り、東館へ足を向けたセルゲイの前に現れたのはさっきエレベーターから消えたロードだった。持っていなかったはずのタオルを今度は持っている。
「な、なんだ!?」
 声が裏返るセルゲイに口角を上げるロード。
「エレベーターには救出用ハッチがあるんですよ。本来内側からは開かない構造になっていますが、此処は廃墟ですからねぇ……誰かが屑鉄回収ついでにストッパーを外してくれていたようで助かりました」
 調理器具や食器類に金属製のものが何一つなかった理由である。誰でも入り込める廃墟の場合、屑鉄で小金稼ぎをしたい輩が内部のものを取り外したり持ち去ったりする。配線コードや水回りのパイプが狙われやすいが、このホテルを狙った輩は相当入り用だったのかエレベーターのパーツも一部分解していた。
 ロードがガラス張りのエレベーター内を移動する際、エマージェンシーシートの銀色の面を外側に向けて隠れ蓑にして移動していたのもあり、セルゲイにはテレポートしたように見えたのだった。
「絶対に、行かせません」
 ガーゼ生地のタオルを片手に巻き付け、引き絞って構えるロード。
「すっこんでろ!」
 叫んだセルゲイから拳が繰り出される。軽やかに避けたロードのタオルがセルゲイの腕に巻きついた。関節の逆方向へ引き倒すと空いた空間に蹴りを入れる。
 タオルを振り解き後退るセルゲイに濡れたタオルを振り回し、威嚇に鳴らしながら西館の方へ少しずつ追いやっていくロード。間合いを見ながら後退りしていたセルゲイだったが、不意に西館の大広間へ脱兎の如く廊下を走っていった。
 追いかけようとしたロードは廊下の先に見えた細く光る何かを見て一瞬足を止めた。天井にも目を向け、その先に結えられていた物を見たロードの目が鋭くなった。
「成る程?癇癪玉の次はそうきますか……」
 結えられていたものを外して後ろに持ち、大広間の前へ移動するロード。耳を澄まして扉の向こうの微かな衣擦れと靴音を探る。音は手前から2番目のドアから聞こえた。自分の足音を殺しながらそっとドアに手をかけ、勢いよく蹴り開けると同時に後ろ手に持っていた物を放り込む。
 破裂音が大広間に響いた。
「げっ、げほっ!!う、ぐぁ……!!」
 セルゲイの悶絶する声を聞きながら中に飛び込むロード。転がっているセルゲイを蹴ってうつ伏せにさせると、濡れタオルで後ろ手に縛り上げた。
「んじゃっ、こりゃっ……!?」
「少々勿体無いですけどね……これだけあればシキの夕飯のカレーにしてもお釣りが来たでしょうけれど」
 赤い液体が顔面に掛かったセルゲイは激しく咳き込んでいた。
 そう、仕掛けられていた物とは唐辛子入りの水風船。床に貼った釣り糸に引っかかると上から落ちてくる仕掛けのものを取り外したロードは自分の武器にしたのだった。
「ソー、ニャ……リーシェルぅ……!」
 ロードに背中を押さえつけられているにも関わらず、セルゲイは床に顎を立てながら起きあがろうとする。頭を押さえつけるロード。
 無駄な事を、と言いかけたロードの脳裏に浮かんだのは“マーシュ君。目先の感情に囚われて、狩るべき相手を見誤らないで貰いたいね”と数時間前にユウヤミに言われた事だった。
 もしかして。狩るべき相手はセルゲイ本人ではなく、セルゲイの止まらない想いではないのか?ヴォイドを危険な目に遭わせた時点で何発殴っても足りないくらいに思っていたし、今だって理性が引き止めている部分は多分にある。けれども。最初から煽らずに聞く姿勢で行ったならユウヤミの言う通りの穏便な捕獲が出来たのかもしれない。ここまでの決定に後悔はないが、出来る事は終わっていないとロードは思った。
 一つ息を吸う。何故今日が犯行日だったのかなら、生き人形事件をまとめた記事を読んだ時に気がついていた。
「そう言えば、今日はソーニャ・アドレルさんの命日でしたね。16時27分は亡くなった時刻だと」
 うねうね動いていたセルゲイの動きが止まった。肩から力が抜けていく。やがて細い声が聞こえてきた。
「リーシェルは……俺からソーニャを取り上げたんだ……だから、リーシェルのしりあいが苦しめば復讐になると思った」
 掠れたセルゲイの声は深い憎悪に疲れたような声だった。
「ソーニャがかわいくて凄く、好きだった……でもソーニャはどこにもいない男ばかり見てた。それだっていいから、俺はソーニャが喜ぶならなんだってやったんだ。悪いことなのはわかってても」
 しゃくりあげるようにセルゲイの呼吸音が震える。
『うん、ホロウ君を発見したよ。連れて戻るね』
 インカムから不意に聞こえてきた少し呼吸の乱れたユウヤミの報告。ヴォイドが見つかったとロードは快哉を叫びたかったが、今は時では無いと湧き上がる歓喜の感情を言葉にせず奥へ押し込める。
「でもソーニャはリーシェルの時は本当だったんだ……愛し方をしらなかっただけで」
 “愛し方を知らなかった”。その言葉に胸の奥が小さく痛んだ。
「リーシェルも……ソーニャのことが好きなくせに知らないフリしてたんだ……だからっ……!」
 振り絞るようなセルゲイの声。
 内容が真実か否かは関わりない。セルゲイの声にはもうこの世界の何処にもいない愛しい人へのやるせなさが満ちていた。
「だから脱走してまで復讐を、と?裏を返した憎しみが愛だとしても、少々やり過ぎだったかもしれませんね」
「かもな……」
 脱力するセルゲイ。
 直後、言葉を交わしたロードの耳に地鳴りにも似た微かな音が聞こえた。ハッと振り向き、開いた大広間の扉から東館へ視線を走らせる。
「何が……!?」
 ロードが言うや言わずか、東館の一部の崩れる轟音が響いた。2階廊下に積み上げられた椅子のバリケードの隙間から砂煙のような物が薄っすら見えた。
「……ヴォイド!!」
 状況を忘れて息を呑み、目を見開くロード。
 鳩尾が冷えたような感覚。少し前にユウヤミが見つけたから連れ帰ると言っていたのに、あれから通信が入っていない。
「リーシェルさん!?今其方はどうなってますか?ヴォイドは……ヴォイドは無事ですよね!?」
 インカムに向かって叫ぶが、返答がない。
『ユウヤミ、状況説明!聞こえてる!?』
『何があったんだよ、ユウヤミ!』
『応答して下さい、主人マキール!』
 叫ぶメンバーの声にユウヤミから返答が来る事はなかった。
『おいおい……冗談にしちゃあ酷いじゃねぇか……』
 引き攣ったテオフィルスの笑いにも答えはない。
 けけけけ、と妙な音がする。音の根源は膝の下にいるセルゲイの立てた笑い声だった。
「ザマァ見やがれリーシェルっ……!本にまちがいはねーんだよっ……!」
 セルゲイはうつ伏せのまま肩を震わせて笑っていた。腹の底から愉快だと言わんばかりの妙な笑い声に、ロードの中の何かがプツリと切れた。
 セルゲイを蹴飛ばし仰向けにして馬乗りになり、無言で首を締め上げる。
「ぐっ……はっ……!」
 うめき声を出すセルゲイを見るロードの顔は笑っていた。三日月に細めた目の奥に冷酷な光が浮かぶ。
「わかるでしょう?貴方なら。愛する人を理不尽に奪われると言う事がどれだけ耐え難い苦痛なのか。己が身を引き裂かれて業火に焼かれるか海神の子にされる方がずっとマシです」
 熱い言葉に反し、声には底冷えするような冷たさがあった。
「貴方からすればただの人質でしょう。ですがヴォイドは……ヴォイドは、私の最推しでっ……最愛、の人なんです!あの子以外を愛するなんて到底無理な話なんですよ!」
 締め上げる手にさらに力がこもる。
「貴方から見たリーシェルさんは仇でしょうが、私にとっては大事な推しです。ケルンティアさんも」
 口角を吊り上げていくロードの表情を見たセルゲイに、初めてまともな恐怖の色が浮かんだ。
『やめて!』
 インカムを通して響いたのはミサキの声だった。
『ロード、それは事件の解決になる?今すべき事?』
「……わかっていますよ。言われずとも」
 答えながらもセルゲイの首を締める手を緩めないロード。
『貴方が信じた人はそんなにヤワなの?』
「生身の人間ですよ。心配しない方が無理です……人を貶めて笑う輩にヴォイドを傷一つでもつけられて黙っているなんてできません」
 酸欠でセルゲイの顔が赤くなっていく。
『少なくとも。ユウヤミがこの程度で死ぬ馬鹿なら私が抹殺してる。貴方はやるべき事を為して』
 揺らがぬミサキの硬質な声が耳に響く。「さようなら」ではない別れの言葉が最後になるかもしれないなど考えていないように思える冷たさだ。
『テオ、今どこ?』
『もう直ぐ中入る!』
 マルチコプターの羽音がエントランスから聞こえてくる。
「空に浮かんだクジラが……炭酸水吹いてダイヤ撒き散らしてるから……飲み行かなくちゃ……」
 少し手が緩んだところでセルゲイが何事か呟いた。
『ダメです、主人マキールの携帯型端末は電源が入っていません』
『水没か……!』
 ヨダカの報告にミサキの鋭い舌打ちが響く。
『本当に“推し”が大事だと思うなら、ロードは早く其奴連れて車へ。その力を向ける先は人間じゃない』
「……わかりました。セルゲイを縛ってから二人の救出に向かいます」
 何かミサキが言ったようだが聞かずに行動へ移す。タオルで縛った両腕の他、セルゲイの靴紐を抜いて足を縛りつけるロード。放置されていた電気のコードで猿轡も噛ませる。その間も激しく咳き込む声がインカムから聞こえていた。
『ミサキ、無理はしないでください。折角助かったのですから』
『恩義には報いたい……!』
 ヨダカと話す掠れ声のミサキ。エマージェンシーシートでも足りない体温をカイロで補い、咳が落ち着くように背中をヨダカにさすられながら戦力として参加していたが、そろそろ限界が来ようとしていた。
 子供に無理を強いて何が大人だ、と一人口の中で呟いたロードは縛り上げたセルゲイを大広間の隅に転がす。
「そこで良い子に待っていてくださいね。決して非合法な事はしませんから」
 青い顔でガクガク頷いたセルゲイを流し見ると、ロードは東館へ向けて走っていった。途中でエマージェンシーシートを回収して懐に戻す。
『うわ、なんだこのバリケード!?さっきと違うじゃねぇか!?』
『先程見た場所は3階だったようですね。このバリケードはマルチコプターで通れないのではないでしょうか』
 テオフィルスのマルチコプターは2階の東館バリケードまでたどり着いたらしい。ヨダカの言う通り、遠目ですらバリケードの頑丈さが見て取れる。
『どうするか……外のガラス窓から中が見られるんじゃねぇか!?』
『カーテン無かった……出来るかも』
『2階の天井部分が崩れたなら、3階の床からの侵入は考えられませんか?』
『そうだな……まずは3階の床から確認してみるか。ダメだったら窓ガラスルートで』
 インカムの向こうの声には小さな希望があった。だが、ロードの歩みは止まっていた。目の前には茶色の透明なテープが所狭しと床に貼られている上に、氷柱の如くぶら下がっている。指先で突いてみると強力な粘着力があり、手すりの外側にまでテープが下がっている徹底ぶりにロードは舌を巻いていた。
「すみません、此方は粘着性の茶色のテープに行手を阻まれまして……直ぐは行けなそうです」
『了解。入り込むルートはこっちで模索しとくな』
「お願いします」
 天井の縁を掴んで移動すれば進めるだろうか、とロードが天井を振り仰いだところで廊下の曲がり角から人影が現れた。
「今時の若者は知らないだろうな、こんな台所の必需品なんて」
 ロードの前に現れたのは、モスグリーンの上着を着たインディゴの老店主だった。揺らめくテープの向こう側で「ハエ取り紙」とプリントされたパックを手に立っている。顔写真の通りに綺麗に禿げ上がった頭はわずかな光を反射して煌めいていた。
「優しい子だろう?わしの為に催涙スプレーを持たせてくれたのだから」
 ポケットから小さい霧吹きを取り出し愛おしそうに眺める店主はハエ取り紙に行手を阻まれたロードへ静かに目線を向けた。
「そこの若い人、リーシェルの仲間だと聞いたが」
「えぇ、まぁ……そんなところです」
『もしかして、そこにインディゴ店主がいるのでしょうか?』
 足止めされました、とインカムの向こうのヨダカに答える。ズゴゴゴ!と啜る音までするのはミサキがゼリー飲料をパウチから飲んでいる音だろう。
「少しばかり、老い先短い年寄りの話を聞いてくれ。何、5分もあれば終わる」
「人命第一にしたいので後にして頂けませんかねぇ……?」
 努めて穏やかに答えるロードだが、老店主は意に介さず話し始める。
「セルゲイはな、わしの息子みたいなものだ」
 ハエ取り紙を挟んだ距離からでも、店主の真っ直ぐな瞳はロードからよく見えた。
「あいつは大家族の末っ子で、親には放っとかれて、兄と姉たちに散々虐められて育った。わしのところに来る度に泣きじゃくっておった……」
 遠くを見つめる老店主の目には幼い頃のセルゲイが映っていた。
「わしもセルゲイの力になりたかった。自信と護身の為に格闘技を教えたり、生活に必要な事を教えたりした……素直な良い子だったよ」
 老店主の目には穏やかで優しい光が浮かんでいた。
「それがいつの間にか悪い友人ができて、わしのところにも顔を出さないようになって。次に様子を知った時はもうソーニャ・アドレル……あの女狐に入れ込んだ挙句、生き人形事件の共犯者として世間に名を知られていたよ」
 溜息と共に首を振る老店主。
「セルゲイは素直な良い子だからソーニャに騙されて操られたんだろう。若者の懲役30年は長い。セルゲイは悪くないと思うのだがな、優しい子だから全部抱え込んで判決に従ったよ」
 生き人形事件に加担して懲役30年を長いと老店主は言ったが、終身刑か極刑でもおかしくないレベルの犯罪である。裏社会の岸壁街で起きる事に比べれば軽くとも、表の社会では到底許されるものではない。
「主犯の女狐は死んだし、被害者も死んだ。この刑罰が遺族と傍観者の精神の平安の為にあるならば、セルゲイはあまりにも哀れではないか?」
 持論を展開する老店主の顔は悲壮感よりも誰かにこの話ができた喜びが浮かんでいた。
「女狐を狂わせて多くの人間の人生も狂わせた張本人ーーユウヤミ・リーシェルこそ諸悪の根源。奴さえ消せるならばもう思い残すことは無い」
「それが、ここで私を足止めしている理由ですか?」
「監禁部屋に一番に行くのはリーシェルでなければならない。既に現場にいるなら今の崩落で無傷ではいないだろう。お前さんに助けに行かれては困るんだ」
 未使用のハエ取り紙のロールを手の中で転がしながら老店主が静かに語る。だが、その口元は落ち着かなそうに唇を舐めていた。
「そうですか……それならば何故、私を完全に動けないようにしないので?」
 唇を舐めるしぐさは不安や自分の思う未来を否定したい時に起きやすい。加えてハエ取り紙の設置の仕方には一箇所だけ穴があった。それに早くから気が付いていたロードは敢えて話を聞いていたのだった。
「……成る程?ここまできてわしは人殺しにはなりたく無いと思っているらしいな。行きなさい、若い人。行けるものなら」
 自嘲気味に笑った老店主が数歩下がってロードを見た。ぶら下がっているハエ取り紙を一つ引きちぎるロード。
「セルゲイが脱獄するとはわしも思わなんだ。面会で話した空想を真に受けたんだろうな」
「それだけ恨んでいたのですね……迷惑な事でっ!」
 言いながらロードは床のハエ取り紙ギリギリのところで踏み切って飛んだ。引きちぎったハエ取り紙を空中で鞭のように振るって一人分の空間を作りすり抜ける。滑り込むように床に着地して振り返ると、店主の姿はなかった。
『3階の床も崩落してんだが、入り込める隙間は無さそうだな。部屋のドアも閉まったままだ』
『破れた窓があれば、そこでも。ヨダカ、現場に』
『呼吸も心拍も安定していない人を放置するのは、機械人形マス・サーキュ法に規定された救護義務に反します。主人マキールの蜚蠊のような生命力の強さはご存知ですよね?』
『わかった、大丈夫』
 信頼というより扱いが雑な事にツッコミを入れる余裕はロードにはなかった。
『マーシュさん、危険があれば直ぐに引き返して下さい。確実に生きている人が最優先です』
 3階を調査しているテオフィルスの声と相談するミサキとヨダカの声を聞きながら、ロードは椅子バリケードの中へ斬り込んでいった。


サイレント・ヴォイド

 ユウヤミの眼前に広がるのは瓦礫の山だった。
 大量の水が一度に流れ出した事で古びていた壁が崩れ、伴って落ちた天井で部屋の出入り口は埋まっていた。前の被害者の時も同じような水圧がかかり、ジメジメしたまま水が残っていたのだから腐食が進んで当然だ。鉄筋コンクリートの折れた鉄骨が剥き出しになっている。
 咄嗟にユウヤミが覆い被さった事でヴォイドに外傷は無かったが、本人はコンクリートの破片で背中を強く打っていた。それでも、倒壊が止まった時点でユウヤミはヴォイドを連れて瓦礫の中からもう少し安全な部屋の奥へ移動し、再度呼吸と心拍の確認をしたところだった。
 矢張り、ヴォイドの呼吸も心拍も止まっていた。
 インカムは瓦礫の山の中で潰れている。携帯型電子端末は赤錆の水を大量に被って起動しない。救援が呼べない。ヴォイドが助かる見込みは刻一刻と下がっていく。カーペットの床に水が染み込んで黒い影を描いた。
 世界から、音が消えた。
 あれだけ煩かったノイズまで、すっぱり消えた。
 自分の呼吸だけ、やけに大きく聞こえた。
 真っ白になった意識に黒い墨が落ちてじわりと広がる。
 前髪から落ちる雫に、表情を無くした己の顔が映った。

「あはは、死んじゃうよ?ねぇ死んじゃうよ?」
 脳内に響くのは幼い自分の声だった。
「ねぇ、このままだって誰も責めないんだからさぁ?やってみたい実験やって最期まで観察すればいいんじゃない?初めて会った時みたいにさ」
 無邪気に楽しそうに語る幼い自分がまとわりつく。されどその目に光は浮かんでいなかった。
ーー確かに最初は好奇心から観察対象だと思っていた。けど、今はーー
「だって、あんなに生に執着してた人が主義を曲げて死んじゃうんだよ?面白いでしょ?」
 損か得か。生か死か。基準がそれだけであればヴォイドは間違いなくミサキを押しのけて先に出て来ようとしていたはず。だが実際はミサキを確実に助けてヴォイドは危険な場所に残った。
あの時・・・は3人の刑事さん死んじゃったけど、面白いものが見られたよねぇ……面白いもの見たくないの?」
 あの時。数年前の立てこもり事件。ふと、面白そうだからと思いつきで提案した大博打な計画を上に認めさせた結果、精神的に追い詰められた犯人は交渉に来ていた3人の刑事と残っていた人質を巻き込んで自爆した。ヨダカの前任だったヨギリもユウヤミを庇って大破した。自分の好奇心を優先した事と引き換えに、培ってきたユウヤミの信頼は失われ、緩やかになっていた監視は最初以上に厳しくなったのだった。
ーー違う。あの時と今と事情が違う。多分……多分、私も少しは変われた気がするからーー
「何が違うの?何が変わったの?変わらず警察の監視はあるし、目の前の其奴だってアミノ酸の紐が折り畳まれただけの塊って事は変わらないでしょ?」
ーー生きてて欲しいって、ホロウ君には心から思うんだ。幸せに生きていて欲しいってーー
「へぇ、ぼくに心なんてあったんだ?見様見真似なのに勘違いも酷いなぁ」
 クスクスと幼い自分が笑い声を立てる。
「ねぇ、生きるってそんなに大事?今日死んでも明日死んでも、結果は違わないでしょ?」
ーー私にとっての私はそうだよ。けれど、ホロウ君には生きてて欲しいんだーー
「結局、エゴだね。人にもなれないぼくはそんなところまで模倣しようとしてるんだ?」
 幼い声が嘲笑うように響く。
ーー無条件に生きていて欲しいって思うのはエゴじゃない……!ーー
「ふーん?けどさぁ、其奴助けてもソーニャみたいにならない保証はないよ?」
「ねぇリーシェルさん?」
 忘れていた筈の甘ったるい声が聞こえて、鳥肌が立った。
「ソーニャ、言ったでしょ?愛してるから死んで永遠になってって」
 首に絡みついて鎖骨を優しく摩るソーニャが思考を支配して行く。最期に見たロリィタ服ではなく、最初に会った時の普段着だった。
「ソーニャね、リーシェルさん好きで好きで大好きで愛してるから言ってるのょ?ねぇ知らないフリしなぃでよぉ」
 息が苦しい。生きるも死ぬもどうでも良いと思っていた時の感覚が戻ってくる。振り払おうという考えすら思考の外に押し出されていく。
「気付いてたんでしょ?ソーニャと同族だって事も、本当は嫌いじゃなかった事も、リーシェルさん気付いてたんでしょ?」
ーー黙ってーー
 放棄したくなる思考を必死に手繰り寄せて叫ぶ。
ーー黙ってくれ!!ーー
「リーシェルさんの天邪鬼ぅ。何処までも人は愚かしくて自分の愛にしか興味ないから、突き詰めれば損得しかないって知ってる癖にぃ」
 首に絡まったボロボロのソーニャの腕に力がこもる。何故か振り払えない。
「うふ、リーシェルさんもホロウさんもソーニャと一緒でしょ?今ならわかる筈よ?」
 今なら?ソーニャは誰も信用できず表面を取り繕い続けた結果、愛を求め負のループの中で自らを滅ぼしてしまった事は当時からわかっていた。己の本心すら見失って欲を暴走させてしまった事も。
 けれども、自分と同族なのは認めたくなかった。自分で自分の本心の在処がわからなくても、どうしても認めたくなかった。ヴォイドは違うとはっきり言いたかったのに、拭えない不安が言葉を止めた。
「どうしたの?人間ごっこ続けるのも嫌になっちゃった?どうせ成れないから?」
 心底心配そうな声で語りかける幼い自分が首に指をかける。冷たい感触に少しの安堵感があった。
「人間ごっこなんか辞めちゃいなよ。ユウヤミならぼくが殺してあげるよ?」
ーー今更、何をーー
「そもそも、目の前の人を助けるか悩んでる時点で本当のぼくがどっちか一目瞭然でしょ?仮面は所詮仮面だよ。周囲に合わせて表面を取り繕うだけで中身が伴ってない」
 息が詰まった。そっか。そうだ。自分の本心は幼い頃から変わっていないのか。変わった気がしていただけ。在処なんて探すまでもなく此処にあった。
「何者にもなれないユウヤミぼくなら死んじゃえばいい」
 光のない漆黒の闇を纏う幼い瞳と視線を合わせると、操られるようにガラスの破片を掴む。
 幼い自分が言うように。生きる意味を見つけられず、人にもなれず、器がなければ何者でもいられない私なら死んでしまえばいい。きっともう悩まなくていい。楽になれる。
『大馬鹿野郎!!』
 思考を放棄しかけた時に静寂を破ったのは、少し前にミサキに投げつけられた声だった。
『真に重要な事を忘れぬようお願いします』
『真に重要な事を見誤るな。いつぞやの取りこぼしを繰り返すでないぞ』
 ヨダカの声にハーロックの声が混ざる。
 今、真に重要な事は。
『ユウヤミのたまに見せる何か無みたいな顔は、一瞬誰か分からなくなるけど最近それも好きだと思った』
 そう言ってくれた人を見捨てるのか?否。生きていて欲しい気持ちに嘘偽りは無い。
 絡みつく幼い自分とソーニャを振り解くと、二人の首を絞め上げて壁に叩きつける。何より先に邪魔な幼い自分を殺さなければ。ひたすら思考を邪魔するソーニャを殺さなければ。
「つまりそれが、ぼくなんだよ」
 絞められながらニヤリと笑った幼い自分に言われ、ハッと気付いた。
「とっても楽しそうだよ?」
 ハーロックに言われた「殺しが好きなのだろう」との言葉までフラッシュバックする。
ーー違う、違う。ホロウ君がケルンティア君を助けたように。損得抜きで大事に思えたように。日々、ホロウ君が“人”に近づいていくなら、私にも今を超えた可能性を信じさせて欲しいーー
 脳裏に浮かんだ一枚の記憶は、愛の日にヴォイドが薬膳茶を出してくれた時の暖かな時間だった。それに続いて、今まで見てきたヴォイドの表情が泡が浮かぶ様に後から後から脳裏に浮かんでくる。
ーーもし、ホロウ君が今の私と同じ立場ならばーー

 前髪から落ちた雫はヴォイドの頬に落ちた。
ーーホロウ君なら、迷わないーー
 幼い自分とソーニャから手を離し、頭を振って脳内から追い出す。手の中のガラスを瓦礫の中へ投げ捨て、白い手袋を外す。
「考えるより、動かないと……」
 まずは首に損傷がない事を確認した後、ヴォイドの顎を上げて気道の確保をする。続いて口腔内に異物がないか確認すると、水を吸った埃と落ち葉があったので指を突っ込んで除去する。
 「最重要な事を見失うな、一歩下がって冷静に判断しろ」と何度もハーロックから言われたことを思い出しながら、一つ一つ手順を踏んでいくユウヤミ。
 ヴォイドの鼻をつまみ、顎を上げて額を下へ押し込む。大きく口を開いたユウヤミは躊躇いなくヴォイドの口をすっぽり覆うように密着させた。見てわかるほど胸が上がるまで、1秒以上かけて息を吹き込む。口を離して自然に息が抜けるのを確認してもう一度息を吹き込む。
 一般的に心肺蘇生は胸骨圧迫を優先し、人工呼吸はなくても良いと言われる。だが、水に溺れた場合は人工呼吸を優先した方が蘇生率が上がる。前線駆除班の応急救護講習会で医療班にも言われた事だ。
 続いてユウヤミは両手を重ねると、胸部の中央が5cm沈むくらいを目安に胸骨圧迫を開始した。腕は一直線に、きちんと体重を掛けて。1秒で2回のテンポを守りながら。30回の胸骨圧迫と人工呼吸2回を交互に繰り返していく。
「戻って来い、ホロウ君!」
 立場とか、損得とか。きっと、ミサキを確実に助ける選択肢を選んだヴォイドなら、そんな事を考えずに同じ事をする筈。
 私だってヴォイドに生きて欲しい。自分が無条件で生きていて欲しいとようやく思えた人との別れがこんなに早いなんて受け入れられない。よりによって私の怨恨に巻き込まれて終わるだなんて悔しいにも程がある。君一人守りきれない不甲斐なさに悔やんだって悔やみきれないんだ。
「ホロウ君、マカロン食べたいって言ってたじゃないかっ……!」
 自分が嫌った無表情の顔すら好きだと言ってくれた事に、まだ何も返せていない。
 あげた服を大事にしてくれた事に、ありがとうをちゃんと伝えられていない。
 監視の目を潜り抜ける為に遠回しな事しか言えないのに、側は安心できると言ってくれた事へ本音を返せていない。
 ヴォイドの生白い腕が力なく揺れる。
「ホロウ君、返させてよ……!」
 モノクロとノイズだけだった世界を変えてくれたのはヴォイドだった。自分と同じようなにおいがするのに、思うままに動いてあからさまに迷惑な顔をする人はいない生き姿。それは自由の象徴のような、空を自在に飛ぶ鳥を重ねて見てしまう程に眩しくて羨ましい姿だった。
 その癖、深入りして近づき過ぎれば思い過ごしで消えてしまいそうな光にも思えて、二の足を踏んで遠回しに話すことしか出来なくて。……否。もしも軍警に睨まれたら、自由なヴォイドではなくなってしまうかもしれない事が怖いだけだ。
 “人”である事を諦めていたのに。ヴォイドに会ってから、自分もいつか真人間になれるんじゃないかなんて過ぎた希望を持ってしまった。
 ねぇ、逝かないで。独りにしないで。まだ分からない事が沢山あるんだ。
 死なないで、
「ヴォイドっ……!」
 押し殺して叫んだ時、ゴボゴボっという音がヴォイドの喉の奥から聞こえてきた。急いで首を横に傾けると体内に溜まっていたのであろう水をヴォイドは吐き出した。
 吐きやすいように背を支えて摩るユウヤミ。うっすら瞼が持ち上がったヴォイドは焦点の合わない目でユウヤミを見ていた。
「ホロウ君……?」
 目は開いているが、何も見えていない茫洋とした眼差しのヴォイド。
「起きて、ホロウ君!しっかりして!」
 ユウヤミの叫び虚しく、何の反応も見せなかったヴォイドは再び目を閉じた。
 目が一瞬開いただけで、呼吸も脈も戻っていない事に気付いたユウヤミはまた心肺蘇生を開始する。
 息を吹き込むから、息を吸い込んで。
 いきをあげるから、いきを諦めないで。
 その心臓が枯れる日まで諦めないでくれ。
 この世界に君は一人しかいないのだから。
 初めて本当の別れが辛いってわかったから。
 明日、『生きてて良かった』って笑い合おうよ。
「ホロウ君、生きてっ……!」
 1年にも満たない時間の中で見てきたヴォイドの表情が記憶に浮かんでは流れていく。初めて会った時の名前通りの虚な表情。味気ない顔だと評されたあの日。話すうちに段々と色んな表情を浮かべるようになっていった事も。美味しい物で恍惚の表情を浮かべていた時も。汚れた服を残念そうに見ていた事も。沢山の「好き」をくれた時の穏やかな顔も。真剣な顔で食べられる泥パックの話をしていた事も。照れで頬に朱を乗せていた顔も。
 解いても解いても終わらない厄介な難事件のように翻弄されて、それすら居心地悪いなんて思わなくて。
 ほら、君の存在が私の軸芯に絡みついて離れないんだ。
 それから、胸骨圧迫と人工呼吸の間にヴォイドは何度か水を吐いた。その度にユウヤミは吐きやすいように背中を支えて摩っていた。何度目かに水を吐いた時、微かに瞼が痙攣したヴォイドは咳と一緒に心拍と呼吸が戻った。
 強く咳こんだ後、ユウヤミの腕の中でゆっくりヴォイドは目を開けた。ぼんやりした視線は何処を見ているのかわからない。
「ホロウ君……!」
 軽くヴォイドの頬をぺしぺし叩いていると、漂っていた視線がユウヤミの視線とぶつかって止まった。
「ホロウ君、苦しくないかい?」
 夢を見ているような曖昧な表情だったが、ヴォイドは確かに小さく頷いた。
「首は?首は痛くないかい?」
 とろんとした顔で瞼を瞬かせると、また小さく頷いた。
「そっか……良かった、生きてて」
 詰めていた息をゆっくり吐き出したユウヤミは愁眉を開いた。
「私の怨恨に巻き込んで、本当にごめんね……ホロウ君」
 そっとユウヤミに優しく頭を撫でられると、安心したように微笑んだヴォイドはまた目を閉じた。今度は脈も呼吸もきちんと続いていた。
 仰向けから回復体位に変えてもヴォイドの呼吸はもう止まらなかった。浅い寝息を聞きながらユウヤミは天井を仰ぐ。水分を吸って膨張した天井は、遺棄された2体の水死体を思い出すようだった。少しだけ目を閉じて休憩する。
 何処かでマルチコプターの羽音がした気がしたが、瓦礫の隙間から現れる事はなかった。
 静かに眠るヴォイド。不意に不安になり、脈を確認しようとユウヤミが取った手は氷のように冷たくなっていた。爪が紫になっているのが見えたユウヤミの目に焦りの色が浮かんだ。
「ホロウ君、起きて!寝ないで!」
 折角蘇生できた先には低体温の壁が待っていた。濡れた服を着たままだった所為でヴォイドはかなり体温が奪われていた。慌てて大量に水を吸っているコートを脱がせるが、意識朦朧としたヴォイドから反応はない。
 濡れた服を全部脱がせて乾いた毛布で全身を包み保温に努めるのが水難事故対応の鉄則だが、此処に毛布もエマージェンシーシートもない。
 何か代わりになる物は、と部屋を見回したユウヤミの目に放置されたホテルのベッドが映った。ゆらりと立ち上がるユウヤミ。廃墟にしては珍しく、ベッド周りの主要な物は幾らか残されていた。
 咄嗟にユウヤミはとある熱帯の国では一枚の布でワンピースにも手提げ袋にもする文化があると思い出した。あのワンピースの巻き方を参考にすれば保温になるだろうか、と。
 埃を払いながら掛け布団カバーの中身を取り出し、カッターでカバーを切り裂いて一枚の布に広げる。枕カバーも切り裂いて広げる。
「ホロウ君、ごめん」
 細い息のヴォイドに深々と頭を下げると、ユウヤミはその服に手を掛けた。トップスもボトムスも脱がせ、掛け布団カバーだった物をワンピース風になるよう巻き付けていく。開いた枕カバーをショールのように肩に巻き付けて回復体位に戻し、その上からカバーのない掛け布団を掛けて保温する。念のために持ってきていたカイロも隙間に入れて保温に徹する。
 切り裂いていない枕カバーに畳んだヴォイドの服を収納し、緩めたベルトの隙間に挟み込んでいつでも持って出られるようにする。
 敢えてユウヤミがヴォイドの服を脱がせたのには保温だけではない理由があった。突入する直前にミフロイドへ連絡を入れたので、そろそろモンパ村に警察が来る。という事は救急隊も到着するので、今の低体温症のような状態が続けば十中八九救命の為に着衣を切られてしまうのだ。
 今日ヴォイドが着ている服は以前「ユウヤミが初めてくれたから。とっておく理由はあっても捨てる理由が無い」と言って泥が落ちないと何度もクリーニングに出していた物だ。本人が大事にしている事も、切られてしまうかもしれない事もわかっていて放置するのはユウヤミも気が引けた。
 布団に包まれたヴォイドの肩をさすっていると、瓦礫の向こうから微かな人の声が聞こえた。段々と声が近付いてくる。
「ヴォイドー!リーシェルさーん!居たら返事して下さーい!」
 紛れもなく、ロードの声だった。
「帰ろっか、ホロウ君」
 ヴォイドに一声かけると、大きく息を吸って声を張り上げる。
「マーシュ君?そこにいるのかい?」
「リーシェルさん!無事ですか?」
「あぁ、私は大丈夫。ホロウ君は今寝てるけれどね」
「ヴォイドも無事なんですね!?」
 大きな安堵の溜息と共に「良かった……」と吐き出すロードの声が聞こえる。
「そこ、外に出られそうな状況かい?」
「椅子のバリケードは殆ど解体できたんですけどねぇ……部屋のドアは歪んで開かないですよ」
 ドアノブを捻るガチャガチャという音が221B室の中に響く。
「ドアの近くにいます?」
「いや?窓際にいるよ。吹っ飛ばしても大丈夫……」
 ユウヤミが言い切る前にロードが掛け声と共にドアに体当たりする音が響く。数度ぶつかる音が続いた後ドアが開いたが、直後に引っかかっていた瓦礫が崩落しロードの目と鼻の先を掠めていった。声を上げて慌てて一歩下がるロード。
「瓦礫が落ちるかもって言おうとしたのだけれどねぇ?」
「早く言ってください!」
「焦らずに最後まで人の話は聞き給えよ」
 まだ瓦礫の向こうでユウヤミの表情はロードから見えなかったが、呆れてやれやれと言っている様子が見えるようだった。瓦礫で閉じ込められていたというのに、ユウヤミの変わらぬ調子は何処か日常に戻ったような安心感があった。
「うふふ……この期に及んでいつも通りとは流石ですねぇ」
 瓦礫を少しずつ撤去して通り道を作り始めたロードの耳に突然大声が響いた。
『待ちやがれぇぇぇっっっっ!!!』
「……回線開きっぱなしじゃないですか、メドラーさん」
 ブツブツ言いながらインカムを耳から離すロードだが、マイクをオフにしてあるのでテオフィルスには聞こえていない。
『スピード出ろぉぉぉぉ!』
『必ず止まります。テオ、焦らないで下さい』
 今まで全く話らしい話がなかったのに、マルチコプターの画面を見ているヨダカには通じたらしい。ロードが状況を聞くと、『窓ガラスからの侵入を試みようと北側へ回り込んだところ、犯行グループが車で逃走する様子が確認されました。よってマルチコプターにて追跡中です』とヨダカの返答があった。
「逃げないように言いましたが……まぁ、店主が出てきたところで逃走されるとは思いました。意外と早かったですねぇ」
「随分楽しそうな事になってるね?ヨダカ?」
 直ぐ近くでユウヤミの声が聞こえて驚いたロードが顔を上げると、いつも通りの笑みを貼り付けたユウヤミが目の前にいた。瓦礫の隙間から顔だけ出している。
主人マキール!?ご無事でしたか!』
「瓦礫に前方を阻まれた挙句、インカムが壊れて動けなかっただけだよ?」
 ロードの外したインカムを受け取ったユウヤミがヨダカにしゃあしゃあと答える。
『携帯端末はどうされたのですか?』
「携帯型端末は水獄の水を被って動かなくなってしまってねぇ」
『承知しました。兎も角、ご無事で何よりです。ヴォイドの方はどうなりましたか?』
「水獄に長時間居たみたいでね、体調を崩して今は寝ているよ。救急隊はどうなっているかい?」
『モンパ村入りしたそうです。到着まで然程時間は掛からないかと』
 ヨダカが答える後ろでテオフィルスの「生きてる……良かった!」と噛み締めるように何度も呟く声がユウヤミにも聞こえた。
「了解。ケルンティア君はどうしてるかい?」
『少し前まで起きて捜索の手伝いをしていましたが、今は吸入器を吸った後寝込んでいます』
 ふぅん、了解。それだけ答えたユウヤミはインカムをロードに返却した。
「リーシェルさん、ヴォイドは……!?」
「少し待っていてくれ給え、連れてくるからねぇ」
 そう言って奥へ引っ込んだユウヤミは何か呟いていたが、最後はヴォイドを背中に乗せて瓦礫の隙間に戻ってきた。
「ヴォイドっ……!!」
「首に怪我はしていないし、特に外傷もないよ。冷えかなぁ?顔色は悪いけれどね」
 食い気味に見つめるロードにユウヤミが静かに状況を簡単に伝える。
 細い呼吸で目を閉じたまま寝ているヴォイド。ロードがそっと頬に触れると生きている人の柔らかさと温もりがあった。
「ヴォイド……ヴォイドっ……!」
 いつもは紡績工場の如く言葉を紡ぐロードにしては珍しく、名前を呟くばかりになっている。恐らくは考えるスピードに体が追いついていないのであろう。
「マーシュ君。心中察するけれど、感動の再会はそこまでにして瓦礫退けてくれないかい?このままだといつ次崩れるかわからないし、ホロウ君も外に出られないから」
「わかってます……!」
 名残惜しそうに手を離すと瓦礫撤去の手を動かし始めるロード。
 ようやく通れるだけの幅が確保でき、ユウヤミとヴォイドの全体が見えたロードは目を丸くしていた。
 「緊急時だからその辺の物で暖を取って貰ったのだよ」と言いながらユウヤミは布団とシーツを巻きつけたヴォイドを背負っていた。巻き付けている理由はロードにもわかったが、何故ユウヤミが濡れた服の入った枕カバーを持っているのかは察してしまった故に考えたいが考えたくなかった。
「リーシェルさん、私がヴォイド背負いますよ」
「うーん、どちらかと言うと廊下の物を退かしてくれる方がありがたいねぇ……ほら、ホロウ君軽いから」
 ユウヤミの返答に複雑な顔をしたロードは持っていたエマージェンシーシートをヴォイドにかける。布団の下について指摘したいが、水難事故の対応方法が知識として入っているだけに言えなかった。
 真剣な顔つきになったかと思えばふにゃけた表情になり、かと思えば嫉妬まみれの表情を浮かべるロード。その様子に何も言わず、軽い咳をしてユウヤミはヴォイドを背負ったまま歩いていた。
「あんな細い隙間しかなかったのに、リーシェルさん通れたんですね……」
 ボソッと呟くロードに「ちょっとしたコツがあるのだよ」とユウヤミは答えたがそれ以上は口を噤んだ。
 遠くから緊急車両のサイレンが聞こえる。
『いきなり止まった……?』
「メドラーさん、追跡はどうなりましたか?」
『あ、あぁ。さっきまで普通に走行していた車がいきなり停止して……今、前から来た警察が包囲してんな』
 状況を飲み込めていないテオフィルスが恐る恐る実況中継する。
『セルゲイと……インディゴの店主、警察に逮捕されたぞ。警察の後ろに救急車が来てんな。こっちまで来るって事だよな?』
「警察が逮捕したなら安心ですね。でも、いきなり止まるなんて事があるものですかねぇ……?」
『異物によるエンジンの焼き付けでしょう。もうすぐ警察と救急が到着しますので、準備をお願い致します』
 冷静なヨダカはセルゲイ達の車より、次の行動を促す。逮捕の様子をロードのインカムから聞いたユウヤミは「ケルンティア君がやってくれたようだねぇ」と苦笑しながら口の中で呟いていた。そのミサキとヨダカの待機するワンボックスカーには、スティックシュガーの包紙が何本もゴミ袋の中に捨てられていた。
 正面玄関を目指して足元に注意しながら移動するロードとユウヤミ。ヴォイドはユウヤミの背中で細い寝息を立てているばかりである。
「トカレフさんも店主もどうなるのでしょうねぇ……」
 鹿の剥製を退かしながらロードがぼやく。
「懲役30年に上乗せで済めばいいねぇ」
「それは……!?」
 椅子を押さえながら振り返るロードに淡々とユウヤミは答えた。
「トータルで2人殺害、2人殺人幇助、4人殺人未遂。生き人形事件の際に冷凍室で仮死状態だった被害者は脳性麻痺が残っているし、殺害された男児の両親も初老の男性の妻子もセルゲイに死刑を求刑して最高裁まで持ち込んでいたのだけれどね、結局は精神疾患と従犯だという事で酌量されて懲役30年になったのだよねぇ……今回の拉致監禁殺人未遂はどう取られるだろうかねぇ」
 いつもならば全てを見透かすような色を浮かべているユウヤミの瞳が珍しく迷いに傾いていた。
「人質殺害未遂罪で訴えられるなら無期懲役か死刑か。検察はどう考えるかねぇ……この建物も他人の持ち物だから住居侵入罪。恐喝罪もあるだろうね」
 まるで自分が当事者に含まれていないかのような、考えを読ませないユウヤミの声。
 段々と緊急車両のサイレンの音が近づいてくる。
「そうすると、店主は幇助と教唆でしょうかねぇ……先程犯行に至るまでを少し聞いたのですが、リーシェルさんへの明らかな殺意がありました。トカレフさんが脱獄するきっかけを作ったのも店主だったようですし」
「幇助も教唆も立件が難しいからねぇ。準備に故意に手を貸したのか第三者からは判断できないし」
 ロードがひっくり返ったマットレスを廊下の隅に退かして溜息を吐く。
「裁判に此方も付き合う事になるんでしょうかねぇ」
「あるだろうね。きっちり調書取られるのは覚悟した方がいいし、実況見分の立ち合いとか裁判の証人尋問に呼ばれるかもしれないし。有罪は確定しているから、後は量刑だねぇ」
 下がり始めたヴォイドを背負い直すユウヤミ。
「ホロウ君とケルンティア君の前に拉致監禁から殺人に至った女性が二人いるし、其方も含めれば無期懲役は軽いと思われても不思議ではないね」
「判例からすれば妥当なんでしょうねぇ」
 薄暗く黴臭漂う2階の廊下を抜け、南の光が燦々と差し込む螺旋階段を降りる。
「死んで償うのは簡単だよ。生きて償う方がずっと難しい。その方法に正解はないからね」
「うふふ……大抵の物に正解なんて無いでしょう?」
「……そうだね」
 眼下に広がるエントランスには先程の戦闘で崩れたジャンク品が散らかっていた。
「それなら殺人の刑罰は誰の何の為にあるのだろうね?」
「どういう意味でしょう?」
 何気なくユウヤミの呟いた事はインディゴ店主が言っていた事と似通っていた為、思わずロードは足を止めて振り返って聞き返していた。
「ふふ、非日常に当てられてしまったみたいだねぇ」
 あまりにいつも通りの顔でいつも通りの調子で返されたので、いつもの軽口の類いだろうかと深くロードは気にしない事にした。再び前を向いたロードにはユウヤミが寂しそうに微笑んだのは見えなかった。
ーー法治国家の下にいる限り、一人でも故意に殺害すれば重い刑罰があるものだからねーー
 螺旋階段から降りてジャンク品の横をすり抜ける。開きっぱなしの食堂には割れた皿が見え、ガラスのエレベーターの周囲には割れた電化製品と細かな残骸が戦闘の激しさを物語っていた。
「トカレフさんとインディゴ店主から聞いた限り、リーシェルさんよく恨まれますねぇ」
「警察は国民のサンドバッグだよ。真面目に仕事をすれば煙たがられるし、手を抜くと職務怠慢で顰蹙を買う。そこに協力するのだから、お礼参りの一つや二つは覚悟しなくちゃあいけないね」
 少し咳っぽく半笑いで返すユウヤミに苦労の文字は浮かんでいなかった。
「周囲の人を巻き込むのは戴けないけれどねぇ」
 とは言え流石に疲れは出ているらしく、いつもより力が入ってない表情ではあったが。
「ところでリーシェルさん、今26歳でしたっけ?」
「偶然だと思いたいねぇ」
 資料を読んだ時にソーニャの亡くなった年齢が26歳だと見ていたロードは、セルゲイが事件を起こした一端に年齢もあったのではないかと踏んでいた。だが、ユウヤミは濁すばかりで明確な事は何も答えなかった。
「狡い人ですよねぇ……」
「何か言ったかい?」
「いいえ?やっぱりぺったんこになるんだなと」
「……あんまり言わないでくれないかい?」
 ロードの言う通り、ユウヤミの髪は水獄の水を被った影響でストレートに近い状態になっていた。いつもの癖っ毛がかなり悄気かえっている。
「リーシェルさんのそういう格好もちょっと色っぽくて可愛いですよ?」
「それ直接本人に言う事かい……?」
「言える時に言った方が良いこともありますからねぇ……」
 返すだけ無駄だなと思ったユウヤミは口を閉じる事にした。
 正面玄関から外に出ると新鮮な空気が全身を押し包んで肺を満たす。カビ臭い空気を出来るだけ吸わないように無意識に息を浅くしていた事に今更ながら気付いた。
「ホロウ君、そろそろ起きてくれないかい」
 ユウヤミが少し揺らしてみるが、小さく唸ったヴォイドは目を開けなかった。相変わらず呼吸は細い上に今は異音が混じっているように聞こえる。脈の浅さも気になった。
「もう少しだから頑張ろうね」
 ヴォイドにだけ聞こえる小さな声で励まして前を向くと、救急隊が向かってくるところだった。空の青さが嫌に目に染みた。

 救急隊員にヴォイドを預けて今までの経緯と症状を伝え終わったユウヤミに1人の刑事が声をかける。スーツの上からジャンパーを羽織ったがっしりした体躯の壮年の男性である。
「生きてたか、リーシェル」
「今日も死に損なって悪かったねぇ、ガニマール君」
「そこまで言ってないぞ。言葉を慎め」
「はいはい」
 ふにゃりと底の見えない笑顔を浮かべるユウヤミにミフロイドは不機嫌そうな顔を向ける。
「良かったな。このシマ見てる連中は汚染された機械人形マス・サーキュの方に行っていて」
「そうだったのかい?それは良かったねぇ、本店は面倒がられるものだからねぇ」
「と言うわけでだ」
 いきなりユウヤミの腕を掴んでヴォイドを預かった救急隊の方へ引っ張っていくミフロイド。戸惑っているユウヤミに構うことなく突き出す。
「此奴も連れて行ってくれ。右脚の外側がざっくり切れていて未処置だ」
「え?」
 ミフロイドの言葉に驚いたユウヤミが右脚を見ると確かに裾が破けている。救急隊員が捲り上げると、ぐじゅりと血が滲んだ傷口は随分と埃まみれでコンクリートの破片が刺さっていた。脚を怪我していると認識したユウヤミからガクリと力が抜け、ミフロイドに支えられる。
「気付いてなかったろ」
 顔色を悪くしながら頷くユウヤミ。瓦礫に挟まれた拍子に脚を怪我していたのだが、今の今まで他の事に気を取られていて気が付いていなかった。
「ヨダカは喘息嬢さんの面倒を見るのに先に送ったからな」
「そうなのかい?」
 「痛いの嫌いなんだけどなぁ」とぼやきながら、それでも少し嬉しそうにヴォイドのいる救急車に付き添いも兼ねて乗り込んでいくユウヤミにミフロイドの「ご苦労だったな」の声は届かなかった。
「はい、ご協力いただき感謝します」
 ロードの前には真顔で軽く会釈をして去っていく刑事の姿があった。本当はヴォイドの側から離れずに付き添いとして救急車に乗り込む予定だったが、ユウヤミが預けている途中で刑事に呼ばれて職務質問に応じ、自身の身分の他マルチコプターでうろうろしているテオフィルスの事も含めて諸々答えた後周囲を見回すと救急車はいなくなっていた。愕然とするロード。
『ミサキちゃんの付き添いにヨダカが行って、ヴォイドの付き添い……っていうか怪我人扱いでユウヤミも連れて行かれたぞ。一瞬倒れてたな』
「怪我!?リーシェルさんそれでヴォイドを背負っていたんですか!?」
 ロードの目にはユウヤミが何処かに怪我を負っているようには見えなかった。スラックスの裾が破けていたものの、庇ったような歩き方をしていたわけでもなく、顔を顰める事もなかった。怪我をしていたにしろ何らかの処置済みだと勝手に思い込んでいたが、どうもそんな事はないらしい。ユウヤミが痛みを感じにくいタイプでは無いのはロードも知っている。
「痛みを切り離していたのだろう」
 何があったのかの疑問と危険な状態でヴォイドを背負っていた事への怒りと諸々の嫉妬で複雑な表情になったロードにミフロイドが答える。
「貴方は……」
「俺はミフロイド・ガニマール。本庁所属の警察です」
 警察手帳を広げて見せるミフロイド。
「この度は民間からの捜査協力に感謝します」
 深々とロードとテオフィルスのマルチコプターに頭を下げる。
「本来は警察がきちんと捜査し解決するべき事件を市民に肩代わりさせてしまった事、申し訳ありませんでした」
『えーっと?』
 いきなり警察に頭を下げられて慌てない人がいるだろうか。
 ミフロイドが語ったのは、以前から提携していたユウヤミからの協力の申し出だった事に加え、汚染された機械人形マス・サーキュの事で提携しているマルフィ結社も噛んでいるので特例として捜査を任せたのだという話だった。
「お分かりいただけましたか?」
「えぇ……何から何まで特例、という事でしょうか?」
「そう云う事です。よって、今回の捜査の詳細をきちんと全て報告頂かなければなりません」
『きちんと、全て……』
 カメラ越しにテオフィルスは曖昧な表情を浮かべていた。どうやら少し後ろめたいことがあるらしい。
「尤も、リーシェルさんの計画であればギリギリセーフになっていると思いますが」
「信頼されているんですねぇ」
「いや……経験に基づく予想ですよ。あの根の曲がった性格ならやります」
 ミフロイドの浮かべた笑みには単純な信頼や熱い友情とかの類は全く無く、揺らがぬものだけがあった。
「彼奴に騙された回数なら挙げてキリがない。ただ一つ確実な事は『断言した事は必ず起こる』って事ですね」
 笑みを収めたミフロイドがロードとマルチコプターに視線を向ける。
「それでは、まず任意同行にご協力願えますか?」
「はい……」
 促されてミフロイドについていくロードとマルチコプター。
『まぁ……これで、一安心だな』
「……そうですね。犯行グループは逮捕されましたし、ヴォイドもケルンティアさんも病院で診て貰えるわけですし」
 ふと携帯型端末を出したロードは結社に社用車の回収を頼んだ。

ユウヤミ・リーシェルの備忘録

 目が覚めた時に見えたのは白い天井だった。そこはかとなく漂う消毒液のにおいに病のにおいが混ざっている事からヴォイドは今いるのが医療関係の建物だと理解した。
 夢の残り香を手繰り寄せたヴォイドは、豪奢なロリィタドレスを纏った女性に会っていた事を思い出した。
 きっちりコルセットを巻いたその人は、機械人形マス・サーキュのようなピンク色の髪をツインテールにして泣き腫らしたようなメイクをした顔で優しく微笑んでいた。背後には階段が上へ伸びており、13段目の先は光に包まれてよく見えなかった。周囲には白い鳥の羽がふわりふわりと舞い、幻想的な空間を演出している。
 ロリィタドレスの女性にヴォイドはエスコートされているので、彼女が一段上がると一緒に階段を上がる。なんだかこの階段を登るのは必然な気がしたヴォイドは、エスコートされるまま一段一段ゆっくり階段を上がっていった。
 階段を半分行ったところで不意にユウヤミの声が聞こえた気がしたヴォイドは振り返ったが、何処にも誰もいない。空耳だろうかと次の段へ足をかけようとしたらまた声が聞こえた。今度ははっきりとユウヤミが後ろから自分の名を呼んでいる声だった。
 立ち止まって周囲をキョロキョロ見回し始めたヴォイドだが、矢張り何処にもユウヤミの姿は見えない。ロリィタドレスの女性に視線を戻すと、先程までの優しい笑顔が醜く歪んでいくところだった。戸惑うヴォイドの手を強く掴んで無理にでも階段を登らせようとする女性の目には憎悪が浮かんでいた。それでもユウヤミの呼ぶ声が気がかりなヴォイドは必死に抵抗し、揉み合いになった末に足を滑らせた2人は階段を転げ落ちていった。
 水に落ちた時、ロリィタドレスの人の手が離れていったのをヴォイドはぼんやり感じていた。
 次のシーンに切り替わると、ユウヤミの斬れそうなくらいに真剣な顔が眼前に迫っていた。何故かいつもの癖っ毛がストレートパーマでもかけたようにぺったりしていて一瞬誰だかわからなくなりそうだったが、声も雰囲気も間違いなくユウヤミだった。
「ホロウ君、苦しくないかい?」「首は?首は痛くないかい?」
 聞かれた事に気圧されるように頷くと、ユウヤミの顔に素直な安堵の色が浮かんだ。愛の日以来の素直な表情は、ここまで起きた事が全部何でもなかったように思えるほど暖かい表情だった。
 そっか、そういう夢なんだ。見てみたい願望が形になった夢なんだ。それなら最期に夢でもいい、ユウヤミのこの表情が見られて良かった。こんな風に頭を撫でて貰えて良かった。
 なんだか力が抜けたその後は脈絡のない夢ばかり見た。繭に包まれたり、大きな猫の背中に揺られて町中を連れ回されたり、海藻サラダの海に落とされたり、マカロン一個で炊麦を何杯食べられるか選手権に出場したり、と不思議な夢ばかりだった。
「お腹すいた……」
 夢の中でたくさん食べたところで現実の腹が膨れるわけではない。
 口元に違和感があるなと手を動かすと指先にはパルスオキシメーターがついていた。入院着を着ている事に困惑しつつ鼻先に視線をずらすと、プラスチックのマスクが装着されている。簡易とは言え酸素マスクが必要な状態になっている事を不思議に思いながら目だけで周囲を見回す。
 結社の医療班ではない事は確かだったが、何処にいるのか仔細はわからなかった。上には心電図モニターが設置され、輸液の袋も下がっている。
「溺水……?」
 夢以外の最後の記憶はユニットバスの水中で足を滑らせて沈んだ事だ。溺れて肺まで水が入った可能性はかなり高い。あの時指先にチアノーゼが出始めていたので、低体温症の可能性もある。
 どうやら死なずに済んだらしい、と理解できたところで疑問がぽこぽこと湧いてくる。どうやってユニットバスから出たのか、此処が何処なのか、先に外に出たはずのミサキがどうなったのか、探しに来ているはずの3人はどうなったのか、セルゲイはどうなったのか、わからない事ばかりだった。
 右隣のカーテンの向こうから乾いた咳が響く。左の窓にはブラインドが降りていて、隙間から闇が漏れている様子は外がとっくに日暮れ後だと告げていた。
「何処なんだろう……」
 小さく呟きながら掛け布団に覆われた足先の方へ視線を滑らせて行く。其処にいたのは丸くなった黒猫ーーではなく、見慣れたふわりとした黒髪の頭だった。
「ユウヤミ……?」
 突っ伏していて顔は見えない。規則正しく上下する肩を見る限り寝ているように思えた。足先で揺らしてみるが反応はない。ユウヤミが人前で珍しく深く寝ているという事は今いる場所の安全性が保証されていると考えて良い、と気が付いたヴォイドは張り詰めていた気が緩んでいくのがわかった。『消滅の神様からは絶対に逃げ切る』約束をユウヤミは果たしてくれたと気付いて視界が少し滲み、胸の奥が熱くなっていく。もういいんだ、ここはもう安心していい場所なんだ、と思うと昨日から今日までの事が全部夢に思えた。それとも今が夢だったらどうしよう、と思ったヴォイドだが腹の減り具合は現実だと如実に訴えていた。
 ふといつかの時のようにユウヤミの頭を撫でてみたくなったが、手を伸ばそうと思っても体が怠くてあまり動けなかった。仕方ないのでもう少し足先で揺らしてみる。
 不意にむくりとユウヤミが頭を上げたが、これ以上ないほどボーッとした横顔だった。無表情というより呆けたような顔で宙を見つめている。
「ユウ……ヤミ?」
 ヴォイドのくぐもった声に反応して顔を向けてくれたは良いが、矢張り目の焦点が何処にもあっていない。そう言えばこの顔をどこかで見たなと思ったヴォイドは、ユウヤミが愛の日に疲れが出て目を開けたまま寝ていた事を思い出した。
 あの時はどうしたんだっけと考え始めたヴォイドの腹の虫が、いきなり獣の咆哮の勢いで鳴いた。その拍子にびくりとユウヤミが肩を震わせ、漂っていた視線はヴォイドの視線と絡んだところで落ち着いた。
「ホロウ君……」
 驚いた顔で小さく呟いたユウヤミは足元から枕元に移動してきたかと思うと、ヴォイドの片手を跪くようにぎゅっと素手で包み込んで俯いた。前髪の影で表情はよく見えなかったが、握られた手はとても熱かった。
「おかえり、ホロウ君」
 俯いたまま呟くように言うユウヤミの声は少し震えていた。
「おかえり」
 今度は顔を上げてしっかりヴォイドと目を合わせて言うユウヤミ。その顔は夢の中で見た時のような素直で暖かくて安心できる笑顔で、それでいて少し泣きそうにも見える顔だった。
「……ただいま」
 酸素マスクの下で気が抜けたように微笑んで答えるヴォイドにユウヤミの笑みも深くなる。
「此処はね、ソナルトの軍警病院だよ」
「軍警の……病院?」
「うーん……名前は軍警とつくのだけれどね、民間の病院だよ。昔、軍警職員とかその家族の為の病院だった名残だねぇ」
「そうなの……」
 いつものような微笑みを返したユウヤミはヴォイドから手を離してナースコールを押し、一言二言様子を伝える。
「なんか、意外」
 話し終えたユウヤミにヴォイドがポツリと言った。
「うん?何がだい?」
「揺らしても起きないし……ユウヤミがそんな……寝てるとこ、見たことなかった」
 真顔で言うヴォイドの言葉に、ユウヤミの漆黒の瞳に苦笑が浮かぶ。
「ホロウ君の隣にいたら急に睡魔に襲われてね……目の前にホロウ君が居るってだけで安心して気が抜けたみたいだ」
 らしくなかったかな、と聞くユウヤミにヴォイドはそんな事ないと小さく首を振る。
「本当にごめんね……私の怨恨に巻き込んで」
 ユウヤミの悔しさの滲む笑みも、優しく頭を撫でるその手つきも、ヴォイドが夢の中で見たそっくりそのままだった。正夢なのかもしれない、と思いながら答えようとしたところにナースコールで呼ばれた看護師が到着して話は立ち消えになった。
 看護師には追い立てられそうになったユウヤミだが、後から到着した医師にその場にいて良いと言われたのでヴォイドの隣で一緒に説明を聞く。
 赤水に溺水した事や低体温になっていた事、現場に居合わせた人が迅速に人工呼吸と胸骨圧迫と脱衣保温をしてくれたので命が助かった事、現在の治療方針などをざっくり説明される。その間、ヴォイドは顔色悪くぼんやりした表情で聞いていた。
「ホロウさん、何か質問はありますか?」
 一通りの説明を受けた後、聞かれた事へ口の代わりにヴォイドの腹の虫が派手な唸りをあげた。
「……もしかしてお腹が空いてるんですね?」
 笑いを噛み殺しながら聞く医師。勿論、音が聞こえる範囲にいた看護師も同じである。ユウヤミだけは妙に和やかな表情になっていた。
「短時間なら酸素マスクを外して良いですよ。低血糖の症状も出ていますし、経口摂取できるならその方が良いです」
 消化の良いものなら大丈夫でしょうが、この時間なのでブドウ糖のゼリーで我慢して下さい。そんな事を言った医師は「今後の話は明日にしましょう」と言い残して引き上げていった。
「ホロウ君、粥麦あったら食べるかい?」
「あるの?」
「温めるだけのレトルトならあるよ」
「……食べたい」
 少し逡巡したヴォイドだったが、食欲に時間など関係ない。
「じゃぁ、ちょっと待っててね」
 ふにゃりと微笑んだユウヤミはヴォイドの頭を一撫でして病室を後にしようと腰を浮かせる。
「そうだ……ユウヤミ」
「なんだい?」
「さっき言ってた『現場に居合わせた人』って……ユウヤミ?」
 妙な空白が病室に広がる。いつも通りの笑みを貼り付けたユウヤミは小首を傾げた。
「どうしてそう思ったの?」
「うーん……夢の中で会ったから、かな」
 酸素マスクの下で答えるヴォイドの顔に誤魔化すような色は何も浮かんでいなかった。
 ただ本当の事を確かめたい。照明を受け光る青と緑の混ざったような瞳は、さながら数多の生命蠢く地球の様で眩しかった。
「……ホロウ君は本当に目敏いね。そうだよ、推察の通り」
 ほんの少し躊躇ったユウヤミだったが、ヴォイドの質問に肯定を返した。
 せめて、いつも通りに平然と。
「あ、ありがとう……!」
 間髪入れず帰って来たのは感謝の言葉だった。ユウヤミの上着の裾をぎゅっと握りしめながら言うヴォイド。
「生きてるから……ありがとう」
 それでも、ユウヤミと絡んだ眼差しは春の日差しのようにとても優しかった。
 人工呼吸、胸骨圧迫、脱衣保温ーー成すべき事を為さんが為、ヴォイドの思考をなぞった行動に過ぎなかったが、された側としての彼女の見方までユウヤミは読み切れなかった。言って関係性が破綻するかどう転ぶのか、幾ら予測を重ねても確定した未来は視えず、浮かんでは消える「もし」の未来に怯えている自分がいた。確率が低いと踏んでいた事象が起きてしまった後だから余計にかもしれない。
 故に、ヴォイドの口から即座に紡がれた感謝の言葉はどの未来予測とも違うものだった。
「そっ……か。うん、それなら良かった」
 ヴォイドらしからぬレスポンスの速さには驚き、何より先に礼を言われたのは何処か面映ゆく。準備していた数多くの言葉の代わりに「良かった」としかユウヤミは答えられなかった。
「粥麦温めてくるね」
 半ば逃げるように粥麦の袋を持って病室を出て行ったユウヤミには、ワンテンポ遅れて色々気が付いてしまい頬を染めたヴォイドの顔は目の端にしか見えなかった。

 廊下に出ると暗がりで待機していた人影がユウヤミの後ろを数歩下がってぴたりとつく。その静かで冷淡な殺気に浮ついたユウヤミの足取りは一気に冷却された。
「あ、今は君がお目付役だっけ?」
「あぁ。交代制だからな」
 答えた人影は昼間、ヒン・ヌゥを警察まで連れていったミフロイドの部下だった。今は私服姿だが、漂う緊張感は警察の人間であると物語っていた。
「仕方ないよねぇ、機械人形マス・サーキュは目立つもの」
 軽い咳をしながらユウヤミが世間話のように言う。
 現在ヨダカは警察にデータ提出も兼ねて里帰り中である。軍警病院からは機械人形マス・サーキュの持ち込み許可を取っていたが、目立つ事や入院患者への心象を考慮した結果、人間の監視役に代えられた故だった。
 ミサキの付き添いとして病院に向かったヨダカは、こんな事もあろうかとユウヤミが準備していた入院セットを持ち込み、今日中に提出する書類のチェックをし、ぐだぐだするユウヤミを叱咤し、ミフロイドの部下二人にユウヤミの警護兼監視を引き継ぎ、人間なら音を上げる程の仕事をこなしてから警察へ向かったので、今頃充電器から離れられない状態になっているであろう。
「おい、部屋に戻るのか?」
 そう聞かれたユウヤミは右脚を引きずっていた。瓦礫に挟まれた時にできた傷はあまり綺麗な傷ではなかったのもあり、完全な治癒は遠そうだった。背中にはあざも数カ所できている。
 得体の知れない赤錆の水を浴びた事もあり、1日は入院して様子見をした方がいいと言われたので、部屋は違えどユウヤミも入院患者である。よって、今の服装は濃いグレーのパジャマに薄いグレーのカーディガンを羽織ったものだった。
「うん?巻き込まれた同僚の為に粥麦を温めに行くだけなのだけれど?」
「方向が逆だ。共用の電子レンジなら病室を出て右だろ」
 監視役の彼が言う通り、ユウヤミは真逆の方向に歩いていた。
「ついでに売店行きたいって言えばいいのかな?」
「時間的にもう閉まってる」
 既に午後7時を回って8時近い。面会時間は過ぎているし、院内の売店はとっくに閉まっている。勿論、夜勤以外の職員もまばらになってしまっている。先程の担当医師は帰り支度をしていたところを呼び出されただけである。恐らく既に帰路についているだろう。
「じゃぁ外のコンビニかなぁ」
「院外に出るのは禁止だ」
「ふぅん……じゃぁ仕方ないなぁ。君が代わりに行ってくれるなんて事はなさそうだしねぇ」
 チラリと顔色を伺うが、監視の仕事を優先している彼にユウヤミの側を離れる選択肢はなかった。
「君さぁ、警護の仕事ってあんまり好きじゃないのかな?」
「いきなり何だ。アンタの警護に付きたがる死にたがりなんて知らないな」
 ぶっきらぼうに答える彼の背はやや後ろに反って不安と緊張が滲んでいた。
「ふふ……まぁそうだろうねぇ。その中できちんと仕事を果たす君は社会人の鏡じゃないか」
「上司命令で他にやる人材がいなければ仕方ない」
 ユウヤミに褒められても嬉しくないと言うようにやれやれと頭を振る。
「大体だな?大きいヤマを荒技でスピード解決したアンタの所為でこっちだって仕事が余計に増えてんだ。片付けるのに時間かかった挙句にアンタのお守りだって!?冗談じゃない、こっちにも予定があったんだ!スピード解決したのは文句言わないが、何も特例ずくめにせずともできた事じゃないのか!?えぇ!?」
 半分泣きそうな顔でユウヤミに愚痴る刑事。終いには手で瞼を押さえてしまった。
「それは悪かったねぇ……君にとっては災難だったか」
 眉を下げて「反省してます」の顔を作ってしょんぼりして見せるユウヤミ。大きなため息をつく刑事には言いたい事がまだ溜まっていそうだなとユウヤミは思った。
「時に君さぁ」
 話題を逸らすユウヤミに視線を向ける刑事。
「今時のSPはお喋りなのだねぇ」
 興味深いとでも言いそうな薄い笑みを貼り付けて刑事の顔を覗き込むユウヤミ。
「他の入院患者に配慮し給え。声が大きい」
 何も意識していなかった刑事の目が見開かれ、焦りに傾いていく。
「ほら、其方のお姉様方が困った顔をされているじゃないか」
 ユウヤミの手を向ける先を見た刑事は、静かにしろと女性看護師から鋭い視線を送られた。すみませんの気持ちを込めて会釈をし、視線を戻すともうユウヤミはいなくなっていた。周囲を見回してもどこにも居ない。
 さっきまで片足を引き摺っていたのに。少し目を離しても大丈夫だと思ったのに。そんな速く動けるはずがないとたかを括っていた。
「アレに油断も隙も無いっ……!」
 鋭く舌打ちをした刑事は、直ぐに監視役の相方に連絡を入れるべく携帯型端末を手にとった。

 見事に刑事を撒いたユウヤミは職員用の夜間出入り口を通って近所のコンビニへ買い出しに行き、帰りも刑事に見つかる事なくヴォイドの病室のある廊下まで戻って来るという偉業を成し遂げた。もちろん粥麦も温めてある。
 ただ、此処に来てちょっとした誤算があった。
「おいリーシェル。患者が外出歩くンじゃねェよ」
 廊下の壁にもたれて怠そうな目をユウヤミに向けていたのは赤い髪の女性だった。カーキ系のチュニックを着て、赤い髪を団子で一纏めにしている。
「あれ、シン君?帰らなかったのだねぇ」
 一欠片も悪いと思っていなさそうに答えるユウヤミにアンのため息が深くなる。
 話はユウヤミが脱走した直後に戻る。
 ユウヤミを見失ってしまった刑事は相方の監視役と連絡を取り合って相談した結果、普段一緒にいるヨダカの試算を聞いてみようと結論した。連絡されたヨダカは「今の状況を鑑みるに待っていれば帰ってきます」と返答したが、「次は同じ事が起きないように此方から助っ人に連絡します」とも言った。
 そのヨダカの連絡した助っ人がアンだった。ミサキが病院に運び込まれたとテオフィルスから連絡を貰っていたアン。入院措置になったミサキの付き添いとして今日は泊まり込む事になっていたので、ヨダカは一言頼む事にしたのだった。
 そして話は現在に至る。
「白々しいな。てか話すり替えンなよ。外に必要なモンならあーしが調達して来ンのに」
「いや、そこまで負担かけるのは悪いと思ってねぇ」
「ヴォイドの夜食だろ?粥麦一杯なら気にする手間じゃねェだろ」
 首を捻るアンにユウヤミが苦笑を返す。
「シン君知らないよねぇ……ホロウ君がどれくらい食べるのかなんて」
「ンなとんでもねェ量なのか?まさかな」
「そのまさかなのだよ。君は食堂で見た事ないかい?」
 食堂、と言われたアンは何かを思い出したらしく小さく「あぁ……」と声を漏らした。
 女性にしては身長の高いヒルダもよく食べるが、負けず劣らず食堂で山盛りの炊麦を食べている青スクラブの青髪がいたところなら見たことがあった。
「どうやって生きてたンだ……?」
 ヴォイドが岸壁街出身者である事は風の噂で聞いていたが、あれだけ食べて太らない高代謝の身体を抱えてよく生きてきたなと思う。毎日必ず食料にあり付けるかわからない世界では生まれつきの要素が重要だと言うのに。ラクダのコブの如く全部栄養を胸に蓄えているのだろうか?
「まぁそう云う訳なのだよ。ホロウ君の方は私に任せて、君はケルンティア君の側に居てあげた方が良いのではないかな?」
「ハァ?」
 人の良さそうな笑顔を貼りつけて申し出を辞退するユウヤミだが、アンは多少の誤魔化しが効くような人ではない。ドスの効いた声で撥ね付ける。
「だからテメェ話すり替えンじゃねェってんの。それとこれとは別だ。負担がどうのって宣うんだッたら、テメェの金で買ってきてやる」
 腕組みをしてキツい視線を向けるアン。何時間か前、ミサキを前に泣き崩れていた姿とは大違いである。
「ミサキを生きて連れ帰った礼だとでも思ってくれ。恩に報いるのは最低限の礼儀だろ?てか、ンな無理な動かし方すりゃァテメェだって治りが遅くなンだろ?仕事に戻ンのも遅くなっちまう」
「ふふ……シン君、君は優しいねぇ」
 そう答えつつ、ユウヤミは大方ヨダカが裏から手を回している確信もあった。だが、アンのぶっきらぼうでいて真っ直ぐな眼差しは言葉が嘘ではないと語っていた。それに、いつも通りに動こうとすると脚の傷が疼くのも事実だった。
「ふむ……じゃぁ次から入り用の時は君に頼む事にするよ。あんまり無下にすると後でベネット君にも色々言われそうだからねぇ」
「彼奴は今関係ねェだろ」
 顔色悪く答えるアンに貼り付けた笑顔を向けると、ユウヤミは横をすり抜けて病室へ入って行った。「仮面野郎が……」とアンがボソッと言ったのは聞こえなかった事にして。

 ヴォイドの元に戻ると、病院側が出したブドウ糖ゼリーで少し元気が出たのか顔色が回復していた。机の上には食べ切ったブドウ糖ゼリーの包みが置いてあり、コップにはペットボトルの兎頭国ブレンド茶が入っていた。
「お待たせ。粥麦、食べるかい?」
 既にベッドの半分を起こして寄りかかりながら待機していたヴォイドはユウヤミの言葉に力強く頷く。電子レンジで温めてから少し時間が経った粥麦は食べ頃の温度だった。
 一口、粥麦を口に含んだヴォイドの目の色が変わる。
「ゆっくりでいいからね」
 そう言うユウヤミの声は聞こえていないらしく、ろくに目を合わせずヴォイドは粥麦をかき込んでいく。何故か耳が赤く染まっていた。
 ぺろりと粥麦を平らげたヴォイド。ユウヤミはその様子を見て微笑むと、コンビニへ脱走してまで買ってきたとある物を出そうと袋をあさり始めた。
「ねぇユウヤミ……」
「なぁに?」
 手を止めてヴォイドを見るユウヤミの表情はいつも通り過ぎる程にいつも通りだった。照れて赤くなっていたヴォイドからすれば馬鹿らしく思えるほどの余裕さを見て、少し腹立たしさが加わる。
 私はこんなに迷って戸惑ったのに、なんでそんなにいつも通りなの?救命の為に必要な事でも、何をしたのかわかってるの?何も……何もないの?
「みっ、右足……怪我してない!?」
 胸中色々な感情渦巻くヴォイドは躊躇った挙句、何をどう聞けばいいかわからなくなって一番確認したかった事ではない方に話を振ってしまった。
「流石、目敏いホロウ先生だねぇ」
 目元に苦笑を浮かべたユウヤミが右脚を軽く叩く。
「瓦礫で切っちゃったみたいで何針か縫ったよ。ちゃんと処置してあるから大丈夫」
「瓦礫……!?それで縫ったの……折れたわけじゃないんだ?」
「そう、縫っただけ。心配してくれてありがと」
 ふわりと微笑むユウヤミの表情は優しく、さっきまでの無のようないつもの笑顔とは違った。どちらかと言えば少し緊張が緩んだ時のようにヴォイドには見えた。
「どうしたの?もしかして傷口見たい?」
 呆けてユウヤミの顔をじっと見たままだったヴォイドは聞かれてから慌てて視線を下げる。
「あ……うん。ユウヤミ、歩いてる時辛そうだったから怪我の程度見ておきたいし、縫い方とかも色々気になる」
「仕事熱心だねぇ、ホロウ先生?」
 喉でククッと笑うユウヤミ。出来るだけ平然と歩いたつもりだったが、ヴォイドには看破されていたらしい。
「じゃ、酸素マスクが要らなくなったら診てもらえるかな?」
 不服そうに眉根を寄せるヴォイドにユウヤミは困った様に笑いかける。
「ほらほら、そんな顔しないでよ。今は自分の心配をしてくれないかい?」
 ヴォイドの酸素マスクをかけ直し、ついでにくしゃりと頭を撫でる。
「それに……背中痛いから物理的に無理かなぁ」
 少し寂しそうな笑みを零したユウヤミの顔を見て、聞こうと思った事をヴォイドは飲み込んだ。聞くまでもない事だった。
 ユウヤミはユウヤミなりに緊張していたんだ。いつも通りのよそ行きの顔が本心を悟られたくない故であれば、さっきから表情に透けて見える緊張と緩和の繰り返しが納得できる。
 質問する代わりに頭に添えられていたユウヤミの手に少し擦り寄ってみるヴォイド。
 僅かに目を見開いたユウヤミの顔にはすぐ笑みが広がり、無理をするような緊張の色は薄まって消えていった。

「そうだ、ホロウ君」
 膝の上の袋を机に置いたユウヤミが椅子を引き寄せながら食い気味に聞く。
「事件のあらましは聞きたいかい?」
「さっき、アンからミサキが隣にいるって聞いた。他の皆んなも無事なんだよね」
 軽く頷きながら答えるヴォイド。
 少し前まで聞こえていた乾いた咳は収まったのか、オレンジのカーテンの向こうにいる筈のミサキは静かだった。付き添いに来ている筈のアンの気配は無い。
「詳細は報告書の斜め読みで把握して貰えればいいのだけれどね……事件被害者として早く確認しておきたい事もあるんじゃないかと思ってねぇ」
 そう言いながらユウヤミは、行方不明者を探す為の特別捜査班が開設されたところからセルゲイの共犯から聞き出した情報で犯行現場たるモンパ村のホテル・モルガンテまで行き着いた事をかいつまんで説明した。
「ケルンティア君はね、ホロウ君が先に送り出してくれたから助かったのだよ?特捜班がホロウ君を探す時も協力してくれたのだよねぇ」
 目を見開くヴォイド。ヴォイドの脳裏に、ミサキがOCガスで咳が止まらなくなっていた様子や寒いユニットバスの中で凍えていた様子が浮かび上がる。
「喘息の発作は……?」
「常備薬の吸入器で多少は抑えられたみたいだね。救出直後は動けそうになかったのだけれど、後でインカムで聞いた声からすれば小康状態ではあったと思うよ」
「少し収まったところで……無理、したのかな」
「無理と言えばそうだろうねぇ……犯行グループが遠くまで逃げないよう車の燃料タンクに砂糖を混入したのはケルンティア君だろうし、私もマーシュ君もケルンティア君にあの場で叱り飛ばされたからねぇ」
「え!?」
 開いた口が塞がらないヴォイド。ミサキならやりかね無い気はしたが、それにしても体調が芳しくない中で図太い事をするものである。
「ケルンティア君は真っ当な事しか言って無いよ。むしろ、それで皆んな助かったんだから感謝しなくちゃぁね?」
 クスッと笑うユウヤミがセルゲイら犯行グループを捕獲しに行ったのがロードで、情報収集やマルチコプターでの偵察と監視はテオフィルスだという事を語る。ユウヤミが221B室にたどり着いた時にはユニットバスの外側は目貼りと接着剤で固められていた事、開けたらヴォイドと一緒に出てきた水の勢いで壁と天井が崩落した事、この崩落で脚を怪我したらしい事も手振りを交えつつ語っていく。
「それで、ホロウ君も知っての通り水獄で溺水していたところを私が心肺蘇生したという訳なのだよ」
 心肺蘇生と聞いてヴォイドの耳がまた赤く染まったのに気付いたユウヤミが柵に頬杖をつき、すっと目を細める。
「何を考えているのかな?ホロウ君?」
 事態を面白がるような光を浮かべるユウヤミの目を見て、余計に照れが顔に回って上手く言葉が出てこなくなったヴォイド。口を真一文字に結び、柵に添えてあったユウヤミの手をぎゅぅぅぅと効果音が付きそうな程力任せに握り締める。
「あたた……ごめんってば。結構痛いかも、それ」
 眉間に皺を寄せるユウヤミに構わず力を込めるヴォイド。チラリと心電図に目を走らせたユウヤミは、心拍血圧共に上昇している事を数値で確認した。
「救命行動から外れた事はしていない、とだけは言わせてくれないかい?」
 ちょっと拗ねたようなユウヤミの口調に渋々ヴォイドは手を離す。
「時に……救急車で軍警病院に運ばれた時、話を聞いたエルナーさんの奥さんが入院準備を買って出てくれたのは聞いたかい?」
 急にユウヤミが話の方向を変え、目を瞬かせながらヴォイドは記憶を検索する。
「あ……うん、ユウヤミがいない時にアンから聞いた。ロザリーが色々用立ててくれたって」
 そう、実はロザリー・エルナーがヴォイドの入院準備に全面協力していた。保険証の準備や身の回りの小物から始まり、着ていた服の洗濯までこなし、一般の病院に慣れていないアンのサポートまでしていたのだ。
「帰る時かなり名残惜しそうだったのだよねぇ……泊まり込めないから、って面会時間ギリギリまで待っていたのだけれどねぇ」
「そうなんだ……」
 まさかロザリーまで巻き込む形になるとは予期していなかったヴォイドだが、日常生活面で言えばこれ以上の助っ人はない。申し訳なさより心強さが勝って少し頬が緩んだが、次の瞬間ロザリーが洗濯をした話から重大な事を思い出した。
「そうだ……あの服……」
「服がどうしたんだい?」
「ユウヤミのくれた服、また汚しちゃった……」
 食い倒れ祭りの時のベージュトップスも愛の日のブルーグレーコートも他の服も全部、赤錆の溶けた水にしばらく漬け込んでしまった事を思い出して悄気るヴォイド。見事に茶色く染まって赤錆臭が纏わり付いていそうだと肩を落とす。
「ホロウ君……」
 例のベージュトップスが汚れた時も残念そうな顔をしていたが、今はその時よりわかりやすくずっと“人間らしい”落ち込み方をしていた。そんなヴォイドがユウヤミには少し眩しく見えた。
「あのね、綺麗に洗えたってロザリーさん相当喜んでいたから今回は大丈夫だと思うよ」
 ロザリーの置いていった白い布製カバンを足元から持ち上げてヴォイドに手渡すユウヤミ。恐る恐るヴォイドがカバンを開けると1番上にメモ書きが乗っており、ロザリーの癖の強い字が目に飛び込んできた。
『ヴォイドへ。お洋服は全部洗濯しておきました。コートは丸洗いOKだったので一緒に洗ったけど、もし気になるようならクリーニング店へ持っていって下さい。赤錆汚れは還元型漂白剤で落ちました。ヴォイドの体調が一日も早く回復しますように。エルナー家一同』
 さっと目を通すとヴォイドは直ぐにカバンの中で畳まれているトップスを掴んで広げた。両手で広げた服は少し色落ちしたように見えたものの、シミひとつなく綺麗な状態だった。
「良かった……」
 呟いたヴォイドがぎゅっとベージュトップスを抱きしめる。大事そうに抱え込んで離さないその様子にユウヤミの眦も下がる。
 思う存分トップスを抱きしめたヴォイド。次にカバンの中に入っている物を一つずつ出して確認していくと、底にビニール袋に包まれた何かが入っていた。袋から透けて見える色と形からヴォイドが推察するに、着ているはずの下着だった。だが、身に付けている感覚がきちんとある。
 そうか、ロザリーが入院準備を全部してくれたというのはそう言う事か。覚えのない歯ブラシセットやコップまで置いてあったのは本当に何から何までロザリーが準備したって事か。一般の病院ではそういうものかと勘違いしてた。
「ありがとね、ホロウ君」
 カバンから目を挙げると、組んだ指に顎を乗せて微笑んでいるユウヤミがいた。
「あの時の服、大事にしてくれて」
「……ユウヤミが初めてくれたものだから」
 トップスとコートを一緒に抱き抱えながら答えるヴォイドの顔はうららかな春のように穏やかで、そして少しだけ熱がこもっていた。
 それから、セルゲイが捕まった後の話になり、ロードとテオフィルスは特例ずくめの警察からの委任捜査だったのもあって提出書類の山を片付けるのに追われていた事や、病院の休憩室で作業しつつ交代で様子見に来ていたが面会時間の都合で帰った事、終業後にミアとネビロスがお見舞いに来た事をユウヤミが語っていく。
「で、さっきのレトルト粥麦とひとくちフルーツゼリーはマーシュ君から、こっちのお茶と今履いてる厚手靴下とスリッパはメドラー君から、ここに飾ってある花はフローレス君からのお見舞い品だよ。事件時の持ち物は警察の検査が終わったら帰ってくるからね」
 ユウヤミが手で指し示す先には兎頭ブレンド茶のペットボトルがある。ベッドの横にはゆめかわ系のスリッパ。飾ってあるガーベラは生き生きと咲き誇っている。
「因みに粥麦とお茶と花はケルンティア君にも同じ物を差し入れしたらしいよ」
 カーテンの方を無意識に見やるヴォイド。向こうではどれもこれも全く手を付けられていないとは知る由もない。
「そう言えば、あれ何?」
「『文字には力があるんです』ってフラナガン君は言ってたよ」
 ヴォイドが指さす先の壁には「健康回復」と書いた紙が貼ってあった。良く言えば味のある字体、悪く言えば癖の強い踊ったような字体ででかでかと書いてある。
「フラナガン君なりの気遣いなのだろうねぇ」
 フィオナの名誉の為に付け加えるが、普段の字は流石ボールペン習字を続けているだけあって大変読みやすいものである。今回癖が強いのは単に気持ちが入りすぎてしまった故であって粗雑に書いたわけではない、とここで強調しておく。
「フラナガン……?」
「総務部のフィオナ・フラナガン。会った事はあると思うけれど?」
 ユウヤミに言われて首を捻るヴォイド。所属班は違うし、辛うじて知っているのはロードの友人である事と核弾頭のような女性であるところまで。加えるならヴォイドには理解しにくい単語を使うところだが、どのみちほぼ接点はない。
「今回、失踪事件として最初に捜査をしたのは総務部だよ。結社敷地周辺の捜索をしたり、行方不明者届を警察に提出したり、特別捜査班編成に伴う環境準備にもフラナガン君は関わっていたらしいね」
「そんな事になってたの……」
 ユウヤミ、ロード、テオフィルス、ロザリー、アン、ミア、フィオナ、顔も名前もよく知らない総務部メンバー。関わった人の多さにヴォイドは少し身震いした。
「そんな大きな物、返せない……」
 呆然として呟くヴォイドにユウヤミが困ったような笑みを浮かべる。
「良いんだよ、ホロウ君。ホロウ君が元気に生きていてくれる事が一番の恩返しになるのだからねぇ」
「そう……なの?」
「勿論。ホロウ君と、生きて、こうやってまた顔を合わせて話せた事が私は一番嬉しいんだもの。返すのは元気になってそれからゆっくり返せばいいよ」
 少し前のめりになって微笑むユウヤミ。
「色々あったけれど、何よりもホロウ君たちが助かって良かったよ。約束通り“消滅の神様”からは逃げ切れたでしょ?」
 一瞬呆けたような顔をしたヴォイドだったが、じんわりと微笑みが広がっていった。
「……うん、ユウヤミも私も逃げ切れたし、生きてて良かった」
 それ以上何を言うでもなく、二人は笑みを深めてただ微笑みあった。

「ねぇホロウ君。折角だからこの際聞いておきたい事って何かあるかい?」
「聞いておきたい事……あ、今日はヨダカいないんだね。病院だから?」
 いつもならユウヤミいる所にヨダカ有り、と言うほど影のように一緒にいる筈なのに今日ヴォイドは顔を見ていなかった。
「いや?今は事件に関係するデータ提供の為に警察に預けてあるよ。明日には戻ってくる予定」
「そうなんだ……てっきりヨダカ壊れたのかと思った」
「はは、機械人形は頑丈だからねぇ……余程狙わない限り簡単には壊れないよ」
 それもそうか、と納得したヴォイドが今度は視線を下に傾けて何かを思い出そうとする。やがて何かを思い出したらしく、一つ頷いた。
「結局……セルゲイとかソーニャって何なの?ミサキが個人的な怨恨とか殺されかけたとか……そんな感じのこと言ってたけど、つまり何があったの?」
「やっぱりケルンティア君は知ってたか……」
 呟いて眉間を軽く揉んだユウヤミは少し唸っていたが、やがて意を決して顔を上げた。
「今回過去の怨恨に巻き込んでしまった訳だし、ホロウ君には聞く権利があるね。全く良い話ではないけれど」
「それでもいいよ。聞きたい」
「んーそうだねぇ……セルゲイ・トカレフから見た私は恋敵で殺人犯、ってところかな」
 顎に指を添え、此処ではない何処かに視線を漂わせていくユウヤミ。
「通称『生き人形事件』が起きたのは2168年のアス。丁度今日から6年前だね。当時、私も探偵として駆け出しでね、依頼の選り好みなんてする余裕が無かった頃だ」
 人探しの依頼人として事務所を訪れたソーニャに勘違いで気に入られた事。狂言依頼をしてまで付き纏われた事。口頭での説得を繰り返してなんとか諦めて貰った事。まもなく不可解で猟奇的な殺人事件が起きて捜査を進めると主犯はソーニャだった事。ソーニャに入れ込んでいたセルゲイに拉致監禁されて待ち構えていたソーニャにエンバーミングされた事。ソーニャは今まで何人もの男性を殺害しては冷凍庫でコレクションしていた事。
「と言う訳で、危うく全身の血を抜かれた氷漬けコレクションにされるところだったのだよねぇ」
「氷漬けコレクション……!?」
「そう。結局はギリギリで警察が到着して保護して貰えたから今生きてる訳なのだけれど、この時ちょっとした偶然があってね。警察が来た事に気付いたソーニャに冷凍庫で無理心中させられそうになったのだけれど、すんでのところで彼女だけ手が滑って冷凍庫に閉じ込められた」
 此処で一旦言葉を切ったユウヤミがヴォイドの目を見据えて人差し指を立てた。
「ここで質問です。血圧を上げる薬を多量に服用した状態で、マイナスに迫る冷水に落ちたらどうなるとホロウ先生は思いますか?」
 いきなり話を振られて戸惑いつつも、ゆっくり答えるヴォイド。
「……血管が一気に収縮、不整脈が起きて虚血性心疾患の誘発がありそう。それに脳卒中も起こるかも……最悪死亡するケースもあると思う」
「そう言う事。冷凍庫内に準備していた水の中に落ちたソーニャは救急隊の努力虚しくそのまま死亡してね、その一部始終を見ていたセルゲイは今までソーニャに振り向いて貰えなかった恨みを含めて『悪い事になったのは全部リーシェルの所為だ』と思い込んだらしい。丁寧にも宣戦布告されていたのをついさっき思い出したよ」
 自分が犯罪を犯した事を理解しながら『リーシェルだけは許さない』と取り調べで宣言したセルゲイの声がユウヤミの耳の中で蘇る。
「主犯のソーニャは死亡したけれど、従犯のセルゲイは裁判の結果に従って懲役30年の刑に服役していた、筈だった」
「何があったの……?」
「去年11月、移送中に脱走したセルゲイは近隣住民の車両を奪って逃走。警察が行方を追ったものの捕まえる事はできず、関連するであろう事件が起きても足取りは掴めず。それで今回の事件が起こるに至った、という訳だよ」
「だから……恋敵で殺人犯?でも全部ソーニャとセルゲイの思い込みだよね?ユウヤミはどう見ても被害者でしょ?」
「此処が人間心理の不思議なところでね?信じたい事がその人にとっての真実になるものなのだよねぇ……」
 眉を下げて長い溜息を吐くユウヤミには悲しげな影が浮かんでいるようにヴォイドには見えた。
「ユウヤミは、どう思うの?」
「そうだねぇ、犯罪心理学の分野としては興味深くて研究し甲斐のある事件だったと思うけれど?」
「それだけ?」
 じっとヴォイドの地球によく似た瑠璃色の瞳に見つめられたユウヤミは、何かを見透かされたような感覚に少しだけ肌が粟立った。
「ホロウ君に言われたら隠し立て出来る気がしないなぁ」
 気が抜けたのかユウヤミの顔からは表情がすっぽり抜け落ちていた。
「ソーニャに対して個人的な感情は今も昔も何もないのだけれど、正直幾ら考えても彼女の行動の意味が理解できないのだよねぇ……まぁ、思い出すのはそれなりにストレスだよ」
 今までユウヤミは事件の回想がストレスかどうかなど考えた事がなかった。昼間、生き人形事件の事を考えた時に無意識に鎖骨を摩っているとヨダカに指摘されるまでストレスになる事だと気付いておらず、今言葉にして漸く腑に落ちたところだった。
 何もない筈なのに思い出すとストレスになるなんて不思議だと考えていたユウヤミは、ぽふっと頭に何かが乗せられた感覚で現実に引き戻された。
「えっと……?」
「ストレスなのに、ユウヤミが随分話してくれたから」
 そう言いながらヴォイドがわしゃわしゃとユウヤミの頭を撫でる。猫というより犬を撫でる時のような遠慮のなさだったが、ユウヤミは気にしない事にした。
「ふふ、ありがとう。ホロウ君」
 屈託ない笑みを浮かべたユウヤミは、伸ばされたヴォイドの手を片手で止どめるとそっと掌に包んだ。
「いいかい?ホロウ君は巻き込まれた被害者なんだから、何も責任なんて感じなくていいんだよ。さっきの話だって知りたくて当然の事だもの。全然気にしてないよ」
 ユウヤミのしかと握った手袋の無い手の温もりから、縋るように念を押す圧をヴォイドは感じていた。
「償いより怨みを肥大化させたのはセルゲイの問題。そんなセルゲイの更生も出来ず、脱獄を許してしまったのは司法機関の問題。最初の事件当時に遺恨なく解決できなかった私の問題もあるし、他にも沢山の思惑とミスが重なってできている……」
 ヴォイドの手を握り直すユウヤミ。
「でも、もう全部終わったから。セルゲイに狙われる事は無いから安心して」
 言い切るとユウヤミはふわりと笑みを浮かべた。
 ユウヤミが断言する時は本当にそうなる時。理解しているヴォイドは頷いて「もう終わったんだね」と返した。だが、泣きそうな自分の気持ちはよくわからなかった。

「そうそう、前からホロウ君に言いたかった事があってね」
 ベッドの柵にもたれているユウヤミが物のついでのように口を開く。
「前に、私の名前を呼ぶのが好きだって言ってくれただろう?」
「……うん」
「私もね、ホロウ君の名前を呼ぶのも、名前そのものも好きなんだって言っておこうと思って」
「ふーん……え?」
 世間話の延長のように何気なく言われた事。内容を直ぐに理解できず、呆けた顔のままヴォイドがフリーズする。だがユウヤミはヴォイドがフリーズしている事に構わず話し続ける。
「何もないのは全ての始まり、ひいては無限の自由を表すと思うのだよねぇ」
 指先を回して空中に円を描くユウヤミが静かに微笑む。ユウヤミにとって自由は監視者だらけの中のあるようで無い小さな世界を指す。だが、ヴォイドの名に重ねて見た自由は大空を自在に飛びながら迷わない鳥のような、そんな大きな世界だった。
「だから、ヴォイド・ホロウって名前が好きなんだよ」
 呆けたままのヴォイドの顔をユウヤミが覗き込むと、みるみるうちに彼女の瞳には涙が溜まっていき、口を真一文字に結んで何か堪えるように頬を染めた。
「ホロウ君はきっと何にだってなれる。君が望んで羽ばたきたい空があるならね」
 言い切るかどうか。赤く染まったヴォイドの目元から一つ、また一つと涙が溢れていく。
「ホロウ君……?」
 そう言えば前も感情が昂った時に目を潤ませていたなと思い出したユウヤミは、ヴォイドの頭だけを抱き寄せて落ち着くように撫で始めた。
「ヴォイド・ホロウ、いい名前だよ?」
 その声が聞こえた途端、堰が切れたようにヴォイドの目から涙が溢れ出した。
 俯いて顔も覆って咽び泣くその様子を見たユウヤミの中で何かが変わる音がした。万華鏡が切り替わる瞬間のような音だった。
 頭を撫でていた手を止めて、すっぽり覆うようにぽふっとヴォイドを抱きしめるユウヤミ。ゆっくり、ゆっくり落ち着くように、猫が仲間を毛繕いする様に背中を摩る。
 一瞬ヴォイドは驚いた様だったが、何も言わずにただ酸素マスクの下で泣いてユウヤミに包まれていた。
「そっか……色々あったのだねぇ……」
 身を乗り出した時に腹に食い込んだベッドの柵も縫ったばかりの脚も痛かったユウヤミだが、余計な事は考えずにただヴォイドの背を摩った。
 同じような意味の単語を並べただけの名前から、ヴォイドの名は誰かが思いを込めて贈ったものではないのだろうとユウヤミは推測していた。生い立ちを全部知っているわけでは無いが、岸壁街最下層の孤児だったというなら想像に難くない事だった。
 それ故に、名前の話でこんなにヴォイドが泣くとはユウヤミも考えが及ばなかった。少し目が潤むにしても、もっと淡白な反応だと予測していたのだ。
「ユ、ヤミ……」
「うん?どうしたのかい?」
「言われ……ことなくって……あんま……り、泣くの、変?」
 しゃくり上げながら聞くヴォイドの背を、さっきより少し手に力を込めて摩るユウヤミ。
「泣きたい時に泣くのが1番良いんだよ。涙は自然な反応だもの、泣きたいだけ泣いて良いと思うよ」
 ユウヤミの返答とゆったりした心音を聞いて、止まりかけていたヴォイドの涙がまた溢れ出す。やがて、しゃくり上げた掠れ声のヴォイドはポツリポツリと自身の名前の由来についてユウヤミに語った。
 名前がなくて報酬が貰えなかった日の事。不便さから自分でつけた事。周囲から虚しい人間だと言われていた事。固有名詞の必要性から他の名前は考えなかった事。
 語られる内容をユウヤミはヴォイドの背を摩りながら、静かに相槌をして聞いていく。
「ねぇユウヤミ……『何もないのは全ての始まり』なの……?」
「そうだよ。広大な宇宙すらも最初は何もなかったと言われているからねぇ……無が揺らいでビッグバンが起こるまで時間も次元も無かったとする説があるんだ。でも、その無は揺らいだし今の宇宙は広がり続けている」
 だから始まりなんだよ、と続けたユウヤミの声には確信が有った。
「それで、無限の、自由……?」
「うん。ホロウ君なら新たな分野に踏み出してもきっと上手く成長できると思うんだ。新しい知識や技術を吸い込んでいく姿を見るとね、ホロウ君が一歩踏み出した方向はきっと良い学びのチャンスになると思えるんだ」
 腕を解いてヴォイドと視線を合わせたユウヤミはにこりと微笑みを浮かべて見せる。
「私はね、ホロウ君が空っぽだと思った事は一度もないよ」
 ユウヤミの言葉に目を見開くヴォイド。
「反応の淡白な人が必ずしも見かけ通りとは限らないからねぇ」
 ヴォイドの目がまた潤み始めたのを見たユウヤミは、彼女の頬にそっと手を添わせた。
「本当に空っぽな人って云うのはね、主体性がなくて誰かに命令された事しかできないものだよ。ホロウ君は今まで誰かの命令だけ聞いて生きてきたかい?」
 振り返ったヴォイドの人生の中には、自分ではどうにもならない岐路がたくさんあった。それでも、選べる岐路の時はどんな事であれ最後は自分で選んでいた。
「生きていたい、食料を確保したい、学びたい、それだって立派に軸だよ。損得で図るにしても自分で考えて出した答えだろう?」
 戸惑いながら小さく頷くヴォイド。
「私はホロウ君の過去を少ししか知らないけれど、少なくとも医学を志すのは誰かに言われたからってできるものではないのはわかるよ」
 見開いたヴォイドの瞳からまた涙がこぼれ落ちる。
「悲しくない……辛くない……なのになんで涙がっ……」
「そうだねぇ……君の心が君を追い越したんじゃないかな?」
 こぼれ落ちた涙をユウヤミが指先で拭う。
「わからないことがあるなら、これから学べば良い。学びに制限はないのだからねぇ」
 小首を傾げてにこりと微笑むユウヤミ。
「私も……偉そうに言える立場ではないのだけれどねぇ」
「え……?どう言う事?」
 聞き返すヴォイドに寂しそうな笑みを返す。
 表面を取り繕うだけで何者にもなれない私の方が空っぽだろうーーそうユウヤミは思ったが口には出さないでおいた。
 生まれてこの方本気で死にたいと願ったことはあれど、生きたいと願った事はないユウヤミ。種々の思惑が重なって生きることを許されているユウヤミの命は実質自分のものではない。人間としての正解が何なのか常に周囲を伺いつつ表面をそれらしく取り繕い、監視者からペナルティを受けないよう立ち回らなければならないと決められている。
 生きていたいとも思わないが死ぬ程の理由もなく、曖昧な立ち位置から目の前の事すら遠くの事のようで。
「……生きてる意味が見つからなくてね」
 呟くように答えたユウヤミに意外そうに首を傾けるヴォイド。
「そうなんだ……ユウヤミにも、見つからないものがあるんだね」
 少し口角を上げたヴォイドが言葉を紡ぐ。
「学びに制限はないんでしょ?いつか見つかるといいね」
「ふふ、そうだねぇ」
 でもね、ホロウ君。君を見ていると何かわかりそうな気がしてくるんだ。まだ上手く輪郭も掴めないけれど、何となくだけれど、前に思っていたより軽くなった気がするんだ。
 その言葉を飲み込んだユウヤミは代わりに笑みを深めるだけにした。

「そう言えば……なんでユウヤミここに居られるの?皆んな帰ったんじゃ……」
「うん?今更それ聞くのかい?」
 困ったような笑みを浮かべて袖を捲るユウヤミ。ヴォイドに差し出した腕には入院患者を管理する為のリストバンドが巻かれていた。
「同じ物がホロウ君にもついてると思うけど?」
 言われた通りにヴォイドが自分の腕を見ると同じデザインのリストバンドが巻かれており、ヴォイド・ホロウと名前が書き込まれていた。
「もしかしてユウヤミも入院してるの……?」
「そうだよ。ホロウ君の溺れたあの赤水がどうも曲者らしいって科捜研から言われてねぇ。足の傷口から何も入っていなければ良いけれどって」
「じゃ、この後に熱が出るかもしれないんだ」
 言いながらユウヤミのリストバンドに書かれた名前を見たヴォイドは眉根を寄せた。
「ん……?ユウヤミ、取り違えてない?」
「どうしたの?」
「だってこれ……ラウール・ケレンリーって書いてあるし」
 氏名の欄には「ユウヤミ・リーシェル」ではなく「ラウール・ケレンリー」と表記されている。
「あぁ、此れ……」
 ちょっと迷った素振りを見せたユウヤミは一つ頷いた。
「誰にも言う気はなかったのだけれど、ホロウ君にならいいかな。こっちが本名だよ」
 いつもの笑みを張り付けた顔でリストバンドを指先で弾く。
「ユウヤミ・リーシェルって名前は所謂ビジネスネームなのだよ」
 そう聞いてもヴォイドは視線を漂わせて何か考えただけで、さして表情を変えなかった。
「うーん……ユウヤミとラウール、どっちで呼べばいい?」
「あれ、驚かないのかい?」
「愛の日に軍警と何かあるって言ってたし……ビジネスネームじゃなきゃいけない理由とかもあるんだろうなって」
「ふふ……本当、ホロウ君は聡いねぇ」
 淡々と答えるヴォイドを見たユウヤミの顔には苦笑が浮かんでいた。
「そうだねぇ、職場で会う事が多い訳だから、ユウヤミのままの方が助かるかなぁ」
 軽く答えるユウヤミを見て、また少し考えたヴォイドが口を開く。
「ラウールの名前、忘れなくてもいい?」
「うん。職場で呼ばなければいい、というだけだからねぇ」
「今は職場でもないし仕事中でもない、よね」
 確認するようにヴォイドから覗き込まれたユウヤミが目を瞬かせる。
「ラウール、ラウール・ケレンリー……こっちの名前も好き。ちゃんと覚えておくね」
 穏やかに微笑むヴォイド。
 それを見てラウールの中に形成されていた何かが形を変える音がした。万華鏡が形を変えた時のような音だった。
「ユウヤミもラウールも良い名前……どっちも覚えていたい」
 言い切られたラウールは唖然とした顔のまま、ヴォイドの顔をまじまじと見てしまった。
「どうしたの?ユ……ラウール」
 ラウール・ケレンリーの名は殺人犯アルセーヌ・ラプラスと別人になる為に書類上必要だった名前にすぎなかった。少年院や大学、各種手続きや警察の中で使ってきたが、そこまで思い入れのある名前ではなく、常に仮名のような感じだった。むしろ幼き日に仮面としてつけたユウヤミ・リーシェルの方がしっくり来ていたのが本音だ。
 だが、ヴォイドに「ラウールの名前も好きだ」と言われた時、変わった。仮名のような宙ぶらりんの感覚がするりと消え、「ラウール」が自分の名なのだと15年越しに腑に落ちたのだ。
 名前一つで大袈裟かもしれないが、ラウールには人間に一歩近づけたような気がしたのだった。
「なんでもないよ。ありがとう、ホロウ君」
 気が抜けたのか無表情に少しだけ緩やかな笑みが浮かぶラウール。
「嫌じゃ……無いよね?」
「勿論。良い名前だって言われた記憶が無かったものだから、少し驚いちゃっただけだよ」
 嬉しいよ、と続ける。
 ふと、差し出されたままになっていたラウールの手に視線を落としたヴォイドは、真っ白い肌の中で妙に手の甲が黒ずんでいるのが見えて思わず目を止めた。
「気になるかい?」
「そんなに見てた……?」
 笑って頷いたラウールが口を開く。
「此れね、小さい頃、嫌なことを我慢する度に爪を食い込ませてたみたいでねぇ……当時の傷で若干皮膚が黒ずんでいるのだよねぇ」
「え……?そんな事があったの?」
 のらりくらりとしたラウールなら障壁を逆手に取って別の事に利用しそうなのに意外だ、と首を傾げるヴォイド。
「実を言うとね、ホロウ君。ユウヤミ・リーシェルの名前は幼い時に自分で自分につけた名前なんだ」
「なんで……?」
「どうしても、生き難くてね……」
「ラウール、生き難かったの?」
 少し憂いを乗せた顔で頷くラウール。
「人は集団の中でしか生きていけないからね。属する集団を選べる大人なら兎も角、幼少期を過ごす集団やメンバーは自分では選べない。どれだけ合わなかったとしても」
 遠くを見たラウールの瞳に何が写ったのかはヴォイドにはわからなかった。
「ホロウ君だから言えたんだよ。私、手袋そんなに外さないし」
 しけちゃうからこの話はここまでね、と話を切り上げたラウールは「そうそう、これ」と言いながら机に置いた袋を引き寄せて中身を取り出した。
「自分で作る時間が無かったからコンビニのものだけれどね」
 ラウールの見せたものでパッとヴォイドの顔が晴れて声のトーンが上がる。
「マカロン!」
 これがラウールがわざわざ監視役の刑事を撒いてコンビニまで行った理由である。コンビニのスイーツシリーズで販売されている期間限定マカロンをどうしてもヴォイドに渡したかったのだ。
「次の約束をしてから随分と経ってしまったからねぇ……お詫びも兼ねて、ね?」
 登場したマカロンをキラキラした顔で見つめるヴォイド。
「でも今食べたら胃腸が驚いてしまうのでないかい?」
「あ、そっか……忘れてた」
 直ぐに酸素マスクごとしょぼんと落ち込むヴォイドにラウールが苦笑する。
「賞味期限は直ぐじゃないよ。逃げないから食べられそうな時に食べてね」
 マカロンを机に置いた時、廊下の方で看護師と監視役の刑事の話し声が微かに聞こえたラウール。潮時かと時計を見ると思った以上に時間が経過していた。
「おっと、もうこんな時間だ。体調悪いのに長居しちゃってごめんね」
「ううん、話せて良かった。ありがと、ラウール」
 柔らかな表情のヴォイドを目に焼きつけたラウールが席を立つ。
「ふふ、じゃぁね、ホロウ君。おやすみなさい、良い夢を」
「うん。おやすみ、ラウール」
 穏やかな微笑みをヴォイドと交換したラウールは軽く手を振って病室の外へ出て行く。
 マカロンに貼ってある付箋に「マカロンのお菓子言葉は『貴女は特別な人』」と流麗な文字で書いた物を残して。
「Good night ,and have a nice dream……」
 小さく呟いたユウヤミはヴォイドとミサキのいる病室から離れて行く。隣で煩い刑事のことには目もくれず、口元に微かな笑みを浮かべていた。
 

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