薄明のカンテ - 愛は哀とて藍の如し:外伝/涼風慈雨

戦力外機械班

アンとヒルダ

 朝、出勤してきた時アンはいつも通りだった。始業から少し経って1本の電話がかかって来た時は、呆れた溜息を吐きながらミサキを起こしにいった。寝坊するミサキを起こしに行くのは時々ある事だしアタシは全く気にしないけど、機械班の一部の男性陣にはあまりいい顔はされない。そんな程度で、みたいな空気を醸してる奴が何人かいる。昔、アタシも大企業の設計部門で働いていた時もこんな空気を振りまく奴がいた。何年経とうがいつだってそういう輩はいるんだよな。てか、お前ら絶対誰かの世話した事ねぇだろ。母親とか嫁とかに全部押し付けておきながら被害者ヅラするのってこういうのに多い。アタシの親父とよく似てる。
 戻ってきたアンは凄く焦っていた。傍目からはいつもより顔色が悪いかなくらいだけど、ここ暫く近くで様子を見ててアタシにはなんとなくわかるようになってきた。自分の問題を抱え込んで言わないのはアンの美徳であり面倒なところなのだ。
「アン、何があった?さっきの電話の奴になんか言われたか?」
「ヒルダ……」
 恐怖、焦り、迷い、その辺の感情をごちゃ混ぜにした顔は凄く顔色が悪かった。少しの空白の後、アンの口から飛び出した言葉はアタシの顔色を変えるに十分だった。
「ミサキが、行方不明なンだ。多分昨日の夕方から」
「え、マジっ!?」
 うっかり声を上げてから口元を抑える。アタシも頭から血の気が引いていくのがわかった。
 ミサキはどれだけ大人ぶっても14、5歳の未成年だ。普段から外出外泊の多い子ならともかく、半分引きこもりみたいな子が帰ってこないとなると、事件に巻き込まれたと考えるのは簡単な事。
「あーし、どうすりゃ良いンだ?」
 眉根を寄せて見上げるアンは小刻みに震えていた。紫の目の奥に得体の知れないものへの恐怖が沈んでいた。
「えっと……ミサキに連絡つかないのか?」
「あァ。『電波の届かないところか電源が入っていない為繋がりません』ってアナウンスが入るばっかで」
 何やっても反応が返って来ねェんだ、と震える溜息を吐くアン。
「じゃ、じゃぁ人事部はこの話知ってんのか?」
「さっきメドラーが連絡したって言ってた」
 力なく言うアンはどうにもいつもの気怠さとは訳が違う不安定さを纏っていた。
「なら、向こうが警察に連絡すると思う。警察も探してくれるだろ、ミサキまだ子供なんだし」
「警察は探してくれるモンか……?」
「ったりめーだろ?子供なら半日行方不明だって探してくれるだろ」
「あーしらみたいな出の奴でもか……?」
 パチリとあったアンの視線。どす暗くて光のない目がアタシも少し怖かった。
「……アタシが知ってる警察の人で怖い人いなかった。マジでヤバイ事やってたらともかくさ、今アンもミサキも被害者じゃねーか」
 少し光が戻った目のアンは何か考えたようだった。
「な、アタシらは別に後ろ暗い仕事してるわけじゃねーじゃん?胸張って『探せ!』って思ってれば良いじゃん」
 アタシはアンにニカっと笑ってみせた。
「アンは、事情を聞かれた時に答える準備しとけばいいんじゃね?そうすりゃ、探す時間を短くできっかもしれねぇし」
 納得したような、でも気乗りしないような顔をしたアンはまた何か考えたようだった。
「ナァ、ヒルダ。『電波が入らないところ』ってどんなとこだ?」
「え」
「地下だろ……それに金属の中、鉄筋コンクリート、後は海底……」
 いきなりアンに聞かれた事に唖然としていると勝手にぶつぶつと何事か呟き、最後に悔しさを滲ませた自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ミサキ……もうちょっと良い飯作ってやれば良かったな」
「アン、何考えて……?」
「いい。警察が探すンだろ?顔が見られるなら何だって構わねェ」
 手を伸ばしかけたが、もうアンはアタシを振り返らずに持ち場へムーンを連れていこうとしているところだった。
 アン、どうか、どうか希望を捨てないで。ミサキを最後まで信じてあげて。
 願ったアタシの声はアンに届けられなかった。

アンとフィオナ

「警察は探してくれねェのか……」
「えぇ、残念ながら」
 ミサキの保護者として総務班に呼び出された先で待ち構えていたのはフィオナだった。
「叶わない期待なんざ持つモンじゃねェなァ」
「すみません、警察からの返答はそう言う事でした」
 ヒルダは落ち着かせようとしてなのか気休めを言っていたが、現実は想像より厳しかった。そう、どうせそうなんだ。岸壁街出身で孤児院育ちなんて世間の負け組に手を差し伸べる馬鹿なんていない。マルフィ結社が稀有なだけだ。
「シンさん」
 ずり下がったアクアグリーンの眼鏡をクイっと指で押し上げるフィオナ。
「これから結社で新たに組織された捜索班が始動します。メンバーは既に選抜されていますので、状況把握次第彼らが動きます。少しすればシンさんのところにも話を聞きにくると思います」
 仕事用タブレットをアンの方へ向ける。特別捜査班に割り振られた4名の名前と顔写真が表示されていた。
「ユウヤミ・リーシェルさんは元探偵なので人探しにかけてはプロフェッショナルです。相棒のヨダカ(様ってつけたいけど仕事中だから我慢我慢)さんは探偵助手をしていたそうなので人探しのノウハウを持っています」
 フィオナが( )の中を脳内で早口で言っていたなんて此方には預かり知らぬ事。
「テオフィルス・メドラーさんは今回失踪しているヴォイドさんとミサキさん、両方と近しく且つ情報収集力の高さから抜擢されました」
 ミサキと同時期に失踪したヴォイドという人物についてはよく知らなかったが、少なくともミサキは大人と一緒にいる可能性が高いと知って少し心強く思えた。
「それからロード・マーシュさんです。人事部新規勧誘課での業績と本人の志願もあり、犯人に迫った時の交渉役として抜擢されました」
 眼鏡のレンズを光らせて粛々と紹介するフィオナだが、少し楽しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
「あーしは……あーしにも、出来る事何かねェのか……?」
 いてもたってもいられず、恐る恐る声に出して聞いてみるとフィオナは困ったような愛想笑いをした。
「すみません、今回は機械班の出番は予想されてないんです。でも、機械人形関係の不慮の事態が起きた場合は真っ先に相談させて頂きますね」
「そう……なのか……」
「くれぐれも、ケルンティアちゃんを最後まで信じてあげてください。例え期待と違ったとしても、信じた時間は無駄ではありませんから」
 タブレットをしまったフィオナは話は終わったので戻って良いですよと出口を手で指し示す。長居しても状況が変わらないので機械班に戻る事にした。
 その数分後。機械班で続きの仕事をしていると、フィオナが言った通りに特別捜査班の捜査と称してユウヤミがやってきた。
 貼り付けた笑みといい、普段のミサキへの接し方といい、胡散臭いものを纏っている男だが技術に裏打ちされたプライドはあるらしい。妙に余裕たっぷりなところが癪に触ったが、質問された事は的確な事ばかりで無駄が少なく、此方が答えやすいような言葉を選んでいた。
 ただ、「シン君、あまり思い詰めない方が良いのではないかな?ケルンティア君が簡単に負ける訳ないだろう?」と言われた事だけは呆れるしかなかった。
「流石言う事が違ェな、探偵屋はよ……下手な慰めならいらねェよ」
 作った表情で心配されても煩わしいだけ。とは言えこの探偵屋はミサキの服の下に隠れた過去は知らないだろうし、やらない善よりやる偽善とも言う。ない混ぜの感情を溜息に変えて吐き出す。
「ミサキはンな奴だが、あーしの大事な妹分なンだ。絶対、見つけてくれ」
 ぎゅっと握った拳を開いて慣れた諦観の波に身を任せる。人前で弱さを見せるのは即ち隙を突いてくれと言わんばかりの行動だ。ミサキの事は心配だったが、何としてでもいつも通りでいなければならなかった。
「楽観は端からしてねェ。どんな状態になってても良い。見つけて連れ帰ってくれ」
 出来るだけ感情を排除して言葉を続ける。非常事態で感情は極力抑えた方が致命的なミスを減らせる。だから自分の感情は蓋をしてしまって置かないといけない。
「勿論、受けた依頼はきっちり捜査するからね。必ずケルンティア君を見つけるよ」
「……頼んだぞ」
 手を差し出して念押しの握手をする。
 ユウヤミにも己の技術へのプライドがある。人柄を信用する気は全くないが、彼のプライドに賭けてみても悪くないかもしれないと思った。
 警察は動かなかったが、結社で組織された捜索班はきちんとミサキを探そうとしてくれている。それだけで少し救われた気がした。でも、ミサキが今どうしているのかわからない現状は変わっておらず、不安で呼吸が苦しかった。強がりで脆くて小さいミサキが見つからないこの事態に押し潰されそうだった。

アンとヒルダとギルバート

「よ、アン」
 車両整備がひと段落したところで、機械人形の倉庫にいるアンのところへアタシは顔を出した。声をかけても反応がないので、もう一度声をかけるとアンはのっそり顔を上げた。
「アタシこれから休憩なんだ。一緒に行かね?」
「……いい。仕事の続きやッから」
 それだけ答えてまた作業に戻るアン。いつもの猫背が更に曲がっているし、さっきから溜息ばかり吐いて実際の仕事は遅々として進んでいない。貧乏ゆすりも止まらない。仕方ないな、後ろから寄っかかっちゃうぞ。
「アーンー!お姉様が行くと言ったら黙ってついて来い!行くぞ〜?」
 何かモゴモゴ言っていたような気がするけど、無理やり引っぺがして休憩所へ引きずっていく。こうでもしないとネガティブ思考のアンは渦から戻ってこないいんだから仕方ない。
 休憩所の椅子に座らせたアンに買ってきたコーヒーを渡す。大人しく一口二口飲んだアンは少し落ち着いたようだった。
「あ、ロナ」
 不意にアンが取り出した端末に向かって言う。どうやら届いたのはメッセージだったらしく、アンの目が食い入るように忙しなく左右に動いて文面を読んでいた。
「ロナから連絡か?」
「あァ、第6小隊長が捜査班になったから臨時で預かる事になって今日は支部行ったらしい……でも殆ど仕切ってるのはウーデットって奴らしい」
「ウーデット……あ、猫娘と一緒の小さい子か」
「小さいは余計だろ」
「そっか。悪りぃな、目の前にいないけど謝っとこ」
 空中にエドゥアルト・ウーデットの顔を思い浮かべて謝罪の手振りをする。
 ロナから届いたメッセージを読み終わったアンは悔しそうに唇を噛んでいた。
「ミサキが行方不明ってだけで、こんな広範囲に迷惑になるなんてなァ……」
「なーに言ってんのさ、それだけミサキは皆んなに必要とされてんだろ?それに、隣りにいる人を助けるのは損得とかそう言う問題じゃねーし」
 な?とニヤッと笑うとアンの目には苦笑が浮かんだ。
「出来ることをやるしかない、か……」
 呟いたアンは何事か高速で打ち込んで返信を送ると端末をしまった。
「な、アン。吐きたい事あればアタシでよけりゃ聞くぞ?」
「ンな事付き合わせられッかよ」
「いーや、今のアンの顔は『聞いて欲しい』だな」
「決めつけンなよ……」
 そう言いつつも何から言えば良いのか思案顔になるアン。
「ンだ……?あ、メドラーか」
 またメッセージが届いたらしく、端末を開けるアン。文面を読んだアンの顔がサッと青褪めた。黙って見せられた端末の画面には「ミサキちゃんとヴォイドは脱獄犯に誘拐されたらしい」と書いてあった。続きの文面には警察が動き始めた事やこれから犯人の足取りを追う事、それにユウヤミの怨恨が原因な事や今のところミサキもヴォイドも無事に生きている事などが書かれていたが、アンは全文読む前に俯いて小さく震え始めてしまった。
 長い沈黙の後、漸くアンが口を開こうとしたその瞬間、最悪のタイミングで最悪な奴が休憩所へ転がり込んできた。休憩所にいた人の視線が入り口に注がれる。
「アン!?ここか!?」
 薄めの色素にそこそこな身長、加えて御伽噺にでも出てきそうな整った顔立ちの男。ただし見た目の殆どを煩い言動で帳消しに来る残念イケメンというか残念美人というかな奴である。
 奴を視界に入れたアンの顔から絶望の表情すらもスッと消えた。なのにギルバートは真っ直ぐアンのいる方へ向かって駆け寄って来る。
「ミサキが行方不明って本当か!?ギャリーがセリカから聞いた話なんだが!?」
 珍しくギャリーが自主的に戻ってきたとか、何が起きてるのかとか、警察はどうしたのかとか、あれこれ一気に捲し立てるギルバート。
 そんなギルバートを深淵の瞳で見上げていたアンがテーブルに両手をついた。
 あ、これマズイ。このタイミングはかなりマズイ。アンが暴走する嫌な予感がする……!前に飲み過ぎて変なスイッチ入った時こんな感じだった……!
「ちょ、アン……!」
 アタシが止めるのも構わずアンは光の浮かない目のままギルバートの胸ぐらを掴む。
「ピーピー五月蝿ェんだよ、壊れたブザーかテメェは?」
「い、いや僕は君が心配で……」
「黙れよ……その口溶接すンぞ?」
 睨め付けるアンの声色は冬の北の海のような冷たい荒々しさがあった。間違っても冗談で言ってる顔ではない。もしここに工具があれば本当に手を下してもおかしくない剣幕をアンは纏っていた。
「ミサキは脱獄犯に誘拐されたンだ。接触がねェってこた、取引目的じゃねェ」
 アンは最初の一文に気を取られて他が頭に入らない程狼狽えていて、怯えていて、不安定だった。
 掴んでいたギルバートの襟を離す。
「ゴホッ……ミサキなら上手く脱出できる気が……」
「ミサキはッ……!気が強ェだけなンだよ!体力無ェんだよッ……!」
 ギルバートの言葉をみなまで聞かず、捻り出すような叫びを叩きつけるアン。
「怪我させられる度に何回熱出して寝こんだと思ってンだよ。薬も無ェ、暖も取れねェ、食い物も無ェ中で何回生死彷徨って来たと思ってンだよッ……!今安全な場所に居る可能性は塵一つだってねェ!」
 飲み切った後の紙コップを片手でぐしゃぐしゃに潰し、深い、深いため息を吐き出すアン。肩で息をしてなんとか自分の中の激情を抑えようとしているのが痛々しい。
 そんな荒れるアンに唖然としながらも何か言わなければと口をパクパクさせているギルバート。無理だ、アタシもこの状態のアンには手を出せない。
「脳みその良さだけじゃァ、身は守れねェ。ミサキが出かけてから一晩経過してるッてのに警察は動かねェし、結社からの捜査員もたった4人……期待なんかしたくねェよ……!」
 テーブルに拳を叩きつけるアン。
「だ、だからって!」
 どうにかして声をかけなければと焦ったのかオロオロしながらギルバートが口を開く。
「諦める事なんか無いだろう!?まだ何も確定してないだろう!?ミサキを諦めるのは早計だと思うんだが!?」
「ンだとテメェ……?誰が無事を保証できンだよ?信じりゃァ戻って来ンのかよ、ンなわけねェだろォ!?」
 ギルバートの言葉に過剰に噛みつくアン。
「た、頼りないかもしれないがっ!僕にも話なら聞ける!!」
「端からこっちの話なんざ聞く気のねェテメェになんぞ話す事なんかねェよ」
「今聞くって言ったじゃないか!?心配しすぎは良くないと言いたいだけだ!」
「知らねェ癖に偉っそうに言うンじゃねェ!ラジペンで生爪剥いでやろうか……?」
 凶々しい光を孕んだアンの紫の目には、目の前にいるギルバートではなく別の過去の誰かを想定しているような危うさがあった。
「ハンダゴテでその鬱陶しい髪も焼き切ってやる。サッパリするだろうなァ」
 嘲笑して言う姿はアタシ達の知ってるアンじゃなかった。何か別の誰かが乗り移っているのではと思いたくなる程にかけ離れていた。
「なっ……!?何を言い出すんだアン!?君らしくもない!」
「はァ?テメェそう言っとけば良いとか思ってンだろ。生憎あーしは薄っぺらい慰めさんざ毛程も要らねェよ」
 ギルバートの伸ばした手を引っ叩くアン。
「どうせなァ、人は最後は1人なンだよ。ご大層な名目並べ奉ったところで、其奴は変わらねェ。叶わない一方的な期待が1番残酷なンだ、放っといてくれ!!」
 アンの隠れた右目が怪しく光る。一瞬、話が途切れた。今しかない。
「はいはい、アンそこまでな。ギルバートも」
 アンとギルバートの間に物理的に割り込み、暴れかけたアンをガッチリホールドしておく。
「幾ら喧嘩する程仲が良いって言っても場所考えろ〜?2人とも?」
 何か反論しようとしたアンの口をサッと覆って言えないようにしてから耳打ちする。
「これは火消しだ。双方悪い噂で終わるのイヤだろ」
 真面目な顔でアタシが言うとアンからさっきまでの熱が引いていき、逆に顔が青褪めていく。どうやら周囲に人がいて始めから終わりまで全部聞かれた現状を客観的に理解できたようだ。
「あーあ、休憩所じゃぁ空気がこもっちまう。どうだ?続きは水入らずで屋上行かね?」
 了承なんて取らず、アタシは2人を半ば引きずるようにして強引に休憩所を後にする。背後では文句を言う声が聞こえていた。

アンとギルバート

 五月蝿い、煩い、煩瑣い。
 こんな時に来るなよ。来るのは予想出来たが、来て欲しくなかった。
 心配して来てくれた、此処までは友人として同僚として悪くはない。だが、煩い。こっちだって自分の事で手一杯なのに他人の機嫌なんか取ってられる訳もない。冷静に話そうと思う程に押さえつけている自分の感情が暴れて暴れて疲れた。自分はこんなに我慢して耐えて冷静に考えようとしてるのに目の前に来た彼奴が感情のままに騒いでいるのが目障りだった。
 彼奴が来て、捲し立てて、そこからまるで自分が自分で無くなったような感覚に陥った。抑えていた不安と怯えと恐怖が蓋を突き破って全身の血を逆流させる。思った事があるような無いような、兎に角頭に浮かんだ言葉を何も吟味せず吐き出して叩きつけていく。
 ヒルダに止められるまで自分でも何を言ってるのかよくわからなかった。止められた瞬間、自分が誰に何を言って、周囲にどう聞こえていたのかがわかって、さっきまでと違う恐怖が迫り上がった。それと共に頭の中に靄がかかり、空虚で寒々しい感覚に襲われた。
 ヒルダに支えられて屋上へ向かう。正直トイレか何処かで1人になって考える時間が欲しかったが、半分連行されている自分に決定権は無い。「移動中は喋るな」とヒルダが笑顔の圧で止めに来たので、無言のままただ歩く。チラリと見たギルバートは少し悄気ているように見えた。引っ掻き回したのは其方の癖に。
 屋上に人はいなかった。自分とヒルダとギルバートの3人だけ。
 渡る風に吹かれて少しずつ頭が冷えていく。空は何食わぬ顔で今日も頭上に広がっている。
 そう、ギルバートはただ来ただけ。五月蝿いのなんかいつもの事じゃないか。過剰に反応し過ぎた自分が悪い。苛立ちを抑えられずに感情に流された自分が悪い。他人に八つ当たりした自分が悪い。冷静に考えようと深呼吸すらしなかった自分が悪い。
 そもそも、此奴が五月蝿いのとミサキが行方不明で不安に思う自分は本質的に無関係だ。合わせて考えるから増幅するだけで、分けて考えていれば対応しきれない事ではない。勿論、此奴がサボり魔の同僚に声を荒げていたとしても、今それは無関係。でも、あの様子を遠くから見た時最初に浮かんだのが恐怖だったのは間違いない。院の職員がそうだったから。そして、今日はその時の感情を思い出して余計に噛み付いてしまった気がする。
 フェンスを向いた自分には後ろにいるであろうギルバートの顔は見えない。
「済まねェ、ギルバート」
 漸く出せた声は少し掠れていたが、気にせず続きを声に出す。
「あーし言い過ぎたな……なんか頭に血が上って……心ねェ事散々言っちまって……」
 浅はかな自分の行動が悔しい。唇を噛み締めるがこんなものでは足りない。首から下げた鉄片を握りしめて痛みを確認する。
「許さなくていい。許せなんて烏滸がましい事言えねェよ」
 振り返ると昼の陽に照らされて白く輝いて見えるギルバートがいた。
「……忘れてくれ。テメェが言うようにありゃァ、あーしじゃねェから」
 逆光で黒くなってよく見えないかもしれないが、穏やかな表情を努めて作る。勝手な解釈で暴走した自分が悪いのだから。
 なぁ、ギルバート。虫は光に近づき過ぎると燃え尽きるって知ってるか?
「アン……」
 呆然とした顔のまま此方を見つめるギルバート。
 もういい。何も言わないで放っといてくれ。
 視線を逸らして空を見る。岸壁街に居たらこんなに空が広いなんて知る事は無かっただろう。本の中で想像した空より何倍も何百倍も本物の空は広い。
「い、いや……僕も無神経な事言ってしまったし……その」
 モゴモゴと歯切れ悪く口の中で呟くギルバートの声が聞こえてもう一度振り返る。
「その……アンが大変な時に、騒ぎ立ててすまなかった!」
 勢いよく下げられる頭にギョッとする。
「僕もミサキの事が心配で……その、無事で居てほしいって思っていて……考えてたら他の事まで気が回らなくなってしまったんだ……でも……」
 言い訳がましくあれこれ言い始めるギルバートの前で盛大に溜息を吐く。
「多い口は軽く見られンぞ。言葉を大事にしろ」
「す、すまない……」
 さっきまでの勢いはどこへやら、すっかり悄気かえるギルバート。
「でも、ありがとな。ミサキを気にかけてくれて」
 言うや言わずか、下がっていたギルバートの視線が一気に上に戻ってくる。何と言うか、犬なら耳を立てて尻尾を振っているところだろうか。これが野犬だったら気を抜いたところで隙を突いて来るだろうが。
「今思いついたんだが……歌うのってどうだ?」
「は……?」
 一気に機嫌が治ったと思ったら今度は斜め上。忙しいったらありゃしない。
「自分の言葉で願うのが嫌なら、他人の歌を借りればいいって思った、んだが……」
 歌。まさかそんな提案がギルバートから出てくる事自体が意外だった。
「歌、か……」
「今なら屋上には僕らしかいないし……どうだ?」
 すっと目を一瞬閉じて考える。今度こそ周囲の状況を読み込んで答えを導き出す。
「悪くねェ」
 一つ息を吸って無伴奏で音を舌に乗せる。
 選曲は「アタラクシア」。去年の1番人気だった歌らしい。明るい曲調だが、歌詞の内容は喪った大事な人との後悔を歌った歌だ。そして、生き残った自分がどう生きていけばいいのか迷い足掻く歌だ。
 最初聴いた時はそこまで気を惹かれる歌ではなかったが、気付いた時には鼻歌でサビを歌っているくらいになっていた。キャッチーな旋律が見事に脳に刻み込まれた訳だ。それから歌詞全文が気になって調べて、歌詞が心に沁みた。
 何でかなぁ、何でだろうなぁ。
 壁から出て、外でもなんとかやっていけるかもしれないと思った矢先にこんな事になって。ミサキの行方はわからないし、無事もわからない。世の中不幸なんてありふれているのに、いざ自分の身に起きるとなんで自分だけと思って不安定になる。いつもならどうでもいいと思っている事がやけに気に障ってしまう。
 ミサキの顔が見たい。ミサキの声が聞きたい。ミサキの姿が見たい。無事だから大丈夫だと確認したい。
 生きていて、ミサキ。
 死なないで、ミサキ。
 うっかり願ってしまえば、いつか来る終わりを恐怖してしまうとわかっているのに、気持ちが止まらなかった。ただひたすらにミサキの無事だけを願ってしまった。
 泣いてしまえばそれは弱さを見せる事になる。隙を与えてどうぞ付け込んで下さいと言っているようなものだ。だから平常心を保つ為にも泣いてはいけない。何があろうと。
 歌い終わって振り返ると、何故か泣いているギルバートが目に映った。
「ンでテメェが泣くんだよ。泣きてェのはあーしだ」
「すまない……ただ、良い歌だって思って」
 ギルバートにしては珍しく、それだけ言って目頭を押さえて目を閉じた。

キッカとヒルダ

「んぎゃるぱ?」
 その頃、屋上の扉を僅かばかり開けて様子を見ている人影がいた。菊の花のような金髪をバレッタで纏めた小柄な人影は、アーミーポンチョ風のコートを纏っていた。
 時間は随分前に巻き戻り、ギルバートがアンを探しに右往左往していた頃である。
 事件捜査中のユウヤミと話し終えたバーティゴとセリカが待機所に戻ってきた時、キッカはアンに何かメッセージを送ろうと文面をあれこれ考えていた。
 第6小隊長が別部署に引き抜かれ、第4小隊長が一時的とは言え第6小隊を預かる事になったのは前線駆除班としては失踪事件より大事件。キッカも直ぐに理由と合わせて聞いた人である。
 また、アンとキッカは縁浅からぬ仲なのもあり、結社で再会してから何かと連絡を取っていた。故にミサキの失踪事件を知って何も声をかけない訳にいかなかったのだ。
 戻ってきたセリカを見たキッカは首を捻った。なんだかいつもより機嫌が良いように見受けられたが、バーティゴが言うにはユウヤミに進捗を確認しただけだと言う。セリカとユウヤミで繋がる物を感じないが、一体何があったのだろうか。
 ふと考えて思いついた事を確認する為にセリカに声をかけるキッカ。
「セリカ、もしかしてファンさんと会われました?」
「えぇ。何かありましたかぁ?」
 納得するように小さく頷いたキッカは1番聞きたかった事をセリカに聞いた。
「もしかしてミサキちゃん達が失踪した話もしました?」
「大事件ですよぅ?伏せる事ありませんでしょぅ?」
 少し考えたキッカはとある懸念を潰すべく、バーティゴに近付いた。
「バル小隊長、キッカです。急用が出来たので一旦持ち場を離れます。連絡があれば即刻戻ってきます」
「あら、どこに行くのかしら?」
「友人の危機を察知したので救出です」
 それだけ簡潔に言ったキッカはコートの裾を翻らせて待機所を後にした。
 セリカがギャリーにミサキ失踪の話をしたなら、女好きだが仲間思いな面もあるギャリーは真っ先にギルバートへ話を伝える筈。だから、既に不安定な状態のアンの元に行くギルバートは詳細を何も知らない状態で行く事になる。前線駆除班のメンバーですら、ミサキが失踪した事とユウヤミ一行が事件捜査に駆り出されたところまでしか知らないのだから。
 間に合うならアンと話す前に冷却させたいが、間に合わなかったら実力行使だろうか、と考えつつ機械班に向かうと「アンなら少し前に休憩に行った」とキッカは言われた。
 休憩所へ向かうと中から聞こえたのはボソボソと溢される愚痴だった。
「さっきの剣幕怖かったよな……」
「何があったらあんなになるんかなぁ」
「ほら、誰か行方不明になった人がいるって聞いたから、その関係者じゃない?」
「つっても周囲にぶつけるなよな」
 どうやら時既に遅しだったらしい、と肩を落とすキッカ。だが此処で引き下がるわけにいかないので、アンの移動先を確認せねばと思って休憩所の外から会話内容を盗み聞く。
「ヒルダさんだっけ、止めてくれて良かったよなぁ」
 アンやギルバートを止められるヒルダと言えばヒルデガルト・リヒテンベルガーだろう。彼女が冷却に選ぶとしたら単純に屋上の可能性が高い。ドラマでも相談事と言えば屋上だし。
 見当を付けて屋上に向かう階段を上がると、出入り口で腕組みをした背が高くて銀髪をショートにした女性が壁に寄りかかっていた。
「あ、ヒルダさん?屋上にアン居ます?」
「居るけど……今はそっとしておいてやれないかな」
 苦笑しながら言うヒルデガルトに従ってそっと音をさせないように扉を開けると、アンの後ろ姿とそのやや後ろに立っている男子1人が見えた。
 思わず「んぎゃるぱ?」と呟いてしまったキッカは耳をそばだてて少しでも音を拾おうとした。
 涙まじりのアンの歌声が風に乗って聞こえる。屋上に響く「アタラクシア」は歌手の妖狐と古狸とは違うテイストで、明るさより自棄になったような力強さが際立つ歌になっていた。
 何がどうなって今現在屋上でアンはギルバートの前で歌ってるのだろうか?またしても首を捻るキッカ。
「ヒルダさん。あれ、経理部のベネットさんでしょうか」
「そう。さっきまでアンが毒吐きまくってな、それ全部引っ被ったとこだよ」
 そう聞いてキッカはふっと笑みを溢した。
「思い過ごしだったようですね……あたしは失礼します。後ほどメッセージを入れましょう」
「アンと話さなくていいのか?」
「1番危惧していた山は越えたようですし、あたしがいる必要はないでしょう。目立たない事が大事な時もあります」
 ヒルデガルトは寄せていた眉間を開いた。
「成る程な。てか、ギルバート凄いよな。あれだけ毒吐かせるの難しいのになぁ」
「休憩所で愚痴から片鱗を聞きましたけど……随分アンは荒れたみたいですね」
「そりゃまぁ。ギルバートの生爪剥がすだのうっとうしい髪を焼き切るだの物騒な発言オンパレードだったぞ」
「普段の発言より過激さが増してますね。何がそんなに引っかかったのでしょう?」
 キッカに問われたヒルデガルトは深いため息の後、呟くように答えた。
「ギルバート、アンに向かって『諦めるな』っつったんだ」
「あぁ……それは逆鱗でしたね」
 ヒルデガルトに深く頷くキッカ。
 アンにとって諦観は生きる為に身につけた足掻きそのものであるとキッカは知っていた。その努力を否定するような事を言われたとしたら、過激な言動に走ってもおかしくない。
「あの日の時もアンはミサキちゃんが生きていると考えているようには見えませんでした」
 あの被害と混乱の中、万が一生きていたなら儲けもの。アンは安否不明のミサキをそんな程度に扱っていたと思い出す。
「あの日ってミクリカの……?」
「えぇ。あの頃、あたしはジャーナリストだったので現場でアンにインタビューした事があるんです」
「そっか、現場入りしたんだったな」
 もしかしたら、今日怒ったのはあの諦観が崩れ始めた所為ではないかと思い当たったキッカは少し瞑目した。
 本人が心の砦だと思っている物が壊れてしまえば、今日のような事がまた起きてしまう日が来るかもしれない。そんなデリケートな問題を精神科医でも臨床心理士でもない人が扱っていい問題とは思えなかった。出来れば専門家に解きほぐして貰った方が本人も周囲も無理をしないで済む気がした。
 本当は声に出してヒルデガルトの意見も聞きたいキッカだったが、カンテ人はポート人より議論慣れしていなかったなと思い出して自重する。
 不意に、こちらへ向かって歩いてくる足音が聞こえたキッカは「遅くなると小隊長に迷惑をかけるのでこれで失礼します」とだけヒルデガルトに伝えると足早に去っていった。

アンとロザリー

 機械班に戻ってきたアンは早速ロザリーに捕まって面倒な仕事を押し付けられていた。それも、抵抗器がごちゃ混ぜに入った箱を渡されて分類しろと言うのである。
 「さっき棚にぶつかって落としちゃったのよ。分類よろしくね?」とロザリーに言われては拒否できない。
 抵抗器は小指の先に乗る小さな部品だ。形も抵抗値も様々な物を分類していくのは中々に骨が折れる。昔の12色のカラーコードで抵抗値を表していた頃だったらもっと面倒だったろうな、と思いつつ言われた通り大人しく仕分けていくアン。
 屋上から機械班の部屋へ戻る道すがら、一応ミサキの無事を知らせる文面がテオフィルスからのメッセージに含まれていたとヒルデガルトから聞いたアンはそこそこに落ち着いて仕分け作業ができた。
 半分ほど仕分けが終わったところでロザリーがアンの反対側に座った。
「ねぇ、アン。随分大きな騒ぎを起こしたみたいね?」
 アンが怠そうに目を上げると、いつも通りに陽光の如く微笑んでいるロザリーがいた。思わず目線を逸らしながらアンは答える。
「すみませんでした。幾ら不安だからっつッても周囲に八つ当たりすべきじゃァなかった」
 アンの謝罪にロザリーが溜息を吐く。
「そうね。でも不安なのはよくわかる。私もフランソワが迷子になって半日見つからなかった時は発狂するかと思ったもの」
 逸らした視線をパッとロザリーに戻したアンは目を見開いていた。
「八つ当たりは良くないけどね、大事な人が心配だって言うのは悪いことじゃないの。むしろ、それだけ貴女がミサキちゃんを大事に思っている大事な証拠よ。誰かが文句言う筋合いじゃないわ」
 机の上に出ていたアンの手をそっと包むロザリー。
「諦めないで、泣いちゃダメ、なんて私は言えない。貴女がどんな感情を持っていようと、それは貴女の物で尊重されるべき物よ。外にいる人が決められる事じゃないもの」
 倦怠感のあるアンのヴァイオレットの瞳に小さな光が灯った。
「相談したいことがあったらちゃんと言ってね、アン。私もヴォイドが行方不明で心配だけど、だからこそ助け合える事があるはずよ」
 安心させようとしてなのかにこりと笑ってみせるロザリーをまじまじと見るアン。
「あーし……」
「うん」
 迷いや不安で表情が翳るアンだったが、直ぐにキッと顔を上げると今自分の戦うべきものを見定めた表情になった。
「あーし、仕事終わらせます」
「ふふ、その意気よ」
 仕分け頑張ってね、と残したロザリーはアンの側を離れる。
 無事でいてね、ヴォイド。無事でいてね、ミサキ。また元気な姿で会いましょう。貴女たちの無事を願っている人が沢山いるのだから。きっと、きっと、帰って来れる。
 書類をめくるロザリーは一つ大きな溜息を吐いて、自分の頬をパチンと叩いた。