薄明のカンテ - 愛の日を前にして/燐花


雄叫ぶ彼女

「ぎにゃぁぁぁぁあっ!!」
その奇妙な雄叫びは、上げた主の声が大きいからか廊下の端から端までビリビリ響いて聞こえた。
近くに居たメンバーが皆何事かと集まる。音の出どころはヒギリの部屋だった。
「ぼ、暴漢ですの…!?」
「とにかく、中見た方が良いかも…」
近くを通ったヘレナとユリィは部屋のドアを開けると、音のするシャワー室へと向かった。
「い、いらっしゃいますの…?」
ヘレナが覗き込むとそこにヒギリはいた。彼女は裸のまま蹲るように座り込んでいた。
「あの…」
「み、見ないで!!このムチムチは見たらいかんてば〜!!」
ヒギリ・モナルダ。結社に来てしばらく経つが、ここ数ヶ月で驚く程体重が増加していたのである。本人曰く見た目に分かる程増加してしまい、とうとう一着ズボンが入らなくなった為ショックのあまり拳を使って老廃物を促そう作戦を決行したが、立ち仕事且つ帰って来れば寝てしまうヒギリの体は滞りに滞り痛みが尋常ではなかった。
ふぇぇぇえっ!と声を上げて大泣きするヒギリを見てヘレナとユリィはなーんだ、と冷めた対応だった。
「うわぁぁあんっ!ヘレナさんもユリィさんも!そんなプロポーションだから冷静で居られるんだぁぁあ!」
「だってうち、結構厳しめに体締めてるし」
「プロだぁぁぁあっ!プロがいるよぉぉぉおっ!」
「そのプロに習う気はないですの?」
ユリィの目はどう見ても「余計な事を…!」と言っていた。幸いショックが大き過ぎて何が何だかわからなくなってるヒギリはそれどころではないらしく聞いていなかったのだが。
「うう…もうお嫁行けない…」
「んな三キロ太ったからって大袈裟な」
「いやぁぁぁあ!何で分かるのぉぉお!?何で三キロ太ったって言っちゃうのぉぉお!?」
「ユリィは目視出来るんですの」
「何でぇぇえ!?」
「とにかく声通るんだから大声出すと人来ちゃうよ」
ヒギリはむぐっと言いながら両手で口を塞いだ。もう遅いし、両手を使った事でバスタオルがはらりと落ち、ヒギリ曰くムチムチの体が露わになる。
「〜〜〜〜っ!!!」
何よりも太った事実を隠したいと言わんばかりに無言でお腹をつまみどころか最早拳で腹を殴りにかかるヒギリをユリィはそっと止めた。
「この腹が〜!!この腹が〜!!」
バタバタと暴れるヒギリを見て「こ、これは重症ですの…」とヘレナは呟く。
正直言う程酷い太り方には思えないのだが。確かに少し前よりちょっとだけふっくらした様に思えるが、そんなにシビアに気にする程だろうか。そう思ってユリィを見るが、ユリィはヒギリの苦痛が分かる様でうんうんと頷いている。
「ちょ、ちょっとユリィ。そんなに大変なんですの?」
「いや?数字的にはそこまで大変じゃない」
「じゃあ、何が大変なんですの?」
「気持ちの問題」
「気持ち?」
「一キロ数字が変わるだけで自分の体が変わった気がするタイプ。そのタイプの人間が数字を直視すると、見た目にはそうでも無いのに何とかしなきゃいけない気がして大変になる」
今まさにこれ、と指さした先にいるヒギリはヒィヒィ言いながら必死にお腹を摘んでいた。肝心なのはバランスなのだが、数字に捉われるとそこを見落としがちになる。
「駄目だぁ…愛の日までには痩せたい…痩せて皆で愛の日に思う存分お菓子交換したい…」
「あ、食べる為に痩せるんですの?」
「うん…太り代が欲しいんだよ…」
「そんな伸び代みたいな言い方…」
「決めた!!私痩せる!!四キロ痩せる!痩せて立派に愛の日を食べる!!」
この日、ヒギリの雄叫びは彼女自身の発信により見事寮内外に響き渡り、全員彼女の体重を知る事になる。
「だから、貴女は声が凄く通りますの」
とヘレナに言われ恥ずかしさで顔を真っ赤にしたヒギリがそこにいた。

寝込む彼を心配する彼ら

「全く…年末年始の勢いは何だったんだか…」
休憩中、溜息をつきながらユーシンは呟きお茶を啜った。シキはそれを見ながらかぼちゃプリンを口に運ぶ。本日何個目だろう?と言う疑問は一旦横に置いておく。
「心配ですね。風邪には特効薬が無いですから」
「年末年始あれだけ大暴れしたし、疲れも出るよねきっと」
シュオニとシキの言葉にユーシンは思い出す。あの人が変わった様に興奮しながら着物用のメイクに奮闘し、着付けを見学する事に勤しんでいたテディの姿を。着せ替え人形の如く色々着せられそうになり何回か身の危険を感じたユーシンはげっそりした。
「テディってば…何かに取り憑かれたみたいだったよね…」
「それだけ好きなんだろ、何かこう…真新しい服と言うか、布が」
「そしてそこに心血注いで終わったら疲れて風邪ひいて…」
何と言うか凄く小さな子供っぽい。
満場一致で頭に浮かんだが、口に出すのはやめておいた。
「俺…ご飯でも作りに行こうかな…」
「え?シキ料理出来るの?」
「いや?経験ないよ」
「むしろ何でやれると思ったの…?明らか出来る人の台詞だったよ、今の」
「出来ない。出来ないけど…自分の為じゃなく、誰かの為って前提があったら俺、頑張れる気がするんだ」
キリッとした目を向けるシキ。ユーシンは「誰かの為に頑張れる気がする」と言うシキの言葉に同意はする。確かに自分の為じゃなく人の為にと思って動くと意外と予想してなかったパワーを発揮したりするものだ。
「じゃあ、ぼくも手が空いたら軽くテディのお見舞い行こうかな?うつるといけないから短時間でだけど。あ、シキもご飯作るなら自分の部屋でにした方がいいよ?」
「そうだね」
「後でベーコンおじさんのお店に顔出しに行くから、ゆっくりリラックス出来るアロマでもお土産にしてあげようかな?おじさんのお店リーズナブルだし」
「ユーシンさん、もしかしたら鼻通りを良くする医療用の物とかもあるかもしれませんよ?」
「良いね。じゃあ俺は今から帰って料理しよう」
「…ところでシキって普段食べてる料理は作ってるの?それとも食堂?」
「四割食堂、六割兄貴の手料理」
「兄貴ってあの人事部の人か…ん?計十だよ?あれ?自分で料理するって項目無かったけど…?」
ユーシンはおそるおそる聞きながらシキの顔を覗き込む。シキはユーシンと目が合うとニッコリと優しい顔で微笑んだ。
「料理した事ない」
「うそ!?それでいきなり人に作ろうとしてるの!?」
「人の為なら出来そうな気がするし、テディなら何食べても死ななそうだから」
「後半部分が本音だね!?やめてあげて!一応病人だよテディ!一応病人!!」

寝込む彼

ゲホゲホと大きく咳き込み、真っ赤な顔でテディはベッドに沈んでいた。鼻は出るし味も分からない。薄味の白スープで粥麦をほぐした柔らかいご飯を食堂から運んでもらっているが、とにかく熱さしか分からないし喉も痛い。まごう事なき風邪だ。しかも、結構症状が大きいタイプの。
「うう〜…せっかくご飯美味しそうなのになぁ〜…」
うわごとの様に部屋でぶつぶつ呟いていると、マスクを付けたネビロスが熱を測りにやって来た。
「あ、ネビロスだぁ…」
「熱を測りに来ましたよ。あと、着替えと体も拭きましょう」
熱を測っている間に適度に温かいお湯を桶に溜め、そこにタオルを浸しぎゅっと搾る。パジャマのボタンを外しながら、テキパキと手際よく進められる様子を見てテディはボーッとしていた。
「どうしました?どこか痛みます?」
「ううん、ネビロスって格好良いなって思っただけー」
「何言ってるんですか」
「本当だよ?」
「おだてても服は着ませんよ?」
少し楽しげに微笑むネビロスにテディは心の中で舌打ちした。見事に言おうとしていた事を先回りされてしまった。ついつい体を拭きながらテディは不貞腐れる
「えー何でー…?愛の日がそろそろなんだよー?ネビロスに似合いそうな良い感じのデートコーデ見るから着ようよー」
「デートって…私が誰と行くんですか。相手が居ませんよ」
「あ、ミア」
「……あまり大人をからかうもんじゃないですよ」
大胆に突っ込んでいくのがテディの持ち味だが流石に風邪をひいた時にまでそれはやらないだろうとネビロスは油断していたのでこの時彼は派手に動揺した。
「あれ?あれあれあれ〜?」
「…何です?」
「あ、ミア」
指を指すテディにつられてネビロスは振り返る。当然そこには誰もいない。後ろでへへへ…とテディが笑った。
「……こら、テディ」
「愛の日だもんねー。あの子真面目だからお世話になってる人皆にお礼とか頑張って用意しそうじゃない?」
「そうですね、その前に貴方は頑張って風邪を治しましょう」
八度五分と表示された体温計を見てネビロスは話を早々に切り上げる。このまま乗せられるのも癪だし何よりあまり無理して喋らせるとまた悪化しそうだ。
「ほらテディ、見なさい。まだまだ体は闘い中です」
「熱高ーい…」
「分かったら寝なさい。貴方が体の味方しなくてどうします?」
「あ、じゃあちゃんと寝るから、デートコーデ…」
「その話はまた聞きますから、良いから寝なさい」
とは言え、ここに居る子供達は割と皆そうだが彼もまた親元を離れて一人でここに来ている。こう言う体を弱めた時は少しばかり心細くもなる物だろうともネビロスは思った。十五歳とは言えまだまだ子供だ。時計を見、戻る予定まで余裕がある事を確認するとネビロスは伸ばされたテディの手を優しく取った。
「仕方ないですね…もう少しいてあげますから早く寝るんですよ」
「本当?やったぁ」
テディは赤い顔でふにゃりと嬉しそうに笑った。

頑張る彼

「さて」
彼からすると少し丈が短いエプロンを着、髪をヘアピンとヘアゴムでしっかり整えたシキは何とも嫌な予感がする持ち方で包丁を手に固まっていた。
「…どこから何をすれば良いんだ」
そもそも俺は何を作りたいんだ?と、このままではいずれ真理に辿り着きそうな自問自答をし、とりあえずメニューを開く。
が、お察しの通りメニューとは大概において「出来る人が更にレパートリーを広げたかったりする時に使う物」で、何も分からないシキは見事そんな用途のメニューを選んでしまいもう訳がわからなくなっていた。
「とりあえず、赤スープを作ってみよう」
風邪ひいた時は汁物が良いから、とシキは言う。何故無難にお粥にしなかったんだ、とその話を聞いて後でユーシンは突っ込んだ。
「じゃがいも、植物油、コーンスターチ…ええ、こんなに材料っているんだ…料理する人って大変だな」
いつも美味しいご飯をありがとう、とシキはノエやロードを頭に浮かべ呟く。お察しの通り、シキは頭の中では赤スープを作る気でいるが、ただ今見てるページを間違えている。全然違う揚げじゃかのページに書かれている材料を見てシキは感嘆の声をあげた。
「えっと、まず…ジャガイモを細かく切る」
もはや赤スープのレシピで無くなってしまったが気付かずどんどん進む。左手にジャガイモを持ち、右手に持った包丁をそこに添える。とても危ない。お察しの通り彼は目の前のまな板の存在をすっかり忘れていた。
「おっと…!」
つるっと滑った刃先がジャガイモの身と皮をスパッと滑らかに傷付ける。
まるでジャガイモからのメッセージの様にシキには思えた。
「次切られるのは…俺か…?料理って命がけなんだ」
と、ここでまな板の存在を思い出しまな板の上で切り始める。恐る恐る左手でジャガイモを押さえ、包丁をダーンっ!と音を立てて下ろした。みるみる泥で汚れていくまな板。お察しの通り彼は「書いていなかったから」と言う理由からジャガイモを洗う工程をすっ飛ばしている。
何とか歪で一個一個が非常に太い状態ではあるがジャガイモを切った。もうレシピに書かれた「細かい」状態ではないが今の彼のレベルではどうしようもない。
「何だかすごい泥だ…良いのかな?これ」
良いわけがない。洗っていないのだから。
「とりあえず洗おう」
ボウルに水を張り、切ったジャガイモをそこに入れて洗ってみる。おそらく洗いにくい事この上ないだろう皮付きのそれをどれくらい洗えば良いのか分からないシキは五分ほどその作業を続けた。
「流石にそろそろ良いかな?えーと、次は鍋にオリーブオイルを…あれ?オリーブオイルなんて材料に入ってたっけ?」
お察しの通り今揚げじゃがから赤スープに戻ってきたので、材料に書かれていないものが彼の目の前に突然飛び出した。
「うーん…どこから来たんだろう、オリーブオイル…」
そのレシピには最初からいたのだが。
自分が壊滅的な読み違いをしていたなんてつゆ知らず、書かれていなかった筈の材料の飛び交いにすっかり頭を捻りながらシキは何とかジャガイモを炒める結論に至った。
そしてとりあえずジャガイモを炒め、鍋にお湯を張る。その間にいきなり飛び出してきたにんにくやベーコンを切り分けてしまおうと思った。
「うーん…思ったより料理って難しいや」
やる気はあるんだけどなーとシキは呑気に呟く。脳裏に過ぎるのはいつもいつも美味しい料理を振る舞ってくれるノエとヒギリとロード。
ノエは流石元レストランにいた機械人形だけあって料理は絶品。食堂にいるとたまに新メニューを考えているのかヒギリが味見をさせてくれるが、それもまた美味しい。あの二人がいつ料理を覚えたのかは知らないが、たくさん練習したんだろうなとシキは思った。
そしてロード。彼曰く「好きな人の胃袋から掴もうと頑張っただけ」らしいが、凝り性なのかプロでもやって行けそうな手際と味と見栄えで作ってしまう。最近も忙しい合間を縫って疲れて帰ってくるシキの冷蔵庫に夜食を置いて行ってくれ、簡単そうにやってしまうがこれもまた慣れないと難しい事なんだな…と思った。
いつもいつも美味しい料理を作ってくれる人達。当たり前ではないんだな、今度プリンでも買って行こう。そのプリンもどっかで頑張って作る人が居るから、その人達にも何かお礼をしたい。しかしそのお礼を作っている人達にもまたお礼をするとそのお礼を作っている人達にもお礼が必要でそのお礼を作っている人達にもお礼をしたいと思ったらまたそれを作る人が──…。
「おい!何だこの匂いは!?」
経理部のギルバートが飛び出す。シキはその怒声で我に返った。は、良いが、グツグツと音を立てて鍋から沸騰した水がバシャバシャと吹きこぼれているしコンロの近くに置いてあったニンニクには引火していた。
「あー…」
「あーじゃない!良いから止めろ!」
ギルバートは慌ててコンロの火を止め焦げたニンニクを恐る恐る捨てた。
「ごめん」
「ごめんじゃないだろう!?何をやってたんだ君は!?」
結局小一時間ギルバートの説教を食らい、後にはグズグズになったジャガイモが残った。当然これは料理とは言えないのでシキは結局近所で買ったゼリーを持って見舞いに行った。
まあ、テディが喜んで食べてくれたから良しとしよう。今度ゼリーを作ってくれた人にお礼をしたい。となるとお礼を作ってくれた人にもまたお礼が必要で…。
シキがこの思考回路のループから抜け出せたのはしばらく経ってからだった。