薄明のカンテ - 愛の日のレシピ/涼風慈雨

渡す相手を考えましょう

 愛の日。とある人にとっては一世一代の告白をする日であり、また別の人にとっては変わらぬ愛を確かめ合う日。だが、愛を示す方法に決まった形が無いのと同じように、愛にも様々な種類がある。
 そう、知り合いに普段のお礼として贈り物をする場合だってあるのだ。
「来月には2月14日、愛の日がある。世間では製菓会社の影響で恋愛の祭典だと思っている節があるが、本当は違う」
 真面目に話すロナの前にはこれまた真面目な表情のアサギがいる。とある支部の廊下の隅にて何やら相談中のようだ。
「敬愛も友愛も家族愛も対象に入るんだ。つまり、普段のお礼としての側面もあると言うわけだ」
「なるほど」
「というわけで、だ」
 メモ帳を広げるロナ。
「普段のお礼をあげるなら、アサギは誰がいいと思う?」
「んー、ロナ」
 間髪入れず答えるアサギ。
「俺か?この間みかん一箱くれただろ、あれだって十分過ぎる。気持ちは嬉しいが、他を考えようか」
 ふ、とロナが目元を綻ばせる。あのみかんは本当はミサキが準備したものなのだが、ミサキに口止めされてるアサギは何もいえない。
「まずは第4小隊のメンバーだな。エリック、ビクター、ユリィ、ヘレナ、ヘラ。」
「なるほど」
「他の小隊長にも日頃のお礼をした方がいいかもしれない」
 メモ帳にサラサラと名前を書き込んでいくロナ。
「そうだ、PL-pluginの件で世話になった機械班と汚染駆除班にも渡そう」
 エルナー夫妻、ムーン、テオフィルス……とメモ帳にリストアップしていく。もちろん、ミサキや飲み友達のアンもリストにロナが入れる。
「20人分超えてないか……?」
 たくさんの人に支えられているんだと思うと同時に、この人数に何かを渡しにいくだけで大変ではなかろうか、とアサギがロナを見ると何故か平然としている。
「道場やってた頃はもっと配る相手がいたからな、この程度ならまだ余裕がある」
「そうなのか?」
「あぁ」
 何を思い出したのかロナは一瞬くすりと笑ったが、すぐストンと表情がなくなった。
「ロナ?」
 アサギが覗き込むと軽く頭を振って少し口角を上げた。
「あぁ、大丈夫だ。すまない、アサギ。そうだ、タイガにも渡さないとだな」
 メモ帳にタイガ・ヴァテール、と書き加えるロナ。それでもまだ、表情は浮かないままだった。
ーータイガが生きていた事だけでも喜ばないとだーー
 そう思っても、死亡者リストに並んでいた名前が、道場に来ていた生徒たちの名前が、近所の町の人の名前が、幼馴染たちの名前が、ロナの脳裏に浮かんでは消えていった。ミクリカの惨劇の時に守りきれなかった沢山の人たちが。斬らざるを得なかった機械人形たちも。こんなところで自分は暢気にお菓子配りの算段をしていて良いのだろうかと不安が膨らんでいく。知らず知らずのうちに、ロナはメモ帳を強く握りしめてしまい紙に皺が寄った。
「ロナ?どうしたんだ?ロナ?」
「アサギ……」
アサギの紅白の人工眼に見つめられたロナは束の間、息が止まった。破損したままの赤い人工眼が心配そうな色を乗せていた。
ーー独りじゃ、ない。
 大切な誰かを自分の手で斬らざるを得なかった、それは俺だけじゃないんだ。
 俺は人間で、アサギは機械人形で。生い立ちも違うし、機械人形に感情は存在しないとも言われるけれど。
 それでも、きっと。
 大切な誰かを喪う事の辛さに軽重も感情も関係ない。そう思った。
 もちろん、忘れるとか気にしないとかではない。全部背負って生きようと決めたのは自分自身じゃないかーー
 軽く息を吸い込んで背筋を伸ばすロナ。
「大丈夫。アサギ、みんなに何を渡すか考えようか」
「おう。チョコ渡すのが普通だって聞いたけど、そうなのか?」
「そうだな、一般的だ。人はチョコでいいとして……機械人形のヘラやムーンにはどうするかだ。アサギなら何がいい?」
「うーん、考えた事なかったからわかんねぇ。直接聞くのはダメなのか?」
「何も思いつかなった場合の最終手段だな」
 真剣に考えるロナの表情を見て、アサギも何がいいか計算を始める。
「何か、形が残るものがいい」
 ぽつん、とアサギが呟いた。
「俺ら機械人形は、一度記憶した情報は消さない限り無くならねぇけど、それで良いとは思えねぇんだ」
「なるほど。それじゃぁナマモノは辞めた方がいいな。造花……はなんか違うな」
 再び考え始めるロナとアサギ。
「ポストカード、どう思う?アサギ。」
「カードか?」
「そうだ。普段の感謝の言葉が書いてある感じで……いや、俺は絵心に自信ないからな……アサギ、何か描けるか?」
「やった事ねぇから、わかんねぇ」
「そうか……じゃぁ後で試してみようか」
「わかった」
 チョコって何をやるんだろうとアサギが考えかけた時、支部の電話がけたたましく鳴った。続いてエリックの全館放送が流れる。
「この話はまた後でだな。仕事だ」
 メモ帳を閉じて懐に戻すロナに一つ頷くアサギ。トラックのある倉庫に1人と1体は駆けていった。

何を渡すか決めましょう

「愛の日?」
「そうよ。アンはどうするのかしらと思って!」
 にっこり笑って聞いてくれるロザリーには悪いが、何も考えていなかったというのが本音だ。だが、このタイミングでそのまま言うのも憚られる。
「あー……今まで岸壁街にいたから、外でどう言うルールがあンのか、あーしよくわかってねェんだ」
「あら、そう?そんなに大きく違いはないと思うわよー?」
 孤児院で愛の日と言えば、外部からの差し入れがもらえる数少ない日だった。どこぞの慈善団体からの寄付で服や食料や薬など必要なものが届く日。真新しいものが手に入る代わりに、自分たちが下の立場だと思い知らされる日。
 孤児院を出た後は、近所のコミュニティの中で交換会をする日になった。一部の恋愛好きたちは無い金を絞って何か贈りあっていると聞いたが、自分には関わりの無いことだ。職場では残業無しの日と言われて少し落ち込んだ覚えがある。
 ミサキが転がり込んできて、マジュを拾って。マジュの為にも何かやったほうがいいだろうと、上限金額の範囲で好きなものを買っていい日にした。
「最近はチョコレートを贈る人が増えたけど、お菓子でもお花でも、気持ちがこもっていれば何だっていいのよ」
 そしてどうも、外で愛の日というのは愛を形にする日らしい。恋愛、友愛、家族愛。普段の感謝も含むのだという。要は、日付を動機付けに言いたい事を言うということだろう。
 どうしようかと考えていると、横からヒルダが話に入ってきた。
「なに、愛の日の話かー?」
「そうよ。ヒルダは何か考えてる?」
「アタシは貰う専門だ!」
 何故か無い胸を張って言うヒルダ。
「一回な、溶かして型に入れるチョコならできると思ってやってみたんだが、これが妙な話でなー?ろくに固まらなかったんだよなー。買うとべらぼうに高いし、なら貰う専門でいいやって!」
「固まらなかったの?冷蔵庫に入れたのよね?」
「もちろん。」
 失敗した話のはずだが、ヒルダはドヤ顔をしている。
「そうねぇ、もしかして生クリームを混ぜる生チョコを作ろうとしてなかったかしら?」
「どうだったかな……思い出せねぇや。うん、もう過ぎた事だから考えねぇ事にする!」
 ロザリーの質問にカラカラ笑うヒルダの話からすると、チョコレートにいきなり挑戦するのは良くなさそうだ。
 イベントに参加する気が少しでもある自分に気付いて自嘲気味な笑いが込み上げる。外に出てきて多少は余裕が出てきたという事だろうか。とは言え、イベントで派手な事をするのは得策ではない。いくら機械班の中でそこそこ馴染めてきたとは言え、何かのきっかけでまた振り出しに戻らないとも限らない。
 目立たず、騒がず、それなりに。
 1番怖いのは何か?と言えば、好意の詰まったものを一方的に渡される事だ。自分に渡す物好きなんていないと言い切れれば良かったが、生憎そうでもないらしい。何やらごねて辞職した奴の顔が浮かんで、苦いものが口の中に広がった。もっと、釣り合う良い奴が他にいたはずなのに。あれで良い人材に辞められたら結社の損害だ……
「アン、どうしたんだよ?」
 いけない、長考に入りかけていた。
「アタシは貰う専門だから、何やっても返せねぇぞ?」
 ニッ、と笑うヒルダ。裏表を感じない笑顔を見て心が決まった。内輪だけはちゃんと渡そう。もし渡された時、返せなくて惜しいと思う人には渡したい。

 さて、何を渡すか、誰に渡すか。
 トイレで顔を合わせたミサキに愛の日の事を振るとあからさまに嫌な顔をして「当日は部屋で仕事やる」と言い切った。そうだろう。日頃の感謝だけならまだしも、愛とかいう不明瞭で不確定なものはミサキにとっても自分にとっても苦手な分野だ。そうは言っても、礼儀として必要な事はやったほうがいい。居場所を守るためにも必要だろう。
 必ず、ミサキとマジュの分は作ろう。それから普段のお礼でエルナー家に。何かと話を聞いてくれるヒルダにも。ミサキの件で飲み友になったロナにも渡したほうがいいだろうか……やたら忠実マメな彼奴なら方々に配り歩きそうだ。それだけ貰う分も多いか。否、返礼がなくても配るだろうな。あの天然人誑しなら。
 他に、と考えてアキヒロとカヤの顔が浮かんだ。マジュの繋がりで知り合った医療班の医師とその姪。子供同士の仲が良い事もあり、マジュがすぐ怪我するのもあり、割と顔を合わせる機会が多い。今後の事を考えたら日頃のお礼は渡してもいいかもしれない。ただ、噂で聞いた話では婚約者を亡くしたばかりだともいう。此処は、カヤに渡すのが妥当なところか。
 こんなところか。マジュ、ミサキ、エルナー家、ヒルダ、ロナ、カヤ。なんだか誰か忘れている気がするが、なんだ……?わからないが、少し余分に準備しておけば不慮の事態にも対応できるだろう。
 じゃぁ、何を渡すか。出来合いのものでも良いが、1人当たりのコスパを考えた場合自分で作った方がいいかもしれない。大量生産されている安い菓子では流石に相手に悪い。
 何を作ればいいのだろうか。ロザリーには「気持ちがこもっていればなんだっていい」と言われたが、漠然としすぎて不安になる。
 機械班の個人デスクに置いた資料をめくっていると、可愛らしいイラストのついた便箋がひょっこり出てきた。
「柘榴の、レイヤーケーキ……?」
 以前「マジュちゃんにも偶には美味しいお菓子作ってあげて」とロザリーに渡されたレシピだった。実は、作業に行き詰まるとロザリーはお菓子作りを始める癖がある。その手伝いに徴兵された時にもらったものだった。
「やッてみッか……」
 最後に切り分けてラップか何かで包んでシールでも貼れば、それなりの見栄えで悪くないものになるだろう。うん、これで行こう。柘榴の赤い色でマジュが喜ぶ様子が目に浮かぶようだった。
「買い出し行かねェとだな」
 製菓関係の材料の安いところは何処の店か後でロナに聞いておこう。

***

「えー、これより『いつもありがとう作戦』略して『いつあり作戦』の準備に入ります。」
ふわふわの栗色の髪をした男の声に、部屋にいる者たちが熱い視線を送る。
「皆さん、準備はいいですかー?」
「「「はい!」」」

レシピを確認しましょう

「愛の日ね……今年はどうしようかな」
 相談室に誰もいないのをいいことに、カフェモカを啜りながらロルグループの愛の日特集の薄いカタログを捲るアペルピシア。いい加減決めないといけないのだが、まだ迷いがあるらしい。
「スレイマンなら何あげても喜ぶと思うけど……」
 普通にチョコレートの詰め合わせにしようか、ネタ系のチョコレートにしようか。自分で作りたいけど仕事が忙しい。
「いっそ、チョコじゃなくてもいいかな。色んなお菓子の詰め合わせとか」
 カタログから目を離し、机に置いてある小さい鉢植えに話しかけるアペルピシア。
 不意に、相談室の扉をノックする音がした。カタログを閉じながら返事をする。
「はーい、どうぞー」
「エル先生、失礼しまーす」
 入ってきたのはカフェオレ色とコーヒー色の目のフィオナ・フラナガンだった。コーヒー色の目の方は義眼だが、近くで見ない限り不自然さを感じないほど良くできている。
「備品の確認に来ましたー」
「お疲れ様です。今は誰も来ていないのでご自由にどうぞ、フラナガンさん」
「ありがとうございまーす」
 にっこり笑ったフィオナが電子機器片手に文房具や机などの備品をチェックしていく。その間にアペルピシアはカタログを資料の中に片付けた(というより仕事サボりに見られないよう隠した)……のだが、フィオナの目はそれを見逃さなかった。
「エル先生、愛の日のプレゼントですか?」
 フィオナに聞かれて思ったより彼女の視野が広い事に驚くアペルピシアだったが、顔に出したら失礼だなと表情を引き締めた。
「えぇ。近しい人には渡しておきたいじゃない?話を振ったって事は、あなたも何か予定があるの?」
「大したことじゃないですよ〜わたしは総務班の人には配っておこうかなって思ってるだけですから」
 ひらひら手を振って言うフィオナの脳内は爆走していた。
ーー推しは機械人形マス・サーキュだし主人マキールのいる子達だから滅多な事はできないんだよな。何かしたいけど何も思いつかないわたしの馬鹿!最推しのヨダカ様は最高にクールでカッコよくてミステリアスでしろいのに似てて尊いんだ。主人マキールの代わりにあれこれ頑張ってる姿とか甲斐甲斐しくて良きよな。くぅ〜!いつも仲良さそうに一緒にいる黒い人そこ代われぇぇぇ!!両目の虹彩の色が違うとかしろいのそのものだし、わたしとお揃いだし本当テンション上がるわぁ〜!!遠目にご尊顔を拝したただけでも生きる糧になったわ最高!今日も元気にお仕事頑張ってください!!ーー
 まるで、手の届かない人に恋をするかのような表情のフィオナ。もちろん、アペルピシアにフィオナの脳内は聞こえないので、想い人がいるのだろうというところまでしかわからない。
「そう。道は遠そうだけど頑張ってね」
「!?」
「そういえば、あなた……ヘアスタイルが豪華ね」
「あ、これですか!?前駆除班のシリルさんに結ってもらったんです!」
 憧れのお姉ちゃんにしてもらったかのようなドヤ顔でツインテールを見せるフィオナ。いい歳した大人があまりに力強く言うせいでアペルピシアは若干引いていた。
「『怖がらなくて良いのよ』なんて言われたけど、わたし、そんなに怖がってたかな……?」
「見てないし、私にはわからないけど」
 その場にいなかったアペルピシアは知るよしもないが、シリルを見てガクガクブルブルしていれば怖がっているように傍目には見えただろう。だが、実際は感動に打ち震えていただけであり、今この尊い瞬間を脳に刻みつけようと真剣な眼差しになっていただけである。
「イメージチェンジかと思ったわ」
「それも良いですね。いつもしない髪型にすると、なんかテンション上がりますし」
 そうだ、仕事仕事!と言いながら留守になっていた手を動かし始めるフィオナ。
 スレイマン以外に渡す気はさらさら無かったアペルピシアだったが、ギリギリ未成年のミアには何か考えておいた方がいいかもしれないと思った。特に、この間いきなり泣き出してしまった事を考えるなら。
 身内を亡くす辛さはアペルピシアも知っている。自室で独りで死んだ弟のゾイを思い出せば、10年以上経過した今でも重苦しいものを感じて気分が塞ぐ。
 普段平気に明るく振る舞っていたとしても、ふとした瞬間に悲しみの波が襲いかかるものだ。周囲にできるのは無理強いせずに受け止めていく事。不安や悲しみを言葉にしていいと感じられる環境を作る事。本人が乗り越えていくには数ヶ月から数年かかるものだが、ちゃんとケアを受けていけば大体の人はいつか乗り越えていく。
ーーミアも、ネビロスも、いつかは乗り越えていけるはずーー
 どれくらいの時間が必要なのかはわからないが、乗り越えられるその時までアペルピシアは彼らを見守っていこうと思った。

***

 その頃。とある支部にてスレイマンは1人で悩んでいた。
ーー聞ける空気すらないもんなーー
 もうすぐ愛の日だし、アペルピシアに何を贈ろうかと考えているわけだが、いかんせん周囲にいる男性陣は聞きにくい人ばかり。ジークフリートなら答えてくれるかもしれないが、前の主人であるピョートルの性格を考えればアテになるとは思えなかった。
 ピョートルはとにかく自分の事に無頓着で、言うなればネビロスの悪いところにヴォイドを混ぜたような性格の持ち主だった。そんな彼が愛の日なんて繊細な話が通じるはずもなく、機械人形に教えるわけもなかった。
ーー自分で考えないとかーー
 同じ支部にいる他班のメンバーにも聞いても良さそうな人はいない。最近、医療班のヴォイドと仲が良いらしい前線駆除班のユウヤミ・リーシェルなら聞いても差し支えない気がしたスレイマンだったが、謎にブレーキがかかった。
ーーなんかわかんないけど、聞きたくないんだよなぁーー
 スレイマン個人としては、ユウヤミに悪い印象はなかった。むしろ、第6小隊が出動するときは極端に負傷者が少ないのでありがたいと思っている。1番ハードな部署である前線駆除班にいるのに、嫌な顔も疲れた顔も見せずに働いている様子は好感しかない。
 何が引っかかるかと言えば、アペルピシアに「あの手の人は絶対的な信頼をしちゃいけない」と言われた事だった。人の分析が得意なアペルピシアが言うならそうなのだろうと頭の片隅に常に置いてある事だった。
ーーやっぱり、自分で考えようーー
 色々考えた挙句、スレイマンは去年とちょっと趣きを変えた花束にしようと行き着くのに、然程時間はかからなかった。


必要材料を揃えましょう

 その日、ユウヤミの部屋に製菓材料の詰まった箱が届いた。
主人マキール、何を企んでいるんです……?」
 鼻歌まじりに本棚から引っ張り出したレシピ集を見比べるユウヤミの背にヨダカが疑念をぶつける。
「昨年までは面倒がって逃げ回っていましたよね」
「ヨダカが知らないだけで、昔は色々やっていたのだよ?」
「ヨギリのデータにも長らく逃げ回っていたと記録されておりますが」
「ふふ、それよりずぅっと前の話だよ」
 楽しそうに言うユウヤミの言葉に嘘はない。少年院では種々の行事が更生の一環として行われていたので、ヨダカやヨギリに会う以前には愛の日にも参加していたのだ。そこでユウヤミが覚えたのは、人の好意が可視化できるバロメーターは面白いという事だけだったのだが。
 お菓子作りのレシピ本を優雅に捲るユウヤミ。顎に軽く手を添えて悩んでいるように見える様は絵になる。ヘレナが見たらきっと卒倒するだろうが、ヨダカは疑うような冷たい視線を送るだけだ。
「死人が出る前に貴方を止めるのが私の仕事です。イベントに乗じて実験を行わないで下さいね」
「もちろん、そのつもりだよ。折角の面白い場所をみすみす壊すような真似はしないよ」
 軽く言いながら、レシピ本を捲る手を止めないユウヤミ。はたと手を止めたのは市松模様や渦巻き模様などのクッキーデザインが並ぶページだった。
「よし、アイスボックスクッキーのデザインはこれにしよう」
「必ず、作るならレシピ通りにして下さいね。オリジナリティを出そうとして食材を無駄にした過去を忘れないで下さい。あそこまでいくと害獣駆除用の餌にしかできませんから」
「言うねぇ、ヨダカ。あれは君の独断で捨てたのだろう?」
 ヨダカが言うように、レシピ通りのものは卒なく作れるユウヤミだったが、オリジナリティを出そうと思うと生捕には不向きな物体が出来上がる。美味しくないが食べられる範囲だと思っていたユウヤミ(自分で毒見して大丈夫だと確認済みだった)に捨てる発想はなかったが、ヨダカの判断で捨てられてしまったのだった。
「あれで何も起こらない人間は貴方くらいです……」
 ヨダカが痛むはずのない頭を抱えてユウヤミを見る。
「今回は安心し給え。ちゃんとレシピ通りに良い子に作るからね」
 口角を上げたユウヤミが机にレシピ本を起き、携帯型電子端末を取り出す。
「さて、と」
 好感度を上げるには、こう言ったイベントを使わない手はない。日頃から居場所を作りいざと言う時の手足を確保するために、結社内で信者を増やす努力をしているユウヤミとしては、面倒でも逃げない方がいいのだ。と言ってもばら撒くと価値が下がってしまうので、匙加減が重要である。
「第6小隊のメンバーには渡した方がいいだろうねぇ」
 近しい人を大事にできる人、という印象操作にもなる。同じ班内までなら不公平感より好感度の方が上がるだろう。メモアプリに第6小隊メンバーの名前を打ち込んでいく。
「人間には先程のクッキーでいいでしょうが……機械人形マス・サーキュにはどうするおつもりですか?」
「そうだねぇ……うん、あれだ」
 ヨダカの問いに対して、部屋の隅の箱からユウヤミが出したのはカンパニュラのレース編み。暇つぶしに大量生産しておいたものがあったと思い出したユウヤミはそれでいい事にしようと考えた。ちなみにカンパニュラの花言葉は「感謝」である。
「まぁ、シリル君に関しては当日ではない方がいいだろうからねぇ」
 くすりと笑いながら赤髪の彼が起こすであろう行動を予測するユウヤミ。本当はもう少し遊んでみたいイベントだが、初対面で警戒した目を向けてきた彼で遊ぶのは少々リスキーだ。他人の家族関係の悪化を望んでいるならまだしも、遊びの範囲と言い張るにはヨダカが許さないだろう。
「けしかけたのは誰です?」
「私はちょっとお手伝いしただけだよ」
「ウルがどれだけ貴方の事を信頼しているとお思いですか。シリルの事があるとは言え、後できちんと訂正して下さいね?」
「マルムフェ君は大丈夫だよ」
 自信を滲ませて言い切るユウヤミ。他人にはどうでも、ヨダカ相手に言い切る時は本当に確信がある時のみである。そこまで言うなら大丈夫なのだろうと判断したヨダカは引き下がる事にした。
「ケルンティア君は私からのものは何も受け取らないだろうし……」
 軽く頬杖をつくユウヤミ。
「さぁて、ホロウ君にはどうしようかねぇ」
「ヴォイド・ホロウにも渡すのですか!?」
「驚く事はないだろう?ヨダカ。彼女にはこの間の一件で迷惑をかけてしまったからねぇ」
 机からレシピ本を取り上げたユウヤミは、またパラパラと捲り始めた。
「多忙な医療班でお世話になっているわけだし、知人の労を労うのも善良な一般市民ならすべき事じゃないのかい?」
「そうかもしれませんが……」
「ヨダカがホロウ君を危険視しているのはわかっているよ。私もヨダカと同じように、ホロウ君は注意すべき相手だと思っている。」
 レシピ本のページを捲る手を止めるユウヤミ。
「だからと言って、普段の御礼一つしないのは違うのではないかな?」
 なんだか言いくるめられた気がしたヨダカだったが、反論できる隙を見つけられず「そうですね」と大人しく言う他なかった。
「キャラメルマカロン……ふふ」
 どうやら目的のページを見つけらしいユウヤミの目にいたずらっ子のような光が浮かぶ。
「このレシピだと8個分。足りないだろうけれど、お菓子はちょっと物足りないものだよ」
 笑って呟くユウヤミには一抹の悲しさがあった。
 きっと君はキャラメルマカロンを選んだ理由には気付かないのだろうな、と。それでいい。ヨダカの目を潜り抜けるには少々回りくどい事も必要だし、何よりどんな鳥でも空が似合うのだから。
 ヴォイドがマカロンを頬張る様子を想像したユウヤミは、食い倒れ祭りで恍惚の表情を浮かべてクロスタータを口に運んでいた様子を思い出していた。
 
 後日、別口でマシュマロときのこが部屋に届いた。ユウヤミは「秘蔵のおつまみを作る」と言って嬉々としてしまい込んでいたが、後にヨダカは配る相手を第6小隊のみに限定させておけばよかったと悔やむ事になる。優秀な監視役のヨダカも、まさかここまで来て常人であれば毒物ギリギリの遊びに手を出すとは気付かなかったのだったーー

***

 お菓子言葉。
 花言葉より知名度は低いものの、イベント時に渡す菓子にはきちんと意味がある。
 チョコレートなら「あなたと同じ気持ちです」
 クッキーなら「友達でいよう」
 キャラメルなら「安心できる存在」
 マカロンは「あなたは特別な存在」

 そしてマシュマロはーー「あなたが嫌い」

自主的に練習しましょう

 ヘレナは悩んでいた。
「どれにしたらいいか迷うですの……」
 ここはとあるスーパーの製菓コーナーである。愛の日を前にして、簡単なキットから本格的な材料まで色々並んでいる。
「リーシェルさんは何が好きなんですの……?」
 一目惚れした日からこっそり(とヘレナは思っている)片想いを続けている、黒髪に抜けるような白肌の人物を思い浮かべる。日の光に不釣り合いなその白さは前線駆除班というアクティブな仕事に向いているように見えないのだが、そんな事を気にする暇もなくヘレナは恋に落ちた。人当たりの良い微笑み、しなやかな立ち居振る舞い。むさ苦しい猟師仲間の男性ばかり見ていたヘレナの目にはユウヤミの姿が華やかに見えたのだ。
「甘さ控えめなものが好きそうですの」
 黒寄りのモノトーンコーデが多い事から勝手なイメージを作るヘレナ。頭脳労働が主体のユウヤミは効率よく糖分が摂取できる甘いものの方が喜ぶとは知らない。
「よし、これにするですの!」
 ヘレナが手に取ったのは『溶かして、冷やして、デコるだけ!ビターチョコタルト作成kit』だった。

 愛の日に想い人にお菓子をプレゼントする。それは恋する乙女の強い憧れであり、一世一代の決心である。
「失敗したものをリーシェルさんに渡すわけにいかないですの……!」
 自室の台所で気合を入れてエプロンをつけたヘレナの脳内では、今まで見てきたドラマやアニメの中で告白の為にせっせとお菓子を作っている女子たちの姿が再生されていた。
「告白……はまだしないですの、見極める為ですの……!」
 ユリィに「あんな胡散臭いのはやめておけ」と言われているのもあって積極的なアプローチは控えているのだが、それ以上に好きすぎて近寄れないのがヘレナの本音である。視線が合っただけでのぼせてしまうので、話す事すらままならない。
「これを機に、落ち着いて話せるようになるですの!」
 パチンと両手で自分の頬を叩いて気合を入れ直すヘレナ。
 それから、1時間後。作成キットの裏面に書かれている手順通りになんとか進めたヘレナだったが、溶けたチョコはタルト型にうまく入ってくれず周りにはみ出してしまっていた。小さいスプーンでなんとか拾い上げようとしたものの、余計に汚い見た目になってしまっている。
「動物の解体とは訳が違うですの……」
 気落ちした様子でヘレナは同梱されていたトッピングを散らしてチョコタルトを冷蔵庫に入れる。流し台の片付けをしなくっちゃと思った時、毎年エミリアはもっと面倒な事をしていたんだなと思い出した。
『お姉ちゃん、今年はゼリークッキーだよ!』
 大好きなお姉ちゃんへ、と可愛いシールに書いたものを手渡された去年の愛の日。あたしもエミリア大好き!と言って山で見つけた花を渡した去年の愛の日。ずっとずっと続いていくはずだった平穏な日々。
 もしも、ケンズの悲劇が起こる前に帰っていればエミリアを守れたかもしれないのに、と思い始めたヘレナの目から大粒の涙がこぼれた。
「エミリアっ……」
 大好き。ごめんなさい。どちらも、もう届く事はない。泣いても何をしても死んだら帰ってこないのは世界のルール。そうやって、人も動物も植物も命を巡らせている。わかっていても割り切れず、その場で座り込んだヘレナは止めどなくあふれる涙に身を任せた。
「爺ちゃんっ……」
 猟師として一人前になれるようゼロから教えてくれた師匠。本当の祖父ではないが、親しみを込めてヘレナは爺ちゃんと呼んでいた。彼もまた、ケンズの悲劇の犠牲者である。
 ひとしきり泣いた後、ヘレナは涙を拭ってゆらりと立ち上がり流し台の片付けを始めた。世界のルールですの、と呟いて。

 キットで作ったチョコタルトを齧りながら、ヘレナはユウヤミ以外に渡すべき相手を考えていた。
「当日は休みだから大箱はいらないですの。個人的に渡したい人に限定するですの」
 ユリィはエミリアの親友でもあるし、長い付き合いでもあるので決定。猟師仲間のウルリッカにも当然。医療班で頑張ってる女の子のミアにも。そう言えばユリィの従兄弟が汚染駆除班にいると聞いていたが、まだ話した事なかったなぁと思いつつまたチョコタルトを齧る。
「味は悪くないけど、見た目をどうにかしないとですの……リーシェルさん以外は普通のお菓子にするですの」
 仕事でお世話になっている人にも渡した方がいいだろうかと思ったヘレナの脳内に第4小隊の小隊長、ロナの顔が浮かぶ。渡しても何も問題はないのだが、ヘレナは少しもやもやしていた。
「誰にでも優しいのは罪ですの……」
 はぁと溜息を吐くヘレナ。
 実は、ヘレナがユウヤミに一目惚れした理由はロナにも責任がある。誰にでも分け隔てなく優しいロナの弊害とも言えよう。
 ユリィに勧誘されて結社に入り、前線駆除班にヘレナが配属されたばかりの頃。不意にエミリアや爺ちゃんの事を思い出したり、機械人形への恐怖が膨れて泣き出してしまうことがあった。そんな時に声をかけてくれて、落ち着くまで話を聞いてくれたのがロナだった。
 ロナは上司としての仕事を真面目に全うしただけなのだが、落ち込んでいる時に親身に話を聞いてその後も何かと気にかけてくれる存在がいたら魅力的に思えるだろう。ヘレナは類に漏れず、恋に落ちた。
 そして、早々に夢は破れた。資料室でヘレナの全然知らないアクアグリーンの眼鏡をかけた女性と親しそうに話ているのを見てしまったのだ。なんだ、もう恋人がいたんだ……それであの態度は酷いなぁともやもやしながらユリィにこぼすと、誰にでもロナはああなのだと教えてくれた。
『モテると思う。けど、恋人できないタイプっしょ?みかんは』
 少なくとも恋人がいる幸せ顔には見えない、とユリィは言い切った。
『うちも色々相談乗ってもらった。あれは勘違いされても仕方ない。天然故の戦犯』
 まだ諦めが付かなかったヘレナは、ロナを探して待機所に顔を出した色素の薄い小柄な少女に会って撃沈させられた。ロナに女史呼びされているのに対して呼び捨てで返す不遜な子供。それでもロナはヘレナに向けたのと同じ調子で話していた。
 ユリィの言っていた事は正しかったと理解したヘレナは、深い仲になったとしても自分を1番に見てくれる保証はどこにもない事も理解した。その時困っている誰かのところに行ってしまうのは美点であると同時に寂しいもの。こうしてヘレナのロナへの想いは砕け、そのタイミングで出会ったのがユウヤミだったと言う訳だ。
「義理としては渡した方がいいですの……?」
 社会人の礼儀として必要だろうし、きっと誰にでも配るだろうから返せないのは上司に失礼だろうし、と考えたヘレナは義理チョコを準備しようと思った。
「本命はリーシェルさん1人ですの!!」
 意気込むヘレナはキットを使って何度も練習し、作ったチョコタルトは全部ヘレナのお腹に吸い込まれていったのだった。

 

添付文書を書きましょう

 愛の日が迫ったある日。恋だ愛だと浮き足立つ連中を横目に1人の男が製菓材料を買い込んでいた。綿毛を思わせるふわりとした栗色の髪を持つその男の目に輝きはなかった。
「はいはい、リア充乙〜」
 口の中で呟いて、必要な材料をカゴに放り込んでいくオルヴォ。二次元に生きる彼にとって現実の愛だの恋だのというものは全くもって邪魔なものだった。
 趣味を邪魔されてまですることじゃない、というのがオルヴォの持論である。SNSで繋がっていたオタ友の中には、理解のない配偶者にグッズを捨てられてファンを辞めてしまった人やイベントに行こうとしたら家族サービスしろと言われて泣く泣く諦めた人がいた。
 そんな様子を見ていたオルヴォはいつしか三次元の女性に興味がなくなっていた。
 せめて趣味に理解があればーーと思った頃もなかったわけではないが、メインで推している作品は女児向け作品。そうなればオタク界隈でもそこそこマイノリティ側に入る。
ーー推し語りで一生過ごせればそれでいいんだけどなーー
 推しは酸素、二次元は生きがい。
 そんなオルヴォの気持ちなんて製菓業界が気にするはずもなく、大々的に宣伝は流れる。スーパーの中で流れている愛の日の宣伝ラジオを聞かないふりしたオルヴォは、この店に来た当初の目的を思い出した。
ーーオタクなら一度は憧れる、アレーー
 ニヤッと微かに笑うオルヴォは生クリームのパックを手にとっていた。
ーーアニメ飯!ーー
 二次元に登場した食べ物を三次元に召喚する禁断の儀式。自分も向こうの世界に行った気分になれる絵本はいりこみぐつ。愛とつけば何でもいいというなら、作品愛を語ってもいいじゃないか。
 結社に入ってから知り合ったオタ友であるテオフィルスと、なんやかんやで沼に叩き落としたギルバートにはアニメ飯で作品愛を叩きつけようかとオルヴォは考えていた。
「テオにはセーラちゃんの好物だよね」
 「テレビアニメ 海上の青い星」の主人公、セーラ・マリン・ポラリス。星色の髪に海色の瞳の戦う姫さまの好きなお菓子はアルファフォーレスである。練乳でできたミルクジャムをクッキーに挟み、外側をチョコレートやココナツでコーティングしたお菓子。たまにパティスリーとコラボしたとかで出回るのだが、因んでいるだけで完全再現ではない。しかも、ここ最近は全然見かけなくなっていた。
「大国に行って初めて食べたお菓子なんだよな、アルファフォーレス」
 セーラがもちもちのパンを頬張って喜んでいる様子はそこそこ知られているのだが、初めて大国で食べたお菓子がアルファフォーレスなのはあまり知られていない。完全ガイド(電子版も販売中)を読み込んだ人でないと知らない情報だ。その甘さに最初はセーラも引き気味だったものの、七星ノ国では食べられない甘さに虜になった。国民に配ろうと夢に見るシーンもあったりする。
「本当にこれ甘いんだよねー」
 クッキーに挟まれているのが練乳で作るミルクジャム……というかほぼキャラメルである。そしてコーティングはチョコレート。想像しただけで物凄く甘い。実際口の中の水分がなくなる勢いで凄く甘い。
 でも、そんなところで手を抜かないのがオルヴォである。アニメ飯の完全再現に妥協はない。
「ギルバートにはシモーヌちゃんの好物かな」
 「黒天の騎士」という特撮作品に登場する女性キャラ、シモーヌ・カロ。赤いカラーと火にまつわる能力を付与されている彼女の好物はパンナコッタである。ただのパンナコッタなら手に入りやすいし、自宅で作るのも簡単だ。でも、シモーヌのパンナコッタというのはちょっと違う。黒天の騎士の中にしか登場しないお菓子屋さんのパンナコッタであり、特殊ないちごソースが使用されたものなのだ。完全再現されたものは何処にも販売されていないので、いかに貴族だとしても簡単には手に入らない。
「でもぼくは再現したことあるんだな」
 携帯型電子端末の写真アプリ内をスクロールし、前回作った時の写真とレシピを確認する。
「あの時はバズったよなぁ」
 うんうんと1人頷きながら当時を回想するオルヴォ。
 シモーヌがお気に入りのお菓子屋さんへ行き、パンナコッタを購入してご満悦のタイミングで敵と遭遇。戦闘が終わった後にはゆるんゆるんのパンナコッタは既にケースの中でぐちゃぐちゃになっていてシモーヌは落ち込んだ。ところが、戦闘の様子を見ていたお菓子屋さんが感謝と称してもう一つパンナコッタをくれてシモーヌが復活する、という回があった。その放送から最終回放送までの間にオルヴォは「#アニメ飯 #再現 #黒天の騎士」と書いて完全再現した件のパンナコッタをSNSに掲載したのだった。それが凄くバズった。それだけである。それでもオルヴォは仲間内で楽しかった事を喜んでいた。
「シモーヌちゃんのギャップ良きよな」
 ちなみに、オルヴォはギルバートがどことなくシモーヌに似ている機械班のアンが好きだとは知らない。ついでに言えば人の恋愛事情には首を突っ込まない事を信条としているので、たとえ気付いたとしても何も言わないであろう。
 作品愛を伝えられる相手がいることを喜びつつ、カゴに放り込んだ製菓材料と共にレジへオルヴォは向かった。

 製菓材料をマイバッグに詰め込んだオルヴォは公共交通機関で自宅に向かっていた。
 作品愛を伝える。それはオタ友同士に限定すべきものではない。というか、彼らに伝えるよりももっと大事な人に伝えなければならないものである。
 そう、製作者サイドだ。
 誰にファンレターを出そうかと悩んだオルヴォは、携帯型電子端末のメモアプリを開いて名前をメモしていく。
「まずはエドワード・チェオ先生」
 「この世界に有終の美を」という少年漫画の作者である。かれこれ10年以上コミックGoGoにて連載を続けており、途中でアニメ化もしている。
「まさか、ロリ学者にあんな過去があったとは思わんよな」
 胸熱展開だわな、と言いながら名前をメモアプリに打ち込んでいく。尚、ロリ学者とはメタ・セレスというロリコンな技術者キャラクターのあだ名である。
「そうだ、FBにも書こう」
 FBとはアニメ制作会社のFlip Book株式会社の略である。一大ブームを巻き起こした「海上の青い星」を制作した会社であり、美麗な作画でも人気を博している会社だ。大陸の強国、兎頭国で生まれた漫画「黒薔薇の掟」のアニメ制作権利も早期に獲得し、制作して放送した力のある会社でもある。
「もちろん、カルダモンにも書かないと」
 カルダモンとはVFX制作をしている株式会社カルダモンのことである。カンテ国内で作成された特撮作品のほぼ全てにカルダモンが噛んでいる。「黒天の騎士」も「咲きほこれ!ピアルルSix」もカルダモンの制作だ。
「ライラックさんに会わせてくれた事を感謝しないとね」
 どこの二次元関係の会社にしても、テロの影響を少なからず受けている。屋外イベントの中止や撮影延期、リモート社員の仕事の滞り。市民のサブカルへの関心希薄。二次元の作品を作るのも大変なのだとアニメ関係のラジオでスタッフが語っていた。
ーーグッズを買うのが1番の応援!転売ヤー滅べ!ーー
 大きな声で言いたいが、移動中の公共交通機関で言うことではない。ここはグッと堪えて脳内妄想で転売ヤーを袋叩きにして吊るしておく。
「リリィさんにも書きたいな」
 二次元に生きるオルヴォの数少ない人間の推し、リリィ・エンド。本業はアクション女優だが、スーツアクターをしている時もある。特撮ヒーローの悪の組織側のモブ怪人役で知ったのだが、中々にいい動きをする。そんな彼女の本名はユリィ・セントラル。今はマルフィ結社の前線駆除班第4小隊に所属する人だ。
「アニメじゃない……本当のことなんだよなぁ」
 未だに推しが同じ勤め先にいると信じられず、やっぱり夢じゃなかろうかと頬をつねる日もあるオルヴォ。
「早く本業に戻れる日が来ますよーに」
 同じ勤め先にいるのも嬉しいのだが、役者は役者の仕事をしてこそ輝くもの。結社で汚染人形をぶっ飛ばすよりも、いい作品と出会えていい作品を作り上げてもらった方がオルヴォはとても嬉しい。
 そんな話だと「推しは恋愛対象じゃないの?」と思う輩もいるが、それこそオルヴォの神経を逆撫でする禁句である。
「綺麗なものが嫌いな人がいるか」
 推しは支えるものであって、手元に置くものではない。というか、好きという単純な感情を全部恋愛に結びつけようとする不届き者のなんと多い事か。うっせえわ。恋愛厨に構う暇は無いんだよ。せいぜいお花畑脳連中同士で乳繰り合ってろ、あんたらの価値観押し付けんじゃねぇ!!
 脳内で一息に言ったオルヴォは肩にこもった力を抜いた。
 いけない、いけない。SNS上ならともかく、三次元では浮かないように気を引き締めないとだった。「オタクは気持ち悪い」という風潮を払拭する為にも。
「『いつあり作戦』みんなうまく遂行できるかなー」
 気分を切り替える為に仕事の事を思い出すオルヴォ。「いつもありがとう作戦」略して「いつあり作戦」。愛の日に合わせた保育部の行事である。子供たちが感謝を伝えたい人に紙製のメダルやらちぎり絵やらを気持ちを込めて渡す作戦。子供たちの健やかなる心の成長のためにも確実に成功させたいところだが、ほんの少し不安もあった。
ーー身内が亡くなってる子もいるからなーー
 カヤ・ロッシ。母親は死亡し父親は行方不明。叔父のアキヒロが面倒を見ているとはいえ、本物の親の有無は後々の心の安定に作用してくる。引っ込み思案で芯の強い子は、助けが必要な時に大人が手を差し伸べられないかもしれない。
 マジュ・リョワ・シン。生みの両親不明の養子だという。養親のアンは「アン姐」と呼ばせている辺り、親になるのに躊躇いがあるとオルヴォは推測していた。そこは保身よりマジュの為に母親の立場を受け入れてほしい、というのがオルヴォの願いだった。ただ、アンがきっちり面倒を見ているのはマジュの様子からわかるし、マジュ本人も疑ってないところを考えれば余計なお節介かもしれない。
「よそはよそ、うちはうち」
 それでもいいか、自分ちじゃないし。子供たちが元気に健やかに大きくなって、無事に大人になってくれればいいか。

 1人頷いたオルヴォは次の停車駅名を聞いて、乗り過ごした事を知った。


丁寧に梱包をしましょう

「えぇ。はい。もちろん、ご報告にあがりますわ。……それではごきげんよう」
 1人、自室にて携帯端末の通話を切るサリアヌ。人事部社内人事課のサリアヌの電話相手は実家の父からだった。
 密偵としての役目がある以上、貴族の仕事はしなくていいとサリアヌは結社に来る前に言われていた。だが、身内のお茶会だけは欠席しないようにとも言われていた。2月は14日と日程が組まれており、随分前から半休を申請していた。
 サリアヌの実家、ナシェリ家は貴族の中でも譜代の技能貴族。御家芸はカンテ・ターロゥと呼ばれる民族舞踊。毎年愛の日にはナシェリ家の一般公演が午前に行われ、午後には身内のお茶会が計画されている。
「お父様も随分な心配性ですのね」
 身内のお茶会ではサリアヌの密偵役の仕事ぶりも確認される。イゼナ家やルルハル家まで報告できない内容もナシェリ家の範囲で要求されれば答えなければならない。貴族世界の外側、市井で働いているサリアヌは親族のお茶会の中でも少し浮くようになっており、その事情を慮ってか、お茶会の数日前に父親から電話がかかるようになっていた。貴族の誇りを忘れるな、と。
 サリアヌが貴族の誇りを忘れる事も、ましてや一般市民になりたいと思う事もないのだが、ついつい父親は不安になって連絡してくるのだ。物の見方が変わってきている故に浮きがちで心配ーーそれだけではないのをサリアヌも知っていた。それ故に一切文句を言う気もなかった。
 愛の日、と言えばサリアヌの脳裏には彼が浮かぶ。幼き日に許婚とされた元夫のことが。貴族内の近しい血縁で婚姻を繰り返すと先天的な病気を発症しやすくなる。それを防ぐ為、家同士の関係強化の為、決められた結婚相手だった。愛があるかわからない中、愛の日だからと贈り物を交換して仲良しごっこを続けた10代の頃。だが、演技も続ければいつしか本当になる。事務的に付き合っていたはずなのに、お互いの中にはきちんと愛が育っていた。
 晴れて夫婦となったサリアヌだが、これで子供を授かっていれば今のような苦労はなかっただろう。待てども自然に妊娠する事はなく、病院で検査を受けてようやくサリアヌが子供を授かりにくい病を抱えた身体であると発覚した。大きな病気を患った事もなく、どちらかと言えば健康だったはずなのに、だ。
 この時のサリアヌと夫の中にあった気持ちは「数百年続く憧憬の対象として血は守らねば」という貴族としての意地だった。
 直ぐに治療を開始したが、中々効果は得られなかった。夫も検査をしたがこれといった問題はなく、必然的に親族からの圧力はサリアヌ1人に向かった。過剰な圧力から夫はサリアヌを庇ってくれたのだが、その優しさが余計にサリアヌは辛かった。
 病持ち。いつのまにかそんな言い方をする人が周囲に増え、離婚を考えた方が為になるのではという空気も徐々に迫ってきていた。おりしも、末の妹の検査結果が出たのもその頃だった。サリアヌと同じような病が妹達にあれば大変だという事で、全員検査するようにと父に指示されたのだった。妹達は、サリアヌと同じ病を抱えていなかった。そして、末の妹だけはまだ結婚相手が決まっていなかった。
 昔のように一夫多妻が認められていれば話は違ったかもしれないが、夫の家の当主の指示でサリアヌは離縁させられ、ナシェリ家当主の指示でサリアヌの妹が後妻に入った。
 夫は強く反対しなかった。サリアヌも抵抗しなかった。こうなるかもしれないと既にわかっている事に対して騒いで抵抗するのは貴族の在り方として相応しくないし、何より美しくない。
 わかっていた事。そうは言ってもサリアヌにとっては辛い事に違いはない。
 いっそ、彼の人が酷い人だったなら。あんなに誠実な人でなければ。一欠片も好きになった事がなければ。こんなに辛くなかっただろうに。
 恨みたかった。ーーが、誰も恨めなかった。
 ただ、静かな生活を続けられれば良かったのに。始まりはどうであれ、好いた人と同じ道を歩めれば良かったのに。それすら許されないのが、政治の道具として生まれついたサリアヌの人生だ。
 実家に帰ったサリアヌは考えた。貴族の務めは、技術を保管する倉庫たる事、政治の中核の担い手である事、国民をまとめる象徴である事。ナシェリ家のカンテ・ターロゥを他の家族ほど上手に踊れるわけではなく、政治にそこまで興味はなく、象徴の血を繋ぐ事もできない。そんな自分は貴族と呼ばれていいのだろうかと。
 後妻に入った妹は程なくして子供を授かった事もサリアヌに追い討ちをかけた。
 けれど、今いるマルフィ結社という場所に貴族の務め云々で攻撃する人はいない。
「血を繋げないのであれば、象徴としての貴族を演じ続ければよいのではなくて?」
 自室の机には高級菓子店の紙袋が載っている。一つ一つは小さいものの、人事部に所属する全員分のお菓子が入っている。
「貴族は国民にとっての理想の象徴でいなければなりませんもの」
 遠い目をするサリアヌの黒い瞳には何が映ったのだろうか。