薄明のカンテ - 愛の日に優しい諦めを君に/燐花

その女子高生は忙しい

 恋、愛。何故それらにうつつを抜かせるのだろうとは思う。だが私は知っている。そこに価値も利益も生まれやすいと言う事を。
 まだ経験した事は無いが、そこに潜む心理は分かっている。何故人々がそれを求めるのか、どうして浮き足立つかは知っている。だから私はそれを提供する側に回る。

 自分自身の事はまだよく分かっていないけど。


 クロエは席に着いたまま難しい顔で資料を読み漁る。そこにあるのは愛の日に出展する店の一覧と、ベーコンおじさんの余興内容だ。
 コトンと音を立ててテーブルにホットミルクが置かれる。そしてふわりと部屋中にアロマの香りが漂った。
「んー…素晴らしい。実に素晴らしい。流石アロマティコ製の精油だ…」
「おじさん、アロマティコの製品扱うんですか?随分と高級思考ですね」
「高級過ぎるからね、お試しサイズをお求めやすい価格で扱う事にしたんだよ。近々ね!」
「ほう…」
 クロエはベーコンおじさんの手から精油を受け取るとその小瓶を穴が空くように眺めた。
「うふふ…なかなか話題になりそうな商品ですね」
「しかもね!愛の日にイベントやるって言ったらサンプル用の精油まで沢山貰ってね!だからそこでは小さい小袋に香りを染み込ませて無料配布するつもりだよ!」
 過酷な状況下でアロマは心を癒すのに良いからねぇ、と言いながら遠くを見つめるベーコンおじさん。テロが起きてすぐ、ひたすら避難所を練り歩き人々を勇気付けようとアロマを配った彼の脳裏には、ラベンダーの香りを受け取ってすぐ「パパにも嗅がせてあげるの!」と飛んで行った女の子が浮かんだ。歳の割にしっかりした子で、お礼を忘れずに口にした上で飛んで行ったのだから大したものである。
 実はその子供はマルフィ結社総務部のリアム・シュミットの愛娘、リリアナ・シュミットであるのだが、クロエはそんな事は知らなかったしおじさんも二人が知り合いだと知らなかった。
「ああ、前に避難所で配って大正解だったって言ってましたよね」
「そうそう!皆喜んでくれてなぁ…」
 正直、同じ様な行動は一部の人間のトラウマをフラッシュバックさせる事にならないか、とクロエは危惧した。なのでそれを見越して今回配るのは相談の末小袋にした。おじさんが前回配ったのは瓶。だから「良い香りの瓶」にミクリカのトラウマを封じている人のその恐ろしい記憶を呼び覚まさない様にと言うクロエなりの配慮だ。ご丁寧に香りも一新、ベーコンおじさんがその時配ったものをリストアップし、「なるべく取り扱わない様に」と忠告まで添えて。単純に真新しいものをメインに扱い、新規顧客獲得に繋げたいと言う狙いもある。
「いやぁ…おじさんはそこまで頭回らなくてなぁ…クロエちゃんが言ってくれなかったらもしかしたら、人々の悲しい気持ちを呼び覚ましていたかもしれないなぁ」
「そこまで深刻かは分かりませんが、まぁ念には念を入れて。この時貰った人がリピーターに、貰ってない人が新規顧客になる様に」
「いやいや、匂いってのは大事だ。おじさんも匂いでふと昔を思い出したりするよ…特に、ポテトサラダの匂いを嗅ぐと幼少期の入院生活を思い出す…」
「何でだ」
「何でか小児科の病棟、常にポテトサラダの匂いが充満してたんだ!」
「何で病棟にポテサラが充満してんだ」
 そんな思い出話はさて置き。ミクリカ愛の日祭に参加する店の一覧にもう一度目をやる。すると、そこに何だかクロエにとって大変いかがわしい名前が載っている事に気付いた。
「これは──…」
「おーいベーコンおじさーん。心の充電が切れて欲求不満になっちゃったからそろそろ褒め言葉が欲しいなーなんて……げっ」
 その人物は、クロエの存在に気付くと中途半端に崩れた笑顔を彼女に向けた。
「ク、クロちゃん…居たの?」
「おい、何でリカ・コスタが一丁前に出店なんざ決め込んでんだ」
「え?ああ、俺も社会貢献をしてみたいっつーか何つーか…」
「『つう』と言えば『かあ』じゃねぇんだ。相変わらずもにゃもにゃ喋りやがって」
 リカ・コスタ店主こと、ベーコンおじさんから褒め言葉を貰いに来た変人ことヤサカ。彼は齢三十二にして十八歳の女の子の凄みを前に震え上がった。
「変だよなぁ…クロちゃん堅気の癖に雰囲気が完全に裏社会…」
「その『裏社会』との境界がまるでない様な店やってる奴が何故堅気の堅気による堅気の為のイベントに参加しようとしてんのかって聞いてんだ」
「まあまあクロエちゃん!呼んだのは俺さ!!」
 じゃーんっ!!と言う効果音でも付きそうなポーズを決めてベーコンおじさんはクロエを見ていた。彼の声掛けならば致し方ない。ベーコンおじさんならここらの不良グループすら大きな愛で制御してしまうだろうし、ヤサカもそんな感じで呼んだのだろう。しかし余計な事をしてくれた。そんなクロエの睨む様な視線にも臆する事なくおじさんはニコリと返す。
「…まあ、おじさんの声掛けなら仕方ないでしょう」
「おじさん関係じゃなきゃ俺来ちゃダメだったのか…クロちゃん、俺に対してやたら厳しくなーい?」
「私の周りでいかがわしいのはクソ兄さんだけで十分と言う事ですよ。私はいかがわしいのはそこまで好きじゃないです。完全に個人の好みの問題で貴方を呼びたくなかったので」
「うわ、尚更酷ぇー」
 はぁ、と溜め息を吐くクロエを見てヤサカはふんふんと鼻を鳴らす。可愛いなぁ、本当にこの子は。心の内では多分の事を慕っているのに口を開けば憎まれ口ばかり。自分の事も、掃除屋ヤサカなんて通称を知らない。本当にただの一介のバーの店主だと思っている。まだまだ知らない事の方が多い、可愛い可愛い女の子だ。
「そのクソ兄さん、元気?最近飲みに来てくんねーからたまには来いって言ってよ」
「自分で言ってください。暇なんじゃないですかね?相変わらず女のケツばっか追い掛けてますよあの人は」
「ヒッヒ、相変わらず元気だねぇ。その麗しいケツの持ち主は彼に振り向いてくれそうかい?」
「知りません。興味ありません」
 クロエはそこまで言うとハッとした様に顔を上げた。時計を確認するとおじさんの温めてくれた熱々のホットミルクを流し込む様に飲み、自分の鞄を鷲掴む。
「クロエちゃん!?どこ行くの!?」
「設営がどこまで進んでいるのか、メイン会場まで出掛けて来ます。夕飯までには戻ります」
「クロちゃん、俺も一緒行こうか?」
「来なくて良い」
 ぴしゃりと言い切るとクロエは慌ただしく出て行った。残されたベーコンおじさんとヤサカは顔を見合わせるとやれやれと肩を竦める。
「メイン会場、そう言えばあの子の居た孤児院跡地の近くだったね」
 不意に寂しそうにベーコンおじさんが口にした。
「ああー…聖ミクリカ教会だっけか?そっか…だから一人で見に行きたかったのか…行動可能な機械人形が埋もれている可能性とか何とか言って、長い事あの辺立ち入り禁止になってたしなぁ。掃除屋すら入れなかったしなぁ」
「そうだね、テロで被害が大きかったからね…神も守護もあったものじゃない……あんな惨状見たら、神を信じるよりも目に見えて分かる利益の方を優先したがるのも分かるよ。あの子があんな子供らしからぬ、年頃の女性にあるまじき歪んだ凶暴性を持って守銭奴と言うか利己主義になってしまったのは何もかも、状況が悪かったんだ」
 ヤサカはしみじみと話すベーコンおじさんの言葉を聞き、顎に手を当てしばし考える。そして思っていた事を口にした。
「いや、クロちゃんのあの利己主義な感じ確かもっと小さい頃からだって言ってなかった?」
「………」
「ってゆーか、おじさんもしっかり思ってたんだね。子供らしからぬ且つ年頃の女性にあるまじき歪んだ凶暴性を持った守銭奴って」
「………ヤサカ君、今の発言はクロエちゃんには内緒だ。絶対に、内緒だ」
「…ヒヒヒッ!」

海の記憶

 聖ミクリカ教会。
 ここは修道院にして孤児院だった。十八年前の寒い日、赤ん坊だったクロエはここに大事に包まれたまま置いていかれた。厳重に布に包んで行ったのも、面が割れにくい岸壁街ではなく人目もあるだろうこの教会に置いて行ったのも親のせめてもの優しさだと何となく分かる。
 物心付いたクロエは、この教会で「特殊な子供」として育って行った。好む遊びはいわゆる「リアルおままごと」。自分で仮想通貨まで作ってしまう拘り様で、何の本で学んだのかその仮想通貨を用いて「株ごっこ」までしていた。やがて子供達の間でその仮想通貨は本当に価値ある物となって行き、宿題を見るだとか掃除を代わるだとか、そうした「善意」の見返りに使われる様になった。
 子供達は遊びの中で利益や損得勘定を覚えていく。シスター達はそんな子供達の、ひいては諸悪の根源であるクロエの行動に頭を抱えた。
 これは、クロエが十歳の時だった。
「クロエ、いけませんよ。神と聖霊はいつでも貴女を見ておられます。真心でもって人と接しなさい。見返りを求めてはいけません」
 この教会の修道院長は五十代の女性だった。名はシスターロバート。年の功かクロエの扱いに困っていた他のシスターとは違い、いつでも何かと彼女の前に立ち塞がった。クロエはその度純粋で真っ直ぐな目を彼女に向けた。
「ですが院長、いずれこの修道院から出て行く子はどうなります?それまでこの囲いの中でシスター達や院長に守られ、その時になっていきなり外の世界で生きて行けと言うのは酷過ぎやしませんか?」
「私達はそんな事しませんよ。神と聖霊の加護の下、いつでも貴女達を受け入れます」
「…大人になっても?」
「ええ、道を見失う度に私達は受け入れます。そして正しき道に戻れる様全力で支援するのです」
「正しき道、ねぇ」
 クロエには言いたい事があった。それはずばり、「教えで腹は膨れない」と言う事。そして少なくとも彼女は目に見えない神と聖霊の加護くらいで自己肯定感も高まらなければ満足なんてしない少女だった。
 利益を生み出し、形として対価を得る。その対価は何だって良い。しかしそこで得た物がそのまま自分の働きによって得られた価値になる。クロエはそれが快感だった。
 姿も見えない神や聖霊に護られていますといくら言われても実感が湧かない。私達は世のため人の為笑顔の為に少ない施しでも身を粉にして働くのですと言われてもそれは何だか良い様に使われている様にしか見えない。
 勿論この教会でこの教えで救われた子供達は多い。しかし、クロエはとことん教会の教えと合わなかった。
「…ねえクロエ、私と二人きりで話をしましょう」
 院長はクロエにそう耳打ちした。
「ここでは他のシスターの目もあります。そして何より、父なる神の御許です」
 クロエは「とうとう引導を渡されるか?」と思った。だって図書館に置いてあったミステリ作品でもよく出てくる描写だ。「二人きりで話がしたい」と言われて行ったら殺された、だなんて。
 そんな物騒な思考を巡らせ巡らせ、クロエは黙って院長の後ろに着いた。
「院長様、クロエとどちらへ?」
「ちょっとお買い物がてら散歩に行って来ます。留守を頼みましたよ」
 どこへ行くと言うのか、電車も乗り継いだ。
 電車が揺れる度に鳴る独特な音。クロエも一緒になって「がたんごとーん、がたんごとーん」と呟いた。暇だった。
 院長は教会を出てからめっきり喋らなくなり、その代わり移動中胸の前で手を組み、何やら祈りを捧げている様だった。
 黙ったまま揺られ、気付けば海が見えた。クロエは少しだけ目を輝かすと、迷わず足を進める院長の後を追った。
「院長、どちらへ…?」
「もうすぐで着きますよ」
 灯台だろうか。建物が見えるとそのドアを開ける院長。院長はクロエにそこに入る様に促すと、「そこで気にいる物を選んで待っていなさい」と呟き外に出る。
「気に入る物って…」
 そこに置いてあったのは様々な形のヘルメットだった。一般的なヘルメットから、顔を覆うフルフェイスのヘルメットまで。それら全てに共通して言える事はやたらめったら装飾が派手だと言う事だ。
 その内爆音が鳴り響き、クロエは咄嗟に黒ベースにラメが散らばり、金色の装飾が施されたフルフェイスメットを手に取って飛び出す。目の前にはウィンプルもベールも脱ぎ、その代わりに髪はヘルメットに納め、普段の修道着をしっかりライダースジャケットに納めてしまった院長が居た。
 しかも、サイドカー付きの大きなバイクに乗って。
「……はぁ?」
 あまりに予想外な出来事にクロエは戸惑う。そんな彼女を見て院長は悪戯っぽく笑うとサイドカーに乗る様促した。
「ほらほら、お乗りなさいクロエ。夕日に向かって走りますよ」
「な、何を…」
「お話ししましょう。折角なので乗っちゃいましょう」
 ヘルメットを被ったクロエを乗せたバイクは道をひた走る。あくまでクロエを乗せているからか安全運転と言える速度で。カーブを曲がる。潮風が髪を触る度に先程までピリピリしていた心が凪いだ。しかし何故院長はこんな事を?その答えは、テトラポッドだらけの海で明かされた。
「私もね、本当は修道着じゃなくてヘルメットに髪を納めたいのよ。それに、顔を見合わせるのも尼さんだけじゃ物足りないわね。たまにはうっとりする様なイケメンの横顔を眺めていたいわ。ああ、若い気持ちになってバイクでチキンレースなんてのも良いかもしれないわね」
「い、院長…」
「分かってるわクロエ。随分俗物的だと言いたいのでしょう?でもねぇ、ここは海なの。教会も近くにない、こんなところでボソリと違う生き方や世界に憧れを募らせるのだって、きっと寛大な御心で父なる神は赦して下さいますよ」
 そう言うところは、ちゃんと教えを粛々と守る院長らしかった。クロエは院長が何を言いたいのか、次に発せられる言葉を待った。
「私だってね、もしもの生き方を考えるのよ。十代半ばで神の花嫁となったけど、もしも本当に私の隣に素敵な旦那様が居て、血の繋がらないたくさんの子供達ではなく血の繋がりのある我が子を抱き締める様な人生だったらって…」
「……院長は…後悔してるんですか…?シスターになった事…」
「いいえ?今の人生も私は満足ですよ。ただ、シスターの中には教会で生活していてもふと迷ってしまう者もいます。神に身を捧げる一生で本当に良いのかと、ふと思ってしまう者もいる。私はその迷いも修行の一環だと思うし抱いて結構な疑問だと思うわ。けれど、中には真面目過ぎて、そんな疑問を抱いた自分を恥じてしまう者もいる。神の御許にいながら疑問を抱いたと恥じてしまう者がね。そんな迷いある子らにとって、貴女の様な存在は眩し過ぎるくらいに見えてしまうのよ」
 院長は心底優しい目でクロエを見た。自分が利益を求めるのは、それによって自分に価値を見出したいからかもしれない。院長は、格好こそいつもと違うけれど、それでもやはり院長だった。醸し出す雰囲気が彼女を彼女たらしめている。修道着にベールの様な、分かりやすい格好が無くても彼女を纏う空気が自信に溢れた院長である事は間違い無くて。
 分かりやすいポーズやアイテムを利用しなくても、迷いなく神を信じ、己の価値観を信じ、内側から彼女を彼女たらしめるそんな院長。
 ああ、ただ我武者羅に利益を求める行動を模索する事もあるけれど、本当はこんな風になりたいのかも。
 クロエは素直にそう思った。
「貴女にはきっと現実的に人を生かす才能があるのね。それは私にも他のシスターにも持ち得ないものだわ。貴女だけの尊い才能よ。けれど、貴女が今生きているのは修道院の世界。だから貴女も周りのシスター達に配慮しなきゃいけない部分もあるわ。その心掛けは貴女が価値を見ている利益を生み出す世界でも有効よ。人を喜ばせると言うのは商売の基本ですからね」
「…院長は何故ご存知で…?」
「私の父は商売人だったのよ。と言っても、ご近所さん相手に商売するところで大きいところじゃないけどね」
 懐かしむ様に遠くを見つめた院長は微笑みながら口を開いた。
「一つ、人の良いところを見付けて褒める。一つ、身近にいる人を喜ばせる。一つ、プレゼントをして喜ばせる」
「…何ですか急に」
「今の貴女に少し欠けているところです」
「はぁ…」
「人と生きて行くと言うのは難しい。時に理不尽さを感じる事もあるでしょう。けれど、視野の広さと価値観はきっと貴女を助けます。それらを胸に、楽しく納得の行く様に貴女は生きなさい。心ゆく迄世界を楽しむのですよ。大丈夫、父なる神も聖霊達も貴女の前途を見守っています」
 自分の信じる物も教会の教えも全てひっくるめて纏め、自分の中で納得の行く答えを出した院長。人との当たり方を見ていたら、ただ弁が立つと言うだけかもしれないとも思う。けれど、尼と言う身でありながら神への忠誠を忘れず程々に力を抜ける彼女が羨ましいと思ったし、気高いと思った。
「…じゃあ、信じてみましょうかね。神も聖霊も」
「あらあら、今まで信じてなかったの?教会でシスター達が聞いたら卒倒しそうね」
「むしろバイク乗り回してる院長の姿こそ見たら皆泡吹きますよ」
 その日は夕陽が沈むまで二人でバイクを乗り回した。

瓦礫と共に「サヨナラ」

 院長は四十過ぎてから移動の為に免許を取った事を機に乗り物に魅了された。特に一番刺さったのはバイク。あの灯台は厚意でスペースを借りれた物らしく、教会で置けなかったバイクやヘルメットをそこに保管していたらしい。「程々に力を抜いて良いのよ」と話してくれた院長。自分がこうありたいと願った人。認めた大人。そんな彼女もテロの日に教会の崩落と共に消息を絶った。
 あの日、教会には孤児だけで無く浮浪者も一般の礼拝者も、行き場を失い次の主人マキールとの出会いを待つ機械人形マス・サーキュもたくさん居た。故に悲劇だった。
 シスター達の手伝いをしていた無数の機械人形が同じタイミングで一斉に制御不能になり暴走した。おかげでここは聖ミクリカ教会では最早ない。跡地。そう呼ぶのが相応しい。
 院長の行方も未だ知れない。しかし、あれから生き延びた自分一人、大人の目を盗んでミクリカで生活をしていても、今愛の日にこれだけ近くでイベント事の呼び掛けをしていても現れないと言う事は。院長は、もう。
「……もう諦めた方が良いんでしょうね」
 内側から崩壊した教会。神も救いもあった物じゃない。救いを求めて来る人の最後の砦は、どうしようもない圧倒的な力の前に崩れた。
 あの時クロエは図書館に居た。そして周りの人間に混じって避難し、しばらく避難所で生活を送っていた。ベーコンおじさんとの縁はそこからだ。そしてヤサカに出会い彼に暴行されそうになって(と、少なくともクロエは思っている)そんな関係だったのに今では尻に敷く仲だ。何の因果かクロエの保護者代わりになったロード・マーシュは彼と旧知の仲だし、どうも自分はミクリカと縁深いなとしみじみ思う。
 そんなにも縁深いのに何故、いつまで経っても貴女には辿り着けないのだろう。まさか貴女のベールも、祈りの為の道具すら何処にも見付からないなんて。
 瓦礫の下にまだ挟まったままでいつでも起動出来る機械人形が埋まっていないとも言えず、基本的にこう言った崩落した家屋は心得のある者と一緒でなければ散策出来ない。それこそマルフィ結社の前線駆除班の様な。だからそのマルフィ結社に声を掛けられた時は闇市は潮時かとも思ったが同時に好機とも思った。
 しかしそれでも、未だに院長の痕跡は何も見付かっていない。
「あ、クロちゃんめっけ」
 間抜けな声が聞こえ、クロエはゆらりと立ち上がる。視線の先では機械人形の様に色素の薄い髪が揺れた。どうも心配したのかヤサカが迎えに来たらしい。本当、お節介だなコイツは。
「設営、ちゃんと形になってるっしょ?テントも食い倒れ祭の時の使い回しだけどさ、ちょっと装飾の色変えて愛の日仕様にしてさ」
「ええ…文句無いです」
「……なぁクロちゃん、こんなとこ若い女の子一人で居たら危ねーよ?」
「…仮にも此処は会場ですよ?食い倒れの時も、テントも屋内と看做すのか機械人形が手を出して来ないのは証明されてますし」
「あのね、女の子にとって危ねーのは機械人形だけじゃねーだろ?…男は狼なのよ?」
「…ああ、そう言や貴方との出会いは私が貴方に襲われ掛けたからでしたね」
「だからそれは誤解だって!その勘違い絶対ベーコンおじさんの前で言うなよ!?クランちゃんの耳に知れたらあらゆるチャンスが無になるだろが」
「そもそもでアンタのチャンスは薄そうですが。数ヶ月前まで恋人も居たんでしょ?ベーコンおじさんの娘さん。そうでなくても特殊な性癖のアンタに振り向く物好きな女が果たして居るのか分かりませんが」
 そこまで言い合い、ヤサカはクロエの肩を抱いた。ちなみにこれはあまり知られていないが、彼と親しい間柄のヴォイドも彼のこの距離感のバグりには常日頃閉口していた。
「まあまあ、俺はさながら皆の恋路を見守る天使みたいなもんさ…」
「壮年の天使とかどこに需要あんだ」
「……流石クロちゃん、悪口で無闇矢鱈に中年呼びせず年齢の呼びを正確に言う辺り教養あります事」
 会場が聖ミクリカ教会跡地のすぐ近くに決まったのは全くの偶然だった。それでも普段結社の仕事に追われているクロエは本当にギリギリになるまで来る事が出来ず、そして会場の場所を書類で確認した今色々と気持ちに整理が付かずに飛んで来たのは明白だった。
 ヤサカはそんな彼女の肩を黙って抱いた。クロエはヤサカのそんな優しさも知っていたので無碍には扱わなかった。
 愛の日にやるイベントがこの跡地の近くだと言うのも、あの日消息の絶たれた全員が未だ音沙汰がないと言うのもあってクロエも少しだけ踏ん切りが付いた。
「院長…シスターロバートは、もうこの世に居ない」
 誰に言うでもなく、クロエは口を開く。ヤサカが言葉を選ぶ為に黙っていると、珍しく肩に回された彼の手に自分の手を重ねながらクロエは年相応な少女の顔でつぶやいた。
「何となく、変に抱いていた期待が取り返しの付かない妄執になる前に現実を見れて良かったです。愛の日は矢張り昔から色んな事が起きますね…」
「…クロちゃんにとって一番凄かった愛の日の思い出は?」
「『折角の愛の日を盛大にお祝いしましょう!』って、わざわざ花火を買って来たシスターロバートが火を持ったままずっこけて花火に次々引火。中には打ち上げ系もあったので見事暴発。テロ前に一度教会が焼け野原になり掛けた事件があります。あの時はミクリカ警察からこっぴどく叱られてました」
「すげぇや」
「自慢の大人だったんですけどね、何分ドジだったんですよシスターロバートは」
「すっげぇファンキーじゃん……今は?そんな風に心許して色々思い出せる大人、ちゃんと身近にいる?」
 心配そうに顔を覗き込むヤサカ。クロエは彼から視線を外すと寒さで済んだ夕焼け空を見ながらボソリと聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声を漏らした。
「……ロード兄さん」
「ヒヒッ、そっか。アイツがクロちゃんに何か教えられる事あったんかね」
「…私の同僚にヴィニズムの気配がある女性が居ます。別に私はそうだからと言って異様な目で見るなんて言うこともありませんが、言う人は居るんです。面と向かって言わなくて良い余計な事を言おうとする阿呆が。私の大事な同僚に対して」
「ほうほう」
「でも彼女の嗜好も何もかも全く気にせず、むしろ好意的に全て引っ括めてあの人は彼女を受け入れてるんです。女扱いも特別しない。彼女の話も普通に聞いている。一人の人間として友情を育んでる姿が少しシスターロバートを思い出すだけです。それさえ無ければあんな下品な人間見た事ないですけどね」
「うわ、辛辣ぅ」
「以前用があって部屋に行ったらあのクソ、連れ込んだ女とヤってたんですよ」
「うわー…え?鉢合わせ?」
「鉢合わせどころか。私が部屋入ったの気付いて目も合ってた癖に萎える事無く何なら続行しやがりました。女は女で、男が止まれないだけの魅力が自分にあると勘違いして喜んで余計デケェ声上げるんでこっちは迷惑以外の何者でもなかったですよ」
「………」
 ロードよ、流石と言うか少しは萎えろ。
 クロエの大変迷惑そうな顔を見、さしものヤサカも力無く笑った。
「うふふ、まあそのおかげで割と長期に渡って気になってた牛乳製品をお詫びと言う名の無償で提供してもらう契約まで漕ぎ付けられたので私は文字通り大変美味しい思いをしましたが」
「そゆとこ強いよね、クロちゃんね」
「クソ兄さんの失態小なり牛乳買ってもらう事、ですから」
 色気より食い気。そう言わんばかりのクロエを見ながらヤサカはヒッヒッヒッと声を漏らした。
「じゃあ愛の日はロードと…後シキ君にもあげるのかな?他は?気になる男の子とか居ないの?お兄さん知りたい」
「…居ますけど、一人。クソ兄さんやシキみたいな関わりは全くないけど一応あげようと思っている人間は」
「は…マジ…?」
「ええ。普段牛乳貰ってるんでその礼も兼ねて。皆と同じ物用意するだけですが」
「あ、なーんだ」
 クロエがあげようとしているもう一人と言うのは前線駆除班第三小隊のルーウィン・ジャヴァリー。彼から貰う牛乳の見返りにしては小さな返しだが、それでも愛の日にクロエが誰かにあげようとしたのは初めてだった。
「…それも、クロちゃんに影響を与えた大人の見せた『愛の形』かねぇ…?」
「は?」
「人を喜ばせる、プレゼントをして喜ばせるって、シスターがクロちゃんに足りないって言った事でしょ?それをやろうとしてるんだからさ」
 ヤサカは嬉しそうにニコニコ笑う。クロエは少しだけ難しい顔をした。
「瓦礫を見て気持ちが吹っ切れたら、何か彼に用意しなきゃいけない気分になったんで」
「良いね良いね、良い事だね。さて、家に帰ろうぜ。今おじさんに煮込みだけお願いして来たけど今日の夕飯カレーよ」
「え…ヤサカ氏のカレー…?」
「好きっしょ?」
「…はい」
 じゃあ帰ろっか。
 陽が沈みかけ暗いミクリカの街を二人は歩く。
 歩いて向かう途中、さり気なくヤサカはクロエの手に自分の手を絡めようとしたのだが、「調子に乗らないでくれます?」と一言、引っ叩かれて終わってしまった。

生まれて初めてあなたにあげる

「はい。どうぞ」
「え…マジで…」
 愛の日翌日。支部勤務でこの日の存在をすっかり忘れていたルーウィンは朝からちょっとだけ肩を落とした。いくらルーウィンがその辺りあまりお感じがないタイプの人間とは言え、皆で楽しんだらしい愛の日が文字通り後の祭でしかないと言うのは少し出遅れた感と言うか、虚しさが胸に響く。タイガはくれそうな気もするがそれにしたって食えりゃ良いし、このイベント事で後押しされて自分に想いを伝えてくるかもと期待出来る様な関係の女も居ない。だから愛の日なんて何か貰って食えりゃどうでも良い。
「アイツ…誰かにあげたのかな…」
 目を閉じて思い出すのは深紫こきむらさきのストレートなロングヘア。ガラの悪い瞳に痩せっぽちな体。総務部で仕事をするその姿はさながら取り立て屋の様で──……。
「……無ぇな。アイツに限って」
 そう自分の中で結論付けて出社した。しかし数分後、目の前で「アイツの事だし絶対に誰にもあげてない」と結論付けた深紫こきむらさきの長い髪が揺れた。
「…いらないんですか?」
 目の前に突き付けられたのは袋に入ったクッキー。ルーウィンはそのクッキーと差出人が一致しないと言わんばかりの顔で何度も何度も視線を往復させる。
「お、俺に…?」
「さっきからそうだと言っている」
 震える手を伸ばし受け取る。クロエは「やっと受け取ったか」と面倒そうに呟いた。
「日頃の牛乳のお礼です。愛の日だったので」
「ぎ、牛乳のお礼なんて律儀な奴だな!」
 とは言え、この歳まで生きて来て初めてまともに貰った女の子からの特別な菓子。これをくれたのが自分好みのタイプの女なら尚嬉しいか?と目を細めてみるが、どう見方を変えても目の前の人物はクロエにしか見えなかった。ああ、そうか。彼女から貰う事が嬉しいのかも。そう思うと途端に恥ずかしさが増してしまう。
「…なぁバートン、お前本当に俺の為に用意してくれたの?」
「…は?だからあんたの手元にあるんですよ?」
「そっか…サンキュ…」
 そう言うイベント事と縁遠そうな彼女が用意してくれたクッキー。ルーウィンは嬉しそうにそれを握ると食品表示のシールを見た。そこにはメープルクッキーと書いてあり、「ああ、牛乳と食べると美味い奴だ」ルーウィンは思う。自分が牛乳と縁深いからこの味を用意してくれたのだろうか可愛い奴め。早速今日のおやつにでも貰おうかとポケットにしまおうとした時、のんびりした声が耳に飛び込んできた。
「あ、クロエ」
 少なからず長身が自慢で故郷でも自分以上の人間は中々見なかった、そんなルーウィンよりもまだ更に十センチ近く背の高いシキ・チェンバースがのそのそとやって来た。ちなみに滅多に揃う事のないこの三人、クロエもルーウィンもシキも皆高身長なので周囲に無意識に圧を掛けていると言うのは余談ではある。
「…と、ルーウィンさん?」
「よお、チェンバース」
「ども。あ、クロエ。さっきはクッキーありがと。ところでお代わりって無いの?」
 言いながらヒラヒラ袋を振るシキ。その手元にあったのはクッキーの袋。しかも自分と全く同じデザインの全く同じ奴。おまけにこいつは、まるで味わいもせず『量が食えれば良い』みたいな食い方までしている。
『…なぁバートン、お前本当に俺の為に用意してくれたの?』
『…は?だからあんたの手元にあるんですよ?』
『そっか…サンキュ…』
 俺の愛の日のささやかな思い出返せこの野郎。
 まさかまさかこの男と同じ物をもらって喜んでいたとは露知らず、やりきれないルーウィンに何ともやり切れなさそうな不思議な顔色が浮かぶ。
 特別感が無くて寂しい様な、何故コイツと同じクッキーなんだ!?と聞くに聞けずもどかしい様な。
 しかしクロエより先にそんなルーウィンに気付いたシキは彼女にそっと耳打ちした。
「ちょっと、ちょっとクロエ」
「何すか」
「…俺でも流石に特別感ないクッキーは傷付くと思う」
「は?」
「だから、ルーウィンさんには別のところの別の味のクッキー買った方が良かったって」
「仕方ないでしょう?まとめ買いした時一番安かったのがメープルだったんですよ」
「やめてあげて」
「本人には言ってません」
「かもしれないけど…もう俺が貰ったのと同じってだけで相当衝撃受けた顔してるし…どうにかしてルーウィンさんだけ特別感出せない?」
 居た堪れない空気。シキは何とかそうクロエを説得する。
『身近にいる人を喜ばせる』
『今の貴女に少し欠けているところです』
 そんな院長の言葉を少し思い出したクロエはずかずかとルーウィンの前に立つと彼の手からクッキーの袋を取り上げた。そして彼の顔にうんとその袋を近付けると言い聞かせる様に呟く。
「良いですか。これは私が生まれて初めて誰かにあげる目的で買ったクッキーです」
「は?そ、そうだろうけど…あの人にもあげてんだろ?恋人だか父親だかパパ活だか…」
 本人が聞いたら冷静に慌てて鎮静させようとするだろうこれはロードの事である。
「それは一応関係が密なので。そうではなく、そこまで密でもないのに誰かの為に買ったのが、です」
「でもさ…その、ついでと言やぁついでなんだろ?チェンバースや、恋人だか父親だかパパ活にあげる分のさ…」
「………」
 チッ、すぐには納得してくれないか。
 クロエはクッキーを更にルーウィンに押し付けると口を開きこう言った。
「…貴方にあげたクッキーはメープルと牛乳の含有量が割合多い商品なんです!」
「マジで!?」
 そんなはずは無い。だって全く同じ物だ。シキはそう思ったがルーウィンはキラキラした目でクッキーを見つめていた。
「お、俺が牛乳に縁があるから…?」
「はい、だからこのクッキーも牛乳とメープルの含有が一番多いんです」
「そう言われるとそんな気がして来た…」
 嘘だろ、騙されてしまうの?
 シキはしばし茫然とその様子を眺め、やがてルーウィンが満足そうにその場をさった時、やっと口を開いた。
「クロエ、嘘でしょ…?」
「はい」
「即答…!?」
「でも信じていればそれも真実まことになる」
 シキはロードからプリン作りを教わった際、彼からついでに教わったのだ。食品表示には含有量の多い順に使用した食品の名前が入っていると。そうでなくとも主成分が小麦粉より牛乳だなんて本当だったら形が崩れそうだなとシキは思う。
「人を傷付けない為に、時に『物は言い様』にせざるを得ない。大変勉強になりました」
「…俺はルーウィンさんの事を思うと可哀想でしょうがないんだけど」

 数時間後、第三小隊でバーティゴもセリカも各々用意しておやつを食べ始めた頃、ルーウィンも一緒になってやたら上機嫌に準備を始めた。反対に朝から妙にカリカリしていたセリカはその様子を見て一瞬呆けた顔をする。
「あらぁ?ルー君、そのお菓子どうしたんですかぁ?」
「ああ、セリカさん。これはその、女から貰ったっつーか何つーか…」
 ごにょごにょと喋るルーウィンに「バートンさん?」と当てずっぽうで言うと当たりだったのか誇らしげに彼は鼻を掻いた。
「まあ、そんなとこっスね。総務部の仲間でも無く普段近くにいる奴でも無い人間にあげるのは初めてとか何とかって言いながら貰ったんスよ…」
「あらあら…」
 まさかルーウィンがとうとう牛乳のお礼をもらえる時が来るなんて。セリカは今朝、ギャリーが勢いで落とした携帯端末を拾った時、彼が直前までいかがわしい気持ちで下着姿の女性の写真を見ていたのを知ってしまってからずっとむしゃくしゃした思いを抱えてまるで酒を浴びる様に茶を啜り、貰ったクッキーもやけ食いの勢いで少し食べていたのだが、小さなクッキー一つで誇らしげな顔をするルーウィンを見て毒気が抜けた気分になった。
「バートンさん…?バートンさん…」
 横で聞いていたキッカはその名前に聞き覚えがあったのかメモ帳をパラパラめくっていた。
「ああ、この時のお嬢さん。不思議な縁もあるんですね…今総務部にいるんですか…」
 セリカがちらりと横目で見るとキッカの口から「へげぇ」と奇声が漏れる。あらあらまた漏れてますよ、と言いたいところだがそれを指摘すると彼女は照れてしまうので飲み込んでおいた。
「俺が牛乳と縁深いからって小麦粉以上に牛乳が含まれてる量が多いクッキーを選んだとか…可愛いとこあるっスよねアイツも…」
 うっとりするルーウィンには悪いが、想像するにそんなびしょびしょなクッキーなぞ聞いたことが無いので何らかの理由でクロエが嘘を吐いたと思われる。まあ、『特別感』を出す為にあの子が咄嗟についたのだろうと思うと確かにそれはそれで可愛らしいものだ。いや、そうでも思わないとクロエの嘘なんてルーウィンには言えず、また聞いた自分も納得出来なかった。
「あらルー、アンタそれ多分嘘…もが」
「お姉様…!いくらお姉様でも言っちゃダメですぅ…!!」
 バーティゴの口を抑えるセリカがふと見ると、牛乳を用意し、追いメープルまで用意したルーウィンは幸せそうにクッキーを頬張っていた。
「あらあら、用意した牛乳に追加したメープルシロップ。確かにこの量なら嘘じゃないわね。これ以上は黙っときましょう」
「嘘から出た真…にしても無理矢理じゃないでしょうかぁ…?」
 とは言え当の本人があんまりにも嬉しそうなので、周りで見ていたお姉様達はルーウィンの為にそれ以上は黙る事を決めた。