薄明のカンテ - 愛の日に悩み多き君達へ/燐花

午前九時のロードとタイガ

 煙草を燻らした向こうに浮かぶ記憶。
 まだ幼い青と緑のガラス玉。
 その幼さに見合ったあどけない体が愛おしくて、何度も何度も求めて、掻き抱いた日々。
 貴女の体に触れる度、貴女と目が合う度、私の体は驚く程に熱を持つ。
 それが恋心ではなく、「愛情を向けられているから」だけとしか見ていなかった私はなんて愚か。
 貴女へ向ける想いに気付かず、貴女から愛を貰う事ばかりを考えていた昔の私は、なんて愚か。

「今日は愛の日ですねぇ…」
 しみじみとロードが呟く。その単語を聞いてタイガはどきりとした。別に誰も気に留めていないのだが、タイガは慌て始めるとロードに話を振る。
「ロ、ロードさんは愛の日に何か思い出あります?ロードさんモテるし、素敵な思い出がたくさんありそうで…!」
「素敵な思い出…」
「愛の日が一番愛を感じられるから」なんて理由で、一緒に居た二年間、その日は朝から晩まで彼女を抱いていたなぁ。身体を重ね合いながら日が沈むのを見届けて。身体を重ね合いながら日が昇るのを見届けて。寝る間も惜しんで食べる間も惜しんで、一日に何回シたんだか随分とハードな恋ならぬ行為をしていたなぁとそこまで思い出してロードは前屈みになった。
「ロードさん?お腹痛いんですか?医療班行きます?」
「お気になさらず…まぁ下腹部っちゃ下腹部ですか…お腹は痛いには痛いですがちょっとした生理現象が起きただけですので…」
「あ、はい…」
 情け無い。そんな独りよがりで自分勝手な思い出しか作れなかったなんて。それでも当時、彼女は嬉しそうに一緒に居てくれた。
 でもそれは、ロードと一緒に居る日常を当たり前にしようと努力した結果彼女が得た感性だった。どうせ昔みたいに外に出られないならと、傍に居るロードに歩み寄った彼女の優しさ。
 それがいつしか本当の愛情に変わって来ていたのに、彼女ではなく根本的に愛自体に不信感を持っていたが為に、自分の気持ちと彼女からの愛両方を確かめる様な行動を取り最終的に彼女を傷付けた上に後には何も残らなかった。
 百歩譲って何も残らなかったのはこの際良い。一番自分を許せないのが自分の気持ちを確かめたいなんて理由で最初から最後まで彼女を振り回し傷付けてしまった事だと思った瞬間から、皮肉にも彼の本当の恋は加速しながら始まった。
 今年は決意を新たにした後初めて彼女と迎えられる愛の日。だからうんと準備をした。
「タイガさん、愛の日に愛の告白ってベタすぎます?」
「ええ!?愛の告白!?」
 その時、人事部でサリアヌを狙っている何人かが聞き耳を立てている事に気が付いた。ロードと親しくなく彼を見た印象でしか知らなく且つサリアヌに憧れているメンバーとロードは相性が悪かった。
 まさかサリアヌに告白をするのではないだろうかと立てられる聞き耳。タイガは聞こえない様に小さな声で喋る。
「ヴォ…ヴォイドさん…ですよね?」
「ええ、私がむしゃぶりつきたいのは一人だけですね」
「むしゃあ…?」
「…ヴォイドだけ大好きって事ですよ」
「ヴォイドさんに言うんですか?」
「返事は期待出来ませんけどね。でもいつもよりは、真面目に伝えようと思ってますよ」
「そう言えば…ロードさんとヴォイドさんって昔馴染みでもあるんですよね?どう言う関係だったんですか?」
「うーん…体以上、心未満…ですかね?」
「へぇ…?」
「あの子、昔から可愛くてですね…顔に掛かって驚いた後のトロンとした目も、予想以上に感じて思わず声を上げてしまった時の少し恥ずかしそうな顔も…」
 言っていてまたロードは前屈みになる。
「ロードさん!?」
「タイガさん、する話を間違えました…不適切でしたね、はい」
「ロードさんが珍しくパニックだ…」
 あの時、私が貴女を傷付けたせいで貴女が自分の愛に蓋をする様になった事も気付いている。私のせいで、貴女は今何かを好きになる事を怖れてしまっている。
 でも、私ももう昔の私ではないから。
 今度はちゃんと貴女に愛情を向けられる。昔のもらうだけの愚かな私ではなく。
 だから、今向けている勝手で一方的な想いは過去の罪滅ぼしだと思って欲しい。決して受け止めてくれなくても良いから。
 いや、そんな格好付けたものではなくて、もう好き過ぎて自分でも止められない。それだけ。
 でもどうせ愚かであるなら、貴女の愛を試し傷付ける自分でなく貴女に愛を向けてもあしらわれる様な自分でありたい。

「はぁ…抱きたい…」
「…!?」
 そう言えばロードはここのところ寝不足の様だった。タイガはさささっとその場を離れると、渡そうと用意していたチョコと共に抱き枕を持って来た。

午前十時のネビロスとアペルピシア

 言えなかった。でも、言えないで良かったのかも。
 浮かれるな。そう言われているのかも。
 毎年毎年家族と過ごしたイベントを、どう過ごしたら良いか分からなくなっていた。
 何をするにも君達の顔が浮かぶから。それなのに君達はもう居なくて、自分だけが生きているから。

 ミアを夕食に誘おうとしたそのタイミングで運悪く仕事が入り最後まで言えなかった。ネビロスは胃腸薬の整理を始めた彼女を呆けながら眺めた。
 そんなに早く私の事を忘れて誰かを好きになってしまうの?
 ミアへの誘いが失敗した時、ルミエルの声でそう責められた気がしてしまったのだ。
 決してルミエルを悪者にしたい訳ではない。多分、浮かれた自分を責めて欲しいのだと思う。自分が一番自分を許したくないから。家族の現実を認識して前に進もうとする自分を肯定したい気持ちと否定したい気持ちが丁度半分で、ふとしたきっかけで比重が動く。
 ミアへの誘いが成功していたら、きっと肯定に。
 失敗したから、今は否定に。
 そんな勝手な匙加減一つで落ち込む気持ち。
 少し暗い顔で棚の整理をしていたネビロスはアペルピシアに声を掛けられた。
「今日は愛の日ね」
「そうですね」
「楽しんでる?」
「…そうですね」
 一瞬間を置いたネビロスにアペルピシアは苦笑する。
 襲い来る悲しみの波、それもいつかは乗り越えていけるはず。だけどそのいつかは誰にも分からない。今こうしている間にも、苦しむ事があるのかもしれない。
 つい先日ネビロスの診察をしたアペルピシアは、彼が自責の念に取り憑かれている事を把握した。そして効果的な療法はおそらく、話す事にあるのではないかと言う事も。
 誰かに甘えたい気持ちを強く持っていながら、それに甘んじる事に対して強く自分を責めている。それは医者に診てもらうと言う行為にまで及び、ケンズの生き残りだと分かっていながら精神科医に一度も掛かっていなかったのもそれを裏付けた。
 彼は何かと理由を付ける。
 家族はもうこんな事出来ないのに、家族はもう居ないのに。その居なくなった家族が今の彼をどう思うかなんて誰にも分からないのに、きっと彼はそれに関しては楽な道を選んだのだろう。
 いっそ責めてくれた方が楽なのに。そう思ってしまうのをアペルピシアも理解出来ないでもなかった。
「今日は何か予定でもあるの?」
「…私ですか?」
「ええ、勿論。私はネビロスに聞いてるのよ?」
 にっこり笑うアペルピシアに対し少し苦笑して返すと、ネビロスは重そうに口を開いた。
「楽しんで…良いのでしょうか」
「え?」
「私が楽しんで、許されるのでしょうか…もう居ない家族を想って偲んで、そう過ごすべきな気がするのですが…」
 アペルピシアはネビロスの背中をトンと叩く。そして大量の書類を彼の手に渡した。
「あの、これは…」
「それ、全部コピー」
「これ全部ですか…?」
「そうよ。とりあえず私とアスラン先生、ロッシ先生の分が要るから、三部ずつコピーしてそれが終わったら順番通りに並べ替えてホチキスで止めて冊子を作ってそれをまた運んで持って来て」
「現時点で渡された書類、順不同な上に重いんですが…」
「そう、だから重労働よ。その代わり、それやってくれたら今日何してくれても私が許すわ」
「許す…」
 それは、先程の自分の質問の返事の様にも思えて、少し恥ずかしくなったネビロスは軽く頬をかいた。
 見透かした様に見えるアペルピシアの目から逃れる様にミアを目で追う。彼女は一生懸命薬品と睨めっこをしていたので、その姿が可愛くて思わず笑みが溢れた。ちゃんと勇気を出して、でもあまり彼女を恥ずかしがらせてはいけないからこっそりと、でもしっかりデートに誘おう。

 ああ、あの空色の瞳に映るのが自分だけなら良いのに。

 この約三時間後。勢いよく入って来たテディにミアを誘う計画と段取りを全部水の泡にされる事をネビロスはまだ知らない。
 あんなに真っ赤になったミアを見る事になるなんてネビロスはまだ知らない。

午前十時半の調達班

「はい、あげる」
「ありがとう…ございます…」
 何か妙な光景が事もあろうに保育部前で広がっているのだが。
 オルヴォは受け取ったチョコレートを見て未だ混乱する頭を冷却する。チョコ自体は何の変哲もない市販のチョコ。それを小分けの袋に分けて義理用としてたくさん用意しただけのもの。問題があるとすれば、それを配っている人間。
 調達班のテディと言えば、結社内で有名な女装子じゃないか。
「あと、ここの子達にも人数分渡すから配っておいてねー。大人だけにあげるのもなんだし、今日は愛の日だし色んな人から貰えた方が良いし」
 そう言ってチョコをオルヴォの手に渡すテディ。オルヴォは噂の女装子を生で見た衝撃に加え、その後ろに二メートル近いカラフルな男がいる衝撃で頭がぐわんぐわんした。
 え?フリフリ女装子と二メートルの大道芸人ってどう言う組み合わせ?
 夢でも見ているのかと調達班の面々を見送った後ほっぺを抓るオルヴォ。痛かった。

「うーん…ねえミーナ、今日って午後休とか在宅の人いる?」
 テディが尋ねるとミーナが用意していた用紙をパラパラと捲る。そこにオルカが覗き込んだ。この二人が並ぶと薄桃色と水色の髪がふわりと揺れてなんだか童話に出てくる幻獣みたいだなぁ、とユーシンは思った。
「えーっと…汚染駆除班ミサキ在宅、イオ午後休、人事部だとサリアヌ午後休」
「えー!?ミサキ在宅!?」
 どうしても渡したかったのかテディが口を尖らせる。ユーシンは正月の事もあってか、テディがこれ以上ミサキを不機嫌にさせる要素が消えてくれて少しだけ安心した。
 正月のミサキのあの顔はもう見たくない。ひたすら謝り倒しているあの瞬間、寿命が縮む思いだったのだから。それを思い出して縮こまるユーシンに対してひたすら楽しそうなテディ。何でお前はいつもそうなんだと一瞬キッとテディを睨む。
「まあ、あの子いかにもこう言うイベント嫌いそうだし、ぼくは参加するイメージあまり無い気がするけど」
「そう?ボクはミサキにお世話になってるからいつもありがとうってちゃんと伝えたいけどなー。何だー。ミサキ居ないんだー」
「…テディ、伝えるなら控えめに伝えてよ?派手にやり過ぎないでね!?ぼくもう土下座するの嫌だから!」
「へへっ、ごめんっ」
 てへへ、と舌を出すテディに早くも疲れ気味なユーシン。そんな二人に特に興味が無さそうにぼーっとしていたシキは、リアカーの中身を見て考える。ここにテディ曰く、ネビロスを後押しする為の道具(テディがコーディネートしたデート服)があると言う事は、きっとこれから医療班に向かうのだろう。普段あまり行かないから会う機会が無いけど、今日は愛の日のチョコ配りと言う大義名分があるから堂々と行ける。
「…よし」
 会ってみたかった。
 あんまりにも兄貴がデレデレしてるあの人、ヴォイド・ホロウ。と言うかヴォイドって面白い名前だよね。あ、人の名前に面白いとか言うのは流石に失礼か。そう言えばユウヤミ・リー…リー、リー何とかさんも面白い名前だった。あの二人よく一緒に居るなぁ、もしかして付き合ってるのかな?え?じゃあ兄貴勝ち目無いじゃんそれでも追いかけてるってどう言う事?御構い無しなの?そう言えば汚染駆除班のテオ何とか、そうだメドラーさん。メドラーさんもヴォイドさんとよく一緒に居るなぁ。え?ヴォイドさんって見掛けによらずまさか、悪女って奴なのか?いやいや、俺には分からない大人の付き合いみたいなのがあるのかもしれない。俺は彼女も居ないし女の子との距離感もよく分かんないけど、お付き合いのない二人でもご飯一緒に食べたりする事も外に出掛けることもあるのかもしれない。ん?そもそも付き合ってない女の子とどこまでするもんなんだ?大人って。ご飯は普通に行くんだろうか。だとしてご飯ってどのレベルまで?ステーキくらいは食べに行く?コース料理だともうカップルじゃ無いと行かない?ん?ご飯のレベルにその辺りって出るのか?そう言えば肉と言えばこの間ベーコンおじさんが推してた焼肉のお店、ちょっと行ってみたいと思った。ところでベーコンおじさん、今日暴れてるんじゃ無いだろうか。
「……シキさん?」
「え?」
「ど、どうかされましたか?もしかして、リアカー重いですか?」
 シュオニに声を掛けられ現実に引き戻されたシキ。大変だ、余計な心配を掛けてしまったと思い慌てて話題を探す。
「今日、ベーコンおじさん膝やりそうだよね」
「え?あ、そう…ですかね…?」
 急にここに居もしない人間の話を振られたら機械人形だって困惑する。しかし、シキは上手く誤魔化せたと汗を拭った。誤魔化せては居ない。
「ふう、誤魔化せた」
 しかも口に出しているから何か余計な脱線を頭の中で繰り広げたのはバレバレだ。
「ヴォイドさん…かぁ…」
 ヴォイドから始まりベーコンおじさんに着地したシキはもう一度ヴォイドに興味をずらす。
 あの兄貴が。仕事してる時はかなりキリッとしてる兄貴が。この人を前にすると面白いくらいにぐにゃぐにゃになると表現するのが相応しい女の人。昔から好きだったとは言うけれど、聞いてる感じ俺と兄貴が出会った頃くらい前まで遡るんだよな。そのくらい前からずっと好きって、相当好きなんだよなきっと。
 どんな人なんだろう?
 シキはヴォイドの顔を思い浮かべる。何かやたら覚えやすかった。髪の色も目の色も俺に似てるから。だから普段人の顔や名前の覚えの悪い俺でも何かあっという間に覚えられた。スタイルの良さも特徴として覚えやすかったのかもしれない。可愛いとか綺麗とか言う前に、何か似た雰囲気なんだよな。


 …え?もしかして兄貴って俺の事好きなの?
 えー…それは断りたい…。


「ねぇ、テディ…」
「どうしたの?オルカ」
「シキ…何やってんの?」
 一人考え事をしてコロコロ顔色を変えるシキ。色々考えた末に真っ青な顔をしたのでテディは笑いながら「心配しないで」と言わんばかりにオルカの肩に手を置いた。
「あれは気にしなくて良いよ!」
 テディの言葉は時に残酷だった。

午後零時のヒギリ

 愛の日なら何か練れるのでは無いかと考えペンを走らせたが意外とそうでもない。ヒギリは頭を抱えた。久しぶりに曲作りをしてみようかと画策し、愛の日だから愛に因んでラブソングでもと思ったのだがどうにも上手くいかない。
 いつも通り仕事はしないといけないから作詞に延々時間を掛けられるわけもなく。
 あろう事かサビが浮かばず放置する結果になっている。
「うーん…」
「ヒギリちゃん、三番と六番にスープ置いて!」
「…うー…ん?」
「ヒギリちゃん!」
「うわぁ!はい!?」
 駄目だ、仕事が疎かになる。このままじゃいかんよ…。
 列が途切れるまでバタバタ動き回ったヒギリは小休止に入る度頭を捻り、そして小さく溜息を吐く。私が恋愛らしい恋愛をしなかったから恋の歌が書けないんだろうか。
 考えてて少し悲しくなったので書けない理由を追求するのはやめる事にした。どうせ私は食べ過ぎの腹でないと週刊誌に載らんもん、芸人さんに酒癖の悪さを散々弄ばれないと話題にならんもん。それも考えるのをやめる事にした。辛くなるだけだし。
 ふとそこまで考えてヒギリはいっそ恋愛も何もかも妄想を巡らせてそれを歌にすれば良いのではないか?と思い立つ。
 本当に経験して来てる人の歌に比べればリアリティーは低くなるから正直あまりお勧めされない気がするが、あろう事かサビで手が止まる事を思えばそう言う形で一歩進むのも良いのだと思った。それに何より、妄想でなら誰をデート相手にしても誰にも文句を言われない。
「(何か、ヴォイド姐さんちゃっかりテオさんと仲良いし!でも私だって妄想でならテオさんとデート出来るもん!)」
 ヴォイドが食堂を多く利用するのもあり少し仲が良かったヒギリ。憧れの人、テオフィルス・メドラーが彼女を見る目は本当に見た事がない、形容し難い優しい目だったものだから印象に強く残っていた。
 それがどう言う目なのかは何となく、鈍感なヒギリも気付いてしまった。少なくとも普通の人よりはかなり友好的に見てる。絶対私よりはヴォイド姐。いや、もしかしたら私より、なんて関係無いくらい彼は彼女が好きなのかも。
 誰かの特別になれる女の子って良いな。私はアイドル時代も全然特別になれた感じしなくって、新しい自分のスタートも切れなくて、ああもう何やってんのかな!?と大分悲しくなってしまったので楽しい妄想を巡らす事にした。
 デートに行くなら、最初は凝ったものより普通のルートで行ってみたい。映画よりも遊園地とか動物園とか賑やかなところに行きたいかも。お昼はお弁当を食べても良いかもしれない。作るのもとっても楽しいから。夜は一緒に食べて帰りたい。私の知らないお店に連れてってもらって、「こんな美味しいところ知らなかった!」って思いながら美味しい発見をしたい。私はいつもの格好で良いか。特に自分にも相手にもまだそう言う時にどう言う格好して欲しいとか求めるものは無いかも。あ、でも相手の人がどう言う格好が好きとかハッキリしてるならそれに合わせたりはしたいな。タイガ君、どんな女の子が好きなのかな?
「ん!?」
 ヒギリは頭にチラついた妄想のデート相手にハッとする。先程まで考えていたのはテオフィルスだった筈だが、大事な場面で出て来たのはタイガだった。
 正月早々酔いつぶれていた彼。しかしそれ以上に頭に残ったのは、普段自分をモナルダさんと呼ぶ彼の酔った口から飛び出たヒギリちゃんの名前。
「……あんなの狡いもん…」
 その後気にしないでくれとあれやこれや弁明されたけど、恋愛経験の少ないヒギリには無理な話で。どうしたってあれ以来意識してしまう。
「タイガ君…来ないのかな?」
 お願いして業務用の冷蔵庫に入れさせてもらったベリーのガトーショコラ。最初作ろうと思ったのはテオフィルスとエリック。なのに、気付けばタイガの分も用意していた。
「…あ!」
 考えていたらふと浮かんだ言葉。忘れない内に紙にペンを走らせる。

 君と僕の小指に繋がった赤い糸が
 解けません様に 千切れません様に
 初めて芽生えたこの気持ちが大切だから
 この手を離さずに ずっと傍にいたいんだ

「……私、名前呼ばれたくらいで重い?」
 愛の日。ヒギリの悩みは尽きない。

午後零時半の調達班

「別行動にしない?」
 じゃあ次は医療班か経理部か、そんな事を話し合っていたら急に言い出すテディ。経理部の名を聞いた瞬間にテディの顔が歪んだのでユーシンは諸々察した。シキはそんなコロコロ変わるテディとユーシンの顔色に付いて行けず、思わず「テディ、どうしたの?」とこっそりユーシンに聞いた。
「シキ、知らない?テディちょっと苦手な人が経理部に居るんだよ」
「え?テディが?苦手?」
「そう。ベネットさんて言う貴族の人。幼馴染って言うのかな…?昔から知ってるみたいなんだけど、何か苦手みたいでよく棘のある悪戯したりするんだって」
 詳しくはぼくも知らないけど。と肩を竦めるユーシン。この明るく天真爛漫なテディにも苦手なものってあるんだな、と思いつつ、どう別行動を取るのかと少し心配そうに見つめた。まあ、どちらにせよこの子達の好きな様にやらせようとも思うのだが。
「うーん…分かれるとして、どう行くの?テディ」
「ボク、ギルバートのところ行きたくないなぁ…愛の日だってのに、ギルバートのモテない暗い顔見に行くのもねー?」
「でも、ぼくも医療班に、その…」
「ユーシン、個人的に渡したい人なら後から行けば良いじゃん?なんならボクも一緒に行くし。終業前に行けば良いでしょ?」
 どうやら、ユーシンが医療班に渡したい人が居て、テディが経理部に行きたくない理由がある。どちらも一歩も譲らなそうに見えるが、先に折れたのはユーシンだった。
「……しょうがないなぁ…じゃあぼくは一休みしたら経理部に行くよ」
「本当?嬉しいー」
「その代わり!テディ、後で一緒に来てよ?」
「うん、勿論!じゃあギルバートは任せた!シキはボクに着いて来て!」
「え!?ぼくはこの大荷物どう持ってけば良いの?」
「ユーシンにはオルカとミーナとシュオニが着いてって!オルカがいれば大丈夫だよ、力持ちだし!」
 お菓子の山を二分割にすると、後でね〜!と手を振り早速二手に分かれ医療班に向かってテディは歩き始める。ユーシンは機械人形達を連れ立って先にご飯を食べると言い食堂に向かった。
 シキはユーシン達を見送ると、事の真意を聞きにテディの背中を追った。
「あーあ、ボクも色々考えるのたーいへん」
 甘いもの食べたい、とテディはポケットからチョコ菓子を取り出し、もくもくと口にした。シキは何となくあの駄々捏ねはわざとだと気付いていたので、そんなテディの頭を撫でる。
「ユーシンに…行かせたくなかったのか…?」
「行かせたくないって言うか、その場に居合わせてほしくないって言うか…」
 モゴモゴと口籠るテディ。シキも口にチョコを放り込むと、少し考えてポツリと呟いた。
「…ミア……?」
「…うん」
「ユーシン、ミアの事好きなの?」
「…みたい…でもボク、ミアの気持ち知ってるし、多分その相手もミアと同じ気持ちなのも知ってるし…」
 シキの詳しくないユーシンやミアを取り巻く恋愛事情。聞かれた以上の事はテディも名前を挙げないので、シキはミアの好きな人が誰だかは知らないが、少なくともテディがそれをユーシンに見せたくない事だけは分かった。
「…この服、もしかしてその…ミアの好きな人の…?」
「そうだよー。その人結構格好良いから。せっかくならと思ってコーデさせてもらったの」
「ふーん…」
「愛の日だし、ユーシンもミアにあげたいのかも、なんてその人のコーデもしっかり決めた後から気付いちゃった」
「…色んな人のとこ首突っ込むから」
「みなまで言うなー。分かってるよー…だからちょっとだけユーシンには気を遣ったんじゃん。少なくとも、ミアにはただ大好きな気持ちだけ出して贈れたら良いじゃん?この後他の人とデート行くんだよなーなんて思いながら結局渡さないとかよりすっきりするじゃん」
 てくてくと振り返らず歩き出すテディ。シキは少し微笑んで、いつも悪戯ばかりのトラブルメーカーの優しい背中をばしんと叩いた。
「分かる。どんな形でも渡せた方がスッキリするよね」
「え?シキそんな経験あるの?」
「うーん…いや、よく考えたら今も昔も無いけど」
「無いんじゃん」
「まあ良いよ俺はこの際。それよりテディ、良い子良い子」
「やーめーてー!髪崩れるー!」
 リアカーを引きながら頭を撫でるシキ。二人は何だか妙にやり切った表情で医療班に向かった。

午後一時のシキとテディとコンクリと姉さん

「 今日のミアとデート行く時用の服持って来たよー!お食事するのにちゃんと似合う服ー!!」
 この発言が飛び出した瞬間ネビロスとミアに視線が集まり、シキはそこでやっとミアの想い人が誰か理解した。医療班にそんなに来ないシキではあるが、ロードから聞いていたのもあり彼の名前と顔は割とすぐに一致した。
「(ああ…兄貴の言ってた「変幻自在のロリコンクリート」とか言う人か)」
 ロードとそんなに変わらない身長、長い髪。この人が兄貴が手を焼いたお兄さんか。
「テディ……確信犯ですね?」
 随分とおっかない顔をするお兄さんだなぁ、なんて呑気に眺めていたらテディが引き摺られて行ってしまったのでシキもリアカーを引いてノロノロ着いて行く。部屋を出る直前、ミアに見せた余裕そうな笑顔は何処へやら。離れたところで落ち着いたと思ったらボッと顔を赤くしたネビロスはテディの頭を乱雑に撫でた。
「ぎゃぁぁぁあ!髪の毛ぐちゃぐちゃ〜!!ネビロス酷ーい!」
「こっちの台詞ですよテディ…!!」
「うっうっ…ネビロスの乱暴者…!ボク、一生懸命やったのに、やったのにー!」
「嘘泣きはやめなさい。人をおもちゃに楽しんだだけでしょう?」
 ちらりと見るネビロス。テディは顔を覆った手をパッと離すと「バレたかー!」とまた笑い出す。ネビロスは深く溜息を吐くと思いの外優しく笑った。
「…おかげで後に引けなくなりましたよ」
 その言葉に反応したのはシキだった。ミアを誘わないつもりだったの?と質問を掛けると、ネビロスは少し寂しそうに笑う。
「私なんかが楽しんで良いか…今の今までずっと疑問に思ってました。もし今日誘えなかったならそれはそれで仕方ないのかもと…」
「でも、ミアはネビロスさんに誘われてきっと嬉しかったよ」
「…だから、君達のおかげで思いがけずミアのあんな顔が見れました」
 ミアの実家は花屋だったとテディは言っていた。「ボクしか覚えてないけど、実はミアに会った事あるの」と懐かしそうに語るテディは、愛の日前に喪った家族を思い出してミアが発作的に泣いてしまった事もどこかから聞いていた。そして、自分ではミアを笑顔に出来ないんだと悔しそうに漏らしたりもした。
「ほーらね、やっぱりミアを笑顔にするにはネビロスが一番だ」
「そうですか?」
「うん、だからお願いネビロス。ちゃんとミアの事幸せにしてあげて。ボクの友達なんだから」
「……勿論、後でちゃんとミアに、自分の口からデートに誘います」
 強い目で訴えるテディの頭をネビロスは頷きながら撫でる。それを見ていたシキは考えた。大人が勇気を出して一歩踏み込む様を目の前で見たのだから、自分も。
 シキはリアカーからチョコを一つ取り出すと、医療班に戻る。扉を開け、未だ真っ赤な顔で部屋に取り残される事になったミアの横に居た彼女を見付けて近付いた。
「あの…」
「え?」
「これ、あげます…」
 ヴォイドのきょとんとした顔がシキの頭の先からつま先を見る。
「でっか…」
 何故か最初に身長に対する正直な感想を述べるとヴォイドは不思議そうな顔をした。
「何で…?」
「兄貴が、あなたの事いつも気にしてるから」
「それで、何で?」
「…兄貴をよろしくって言いたかった…」
「…よろしく言われても…何の保証も確証も持てないけど…」
 シキはじっとヴォイドを見つめる。思ったより小さい女の人だなぁ…ん?俺がデカいだけ?あ、でもスタイルは多分良い人なんだと思う。胸デカイから覚えやすいな。あと、髪の毛と目の色。やっぱこの人何か近いんだよな、俺に。
「兄貴はあなたの事凄い好きなんだけど…俺も、何か知らないけどあなたが気になるんだ」
「は…?」
「いや、兄貴が好き好き言ってたからどんな人なんだろうって思ってただけなんだけど、会ってみてこんな親近感湧く人だと思わなかった。姉さんって呼んで良い?俺の事はシキって呼んで」
「…何で?」
「兄貴と結婚したら俺の姉さんみたいなもんだし…」
 突然話を飛躍させたシキに思わず青い顔をするヴォイド。すっとシキの差し出したチョコをおっかなびっくりしながら受け取る様は餌を前にした野生の仔猫の様で、シキは思わず口をちっちと鳴らし出す。
 あれが兄貴なら弟分も分かりやすく変な奴。ヴォイドはそんなシキをじとりと見る。
「そもそも、アイツ口先だけで本気じゃないし」
「どうして?」
「そうだとしか思えないから」
「うーん…」
 兄貴の名誉の為にもすぐ「そんな事ないよ」と言いたい筈のシキ。だが、今日は言えない理由があった。大真面目な顔でヴォイドと目を合わせると、シキは重々しく口を開く。
「…俺のせいかもしれない」
 シキが深刻そうな顔でそう言ったので、ヴォイドも、さっきまで真っ赤な顔をしていたミアでさえその重い空気に飲まれる。シキは二人と目を合わせると、とても気まずそうに口を開いた。
「兄貴…俺の事好きなのかもしれない…」
「は…?」
「ええ!?」
「いや、だって知り合って十年だけど遊び相手はいるのにいつだって本命は居なかったし…遊びまくりの癖して…一度そう思ったら色々が気持ちのカムフラージュに見えるんだ」
 俺、兄貴の気持ちに絶対応えたくないんだけどどうすれば良い?と真面目な顔で訴えるシキ。ミアは予想外の展開に我が身に起きた事を忘れてわたわたするが、ヴォイドは至って冷静だった。
「多分、それは違うと思う…」
「え」
「私が言う事じゃないけど…でも多分、それだけは違うと思う…」
「もし言われた時の為に断り文句一緒に考えてよ」
「考えるまでもない。第一、あの男の傍にいて十年も待てを効かせるなんて不可能」
「あ、言われてみたらそりゃそうだ。何だ、びっくりした。て事は、俺がプリン作り頼む前にピンサロもソープも連チャンしてたのも女の子連れ込んだのも、別に特に誤魔化しとか裏があるでもなく本人の意思か。借りてくるAVが女医とか団地妻とか寝取りばっかりなのも無理して選んでるわけじゃないんだ。なら良かった。兄貴が見てるものと俺どう見ても真逆だし、無理してたとかだったら俺どんな顔して断ろうかと…」
 言ってからとんでもない事をヴォイドの前で喋ってしまった事に気付いたシキ。目の前のヴォイドは、深く理解をしていないミアを守る様に抱き締めながら相も変わらずじっとりした目線を向ける。シキはハッとしてそっと自分の口を手で覆うが時既に遅し。見事に全部喋った後だ。
「ふーん………」
「あの…兄貴のプライバシーは聞かなかった事にしてくれる…?」
「『シキから』は、聞かなかった事にする」
「(…ごめん兄貴…)」
 そんな暴露を弟分にされているとは露知らず。当の本人が医療班にてとんでもない理由で倒れるまで後一時間。

午後二時半のロードとエドゥアルト

 パイプ椅子を振り回されては流石にやり過ぎたと誰でも思う。それはロードも例外では無かった。寝惚けていたとは言え確かにやり過ぎた気もする。医療班のベッドを借りて少し休んで、ヴォイドが顔を覗き込んで居たから夢だと思って欲望の赴くままにベッドに引き込んだらどうも夢では無かった為彼女は怒り狂った。流石に謝り倒したが。
「…ヴォイド、変なとこおぼこいんですよねぇ…まあ、そこがまた…」
 彼女の怒り狂う姿すら愛おしく見える。人が見たらちょっと末期だと言いそうだがロードは気にしない。それよりも、あんなに感情をあらわにする彼女の反応が少し気になった。
 あまりにも感情の揺れる幅が大きくて、反動でどこかで疲れてボロが出そうだな、と。ヴォイドからお菓子も貰えていないし、ちょっぴり期待もしつつ心配でもあるから夜中日付が変わる前に少し顔を見に行こうかと思いながらどさくさ紛れに医療班の部屋を出る。喫煙所にでも行こうかと一歩足を踏み出すと、目の前に見慣れぬ二人が居た。
 第六小隊エドゥアルトとその機械人形ガートだ。目が合うとこちらに向かって来たので珍しいなと思いつつロードも足を進めた。
「こんにちは、ウーデットさん」
「こんにちは!えーっと…マーシュさん、マーシュさん…」
 エドゥアルトはごそごそとトートバッグを漁ると、朱殷色の包みを取り出す。丁寧な字で「ロード・マーシュ」と書かれたそれからは異様な雰囲気が漂っていた。
「えっと、これ先輩からです。愛の日に」
 俺、先輩の代理なんです!とドヤ顔で語るエドゥアルト。「弟分」と言う属性が似合う彼にシキの姿が重なったのもあって微笑ましい目で見つめるロード。しかし、彼の持つ包みを見る目は穏やかではない。
「うふふふふ…ちょうど良かった、私も彼にあげたいお菓子があったんですよ」
「あ、じゃあ先輩と交換って感じですね!」
「それは嬉しいですねぇ…うふふふふふ」
 絵を好んで見るロードにとって、朱殷色は少し不穏な光景を思わせた。時間の経った血、と表現するのが相応しいその暗い色は、東洋画においてしばしば凄惨な様を彩ってきた。敗戦を目前に家臣達と共に自刃した当主の絵を見た時、その惨憺たる様を異様に引き立たせたのはこの暗い血の色だ。それを意味無く包みにチョイスするユウヤミでは無い。
「うふふふ…『ドリンク・ミー、イート・ミー』って感じですね」
「ドリ…?」
「うふふ、鬼が出るか蛇が出るか、ですよ」
 昔気紛れに見た童話にあったそれは、食べたら体に異常を来すお菓子だった。体を大きくしたり縮めたり、役に立つ事も多いが往々にして主人公を翻弄する。懐かしいな、なんて思いながらエドゥアルトへ包みを渡す。ロードが用意したのはサリアヌへ渡したのと同じマドレーヌだった。
 愛しのユウヤミへ、「仲良くなりましょう」と愛を込めて。そしてエドゥアルトから、不穏な血の色の包みを受け取る。
「うふふふ…デリヘル呼んだら元カノが来る話くらいドキドキしますね」
「ん?…今何か変な事言いましたよね?」
「それ程でも。あ、ウーデットさん、よろしければ貴方もどうぞ」
 話を逸らす様にロードは別の包みを出すとそれを広げてエドゥアルトに見せた。中にはクッキーやマドレーヌがバラで入っていた。
「うわぁ…お菓子いっぱいですね…!どうしたんですか?これ…」
「お菓子を作る際敢えて想定より多めに作ってるんです。大食らいな弟分におこぼれをあげる予定でして」
「え!?全部手作り…!?ってか貰って良いんですか?」
「如何に大食らいと言えど全部は食べ過ぎな程作ってしまいましたから。すみません、まさかウーデットさん経由でもらえると思わず個別に包装していませんが」
「いいえ!ありがとうございます!」
 エドゥアルトはそれぞれ二、三個手に取ると嬉しそうに次の場所へ向かった。
 二人の背を見送るとロードは包みにさり気なく添えられていたメッセージカードを手に取る。少し見覚えのある様な、でも通常の文字とは違うその羅列でこれが暗号文である事はすぐに分かった。あらゆる角度から見るとピンと閃き対角線を引く。すると、「弟で疲れた君におつまみを」と言うのが浮かび上がった。
「ほう…?」
 包みをガサガサと開ける。中を見ると詰まっていたのはマシュマロだった。
 マシュマロのお菓子言葉は、「あなたが嫌い」。それを知っていたロードの背筋を何だかゾクゾクしたものが走り思わず舌舐めずりする。警戒心剥き出しの猫に威嚇された時の様な、可愛らしい物を見た興奮をユウヤミに重ねた。可愛い、可愛いなぁ、彼は。ロードは用心しつつ一つを口にする。なんの変哲もないマシュマロの甘さが口に広がった。
「んー……いや、彼の事だし多分ありますね、何か」
 もう一つ、二つ、手に取り順に口に入れる。二個目、これもプレーンなマシュマロ。しかし三つ目を口にした時、プレーンのものとは違う味が広がった。これはこれで普通に美味しい、確かにおつまみ系の味ではある。
 この味はキノコペーストだろうか。風味付け程度に香るスパイスの味がアクセントで普通に美味しくはある。ロードはこの不穏な感じ、マシュマロのお菓子言葉、そしてそのマシュマロに仕込まれた謎のキノコペーストの全てが落ち着く符合を探る。
 そして、自分が酒飲みである事を思い出すとやっと全ての点と線が繋がった。
 頭の中で繋がった瞬間、いつだったか人事部の仕事で彼と顔を合わせた時の何気ない会話を思い出して膝から崩れ落ちた。

『リーシェルさん、この後飲みにでも行きません?』
『遠慮しておくよ。そうでなくても私はあまり酒を楽しめない性質でねぇ』
『おや?ザルだったりします?』
『そんな感じかな。あまりにも酔えなくて面白くないものだから、自家製のつまみと一緒に飲む事が多いんだ。だから外ではそんなに飲まないよ』

 そうだ、おそらくワクであろう彼と話した時の会話がきっかけでこの効能を引き起こすキノコを知った記憶がある。酒を飲む際そのキノコを口にするとアルコールの分解を阻害され、忽ち悪酔いに似た中毒症状を引き起こす。タチの悪い事にこの成分、食べてしばらく体内に留まるのだ。
 この流れでこれ以外考えられない。恐れ入った、まさかあの会話の時に既にヒントをばら撒かれていたとは。
「うふふふふ…よくもまあ、やってくれましたねあの悪戯っ子め……!!」
 二週間シキの面倒を見ていた所為でまともに風俗にも行けず、あろう事か酒を飲みに行く事もかなり控えめになり、やっと解放された今日全て解禁されたと思ったらまさかのトラップを仕掛けて来たユウヤミ。
 体外に成分が出るまで向こう一週間、まだまだ禁欲生活が続くと分かったロードはユウヤミの黒い笑みを思い浮かべると諦めた様に笑った。

午後二時半過ぎのオルヴォとギルバート

「オルヴォ!ここに居たのか!」
「あれ?ギルバート?」
 少し息の上がったギルバートが近付いてきた為オルヴォは思わず笑いながら手を振った。そして不思議に思う。確か今日、ギルバートは休みだった筈だが。
「どこか歩き回っていたのか?」
「言う程保育部から離れて無いよ?」
「ん?そうか…僕の探し方が悪いのかな…?」
 オルヴォはギルバートの手にある少し彼らしく無いラッピングに目敏く気が付いた。
「(さては…誰かからもらったかな…?)」
 しかし、そこに気付いたからと言ってあえて尋ねたりしない。何故なら、こんな時にリア充のリア充によるリア充な話題に突っ込んで行く等自殺行為だからだ。ギルバートも自慢する様なタイプでは無いので触れない限りは浮かれて自ら話し始めたりはしないのでその辺り安心している。そんな事よりお菓子を渡そう。
「あ、ギルバート。ぼく愛の日に渡したいお菓子があってさ」
「僕もだ。君に感謝の気持ちを伝えたくて、買った菓子ではあるが君に贈りたくてな」
「ん?感謝?ぼくに?」
「そ、その…シモーヌの魅力に気付かせてくれたからな…」
 少し照れた様に口籠るギルバート。オルヴォは温かい目でそんな彼を見つめた。
「ぼくも君にあげたくて作ったんだ」
「え!?手作りなのか!?すまない…僕は料理が苦手で手間が取れるものだから…今年は一人分しか手作り出来ず…」
「良いの良いの、気にしないで」
 流石に「一人分しか手作り出来ず」なんて言われて気付かぬ程愚鈍では無い。だが、あえて触れずに話を進める。さささっと取り出すギルバートの手にあったのはよく知る高級パティスリーの箱であり、それを見て流石のオルヴォもらしく無い事を口走る。
「それ…結構高くて女の子に人気のあるお店のだよね…?え?良いの?ぼくで…好きな子にあげなくて良かったの?」
「そ、それはこれこれはそれだ…」
「…何かごっちゃな気がするけどまぁ良いか。わー…ぼく初めて見たよ、こんな高価そうな箱」
 そう言って一つ本人の目の前で食べて感想を言おうと箱を開けたオルヴォ。彼は目の前に広がるチョコを見て険しい顔をし目を剥いた。
 発色の良いチョコレート。混ざり気のない綺麗な色合い。惑星チョコレートと書いてあり、宇宙を模したこれはベリーの色だろうか。なるほどブルーベリーの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
 そんな事より、ギルバートがこの綺麗な紫のチョコを敢えて選んだと言う事は。
「これはピアルルSix…ライラック…」
 ぼそっと呟いたオルヴォの声を聞き漏らさなかったギルバートはその場で目を輝かせる。
「僕の思うライラックのイメージに一番合うチョコを選んだんだ…!」
「オタク、すぐイメージでキャラクター連想して物買いがち(ありがとう!ギルバート!)」
「…?オルヴォ、何となくだが…もしかして本音と建前が逆じゃあ無いか?」
「どっちにしても凄く嬉しいよ、ありがとう」
 一つ摘み口に運ぶ。甘過ぎない、上品な甘さ。人工的でないベリーの自然な甘酸っぱさが口に広がる。流石に高いチョコレートは良い素材を使っていると思うし、何よりギルバートがライラックイメージで選んだと思うとそれだけで幸せな気持ちになった。
「おっと、感動してギルバートにあげるの忘れてたよ」
 ぼくからはこれ、とオルヴォが手に持っていた手提げを満を辞してギルバートに渡す。友達から手作りが貰えるなんて嬉しいと素直に喜びながら受け取ったギルバートは、ガサガサ袋を開けると目の前に広がる菓子を見て目を剥いた。
「こ、こ、こ、これは…!?」
「ふふ…ギルバートと言えば、そしてそんなギルバートを知ってるぼくと言えば、でしょう?」
「そ、え?あ、これは…!?」
「…さっきからまともに喋れてないけど大丈夫?」
 ギルバートが興奮気味に手に持つそこにあるのはパンナコッタ。ただし、そんじょそこらのパンナコッタではない。これは黒天の騎士の中にしか登場しないお菓子屋さんのパンナコッタで、特殊ないちごソースが使用された即ちシモーヌのパンナコッタなのである。控えおろう。
「シ、シモーヌのパンナコッタじゃないかぁっ!!!」
「ははは、ギルバート、声でっかい」
「これ、君が以前SNSでバズったとか言った例のパンナコッタだろう…!?」
「うん、あの画像見せた時ギルバートってばむちゃくちゃ物欲しそうな顔してたからさ。いや〜…焦ったよ、愛の日に作って渡そうと思ってたけど、先にギルバートが貴族の力でもって知り合いのパティシエとかにあっさり作らせたらどうしようかと…感動が薄れちゃうじゃん?」
「そんな…僕にそんな知り合いは居ないしそんな財力も無いんだ…それに、もし仮にそれが出来たとしてオルヴォから、沼に引き摺り込んでくれた友人から貰えたらどんなに嬉しいか…!!」
「本当君、素直だよね。恥ずかしいくらい」
「ありがとう…!ありがとう!とても嬉しい…!」
 箱を抱きしめる様にぎゅうっと力を込めるギルバート。確かに彼は年下だし常日頃そんな感じに見えてはいるが、今日は一段と子供に見えた。
 そう、少し前まで何だか彼らしからぬピリピリした空気を纏い変に大人になろうとしている様にも見えたから。それを見るにやっぱり、大人しい彼はらしくない。
 そう、こんな風に自分と推しを愛で、推しに対する愛を語るのが一番良い。
「が、額に飾らなければ…」
「そんな事しないで食べてよ」
「そ、そうだな…余す所なく写真を撮って、カメラにも端末にも撮れるだけ撮って残さなくては」
「オタク、すぐグッズを被写体にしがち」
「そうだとも。僕、最近カメラが趣味なんだ…」
 何かに吹っ切れた様なギルバートの顔をオルヴォは優しい目で眺める。職業柄なのか、やはり年下の子は無邪気で居てくれた方が安心するのだ。
「写真と言えば、シモーヌのプロマイドもプレゼントしようと思って持って来てるんだけど…?」
 オルヴォは「沼で遊ぼうぜ」と言わんばかりの悪い大人の顔をした。まだまだ浅瀬にいると言わざるをえないそんな君を、もっともっと奥底へ引き摺り込んであげる。ギルバートはそれを察知したのかゴクリと生唾を飲む。しかし、シモーヌのプロマイドなんて素晴らしい誘惑に抗う事は出来ない。元より今日は愛の日。愛の日には推しへの愛を語ってなんぼだ。
 まあ、とは言えもしかしたらギルバートも語りたいだろうし、そのらしからぬラッピングをした誰かさんの話も聞いてあげようか?とも思わなくもない。ほんのちょっとだけ。恋愛事情にはあまり首を突っ込みたくないが、三次元に推しが居るのならその彼の推しも聞いてやれない事もない。
「それはそうと…僕は最近罪深い事をしてしまったんだ…」
「罪深い…?」
 ギルバートの深刻そうな表情に思わず身構えて待っていると、彼の口にした悩みはオルヴォから愛の日のリア充の話を聞くと言う選択肢を何処かへやった。
「オルヴォ…君の勧めてくれた黒天のみならず、ピアルルSixにまで浮気をしたと言ったら君は軽蔑するか…!?」
「え…!?」
「その…ライラックをイメージしてチョコを買おうと思った時…僕は僕で色々気になってついうっかり個人でアルストロメリアのイメージカラーに似たチョコを買ってしまってな…」
「そんな事で悩んでたのか…」
 オルヴォはにっこり笑うと手を差し出して握手を求める。
 ふふふ、愛の日も悪くないね。沼に引き摺り込もうと思っていた友人の沼への足の踏み込みがこんなに早くなるなんて。しかも愛の日用にと言わんばかり、リア充御用達の如く企業様が世間様にお出しあそばせたおチョコ様でだ。そんなタイミングで彼が沼へのスイッチを入れてしまうなんて…!
「気にする事は無いよギルバート。それよりも、ぼくは嬉しい。語れる人が増えるなんてさ」
 ギルバート、愛の日に順調に沼へようこそ。
 まだまだ君にハマってほしいぼく一推しの作品達の沼が後ろに控えているんだ。それに、アーケードゲームもまだ二人でやりに行けていない。

 オルヴォの企む様な笑顔。それに気付く者はいない。

夜中零時半のロード

 結局お菓子貰えなかったな。
 ロードがそれに気付いたのは部屋に戻り日付も変わり、愛の日が終わってからだった。
 何となく昼に見た様子からヴォイドの感じが気になって、あわよくばお菓子を貰えたらなんて下心込みで部屋に行ったのだが、一日通して彼女の心は思ったより大きく揺さぶられてしまった様だった。
 いつになく怖いと繰り返し泣いてしまった彼女。拒まれる事も考えず咄嗟に抱き締めたのはそんな彼女がただただ愛おしかったから。いや、例え拒まれようがあの時だけは少しでも彼女の恐怖を和らげたかったからこその行動ではあったのだが。
「相変わらず…柔らかいですね、あの子は…」
 部屋に着くや否や色々思い出しつつとりあえず煙草を口に咥える。欲望のまま動いても良かったが何となく彼女に受け入れられたその余韻に浸りたかった。
 ただしその余韻もしばらくすると別のものに変わってくる。髪の毛がくすぐったかったとか、抱き締めた時少し触れていた肌が綺麗だったとか、ちょっとうっかり触れてしまっただけだけど何か一緒に居た時よりまた胸が大きくなってたなとか。考えれば考えるだけ悶々としてくる。ロードは文句言いたげに顔を歪めた。
「チッ……」
 何でこんな時に限ってガッツリしっかり理性って働くんですかねぇ?
 いっそ全て放棄した方が美味しかったのに。
 とは言え、彼女のあんな顔を見て真っ先にただ抱き締めようとだけ思ったのは本気で彼女が好きだからだ。普段開けっ広げな自分の欲望が一瞬ブレーキを掛けるくらいには。弱みに漬け込む様な事はどうしても出来なかった。
 改めて本気で恋をしていると実感して溜息が出る。こんなに苦しいものか。十年もただひたすらに彼女を想って来たが、いざ再会した後のこの半年近くは本当に一人でいた時と比べ物にならないくらい苦しかった。
 まさか普段殆ど働かない自分の理性がこんなに働く日が来るなんて。よっぽど彼女に対して慎重になるらしいがそこまで働き者にならなくても良い様なそうでもない様な。
「…あんな顔して…可愛過ぎるんですよ、全く」
 彼女の安心した顔を思い出し盛大に溜息を吐くと冷蔵庫を開けて缶を一つ取る。何の気無しにプルタブを指で開け口に運んだ。
 時間をもし戻せたら、抱き締めてただあやすだけの自分の行動を変えるか?いや、何度繰り返してもおそらく行動は変えられないのかもしれない。ただただ、彼女の憂いを晴らしたいと言う目的は何度繰り返しても変わらないのだから、きっと何度だって理性は働くし何度だってただ抱き締めるだけだろう。
 やっぱり惜しい事をした様なそうでもない様な、いや、十年ぶりに名前を呼ばれただけ物凄く美味しかった様な。
 色々考えてサッと血の気が引いた。今、何気無しに普段の手癖の如く冷蔵庫開けて普段の手癖の如くビールの缶を出して普段の手癖の如く飲んだよな?
 今日の自分は、ユウヤミ・リーシェルの悪戯に染まった体だと言う事をすっかり忘れていた。
 途端に思い出した様に普段より早く悪酔いした感じになりロードはソファに行くより先に一か八か、携帯端末からシキにエマージェンシーコールを送る。まさか日常の動きでうっかり飲んでしまうとは。向こう一週間禁欲生活なのを忘れていた。
 冷蔵庫前、床に沈むロード。何だか色んな事があって疲れた一日だった。楽しかったけれど。

「ごめん寝てた。何?何で兄貴床で寝てるの?」
「…遅いですよ」
 ちなみに、シキがメッセージに気付き様子を見に来たのは送ってから七時間以上は経過した頃、もう朝日が昇った後だった。
 ロードはこの日改めて思った。己の身を守れるのは己だけ。シキに頼ったら多分、長生きは出来ない。