薄明のカンテ - 愛の日に固い意思を君に/燐花
 経理部の面々が各々昼休憩に入ろうとしていた麗らかな午後。部屋のドアが静かに開けられた。
 そこにいたのはギルバート。今日休みの筈の彼は手に高級そうな菓子の箱を持って入って来た。
「あれ?ベネットさん?今日お休みですよね?」
 一人がそう声を掛けると、ギルバートは少しだけ頬を赤らめて一つ咳払いをした。
「ま、まあその、今日は愛の日だからな。理由は言えないが僕の謹慎の所為で皆には多大な迷惑を掛けてしまったし、日頃の感謝の気持ちもある。休日ではあったが人数分菓子を買ったので配ろうかと思ってな」
 それを聞いて皆の目がギルバートの手に持つ箱に向く。
 あの箱に印字されたマークは、高級チョコレート販売のパティスリーとして有名な店のロゴじゃないか…?十個入りでも二千イリはするぞ…?
 ざわざわし出す経理部。金銭の勘定が早い彼らはギルバートの持ち込んだチョコレートを見るや否や失礼に当たるとは思いつつ頭の中で各々算盤や電卓を弾いた。
 ギルバートは箱の中身と人数を確認すると一人一人声を掛けながら配り始める。こう言うところマメだよなぁ、とアルヴィは思った。
「アルヴィ。僕が謹慎中は済まなかった。貴方には散々苦労を掛けてしまったと聞いている」
「いいえ、大丈夫ですよ。あ、大丈夫、うん。詳細は聞いてないけど、何か深い事情があったんですよね?引継ぎにメモを置いて行って貰えたおかげで助かりました。専門分野の専門用語は一朝一夕にはどうにもならなくて」
「僕も苦労したし何度も他班とぶつかったんだ。ならば残した方が良いかと思って」
 アルヴィの方がギルバートより十歳は年上なのだが、元々腰の低いアルヴィと若干高圧的なギルバートが話すとギルバートのそれがより目立つ。しかし釣り合ってバランスが取れているからなかなかに面白い二人だった。
 しかし、一通り喋った後ギルバートはちょっとだけ苦い顔をして「そろそろ敬語はやめてくれ」と呟くまでが最近のお決まりだ。
 そんなアルヴィにギルバートはチョコを差し出す。一度はお目に掛かってみたいような、でももしも恋人がこんなチョコを持ってきたら恐縮して食べれなそうな、そんな高級感ある綺麗な発色と艶のあるチョコだった。
「これ…僕も知ってますよ。有名な高級チョコ扱ってるパティスリーのですよね…?」
「まあ、有名だろうな。知名度はかなり高いだろうから」
 野暮な事だが、全員に配る義理チョコにしては高級過ぎないか?とは言え、ギルバートのあの感じ、値段もそれを庶民がどう感じるかも分かっていない訳ではなさそうだ。本当に感謝の二文字を重点に置いて選んだのだろうと言うのが分かる。
 だからここにいる誰もチョコの高級度に対して色々言う者はいなかった。まあ、貰う側なので文句どころか高くても嬉しいだけなのは当然と言えば当然か。
「ありがたく頂きます」
「本当に、今回は迷惑を掛けたな…」
「そんなに再三言わないでくださいよ」
「すまない。心機一転業務に励むのでまたよろしく頼む」
 何となく握手を交わすギルバートとアルヴィ。ふとギルバートが後ろ手に包みを持っている事に気が付いた。少し可愛く凝った様な、これはラッピングか?だとしても問題はその中身だ。決して薄く透けて見えるとかそう言う訳ではないが、外側から見た情報だけでもメロンくらい大きい何かが入っている様に見える。
 とは言え、多分あのラッピングの感じおそらくこれは本命だろうし、色々言うのは憚られたのでアルヴィは口をつぐんだ。いやしかしこの大きさは何だ?何を入れているんだ?
「ん?もうこんな時間か…ついでに、ここに僕の愛飲しているメーカーの紅茶のティーバッグを置いて行く。そのチョコによく合うから気が向いたら一緒に飲んでくれ。では、僕はこれで」
 丁寧に紅茶まで置いていそいそと部屋を後にするギルバート。
「あれってやっぱり…」
 彼が後ろ手に持っていた包み。あれに何が入っているのかは分からないが、一際大事そうに持っていた様子を見る限り、ここにある高級チョコレート以上に特別な何かがあれにあるんだろう。
 …あのメロン大の何かに。
「(アン・ファ・シンの所にでも行ったのかな)」
 アルヴィの脳内では清楚で慎ましやかで乙女なアンが恥じらいながらチョコレートを渡す姿は容易に妄想出来た。ついでにその清楚で慎ましやかで乙女なアンと恥じらい合いながら自らもお菓子を渡すギルバートの姿も。
 愛する人がいることは良い事だと思いつつも羨ましいと思ってしまう気持ちもあって、少しだけギルバートに嫉妬して電卓を叩く手が強くなった。
 …ついでに、あのメロンほどの大きさのあれが何なのかもちょっとだけ気になった。


 機械班の部屋に着いたギルバートは、二回程ノックをしてドアを開ける。目の前に居たのは出勤していたベルナールだった。
「あー…アンは居ないか?」
「アン・ファを探しているのかい?」
「ああ、彼女はどこに?」
「少し前に休憩に入って部屋を出たよ。彼女に何か用かい?多分、飲み物を買いに行ったんじゃないかと思うけど」
「あ、ああ。ありがとう」
 しまった。行き違いになったか?
 ギルバートは部屋を出るとすぐ近くの休憩所に向かう。近付くにつれて緊張で足取りが重くなってしまう。一歩一歩踏み出すが、どんどん歩く速度は遅くなるし、踏み出す足はとても重たく感じる。
 それでも、と自分を鼓舞する。あの時どんな気持ちで彼からアンを守ろうとしたか。あんな当たり方をして、問題になる事を微塵も考えていなかった訳じゃない。頭に最悪を浮かべながらもアンを愚弄する輩に噛み付いた時の気合いを思い出せ。
 一歩一歩踏み出して何とか休憩所に着くと、アンはそこに居た。ペットボトルのお茶を飲み、彼女はぼーっとしていた。
「えっと…アン…?」
「ん…?ンだよ…どうした?」
 顔を合わせてアンは一瞬ハッとする。そう言えば久しぶりに見た気がするな、コイツの顔。そう言わんばかりの顔をした。
「い、今良いか?」
「別に暇だけど…何か用か?」
「あぁ…えっと…」
 後ろ手に持ったそれがカサリと小さく音を立てる。ギルバートはしどろもどろしながら口を開いた。
「ず、随分久しぶりな気がするな!元気か!?」
「……はァ?」
 実家に帰って、母親と大喧嘩しながらもアンが好きだと大告白した時の事を思い出してついつい声が上擦ってしまう。大変だ。あんなに彼女の為と言う大義名分でやる気を見せたのはどこの誰だ!?僕だ!!
 かつてない母親の怒り狂う姿を見て、勘当するとまで言われたのに彼女を諦めたくなかったのは彼女が好きだったからだ。まだお前は子供だ、大人として世界が分かってないと散々言われ、ベネット家の男としての在り方を散々言われたにも関わらず、屈さずにアンが好きだと言った。
 その時の度胸を思い出せ!!
「僕は尻に敷かれても良いと思ってる!」
「何だ急に座布団かよテメェ」
 何かフライングした上に何の脈絡もなく言ってしまった。元気か尋ねた次の瞬間の座布団発言に泣きたくなるギルバートだが、後ろ手のそれの擦れる様な音に何とか引き戻される。くそ。コイツは愛の日のやる気を引き出してくれるものでもあり、一番足を引っ張るものでもあるとはどう言う事だ。
「いや、えっとその…」
「…何だ?あーしに用があッたんじゃねェのかよ」
「も、勿論そうだ…待ってくれ、呼吸を整えるから…」
「……ッたく、何だッてンだ…」
 カサリ、カサリ。手の中で音を立てるそれ。そうだ。これを渡そうと思って頑張ったんだ。大喧嘩した母親に更に追い討ちを掛ける様に好きな彼女の為に菓子を作りたいと口走った自分。更に喧嘩に発展したが、その後少しだけ折れた母親は結局帰り際にギルバートに作り方を書いたメモを渡してくれた。
 それは、ギルバートが生まれて初めて母親に見せた要求だったからかもしれない。何かを欲しいと言った事が殆ど無いギルバートが、お菓子の作り方を教えて欲しいと言ったのだから、最後まで躊躇ったけれど、可愛い我が子からの甘えには勝てなかった。
 …誤算があるとすれば、彼に作り方のメモだけしか渡さず実際の手順を見せなかった事にある気がするが。
「こ、これを君に渡したくて…」
「…ンだよ、これ…」
 ギルバートが渡したのは、メロンくらいの大きさの何か。頭の中でこのリボンに包まれたこれは何だ?素直に受け取って良いものか?と考えたアンは、そう言えば今日は愛の日だと言う事を思い出した。
「これは…僕が作ったチョコスコーンだ!」
 どう見ても巨大な塊だが。とは言え作ってくれたものに文句を言う訳にもいかず、アンはドギマギしながらそれを受け取った。
「あ、あァ…」
 衝撃的過ぎて言葉を失っていると、「君の口に合うと良いが…」と言ったギルバートから開けて見てくれないかと提案される。一応念の為どんなものか見てみよう。そう思ったアンは、ギルバートの目の前でシュルシュルとリボンを解いた。
「は、初めて作ったものだから、勝手が分からなくてな」
「……だろうな…」
 でっかいスコーンの塊。チョコチップが散りばめられているが、全体的に焦げており、チョコ以上に濃い黒い色が目立つ。しかし、何故このスコーン、塊で焼いたんだ?生地を小さく分ける工程はどうした?
「ミサキと言い…テメェもか…」
「何だ?どうした?」
「いや、何でもねェ…まァ。とにかく、ありが──…」
 言い掛けたアンの手からスコーンが重みで転がる。あっ!と言う間に手から転がったスコーンは、廊下目掛けて真っ逆さまに落っこちた。
 
ゴンガンッッ!!

「………」
「………」
「…今……」
「ん…?」
「今、岩の様な音したが…?」
「いや…流石に岩は無い」
 ギルバートは無の表情で否定した。
「割とレシピ通り作ったから」
「……割と…?」
 恐る恐る持ち上げたアンは、「落ちたところはナイフで削げば良いか」と言ってとりあえず袋にしまい直した。
「まァ…ありがとな…」
「良かった…喜んでもらえて」
 喜んだかどうかは定かでは無いが、兎にも角にもアンはそのギルバートお手製の岩の様なスコーンを受け取ってくれたので、とりあえず胸を撫で下ろした。
「あ」
「ん?どうした?」
「ちょっと待ってろ」
 機械班の部屋にいそいそと入るアン。パタンと扉が閉められ、少しすると手には岩スコーンの代わりに違うものを持って戻ってきた。
「これ、やるよ」
「え…?」
 それはラッピングされた菓子だった。
「こ…!!これは…!?」
「いや…今日は愛の日だろ?そう言やァテメェには世話ンなッたとこ多かッたからな。今日は機械班のメンバーにもそう言う義理とか礼とか…とにかくそう言う目的で菓子持ッて来てたンだよ。だからテメェにも、一個やる」
「あ、ありがとう…アン…」
 可愛らしく包まれたその菓子を、ギルバートは永遠に見ていられる気がした。でもそれ以上に、渡す時のアンの表情を永遠に見ていたいと思った。

 やっぱり僕は、彼女が大好きだ。

 後日、とりあえず外側を刮げ取ったアンが試しにギルバートの作ったスコーンを齧ってみたが、焦げたチョコは灰の味がしたしスコーンそのものは下手したら前歯を持っていかれる様な硬さで食べるのに四苦八苦した。
 ギルバートはアンから貰った菓子が勿体無くて食べれず、額に入れてしばらく眺めていたと言う。