薄明のカンテ - レレイのはつこい/べに
 ことの発端はリリアナの耳に飛び込んで来た、こんな言葉だった。
「今日もロード様のおかげでお肌ツヤツヤな気がするわ!」
「わかる! やっぱり恋をしていると綺麗になれるわよねー!」
「ロード様は私達の最高の美容剤ね!」
 それは廊下を歩く髪色は違うけれど同じ髪型をしたおねーさん達三人組の言葉だった。
 おねーさん達――ロード親衛隊である――の言葉に出てきた「ロード様」のことをリリアナはちゃんと知っている。リリアナの事を変に子ども扱いせずに、一人前のレレイのように扱ってくれる黒くて優しいお兄さんの名前だ。
「ロード様って私の初恋の人に似てるのよねー」
「エーデルの初恋っていつなの?」
「4歳だったわ」
「早っ!? でも、それくらいの歳になると好きな男の人って出来たりするものよね。初恋って後になって『あー、あれは恋だった』とか思ったりするものだもの」

 はつこい・・・・は4歳で済むもの。

 リリアナはショックを受けた。
 何故ならば、リリアナは5歳で4歳よりもお姉さん。
 しかし、初恋とやらはまだだったのだ。
「恋って素敵よねー!」
「本当、本当。恋のない人生なんて考えられないわ!」
「ロード様、最っ高!」
 ショックを受けるリリアナに気付くことなくおねーさん達はきゃーきゃーと盛り上がりながら廊下を歩いていき、やがて見えなくなった。

 これはきんきゅうじたいだわ!

「リリアナちゃん、お待たせ致しましたぁ」
 おねーさん達の姿が見えなくなってもずっと消えた廊下を見つめていると調達班の運営する購買から出てきたセリカがリリアナに声をかけてきた。今日はリリアナのパパであるリアムの仕事が夜まで続くため、リアムの既知の間柄であるセリカ・ミカナギにお世話になるのだ。
 パパと一緒にいられないことは寂しい。
 しかし今のリリアナにとっては好都合だった。
 恋愛トークは女同士でするものなのだと、ろくにリリアナを育てるための育児をしてくれなかったママから聞いて知っていたから。
「セリカおねーさん!」
「は、はいっ!?」
 勢いよくくりんっと振り返ったリリアナは黒い瞳を輝かせ真っ直ぐな目でセリカを見つめた。
「はつこいとはどんなものかしら!?」
「ええっ!?」
 リリアナの声が大きかったから、つられてセリカも大きな声で叫んでしまった。しかし、セリカは大人の女性。「はしたない真似をしてしまった」と猛省し、冷静な顔を保ったままリリアナへと質問に質問を返すとは申し訳ないと思いながらも問い掛ける。
「リリアナちゃん、急にどうしたんですかぁ?」
「『恋って素敵』なのよ! セリカおねーさんの初恋が聞きたいの!」
 セリカおねーさんはレレイだからはつこいは終わっている。
 めい・・探偵リリアナは推理していた。
 一方のセリカは困惑しきりだった。セリカの初恋はそれはそれは苦いもので、それを誰が通るか分からない廊下でリリアナに話すのも何だか気が引ける。適当に濁すこともできるが、それは相手が子どもだとしてもリリアナに対して不誠実でそんなことはできない。
 セリカと同じように購買に寄った人達がセリカとリリアナを横目に通り過ぎて行く。嗚呼、人の往来のあるところで初恋について聞かれるとは如何しよう。
「……私の初恋の人は旦那様でしたぁ」
 結局、悩んだセリカが口にしたのは真実であった。
 ただし、屈んで小声で素早くリリアナの小さくて可愛い耳へ囁くようにしてだ。
 一方のリリアナはきょとんと子供らしい顔でセリカを見た。
 旦那様の意味は分かる。セリカおねーさんの死んでしまった大事な人だ。
「どうして小さな声で言うの?」
「他の人に聞かれたら恥ずかしいからですぅ」
「はつこいは恥ずかしいものなの?」
 素直なリリアナの言葉に、セリカは困ってしまった。
 このままではリリアナが「初恋は恥ずかしい」と覚えてしまい教育上良くない。
「ええっとぉ……『恋は秘めるもの』と言いますか……自分の心の中だけで想う事を美徳とするという考えもありまして、無闇矢鱈に人に言わないようにするのが私の考えなんですぅ」
 セリカが絞り出した言葉に、こてんっとリリアナは首を傾げた。
「セリカおねーさんの心の中には『はつこいのひと』がいるの?」
「居るには、居ますねぇ。旦那様だった方なので」
 セリカの初恋の人は美しい思い出として終わってはくれなかったけれども。
 幾分、遠い目になりながらも気を取り直してセリカは微笑む。
「でも急にどうしたんですか? もしかして、リリアナちゃん恋をしましたかぁ?」
「……レレイはね、はつこいは経験済みではないといけないのよ! ねぇ、セリカおねーさん! 恋って大好きなのとは違うの?」
 またも難問が繰り出されてきた。
 むしろ恋と大好きの違いって何でしょう、とセリカが誰かに問いたい位だ。セリカだって恋に悩む女性なのだから。
「リリアナちゃん。ちょっと休憩所でお茶をしながらお話の続きをしましょうか」
 そこでセリカが思いついたのは単なる時間稼ぎだった。
 それに購買の前で「恋だ、愛だ」と語っていると買い物客に見られて恥ずかしいため、場所の変更を提案することによって移動時間に考えようというセリカの姑息な考えである。しかし、それをリリアナはお気に召したようだ。
「そうね! がーるずとーくはにじかいにとつにゅうよ!」
 セリカは思った。
 最近の5歳児は変な言葉を覚えすぎやしてないかと。

 * * *

 購買近くの休憩所には都合のいいことに人はおらず、セリカは安堵した。
 自分には緑茶、リリアナにはオレンジジュースを購入して椅子に座る。
 一口、お茶を飲んで口の中を湿らせたセリカは意を決して口を開いてリリアナの疑問に答え始めることにした。
「恋はですねぇ、『大好き』と似ているけど少し違うものなんですぅ。何をするにもその人のことばかり考えてしまったり、その人といるととても幸せな気持ちになれるんです」
 この時、セリカの脳裏に浮かんでいたのは『初恋の旦那様』ではない、旦那様とは正反対のような性格をした『異国人の彼』だった。
 しかし、リリアナはそんなことは知らずただ真剣にセリカの言葉を聞く。
「恋をすると、その人に夢中になってしまうんですよぅ。ずっと一緒に居たいと思ってしまうんですねぇ」
 少しだけ困ったような顔をしてセリカは笑った。
「リリアナちゃんも、そんなその人の事ばかり考える恋をするんでしょうねぇ」
「その人のことばかり……」
 リリアナは考えた。
 それだけ考えているということは、まだ彼女は初恋を知らないのだろうとセリカは微笑ましく考えてお茶を口に運ぶ。缶のお茶は苦味だけが強く出ていて少し苦手だが、今の緊張しているセリカにとっては有難い飲み物だ。
 暫くうんうんと悩んでいたリリアナだったが、急に顔を輝かせた。
「いたわ! セリカおねーさん、私はつこいのひといたわ!」
 この瞬間、お茶を吹き出さなかった自分をセリカは誉めてやりたくなった。少しだけ器官に入ってそれに噎せつつも、胸を張る小さなレディを見つめる。
「だ、誰なんですかぁ……?」
 オレンジジュースをくいっと飲んでいたリリアナがニコリと笑った。
「『こいはひめるもの』だから教えてあげられないのよ!」
 迂闊だった。
 セリカは数分前の己の発言を呪う。
 一方の閃いたリリアナは上機嫌だった。
 その人と一緒にいると幸せな気持ちになれる、そんな彼がマルフィ結社にはいる。つまりリリアナはちゃんと初恋をしているのだ。さすが立派なレレイだ。
「楽しそうな声がすると思ったら、女の子同士で何やってるの?」
 その時、背中にかかった若い男性の声に姿勢の美しいセリカの背筋せすじが余計にピンと伸びた。見なくてもセリカには声の主が誰だか分かっている。
「ファンさん。今晩和」
 「ギャリー」の「ギャ」を発しそうになるが寸でのところで堪えてセリカは彼の苗字的なものを呼んで振り返った。そこにいるのは正しくギャリー・ファンだ。
 何故、よりにもよってこの話題の時に彼が現れるのか。
 セリカがそんなことを思っていると、リリアナが声を上げた。
「だめよ、ギャリーおにーさん! 今はがーるずとーくなのよ!」
「えー。差別されると俺悲しいなぁ」
 人差し指で目の下を擦り泣き真似をしたギャリーに、リリアナの罪悪感が募る。でもダメなのだ。だって『こいはひめるもの』なのだ。
「何話してたの?」
「えっ!? あ、えーっとぉ……」
 ギャリーに問いかけられたセリカは焦った。
 何を話していたかと言われれば『恋の話』であるが、それを自身の恋の相手・・・・に言わねばならないのは新手の拷問か何かなのだろうか。
「りっ、リリアナちゃんの初恋の話ですぅ……」
 御免なさい、リリアナちゃん。
 セリカは合ってはいるが自分は関係ない話題のような言い方で逃げることにした。大人って汚いと思わないでくださいね、リリアナちゃん。セリカはリリアナに心の中だけで詫びる。
 そんなセリカの言葉に「へぇ」と目を細めたギャリーは再びリリアナへと目を向ける。
「セリカおねーさん!本人に言っちゃだめなの!!」
 リリアナの言葉にセリカは顔を真っ赤に染めた。
 それと同時に自分の恋心は、こんな小さな子供にまで筒抜けなのかと思う。
 そうだとしたらマルフィ結社中に知れ渡っているということじゃあないか。
 いやいや、私はそんなに阿呆では無い筈ですぅ。
 セリカは冷静になろうとした。でも無理だった。
 混乱するセリカを他所に、ギャリーが口を開いていた。
「何を言っちゃいけないの?」
 優しく問い掛けるギャリーにリリアナはポツリと呟き始めた。
「セリカおねーさんが教えてくれたの。『こいはひめるもの』なの……だからギャリーおにーさんには内緒なの」
 自分のスカートをぎゅっと握りしめるリリアナの様子に、セリカはようやくリリアナがセリカのことではなくリリアナ自身のことを言っていることに気付いた。
 つまり、リリアナの初恋の相手はギャリー。
 確かに『優しいお兄さん』というのは恋の相手になりがちだけども、それだけに限ればマルフィ結社に『優しいお兄さん』は沢山いると思うのだが何故ギャリーなのだろうか。それこそ保育部のオルヴォなんて日頃接触している『優しいお兄さん』であるし初恋にピッタリだというのに。
 微妙にギャリーに対して失礼な事を考えながらも墓穴を掘らないようにセリカは沈黙を保ってリリアナを微笑ましい目で見つめていた。
「ありがとうね」
 座り込んでリリアナと目を合わせてギャリーが彼女の頭を撫でる。
「『恋は秘めるもの』って考え方も素敵だけど、俺の国は自分の考えを主張する――自分の思ったことはどんどん言うっていう考えだから言っても良いんだよ」
 セリカの考えを否定することなく自身の考えを述べるギャリーに、リリアナは黒い目をパチパチ瞬いた。
「言っても良いの?」
「うん。俺はリリアナちゃんが、俺のどこが好きなのか聞きたいな」
 ギャリーの言葉にリリアナの顔が子供らしくぱあっと輝いた。
「あのねっ、あのね! ギャリーおにーさんはね、優しくてね、お菓子とかバスボムくれたりするし、行動がとってもしんしてき・・・・・でね、お姫さまになれるの! だから、わたしはギャリーおにーさんが好きだし、いつおにーさんに会えるかなって楽しみになるの! それとねっ……」
 語り始めたリリアナのギャリーの好きな部分は、どれも子どもらしい微笑ましい目線のものばかりであった。時々、同じことを繰り返すこともあるが、それを聞いたギャリーは面倒くさがる様子なんて微塵も見せず「うん、うん」と優しく笑みを浮かべたままにリリアナに付き合う。

――自分の考えを主張する。

 そんな二人を見つめながらセリカは密かに思うのだ。
 自分もリリアナのように無邪気に言えたなら、どんなに楽なのだろうかと。
 しかし自分とリリアナは年齢も立場も違う。
 5歳の子どもを羨ましがるなんて、私は何て愚かな女なんでしょうねぇ。
 セリカは誰にも気付かれないように嘆息した。

 * * *

「ばいばい、セリカおねーさん。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさいリリアナちゃん」
 予定通りの時間に仕事を終えたリアムはセリカの部屋にリリアナを引取りに来ていた。
「いつもすまない」
「良いんですよぅ。親戚なんですし、リリアナちゃんはとても良い子ですからぁ」
 玄関先でそんな会話をしているとキッチンから水の音と食器が鳴る音がしていることに気付きリアムは眉を顰めた。
「セリちゃん。水を出しっ放しにしていないか?」
 セリカの部屋はワンルームであるが玄関に間仕切りを設置している為、簡単に奥が見えないようになっている。その為にリアムはそう言ったのだが、セリカは特に気にする様子も見せない。
「大丈夫ですよぅ」
「セリカちゃん、洗い物終わったよ」
 水の音が止まり、更に間仕切りの奥から顔を覗かせたギャリーに、リアムは彼と良く似た色をした目をこれ以上ない程見開いた。
「な、何故貴様が……!?」
「あ、リアム。仕事おつかれー」
 そう言ってヘラリと笑ったギャリーがリリアナを見るものだから、その目線につられてリアムは愛娘を見る。
「ギャリーおにーさんに途中で会ったから、お夕飯にお誘いしたのよ!」
 リリアナはドヤ顔で言っていて、その様は可愛らしいが言っていることにリアムは頭痛がしそうだった。
 お誘いをしたリリアナが料理を出来るわけもなく、ただでさえセリカにはリリアナを預かるという負担をかけているのに更に負担をかけてしまったという訳だ。
 それにしても何故、ギャリーを誘ったのか。全く訳が分からない。
「セリ……カさん、申し訳ない」
「大丈夫ですよぅ」
 先程とセリカは同じ言葉を繰り返していた。
 しかし、そこに僅かに喜びのようなものを含んでいることを幼馴染として、親戚として付き合いの長いリアムだけは気付いた。
 まさか、セリちゃんは……。
「あのね、パパ!」
 そんなリアムの思考は愛娘の声に中断された。
 なぜならば、父親にとってリリアナの言葉は何よりも優先されるべきものなのだ。
「どうしたんだ、リリ」
「ギャリーおにーさんはね、わたしのはつこいのひとなのよ!」
「そうか」
 リアムはリリアナの言葉に彼女を見つめてニコリと微笑んだ。
 そして視線をギャリーへと向けた瞬間、表情は一変する。
 殺気に満ちた顔。長年の付き合いのセリカすら彼のそんな表情は見た事なくて、思わず後ずさった。
「女性の部屋に異性が居るのは些か問題だろう? ギャリー・ファン、一緒に帰ろうか」
 言うまでもなくカンテ国でフルネームの呼び捨ては一番高圧的な呼び方である。しかし、ギャリーは「失礼だ」と怒ることもせずに大人しく頷くことしか出来ない。断ったらこの場で消されるくらいの迫力が今のリアムにはあったからだ。
 現にリアムは過去最高にブチ切れ状態だった。
 此処まで怒ったのはリアムの人生で、ナタリアリリアナの母がリリアナを捨てた時くらいだった。今夜、更にそれを上回る怒りが発生する恐れすらある。
「じゃ、じゃあ俺も帰るかな」
「ギャリーおにーさんとまだ一緒にいられるの!?」
 場に漂う空気に気付いていないリリアナが喜色満面の笑みを浮かべた。
 その笑顔にリアムの怒りのボルテージが一段階上がったのを、大人のセリカとギャリーは気付いてしまっていた。気付いても2人にはどうにもできない。
「あのねっ、あのねっ、パパ!」
 しかしリリアナは気付かないで無邪気に言葉を紡ぐ。
「わたしはね、ギャリーおにーさんがパパに似ているところが好きなの!」
 その瞬間、リアムの怒りは霧散した。
「パパに似た髪の色も、パパに似た目の色も、パパとちょっと似た感じのするお顔も、パパと同じ優しいところが好きなのよ!」
 「パパ」という単語がゲシュタルト崩壊するんじゃないかという程にリリアナは「パパ」を繰り返した。それは大人しか察していなかった空気を実は察していたというわけではなく、単純にギャリーに言われた『自分の思ったことはどんどん言う』を実践しているだけである。しかし、それが今は平和への鍵だった。
「そうか。ありがとう、リリ」
 そう言ってから、再びギャリーとセリカへ向けたリアムの顔は「お前誰だ」と問いたい程に柔和なものになっていた。
 微笑ましく見つめ合う親子を前にギャリーが呟く。
「俺の寿命、伸びたみたい」
「そうみたいですねぇ……」

 * * *

 帰り道、リリアナはご機嫌いっぱいだった。
「パパ!」
 右手を繋いでいるのは大好きなパパであるリアム。
「ギャリーおにーさん!」
 左手を繋いでいるのははつこいのひとであるギャリー。
 右を見ても左を見ても幸せで、リリアナはとっても楽しかった。

 やっぱりギャリーおにーさん、だいすき!
 でも、パパのほうがもっと好き!