薄明のカンテ - ルクールタンドル/べにざくろ
Je voudrais avoir une belle relation amoureuse avec quelqu’un de bien.




Que penses-tu de moi?

主婦は風邪を引かない

 鯉口を切って走り出したセリカは自身の身体に微かな違和感があった。
 しかし気の所為だろうと一蹴して、目の前の機械人形マス・サーキュの右腿に刃を一閃させ体勢を崩させると、その耳に汚染駆除ズギサ・ルノース班から渡されているUSBメモリを差し込み無力化させる。外傷を少なく機械人形マス・サーキュを無力化させた方が後の機械マス班の仕事が少なくて済むので、セリカの好む戦闘方法はもっぱら之であった。
 地面に転がった機械人形マス・サーキュの回収は後にすることにして先へ進む。今日は散開しての街中での戦闘となり、セリカは時々心配そうにドアを開けて外を覗く住民に屋内に居るようにと命令に聞こえないように気をつけながら声をかけつつ周囲を警戒し、足を止めることは無い。
 四ツ辻に差し掛かった時、そんなセリカに死角からぶつかってきた人影があった。その人影の持つ機械人形マス・サーキュには珍しく無い桃色の長い髪が風に揺れるのが妙にゆっくりと見えた瞬間、セリカは「 死んだ 」とすら思う。しかし芸は身を助けるという言葉通り長年の武芸が無意識に身体を動かしていたらしく、気付いた時には相手に強烈な足払いをかけて地面へと叩き付けていた。
 命があったことに安堵しながらセリカは素早く屈むと機械人形マス・サーキュの髪を掻き分けてその耳にもUSBメモリを差し込んで汚染駆除を行う。直ぐに機械人形マス・サーキュは動かなくなった。
「 ケートさん…… 」
 危機が去った安堵からか思わず髪の色を見て、かつての自分の家にいた機械人形マス・サーキュの名前を呟いた。セリカにとって桃色の長い髪は夫の愛情も生命も奪った憎い機械人形マス・サーキュであり、可愛い家族でもあった愛しい機械人形マス・サーキュのケートの色だ。
 ケートはケンズでセリカ自身が破壊したというのに同じ髪色を見つけると彼女が未だ稼働しているかのような何とも言えない気持ちになる。
「 さて―― 」
 いつまでも昔に思いを馳せている訳にはいかない、とセリカは立ち上がろうとした。しかしかつて無い悪寒を覚え膝が力を失い、立ち上がるどころかセリカは地面に膝をついた。やはり身体がどこかおかしい。
 このまま此処にいてはいけない。
 そう思うのに身体が言うことを聞いてくれず、仕方なく刀を地に差して杖の様にして立ち上がる。
「 セリカ! 」
「 お姉様……? 」
 その不調のセリカの元へ駆け寄って来たのは小隊長のバーティゴだった。確かバーティゴは散開する前の作戦では、セリカとは別方向に行くことになっていた筈なのにどうして此処にいるのだろうと働きの鈍くなった頭で思う。
「 貴女の様子がおかしいと思ったら……こんな事だろうと思ったわ 」
「 ええっ? おかしかったですかぁ……? 」
「 おかしかったわよ。普段飲まないミルクティなんて飲んじゃって、喉が辛かったからじゃないの? 」
 バーティゴに指摘されて思い出す。今日は何だか喉がむず痒いような気がして緑茶ではなく甘いミルクティの気分だったことを。
 そんな僅かな行動の違いで自分の異常に気付いていたバーティゴにセリカは感涙に咽びそうだった。しかし此処は戦場で、そんな余裕はない。
 その時、人間の声につられたのか一体の機械人形マス・サーキュが飛び出してくる。応戦しようと無理に動こうとしたセリカを視線で制したバーティゴは放胆にも真正面から距離を詰めて己の間合いへと踏み込むと、義手の拳で右面を撃った。人間の拳とは違う金属製の拳を完全に食らうことになった機械人形マス・サーキュが一瞬動きを止めたのを見逃さないバーティゴは今度は大振りなナイフを手にすると、その首を掻っ切って主要なコードを断ち切り行動停止へと追い込む。
「 お見事ですぅ、お姉様…… 」
 焦点の合わない白濁した目であろうとも何らハンデを感じさせることなく機械人形マス・サーキュと戦ってみせたバーティゴの姿は勇猛果敢で、力なくセリカは拍手を送った。そんなセリカにバーティゴは近付いてくると、その身体を横抱き――世に言うお姫様抱っこだ――にして軽々と持ち上げる。そして迷うことなく近所の民家の物置のドアを蹴飛ばして開けると、その中にセリカを置いた。
「 暗くて埃っぽいけど少しの間、我慢して良い子で居て頂戴 」
 屋内ならば安全。
 それが機械汚染マス・ズギサされた機械人形マス・サーキュとの交戦の際の鉄則であることを理解しているセリカは大人しく頷く。
 この身体では無理に付いていこうとすれば邪魔になるだけだ。
 バーティゴの助けにはなりたいが枷にはなりたくない。
 そんなセリカの心情なんてお見通しなのだろう。バーティゴはセリカが自分だけが見るなんて勿体無いと思うような笑みを浮かべてから、扉を閉める。
( どうしてしまったんでしょう……私の身体…… )
 頭が痛い。身体が重い。いっそ、この場に横になってしまいたい程の倦怠感がセリカを襲っていた。
 それでも残されたセリカに与えられた暗闇と密閉された淀んだ空気は決して心地いいものではなかったけれども、セリカはバーティゴの言葉を信じて大人しく戦闘が終わり仲間達が迎えに来るのを待ち続けたのだった。

 * * *

 猪、という生き物がいる。鯨偶蹄目イノシシ科の一種の哺乳動物であり「 猪突猛進 」「 猪武者 」といった勇猛の象徴でもある動物である。
 そんな猪の名前を持つ男、ルーウィン・ジャヴァリーは不機嫌さを隠そうともしない顔で乱暴に経理部の扉を開いていた。
 そして何事かと顔を向ける経理部のメンバーの顔を睨み付けるようにして見つめる。そんな彼に無謀にも近付く男がいた。それは貴族としての矜持がルーウィンの粗野な行動を諌めんとして働いたギルバート・ホレス・ベネットに他ならない。
「 君は大人しく扉を開けることも出来ないのか!? 」
「 ギャリー・ファンは? 」
 ギルバートの言葉を完全に無視してルーウィンは問い掛ける。その事に対しても文句の一つや二つ言いたいギルバートであったが文句を飲み込んで、今は真面目に仕事に励んでいるギャリーへと目を向けた。
「 そこだ 」
「 あざまーす 」
「 あ…… 」
 まともに「 ありがとうございます 」も言えないルーウィンに絶句するギルバートのことを無視してルーウィンはさっさとギャリーの元へと近付いて行く。ギャリーは一連の騒ぎに気付いており、振り返ってルーウィンを見ていた。
「 ギャリー・ファン 」
 カンテ国でフルネーム呼びは高圧的な意味を持ち良い呼び方ではない。歳下のルーウィンに急に呼び捨てにされて良い気分になる者はおらずギャリーの形の良い眉が動く。
「 アンタのせいでセリカさんが…… 」
「 セリカちゃんが!? 」
 しかし、その不快な気分は一瞬で吹き飛んだ。椅子が音をたてるのも気にせず立ち上がったギャリーがルーウィンに詰め寄る。詰め寄られたルーウィンは距離の近いことに対して嫌な顔を見せるが、ギャリーを睨む事は変わらない。
「 アンタがセリカさんに金を借りているせいで…… 」
「 何その冤罪!? 」
 経理部の人間ならば「 個人間の金の貸し借り 」は御法度な訳であり、ルーウィンが「 金を借り 」くらいまで言ったところで経理部の視線が突き刺さっていたギャリーは大きな声でそんな事実は無いことを主張しておく。尚、サボり魔であっても仕事はちゃんとこなすギャリーのことを理解わかっている経理部のメンバーは、ギャリーの冤罪発言で「 やっぱり、そうだよね 」と安堵して目線を和らげて各自の仕事に戻って行く。
「 ギャリー……貴様、そんなに金に困っていたのか 」
 ただ1人、ギルバートだけは哀れみの目を向け続けていたが。
「 皆みたいに俺を信じてよ…… 」
 そんなギルバートに力無く呟いた後、ギャリーは再び目線をルーウィンへと向けた。ルーウィンはギャリーが困っているのを見て満足したのかドヤ顔をしている。それはギャリーの郷里くに風に言うならば「 ちょっと飛んでって張っつけてやりていくれぇ、ごうがわく顔 」だ。本当に殴ってやろうか、とギャリーは思うが思うだけにしておいた。今はそれよりもセリカの話だ。金は借りていないがセリカに何かがあったというのだろうか。
「 セ…… 」
「 ルー、話はついた? 」
 しかし第三者の良く通る声がギャリーの声を遮った。
「 姐さん。まだっす 」
 振り返ったルーウィンが第三者――バーティゴに答える。バーティゴは入口に寄り掛かりながらルーウィンの答えに呆れたような顔を見せた。
「 まだなの? セリカが風邪をひいたって伝えるだけじゃない 」

――え、そうなの?

 バーティゴの言葉に経理部の心の声は一つになっていた。
 そんな事、ルーウィンは一言も言っていない。
 どういうことだと経理部中の視線がルーウィンへと集中すると、まさに悪戯が失敗した子供のように口を尖らせる男がそこにいた。
「 姐さん、そこに至るまでの過程が俺的には長い予定だったんすけど。これからゆっくりセリカさんの症状を語ろうかと思ってたのに 」
「 そんな悠長にやってないでちょうだいな。セリカの所に行かなきゃならないんだから 」
「 へーい、了解っす 」
 軽くバーティゴに返事をするとルーウィンは先程までの真剣な表情が嘘のような軽いテンションでギャリーへあっさりと告げた。
「 っつー訳でセリカさんがアンタに風邪を伝染うつされました! 」

病は気からというけれど

 暇ですねぇ……。
 セリカは代わり映えのない天井をぼんやりと見上げて何度目かも分からない溜息をついた。
 戦闘中に悪寒を感じて戦闘不能になったセリカは、本部に担ぎ込まれるように帰ってきて医療ドレイル班の診察を受けると正真正銘の風邪と太鼓判を貰う羽目になった。そして今は安静の身である。
 幸いな事に処方された解熱剤が良く効いて、もはや調子が悪いところは無いような気がしていた。それでも第3小隊を束ねる小隊長から大人しくしているようにと言われれば大人しくしている他なく、セリカは寝台で横になっていた。とはいえ睡魔は先程まで寝ていたおかげで何処かへ消えてしまい瞼を閉じたところで全く眠くなってはくれない。
 お姉様、早く帰ってきてくれないでしょうか。
 病気の人間に足りないものを買ってくると言ってセリカの部屋の鍵とルーウィンを連れていったバーティゴの後ろ姿を思い出すと思わず顔の表情が緩んでしまう。
 バーティゴは戦場では強く勇ましく、ひとたび戦場を離れれば優しい女性だ。初対面の時は並の男性よりも背が高いことや顔に痛々しい傷がある容姿に普通の主婦であったセリカは少々どころでなく怯んでしまったが、話してみれば気の良い素敵な人物だった。実姉がいるにも関わらずセリカが彼女の事を「お姉様 」と呼んで慕いたくなってしまう程に。
 そんなバーティゴにお姫様抱っこをされた時、凄く嬉しかった。
 相手がバーティゴというのは勿論のこと、夫であったベンジャミンにすらお姫様抱っこなんてしてもらったことは無かったからだ。セリカは過去に付き合った男性といえばベンジャミンしかおらず、あれが人生初のお姫様抱っこだったのだ。よくお姫様抱っこは女性の憧れのシチュエーションとはいうけれど、それは本当に嘘ではないとセリカは人生30年生きてきて身をもって体感することになった。お姉様、最高。お姉様、大好き。
 そんなバーティゴへの愛を内心で叫んでいたセリカの耳にインターホンが鳴る音が聞こえて我に返る。
「 お姉様……? 」
 買い物に行ったバーティゴが帰ってきたのだろうかと身体を起こして小首を傾げるが、部屋の鍵を持って行ったのだからそれは無いだろうと思い直した。来客が誰だか分からないが無視をするのも申し訳ないと考えて若干フラつきながらも気丈に歩き、玄関のドアを開けるとドアの前に立っていた人物を見て目を丸くする。
「 ファンさん? どうして此処に? 」
「 セリカちゃんが風邪を引いたって聞いたから 」
 見ればギャリーの手にはバーティゴに渡した鍵と彼女が渡したのであろうビニール袋があった。それを見ればバーティゴがギャリーにセリカの看病を託したことは火を見るより明らかだが、何故そんな事をバーティゴはしたのだろうか。
「 俺の風邪が移ったせいでしょ? 」
 ギャリーか必死な顔をしながら放った言葉でセリカの疑問は瓦解するが、今度はそれを否定するために首を横に振った。
「 違いますよぅ。ファンさんの風邪みたいに大っきい風邪では無いですし、それこそ移ったら大変だからお引き取り下さい 」
「 ほんだでエレオノーラちゃんにセリカちゃんのこと頼まれてるから。ベッドに行きましょ 」
 エレオノーラ――バーティゴの名前を聞くと思わず何も言い返せなくなりセリカは黙るしかなくなる。そんなセリカに微笑んで、ギャリーは驚くべき行動をとった。
「 ふぁ、ファンさん!? 」
「 何? 」
「 重いですからぁ……下ろしてくださいぃ…… 」
 ギャリーは荷物を腕に下げたまま平然とセリカをお姫様抱っこしたのである。人生初だったお姫様抱っこが2回も行われることになり、バーティゴにされた時と違い今度は言い返す元気はあったセリカは文句の声を上げるが、ワンルームの狭い部屋である。文句を言っているうちにベッドに下ろされて丁寧に蒲団までかけられてしまう。
「 初めてだったのにぃ…… 」
 男の人にお姫様抱っこしてもらうのが。
 セリカの言葉にギャリーは乙女のように頬を染めた。
「 セリカちゃん……その言い方はちょっと…… 」
「 ……たった今、ファンさんへの戻りつつあった好感度が2になりました 」
「 前より減ってない!? 」
「 減ってますよぅ。もっと減っても良いくらいですぅ 」
 駄々っ子のようにセリカが言い返すと、ギャリーから返ってきたのは文句でも拗ねた顔でもなく予想外の優しい微笑みだった。綺麗な顔立ちのギャリーの微笑みは単純に美しくてセリカは見てしまった事を後悔しながら目を逸らした。
「 ……言い返せるくらいセリカちゃんが元気で良かった 」
「 ……元気ですよぅ 」
「 お腹空いてない? 」
 言われてみてセリカは倒れてから何も食べていないことを思い出す。しかし男性に気軽に空腹を訴えるなんてはしたない真似は出来ないセリカは口を噤むばかりだった。だから看病して貰えるならバーティゴが良かったのに。
「 エレオノーラちゃんからセリカちゃんが何も食べてないって聞いてるから 」
 さすがお姉様。セリカが言い辛い事を見越して先にギャリーに伝えてくれていたのだ。今度、お茶をする時くらいは茸料理を勧めるのは止めてあげよう、とセリカは固く誓う。
「 もし食べられるなら食べり? 」
「 ……はい 」
 セリカが頷くとギャリーは再び満足そうに微笑むと「 キッチン借りるね 」と向かっていく。
 その後ろ姿を見ていると、部屋に人が来た事に安堵したのか急に睡魔に襲われてセリカは抗うこと無く目を閉じた。

 * * *

「 セリカ、起きられるか? 」
 トントンと軽く肩を叩かれたセリカは重い瞼を開いてを見つめる。彼の、いつもならば理知的な冷たさを感じる黒い瞳が今は心底心配する色を湛えてセリカだけを映していた。
「 ベンジー……? 」
 彼の名前を呟きながらセリカは寝乱れていた長い黒髪を見苦しくないように手櫛で整えつつ背に流す。しかし急に起き上がったせいで立ちくらみのように頭がふらついて倒れそうになる。
「 全く、急に起き上がるからだ。ゆっくりで良いというのに 」
 倒れそうになるセリカの背中をベンジャミンが腕で支えながらブツブツと呟いた。小言を言われているのに何だかベンジャミンが近くにいることが久し振りのように感じられて嬉しくなったセリカの顔は笑みを形作ってしまい、ベンジャミンの顔の呆れの色が強くなる。
「 こら、何を笑っているんだ。反省をしなさい 」
「 ふふっ、申し訳ありません 」
 謝りつつも笑いの止まらないセリカに、呆れたように、それでいてどこか甘さを含んだものだ顔で眉を寄せるベンジャミンの顔を見てセリカは余計に笑みを深くした。
 そんなセリカの鼻腔を甘い香りがくすぐる。この甘い香りの正体は蜂蜜だろうかと検討をつけながらセリカが自室の中をぐるりと見渡して匂いの元を探すと根源は直ぐに見付かった。
「 ……男子、厨房を遠ざくる也では無かったのですかぁ? 」
「 君がこの状態では仕方ないだろう 」
 サイドテーブルに置かれていたのは普段セリカが作る時のように牛乳と蜂蜜の入った粥麦ウィミ・バツだった。ベンジャミンが料理を出来たことに驚きの顔を隠せないでいると彼にしては珍しく感情を顕にして拗ねた顔のベンジャミンと目が合う。
「 文事ある者は必ず武備あり。それに……君の為なら教えは二の次だ 」
「 有難う御座いますぅ、旦那様 」
 ベンジャミンに介護されている気分になりながらセリカは粥麦ウィミ・バツを匙で掬う。味は――蜂蜜が多かったらしく大分甘い。とはいえ食べられない程の甘さでないのでセリカは「 美味しいですよ? 」と心配そうな顔で見ていたベンジャミンに感想を告げて匙を進めた。
 そんなセリカを見つめていたベンジャミンが、ふと思いついたことを口に出す。
「 こういう時の為に機械人形マス・サーキュを購入するのも良いかもしれないな 」
機械人形マス・サーキュ…… 」
 機械人形マス・サーキュは10年程前に発売されブームを巻き起こした優秀な自動人形だ。今ではカンテ国内の各家庭に必ず1台以上いるといわれるヒューマノイドであり、当然のようにセリカの実家にもベンジャミンの実家にもいる。
 機械人形マス・サーキュ
 その単語を聞いてからセリカの頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。
 しかし、セリカの食べ終えた食器を片付けていたベンジャミンは食器へ目線を向けていたために彼女の異変に気付かぬまま更に口を開いた。
「 家事手伝いに丁度良いだろう。君の熱が下がったら、ゆっくり考えてみよう 」
「 ……はい 」
 頷いてはみたもののセリカの頭は割れそうに痛んでいて思わず頭を両手で抱えるようにして抑えた。
 機械人形マス・サーキュ。ナデシコの花のような薄紅色の髪、儚さを感じさせる薄紫色の瞳の可憐な少女型の機械人形マス・サーキュ
 今の・・セリカは知らない筈の機械人形マス・サーキュの姿が脳裡に浮かび、痛みと一緒に吐き出すようにその名を呼ぶ。
「 ケート、さん……? 」
「 はい、奥様 」
 鈴を転がしたような可憐な声が返事をしたものだから、セリカは頭痛を忘れて琥珀アンバー色の目に驚愕と恐怖の色を織り交ぜながら恐る恐る顔を上げた。
 セリカの目に映ったのは可憐な声が良く似合う愛らしい機械人形マス・サーキュのケートが控えめに微笑む姿。
 購入する際にセリカの好みを沢山詰め込んだ可愛い可愛いお人形が、そこには立っていた。
「 ケート、いくよ 」
「 はい、旦那様 」
 ベンジャミンがケートを愛おしそうに呼んで、ケートも彼に寄り添うように立つ。セリカなんてまるで眼中に無いかのように、たとえ視界に入ったとしても路傍の石を見たかのような無感動さで。
「 ベンジー!! 」
 寝台ベッドの他にセリカの部屋だったものは霧散し、周囲には黒い天鵞絨ビロードのような闇が広がるばかり。その闇の中、ベンジャミンとケートは仲睦まじくセリカに背を向けて歩いていく。
 2人を止めようと寝台ベッドから降りようにもセリカの身体は動かない。だから唯一出来る、声を出すことだけをセリカは続けた。
「 ベンジー!! 私を置いて逝かないで!! 」

一に看病、二に愛情

「 ……セリカちゃん……セリカちゃん! 」
「 え? 」
 はっとセリカは瞬いた。
 そこには真っ暗な空間も、セリカを置いていく1人と一体の姿も無かった。視界に入るのは、すっかり見慣れた結社での自分の部屋とその部屋にいるのが見慣れないギャリーの姿だけだ。
「 ファンさん……? 」
「 セリカちゃん、うなされてて俺まぁずおどけたよ 」
「 申し訳御座いません 」
「 謝らなくていいけど、何処か痛む? 」
「 いえ、全然何処も痛くないですぅ…… 」
 起き上がりながら首を横に振ると、ギャリーが「 良かった 」と笑みを浮かべる。その顔を見ていたらセリカも何だか安心して身体に変に入っていた力が抜けていった。
 ベンジャミンの夢を見るのは久し振りだった。それも機械人形マス・サーキュのケートを購入する前の、まだ愛情がセリカへと向いていた頃の優しかった彼を見たのは何年振りのことだったろう。
 懐かしいベンジャミンの姿に思いを馳せていると先程までの夢と同じ蜂蜜と牛乳の香りがセリカの鼻をくすぐった。それを辿っていけば、矢張りというべきか牛乳と蜂蜜の粥麦ウィミ・バツが目に入った。
「 おあがりよ 」
「 はい。頂きますね 」
 器を受け取り、匙で一掬いして口に入れると丁度良い甘さが口に広がった。ベンジャミンとは違うちゃんと料理の出来る人間の作る粥麦ウィミ・バツの味に、セリカの顔が綻ぶ。
「 ファンさんて……料理出来る方だったんですねぇ……お部屋にお邪魔した時も思っていた以上に綺麗でしたし 」
 先日のギャリーの看病の時に見た部屋を思い出しながら呟いた。ゴミ箱は鼻をかんだティッシュで山盛りになって零れ落ちたりしていたけれど、それはギャリーが酷い風邪を引いていたからに他ならずゴミ箱周辺以外は整頓された綺麗な部屋だった。女の子が大好きなギャリーのことだから、きっと女の子を部屋に連れ込んでも大丈夫なように綺麗にしているのだろう。
 そう思った瞬間、訳の分からない胸騒ぎのようなものがして心が落ち着かなくなる。
 ギャリーが、他の女の子と。
 何故か知らないが想像しただけで凄く凄く腹立たしい。
「 セリカちゃん? 」
 匙を握ったまま動かなくなったセリカを訝しんだギャリーがセリカの名前を呼ぶ。殊更、にっこりと微笑んで己の感情を誤魔化すと「 美味しいですぅ 」と告げてセリカは匙を進めた。完全なヤケ食いだった。

 * * *

 セリカ粥麦ウィミ・バツヤケ食い事件から四半刻後。
 調理器具と食器の片付けまでしっかりこなしたギャリーはセリカのベッドの脇に立っていた。
「 ファンさんのお陰でとても楽になりました。有難う御座いますぅ 」
 素直に礼を言うが、何故かギャリーの表情は晴れないままだった。やはり粥麦ウィミ・バツを一気に食べる女に引いてしまったのだろうか、とセリカは心配になり自分の行動を恥じつつもギャリーの顔を見上げた。
「 それは良かった 」
 そんなセリカに言葉と裏腹の表情を見せたギャリーがベッドの端に腰掛け、大人2人分の体重がかかることになったベッドがギシリと軋む。ギャリーが座ったことで彼との顔の距離が近くなったセリカはさり気なく身を引いて距離をとったが、それでも距離は普段よりもずっと近い。
「 ……キスして良い? 」
 「 今日の天気は晴れですね 」位の気軽さで言われてセリカは一瞬言葉が分からなくなった。カンテ国で使用している言語のようだけれど、もしかしたら兎頭国の言葉が空耳で聞こえて聞き違えているのかもしれない。
「 口吸いとおっしゃいましたか……? 」
「 うん 」
 聞き間違えでは無かった。
 その証拠にギャリーが何処と無く艶やかな笑みを浮かべてセリカの顎に手をかけると、細くて長い指でセリカの下唇をなぞった。
 紅もさしていない風邪でカサカサの唇であることとギャリーの行動の両者への羞恥でセリカの頬に朱が注がれる。それでも固まっていてはギャリーの思うつぼだと考えて手を優しく払い除けつつ顔を横に向けた。
「 駄目ですよぅ 」
「 何で? 」
「 だって……風邪が移ってしまいますぅ…… 」
 セリカの言葉にギャリーが喉の奥でくつくつと笑った。
「 風邪引いてなかったら良いの? 」
「 駄目です! 理由は無いけど兎に角駄目なんですぅ…… 」
 風邪による眩暈ではなくギャリーの色気に当てられてセリカは眩暈がした。こんなギャリー・ファン、セリカは知らない。
「 ねぇ、セリカちゃん 」
 甘く甘くドロリと蕩けそうな声。
 恋愛の経験の乏しい人間ならば簡単に流されてしまいそうな声で、つまりそれはセリカのような人間ならば流されてしまう声ということだ。

「 ベンジーって誰? 」

 しかし、そんな声で囁かれたのはセリカの紅潮していた体温を急激に下げる一言だった。
 セリカはマルフィ結社に来てから一度もベンジャミンの名前を口に出していない。それがセリカに愛情を一欠片も向けなくなった旦那へのささやかすぎる復讐だった。それなのに今目の前にいるギャリーは亡き夫であるベンジャミンの愛称を口に出している。
「 何故……? 」
「 セリカちゃんが譫言うわごとで呼んでたから 」
 喉がヒュッと鳴ったのをセリカは他人事のように聞いた。恐る恐るギャリーに顔を向けてみれば、綺麗な顔が一欠片の陽の感情も籠っていない口だけの笑みを貼り付けてセリカを見つめている。
 先程までの甘い空気は霧散して、重く冷たい空気が部屋を支配していた。
 しかしながら「 ケンズの悲劇 」で夫を亡くしたことは隠していないのだから、ベンジャミン・ピンカートンの存在は別に隠すべきものではない。譫言うわごとで呼んだからといって何ら可笑しい存在でもないだろう。
 それでも何故だろうか。
 ギャリーにだけは聞かれたくなかった。
 そんな思いを胸中に抱きながら言い淀むセリカを待ち切れなくなったのかギャリーが口を開いた。
「 旦那さんだよね……? 」
 そう言った瞬間のギャリーの顔が泣きそうにも見えたのはセリカの自惚れか。
「 そう、ですぅ…… 」
 喉がおかしくなる風邪ではなかったはずなのに発したセリカの声は掠れていた。
 それを聞いたギャリーは何も言わずに長い長い溜息をついた。その表情は、ついさっき「 キスして良い? 」と聞いた人間とは別人のような暗い表情に見えて、セリカの胸が何だかぎゅっと締め付けられるように痛む。
「 ……そりゃそうだいね。セリカちゃんが名前で呼ぶ人間は限られてるんだから 」
 セリカは基本的に他人を名前で呼ぶことは無い。そんなセリカが名前で、しかも「 ベンジー 」と呼び捨てにしていたならば旦那だと結論に至るのは容易だろう。
 ベンジャミンは酷い人だ。
 最後にはケートに向けていた愛情の一欠片もセリカにくれなかったくせに死んでからもセリカの夢に出て来て、そのうえ優しかった愛していた時の姿をセリカに見せるのだから。
 そして、もう呼ばないと決めていた名前をセリカに呼ばせたのだから。
「 どうぞ忘れて下さい。私も、もう呼ばない名前ですから…… 」
 今は亡きベンジャミンへの複雑な想いが心に重く重く伸し掛るのを感じながら、セリカは鬱蒼とした笑みをギャリーへと向ける。
 しかし、そんな笑みを向けられたところで明るい表情を見せる人間はおらずギャリーの胸中も晴れないままだった。それでもギャリーは努めて明るく見える表情を顔に浮かべた。
「 ねぇ、セリカちゃん 」
「 何でしょう? 」
「 キスして良い? 」
「 駄目ですぅ! 」
 全く。諦めの悪い男だ。
 そう思うけれど、それは暗く重くなりがちだった空気を吹き飛ばそうとするギャリーなりの行動なのだと悟ったセリカもなるべく元気な声で明るく拒絶する。
「 ……じゃあ、俺の事も名前で呼んで? 」
 予想もしていなかった一言に思わず金瞳を見開いてギャリーを見つめた。セリカのあまりの驚きようにギャリーも驚いたようで一瞬眉を上げると今度は眉を下げて困ったような顔で笑う。
「 俺の名前知ってる? 」
「 存じてますぅ 」
 思わず「 ギャリー・ファンさんですよね? 」と言いかけたセリカの口が「 あ 」の形で止まる。危ない、危ない。流されて、うっかりギャリーの名を口に出すところだった。
 そこまで思ってギャリーの出身国は兎頭国であったことを思い出す。そういえば本当は兎頭人はカンテ国を始めとして多くの国の人間が持つ苗字というものは持っていないのだという。「 親がつける名前 」に「 自分のつけた渾名 」を付けたもの、それが兎頭人の名前なのだ。しかし、それでは他国で活動する時に不便な為にギャリーは便宜上「 ファン 」を苗字代わりにしているのだろう。
「 本当はファンさんの『 ファン 』も苗字では無いのだから……名前で呼んでいるのと変わらないのではないのでしょうかぁ? 」
 セリカが思ったことを言ってみるとギャリーが嘆くように大仰に天を仰いだ。
「 そりゃ、だめどぉ。まぁ……しょうがらねぇか 」
 ギャリーは「 仕方ないか 」と肩を落とす。
 その様に看病までしてもらって酷い態度だなと反省したセリカは、なるべく自然に聞こえるように声のトーンを落として口を開いた。
「 何が仕方無いんですか? ギャリーさん 」



――後に快復したセリカはバーティゴとの日常と化したお茶会の中で楽しそうに語った。
「 この時の彼の顔、すっごい面白かったんですよぅ 」と。