薄明のカンテ - リングに立つ/燐花

早く好きだと言いなよ

「ん……ん?」
 寝苦しさで目を覚ましたロードの眼前に広がるのは先程まで自分の下で艶めかしい声を上げていた女性だった。寝惚けた彼女の腕が首に絡み付いた苦しさで目が覚めたらしい。
「…やれやれ」
 ロードは起こさない様に首から腕を外し、ベッドから起き上がると下着を探り当て、適当に服も発掘し部屋を出る。そして喫煙所に向かうと煙草を吸った。
 虚しい。分かっているそんな事。いくら同意の上とは言え、あまりにも身勝手極まりない行いだと言う事も。
 快楽など短くて、終わってしまえば気怠い時間が待っているのも分かってはいる。だが、人肌恋しくてしょうがない。彼女と再会して、彼女の目に再び自分が映れたあの瞬間から恋心は加速した。
 最初は怖がる様な目で見られたが、今は少しだけそれも和らぎ安心した目を向けてくれている気がする。
 欲しい。欲しい。彼女が。ヴォイドが。こんなにも。
 彼女の事を考えるだけで容易に反応する体を鎮めたくて夜の街に繰り出す。
 幼い頃からの歪んだ認知と慣れは体を許す罪悪感を簡単に消してしまう。思い出したくは無いが、子供の頃母親に強制されて男に抱かれた思い出に比べれば今の自分の行為は大変まともに見えるのだ。
 そして同じ様にこの一夜だけ互いに慰め合いたい女性と巡り会えた時、全てを忘れて快楽を求める。
 それでも、最近は忘れきれない自分にも気が付いていた。体付き、ふとした仕草、表情。目敏く見付けては彼女との共通点を無理矢理作り、まるで彼女が目の前にいるかの様な錯覚を覚える。まるで恋焦がれた彼女を抱いている様な、彼女から求められている様な。
 正直、ここに来て妄想だけでも何回彼女を抱いた事か。それ程までに好きなのだ。愛しているのだ。まだ今は、届かなくとも。
 きっと後にも先にもこんなに自分を欲情させる存在には会えないし、こんなに恋焦がれる存在にも会えないし、こんなに心揺さぶる存在にも会えないだろう。それ程までに、彼女は自分の全てだ。
 ロードはそう考えながら煙を吐き、そして嘲笑した。どうしたらもう少し踏み込んだ仲になれるだろうか。彼女が自分を特別視してくれるなんて今更かもしれないけれど、置いて行ってしまった過去も何もかも全部無かったことに出来るくらいこれからは嫌でも傍に居られる。
 自分にはもう何のしがらみも無くなったから。近付いても彼女が何かに狙われる事もないから。
 そうすると今度は彼女の周りにいる人間の顔が浮かんでは消える。皆、皆、自分と同じ様に彼女を大事に思っている。彼女もまた同じ。今は彼女の周りの人間が彼女の世界の全てだと気付いているのだろうか。もうあの治安の悪い青春を過ごした世界はテロで崩れてしまって、ここに来て築き上げた新しい世界が彼らそのものであると、彼女は気付いているのだろうか。
 悔しいけど色んな人に愛され始めた事、早く思い知れば良いのに。
 そして安心すれば良いのに。
「ん?」
 端末にメッセージが入り、ロードは現実に戻って来た。送信者は部屋に置いて来た女性であり、目が覚めた様だがロードの姿が見えなかったのでどこに行ったのかと連絡を入れた様だ。
「あー…『すぐ戻りますよ』…」
 打たなくても良いか。今戻れば。
 ロードが部屋に戻ると案の定、ベッドの上で起きた女性がいじっているであろう携帯端末の光が見えた。
「…そんな暗がりで見ていると目を悪くしますよ?」
「…お母さんみたいな事言うのね」
「そうですか?」
「うん…意外…びっくりした。ところで何しに行ってたの?」
「目が覚めてしまって眠れそうに無かったので、少し煙草を吸いに」
「ふーん…」
 ロードに腕を伸ばす女性。ロードの首に回しがっちりと抱き抱えると、彼を巻き込みながら一緒にベッドに倒れ込む。
「襲ってくれても良かったのに」
「おや?気が利きませんで」
「もしかしてもうそんな気なかった?」
「さあ…?どうでしょうね…」
 ぐっと力を込めて顔を近付ける。しかし、ロードはお互いの顔の間に手を入れ、女性の動きを妨げた。
「すみません。キスはしないんです、私」
「…何か理由あるの?してる最中もそう言えば一回もして来なかったよね?」
「感情が昂ると求めたくなってしまうんですけどね。そればっかりは愛してる人に受け入れてもらえた時にって決めてるんで」
「え?じゃあした事ないの?」
「全くと言うわけではないですが。カウントはしてませんね」
「ふーん…変な拘り。それ以上は出来る癖にキスだけ残してるなんて…」
「ある種の誠意です」
「分かる様な分からない様な…」
「片想い中なので…取っておきたくなるんですよ、その子の為に」

 ヴォイド、貴女は今眠っていますよね?
 何か美味しいものでも食べる夢を見ているんでしょうか。
 そこに私は出て来ませんか?
 貴女の中にほんの少しでも私が残っているのなら、もう一度チャンスを下さいませんか?
 今度こそ、二度と貴女を置いて行きませんから、泣かせたりしませんから。

 結局、その場の雰囲気でもう一度、二度体を重ねて少しだけ眠ると気付けば朝になっていた。朝食だけ一緒に食べて女性を玄関まで見送る。多分、もう会う事はないだろう。
 他の女性ならこんな虚しい関係でも何でも良いと思うのに、本当に彼女を前にすると変になってしまう。自分が自分じゃない様な。
 彼女とはここ何ヶ月もただ顔を合わせては会話を交わすだけ。夜に会いに行っても、ただ元気か聞くだけ。そこに淫猥な空気など、まぁ無くはないが気付かないフリをして我慢する。でも彼女の照れる顔を見てしまうと、どうにも我慢が利かない時も出てしまう。それでも毎日少しでも彼女の顔が見たいと思う。
 最早末期だ。
 ここに来てこんなにも感情に振り回されると思わなかった。彼女曰く、「何の関係もない」。現実を言葉にされるとやはり少し傷付くものだ。照れ隠しで出されたにしても何にしても。
 でもいつか、変えてみせる。彼女の中の自分と言う存在を。受け入れてくれたなら今度はちゃんと傍にいる。決して離れない。
 そう決心する事が増えたからか、最近は多少の居た堪れなさもあってこう言う日にロードはヴォイドに会わない様にしている。
 しかしこの後、いつもの様に出勤したら社内人事課は朝から忙しなく動いており、何か手伝える事は無いかと首を突っ込んだロードはタイガから「書類の確認をしに医療班に行ってください」と頼まれて青くなるのだった。

着々とon your marks

 普段の格好とまた違う格好をしている。その場に居た皆が見慣れぬTシャツに短パン姿のヴォイドが珍しく練習場に現れた。ぐぐぐ…と体を伸ばし入念にストレッチをする。どうもヴォイドの体は柔らかい様だ。足をがばっと大きく広げると前方にぺたんとゆっくり倒れる。そんな半分になったヴォイドの元へキラキラした目でとことこと歩いて来たのはウルリッカだった。
「うわぁ…」
「何…?」
「ヴォイド、すっごい柔らかい…」
「そうだね…」
 彼女が前に倒れる度に窮屈そうに形を変え、潰れる巨乳が少し恨めしい。多分、周りで同じ様に練習場を利用している人間の何人かは彼女の事が気になっても見ない様に気を付けているのだろう。しかし、ウルリッカはガン見する。何故なら恨めしいからだ。思わず獲物を狩る狩人の目でヴォイドを見つめていると、居心地が悪そうにストレッチをしていた彼女の瞳が一瞬見開かれウルリッカの背後にいる何かに釘付けになった。
「ん…?」
 ウルリッカもヴォイドの目線を追って振り返る。その先に居たのは、彼女が大好きで敬愛してやまないユウヤミ・リーシェルだった。
「やあ。ホロウ君、マルムフェ君。珍しい二人でいるねぇ」
「ユウヤミ…」
「隊長…!」
 尻尾があったら振っていたであろう目の輝きでユウヤミを見るウルリッカ。ユウヤミはウルリッカを見てにこりと微笑み、彼女の後ろで目下半分に折れているヴォイドを見た。
「…驚いたな。随分と柔らかいんだねホロウ君」
「何でか昔からね。ぐねぐね動く…」
「いやぁ、良い事だよ。羨ましいねぇ、私はそんなに柔らかくないから。そこまで柔らかいと怪我知らずだろうねぇ」
「うん」
「隊長、隊長っ」
 ウルリッカが二人の間に入る様にパタパタ動く。ユウヤミが彼女の方に顔を向けると、嬉しそうに耳元に近付きこしょこしょと何か話し始めた。
「…ん?マルムフェ君、何て?」
「隊長、この間言ってたアレ………言わなくて良いの?」
「うん…まあ、良いか今で。いつ使うか分からないけど、教えといて損は無いし」
 ユウヤミはウルリッカから何かを聞くと、いそいそと携帯端末を取り出しながら少し真面目な声色でぐねぐね動いていたヴォイドに話し掛ける。
「ホロウ君、先日マーシュ君が機械人形との交戦で怪我した件、あっただろう?」
「うん…」
「あの後ねぇ、彼は上層に掛け合ったらしいよ。前線駆除班以外の班の戦闘慣れと、生存率を上げる為に訓練をもう少し日常的にして欲しいって。多分、そこには医療班である君達ですら戦地で交戦する可能性も危惧してって言うのもあるんじゃないかなぁ?君達の様に本来戦う事を目的としない班のメンバーがもしもの時に生き残れる様にって、そう言うんだよ」
「ふーん…」
「私もそれに関して反対の意思は無くてね。そして、私は真っ先に君に教えたい技術を考えていたのだよ」
「隊長、ヴォイドに怪我して欲しくないんだって」
 ウルリッカの言葉に少しだけ頬を赤らめるヴォイド。照れ隠しか彼女は先程からしていたぐねぐねした動きを更にぐねぐねさせた。
「ホロウ君、教えたい技があるんだけど、こっちに来てくれるかな?」
「ん?」
「これはねぇ、私が教えるより動画で観た方が早いのだよねぇ」
 ヴォイドは起き上がるとユウヤミに近付く。ついでと言わんばかりにウルリッカもユウヤミに近付いた。ヴォイドとウルリッカの間に挟まれ両手に花状態のユウヤミは、この状況にあまり相応しくないプロレスの試合の動画を再生する。それを観たヴォイドもウルリッカも何とも言えない顔をした。
「これ…やるの?私が…?」
「ねぇ隊長、これ対機械人形って言うより対人間みたいな動きだね」
 もしかして、とこっそりユウヤミに耳打ちするウルリッカ。
「…隊長、ヴォイドが狐さんに仕掛ける事想定してる…?」
 狐さんとは人事部のロード・マーシュの事であり、ヴォイドに絶賛片想いしているのは一部の人間には筒抜けの話だが、もう少しあまり知られていない情報があるとすれば彼がやたら外部から女性を連れ込む癖があると言う事、そしてそれに対して本人も理由は分かっていないしロードにも嫌だと言った訳では無いがヴォイドは少し良い気がしていないと言う事であった。
「ん?さぁ、どうだろうねぇ?」
「隊長、流石に狐さん、これ食らったら死んじゃいそう」
「死なないよ。彼の強さは打たれ強さにあるからねぇ。まあ流石に人間だから、急所でも突かれない限りと言っておこう」
「…これも充分死にそうだけど」
「きっと大丈夫だよ。彼にとったら多分、ご褒美の類じゃない?行って軽いお仕置きのレベルだよ」
 適当に答えるユウヤミだが、敬愛する彼が言うのだからウルリッカにとったら真偽はともあれそれは真実になる。
 ヴォイドはユウヤミに促されるまま、目で見て覚えて行く。そして数分後、ヴォイドは少し楽しそうな目線をユウヤミとウルリッカに向けた。
「…で?ユウヤミとウル、どっちが実験台になってくれるの?」
「うわぁ、予想外の質問来ちゃったねぇ」
 じゃあ言い出しっぺだからとユウヤミが立候補する。ヴォイドの手際は少し優しかった。けど確かに渾身の力で食らったら死にそうだなぁとユウヤミは薄ら思っていた。
「だ、第六小隊の小隊長が医療班の荒い人にチョークスリーパー食らってるぞ…」
「しかも…笑っている…!!」
 練習場はちょっとだけざわざわした。

ちょっとだけ平和

 朝、人事部はいつも以上に荒れていた。若干の寝不足で入って行ったロードだがもう朝からタイガはバタバタ動いているし心なしかサリアヌにも精神的なものか疲労が見える。エーデル、ヴィーラ、シーリアの仲良し三人組も今日はいつものキャピキャピした空気は消え、三人で抜群のフォーメーションを組みながら仕事をしている。
 一体何があったんだとロードは自分の席に着き同僚に話を聞いた。
「…社内人事課のこれはどうしたんです?」
「向こう二ヶ月まで作っておいた出勤表のデータを筆頭に諸々消えちまったんだと。中でも一際神経使う医療ドレイル班のメンバー編成や勤務予定日の控えのデータが消えたとかでさ」
「えぇ…」
「それだけならまだしも新規勧誘課ウチで扱ってた面接予定の人らの連絡先もいくつか消えた」
「げ、原因は…?」
「不明だと。朝来たらおかしな事になってたって。汚染駆除ズギサ・ルノース班にもデータ復旧に協力して欲しいって頭下げに行ったらしいが、あっちも忙しいしもう総務部も引っ張って来て就業前から大慌てだよ」
 同僚はそう言いながらコクシネルに電話を掛け、外部にいるジェレミーに進捗状況の確認をし始める。新規勧誘課がやっているのは通常業務だが、社内人事課が今当たっているのはイレギュラーな業務と言う事か。
 ロードはささっと自分の仕事に当たる。それがひと段落付いたお昼頃、休憩に行こうとしたがふと周りを見れば相変わらず社内人事課はバタバタと忙しなく動いている。
「やれやれ…」
 ロードはティーセット、紅茶葉を棚から取り出すと、作れるだけ紅茶を作りトレーに乗せた。そして、唸り声すら上げているタイガの元へ向かった。
「タイガさん、大丈夫ですか?」
「ロードさん…」
「あまり根を詰めるとここぞと言う時に元気が無くなってしまいますよ。人の集中力なんて一時間と保ちませんし、とりあえず隙間時間でも良いですから休める時に一息つきましょう」
「…ありがとうございます!」
 タイガに紅茶を配ると次にサリアヌの元へ、そしてそんな彼を見ている女性三人にもくるりと向いた。
「…カルンティさん、シリッシュさん、レイレントさん…は、紅茶で大丈夫ですか?好みが分からずとりあえず淹れて来たものですが…」
「飲みます!!」
「私紅茶大好きなんです!」
「どちらかと言うと珈琲派でしたけど今日から紅茶派になるくらい好きになりました!!」
 とりあえず三人もまだ余力がありそうだ。ついでにと、ロードはタイガに仕事は無いか聞いてみる。タイガは最早泣きそうな目でロードを見た。
「つ、通常業務に全然手が出せなくてどうしようかと思ってたんです〜!!」
「まあ、困った時はお互い様ですから。私はひと段落付きましたし、何かあったら言ってください、午後から行きます」
「…じゃあ、医療班でやる予定だった書類整理に行ってもらって良いですか?」
「……え…」
「ロードさん?」
 そう言ってしまった手前、諸々の理由で今日は医療班は行き難いですとは言えなくなったロード。彼は朝まで寝ていた女性の香水の香りがまだほんの少し残っている事を確認すると、ヴォイドに気付かれるだろうかとちょっとだけ顔を青くした。
 昼食後、医療班に顔を出したものの奇跡的にヴォイドは居なかった。いつもなら理由はどうあれ隙あらばヴォイドの姿を探すロードがそれをしない。ミアは不思議に思いつつロードと一緒に書類整理をした。
「ロードさん」
「は、はい?」
「今日、ヴォイドさん珍しく午後はお休みなんです」
「そうですか…」
「何かあったんですか?」
 あまりにも大人びた落ち着いた言い方をされて少しどきりとする。振り返ると書類を持ったミアが微笑んでおり、ロードはキョトンとした顔を向けてしまった。何だかずいぶん大人っぽい顔をする様になったものだ。
 ネビロスと交際を始めてからより一層…さてはもう一線を越えたのでは無かろうか、彼は手が早そうだし。だとしたらそれはそれで嫌だなぁ。
 色々考えたロードはミアの瞳を覗き込むと少し考えて口を開いた。
「あの…」
「はい?」
「女性は…それなりに親密な関係の男が他の女性と居るところを見るのは、やはり嫌なものですかねぇ…?」
「え?」
 ちらりとミアの方を見ると、ミアは口をぐあっと開けた様な表情のまま固まっていた。
「…すみません、失言でした」
「…それはつまりどう言う事でしょう?」
「あ、分かってなかったんですね」
 ロードは改めてもう少し具体的な質問をする。恋人と言う立場に無く、でも友人とも言えないそんな立場の男が他の女性と親しげに居るところを見るのは嫌なものなのか?と。
 ミアは少し考えて、眉をへにゃりと下げてしまったのでロードはちょっとだけ慌てた。
「私…嫉妬深いのかな…?ネビロスさんが誰かと楽しそうにしてたらきっと悲しくなります…」
「うーん…そりゃあ、ミアさんはファウストさんに結社に来てからずっと片想いしてましたしねぇ…ならば逆だとどうでしょう?もし仮にミアさんをずっと好きだと言っていた男が、他の女性と親しげにしていたら。ちなみにまだミアさんはその彼に振り向くかどうかは分からないと仮定して」
「うーん…そうなると…」
 考えて、またミアは眉をへにゃりと下げてしまう。こんな顔をさせているところがネビロスにバレたらまたあの顔魔王の御尊顔を拝む事になるなぁとミアが眉のへにゃり具合を見せる度にロードは近くにネビロスが居ないかさり気なく確認した。
「私わがままな事言っちゃうかもしれません」
「おや、何ですか?」
「自分には応えられるか分からないって前提ですよね?なのに…自分以外の人といるところ見たらその瞬間…寂しいって思っちゃうかもしれません…」
 寂しい。そんな風に思ってくれるのかな?彼女も。
 ロードは頭の中で真っ赤になったヴォイドの顔を思い浮かべる。何だかんだ暴走しがちな自分が見る彼女の顔はいつも赤く染まっていて、それはつまり自分の発言を受け止めて照れてくれていると言うわけで。
 ほんの少しでも意識をしてくれていると言うのならこんなに嬉しい事はない。あくまでミアの意見だが、もしもヴォイドも同じ理由だったらと思うと、ロードは少し救われた。
「ミアさん」
「はい?」
「…恋される側の女性ってわがままなんですかねぇ?」
「え!?いや…私がわがままなだけかもしれないです…」
「あ、いや…すみません、ネガティブな意味じゃ無くて。それが理由だとしたら、それはそれで凄く可愛いなぁ、と。最早惚れた弱みなのか…でも本気でそう思ってしまうんですよ」
 ロードが優しく微笑んでそう言うものだから、ミアはそこまで彼の言いたい事は理解出来なかったものの、釣られて同じ様ににっこり微笑んだ。

そぉいっ!!

 それは一瞬の出来事だった。
 ロードの体が宙を舞ったのである。
 舞わせた本人であるヴォイドは真っ赤な顔でラリアットを決めていた。
 一瞬白目を剥いて舞い上がったロードに休むいとまは無く、床に沈んだ彼の体をうつ伏せにして捻るとヴォイドは即座に彼に跨り足を掴んで海老反らせ、所謂ウォールオブジェリコを食らわせた。それは先程ユウヤミから習った技だった。
「痛たたたたたた!ギブ!これは流石にギブですよ!ヴォイド!こんな技いつ何処で習ったんです!?」
「さっき!!ユウヤミから!!」
「さっき!?ええ!?リーシェルさん!?痛たたたたたた!ちょ、ギブです!ギブ!!」
 パッと手を離したので足は解放されるものの再び床に沈んだロードに追撃と言わんばかりにヴォイドの手が伸びた。
 ふにっと柔らかい感触がロードの後頭部に伝わり、ロードは一瞬何か気付いたのかまるで気合を入れた様な険しい顔を見せる。
「(ん…?この重量感、もしやまた大きくなりましたかね?)」
 しかし、それを口に出すことも無く、ヴォイドが余計な事を察する前に今度は足では無く上半身を海老反らせる事になる。次にヴォイドが繰り出したのはキャメルクラッチだ。
「痛たたたた!さっきから地味に効く技ばかり!!」
「これもユウヤミから!!」
「またですか!?リーシェルさん…!!余計な事ばかりヴォイドに吹き込んで…!!」
「機械人形対策だって言ってた!」
「くっ…!言い返せないとこ突いてきて…痛たたたた!!」
 普段武装しない医療班メンバーの機械人形対策。そう言われれば止めるわけにもいかずロードはひたすらギブアップを唱える他ない。
 やっと解放された時、ロードは虫の息だった。
 そしてヴォイドも荒々しく息を上げていた。
「ヴォイド…貴女は全く…!流石にこれは私も言いたい事があります…!」
 ガバッと起き上がりヴォイドの肩を掴むロード。ヴォイドはキッと強めの目力でロードを見上げた。

 ここまで至ったのには理由があり、話は少し前に遡る。

 * * *

 医療班でミアと共に仕事を終えたロードは油断していた。まさかヴォイドが今日練習場に来ているなどとは露知らず、ミアと別れ喫煙所に行こうとしたらばったり会ってしまったのだった。
 Tシャツに短パンと言う珍しい格好のヴォイド。ロードは頭の中で必死に状況を秤にかけた。
 遊んで寝た女を帰したその日の自分。
 珍しい格好でいるヴォイド。
 関係ないとは言われているが、居た堪れなさを感じている自分。
 珍しい格好でいるヴォイド。
 結局どんな理由があっても見掛けたら声を掛けずに居られなくなってる最近の自分。
 珍しい格好でいるヴォイド。
「いや…声を掛けない方が無理です」
 ロードはヴォイドの元へゆっくり歩みを進める。ヴォイドも途中で気付き、ロードを視界に捉えた。
「あ…」
「こんにちは、ヴォイド。珍しい格好してますねぇ」
「うん…無いって言ったら、ロザリーがくれた。昔エアロビ?か何か趣味でやってた時のだって」
「へぇ…」
 しかし、居た堪れなさがチラついてこれ以上歩みを進められずにいる。本音を言えば近くでもっと拝みたい。彼女の珍しくもスポーティーで健康的な格好をもっとガッツリ近くで拝みたいのだが、多分これ以上近寄ったらにおいに気付かれる気がする。
「良かったじゃないですか。スポーティーな格好もお似合いですよ」
「…ありがと?」
「何故疑問系…?」
「だって…何か褒め方がわざとらしい…」
 どうしてこう言う時に限って彼女は動揺を嗅ぎ当ててしまうんでしょう?私の言葉の癖と言うか話し方の雰囲気を見抜いているんでしょうか?うふふふふ照れますね、いや、照れる通り越してもうこの場でどうにかしてしまいたいんですが。そしてどうしてこう言うこちらがどうにも出来ない時に限って彼女はこう、煽る様な事を言うんですかねぇ?ここが自室だったら今すぐベッドに連れ込んでますが、何なら廊下でだって良いですが。
 不埒な独白を頭の中で駆け巡らせロードは瞬時に自分を落ち着かせる。しかし、その僅かな隙で彼女は近付いてきており、怪しむ様に鼻をひくひく動かしていた。
「……ねぇ」
「はい?」
 あれ?近い。
 そう思った時、ロードは既に手遅れだと察した。そしてヴォイドの顔が先程までと違い何だか疑念を抱いた黒い影を落としている事にも気付いてしまった。
「…香水、変えてないよね?」
「か、変えた様な変えてない様な…」
「……だってこれ女物だよね?」
「…男が女性物を使ってて悪い事も無いでしょう?」
「この香り方、直接吹き掛けた感じのにおいじゃないし…」
「……わぁー…」
「付けてた誰かの近くに居る時に移った感じの香り」
「………」
 大正解過ぎてぐうの音も出ません。
 しかし、ヴォイドを苛立たせる理由の最たるものがその後の言い訳だといまいち勘が働かないロードは極めて冷静に、しかし必死に彼女に対して弁明を始めた。
 ヴォイドの顔はあからさまに不機嫌のそれに変わっていく。ロードは更に焦って更に弁明する。当然ヴォイドは更に機嫌を悪くする。
「あのさ」
「…はい?」
「私、お前からその言い訳聞くと何かムシャクシャするの…」
「そ、それはつまり…?」
「分かんないけど。イライラムシャクシャする」
 そしてロードが嬉しさを隠しきれず発するこの言葉がいつも起爆剤になるのだ。
「もしかして…嫉妬してくれてます…?」
 こうしてラリアットは発動され、ロードは宙を舞ったのだが。
 そもそもどうしてユウヤミがヴォイドにプロレス技を覚えさせようとしたのか。話は更に少し前に遡る。

 * * *

 ユウヤミはふと思った。ロードの事を「玩具と武器に向きそうな人間だなぁ」と常日頃それとなく思っては居たが、果たして彼はどのくらい耐久性のある玩具だろう?
 それは悪戯を思い付くのに十分な動機であり疑問であった。そして同時に考えたのはヴォイドの事。ヴォイドは彼に対して怖がったかと思えば照れたり、或いは少しだけ喜んだり複雑な顔をしたり、とにかく何とも言えない顔をよく見せる。
 しかしそんな彼女の一番心配になる顔をユウヤミは知っていた。それは、ロードが部屋に女性を連れ込んで居た事を知った時の顔である。
 彼女はそれを見ると、怒るに怒れない様な照れるに照れきれない様な、泣くに泣けない様な見た事もない顔をする。ただ、一つ言える事があるとすれば、有り余る感情の行き場が分からず不完全燃焼を起こしている気がするのだ。
 別にロードは誰かと付き合いも無ければ結婚もしていない。連れ込む相手もまた然り。だらしがない、と言うだけで彼を咎める理由としては弱い。しかし、ヴォイドはヴォイドで何とも言えない顔で感情を抑え込ませるのは見ていて何だか辛いしそんな状況は避けたい。せっかく最近表に出せる様になって来たのだからここでも出したって良いのではないか。
 そうして考え付いたのが「ヴォイドにプロレス技を教える」であった。
 これならヴォイドのやり切れない気持ちの解消にも一役買ってくれるし、ついでにロードの打たれ強さの確認も出来る。
「隊長、何見てるの?」
「マルムフェ君、少し前にマーシュ君が上に打診する予定だと言っていた内容覚えているかい?」
「えっと…直接闘う任務に就いてない隊の人を鍛える…?」
「そう、そうだねぇ。私は医療班のホロウ君に同僚のよしみで機械人形から身を守る術を教えられたらなって思うのだけれど。こんなのどうかな?」
 くりっと純粋な目を向けるウルリッカに動画を見せるユウヤミ。
「…これと、これとこれが良いと思う」
 ラリアット、ウォールオブジェリコ、キャメルクラッチはウルリッカのチョイスだった。

 * * *

「ヴォイド…貴女は全く…!流石にこれは私も言いたい事があります…!」
 起き上がってヴォイドの肩を掴み、彼女の顔を覗き込むロード。ヴォイドはむっと頬を膨らますとじっとりする目を更にじっとりさせてロードを見る。ロードは少しその目を覗き込んで、躊躇って躊躇って躊躇った末にゆっくり口を開いた。

「と、特殊な訓練を積んだ私にとってはご褒美ですがそれは一般の人に繰り出しちゃいけませんよ…」
「何言ってんの?」
 ハッとするロードを汚らしいものを見る目でヴォイドは見つめる。しまった、この目で見られると怒るに怒れず、妙な事を口走ってしまう。
「いや、いやいやそうでなく!私だって痛いものは痛いんですよ!それはいただけません!」
「ローブローじゃないだけマシだと思え!」
「何故ローブローに拘るんですか貴女は!?どっち選んでも地獄と死じゃないですか!!」
 ヴォイドの発散法はこの日を境に無事プロレス技となった。ただし、彼女もただただ痛みを与えたいわけではない。なのでこの日を境に力加減を覚えようと練習場に顔を出す頻度が高まった。
 そんなヴォイドの様子が嬉しい様な少し複雑な様な。ロードはこの日以来少しだけ遊びを自重する様になったし、遊んだ時はどんな事があってもヴォイドにバレない様にしようと誓った。

 何故なら、次この場に居合わせたら食らうのはスープレックスな気がしてならないのだ。