薄明のカンテ - ビター・バレンタイン/燐花
「ネビロスお兄ちゃん!こーんにーちわっ!!」
 バレンタインデー当日。暇だから散歩にでも行こうかと部屋を出て外出の準備を始めているとタイミングよくインターホンが鳴った。今日は父も母も仕事で留守だ。自分しか応対出来る人間は居ないからと渋々玄関の戸を開けたネビロスの目線の下の辺りにいたのは可愛らしい箱を持ったミアだった。
「ミア…?こんにちは…」
「これ、あげます!」
 ぐっと差し出されたピンクのハート型の箱。ネビロスが何の事やらキョトンとしていると、ミアの後ろからララが現れた。
「ほらミア、ちゃんと何の用で来たのか説明しないと、ネビロスお兄ちゃん分かりませんよ?」
「ララ…居たんですか?」
「ミア一人で行かせるわけ無いでしょう?」
 ごもっともである。いつも学校帰りに会うからこそミア一人かクラスの子と居るだけだが、今日は自宅からネビロスの家へやって来たのだ。まだ小学生の幼いミア一人でネビロスの家に行かせるなどきっとあり得ないしそんな時に保護者たるララが一緒に居ないわけがない。
「それで…?今日は一体、何の用で…?」
 ネビロスがララとミアの間で目線をキョロキョロ泳がせていると、ララとミアは顔を見てにっこり笑い合った。
「ネビロスお兄さんに…バレンタインのチョコ…」
 少し恥ずかしそうにミアが箱を差し出す。ネビロスは一層キョトンとした顔を向けると、察したララがクスリと笑った。
「忘れてたんですか?今日はバレンタインデーですよ」
 バレンタイン。女の子が好きな男の子にチョコをプレゼントすると言うのが一般的な目的のイベント。最近は友達同士でチョコのプレゼントをしたり、男の子から女の子にプレゼントする事もままあるのだが、ミアのそれは疑いようも無くスタンダードなバレンタインだった。
「……お兄ちゃんに?」
「うん……どうぞ」
 不思議と、今日が何の日か認識してしまえばこんな小さな女の子がくれたものだとしても照れが出てしまう。彼女の身内であるララが見ていると思うとつい恥ずかしくなってしまい、ネビロスはその長い髪をいじいじと指で弄り何とか照れから目を逸らそうとした。
「あ、ありがとうございます…」
「お兄ちゃん、あのね…」
 ミアは一瞬口を開きかけてこの場に姉であるララが居る事を思い出した。そしてチラリと彼女を見る。ララは察してはいたが、いくら歳の離れた優しいお兄ちゃんだとして男と二人きりになどする気は毛頭なかった。梃子でも動かんと言うオーラを放ち、私の事は気にしないでとミアの次の言葉を促そうとする。
 しかし、ミアだって幼いとは言え少しずつ自我もしっかりして来たお年頃。恥ずかしいものは恥ずかしいし、聞きれたくないものだってあるし、逆に聞いて欲しい人だっている。大事な家族と大好きなお兄ちゃんを「これはこれ、それはそれ」で分けるだけの自我はあったし、家族に対するものとは違う類の「大好き」を彼に抱いている自覚があった。
 そしてララはそれに気付いていたが、気付かぬふりをしてこの場から動かなかった。そんな可愛い妹の成長を嬉しく思う一方で何となく、ちょっとだけ悔しいのもあって。
「……お姉ちゃん」
「はい?」
「もぉー……」
 自立したい妹とまだまだ妹が可愛過ぎる姉。そんな姉妹の静かな攻防を珍しく見抜けない程動揺していたネビロスは一人静かに考えを巡らせていた。何故今年はこんなにイベント事に疎かったのか。そう思って一つの結論に辿り着く。こうなったのは多分、勘違いで無ければルミエルが居なくなったからだ。
 イベント事があればその勢いで。そう思いつつ想いを伝えられず、結局海外に行く彼女を見送っても一歩が踏み出せなかったネビロス。彼女に伝えたい思いはたくさんあるけれど、一つはっきりした事があるとすればそれは、「君と一緒に過ごすイベントは本当に楽しかったよ」と言う事。
 ハロウィンだから、君にお菓子をあげに行こう。
 バレンタインだから、君にチョコを贈ろう。
 理由付けしないと動けない自分は随分イベントに助けられて来たのだなと思う。そして、想いは伝えられなかったけれど、イベントに乗れていた自分も楽しかった。ルミエルが居なくなってイベントに精を出す意味が無くなって、だからこんなに皆で楽しむ事が日々の生活に彩りを添えるのだと言う事を最近のネビロスはすっかり忘れていた。
 ミアに差し出された可愛らしい箱。それがネビロスに彩りを思い出させてくれたのだった。
「ファウスト君?」
 ララに名前を呼ばれハッとする。目の前には心配そうに自分を見つめるララと、心配に更に不安を乗せて此方を見つめるミア。
 そうだ、ミアは今自分がチョコを受け取るのを待っている。
 ネビロスは慌ててミアと目線を合わせられるまで屈むと、微笑みながら手を伸ばし箱を受け取った。
「ミア、ありがとうございます」
「お兄ちゃん…」
「今日がバレンタインだってすっかり忘れてました…ごめんなさい…お返しはホワイトデーで良いですか?」
 バレンタインに貰った子がお返しをする日であるホワイトデー。イベントとしてはバレンタインより薄い印象だが、ミアにとっては大好きな人から贈り物を約束された日とも言える。
 嬉しい、けど恥ずかしい。感情を言葉に出来なくなったミアは、恥ずかしさの赴くままにネビロスの首に抱き付くとそのまま肩に顔を埋めた。後にこの大胆な行動の方がよっぽど恥ずかしかったと彼女は振り返った時そう思う。
「すみません…ララにも何の用意もしていなくて…」
「ふふ、良いんですよ。私はミアの付き添いですし」
「でも、流石に何も返さないと言うのも…あ、これから少し喫茶店でも行きませんか?」
「喫茶店?」
「今日、ウチ親居ないんです。まだ昼ご飯も食べてなくて…今日ミアに会ったら、こんな日くらい一人でなく誰かと一緒に食事を摂りたかったなと急に思ってしまいました」
「あら…バレンタインって不思議なものですね」
「どうですか?行きません?」
「…私は課題が残っているし、ミアだけ連れて行ってあげてくれません?」
 その言葉に今度驚いたのはミアだった。さっきは梃子でもその場から動かんと言うオーラを放っていたララが、ミアとネビロスを二人きりにしてくれると言うのだ。ミアが期待にパッと顔を上げると、ララはにこりと微笑み「ただし、お昼食べ終わったら寄り道せずまっすぐ帰るんですよ、絶対に!」と念を押して来たのでミアはまたションボリした。
「よし。じゃあミア行きましょうか?」
 首に抱き付いたままのミアを腕に抱くと、ネビロスは立ち上がる。ミアは自分が抱っこされている事に気付くと、あわあわと慌てながらそれでもがっしりネビロスの首に回す手に力を込めた。
「お昼食べたらミアを家に送りますね」
「ええ。何かあったら連絡くださいね。あ、今日はお母さんがハンバーグを作ってくれるそうなのでなるべくそれ以外を食べさせてあげてください」
「わかりました」
 抱っこしたまま道を歩くネビロス。しかし、ミアはネビロスの肩をトントン叩くと「降りる…」と小さな声で呟いた。ネビロスが降ろすとミアはトコトコ歩き出し、そしてネビロスにスッと手を差し出す。
「手…繋ぎたいなぁ…」
 ちらちらっと見ながらそう呟くと、ネビロスはくすりと微笑みミアに手を返した。
「ふふ。ミア、何照れてるんですか?」
「だって…だって…」
「照れる事無いですよ?お兄ちゃんなんですから」
 自分だって先程ミアからチョコを貰って照れていたくせに。そんな自分を棚に上げて少し余裕の出て来たネビロスは照れるミアを見て満足げに笑うと彼女の手を引き、二人仲良く喫茶店に向かった。
「ミア、お店に着いたら何食べたいですか?」
「んっとねー、ハンバーグ!」
「今日お母さんがハンバーグ作ってくれるってさっきお姉ちゃんが言ってましたよ?」
「本当!?じゃあねー、ハンバーグカレー!」
「よっぽどハンバーグの口なんですね、今」
 結局ミアはこの日昼にネビロスとハンバーグカレーを食べ、夜にはお母さんの作ったハンバーグを食べ、ハンバーグ塗れの幸せな一日を過ごした。二人きりになったらネビロスに伝えたかった想いも、子供なのでハンバーグの喜びに負けて言い忘れてしまった。そして夜にはネビロスからの「お返しはホワイトデーで良いですか?」の一言に照れたり喜んだりしながらララと一緒にベッドに入って幸せに眠った。

 * * *

『ルミエル。今日はバレンタインだったね』
 寝る前にネビロスはメッセージを打つ。それはすぐに既読になり、返事はすぐに返って来た。
『あ、本当だ。忙しかったから気付かなかった』
『そっち行って初めてのバレンタインだよね。誰かにあげた?』
『ううん、あげてない。そもそもバレンタインな事忘れてたし』
 ネビロスはそれを見て少し躊躇った後、端末を弄り文字を打って行く。
「えっと……『ルミエルは、もしもこっちに居たら』……」
 今日、俺にチョコくれた?
 そう打とうとして、書き掛けの文を全て削除した。代わりに、近所に住んでるミアがチョコを作ってわざわざ届けてくれた事を書こうとしてまた途中でやめる。ミアの想いをルミエルへの当て付けに使ってはいけないと思った。
「……『そっか。バレンタインって忘れがちだよね』」
 こんな目立つイベント絶対に忘れなさそうなのに。自分も何だか忘れてしまっていたし、ルミエルも忘れていたなんて。ネビロスは言葉に詰まって無理やり返事をした様な自分に笑いたくなった。ルミエルにもそれは伝わっていたらしく、『もしも眠かったら寝て良いよ?そっち夜でしょ?』と返事が返ってくる。
 ネビロスは続きづらいメッセージを見て少しだけ眉間に皺を寄せると『ありがとう、途中で寝ちゃうかも』と一応寝落ちした時の為に事前に断りのメッセージを送っておいた。
 そしてそのまま端末をマナーモードにしてしまうと、ガサガサと箱を取り出す。ミアから貰った箱を開けると、そこには少し歪なハートのチョコと可愛いレターセットが入っていた。
『ネビロスお兄ちゃんだいすき』
 辿々しい字で書かれたそれを見てネビロスはくすりと笑う。
 ただの幼馴染でしかなく、距離が離れた事でただモヤモヤしていたネビロスとルミエル。おそらく、この想いは彼女に伝えないまま思い出に変わるのかと何となく思っていた。実際、バレンタインだと言うのにルミエルは自分がメッセージを送るまで何も言って来なかった。
 そうやって消えかけた想いもある中、幼いミアが勇気を出して自分にくれたチョコレート。ほろ苦い思い出に変わりそうな今日という日にこのチョコレートは優しく甘かった。ネビロスはそれを勿体無いと言わんばかりにちびちび齧りながら一月先のホワイトデーの事を思案する。ミアはこのくらいの甘さが好きなのかもしれないから、ホワイトデーには少し甘めのチョコレートを用意しようか。そう考えながら歯を磨くと、ネビロスも眠りに就いた。
 近くに居たからイベントも楽しかったし、覚えていられた。遠い存在になった瞬間どうでも良くなってしまった。彼女も、自分も、遠くなった瞬間イベントを忘れてしまうくらいには互いの存在がもうどうでも良いのかも。彼女が発つ前に想いを伝えようと思って、けれど言えなくて後悔した日々もあったけれど結局遠距離恋愛みたいなのは自分達には合わなかったのかもしれない。そう思ってもやもやした気持ちを誤魔化す。
『ネビロスお兄ちゃんだいすき』
 そんな時にミアからの手紙を思い出し、少しだけ温かい気持ちになった。
 翌日端末を開いても既読のままルミエルから返事は無く、甘いチョコを貰った記憶と苦い想いが混在したバレンタインに複雑な感情を抱いたネビロスだった。
 どんなに学校の勉強が出来ても、この問題の解は出せそうにない。