薄明のカンテ - ナシェリ家の記憶

ナシェリ家の御家芸

ナシェリ家の御家芸は舞踊。
「カンテ・ターロゥ(カンテ踊り)」と呼ばれ総本家であるナシェリ家は「ナシェリ流」の踊りを伝統としている。
現在あるカンテ・ターロゥは全てナシェリ流から分派したものである。

カンテ・ターロゥは楽師一人か二人が一人の舞手の動きを見て伴奏を弾いていく。
「踊りは古来の手話」と言われており、踊りの一つ一つの動きに意味がある。
ゆったりした淡い色のワンピース(日本人が見たらアッパッパって言う)を男女問わず着用して踊る。首元に薄絹の長いスカーフを巻き、髪は邪魔にならないように長い人はしっかり固定し、短い人も縛れるなら縛る。化粧もナチュラルメイクまでとされ、出来るだけ清楚で自然な姿で踊る。特に持ち物はなく、指先一つまで表現の一部にする。
男性でも女性でも服装さえきちんとしていれば誰が踊ってもいい。
起源はカヌルの山神を鎮める海神の踊りを模したとか海神に祈願を捧げるものだったとか言われているが、正確なところは内乱のせいでわからなくなった。
(ジャンルは民族舞踊なのでこれと言えるものはないです。中国の古典舞がビジュアル的に似てる?フラダンスのイメージもある)

演目は複数あり、ナシェリ家の人は全ての演目を完璧に踊れるようになるまで一人前扱いされない。動きはもちろんの事、拍子も何もかも寸分違わない完璧なコピーである。歌詞のある演目も存在する。
たまにそれに嫌気がさして他の表現方法を考えた人がいるので流派が他にもある。
もっと舞手に想像の自由を求めて振りを大雑把にした流派や現代の解釈を合わせた新しいカンテ・ターロゥを編み出した流派もある。

ナシェリ家の歴史

18C前半。渡来人が増え、カンテ古来の文化が薄くなり始めた。
元は自然神への祈りだったと言われるカンテ・ターロゥを保存する為に生まれたのがナシェリ家だった。初代のフェルネ・ナシェリは当時一番の踊り手で、臣の階級を与えられてから国内を旅行し、土地ごとに頼まれた祈りを捧げる巡業をしていた。
貴族に昇格するきっかけは、内戦地へ赴き平和を願う踊りと歌を演じさせて欲しいと国王に願い出た事だった。反乱軍の立て籠もった城があった場所はカンテ国内でも有数の技術者の多い地域で、おいそれと攻めるわけにいかない場所だったので、交渉でどうにか開城させようと必死で国王軍は考えていた。
そこへ投じられたのがフェルネ・ナシェリの提案だった。最初は渋られたが、何とか説き伏せ、自分が怪しい行動をしたら子供を殺していいと人質を出してフェルネは戦地へ向かった。平和と平穏を願う踊りと歌は反乱軍の胸を打ち、集められていた兵士達が次々と投降し、最終的に反乱軍首謀者まで投降した。
「ランツの無血開城」と呼ばれ、ナシェリ家はその功績によって貴族へ昇格した。
ただ、その時の踊りと歌はフェルネの即興だったのもあり、現在には伝わっていない。