気の早いホルタソゥレイが大地に可憐な白い花を咲かせる頃、
医療班をスーツの男が訪ねてきていた。
「失礼します」
軽いノックの後に涼やかな声と共に顔を覗かせた男の顔を見たミアの顔がパッと輝く。なお、その瞬間にミアと一緒に前線用の医療道具の整頓をしていたネビロスの冷え冷えとした目が彼を射ったのは言うまでもない事だが、その視線を受けたところで痛いところも痒いところもないスーツの男は其れを平然と受けながら近寄ってきたミアに微笑みかける。
「こんにちは、ミアさん」
「こんにちは、ロードさん。どうされたんですか?」
スーツの男は人事部のロード・マーシュだった。
医療班を訪れるということは怪我でもしてしまったのかとミアは上から下までロードを眺めるが、特に外傷は見当たらなかった。となれば何か病気だろうか。それとも時期的に考えて
花粉症なのだろうか。
そんなミアの心配の目線を受けたロードの目は何かを探すように医療班の部屋を見回していた。残念ながら彼の探す物か人はいなかったようで、些かガッカリした様子でロードは口を開く。
「ヴォイドは……いますか?」
「ヴォイドさんですか?」
どうやら彼はミアの心配する怪我でも病気でも花粉症でもなく、ヴォイド・ホロウに会いに来ただけのようだ。ヴォイドは奥で作業していた筈と記憶を手繰ったミアは「呼んできますね!」と足早に医療班の奥へと進んで行った。
彼女のビスケットのような美味しそうな茶色い髪が見えなくなるとロードは浮かべていた営業スマイルを消して、代わりに揶揄いの色を多分に含んだ笑みを浮かべる。そしてその顔を向けた先にいるのは、先程から厳しい目でロードを見つめているネビロスだ。
「……独占欲の強い束縛系彼氏は嫌われますよ? ああ、それとも肉体的な束縛……『SHIBARI』や『KINBAKU』がお好みで?」
ロードに東國の
緊縛文化を持ち出されたネビロスの眉間に皺が寄った。ネビロスが卑猥な話を聞くのを好まないのを分かっていてロードはわざとこのような口をきく。
「相変わらず下品な物言いで」
「うふふふ。これが私の処世術ですから」
変わらずに微笑むロードに何を言っても無駄とネビロスは早々に彼との舌戦を諦めた。元来、口数の少ないネビロスが華麗な会話術を巧みに操るロードに勝てるはずもないのだ。
「ロードさん!」
少ししてヴォイドの手首をしっかり握ったミアがニコニコとした笑顔を浮かべてロードとネビロスの元に戻ってきた。ミアに手首を握られているヴォイドはミアとは正反対の心底嫌そうな顔をしていて足取りも重く、彼女自身はここに来たくなかったということが全身からオーラとして発されている。
しかし意外にもミアを可愛がっているヴォイドは、ミアの手を振りほどく事もミアのお願いを拒絶することもできなかったのだろう。だからこそ、ミアに引き摺られるようにしてロードの前に姿を現す羽目になった。
「ミアさんにお願いして正解でした。ありがとうございます」
「いいえっ、私は呼んできただけなので!」
そうは言いつつもミアは「ロードからのお願い」任務を達成出来て満足そうな顔を見せていた。あまりにも子どもが「褒めて、褒めて」というような雰囲気を見せるのと同じような顔をしているものだからロードは思わずミアの頭を撫でそうになり――ネビロスの視線で我に返って止めておいた。
そして軽く咳払いをして何食わぬ顔でロードはヴォイドへと視線を向ける。
「ヴォイド、少し外へ良いですか?」
ロードのお誘いに対してヴォイドの答えは「
否」だ。
しかしミアが見ている手前、彼女にここまで連れられてきてしまった為にヴォイドに拒否権はない。故に、ヴォイドは頷くとロードに続いて渋々ながらも医療班の部屋を出るしかないのであった。
* * *
医療班近くの休憩所にロードとヴォイドはいた。
先程まで
調達班のリーシェールが自動販売機の補充をしていたが、それが終わり彼が次の自動販売機へと向かったため部屋にはロードとヴォイドしかいない。
「まずは……此処までご足労願いましてありがとうございます」
そう言ってロードが手にしていた仕事用らしき鞄から取り出してきたのはペットボトルだった。飲み物ならばここでも買えるのにと思いつつヴォイドがペットボトルのラベルを見て少しだけ驚きを露わにする。それは兎頭国由来の色んな茶葉を混ぜたブレンド茶で、
汚染駆除班近くの休憩所の自動販売機にしか置いていないものであり、ヴォイドのお気に入りの一品だ。
「どうして……?」
「貴女の好みを私が把握していないとでも? 一応、言っておきますがヴォイドがコレを好きなんだと世間話で教えてくれたのはミアさんであって、貴女に盗聴器の類を付けている訳ではありませんからね」
ロードに生活の全ての監視されているのではないかと物騒な事を考えかけていたヴォイドの思考を読んだかのようなロードの言葉にヴォイドは薄ら寒いものを感じる。しかし、お茶に罪は無いので、それはそれとありがたく貰っておくことにした。
ヴォイドがペットボトルを受け取っても、ロードはなかなか次の口を開かない。まさか彼は自分にこのペットボトルを渡すために来たのか。ヴォイドがそう考えた時だった。
「ヴォイド」
ロードが思いのほか真剣な顔でヴォイドの名前を呼んだ。
「な、何?」
「ヴォイド、私は長期で仕事に赴かなくてはなりません。正直見通しが立たなくていつ帰れるか……」
ロードの言葉にヴォイドの心臓がドクンと大きく脈打つ。其れは“
岸壁街のあの部屋”でロードと交わした最後の会話に似ていたからだ。
『置いて……いかないでぇ……っ! 一人にしないで……!』
あの部屋で
孤独叫んだ自分の声が脳内に甦る。
しかし、そんな過去の自分に背を向けると表面上は取り繕い、ヴォイドは平然とした顔をロードへと向ける。
「だから?」
大丈夫だ。
声も震えていないし、ロードに自分の動揺は悟られるはずも無い。
ヴォイドは落ち着いて硝子玉のような目をロードへ向け続けた。
ロードはそんなヴォイドの顔を自分の記憶に焼き付けるかのように見つめながら口を開く。
「貴女と会えなくて寂しいので、貴女を感じられるものをください」
「は?」
ヴォイドの口から出たのは惚けたような声だった。
アナタヲカンジラレルモノ?
言語に関与する脳の部位である言語中枢が壊れたのかと思う程にヴォイドの脳はロードの言葉を理解しない。
「貴女が身に付けているものが欲しいのです。望ましいのは、やはり一日中身に付けていた下着ですが……」
ロードの目がヴォイドの顔から胸へ、更に下がる。もちろんヴォイドは医療班に支給されているスクラブを着ていて下着がロードに見える筈もないのであるが、何だかロードに見つめられると全てを見透かされているような気分になった。
「藍色」
唐突に呟かれたその色は正にヴォイドが今日身に付けている下着の色だった。スクラブは生地が厚く透ける要素はないし、万が一透けても瑠璃色のスクラブに藍色の下着は見抜けるはずもない。
「うふふふ。カマかけだったのに正解だったようですね」
ヴォイドの様子にロードが笑う。その顔を見ていて
愛の日にも同じことをやられて見事に引っかかってしまった過去を思い出して、
回転足首固めを食らわせたい気持ちになった。
「帰る」
「駄目です。まだ話は終わってませんから」
今日のロードは粘る男だった。
それ程までにロードに今回任された仕事は長期的になるのだろうか、と思ったヴォイドは僅かばかりの同情心で帰ろうとした足を踏みとどまらせた。
「勿論、一方的にくださいなんてムシのいい事は言いません」
そう言ったロードは今度はポケットから布を取り出すとヴォイドへと差し出す。
この流れ的に、ロードが自身の下着を差し出すという変態的行為をしてきたのではないかと脅えたヴォイドだったが、差し出されたのは何の変哲もないハンカチだった。尤もヴォイドは知らなかったが、メンズブランドの中でも人気のあるロード親衛隊が見たら「さすがロード様は素敵なものをお使いね!」と言い出すようなシンプルな中に上品さを持った一品である。
「交換としましょう」
ヴォイドの下着と、ロードのハンカチを。
「嫌だ。下着とハンカチなんて交換しない」
そう言って首を横に振るヴォイドは、ロードの目に勝利を確信した色が灯ったのを見落としてしまった。それが敗因だった。
「おや、ハンカチ同士なら良いと?」
「う……」
ヴォイドが言葉に詰まり、ロードが勝者の笑みを浮かべる。
譲歩的要請法。
本命の要求を通すために、まず過大な要求を提示し相手に断られたら小さな(本命の)要求を出す方法で人間心理を利用した交渉テクニックの一つだ。
過大な要求の後に
小さな要求。
そんな営業マンには必須とも言える交渉術に、まんまとヴォイドは引っ掛かってしまった。
――かくして、ヴォイドのハンカチを手に入れたロードは上機嫌に旅立っていったのであった。