薄明のカンテ - ディー・フェアヴァントルング……?/べにざくろ



それは、まるで変身のように。

 ある朝、テオフィルス・メドラーが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドの中で自分の姿が一人の小さな子供に変わっているのに気が付いた。
「 どんな夢だよ 」
 寝転がったまま呟いた声は、声変わり前で少女の様と言っても過言ではなかった。天井に手を伸ばしてみると、短くて小さくなった腕と手が視界に入ってきた。
 まさか。
 恐る恐る足を動かしてみると両足・・が動いた。
 久し振りの指先まである布団の感触は何だか泣けてきそうだ。
 起き上がると、寝る時に着ていたTシャツが肩からずり落ちた。面倒なので脱げるなら脱げちまえとシャツに告げて、自分の両足で床に立つ。予想通り、シャツだけでなくズボンもパンツもストンと床に落ちた。しかし誰もいない部屋だから気にすることも無い。裸でペタペタと歩いて洗面台へ向かう。途中で身長が足りないことに気付いて椅子を引き摺ってくると、その上に乗り鏡を見つめる。
 覗き込んだ鏡の中には驚いた顔をした美少年( あくまでもテオフィルスの主観だ )がそこにいた。クソババァという名の母親と暮らしていた頃の自分の顔の気がするから、おそらく歳の頃は五、六歳だろうか。
「 どうなってんだ? 」
 可愛らしい声( あくまでもテオフィルスの主観だ )で鏡に問い掛けても当然答えなんて返ってこないし天啓は降ってこない。
 姿が見る見るうちに戻る――なんてこともなかった。
 それにしても今日が休日で良かった。
 テオフィルスは独りごちる。今の声変わり前の声じゃ風邪を引いたフリも出来ないし、そもそもテオフィルス本人だと信じて貰えないだろう。職場への余計な気遣いをしなくて良かったことだけは不幸中の幸いだ。
 椅子から子供らしく飛び降りたテオフィルスは、このよく分からない状況になっているにも関わらず上機嫌だった。
 事情は何も分からないが、子供姿になっただけで中身は変わっていない。それならば折角なので、この状況を楽しむべきなんじゃないだろうかとテオフィルスは考えたのだ。
 そうとなれば、いつまでも裸族ではいられない。携帯型端末を普段よりも小さい手のせいでたどたどしい手つきで操作して、とある人物の番号を呼び出した。本人は夢の世界に行ったままであっても、彼の優秀な機械人形マス・サーキュがテオフィルスの番号であれば代わりに出ることを知っているから、安心してコール音が切れるのを待つ。
『 お早う御座います。随分とお早い連絡ですね 』
「 悪いな、ノエ 」
 テオフィルスがかけた番号はタイガ・ヴァテールの番号だった。案の定本人が出ずに機械人形マス・サーキュのノエが出る。
『 失礼ですが、認識しているメドラーさんの声紋と些か相違点がありますが。ご本人で宜しいのでしょうか? 』
「 信じられないが本人だ。悪いけどタイガ起こして貰えるか? 」
『 承知致しました 』
 電話口の向こうでタイガを起こすノエの優しいようなそれでいて有無を言わせない声と、タイガの寝惚けた情けない声が聞こえてくる。その声にテオフィルスは今は亡き機械人形マス・サーキュのナンネルの声を思い出す。彼女も随分と口うるさいババァの設定になっているとは思ったが、今思えばあれはナンネルの性格を設定した元締めの親心的なものだったのかもしれない。そんな郷愁に浸っていると、やがてガサガサという音がして『 テオ君? 』と力の抜けたタイガの声が耳に届いた。
「 よう、タイガ 」
『 ……ん? テオ君、声違くない? 』
「 起きたら身体が縮んだ 」
『 は? あれ、オレ……まだ寝惚けてる? 』
 テオフィルスは朝目覚めたら身体が小さくなっていたことを話し、保育部から五、六歳の子供に似合う服を持ってきて欲しいことをタイガに頼む。状況を飲み込むことに苦労していたタイガだったが、最後にはテオフィルスの声が高くなっていることで嘘ではないと納得して了承した。
 通話を終えるとテオフィルスは脱ぎ散らかした状態になっている洋服を集めてまとめておく。さすがに堂々と素っ裸でタイガを迎えることには抵抗があったので、どうしようかと考えてタオルケットをぐるぐると身体に巻き付けておいた。ブランケット症候群みたいだ、と思ってふと思い出す。
「 そういや、あのブランケットも無くなっちまったんだなぁ…… 」
 テオフィルスの呟いた『 あのブランケット 』は、まさに今の姿の歳の頃に愛用していたブランケットのことだった。大判でフワフワとした手触りの薄ピンクのそれは元々は母親が客から貰ったものだったが、新品なんて滅多に手に入らない貧しい岸壁街生活の中では宝物のように輝いて見えた。
 胸部がカヌル山級と称された母親とフワフワのブランケットに挟まれて眠っていた生活。急にそれを思い出すと胸が苦しくなった。
 顔もスタイルも悪くは無かったけど、最高に頭が悪かった母親。

――アンタの目はね、お貴族様の色なの。

 そう言ってテオフィルスの目を嬉しそうに見つめてた母の目はやや緑色がかった濃い青色マリンブルーで、テオフィルスはその目の色の方がずっと好きだった。だから母がその綺麗な目で見つめてくれるのが嬉しくて前髪を眉毛よりも上で切ってみたら目が良く見えると母が喜んでくれた。それ以来、母が死んでもテオフィルスの前髪はずっと短いままだ。
「 ……おかあさん 」
 殆ど恥ずかしくて呼ばなかった呼び方で、この世にいない母を呼んでみるが当然返事はない。
 何だか悲しくなってきたので身体通りの子供みたいにすんすんと鼻を鳴らしているうちに涙まで零れ落ちてきたのでタオルケットでゴシゴシと擦った。そして、もっともっとタオルケットにくるまって――泣き疲れて寝てしまっていた。

 * * *

「 サイズピッタリだったね。やっぱりワシレフスキーさんに相談して正解だったー 」
「 おう、そうか 」
 ニコニコと笑うタイガの頭を殴り付けたくなる衝動をテオフィルスは必死に抑えていた。泣き疲れて眠ってしまったせいで折角の着替えを持ってきたタイガを暫く玄関前で待たせてしまったし、仕事も休ませてしまった。一応はテオフィルスにもタイガに申し訳ないと思う気持ちがあるので殴りはしない。しかし、文句は言いたい。
「 何で女児ものなんだよ? 」
 タイガの持ってきた服はサイズはピッタリだったものの何故か女児ものだった。しかも動きやすさを重視したものでもなく、フリルの多いワンピースである。
「 だってミクリお姉ちゃんに会えるチャンスだと思ったんだもん 」
 そう言われるとテオフィルスは何も言い返せなくなる。『 ミクリお姉ちゃん 』はテオフィルスの偽名でありタイガの初恋の人でもある。色々と申し訳なさが勝ってそれを出されると弱い。
「 あー、そーかよ。で? ミクリお姉ちゃんの感想はどうだ? 」
 仕方ないので開き直ってタイガに尋ねる。ついでにその場でくるりとターンを決めて可愛くポーズを決めてやるサービス付きだ。
「 うん、かわいいよ。でも、中身が今のテオ君だと思うと笑えるかも 」
「 この野郎…… 」
「 あはは。怒った顔もかわいいね 」
 頬っぺをツンツンと指でつつかれたので、その手を叩き落とす。思い切りやっても所詮は子供の力でタイガは「 痛いよー 」とヘラヘラ笑うだけだ。
「 さてと。テオ君、これからどうする? 」
医療ドレイル班で元に戻るか聞いてみるか? 」
「 セラピア先生案件にされちゃいそうな気もするけど 」
 セラピア先生ことアペルピシア・セラピアの専門は精神科である。暗に「 頭のおかしい餓鬼にされるよ 」というタイガの言葉にテオフィルスは顔を歪めた。
「 お前が俺の身柄証明しろよ。無駄な記憶力持ってんだから 」
「 無駄って言わないでよ……まぁ、そうか。でも、取り敢えずはミクリちゃんっていう親戚の子ってことにしようかな 」
 そう言って、にっこりと笑ったタイガは座り込んだまま両手を広げた。とてもとても嫌な予感がしたが一応は確認してみようと思ったテオフィルスは、タイガに取り敢えず質問する。
「 その手は何だ? 」
「 オレ、弟も妹もいないから小さい子抱っこしたことなかったんだよね! ミクリちゃん、抱っこしてあげるよ! 」
「 男に抱かれる趣味はねぇ!! 」
 テオフィルスは叫んだ。

抱っこは好きじゃありません。

 憮然とした表情でテオフィルスは結社の廊下を進んでいた。
「 ミクリちゃん、かわいい顔が台無しだよ 」
「 うるせぇ、黙れ 」
「 はいはい 」
 笑いを堪えながら返事をしたタイガの頬を引っ張る。
 大人のタイガと子供のテオフィルスが一緒に歩いていては本来ならば頬に手が届くはずはないが、今のテオフィルスは大変不本意なことに男に抱かれている状態――簡単に言えばタイガに抱っこされていた。
 歩いてみて分かったが子供の足は短くて一歩が酷く小さい。そのくせ少し歩いただけで疲れる。それ故、タイガに抱っこされるしかなかったのである。
 抱っこしたがっただけあり、タイガはとても楽しそうにテオフィルスを抱っこしていた。剣道をやっていて腕力があるというのも、あながち嘘ではなかったようで「 疲れた 」とかすぐに言い出しそうな顔をしているのに文句も言わない。
「 あ 」
 タイガが声を上げるのでテオフィルスも前を見る。すると食堂のアイドル、ヒギリ・モナルダが歩いてくるところだった。可愛らしいので「 食堂のアイドル 」と呼ばれているが、過去に本当にアイドルグループ「 ディーヴァ×クアエダム 」の「 ローズ・マリー 」だったことを知る者は数少ない。その数少ない者がタイガ( と彼に教えられたテオフィルス )である。
「 モナちゃん! 」
「 タイガ君……と? 」
 ヒギリが小首を傾げてテオフィルスを見た。紫色の愛らしい目にテオフィルスの正体に悩む色が浮かんでいるのでタイガは用意していた言葉を言おうと口を開こうとする。しかし、それよりもテオフィルスが口を開く方が早かった。
「 パパ。このお姉ちゃん誰? 」
「 パパ!? 」
 叫んで驚愕の目をタイガに向けるヒギリ。
「 ち、違……て、ミクリちゃん! 」
 「 テオ 」と呼びかけそうになって「 ミクリちゃん 」と言い換えることは忘れなかったタイガだったがパパ問題は何も解決していない。そもそもタイガは、まだ二十歳。テオフィルスは五、六歳の姿だから本当にタイガの子供だとしたらタイガが十四か十五歳の時の子供になってしまう訳で、完全に無いとは言いきれないが違う可能性の方が遥かに高い。しかし、混乱しているヒギリとタイガがその結論に至るのは難しかった。
「 パパー? どうしたの、パパー? 」
 二人の動揺ぶりが面白いのでテオフィルスは精一杯の子供らしさを出してみる。ついでに横目でこっそりヒギリを窺うと彼女は思いきりドン引きした目でタイガを見ていた。
「 あー、そうだ。私、ノエさんに呼ばれていたんだった! 」
 白々しい言い訳を述べてギクシャクとした動きで百八十度方向転換すると、ヒギリは脱兎のごとく走り出す。光の速さでランナウェイと言わんばかりのヒギリにタイガの止める声は届かない。
「 ヒギリちゃん……どうしよう、絶対に勘違いされた…… 」
「 ノエがフォローしてくれるから問題ねぇだろ 」
「 問題しかないよ…… 」
 凹んでテオフィルスを抱えたままタイガはズルズルと廊下にしゃがみ込む。足が床についたので着地したテオフィルスは自分が原因であるのは分かっているが、励ますようによしよしと頭を撫でてやった。
「 邪魔 」
 そんな二人にかかる不機嫌な少女の声に二人揃って振り向く。声をかけてきた人間が誰だか理解したタイガの顔が渋面になった。
「 ミサキ・ケルンティア…… 」
「 通行の妨げになる事が理解出来ないの? 」
 絶対零度の瞳と影で称される薄い水色の瞳で見下ろされる。よわい十四でありながら一流プログラマーである彼女であるが、タイガにとっては何故か敬愛するサオトメ先生と親しい女子という扱いでしかなく不服な顔を浮かべながら廊下の端に寄った。
 その脇を抜けてさっさと行こうとしたミサキとテオフィルスの目が合い、ミサキの足が止まる。
「 その顔…… 」
「 こんにちは、ミサキお姉ちゃん 」
 テオフィルスが無邪気な子供感を出して挨拶をすると、ミサキは蛞蝓ナメクジに挨拶をされたような信じられないものを見るような目をして腕をさすった。長袖に隠れて素肌は見えないが鳥肌でもたっているのだろう。それは明らかに普通の子供に挨拶された人の反応ではない。
 その反応はテオフィルスの予想通りだった。
 だからミサキにわざわざ『 ミサキお姉ちゃん 』と声をかけたのだ。彼女からすれば見ず知らずの子供に突然名前を呼ばれた状態だろうが、ミサキならばそこから真実を導き出すと信じての行動だ。
 案の定、ミサキはテオフィルスを試すような言葉を口にした。
「 もし死人のみが十六進数を理解出来るなら何人理解する? 」
「 五万七千五人だろ 」
「 有り得ない 」
 テオフィルスの答えにミサキは今度は黒猫に人語で挨拶をされたかのような顔をする。尚、聞いているタイガには全く意味が分からない会話であるが十六進法と十進法を用いた有名な数学ジョークである。しかし、十四歳と五、六歳の子供のする会話ではない。
「 戻らなかったら……ミサキちゃん、事情説明宜しくな 」
「 無理。理論が不明すぎて理解出来ない 」
「 そっか。ミサキちゃんが無理だったら誰も説明出来ないだろうな 」
 そう言ってテオフィルスはヘラヘラと笑ってみるがミサキは固い表情を崩すことはなく、二人に背を向けて歩いて行ってしまう。
「 相変わらず愛想ない子だよねー 」
「 あの感じが可愛いんだろ? 」
「 だから、そう思うのはテオ君だけだって 」
「 そんなことはねぇと思うけどな 」
「 あの子より、今のテオ君の方が何倍も可愛いよ 」
 立ち上がったタイガに抱っこされたテオフィルスはタイガの顔をじっくりと見つめた。タイガの鮮やかな黄緑色の瞳とテオフィルスの深みのある青色の瞳が絡み合う。
「 俺、お前に抱かれる気はねぇぞ? 」
「 オレだって無いよ!! 」
 赤面したタイガの大声が結社の廊下に響き渡った。

君の胸に抱かれて死にたい

「 かわいー! お名前は? 」
「 ミクリです! 」
「 ちゃんと言えて偉いねー 」
 医療ドレイル班の部屋へとやってきたテオフィルスとタイガはたまたま部屋にいたミアに捕まっていた。そして、ここまで来たものの誰に相談したらテオフィルスが子供の姿から元に戻れるのか分からずにいた。これは一体、何科の案件なのだろう。もしかしたら自分達は集団幻覚を見ていて全員揃ってセラピア先生案件なのかもしれない、とタイガはミアに遊ばれているテオフィルスを見ながら思う。
「 ミアちゃん、セラピア先生って今日いる? 」
「 今日はスレイマン先生と一緒にお休みです! デートかもしれないので緊急以外は呼び出し禁止です 」
 タイガの問いにミアはにっこりと笑って答えた。アペルピシア・セラピアとスレイマン・アスランが付き合っているのは周知の事実で、その二人が一緒に休みをとれる時なんて滅多に無いことだろう。それなら仕方がない。そっとしてあげようとタイガは思う。
「 あ、そうだ。私、調達ナリル班に取りに行ってこなきゃならないものがあるんだ 」
 壁にかかった時計で時間を確認したミアが声を上げた。
「 オレ達のことは気にしないで行っておいで 」
「 ……はい。ミクリちゃん、またね! 」
 ミアの返事に若干の間があったのはミクリちゃんもといテオフィルスともっと遊びたかったからだろう。後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ていくミアを仕事に送り出すように見送る。
 部屋を出ていったミアが閉めた扉が閉まるか閉まらないかの頃、別の人物が扉を開いて入ってきた。その人物の顔を見た瞬間、ミアの前で可愛い女の子を作っていたテオフィルスの顔に苦笑が浮かぶ。
「 ホロウさん、こんにちは 」
 そんなテオフィルスの表情に気付かないタイガが相変わらずの気怠い雰囲気を漂わせながら部屋に入ってきたヴォイド・ホロウに挨拶をした。それでヴォイドのガラス玉のような感情の籠らない視線がタイガに動き、そのすぐ側にいるテオフィルスで止まる。
「 こんにちは、お姉さん。私、ミクリです 」
 先手必勝とばかりにテオフィルスは再び可愛い女の子の仮面を被ってヴォイドに挨拶をしてみる。ヴォイドと出会ったのはもっと大きくなってからで、彼女はこの姿の自分を知らないから気付かないかもしれないという一縷の望みを賭けての挨拶だ。
「 ……何やってるの、テオ 」
 しかしヴォイドから返ってきたのは非情な一言だった。呆れたような顔で自分を見下ろすヴォイドの目を見つめると、テオフィルスはこれ以上女の子の仮面を被れないことを悟り「 降参 」とばかりに軽く両手を挙げる。
「 お前、良く分かったな 」
「 うん 」
 テオフィルスに身長を合わせるようにヴォイドが目の前にしゃがみ込む。ヴォイドに思いきり見られると何とも居心地が悪くてテオフィルスは身動ぎした。
「 どうしてこんなに小さくなったの? 」
「 知らねぇ。朝起きたら勝手に小さくなっていたんだよ 」
「 ふーん 」
 自分から質問しておいて興味のないような反応をするヴォイドだったが、言葉と裏腹に彼女の独特な青と緑の混じった様な瞳には先程までのガラス玉のような雰囲気が嘘だったかのように好奇心の色が浮かんでいた。
 煌めくヴォイドの瞳。
 彼女のことは若い時から見てきていたし、彼女が岸壁街に医者になって戻って来てからも何度となく顔を会わせていたから別に見ることは初めてではないというのに、テオフィルスは惚けたように口を開けてそれを見ていた。
「 テオ? 」
「 テオ君? 」
 ヴォイドとタイガ、揃って彼の名前を呼ぶがテオフィルスは反応せずにヴォイドを、正確にはヴォイドの目を見つめたまま動かない。
「 おかあさん 」
 視線を動かさずに口から出たのは彼らしからぬ単語で、言われたヴォイドは目を丸くするし横で聞いていたタイガに至っては顎が外れそうな勢いでポカンとした顔をした。
 しかし、そんな二人の反応なんてテオフィルスにはどうでも良いことだった。
 綺麗な綺麗な青と緑の混じった様なヴォイドの目は、少しだけ母の目の色に似ていることに今更気付いたのだ。今まで何度となく見てきてもそんなことは思わなかったのに急に思ってしまったのは自分の姿が子供の姿だからなのだろうか。
 どうやら自分はとんでもないマザコンだったらしい。
 その事実に気付くのが二十年程遅かった。もはや母親は死んでしまっていて強い執着をしようが愛着を持とうが依存心を抱こうが、それをぶつける相手はこの世にいないのだから。
 有無を言わさずヴォイドに思いきり抱きついて、その細くて綺麗な首に短い手を回す。動揺しているヴォイドの声が聞こえるが聞こえないフリをした。
「 よ、よしよし……? 」
 やがてヴォイドの手が背中に回ってトントンとリズミカルに叩かれる。
 最初はぎこちなかったそれも、段々と回数を重ねる毎に上手になってきて力加減も丁度いい気持ちのいいものに変わってきた。
 そういえば前にもヴォイドに抱き締められたことがあったな。
 テオフィルスは思い出す。
 それは八月か九月か。何もかもを失って結社に来て心身共に不安定になりかけていた時に偶然ヴォイドに会って心の内を全部吐き出した夜のこと。テオフィルスの感情のままに吐き出された順序立てて無い言葉の羅列をヴォイドがただひたすらにうんうんと聞いてくれた時のこと。
 母親と重ねて彼女が好きだった?
 いや、ヴォイドはヴォイドだ。
 もしかしたら無意識に重ねてしまっていた部分があったかもしれないが、彼女を母親と似ていたから好きになったとは思いたくない。
「 ヴォイド…… 」
 彼女の名前を呟いた瞬間、突然に眠りがやってきた。
 舞台が暗転した時のような一瞬のうちに起きた急激な眠りだった。誰も抗うことの出来ない超越的存在がテオフィルスに眠気を贈ってきたかのように。
「 俺は…… 」
 最後まで言いきることもなくテオフィルスは気絶するみたいに深い眠りに落ちた。

全ては記憶の彼方に

 テオフィルスは眼を開いた。見渡すとそこは結社の休憩所で、どうやら自分はベンチに座って壁に凭れて眠っていたらしい。不思議と胸は何だかおかしく火照っており頬には冷たい涙が流れている。
 休憩所には誰もいなくて良かった。そう思いながら涙を拭う。
 何だか変な夢を見ていたような気がする。
 そんな気がするのだが何も覚えていない。
 ふと、右足のズボンを捲ってみる。そこにあるのは人間の足ではなくプラスチックと金属で出来た偽物の足だった。違うものがあるとでも思ったのだろうかと自嘲めいた笑みを浮かべてズボンを直して立ち上がった。
 確か今日は機械マス班へ義足のメンテナンスに行こうとしていたんだった。その途中で珈琲でも飲もうかと休憩所に寄って、うたた寝をしてしまったのだろう。そうだ、そうに決まっている。
 自動販売機で珈琲を買って、それを飲みながら何となく壁を見つめていると思い出しもしなかった母の顔がふと浮かんだ。
 顔もスタイルも悪くは無かったけど、最高に頭が悪かった母親を。
「 ん? 」
 飲みきった珈琲の缶をゴミ箱に器用に投げ入れたテオフィルスは眉を寄せる。何だか母親のことをそんな風に最近思った気がしたのだ。今、何年か振りに思い出した母親のことの筈なのに不思議なこともあるものである。

 * * *

「 あ、テオ 」
 機械マス班へ向かおうと廊下を歩いていると声を掛けられて振り向く。そこにいたのは医療ドレイル班の瑠璃色のスクラブを着たヴォイドだった。足早にテオフィルスに近付いてきたヴォイドは小首を傾げる。
「 どこ行くの? 」
機械マス班のロザリーちゃんの所だよ。メンテナンスにな 」
「 そっか。たまには医療ドレイル班のリハビリも受けてね 」
「 分かってるよ 」
 素直に答えるとヴォイドが嬉しそうに目を細めた。
 青と緑の混じった様な瞳。
 母親と良く似た綺麗な瞳。
 何故だろう。これもついさっき思ったような気がする。
 もしかしたら忘れている夢の中でそんなことを思ったのだろうか。そうだとしたら自分は一体どんな夢を見ていたのやら。
「 ヴォイド 」
「 何? 」
「 お前の目、綺麗だな 」
 テオフィルスの言葉を理解した瞬間、ヴォイドの顔が赤く赤く染まっていく。
「 な……何言ってるの!? 」
 こんな表情豊かなヴォイドは岸壁街では見られなかった。可笑しくて笑うと、ヴォイドがむくれた顔を見せるのでそれが可愛くて仕方なくてテオフィルスの笑い声は大きくなる。
「 いや、悪い。さっきの言葉は訂正する 」
 一頻り笑った後、ヴォイドに言うと彼女はきょとんとした顔を見せた。そんな彼女にテオフィルスは意地の悪い笑みを浮かべて更に口を開く。
「 ヴォイド、綺麗になったな。お前は全部綺麗だよ 」
 今日一番に顔を朱に染めたヴォイドの髪をわざとぐちゃぐちゃになるように強く撫でるとテオフィルスは踵をめぐらせた。
 ヴォイドと会話ができたことは楽しかったが、そろそろ向かわないと機械マス班との約束の時間に遅れてしまう。女の子を待たせるのはテオフィルスの望むところではないのだ。
「 何でそういう事言うの!? テオの馬鹿!! 」
 羞恥心のメーターがあったとしたら振り切れてしまっただろうヴォイドの叫びが廊下に木霊した。
 彼女らしからぬ大声を背中に受けながらテオフィルスは願う。
 ヴォイドがずっとこんな風に自由に感情を出して生きていける世界がどこまでも続いていくようにと。