薄明のカンテ - ダメな子、イらない子/涼風慈雨
 俺の名前はイオ・アスキー。
 唐突だが、俺は自分の名前が嫌いだ。
 「イオ」は本当は女の名前で、可愛い男子になるようにと母親が決めた。育ってみたら此れこの通り。可愛げの欠片もありゃしない。愛想の欠片もありゃしない。
 仕方ないさ、狂ったアンタの子供がまともになるとでも思ったか。鳶が鷹を産めるわけねーだろーが。
 己の妄想実現しか考えていない母親は俺とリズ姉ちゃんに光るものを求めた。子供の存在を使って自尊心を満たしたい、なんて幼い子供でもすぐわかっちまう。わかっちまうから、自分を生んでくれた親だから、その妄想を実現させてあげたくて躍起になる。
 分不相応なものを背負わされた子供は親に振り向いて欲しくて必死に歩き続ける。その果てに俺が母親に言われたのは「才能無しのダメな子」。
「ピアノもダメ、ダンスもダメ、バイオリンもダメ、スケートもダメ、サッカーもダメ、歌もダメ、何をやってもダメダメダメ、光る才能の一つもないなんて」
 何もなく無い、今日は逆上がりが綺麗にできて褒められたんだ。
 何もなく無い、お年寄りを道案内して感謝されたんだ。
 何もなく無い、先生に感想文を褒められたんだ。
 何もなく無い……
「何であの人と結婚したのかしら、人生の無駄だったわ」
 母親は俺の話を聞かず「ごまんといるような事で偉ぶるな」と言った。
 父親は単身赴任でほとんど家にいなくて、帰ってきても寝てるばかりで、きっと子供に興味なんてなかった。
 姉ちゃんは要領がよくて「女の子は可愛ければいい」と言われてまるで大きな着せ替え人形のように扱われていた。
「アンタたちがいなければさっさと離婚できたのに」
 俺なんかが、何をしても褒めてもらえるわけがない。
 俺なんかが、いい子ぶっても感謝されるわけがない。
 俺なんかが、思った事なんて誰も興味がない。
 俺なんかが……
「アンタは何もできない子なんだから」
 少しだけ好きだった料理は「そんなもの」と片付けられた。テレビゲームもネットゲームもバラエティ番組も「これ以上馬鹿になったら私の恥になるわ」と触れさせてもらえなかった。「これ以上役立たずにならないように」とかなりの量の家事を押し付けられた。それでも「何事も人並みでいなさい」と1日の勉強量は減らしてもらえなかった。たまに母親は姉ちゃんを着飾らせて外を歩いていたが、俺はその間に家から出られないように用事を言いつけられていた。流行りの機械人形マス・サーキュは「うちは貧乏だから買えないの」と言われた。
 母親の行き過ぎた教育方針の影響で同級生の話す内容がわからなかった俺は溝を埋めようと溺れるように本を読んだが、結果は愛想のない空気人間。毒にも薬にもならない人畜無害。否、人畜無害は過大評価だ。コミュ障で周囲の空気を凍らせる俺はクラスのゴミで人の輪に入りたいだなんて考えちゃいけない存在だ。
 家に帰れば母親の雨霰と降り注ぐ非難と暴言、何も言わない父親の背中、操り人形の姉ちゃんは笑みを貼り付けたまま何もしない。
 それでも、あまりの居た堪れなさに家出をすると言った時、本気で止めてくれたのは姉ちゃんだった。姉ちゃんはきっと最下位がいなくなるから嫌で止めてるんだろうと思ったけど、あれは本気で本心からの心配だったんだ。
 あの時初めて姉ちゃんの人形みたいな笑い方じゃなくて本音の顔を見たんだ。
 だから、俺は家出はやめて姉ちゃんの横にいる事にした。姉ちゃんの荷物じゃなくて、ただ勝手についていく小石になろうと思ったんだ。

 トンカラ、トンカラ、トンカラシャン。
 雨が粛々降っている。
 パンカン、パンカン、パンカラピン。
 雨は強くなりぬるか。

 従姉妹で同い年のユリィは伸び伸びと好きな事をやっていた。ユリィの両親も祖父母も文句を言うどころか応援していた。ユリィも応えるように伸び伸びと動いていた。顔がきらきら輝いていた。その様子を見て周囲が笑顔になっていた。
 あぁ、あれが才能だ。
 母親が俺と姉ちゃんに求めてやまなかったもの。そして手に入らなかったもの。
 俺らの胃の腑に重石を押し付けるだけ押し付けて、勝手に期待しておきながら叶わなくて脳髄溢れるほどに喚き散らして。醜い姿を子供に見せつけて同情を買おうってか?
 もしも俺に母親を黙らせるだけの才能があったなら。華々しくて煌びやかな誰からも羨まれる才能があったなら、母親も父親もちゃんと俺を見てくれたのだろうか。姉ちゃんに貼り付けた人形の悲しい顔をさせずにすんだのだろうか。羨望と憧れで周囲を明るくできたのだろうか。
 母方の祖父母は母親と全く違い、姉ちゃんと才能も無ければ要領も悪い俺も可愛がってくれた。でも、きっと今は芽が出てないだけだと思って未来に期待しているんだろーなと漠然と思っていた。
 考えれば考えるほど、才能無しのイらない子は黒々ととぐろを巻いた海に落ちていく。触れたくて触れられなかった人に温もりは水面の遥か上。手を伸ばす事自体が烏滸がましい。
 用途は違えど同じ操り人形仲間である姉ちゃんは俺が横にいても怒らなくて、それだけで寒さが少し紛れたけど、普通の家族の形を考えるとやはり2人は寒かった。
 ごめんなさい、俺が出来損ないで。
 ごめんなさい、俺に何の才能もなくて。
 ごめんなさい、俺の所為で空気を悪くして。
 ごめんなさい……
 こんな俺とつるみたい奴なんていない、と壁のシミになって学校生活を送った。目立たず騒がず、平穏無事にいられるように息を殺して母親の操り人形のままに生きる。
 故に高校生になっても友達らしい友達はできず、昼飯の時間も自分で作った弁当を1人もそもそ食べる。周囲の笑い声がはみ出した俺に刺さる様で、イヤホンを耳にねじ込んだ。激しいロックで脳を満たして恐怖も外連も何もかも蓋をして消化した事にした。母親に隠れてこっそり電子端末にインストールしたゲームで長すぎる休み時間を潰した。
 姉ちゃんはその頃、母親の言う大学を受験して言われた通りの学部に合格して、大学寮に入った。殺伐とした家には、支配欲に狂った母親と牙を抜かれた俺だけがいた。

 ヒュゥルリ、ヒュゥルリ、ヒュルヒュルリ
 風が轟々鳴いている。
 ピウリル、ピウリル、カンカンカン
 風は強くなりぬるか。

 進路を明確にする時期になり、進路指導の先生がお勧めの専門学校を紹介してくれた。一眼見た母親は「アンタには無理」「こんな学校に行かれたら恥の上塗りね」と言って破り捨てた。そして「行くならここにしなさい」と有無を言わさない迫力で大学のチラシを俺の顔に突きつけた。
 そのチラシを持って進路指導の先生の元に行くと、学力より適性に難がありそうだ、本当にここを受験するのかと聞かれた。母親が言うからそこにしますと真顔で言うと先生は君はどう思ってるんだ、と聞いた。俺はどこでもいいんですと答えると先生は雨に濡れた野良犬を見るような目をした。俺には才能がない。つまり適性云々はただの口実で生徒を良い学校に送った分だけ先生の評価が上がるシステムの材料。知らねーよ、俺は平穏無事に生きたいから狂った母親の狂った操り人形でいるんだ。横に同情と美辞麗句並べたって俺に決定権は元からないんだ。
 ……俺の抜かれた牙が床に転がっていた。
 偶には遊びにおいでと姉ちゃんに呼ばれた俺は一も二もなく飛んで行った。久々に会った姉ちゃんは母親好みの甘めでフリルの着いた衣装ではなく、涼やかで動きやすい衣装で。表情は操り人形の貼り付けた笑みではなく心の底から今を楽しんでいる血の通った笑顔で。
 操り人形仲間だと思っていたのに。やっぱり姉ちゃんは出来がいいから羽目を外しても母親は怒らないんだろう。姉ちゃんとの間には深くて深海魚が散歩するくらいに深い溝があるんだ。
 姉ちゃんは乾いた風の如くさらりと、いつまでもあの家にいる必要はないよ、と言った。
 外に出ちゃえばあの人は追いかけてこないよ、目の前にいるから目障りだって怒るだけなんだよ、と血の通った笑顔で機械人形マス・サーキュみたいに冷静な分析を姉ちゃんは話してた。
 姉ちゃんはこんなに笑う人だったんだって今まで知らなかった。
「私はあの人の言う学校にしちゃったけど、イオは自分で選んだところに行っていいんだよ」
 青天の霹靂、曇天の雷鳴。俺に決定権はあるのだろうか?
「あの人はうるさいけど、1番辛い時期を過ぎちゃえば何とかなるよ。キツかったら姉ちゃんでも祖父ちゃんでも連絡ちょうだい。」
 冬は春に繋がっていき、枯れた木には花が咲く。白茶けた草原は緑の海になる。
 この時に思い出したのは母親が比べていたギロクとかいう天才少年。俺の4つ上だから今頃とっくにいい歳した大人だ。当時14歳で政府のなんか電子世界関係の凄いところ入った時に母親がアンタはダメな子だからああいうのは無理でしょうね、とそれはそれは大きな溜息をついた原因だ。
 姉ちゃんのところから自宅に帰った俺は、母親に破り捨てられた専門学校の案内をゴミ箱から拾ってテープで貼り直した。そして今までの人生で1番の勇気を、全身からかき集めた勇気を、抜けた牙をセロハンテープではめ直して啖呵を切った。俺はこっちのIT系専門学校に行く、ってな。
 当然の如く母親は怒り狂って体の中身を吐き出すんじゃないかってくらいに喚き散らした。
 恩知らず、恥知らず、親不孝者。今までアンタにどれだけ金をかけてきてやったと思ってんだ。私はダメなアンタの為に態々学校まで選んでやったんだ。親の好意を受け取らない子供なんかうちの子じゃない。ここまでダメでわからずやな子なんか産んだ覚えありません。貧乏だからうちの子じゃない奴に学費なんてもってのほか。何処ぞで野垂れ死んでも知るものか。出て行け穀潰し。
 そうだよ、俺は恩知らずだ。
 そうだよ、俺は母親の好意を無にした親不孝者だ。
 そうだよ、俺はダメダメだからアンタの子じゃないんだ。
 そうだよ……
 本当に家を追い出されてしまった俺は、とりあえず比較的近い親戚の家に身を寄せた。幼い頃は泣いて縋ったが、こう言う事は年に数回あったから今は慣れっこだった。翌日には昨日荒れ狂って喚いた事なんて綺麗さっぱり忘れた顔して俺を迎えに来た母親は、外聞だけの笑顔を振りまいていた。
 こんな事が数日続いた。姉ちゃんの言った「1番辛い時期を過ぎちゃえば何とかなる」を信じてひたすら耐えに耐えた。折れちゃえば楽になれるのに、と心によぎればセロハンテープで付けた牙が取れそうになる。いけない、いけない。折角付けた牙は大事にしなけりゃな。姉ちゃんに褒めてもらわなくっちゃあな。

 コロカラ、コロカラ、コロカラリン
 風に転がる歯はいずこ
 トンコン、トンコン、トンカンピン
 雨に流るる牙いずこ

 結局、あれだけ大騒ぎした割にすんなり母親は学費を出してくれた。別にアスキー家は貧乏じゃないと知った瞬間だった。単に世間の目を気にしてハリボテでも良い家族でいようとしたのだろう。近所に響くほどのヒステリーを起こしたくせに、今更取り繕っても誰も信じやしないのにな。
 専門学校に近い学生アパートを借りて、アルバイトをして、学校に通った。最初はうるさい母親が居なくなって勝者の優越感に浸っていたが、現実は甘くなかった。
 家事が回らないだの、人恋しいだの、そんな話はしちゃぁいない。それくらいはダメな俺だってできる。
 今までやって来なかった事をいきなりやるのがどれだけ大変かを身につまされたんだ。
 IT系専門学校の情報システム学科に入学したが、今までプログラミングなんてこれっぽっちもした事はない。電子機器は好きだったけど、たくさん触れてきたわけではない。
 しかも、それなりに覚えて、それなりの評価をもらえばいいなんて俺には許されない。この道を選んだのは紛れもなく俺自身で、失敗したら母親はせせら笑って勝ち誇る。トップ集団に追いついて追い越すくらいの成果を上げないと、あの押し付けがましい母親を見返せない。
 だから、血反吐を吐く思いで勉強に打ち込んだ。
 予習復習だけでは俺の足りない脳みそに刻み込めない。寝る間も惜しんで関係するネット記事や教本を読み漁った。自分で指を動かして実際に作ってみてそれでも中々キチンと収まってくれない回転の遅い頭にイライラしながら、ひたすら本と画面とにらめっこをした。
 眠れない夜にクラクラ目眩がして、人の笑い声にビクビク怯えて。また全部を押し込める為にイヤホンから激しいロックを流して何もなかった事にする。たまに姉ちゃんとSNSで話して息抜きして。
 その生活を続ける中でちょっとした出会いがあった。授業の中でゲーム作成できるソフトの紹介があって、みんな一回くらいは手ぇ出した事あるよな?と先生が事もない感じに言った事だった。
 ここにいる人はやった事がある。でも俺はない。
 トップ集団に追いつくには自分でゲームを作ってみなくちゃいけない。
 できなくちゃいけない。
 アパートに帰った俺は早速、無料でできるというゲーム作成ツールをインストールした。操作方法はネット記事を拾い読みして、さて何を作ろうかと考えた時、何も浮かばなかった。それもそうだ。ゲームらしいゲームを今までしてこなかったんだから。ソシャゲは少しやってたけど、のめり込めば母親にゲームしてる事が発覚して電子端末を取り上げられて壊されるから、表面をなぞるような程度しかやった事がなかった。
 俺なんかがトップ集団に追いつこうと考えるのはやっぱり高望みだったのかもしれない。母親の言う事を聞いて母親の選んだ大学に進学していれば良かったのかもしれない。セロハンテープで牙をつけても結局はヤワなんだろう。
 ……辞めたい。操り人形の方が楽だったのかもしれない。出来が悪くて、何にもできないのに、俺は親に反抗した悪い奴なんだ。姉ちゃんみたいに要領良くない俺がやっていい事じゃなかったんだ。
 黒々と渦巻く負の感情に飲まれそうになった時、姉ちゃんからメッセージが届いたと電子端末が音を立てた。
「イオ、ご飯食べてる?」
 そうだ、姉ちゃんに聞けばいい。姉ちゃんならきっと答えをくれる。
 早速メッセージを送ると、すぐ答えが返ってきた。
「今の家に、あの人はいないじゃない」
 そうだ。そうだよ。そうじゃないか。今のアパートに母親はいないんだ。
 なんだ、経験がないならやればいいじゃないか。今からだってやってみればいいんだ。
 食費を削ってテレビゲームを買って、初めて人目を気にせずゲームをやってみた。のめり込むまで時間はかからなかった。今まで感じた事がないほどゲームの世界は俺を暖かく迎えてくれたんだ。失敗してもリセットしてやり直しができる。失敗したからと言って横で騒ぐ人もいない。誰かの声に怯えなくて済むゲームの空間はとても心地良かった。
 勉強時間は減ったものの、ゲームをプレイしながら寝落ちすることも増えて、結果的に睡眠時間が増えた。不幸中の幸いというのか、睡眠時間が増えてから目眩やイライラが前より減った上に記憶力も少し良くなった気がした。ゲームのアイデアも出るようになって、実際にちょっとしたゲームを作ってみたりもした。
 卒業する頃には、クラス内で上位の成績を取れる時もあるようになった。相変わらず誰ともつるめないし、存在感は壁のシミのままだったが、これだけできれば母親を見返せただろう。
 ……そう思うのは早すぎたんだ。
 ある日突然に俺のアパートに来た母親が、お遊びは終わったかと聞きに来た。お遊びと言われても何の事かさっぱりわからなかった俺は怪訝な表情をしたのだと思う。次の瞬間、俺は怒鳴りつけられ、怒られていた。
 私の推薦してやった学校を蹴ったんだから、さぞかしいいところに就職できたんでしょうね?言ってみなさいよ!お遊びの延長で出来る事なんてたかが知れてるでしょうけれど!
 答えるのが怖かった。でも、答えない方がもっと怖かった。震える声を絞り出して内定の決まっていた会社名を告げると母親はわざとらしいほど大きな溜息をついた。
 聞いた事ないわね、そんな会社。普通知らないわよ、道行く人に聞いてごらんなさい。ほぼ100%、ほ、ぼ!100%!知らないって言うわよ!そんな得体の知れないところ内定断りなさい。そんなところより、地元の知り合いが事務員を募集しているって話持ってきてあげたわよ。温情だからこっちに行きなさい。アンタの好きな電子機器使えるんだから感謝なさい!
 ふんぞり返って事務員募集のチラシを俺の前に突き出す母親。
 どうせ口出すならもっと早くに面接始まる前に言えよ。
 確かに内定が決まっている会社は有名企業ではない。でも、系列会社だから成果次第では上を目指せる位置なんだ。俺がやりたいのはシステムエンジニアであって、PCをちょっと使うようなエンドユーザーじゃないんだ。いくら機械物がわからないからって扱いが酷いじゃないか!
 そう、声に出来ればいいのだろうか。自分の意見をきちんと伝えて話し合えれば良いのだろうか。陸に上がった魚の如くパクパク息をしながら形になったのは、ごめんなさい、の一言だけだった。
 当然の如く母親は爆発した。
 アンタ、謝ればいいと思ってるの!?ごめんなさいじゃないのよ!!
 血走った吊り上がった目。ヒステリックに叫んで何を言っているのか聞き取れない。感じたのは久しく忘れかけていた地の底に落ちていくような恐怖。周囲にあったはずの日の光から引き剥がされて闇に1人閉じ込められる恐怖。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。爆走する母親の言葉の嵐は謝らないと終わらない。謝罪が求められているから言うのでは無く、他に言える言葉が無いだけだ。
 言いたいだけ喚き散らした母親は忽然と消えた。俺の気持ちなんてこれっぽっちも考えてない身勝手な行動は昔から変わらない。

 サラサリ、サラサリ、サリラルラ
 風が囁き、雲が動いた
 ポツトツ、ポツトツ、ザポパルパ
 雨雲は己が前にありぬるか

 姉ちゃんの取りなしで、俺は内定の決まっていたIT企業に入社する事ができた。姉ちゃんの助言で両親に黙って引っ越し、経済的にも距離的にも両親から離れられた。既に就職していた姉ちゃんは友達ができて彼氏もいたりして、母親とも距離を取って、充実した日を送っていた。昔は操り人形だった姉ちゃんも自分の足で歩ける人になっていた。
 前より環境が良くなったから、俺にもその背中を追いかけられる。今度こそ友達作って、彼女作って、楽しい毎日を作ろう。今の家に母親はいないんだから。
 未来への抱負と希望を息巻いて会社に行くと、幻想は呆気なく打ち壊された。会社説明会の話と全く違い、あの時のスライドは一体何だったのだろうかというほど、働いている人の顔が死んでいた。
 ロクな新入りの挨拶も会社内の場所の説明もなく新人研修。研修ではマネジメントゲームと呼ばれる社長になりきって経営するボードゲームをし、業績報告等をプレゼンテーションソフトを使って実際の経営陣にプレゼンするのだが……とにかく怖い。
 報告中も貧乏ゆすりにしかめ面、口を開けば怒号。
 ゲームで現実じゃないからって手ぇ抜いてんのか?甘ったれるな!数字をちゃんと出せ!数字出せねぇ会社ならさっさと畳んじまえ!この研修にも金かかってんだよ、ちゃんとやらねぇと無駄になるだろうが!
 同期の凍りついた顔が目に入る。きっと俺も同じ顔をしている。せっかく煩い母親から離れられたと思ったのに。やっぱり世界は怖い人しかいないんじゃないか?母親みたいな人の方が実は普通なんじゃないか?優しい姉ちゃんみたいな人の方がごく少数で、ギラギラした怖い人の方がずっと多いんじゃないか?
 怖い。怒られたくない。怒られないようにしないとだ。怒られないためにたくさん頑張らないといけないんだ。この程度で落ち込んでる方がおかしいんだ。頑張らなくちゃ。
 研修期間が終わり、さて本番だと配属された矢先に上司は転勤、先輩は退職。後任者は所謂出来る人とか言う奴で、俺みたいな才能のかけらもない努力も中々実らない奴に全く理解のない人だった。早々にアスキーはダメ新人だとレッテルを貼られ、バカに付ける薬はないと放置された。
 毎日山のようなこなせないような量の仕事を渡され、わからないなりに自分で調べて仕事をこなしても、所詮は新人。効率のいい作業の進め方も、周囲との連携の仕方も、交渉の方法も何もわからずただがむしゃらに仕事をする。残業の時間はどんどん膨れ上がったにも関わらず、残業の事で怒鳴りつけられていた同期を見てしまった俺は誰にも相談できずに抱えたままになった。
 怖い。怒られたくない。誰かの気分を害する事は悪だ。俺が耐えればいいんだ。耐えられない軟弱なところなんか見せちゃいけない。
 俺もアルバイト経験はあったものの、正社員は初めてだった。皆んなこんなものなのだろうと漠然と思っていて、この企業が俗に言うブラック企業だなんて気付かなかった。姉ちゃんも正社員で頑張っているんだから俺も頑張らなくちゃいけないと思っていた。
 誰かが上司に怒鳴られて、その声はフロア全体に響いて空気が痛くなる。息苦しくて仕方ないのにこの場所から逃げられない。逃げちゃいけない。
 俺も身に覚えのない事で怒られて、足がすくんで。でも、言われた事をやらなくちゃいけない。出来損ないの俺を採用してくれた会社なんだから。どんな無理でも期待に応えないといけないんだ。
 少しして、あるプロジェクトに俺は組み込まれた。その時のマネジメントをしていた上司は以前俺に美しいプログラムの良さを語り、それが組めるようにとアドバイスをくれた人だった。勿論、それなりに社内でも優しいと定評のある人だったので少し俺も安心していた。
 でも、作業スケジュールを見た先輩が、0から始まるデスマーチの始まりだと言った。
 なんですかそれ、と聞き返すと暗い笑みを浮かべた先輩は、納期を落とすなよと軽く俺の肩を叩いてフラフラとデスクに歩いて行った。
 そして俺は知った。今まで辛かった事の上を行く事なんていくらでもいくらでも起こるって事だ。優しそうに見えても人はいくらでも豹変するんだ。
 現場の作業実態を無視した無茶苦茶なスケジュールをこなせと言われ、必死に食らいついた。徹夜作業で会社に泊まり込んだり、終電を逃して漫画喫茶に転がり込んだり、自宅のアパートに帰ったとしても冷えた弁当を腹に収めて床で寝落ちする生活になった。
 スケジュールに異議申し立てした同僚は、効率よくやらないお前が悪い、若いんだから残業するのが当たり前、使えねぇ奴を使ってやってるんだから感謝しろ、こっちも考えてスケジュール組んでだから文句言うな、と散々な言葉の竜巻に飲み込まれていた。
 その様子があまりに鬼気迫るものがあって、俺は怒られるのが怖くてミスを隠して、バレて余計に怒られて、また怖くて隠そうとするのを繰り返した。
 上司はこの状況をクライアントにも上層部にも隠蔽し、面倒見てる風に見せて言葉の圧力をかけてきたんだ。
 この程度の残業で文句言うな、俺はもっと残業したことあるぞ、トイレ休憩は時間引くって決まってるからな、美しくないプログラムなんて納品できるわけないだろう、バグが出たなら仕様変更してもらえ、今日中にこれを終わりにできるだろ?翌日の朝までが今日なんだよ!定時で上がるのは暇人だ!出来るやつは残業してもっと量をこなせ!
 怒らないで、ちゃんとやるから。
 怒らないで、今頑張ってるから。
 怒らないで、休暇一回も取ってないから。
 怒らないで……!
 デスマーチの期間の間はどうも夢の中にいるような、不安定なのに動けて周囲で起きてる事に意識が向かない……そう、全部が対岸の火事みたいに見えていた。仕事ができればそれでいい。他はどうでもいい。どうせ職場と自宅しか往復しない。頭の中にモヤがかかって視界30cm先がよく見えないような状況なのに危機感を感じなかった。デスマーチが終わればきっと霧も晴れるはず、そんなことを考えていたのかもしれない。
 納期遅れにならないギリギリセーフで納品し、0から始まるデスマーチは終わりを迎えた。
 そして久々にアパートのベッドに入れた俺は、翌日無断欠勤した。けたたましく鳴ったアラーム音も上司からの電話も何もかも聞こえず、俺は渾々と眠り続けた。目が覚めた時には外が橙色に染まっていて、何でアラームが鳴っていないのかと持ち上げた携帯型電子端末は夕方の時刻を表示していた。
 先輩からの不在着信が大量に入っていたが、全てがどうでもよく思えてそのまま電源を切った。せめてベッドから降りようと足を床につけたはいいが、どうも歩き方が思い出せない。思い出せないならまぁいいやとベッドに戻り、また眠った。
 その翌朝はいつもの出社時間に目が覚めて、ちゃんとベッドも降りられた。動けた事に少し安堵しながら携帯型電子端末を起動すると、昨日放置した不在着信の他にメールも数件入っていた。社会人のする事ではないとか、弛んでいるとか、来ないならクビだとか、そんな内容がズルズル書かれていた。
 なんて事だ。眠気に負けたなんてレベルじゃない。無断欠勤。上司の言うように社会人にあるまじき事だ。いくらデスマーチが終わったばかりだからって弛み過ぎだ。行ったら確実に怒られる。行かなかったらクビ確定。どうすればいい。怒られるかもしれないと考えただけで手の震えが止まらなくなり、息が苦しくなった。その場で崩れ落ちると硬いフローリングに膝が激突した。膝の痛みより、怒られる恐怖で全身が震えた。嫌な汗が額に吹き出す。目の前がぐにゃりと歪んで意味を為さなくなった。
 ダメな子だ。昔から変わらず俺はダメな子で、誰かの役に立つこともできなくて、人として当たり前の事すらできない人間なんて言っちゃいけないクズだ。
 どれくらい経って何があったかわからない。とにかく気付いたら、部屋が荒れ放題になっていてその真ん中で俺は膝を抱えて泣いていた。服がケースから引き摺り出されて散乱し、ゴミ箱は引き倒され、食器類が床に散らばっていた。
 あまりに色々な感情が俺の頭を駆け巡っていて、俺自身もなんで泣いていたのかわからなくなっていた。
 外に行こうにも恐怖でドアノブが握れず、着ていける服がわからず、不安が膨れて脳裏に浮かぶのはダメな子だと叫ぶ母親の姿。
 せっかくここまで来れたんだから仕事を辞めたくない。何の為に姉ちゃんに母親を取りなしてもらって今の会社に入れたと思ってるんだ。やっぱり母親の言う事の方が正しかったんだ、なんて結論は嫌だ。嫌だけど答えがそれしかないなら受け入れるのが妥当なんだろうか。でも嫌だ、母親の操り人形には戻りたくない!!
 寝て、起きて、冷凍庫にあった常備菜を溶かして、食って、寝る。たまにインスタント、たまにレトルト。皿に移し替えるのは面倒でパックのまま食べた。今まで辛い事があると激しいロックで耳を塞いで消化した事にしていたが、今回は全然効かなかった。自分を責める声は外からじゃなくて頭の中から響いている。消せない。消えない。
 訪ねてくるような友人もいないはずの俺のアパートのチャイムを誰かが鳴らした。出られない。出たくない。知らない誰かの顔なんか見たくない。知ってる人の顔なら尚のこと見たくない。見られたくない。
 しばらくのんびりしたチャイムが響き、その後でいきなり鍵を開ける音がした。
 こんなところまで母親が追いかけて来たのか!?そう思って身構えると、入って来たのは姉ちゃんだった。
 あまりの部屋の惨状に姉ちゃんは目を見開いて一瞬絶句したが、すぐに真面目な顔になった。
「イオ、何があったの?」
 引きこもって無断欠勤が続き、連絡もつかなくなった俺の代わりに会社から連絡が入ったのだと姉ちゃんは言った。
 ぼんやりと姉ちゃんを見上げてた俺は何も言えなかった。熱い塊が喉につっかえて声が何も出なかった。姉ちゃんが目の前にいる嬉しさと迷惑を掛けてしまった悲しさが同時に込み上げてきて一言も出てこなかった。
「イオが言いたくないなら無理には聞かない事にする。まずは、部屋を片付けていい?」
 暴れた日から部屋は荒れたままになっていて、ほとんどを眠って過ごしていた俺は一切片付けていなかった。前までの俺なら考えられない有り様だった。
 戻せる服はケースに戻し、洗う必要があれば洗濯に持っていき、ゴミを片付け、とテキパキ動いていく姉ちゃんは嫌な顔一つしなかった。母親の着せ替え人形だった頃の顔とも違う、真剣な眼差しだった。
「これ新作のゲームでしょ?封開けてないじゃん。イオ、これ好きだよね?」
 ゴミ山から出てきたのは、初めての給料で買った当時の新作ゲームだった。仕事が忙しくて買ったまま積んであったものだ。
 姉ちゃんの質問に小さく頷くと、姉ちゃんは片付けをそれなりのところで止めてゲームのセットを始めた。2つ入っていたコントローラーの片方を俺に渡す。ゲームの内容は車のレーシングシミュレーションだ。
 今までぼんやりして腫れぼったくなっていた頭がすぅっと冷えたようになって、ゲームの世界に俺は引き込まれていった。それと共に、言いたくても誰にも言えなかった仕事の話が堰が崩れたように話し始めた。止まらない。上司のパワハラ、睡眠不足、デスマーチ。あっちへこっちへ飛ぶ俺の話を姉ちゃんは相槌を打ちながら全部聞いてくれた。
 吐き出し終わった後に姉ちゃんはポツリと言った。
「イオの就職した会社、彼氏に頼んでちょっと調べてもらったんだけど、随分なブラック企業みたいね。機械人形マス・サーキュの導入も全然してないんでしょ?」
 ぶらっくきぎょう……?正社員になるって言うのはあれくらい大変な事なんじゃないのかよ?毎日毎日残業があって、忙しければ会社の床で寝て、それで最大限良いものを出すのが正社員じゃないのかよ?機械人形マス・サーキュに頼らないのが技術屋じゃないのか?
「イオ、逃げていい時があるんだよ。現実でもリセットしていい事があるんだよ」
 逃げていい……?敵前逃亡は銃殺じゃないのか?重罪じゃないのか?会社にそんな迷惑かけられないに決まってるだろ?
「仕事は自分で選んでいいし、辞めたければ辞めていい。法律だってそう決まってる」
 いつの間にかゲーム終了の画面になったまま、テレビは止まっていた。
「もっと早く気づいてあげられたらって思う……ごめんね、イオ。」
 言われている内容がイマイチ理解しきれず、ぼんやりとした俺に姉ちゃんが謝る。
 謝んないでよ、姉ちゃんのせいじゃない、そう言いたいのに口は話し方を忘れたように動かなかった。
「でもまだ遅くないよ、イオ。その道のプロに話を聞いてもらおうよ。」
 姉ちゃんの言う事はいつだって正しい。小さく頷いた俺は姉ちゃんに連れられて精神科医の元に行った。下った診断はうつ病だった。他にもなんとか障害とか言っていた気がするがよくわからなかった。
 地道に頑張ろうねと医者も姉ちゃんも言った。だから言われた通りにする事にした。ダメな子が自分の頭で考えても仕方ないんだ。
 結局、退職手続きもかなり姉ちゃんと姉ちゃんの彼氏さんに協力してもらってなんとかしてもらった。残業しても残業代が出ないようにタイムカードを操作しろ、と徹底した命令を上司にされていたので働いた分の全額給料は貰えておらず、退職金も出ていない。
 いつかの時に貼り付けた牙はどこかに転がって見失ってしまった。
 黒くて深い闇の渦に飲まれそうになって、飲まれて、なんとか這い出してを繰り返し、繰り返し、そのうちに外に俺の意思で俺の足で出られるようになった。できなくなっていた家事もできるようになった。
 たまに姉ちゃんに手伝ってもらいながら、自分のダメさ加減に辟易しながら、それでもなんとか生きていこう。そう思えた矢先。
 2173年7月16日。
 カンテ国の電子世界ユレイル・イリュ機械人形マス・サーキュ汚染ズギサするマルウェアが撒かれた。機械人形マス・サーキュたちの暴走、疾走、ゲリラ部隊。北の都市ミクリカの大規模テロ。
 緩やかに続いていくはずだった日常は消え去った。でも、それは俺にとってはどうでもいい事で、姉ちゃんが無事でいてくれるなら何が起きたって構わなかった。
 暴走してゲリラ部隊になった機械人形マス・サーキュを討伐する民間組織が何処かに生まれたとか聞いたけど、だからなんだ?俺みたいなゴミ屑がいつどこで死んだって誰の気にも止まらないし、余計な事に手を出せば世間様に叩かれる。知らない。大層なお題目を掲げる人はきっと苦労知らずで、俺の家みたいな歪んだ家庭じゃないところで育った人物達なのだろう。

 さあさあ、皆様お立ち合い!
 坊と嬢の作りし花畑!
 やんごとなき方は下界の事なぞ見えぬが定め!
 見えしところばかり目に入るか!
 全てを支える土のことなぞ嫌うであろうぞ!

 姉ちゃんが、病院に緊急搬送された。
 俺のアパートに来る途中、暴走した機械人形のテロに巻き込まれたのだそうだ。一命は取り留めたものの、前のように歩くには長いリハビリが必要だと言われた。
 姉ちゃんは「心配かけてごめんね」と駆けつけた俺と彼氏さんに言った。
 俺のところに来る途中でテロに遭ったと言う事は、俺がいなければ姉ちゃんは大怪我せずに済んだんじゃないか?俺がこんな状況になったからじゃないか?やっぱり生きてるだけで俺は邪魔な存在になるんじゃないか?
 姉ちゃんごめん、と言うと姉ちゃんは「イオが悪いんじゃない。テロを起こしたやつが1番悪いんだよ」と答えた。隣で姉ちゃんの彼氏も深く頷いていた。

 テロを起こした奴が1番悪い。そうだ、姉ちゃんが言うんだ。元凶が1番悪いんだ。

 俺が困った時、助けてくれたのはいつも姉ちゃんだった。
 俺の世界は姉ちゃんがいなかったら成り立ちゃしないんだ。
 親の無償の愛など幻想だ。
 タダより高いものはない。
 けれど姉ちゃんは鬱々として陰惨な無限ループした世界から俺を連れ出してくれた。

 だから。

 姉ちゃんを壊す世界なんか大嫌いだ。
 姉ちゃんを傷つける世界なんか消えてしまえ。

 こんな世界なんか消えてしまえ。