2158年、夏。私は1人でラシアスの商店街に向かっていた。地域情報誌で雑貨屋の特集が組まれており、少し気になる店を見つけたのは一昨日の事。それで自分で考える練習がてら、雑貨屋を目指して出て来たところだった。
今日着ている服は3年前に唯一新品で買って貰えた当時の流行りの服。明るくフェミニンな服は私の目にはセンス悪くは見えなかったので着ていく事にした。
ちなみに例の傘には名前も学校名も何も書いていなかったので、後日公園のフェンスに引っ掛けておいた。どうなったか私は知らないけど、1週間後に無くなっていたのは確かだ。
電気屋の前を通ると、テレビでニュース速報が入ったところだったらしい。でかでかと画面に速報のテロップが踊っている。折角なので、足を止めてアナウンサーの次の言葉を待ってみる。
〈……繰り返します。血の絵画事件の犯人が逮捕された模様です〉
血の絵画事件。小学生男子が無残な方法で殺害され、あまつさえ犯人は遺体の様子を被害者の血で描いた絵と遺体の写真を並べてSNSに投稿したという猟奇的な事件だ。被害に遭った少年はゾイの一つ上の学年だったのもあり、犯人が早く捕まって欲しいと思っていたところに朗報だった。今までの報道では美術系専門学生の20代男性と言われていた。
〈えー、犯人は同じ学校に通う小学5年生の男子児童であり……〉
耳を疑った。小学5年生の男の子?20代男性じゃなくて?今までの報道は何だったの?専門家の分析は?モンタージュ写真は?
〈関係者に寄りますと男子児童は『画材が欲しかった』との趣旨の発言をしているそうです〉
画材。人1人殺しておいて画材扱い。ふざけないで欲しい。命をなんだと思ってるの?自分が面白ければ何でもいいと思ってるの?酷いよ、酷すぎるじゃない!!生きたくても生きられなかった人がいるって言うのに!!
〈……と共に動機の解明を進めるとのことです〉
怒りを込めて電気屋の前から去る。犯人だという男子児童に対して強い憎しみが湧き上がっていた。他人の命を何とも思っていないであろうその子に。
なんだろうこの感覚。胸の内から激しい慟哭が出てきそうな、感情に突き動かされて何をするかわからないこの感覚。もしその犯人の子が目に前にいたら縊り殺しそうな、そんな感覚。
そうだ、結局私も皆んなもよく知らない人間の事なんか大事にできないんだ。ゾイを追い込んだ元同級生達も、血の絵画事件の犯人の子も。きっと西ポートで核兵器疑惑が浮上したのも東西戦線が一触即発なのも同じ理論なんだ。やっぱり人間なんてそんなものだし、将来に希望なんてない。
大きく溜息を吐いて顔を上げると、目の前はさっきまでいた通りではなかった。
「あれ……?ここどこ……?」
商店街の路地裏のような、生活感あふれる狭い道に私は迷い込んでいた。来た道を戻ろうにも、何処から来たのかもわからない。誰か通らないかと思ったけれど、誰も来なかった。
どうしよう。闇雲に歩き回っても疲れるだけなら誰か通るまで大人しくしていた方がいいだろうか。でも、誰も来なかったら?日が暮れて真っ暗になっても帰れなかったら?どうしよう。どうすればいいか何も思いつかない。選ぶって難しい。
悄気て座り込んでいると、パンツスーツ姿の女性が通りかかった。こんな場所を通るスーツの人ならきっとここの住人に違いない。
「あ、あのっ……!」
「何でしょう?」
思い切り立ち上がって声をかけてみたその人はずいぶん背が低かった。平均身長より少し高い私より10cmくらい低い。
「ご用件が無いのでしたら、先を急がせて頂きたいのですが」
糸目な顔をじっと見てしまっていた事に気がつき、赤面する。そうだ、道を聞かなくちゃ。
「あ、の……ルノワール通りってどっち行けばいいですか……」
「ルノワール通りですか?随分離れていますね……口頭で伝えるより通りまで案内しましょう」
くるりと背を向けて直ぐに歩き出す女性。小さいのに謎に圧のあるその背中を慌てて追いかけていくが、細い道ばかり選んで通っていく。どこをどう移動しているのか皆目検討がつかない。地元の人は裏道を使うのに慣れてるものだ。
前にテレビで見た黄色い菊の花によく似た髪色のその人が途中で足を止めた。
「何があったんです……?」
「ルノワール通りに到着しましたよ?」
当たり前の事を聞かれて少し不思議そうに言う女性。その顔が見る先に目を向けると行きたかった雑貨屋の前だった。
「ありがとうございます……!」
「大した事ではありません。今度は迷わないように気をつけてくださいね」
「えっと、何かお礼、とか……」
「お気持ちだけで十分です。予定があるのでこれで失礼しますね」
颯爽とした小さな後ろ姿はあっという間に人混みへ消えて見えなくなった。綺麗にルージュを引いた口元がやけに印象に残った。言葉に鈍りがあった気がするけど、国際色豊かなこの国では全く珍しくないのでそっちは意識に残らなかった。
行ってみたかった雑貨屋であれこれ見ていると、お喋り好きな女性店主に話しかけられた。何処から来たのかとか、可愛いものが似合いそうだとか、このアロマはミクリカの店から取り寄せた物だとか、止まらない舌に適当に相槌を打つ。逃げ出そうにも逃げられないし、動けなくて困った。
ようやく解放されたのは、人生初のラズベリーアロマと猫のぬいぐるみを買った後だった。店を出るともう日が傾いている。時間を確認するともうすぐ退勤ラッシュになりそうなくらいだった。
帰り際に「隣の花屋さん『ル・ブケット』も行ってみると良いよ。きっとアンタも気に入る筈さ」と言われたので、折角ならと雑貨屋の包みを下げて隣の花屋を覗き込んでみる。
「薔薇……」
色とりどりの薔薇が並び、華やかな芳香を漂わせている。なんとなく薔薇は春の花だと思っていたが、夏にあるのは温室育ちだろうか。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
優しそうな女性が背中に小さい子を背負ったまま話しかけてくる。この店の人だろうか。
「薔薇って夏にもあるんですね……」
「えぇ、薔薇にも一季咲と四季咲きがありまして。こちらは四季咲きの品種なので暖かい時期はずっと花をつけるんですよ」
「そうなんですか……」
そう言えばゾイが薔薇が好きだって言ってたっけ。でもあれは本当だったのかな?単に気を引く為に言った事じゃなかったのかな?
「すみませーん」
「はい、いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
精算カウンターから誰かに呼ばれた店員の女性は、背中で眠っている子供を背負い直してお客さんを振り返る。やってきたお客さんは眼鏡をかけたスーツ姿の藍色の髪の男性だった。長めの襟足を一本の三つ編みにしている。
「小さい花籠ってできますか?」
「えぇ、ありますよ。どなたに贈られますか?」
「もう少しで長男が1歳になるんです。頑張ってくれてる妻に一足早く花を贈りたくて」
はにかんで答える男性からは妻と息子が愛しくてたまらないという空気が滲み出ていた。
微笑んだ店員はどんな花籠がいいのか色味や予算などを聞いているようだ。ついでに後ろにおぶっている子供にも話が飛んだらしく花籠以外も色々話しているように見受けられた。
「ありがとうございます。ファレイもきっと喜ぶと思います」
最後に花籠を入れた袋を持ってにこりと笑った男性は商店街の人混みに消えていった。
さて私はどうしよう。折角なら何か買って帰りたいけれど、これと言ったものが何も思い浮かばない。自分で考える練習のつもりだったのに結局流されてるな、今日。
「誰かに贈り物ですか?」
先程のスーツ姿の男性を見送った店員さんがこちらに微笑みかける。
贈り物……ではないな。でも何を言えばいいんだろう。
ふと、頭の中に灰色に沈んだ自宅のリビングが浮かんだ。もう少し明るくなったらいいなと思う。
「えっと……その、ちょっと今家の中が暗いイメージなので……花瓶に生けたら明るいイメージになりそうなのとか……ないですか?」
「そうですねぇ、こちらはいかがですか?」
手で示されたのは向日葵だった。
「夏の青空の下、まっすぐ咲く向日葵ならお部屋を明るく演出してくれますよ」
丁度目が覚めたのか背負われていた小さい子が不思議そうにキョロキョロ見渡し始めていた。
「それと、ラベンダーも一緒にあると良いかもしれませんね。同じく夏の花で、香りには心を落ち着ける効能がありますから。引き締める色味としても良いですよ」
「え、と……じゃぁそれで……」
ラッピングしてもらっている間にふと目を走らせた先に花言葉を紹介するポスターが貼ってあった。「ピンクの薔薇は感謝や幸福」など色々並んでいる中で黄色の薔薇が無い。他の色はあるのに。うっかり書き忘れたのだろうか……?
カウンターに目を戻すと、背負われている小さい子のスカイブルーの瞳と視線がぶつかった。何が面白かったのか、その子は一瞬きょとんとした顔をすると直ぐ花が咲くような笑みを零した。ゾイも小さい頃こんな顔をしたな、と思いながら私は微笑み返した。
決めた。私はゾイが好きだった黄色い薔薇を忘れない。その場凌ぎで言ったのかもしれなくても、ゾイが言った事だから忘れない。忘れたくない。
「すみません……黄色の薔薇、入れられますか?」
「できますけど……」
黄色い薔薇、と聞いた店員の顔が微かに曇った。
「弟が黄色の薔薇が好きだったんです。なのでお願いします」
自己満足、と言って仕舞えばそれまでだろう。でも黄色い薔薇を混ぜて欲しかった。ゾイが生きた証が欲しかった。
電子決済で支払いを済ませて店の外へ出る。思ったより値が張ってしまったが、問題なんてない。目的は果たせたのだから。
帰宅後、初めての冒険の成果としてゾイを意識した花束を花瓶に生けてみた。店員の女性が言った通り、灰色に沈んだリビングが一気に華やいだ。ゾイが笑った時のようだった。
その花瓶と私を見て両親は変な顔をした。喜ぶでもなく怒るでもなく悲しむでもなく。何故か私を連れて精神科に行ったが、結果は「抑うつ傾向があるので経過観察。他は異常なし」だった。何故いきなり精神科に連れて行かれたのか私にはわからなかった。何処も異常なんてなかったのに。
9月、私は高校2年生になった。その頃に両親は狂ったように亡くなったゾイの分の期待を私に押し付けるようになっていた。良い大学に行けるよう勉強しなさいとか、身繕いをきちんとするようにとか、不健康であってはいけないとか、笑顔で印象良くいなさいとか。
今まで私の事を
絶望と呼んで忌避していた癖に。言って聞かせてくる父母の目をチラリとみると、いつも私ではなくゾイが映っているのが見えた。私の為に言っている訳ではないのが明け透けで吐き気がした。死して尚、両親の愛情をゾイが独り占めしているように見えて悔しく思う自分が不快だった。
とは言え、言われた通り従順に服従していれば波風は立たない。ゾイの代替品だと分かった上で私はこの立場を受け入れた。他人任せにしないとあの日決意した事はすっかり記憶から抜け落ちていた。
その高校2年生の愛の日。私は初めて告白された。懺悔の意味での告白ではなく、恋愛的な意味で。
告白してきた相手、テリー・ナッシュはクラス内でも異色の人物だった。勉強は平均より上だと聞いたが、発言が斜め上で面白いと思うか、変だと敬遠するか二極化する人物だった。友人がいないのか、休み時間は屯してゲームするより本を読んだり寝ていたりした。
ついでに言えば目鼻立ちが決して良い方ではない。しかも顔中にできたニキビ痕が窪んで残っていて痛々しい。
私としては別にナッシュの事は好きではなかった。もう少し正確に言えば、恋愛的に誰かを好きになる感覚がわからなかった。なんで特に話した事もないのに告白してくるのかも理解できなかった。母に「今は勉強に専念する時なんだから恋人なんて作っちゃダメよ」と言われていたので率直に断る事にした。
「今は勉強に集中したいから、そう言われても無理」
ナッシュは一瞬驚いたようだったが、すぐ「うん、それも一理あるな……」と言って何か考えたようだった。
「じゃぁ、勉強友達にならなってくれますか?」
勉強友達。それなら悪くない。いれば勉強も捗るだろう。
「うん。志望校受かるまでね」
「じゃぁこれから宜しく、セラピアさん」
こうしてナッシュとの奇妙な友情が始まった。集合場所は決まって放課後の図書室。利用者もまばらな図書室ならば、多少の雑談は問題ない。休み時間は決して寄り付かず、この図書室と帰りも校門までしか一緒にいない関係。ナッシュとの会話は楽だった。誰かの悪い噂話とか、最新コスメや芸能人の話題なんて出てこない。この間ウェブ記事で読んだとか言う思考問題や、今の国際情勢や、雑学が会話の中心になった。たまに先生の話をするくらいで、個人的な事を聞かれないのも気を張らなくて楽だった。勿論、勉強友達の名に相応しく、ナッシュと勉強会を始めてからお互い成績が上がったのは喜ばしい事だ。
帰りがけ、2人して校内の格安自販機でコーヒーを買って飲んでいるとふとナッシュが口を開いた。
「セラピアさん、どこの大学行くか決めてる?」
個人の事はあまり聞かない、と暗黙の了解でここまで来ていたのに。やはりナッシュでもそれを聞くんだと思うと気分が下がる。
「教育学部のあるとこ行って、高校教師になる予定」
「そっかぁ、そこまで決めてるんだ。凄いなー」
凄くないよ。私はゾイの代わりに生きてるだけだから。
「ナッシュは?」
「僕?僕は文学部。その先は何も決まってなくてね。なんか将来って言われても漠然とし過ぎてて大海に放り出された気分になるんだよなぁ……そのまま行ったら将来は藻屑かな。セラピアさんはなんで高校教師になりたいって思ったんです?」
「なんで……なんでだろう」
「なんとなくカッコいいなーみたいな?」
「うーん、うちの親が『教師は安定した仕事だから』って行ってたからかな……」
そう答えるしかない。教師に憧れた事は無いとは言わないが、どうも自分がなった姿は想像できなかった。尤も、どんな姿もしっくり来なかったが。
「セラピアさんさぁ、それでいいんですか?」
いつもは飄々としたナッシュが珍しく怒ったような顔をしていた。ナッシュには関係無いし怒る事ないのに。
「なりたいものなんてない。30まで生きてると思ってないし」
「命短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に。熱き血潮の冷えぬ間に。明日の月日のないものを」
何の詩か私にはわからないが、誦じてみせるナッシュ。
「短い人生だって思うなら、それこそ楽しく図太く生きた方が良いと思いますけど。僕の私見ですが」
「楽しく、図太く……ね」
生憎人生楽しいと思えた事は無い。さっさとこの馬鹿げた世界から抜け出して、ゾイと一緒に冷たい土の中で永遠に眠りたいのに。見始めたテレビを消せずにダラダラつけっぱなしにしたような私の人生、誰かにふっと消して貰えないかと期待してしまう。
「僕は文学部行って、小説極めたいなって思ってます。小説家になりたいのかまだわからないけど、もし僕の書いた話で救える誰かがいるなら居てほしいって思う。蚤の戯言かもしれませんが」
「誰かを救える……?」
ナッシュは誰かを救いたいと言った。救える側に貴方はいるの?
「セラピアさんは?」
キラキラと目を光らせて私を見るナッシュが怖くて俯いてしまう。そんな目で見ないで。ないないづくしなのが私だもの。期待するものは提供できないんだから。
「私は……」
「うん」
「私は……わからない。何も思い当たらないから」
がっかりしただろう、ナッシュは。証拠に肩が下がっている。
「まぁ、何か夢があると張り合いがでますよ。どっかで見つければいいんじゃないですか?」
無理にフォローしようとしたのかもしれない。夢で張り合いって何だそれ。
でも何故か『小説で誰かを救えるなら』と言ったナッシュの言葉が頭から離れずに、もやりとしたものが私の中で渦巻いた。判然としないその蟠りは、やがてゾイの姿になり、霧散して消えた。雨上がりに決意した「自分で考える事」と、1人で向かったルノワール通りで出会った様々な事が頭の中に色鮮やかに浮かび上がる。
一晩置いて考えに考え抜いた先に一つの出口を見つけた。
「昨日のことだけど」
放課後、いつもの図書室の勉強会で私はナッシュに宣言した。
「セラピアって名前に恥じない人になりたい。セラピアには癒しって意味があるらしいから。だから
絶望じゃなくて
希望になりたい」
「ほほぅ?」
「だから、今日から私はアペルピシアじゃなくてエル。エルってあだ名に決めたから」
「これまた唐突だねー……」
半ば呆れた顔をしつつもナッシュはニヤリと笑った。
「いいんじゃないですか?今度からエルさんって呼ぶよ」
ナッシュに認めて貰えた。誰かに言われて決めたんじゃなくて、自分で決められたんだ。
「じゃ、エルさんはどうやって希望になるんですか?」
そう言われて困った。そこまで考えてなかった。
「えっと……」
「ふむ。癒しといえばカウンセラーですかね。学校や企業にいる。子供電話相談室の人、臨床心理士、アロマセラピストとか、マッサージの専門家とか、教祖様とか?」
「いきなり教祖様は振り切れてない……?」
「心療内科医とか精神科医とか」
精神科医。ゾイが沢山お世話になった精神科医。痩せ細っていくゾイを何度も入院させようと両親を説得したものの、精神科病棟を毛嫌いしていた両親は決して首を縦にふらなかった。もしあの時入院できていれば未来は変わったのだろうか。実際の病棟を私は見た事がないと今更気づいた。
「……精神科病棟ってどんなところなんだろうね」
「調べますか?」
ちょいちょい、と携帯型端末を操作したナッシュが見せたのは、想像していたのとは違う明るい病棟だった。
「『当院では拘束具を使いません』。これも書いてあるだけかもしれないけどね」
半分嗤うように言うナッシュ。
「ほほぅ……『自分の事は自分で決める、患者様主体をコンセプトにしております』。思ったよりライトだな。家族の向け勉強会もしてるんですねー」
家族向けの勉強会、と聞いて風の吹くままに揺れていた軸芯がピンっと伸びた気がした。
「精神科医になりたい」
ポッと口をついて出た言葉。初めて自分の中から出てきた夢。大人に期待も何もなく、夢なんて馬鹿らしいと思っていたのに。
霧の中を歩く迷い人のように、羊水の中にぼんやり浮かぶ胎児のように、現実が現実に見えていなかった私の目が明確な未来を捉えた。
あの時、ゾイに起きていた事が何だったのか私は知りたかった。家でどんな世話をすればいいのか直接医師から聞きたかった。両親が何処まで本当にゾイの事を考えていたのか、もしくは自分の納得する事しかしなかったのか、知りたかった。
「弟みたいになる前に誰かを救えたら良い」
いきなりそんな事を言った私を見たナッシュは半ば呆れたように「へぇ」と気の抜けた声を出した。
「精神科って言っても医者だよ?エルさんの偏差値大丈夫?」
私の成績はトップクラス……という訳ではない。先頭集団の少し後ろを行く私の偏差値で医学部に受かるかどうか怪しいとナッシュに言われて気付いた。
「うっ……勉強する。今から」
「なら頑張ればいいんじゃないですか?夢があった方が張り合い出るってもんだし」
じゃぁ勉強しなくちゃだな、と伸びをしたナッシュは化学の問題集を開いた。
この話をした日から、私は死に物狂いで勉強を始めた。夢としては遅咲きだと思う。それでも精神科医になってゾイに何が起きていたのか知りたい気持ちから、兎に角勉強に執着した。学校が休みの日でも、1日のうち起きている時間は食事・風呂・トイレを除くほぼ全ての時間を勉強に当てた。今まで勉強に打ち込んだ事がなかったのもあり、先頭集団を追い抜く巻き返しはかなり大変だった。それでも、一つ一つわかる事や知っている事、できる事が増える度に靄のかかっていた脳内が鮮明になっていく気がした。時間が滞留していた私の中に涼やかな風が吹き込むようになっていた。
医学部を目指す事について両親は反対した。今まで狙えるような成績ではなかったはずだと。一時の思いつきで動くものではないと。どれだけ学費がかかると思っているのか、医師より教員の方がずっと身の丈に合っているはずだと。
何を言われても私は一切耳を貸さなかった。親譲りの反骨心だろう。反対されればされるほど、私の決意は揺るがなくなった。結局両親が根負けし、国立カンテ大学である事と奨学金を貰ってくる事の2点が条件として出された。一も二もなく私はその条件を飲んだ。
国立カンテ大学医学部しか行く場所がないのはかなりのプレッシャーだったが、もう諦める事はなかったし、投げやりになる事もなかった。
ナッシュの志望しているのは文学部で、医学部志望の私と重点的に勉強する内容が違ったのもあり、段々と同じ空間を共有するだけになった。面接練習の時くらいしか話さなくなっていたが、1人で勉強するよりずっと寂しくなかった。
家では息抜きがてら雑貨屋で買った猫のぬいぐるみに話しかけたり、ラズベリーアロマの香りを嗅いだり、近所を散歩しながら課題のエッセイに書けそうなネタを考えた。
飛ぶようにすぎた高校2年と3年。奨学金の予約は取れたし、勉強し続けたおかげで学年でもトップクラスの成績を取れるようになっていた。勿論、先生に推薦状も書いて貰えた。
2160年3月。合否通知が直接メールで届いた。プレゼントボックスが開くモーション付きのメールで合格だと伝えられた。
張り詰めていた気がプツリと切れて一気に脱力した。スタート地点に立ったに過ぎないが、スタートに立って良いと招かれた事が嬉しかった。アペルピシア・セラピア一個人が社会に認められたような嬉しさだった。
結果を両親に報告するととても喜んだ。そして「ゾイの分まで頑張ってお医者様になりなさい」と言われた。何処まで行っても両親にとって私はゾイの代替品で、ゾイがいたら私の方なんて見向きもしなかっただろう。なんで“私”を認めてくれないのか、なんて考えるだけ無駄な事。望まれた子じゃないからだ。
合格できたとナッシュに報告すると「おめでとう」と言ってくれた。そのナッシュは4月に合格通知を受け取った。私が話を聞いたのは例によって放課後の図書室だった。「おめでとう。小説極めるの頑張ってね」と言うと、何故かナッシュは詩歌の棚を見ながら考え込むように目を伏せていた。
「運命は星が決めるのではない、我々の思いが決めるのだ……」
「なんて?」
「エルさん」
「なに」
「志望校受かるまでって約束は今も続いてますか?」
「え?」
約束なんてあっただろうかと思って一瞬考える。そうして思い出したのは高校2年の愛の日に志望校合格まで勉強友達でいようと言った事だった。
ナッシュは詩歌の棚を見上げたまま口を開いた。
「僕はエルさんのことが、アペルピシア・セラピアさんのことが好きです」
詩歌の背表紙から目を離し、私の方を真っ直ぐに見るナッシュ。その混じり気のない澄んだ瞳に思わず怯む。
「勉強友達としては終わっても、恋人として続けませんか」
ナッシュの言葉に驚いて唖然と見上げていると、彼の顔に悪戯っ子の笑みが浮かんだ。
「……なんて言ったら驚くかなと思って。勉強友達って約束した時、受かったらもう一度告白しようって思ったけど、一緒にいてわかりました。エルさんは誰とも仲良くなりたくないんでしょ」
言い切ったナッシュは今度はニヒルな黒い笑みを浮かべた。
「大学違うし、近くもないから卒業後にもう会う事は無いね」
鞄を持ち上げたナッシュはそのまま私の横をすり抜ける。
「じゃぁね。元気で」
それだけ言って本棚の群れに消えるナッシュの背中を私は追いかけられなかった。
待って、そうじゃない。そうじゃない。仲良くなりたくないなんて思ってない。その逆なのに。もっと知ってもいいかもしれないって思ったのに。
けれど、そう思うほどに失望された衝撃で息が詰まって苦しかった。
そうか。私はないないづくしだから失望されて当然なんだ。愛も夢もない無為な世界の住人、それが私なんだから。勝手に希望を持ったのは向こうじゃないか。私が傷つく事なんてない。
なのに、なんでこんなに息ができないのだろう。
ナッシュとの仲が噂になっていたらしい、と知ったのは卒業式の日だった。実はナッシュが愛の日に告白した事も、それを私が断った事も情報通たちは知っていた。一部ではナッシュが振られるかどうかでジュースを賭けたそうだ。断ったのに図書室で一緒に勉強しているところを見て、今後の進展をニヤニヤしながら話題にしていたらしい。
この話を教えてくれた女子が言うには、私にそれとなくアプローチしていた物好きな男子が他にいたらしい。ナッシュの事も快く思っておらず、あれこれちょっかいをかけていたと言う。全く身に覚えがないし、ナッシュからも聞いた覚えがなかった。……いや、訊かなかったからか。
馬鹿みたい。というか馬鹿にしか見えない。恋愛感情というものを持っているのが普通で、それが大きな関心事なのだろう。私にはナッシュと時間を共有しても何がそこまで面白いものか結局わからなかった。ただ単に同じ話題で話して楽しい、それだけではダメなのだろうか。
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