薄明のカンテ - タナトスに惹かれ生きるを知る/涼風慈雨

アペルピシア・セラピアの昔の話】

「こんな世界」と嘆く誰かの生きる理由になれるでしょうかーー誰かの心臓になれたなら/ユリイ・カノン

生まれた意味ってなんですか

 小さい頃から「大人になったら何になりたい?」という質問が嫌いだった。未来に何かの希望を期待できなかったのだと思う。だから、周囲の子が花嫁さんと言えば花嫁さんと言い、パティシエと言うならパティシエと言った。そう言っておけば大人たちはニコニコ笑って褒めてそれ以上は聞いてこないからだ。
 そんなわけで大した自我を持たず、ぼんやりとただ学校とか世間とか言う波に上手く乗って生きてきた。有難い事に、頭だけは物覚えが良かったので意見を言わなくて良い学習面での成績は良かった。覚えろと言われた事を覚え、問題集の解答例を丸暗記し、意見を聞かれたら周囲が書きそうな意見を答えてやり過ごす。流石に先生には看破されたらしく、生活欄では自主自立性や思いやりの項目が低かったが。
 決して周囲と違うのが怖いとか仲間外れが怖いとか、そう言った類のものではない。自分の中に何の意見もないのに意見を言えと強制されても無い袖は振れないだけだ。
 「大人になったら」と言われてもピンと来なかったのもあったが、当時本当に未来への希望が馬鹿らしく思えた。強くそれを認識するようになったのは小学校高学年の時、己の出自を知った時だった。
 母がいつもの夫婦喧嘩で放った言葉『あの時お腹に子がいなかったらアンタなんかと結婚しなかった』だった。『だから絶望なんだろ?無理して産まなくたって良かったんだ』と売り言葉に買い言葉のように父は答えた。
 意味はよくわからなかったけれど、両親が所謂Shotgunweddingできちゃった結婚だったという話は薄っすら聞いていた。私の上に兄も姉もいない。正真正銘第一子は私。『無理して産まなくたって』と言うからには堕ろされていたかもしれないと小学生の拙い知識でもわかってしまった。
 そして「アペルピシア」にはミュトス語で絶望の意味があると知っていた私は「私が生まれなければ両親は喧嘩しなかった」「大人になったって所詮はあんなものだ」と結論した。そして大人への憧れを捨て、未来への希望を棄てた。
 訳もわからず両親の間に割って入ろうとしていた弟のゾイが飛び出さないように捕まえて、そっとその場を離れたが、数日、両親の言葉が耳から離れず悩んだ。それでも何もなかったように知らなかったように今までと変わらず接した。
 いや、正確に言おう。元から家族らしい交流なんて文化は私と両親の間に無かった。つまり、いつも通りにただの同居人として無感情に接していたのだ。
 思い返せえば両親は世間の言う両親像とどこか噛み合っていなかった。私に向けて無条件の優しさをくれた事なんてあっただろうか。何か要求すれば「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われる。周囲の弟妹のいる子達も似たような事を言われたことがあると聞いたので別段不思議には思っていなかった言葉だが、中学に上がる時に差を突きつけられる事になった。
 年始に親戚が集まる事になって、そこで私は中学の制服のお下がりを貰った。親戚の子が同じ学校に通っていたのでその時のものだそうだ。この時の私は知らなかったが、奇しくも制服のデザインが少し変わったのは私の代だった。中学3年間、型落ちを着て通う事になったと知ったのは入学式の日だった。
 もしこれで、普段から倹しい暮らしをしているというなら良かったのに。私だけじゃなくて家族みんなでそんな暮らしをしていたなら良かったのに。
 私が中学のお下がりの制服を貰った日、ゾイは両親から新品の流行りのゲーム機を貰った。海上の青い星とかいうアニメをベースにしたゲームなのだと言う。
 正直、羨ましかった。何もないはずの私の中にドロリとした何とも気持ちの悪い感情が込み上げてきた。7歳も離れた弟に嫉妬するのも姉としてどうなのかと思うが、私は両親から流行りの新品の物を買って貰った事はなかった。いつもリサイクル品か格安ショップのものばかりで、格安ショップ以外で新品だったのは学校指定で一斉購入するものくらいだった。
 私の時には何もくれなかったくせに。苦労は買ってでもするものとか偉そうな事を垂れたくせに。親戚から貰う小遣いを少しずつ貯めてようやく流行りの文具一つ買ってたのに。ゾイの名前だって「生きる者」という私とは正反対の意味がある。明るい意味を持つその名前すらも羨ましい。
 思っても言えないなら思うだけ無駄なので特に感情なく「良かったね」とゾイに声ををかける。そうすると本当にいい笑顔でゾイは笑って頷いた。「今度お姉ちゃんにも使わせてあげるからね」と言われて私の中の醜い嫉妬心が溶けて崩れていくくらいには。ゾイは不思議な子だった。
 差を突きつけられてささくれ立った気持ちを一瞬で静めたゾイ。
 ゾイはセラピア家のつなぎ目だったと思う。ゾイが生まれるまで、家族は本当にバラバラだった。両親は仕事を理由に私の授業参観にも運動会にも来なかったし、親の帰宅が遅くてスナック菓子だけ食べて寝た事もあった。父が会社の接待だか何だかで朝に帰って来る事もあった。母には家にいる時も私の事はただそこにある置物と変わらない認識しかされていなかったように思える。幼稚園や学校で作った物は散らかるからと問答無用で捨てられた。
 ゾイが生まれてから、何もかも変わった。両親は育児に熱心になったし、私には小さい母親として仕事をさせようとした。やりたいと言った事は一度もなかったが、やるようにと言われたから弟の世話も頑張って覚えた。便利な道具でもいいから存在意義が欲しかった。
 理由はどうであれ、セラピア家はゾイを中心にまとまっていった。私の存在意義はゾイの姉である事だけだった。

 2154年9月。中学生になった私は、変わらず漠然と生きていた。制服のことや天然パーマを揶揄う人もいなかったし、危ない人に目をつけられる事もなかった。何事につけて可もなく不可もなく。ないないづくしの目立たない生徒。理数系の授業は好きだったけれど、目覚ましく出来たわけではなかった。
 友人というか一緒にいる人にも恵まれた。3人組にプラスアルファの立ち位置だったけど、このクラスで最初に声をかけてくれたグループだし、いつものグループがないと色々不便なので一応所属している事にした。
 恋バナは聞き専で他人の輝く顔をガラス一枚向こうに眺めるばかり。恋愛感情がなんたるかもわからなかったが「好きな子がいないのは変だ」と言われたからとりあえず1番人気の男子の名前を出して「でも無理だから遠くから憧れるだけにしとく」と宣言しておいた。別に一欠片も好きじゃなかったけど。1番人気なら1人2人ファンが増えても問題ないだろうと勝手に引き合いに出したのは悪かったかもしれない。
 相変わらず私の学校行事に両親も親戚も来なかったし、私も来てとは言わなかった。ゾイの幼稚園の行事には行ったみたいだけど。放っておかれるのは慣れているし、親が来ない同級生もいるから別に問題はない。
 問題なんてないーーそう思っていたのが覆されたのは中学1年生もそろそろ終わると言う少し暑い日だった。暑さに音を上げて学校帰りに自動販売機を見つけていつもの4人組で立ち寄った時の事だ。
「あっつい〜!もう無理死んじゃうからジュース買う!!
「何、アンタお金持ってきてんの?校則は?」
「いーの、いーの!ルールは破る為にぃ?あるぅぅ!」
「ちょっと暑苦しいよ。その元気があるならジュース要らないんじゃね?」
 話している3人の後ろで無言で自販機を見る私。確かに今日は暑い。今だって止めどなく額から汗が流れ落ちている。でも我慢できないような感覚はないし、話がどちらに転がっても構わない。
「ふふん、でも今日は機嫌がいいのだ!心の広い私が特別に全員分奢ってやろう!」
「えーマジー!?太っ腹ー!」
「ついでに腹の肉も増えただろ〜」
 そう言いながら奢ると言った子の腹をつつく女子。
「言うなて!奢らないよ?」
 私からすれば戯れあっている3人はそっくりな三つ子に思える。いや、同じ髪型に近づけているし私も含めて四つ子だろうか。
「ねー、アペルピシアどうするー?」
「なんでもいいよ」
「なんでもいいってないでしょ?どれにする?」
 他の3人が手に持っているものを見比べてから「じゃぁそっちと同じので」と言うと心配そうに顔を覗き込まれた。
「アペルピシアさー、なんで毎回自分の意見言わないのさ」
「そうだよねぇ、前から思ってた。いいんだよ?自己主張して」
「そうそう。いつも真似ばっかりすることないじゃん」
 そう言われても意見がないのだから主張する物が無い。生憎、これと言って譲れない信条とか特別好きなものも無かったし、健康にも問題がない。あぁそうか。自己紹介する時も適当な事並べてたな。なんとなく統計的にみんなが言いそうな事を考えてそれらしい自己紹介をする。感覚的な好き嫌いには無頓着で、辛いか辛く無いかしか自分の中には基準がなかったから、嘘でも本当でもない自己紹介をしていた。
「ほら、私何にでも合わせられるから」
 そう言うと大抵の人は引き下がってくれる。そしてこの3人も同じだった。何事もなかったように買ったジュースを飲んで、今日の授業や先生の愚痴をこぼして、馬鹿みたいな話をして、ただ帰るだけ。それで終わるかと思ったら、どうも翌日から3人の様子がおかしい。前より表情がぎこちないし、なんだか私は邪魔にされているらしいと読み取れた。それでつまりは「あっち行け」と言われている気がしたから付かず離れずの位置で1人になった。
 グループから抜けても別に大きな問題はなかった。グループ学習の時は誰かが拾ってくれたし、休み時間にぼーっと何もせずにいるのも辛くなかったから。
 好き嫌いに無頓着だなんて言うと、よっぽど余裕のない人生だったのかと思うだろうか?決してそんな事はない。中学になってから前より両親の喧嘩は減ったし、衣食住と学費はきちんとあったし、面倒な人間関係もなかったし、ゾイもかわいかった。私は何も不足してない。それなのに、幼き日に抱いた未来への絶望が何故か自分の中にがらんどうで虚な感覚を形成していた。
 いつしかその感覚がふとした瞬間に影を落とすようになり、緩やかな希死念慮を描いていった。それは授業中に空を見上げた瞬間だったり、誰もいない教室を見た時だったり、幸せそうなカップルを見た時だったり、色んな時に理由もなくぼんやりと「死ねないかなぁ」と思っていた。いきなり隕石が降ってきたらいいとか、不審者が侵入してきて人質にされたらいいとか。荒唐無稽だと思いながらも暇潰し代わりにどうやったら死ねるかとばかり考えていた。
 もしかしたら、死に方の模索は初めて私が没頭した事だったかもしれない。食や睡眠を含めて何にも執着せず、誰かに言われた事しかできなかったのに、死に方の模索だけは何かに影響された訳ではなく傾倒していった。
 テレビで見た紛争後の東ポート人の貼り付けた表情だったり、国会で唾を飛ばしあってる議員の様子だったり、隣の席でバカ話をしている男子だったり、恋愛とお洒落の話しかしない女子だったり、そういったものを見るとこの世界が存在している事自体が酷く馬鹿らしく思えた。未来とか希望とか絆とか団結とか、そんな言葉も馬鹿らしく聞こえた。どんな事もいずれ終わるし、人間だっていつか死んでしまうのだから、どれもこれも意味のない事に思えた。周囲で起こる全てが水中にいるかのように鈍く聞こえていた。
 とは言え、馬鹿らしいと思った私自身の中には、答えになり得るものは何も持ち合わせていなかったけれど。
 

生者の悲しみ

 2155年9月。私は中学2年生になり、ゾイは小学校に入学した。ピカピカの新品の制服を着たゾイはいっぱい友達を作るのだとキラキラした笑顔で語っていた。
 ゾイの小学校の制服は私が通っていた学校のものではない。私立で藤語に力を入れている小学校だ。両親がゾイに大きな期待や多大の愛情をかけているのが一目瞭然だった。
 私が母の腹に宿ったのは一時の間違いの結果で、母が私を産むと決めたのは親戚中から反対された時の反骨心だった。親になる準備とか心構えだって何もない時に生まれた私。それに対してゾイは望まれて生まれてきた。愛されて当然だ。
 流石に私の事を放っておきすぎたらしく、親戚から指摘されて初めて流行りの可愛い服を買ってもらえた。でもそれは指摘してきた親戚の手前というだけで私には一言も聞いてくれなかった。尤も、聞かれたとしてもなんでもいいとしか答えなかっただろうけれど。
 
 ある日、傘を忘れた。校舎の外はしとしと雨が降っていて、皆んな自分の傘を開いてさっさと帰っていく。入れてと言える相手は私にはいない。ぼんやり突っ立っていたら誰か助けてくれないだろうかと思ったけれど、流石にそんなに世間は甘くない。一つ溜息をついてカバンを頭に乗せて雨の中に踏み出した。
 通学路の途中にある屋根付きのベンチに駆け込んで一休みする。癖っ毛が湿気を含んでいつもより巻いているし、カバンからはみ出た肩はずぶ濡れ。どうせまた濡れるなら拭くのも面倒だと何もせずベンチに座ってぼんやり歩道を見る。色とりどりの傘が通っていき、自動車は飛沫を上げながら通り過ぎていく。
 相変わらず雨はしとしと降っている。
 意見のない私も多少は未来を考えられるようになったけれど、どうしても30歳以降まで道が続いているように思えなかった。
「此処にダンプカーでも突っ込んでこないかなー」
 小さく呟いた声は目の前を通り過ぎたトラックのエンジン音に掻き消された。
「帰りたくないなー……」
 自分で呟いて驚いた。私にもそんな欲求があったんだ。
「雨で増水した海なら……いや、溺死は苦しいからやだな……」
「あ、おねーちゃん!」
 ゾイの声が聞こえたと思って振り返ると、制服を着たゾイが傘をさして立っていた。
「ゾイ、おかえり」
「えへへ、ただいまおねーちゃん!傘忘れたの?入る?」
 笑顔で傘を差し出すゾイ。小学1年生が使うには大きい傘をやっと持っているような状態だ。ゾイが言うなら入れて貰おうと傘を受け取る。
「破れてるけど」
「これねー、振り回したら引っかけちゃったんだよねー」
 困り顔でゾイは笑って言っていた。数カ所切れ目ができている。ゾイもしっかりしているとは言っても小学1年生。傘を振り回す男子はどこにでもいるので「傘は振りましちゃダメだってママ言ってたよ」とやんわり言っておくことにした。
「うん、今度から気をつけるー」
 ニコッと笑うゾイ。道沿いの花屋に並んでいる薔薇を指差して「ぼくねーあの黄色い花好きなんだーキレイだよねー」とあれこれ話し始めたので適当に相槌を打って家路を急いだ。
 ゾイが初めて学校を休んだのは翌日だった。38℃の発熱だった。雨に濡れて風邪を引いたのではないかと疑って母は早速ゾイを連れて病院に行った。だが検査結果に特に問題はなかったと言われた。発熱以外の症状と言えばまるで食欲が無い事くらいで、他はいつも通りだった。
 翌日も、その翌日も、ゾイの発熱は37℃台から下がらなかった。辛そうだからと父が飲ませた解熱剤は効かなかった。ふらふらしながらも最初はきちんと朝に起きていたのが、いつの間にか起きてこないようになった。昼過ぎに起きてきて少し食べて直ぐまた寝てしまう生活になっていた。
 両親はゾイがなんの病気なのか知りたくてあちこちの病院へ連れて行き、いくつ目かの病院で降りた診断は心因性発熱と起立性調節性障害だったそうだ。医師は学校や家庭でストレスの原因になりそうなものが無かったかゾイに聞いたそうだが、ぼんやりとした目線で否と首を振ったのだと言う。
 本人が否定するのだから学校に言うのも二の足を踏んでしまう。だが両親はゾイの言った事を横に置いて学校に徹底追及する姿勢をとった。結果、ゾイがいじめの被害者になっていた事実が浮上してきた。
 思い返せば、学校帰りにゾイが1人でいたのはおかしかった。一緒に帰る同級生どころか、周りに誰もいなかったのは不自然だった。あの破けた傘だって引っかけた破れ目ではなくハサミか何か刃物で切ったような切り口だった。学校側から出てきた話では学校行事やグループ学習の時も1人だったのだと言う。何が原因だったのかは分からず仕舞いだったが、学校を休んだ頃には先生の見ていないところで仲間はずれや持ち物隠しなどのいじめが起きていた。それをゾイは誰にも言わずに1人で抱え込んで親にも私にもいじめの事実を話さなかったのだ。
 最終的に加害者側だった子達もその親も謝罪して示談も成立して表面上は収束した。気がかりな事が一つ消えたからかゾイの熱は下がったものの、1日の大半を眠って過ごす現実は変わらなかったし、ほとんど食べ物を口にしないのも変わらなかった。前の明るい笑顔もゾイの顔にはもう浮かばなかった。
 なんとかゾイに元気になって欲しかった私は、両親に言われた事をこなし、出来る時はゾイの世話をし、自分の話は何も言わなかった。ゾイがいなくなったらこの家はまた前のバラバラな状態に戻ってしまう。私の存在意義さえも無くなってしまうのだ。
 初めて小さな観葉植物を買ってきたのはこの頃だった。部屋から一歩も出ようとしなくなったゾイの支えになればと思って薄暗い部屋の窓際に置いた。少し視線を動かしただけでゾイは何も言わなかったけれど、その日はいつもより少しだけ飲んだスープの量が多かった。
 ゾイの元同級生たちが小学3年生になった2157年9月、私は高校1年生になった。進路指導の先生に勧められるまま進んだ通知表の結果通りのランクの高校だ。別に長生きしたいとか将来の夢とかそんな感覚は毛頭なかったので、どこでも良かった。
 その頃になるとゾイは自力で立ち上がる事も出来なくなっていた。精神科病棟に入院させて回復を待った方が良いと何度も主治医から言われたらしいが、精神科病棟への強い不信感から両親は絶対に承諾しなかった。
 来る日も来る日も私達家族はゾイの世話に明け暮れた。口に流し込まれるスープを中々飲んでくれない事もあった。抱き抱えて子守唄を歌い続けた事もあった。筋肉が無くならないように足や腕を動かしたり、反応がなくても話しかけ続けたりもした。勿論トイレの介助も必要だった。
 ゾイの介護をする私の中にはいつかの時のような羨望も嫉妬心も無くなっていた。忙しすぎたからか死に方の模索もしなくなっていた。ただ、前のようにゾイには明るく笑って欲しかった。「おねーちゃん」とまた呼んで欲しかった。
 両親が出かける間、ゾイの面倒を見るようにと言われた日。薄暗いゾイの部屋に入るとゾイはベッドから離れた床に倒れていた。
「ゾイ……!」
 慌てて抱き起こすとゾイは少しだけ目を開いて咳き込んだ。
「ね、ちゃ……」
 2年ぶりに聞いたゾイの声は酷く掠れていて、弱々しかった。最初に学校を休んだ日から私はゾイの声を聞いたことがなかった。
「ゾイ、自力で動けたんだ」
 そっと頭を撫でながら言う私の声にゾイは何も反応しなかった。虚な目はどこを見ているか分からない。
「動けたんだよ、凄いよ、ゾイ」
 ひゅぅと細く息を吸う音が聞こえた。
「ぼ、ずっと……こぁかった……」
 小さくて小さくて息と一緒に吐き出されたゾイの声。
「おねーちゃん、ゾイを1人にしないから」
 そう言って私は骨と皮ばかりの軽くなったゾイの身体を抱きしめた。あまり動かなかったゾイの口元がほんの少しだけ弧を描いた日だった。
 これが、私とゾイの最後の会話だった。
 2158年4月10日、ゾイは自室のベッドの上で静かに息を引き取った。まだ9歳になったばかりだった。今よりずっと楽しい事も辛い事も何一つ知らないまま、ゾイは自ら世界に別れを告げる事を選んだ。傘を差し出して笑ってくれた日と同じく雨が降っていた。
 泣き崩れる母も葬儀の準備をする父も私には知らない誰かに見えた。死因が死因なだけに親戚もかつての同級生にも知らせず家族だけで葬儀は行った。前に見た親戚の大きな葬儀と違って、誰も人は来なかった。
 ゾイの部屋で窓際に置いた観葉植物は数日後に枯れた。私が水をやらなくなったからだ。
 高校では前と変わらず、休み時間はぼんやりと何を考えるでもなく空を見上げて通過した鳥の数を数えたり死に方の模索をしていた。ゾイが亡くなろうと葬儀が終わろうと私は一雫も泣かず、負っていた荷がいきなり消えた寂寞感に戸惑っていた。
 悲しいか?といえば多分悲しいのだろう。楽になったか?といえばそれも間違っていない気がする。悼んでいるか?といえばーーわからなかった。私の世界を構成していたパーツが一つ消えた、ただそれだけのように思えた。
 ある日、雨の音で目が覚めた。外は夜も明け切らない薄明の時間だった。
 二度寝をしようにも眠気はどこかへ去ってしまったので、暇つぶしにゾイの部屋に入り込んでベッドに腰掛けてみる。
 主人のいなくなったベッドには薄っすら埃が積もっていた。
 死にたかったのは私なのに。何も期待されてなかったのは私なのに。ゾイはもっともっと生きなくちゃいけなかったのに。私と違って愛されたんだから生きなくちゃいけなかったのに。
 響く雨音に誘われて、傘も持たずに外へ歩き出した。体に叩きつける雨粒が髪をぐっしょりと濡らし、衣服に吸い込まれて重くなっていく。
 濡れるまま歩く私を傘を持った人たちが避けていく。眼鏡を忘れたので視界が溶けている。そうだ、このまま雨に溶けたっていい。それでゾイが帰ってくるなら何も惜しくない。アペルピシア絶望の私じゃなくて、ゾイ生きる者が生きなくちゃいけないのに。
 行く宛もなく雨の中をふらりふらりと歩いていく。
 雨に濡れた廃線に水が溜まっていた。煤に汚れた古い病院の横を通り、黒い影になった送電塔の下を通る。バス停のある公園に大きな水溜りがあったのを見つけて中へ歩みを進めた。
 なんだか見覚えがあるなと思ったら、前にゾイを連れてきた事のある公園だった。歓声をあげて走り回っていたゾイの声が聞こえたような気がしたが、勿論此処には誰もいなかった。ゾイがこの世界に存在していた事まで否定するかのように静かだった。
 膝から力が抜けて水溜りの中に寝転ぶ。
 ゾイは薄暗い部屋の中で2年間何を見ていたのだろう?虚なあの目には何が写っていたのだろう?いじめっ子の顔だろうか。両親の惜しみない愛を注ぐ顔だろうか。小学校入学前のただ無邪気に遊んでいた頃の様子だろうか。それとも、辛かった記憶の上書きだろうか。たらればの世界に閉じこもっていたのだろうか。わからない。私も両親もゾイの表面的な明るさばかり見て、本当の気持ちを聞いた事なんてなかったから。……否、聞こうとしなかったからだ。
 何でだろう。死にたかった私は今日も息をしている。なのに生きたかったゾイは明日を見失ってもういない。世の中は不条理だ。
 傘を差し出して笑ってくれたゾイを思い出しながら、水溜りの中で目を閉じる。頬に打ちつける雨が少し痛い。
 ごめんね、ゾイ。1人にしないって言ったのに。1人で旅立たせちゃってごめんね。時間差だけどこれから逝くんでもいいかな。この雨だったら模索した死に方が出来るかもしれない。生まれた時の惰性で生きてただけだから、テレビを消すみたいに死ねると思う。
 脱力。全身の筋肉から力を抜いて雨の流れに身を任せる。指先が冷えて痺れていく。
 これでいい。これで。ずっとこの時を待っていたんだ。
 夢も愛も何もないこの命に意味はなかったんだ。
 こんな命さえなければ私もゾイも辛い事なんて知らずにいられたんだから。
 閉じた瞼の裏に微笑んで手招くゾイが見える。
 今、逝くよ。
 雨粒が跳ねる音がガラス一枚向こうにぼやけて聞こえた。
 不意に、頬に当たっていた雨粒が無くなった。おかしいと思って薄目を開けると、そこにいたのは黒い傘を傾けてしゃがむ見知らぬ男子高校生だった。
「えっと……大丈夫か?」
 眼鏡がないので相手の顔はよく見えない。少なくともうちの高校と違う制服に見えた。小麦色に日焼けした肌に金色の髪の珍しい色味だけ認識できる。
「風邪ひくぞ?」
 あぁ煩いなぁ。このまま楽にならせてくれない?
「おーい……おい!?」
 肩を揺すられたが反応するのも面倒臭い。ぼんやり聞こえる声を無視して目を閉じる。
「大変だ、救急車呼ばないと!」
 救急車。ダメ、呼ばないで。ゾイを1人にできないから。呼ばないで。
 計画を阻止されないように、彼が携帯端末を取り出す手にしがみつく。
「大丈夫、です……お構いなく……」
 焦って戸惑う相手の声も聞こえなかった私は、顔も何も知らない人の手にしがみついた。
「大丈夫って感じには見えないんだけどー……」
「大丈夫、です。家、近いんで……ちゃんと帰ります……」
 此処で助かりたくない。このまま雨に溶けてしまいたい。
「事情はわからないけど、本当に大丈夫なんだよな?」
 落ちそうな首を振って肯定する。
「なら、せめてこれ使ってくれ」
 男子高校生はさしていた傘を私の肩に乗せた。
「ほら……その……パジャマで裸足のままってのも、なぁ?」
 言いにくそうに指摘されて漸く私は気がついた。そうだ、起きた時から着替えてなかった。
「おーい、何やってんだー!?」
 遠くから別の男子の声がする。この男子高校生の友人だろうか。
「ちゃんと帰れよ?」
 念押しすると彼はパッと駆け出して公園を出て行った。
「悪りぃ、傘入れてくれー!」
「ったく猫でもいたか?」
「猫じゃないけど……猫かもしれない」
 訝しんで「風邪引いた?受験大丈夫だよな?」と話している友人であろう人物の声を聞きながら、置いて行かれた傘の下で私は座り込んでいた。傘に穴は空いていなかった。
 寝転がろうと思った時、傘の向こうがとんでもなく明るい事に気がついた。そう言えば雨音もしない。周囲に波紋も広がっていない。
 傘をずらして目に飛び込んできたのは、東の空に広がる黄金の雲だった。濃い青と輝く橙色が織りなすビビットな抽象画のような朝焼け。その色彩に脳を撃ち抜かれたような衝撃がした。草むらから跳ねた雫が朝日を浴びて虹色に煌めく。並んだ家々が朝焼けに照らされて白く光っていた。雫を下げた自分の髪も朝日で金色に煌めいていた。
 世界はこんなにも色彩豊かだったのか。
「生きてる……」
 何でだろう。世界はこんなにも美しくて色鮮やかなのに、なんでこんなにも悲しいのだろう。
「うっ……」
 目頭が熱い。一筋の涙が頬を伝わっていくのがわかった。
「うわぁぁぁーーん!」
 決壊した涙と共に、形にならない思いが声になって溢れ出す。今までただ流されるままに、意見も感情も持たなかった私の中に初めて輪郭を持って現れたこの感情。
 ねぇ、ゾイ。ごめんね、ちゃんと話聞かなくて。ごめんね、知ろうとしなくって。もう同じ間違いはしないから。ごめんね、ゾイ。ゾイが叶えられなかった分も私が叶えるから。
 夢も愛も何もないこんな命でも、これがあったからゾイに逢えたんだから。
 だからね、もう全部他人任せにするのは辞める。ちゃんと自分で考えて、自分の決定で生きるよ。そうじゃないと、ゾイの分は背負えない気がするから。


生きるを知る

 2158年、夏。私は1人でラシアスの商店街に向かっていた。地域情報誌で雑貨屋の特集が組まれており、少し気になる店を見つけたのは一昨日の事。それで自分で考える練習がてら、雑貨屋を目指して出て来たところだった。
 今日着ている服は3年前に唯一新品で買って貰えた当時の流行りの服。明るくフェミニンな服は私の目にはセンス悪くは見えなかったので着ていく事にした。
 ちなみに例の傘には名前も学校名も何も書いていなかったので、後日公園のフェンスに引っ掛けておいた。どうなったか私は知らないけど、1週間後に無くなっていたのは確かだ。
 電気屋の前を通ると、テレビでニュース速報が入ったところだったらしい。でかでかと画面に速報のテロップが踊っている。折角なので、足を止めてアナウンサーの次の言葉を待ってみる。
〈……繰り返します。血の絵画事件の犯人が逮捕された模様です〉
 血の絵画事件。小学生男子が無残な方法で殺害され、あまつさえ犯人は遺体の様子を被害者の血で描いた絵と遺体の写真を並べてSNSに投稿したという猟奇的な事件だ。被害に遭った少年はゾイの一つ上の学年だったのもあり、犯人が早く捕まって欲しいと思っていたところに朗報だった。今までの報道では美術系専門学生の20代男性と言われていた。
〈えー、犯人は同じ学校に通う小学5年生の男子児童であり……〉
 耳を疑った。小学5年生の男の子?20代男性じゃなくて?今までの報道は何だったの?専門家の分析は?モンタージュ写真は?
〈関係者に寄りますと男子児童は『画材が欲しかった』との趣旨の発言をしているそうです〉
 画材。人1人殺しておいて画材扱い。ふざけないで欲しい。命をなんだと思ってるの?自分が面白ければ何でもいいと思ってるの?酷いよ、酷すぎるじゃない!!生きたくても生きられなかった人がいるって言うのに!!
〈……と共に動機の解明を進めるとのことです〉
 怒りを込めて電気屋の前から去る。犯人だという男子児童に対して強い憎しみが湧き上がっていた。他人の命を何とも思っていないであろうその子に。
 なんだろうこの感覚。胸の内から激しい慟哭が出てきそうな、感情に突き動かされて何をするかわからないこの感覚。もしその犯人の子が目に前にいたら縊り殺しそうな、そんな感覚。
 そうだ、結局私も皆んなもよく知らない人間の事なんか大事にできないんだ。ゾイを追い込んだ元同級生達も、血の絵画事件の犯人の子も。きっと西ポートで核兵器疑惑が浮上したのも東西戦線が一触即発なのも同じ理論なんだ。やっぱり人間なんてそんなものだし、将来に希望なんてない。
 大きく溜息を吐いて顔を上げると、目の前はさっきまでいた通りではなかった。
「あれ……?ここどこ……?」
 商店街の路地裏のような、生活感あふれる狭い道に私は迷い込んでいた。来た道を戻ろうにも、何処から来たのかもわからない。誰か通らないかと思ったけれど、誰も来なかった。
 どうしよう。闇雲に歩き回っても疲れるだけなら誰か通るまで大人しくしていた方がいいだろうか。でも、誰も来なかったら?日が暮れて真っ暗になっても帰れなかったら?どうしよう。どうすればいいか何も思いつかない。選ぶって難しい。
 悄気て座り込んでいると、パンツスーツ姿の女性が通りかかった。こんな場所を通るスーツの人ならきっとここの住人に違いない。
「あ、あのっ……!」
「何でしょう?」
 思い切り立ち上がって声をかけてみたその人はずいぶん背が低かった。平均身長より少し高い私より10cmくらい低い。
「ご用件が無いのでしたら、先を急がせて頂きたいのですが」
 糸目な顔をじっと見てしまっていた事に気がつき、赤面する。そうだ、道を聞かなくちゃ。
「あ、の……ルノワール通りってどっち行けばいいですか……」
「ルノワール通りですか?随分離れていますね……口頭で伝えるより通りまで案内しましょう」
 くるりと背を向けて直ぐに歩き出す女性。小さいのに謎に圧のあるその背中を慌てて追いかけていくが、細い道ばかり選んで通っていく。どこをどう移動しているのか皆目検討がつかない。地元の人は裏道を使うのに慣れてるものだ。
 前にテレビで見た黄色い菊の花によく似た髪色のその人が途中で足を止めた。
「何があったんです……?」
「ルノワール通りに到着しましたよ?」
 当たり前の事を聞かれて少し不思議そうに言う女性。その顔が見る先に目を向けると行きたかった雑貨屋の前だった。
「ありがとうございます……!」
「大した事ではありません。今度は迷わないように気をつけてくださいね」
「えっと、何かお礼、とか……」
「お気持ちだけで十分です。予定があるのでこれで失礼しますね」
 颯爽とした小さな後ろ姿はあっという間に人混みへ消えて見えなくなった。綺麗にルージュを引いた口元がやけに印象に残った。言葉に鈍りがあった気がするけど、国際色豊かなこの国では全く珍しくないのでそっちは意識に残らなかった。
 行ってみたかった雑貨屋であれこれ見ていると、お喋り好きな女性店主に話しかけられた。何処から来たのかとか、可愛いものが似合いそうだとか、このアロマはミクリカの店から取り寄せた物だとか、止まらない舌に適当に相槌を打つ。逃げ出そうにも逃げられないし、動けなくて困った。
 ようやく解放されたのは、人生初のラズベリーアロマと猫のぬいぐるみを買った後だった。店を出るともう日が傾いている。時間を確認するともうすぐ退勤ラッシュになりそうなくらいだった。
 帰り際に「隣の花屋さん『ル・ブケット』も行ってみると良いよ。きっとアンタも気に入る筈さ」と言われたので、折角ならと雑貨屋の包みを下げて隣の花屋を覗き込んでみる。
「薔薇……」
 色とりどりの薔薇が並び、華やかな芳香を漂わせている。なんとなく薔薇は春の花だと思っていたが、夏にあるのは温室育ちだろうか。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
 優しそうな女性が背中に小さい子を背負ったまま話しかけてくる。この店の人だろうか。
「薔薇って夏にもあるんですね……」
「えぇ、薔薇にも一季咲と四季咲きがありまして。こちらは四季咲きの品種なので暖かい時期はずっと花をつけるんですよ」
「そうなんですか……」
 そう言えばゾイが薔薇が好きだって言ってたっけ。でもあれは本当だったのかな?単に気を引く為に言った事じゃなかったのかな?
「すみませーん」
「はい、いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
 精算カウンターから誰かに呼ばれた店員の女性は、背中で眠っている子供を背負い直してお客さんを振り返る。やってきたお客さんは眼鏡をかけたスーツ姿の藍色の髪の男性だった。長めの襟足を一本の三つ編みにしている。
「小さい花籠ってできますか?」
「えぇ、ありますよ。どなたに贈られますか?」
「もう少しで長男が1歳になるんです。頑張ってくれてる妻に一足早く花を贈りたくて」
 はにかんで答える男性からは妻と息子が愛しくてたまらないという空気が滲み出ていた。
 微笑んだ店員はどんな花籠がいいのか色味や予算などを聞いているようだ。ついでに後ろにおぶっている子供にも話が飛んだらしく花籠以外も色々話しているように見受けられた。
「ありがとうございます。ファレイもきっと喜ぶと思います」
 最後に花籠を入れた袋を持ってにこりと笑った男性は商店街の人混みに消えていった。
 さて私はどうしよう。折角なら何か買って帰りたいけれど、これと言ったものが何も思い浮かばない。自分で考える練習のつもりだったのに結局流されてるな、今日。
「誰かに贈り物ですか?」
 先程のスーツ姿の男性を見送った店員さんがこちらに微笑みかける。
 贈り物……ではないな。でも何を言えばいいんだろう。
 ふと、頭の中に灰色に沈んだ自宅のリビングが浮かんだ。もう少し明るくなったらいいなと思う。
「えっと……その、ちょっと今家の中が暗いイメージなので……花瓶に生けたら明るいイメージになりそうなのとか……ないですか?」
「そうですねぇ、こちらはいかがですか?」
 手で示されたのは向日葵だった。
「夏の青空の下、まっすぐ咲く向日葵ならお部屋を明るく演出してくれますよ」
 丁度目が覚めたのか背負われていた小さい子が不思議そうにキョロキョロ見渡し始めていた。
「それと、ラベンダーも一緒にあると良いかもしれませんね。同じく夏の花で、香りには心を落ち着ける効能がありますから。引き締める色味としても良いですよ」
「え、と……じゃぁそれで……」
 ラッピングしてもらっている間にふと目を走らせた先に花言葉を紹介するポスターが貼ってあった。「ピンクの薔薇は感謝や幸福」など色々並んでいる中で黄色の薔薇が無い。他の色はあるのに。うっかり書き忘れたのだろうか……?
 カウンターに目を戻すと、背負われている小さい子のスカイブルーの瞳と視線がぶつかった。何が面白かったのか、その子は一瞬きょとんとした顔をすると直ぐ花が咲くような笑みを零した。ゾイも小さい頃こんな顔をしたな、と思いながら私は微笑み返した。
 決めた。私はゾイが好きだった黄色い薔薇を忘れない。その場凌ぎで言ったのかもしれなくても、ゾイが言った事だから忘れない。忘れたくない。
「すみません……黄色の薔薇、入れられますか?」
「できますけど……」
 黄色い薔薇、と聞いた店員の顔が微かに曇った。
「弟が黄色の薔薇が好きだったんです。なのでお願いします」
 自己満足、と言って仕舞えばそれまでだろう。でも黄色い薔薇を混ぜて欲しかった。ゾイが生きた証が欲しかった。
 電子決済で支払いを済ませて店の外へ出る。思ったより値が張ってしまったが、問題なんてない。目的は果たせたのだから。
 帰宅後、初めての冒険の成果としてゾイを意識した花束を花瓶に生けてみた。店員の女性が言った通り、灰色に沈んだリビングが一気に華やいだ。ゾイが笑った時のようだった。
 その花瓶と私を見て両親は変な顔をした。喜ぶでもなく怒るでもなく悲しむでもなく。何故か私を連れて精神科に行ったが、結果は「抑うつ傾向があるので経過観察。他は異常なし」だった。何故いきなり精神科に連れて行かれたのか私にはわからなかった。何処も異常なんてなかったのに。

 9月、私は高校2年生になった。その頃に両親は狂ったように亡くなったゾイの分の期待を私に押し付けるようになっていた。良い大学に行けるよう勉強しなさいとか、身繕いをきちんとするようにとか、不健康であってはいけないとか、笑顔で印象良くいなさいとか。
 今まで私の事を絶望アペルピシアと呼んで忌避していた癖に。言って聞かせてくる父母の目をチラリとみると、いつも私ではなくゾイが映っているのが見えた。私の為に言っている訳ではないのが明け透けで吐き気がした。死して尚、両親の愛情をゾイが独り占めしているように見えて悔しく思う自分が不快だった。
 とは言え、言われた通り従順に服従していれば波風は立たない。ゾイの代替品だと分かった上で私はこの立場を受け入れた。他人任せにしないとあの日決意した事はすっかり記憶から抜け落ちていた。
 その高校2年生の愛の日。私は初めて告白された。懺悔の意味での告白ではなく、恋愛的な意味で。
 告白してきた相手、テリー・ナッシュはクラス内でも異色の人物だった。勉強は平均より上だと聞いたが、発言が斜め上で面白いと思うか、変だと敬遠するか二極化する人物だった。友人がいないのか、休み時間は屯してゲームするより本を読んだり寝ていたりした。
 ついでに言えば目鼻立ちが決して良い方ではない。しかも顔中にできたニキビ痕が窪んで残っていて痛々しい。
 私としては別にナッシュの事は好きではなかった。もう少し正確に言えば、恋愛的に誰かを好きになる感覚がわからなかった。なんで特に話した事もないのに告白してくるのかも理解できなかった。母に「今は勉強に専念する時なんだから恋人なんて作っちゃダメよ」と言われていたので率直に断る事にした。
「今は勉強に集中したいから、そう言われても無理」
 ナッシュは一瞬驚いたようだったが、すぐ「うん、それも一理あるな……」と言って何か考えたようだった。
「じゃぁ、勉強友達にならなってくれますか?」
 勉強友達。それなら悪くない。いれば勉強も捗るだろう。
「うん。志望校受かるまでね」
「じゃぁこれから宜しく、セラピアさん」
 こうしてナッシュとの奇妙な友情が始まった。集合場所は決まって放課後の図書室。利用者もまばらな図書室ならば、多少の雑談は問題ない。休み時間は決して寄り付かず、この図書室と帰りも校門までしか一緒にいない関係。ナッシュとの会話は楽だった。誰かの悪い噂話とか、最新コスメや芸能人の話題なんて出てこない。この間ウェブ記事で読んだとか言う思考問題や、今の国際情勢や、雑学が会話の中心になった。たまに先生の話をするくらいで、個人的な事を聞かれないのも気を張らなくて楽だった。勿論、勉強友達の名に相応しく、ナッシュと勉強会を始めてからお互い成績が上がったのは喜ばしい事だ。
 帰りがけ、2人して校内の格安自販機でコーヒーを買って飲んでいるとふとナッシュが口を開いた。
「セラピアさん、どこの大学行くか決めてる?」
 個人の事はあまり聞かない、と暗黙の了解でここまで来ていたのに。やはりナッシュでもそれを聞くんだと思うと気分が下がる。
「教育学部のあるとこ行って、高校教師になる予定」
「そっかぁ、そこまで決めてるんだ。凄いなー」
 凄くないよ。私はゾイの代わりに生きてるだけだから。
「ナッシュは?」
「僕?僕は文学部。その先は何も決まってなくてね。なんか将来って言われても漠然とし過ぎてて大海に放り出された気分になるんだよなぁ……そのまま行ったら将来は藻屑かな。セラピアさんはなんで高校教師になりたいって思ったんです?」
「なんで……なんでだろう」
「なんとなくカッコいいなーみたいな?」
「うーん、うちの親が『教師は安定した仕事だから』って行ってたからかな……」
 そう答えるしかない。教師に憧れた事は無いとは言わないが、どうも自分がなった姿は想像できなかった。尤も、どんな姿もしっくり来なかったが。
「セラピアさんさぁ、それでいいんですか?」
 いつもは飄々としたナッシュが珍しく怒ったような顔をしていた。ナッシュには関係無いし怒る事ないのに。
「なりたいものなんてない。30まで生きてると思ってないし」
「命短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に。熱き血潮の冷えぬ間に。明日の月日のないものを」
 何の詩か私にはわからないが、誦じてみせるナッシュ。
「短い人生だって思うなら、それこそ楽しく図太く生きた方が良いと思いますけど。僕の私見ですが」
「楽しく、図太く……ね」
 生憎人生楽しいと思えた事は無い。さっさとこの馬鹿げた世界から抜け出して、ゾイと一緒に冷たい土の中で永遠に眠りたいのに。見始めたテレビを消せずにダラダラつけっぱなしにしたような私の人生、誰かにふっと消して貰えないかと期待してしまう。
「僕は文学部行って、小説極めたいなって思ってます。小説家になりたいのかまだわからないけど、もし僕の書いた話で救える誰かがいるなら居てほしいって思う。蚤の戯言かもしれませんが」
「誰かを救える……?」
 ナッシュは誰かを救いたいと言った。救える側に貴方はいるの?
「セラピアさんは?」
 キラキラと目を光らせて私を見るナッシュが怖くて俯いてしまう。そんな目で見ないで。ないないづくしなのが私だもの。期待するものは提供できないんだから。
「私は……」
「うん」
「私は……わからない。何も思い当たらないから」
 がっかりしただろう、ナッシュは。証拠に肩が下がっている。
「まぁ、何か夢があると張り合いがでますよ。どっかで見つければいいんじゃないですか?」
 無理にフォローしようとしたのかもしれない。夢で張り合いって何だそれ。
 でも何故か『小説で誰かを救えるなら』と言ったナッシュの言葉が頭から離れずに、もやりとしたものが私の中で渦巻いた。判然としないその蟠りは、やがてゾイの姿になり、霧散して消えた。雨上がりに決意した「自分で考える事」と、1人で向かったルノワール通りで出会った様々な事が頭の中に色鮮やかに浮かび上がる。
 一晩置いて考えに考え抜いた先に一つの出口を見つけた。
「昨日のことだけど」
 放課後、いつもの図書室の勉強会で私はナッシュに宣言した。
「セラピアって名前に恥じない人になりたい。セラピアには癒しって意味があるらしいから。だから絶望アペルピシアじゃなくて希望エルピスになりたい」
「ほほぅ?」
「だから、今日から私はアペルピシアじゃなくてエル。エルってあだ名に決めたから」
「これまた唐突だねー……」
 半ば呆れた顔をしつつもナッシュはニヤリと笑った。
「いいんじゃないですか?今度からエルさんって呼ぶよ」
 ナッシュに認めて貰えた。誰かに言われて決めたんじゃなくて、自分で決められたんだ。
「じゃ、エルさんはどうやって希望になるんですか?」
 そう言われて困った。そこまで考えてなかった。
「えっと……」
「ふむ。癒しといえばカウンセラーですかね。学校や企業にいる。子供電話相談室の人、臨床心理士、アロマセラピストとか、マッサージの専門家とか、教祖様とか?」
「いきなり教祖様は振り切れてない……?」
「心療内科医とか精神科医とか」
 精神科医。ゾイが沢山お世話になった精神科医。痩せ細っていくゾイを何度も入院させようと両親を説得したものの、精神科病棟を毛嫌いしていた両親は決して首を縦にふらなかった。もしあの時入院できていれば未来は変わったのだろうか。実際の病棟を私は見た事がないと今更気づいた。
「……精神科病棟ってどんなところなんだろうね」
「調べますか?」
 ちょいちょい、と携帯型端末を操作したナッシュが見せたのは、想像していたのとは違う明るい病棟だった。
「『当院では拘束具を使いません』。これも書いてあるだけかもしれないけどね」
 半分嗤うように言うナッシュ。
「ほほぅ……『自分の事は自分で決める、患者様主体をコンセプトにしております』。思ったよりライトだな。家族の向け勉強会もしてるんですねー」
 家族向けの勉強会、と聞いて風の吹くままに揺れていた軸芯がピンっと伸びた気がした。
「精神科医になりたい」
 ポッと口をついて出た言葉。初めて自分の中から出てきた夢。大人に期待も何もなく、夢なんて馬鹿らしいと思っていたのに。
 霧の中を歩く迷い人のように、羊水の中にぼんやり浮かぶ胎児のように、現実が現実に見えていなかった私の目が明確な未来を捉えた。
 あの時、ゾイに起きていた事が何だったのか私は知りたかった。家でどんな世話をすればいいのか直接医師から聞きたかった。両親が何処まで本当にゾイの事を考えていたのか、もしくは自分の納得する事しかしなかったのか、知りたかった。
「弟みたいになる前に誰かを救えたら良い」
 いきなりそんな事を言った私を見たナッシュは半ば呆れたように「へぇ」と気の抜けた声を出した。
「精神科って言っても医者だよ?エルさんの偏差値大丈夫?」
 私の成績はトップクラス……という訳ではない。先頭集団の少し後ろを行く私の偏差値で医学部に受かるかどうか怪しいとナッシュに言われて気付いた。
「うっ……勉強する。今から」
「なら頑張ればいいんじゃないですか?夢があった方が張り合い出るってもんだし」
 じゃぁ勉強しなくちゃだな、と伸びをしたナッシュは化学の問題集を開いた。
 この話をした日から、私は死に物狂いで勉強を始めた。夢としては遅咲きだと思う。それでも精神科医になってゾイに何が起きていたのか知りたい気持ちから、兎に角勉強に執着した。学校が休みの日でも、1日のうち起きている時間は食事・風呂・トイレを除くほぼ全ての時間を勉強に当てた。今まで勉強に打ち込んだ事がなかったのもあり、先頭集団を追い抜く巻き返しはかなり大変だった。それでも、一つ一つわかる事や知っている事、できる事が増える度に靄のかかっていた脳内が鮮明になっていく気がした。時間が滞留していた私の中に涼やかな風が吹き込むようになっていた。
 医学部を目指す事について両親は反対した。今まで狙えるような成績ではなかったはずだと。一時の思いつきで動くものではないと。どれだけ学費がかかると思っているのか、医師より教員の方がずっと身の丈に合っているはずだと。
 何を言われても私は一切耳を貸さなかった。親譲りの反骨心だろう。反対されればされるほど、私の決意は揺るがなくなった。結局両親が根負けし、国立カンテ大学である事と奨学金を貰ってくる事の2点が条件として出された。一も二もなく私はその条件を飲んだ。
 国立カンテ大学医学部しか行く場所がないのはかなりのプレッシャーだったが、もう諦める事はなかったし、投げやりになる事もなかった。
 ナッシュの志望しているのは文学部で、医学部志望の私と重点的に勉強する内容が違ったのもあり、段々と同じ空間を共有するだけになった。面接練習の時くらいしか話さなくなっていたが、1人で勉強するよりずっと寂しくなかった。
 家では息抜きがてら雑貨屋で買った猫のぬいぐるみに話しかけたり、ラズベリーアロマの香りを嗅いだり、近所を散歩しながら課題のエッセイに書けそうなネタを考えた。
 飛ぶようにすぎた高校2年と3年。奨学金の予約は取れたし、勉強し続けたおかげで学年でもトップクラスの成績を取れるようになっていた。勿論、先生に推薦状も書いて貰えた。
 2160年3月。合否通知が直接メールで届いた。プレゼントボックスが開くモーション付きのメールで合格だと伝えられた。
 張り詰めていた気がプツリと切れて一気に脱力した。スタート地点に立ったに過ぎないが、スタートに立って良いと招かれた事が嬉しかった。アペルピシア・セラピア一個人が社会に認められたような嬉しさだった。
 結果を両親に報告するととても喜んだ。そして「ゾイの分まで頑張ってお医者様になりなさい」と言われた。何処まで行っても両親にとって私はゾイの代替品で、ゾイがいたら私の方なんて見向きもしなかっただろう。なんで“私”を認めてくれないのか、なんて考えるだけ無駄な事。望まれた子じゃないからだ。
 合格できたとナッシュに報告すると「おめでとう」と言ってくれた。そのナッシュは4月に合格通知を受け取った。私が話を聞いたのは例によって放課後の図書室だった。「おめでとう。小説極めるの頑張ってね」と言うと、何故かナッシュは詩歌の棚を見ながら考え込むように目を伏せていた。
「運命は星が決めるのではない、我々の思いが決めるのだ……」
「なんて?」
「エルさん」
「なに」
「志望校受かるまでって約束は今も続いてますか?」
「え?」
 約束なんてあっただろうかと思って一瞬考える。そうして思い出したのは高校2年の愛の日に志望校合格まで勉強友達でいようと言った事だった。
 ナッシュは詩歌の棚を見上げたまま口を開いた。
「僕はエルさんのことが、アペルピシア・セラピアさんのことが好きです」
 詩歌の背表紙から目を離し、私の方を真っ直ぐに見るナッシュ。その混じり気のない澄んだ瞳に思わず怯む。
「勉強友達としては終わっても、恋人として続けませんか」
 ナッシュの言葉に驚いて唖然と見上げていると、彼の顔に悪戯っ子の笑みが浮かんだ。
「……なんて言ったら驚くかなと思って。勉強友達って約束した時、受かったらもう一度告白しようって思ったけど、一緒にいてわかりました。エルさんは誰とも仲良くなりたくないんでしょ」
 言い切ったナッシュは今度はニヒルな黒い笑みを浮かべた。
「大学違うし、近くもないから卒業後にもう会う事は無いね」
 鞄を持ち上げたナッシュはそのまま私の横をすり抜ける。
「じゃぁね。元気で」
 それだけ言って本棚の群れに消えるナッシュの背中を私は追いかけられなかった。
 待って、そうじゃない。そうじゃない。仲良くなりたくないなんて思ってない。その逆なのに。もっと知ってもいいかもしれないって思ったのに。
 けれど、そう思うほどに失望された衝撃で息が詰まって苦しかった。
 そうか。私はないないづくしだから失望されて当然なんだ。愛も夢もない無為な世界の住人、それが私なんだから。勝手に希望を持ったのは向こうじゃないか。私が傷つく事なんてない。
 なのに、なんでこんなに息ができないのだろう。

 ナッシュとの仲が噂になっていたらしい、と知ったのは卒業式の日だった。実はナッシュが愛の日に告白した事も、それを私が断った事も情報通たちは知っていた。一部ではナッシュが振られるかどうかでジュースを賭けたそうだ。断ったのに図書室で一緒に勉強しているところを見て、今後の進展をニヤニヤしながら話題にしていたらしい。
 この話を教えてくれた女子が言うには、私にそれとなくアプローチしていた物好きな男子が他にいたらしい。ナッシュの事も快く思っておらず、あれこれちょっかいをかけていたと言う。全く身に覚えがないし、ナッシュからも聞いた覚えがなかった。……いや、訊かなかったからか。 
 馬鹿みたい。というか馬鹿にしか見えない。恋愛感情というものを持っているのが普通で、それが大きな関心事なのだろう。私にはナッシュと時間を共有しても何がそこまで面白いものか結局わからなかった。ただ単に同じ話題で話して楽しい、それだけではダメなのだろうか。


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