薄明のカンテ - ココアはやっぱり?/べにざくろ
 ニコリネは自動販売機の前で、購入した缶を手に立ち尽くしていた。
 彼女の手にあるのは何の変哲もないコーンポタージュの缶だ。
 確か粒入りのコーンポタージュの場合は、缶の下を少し凹ませた方が流体力学の何かによって缶に粒が残ることはないとか何とか電子世界ユレイル・イリュで得た知識が頭を過ぎるが、今はそれどころではない。
「ココア……」
 そう。ニコリネはコーンポタージュを買うはずではなく、思わず呟いてしまったココアを買うつもりだったのだ。今は業務の真っ最中で自分は『疲れた時には甘いものだよね!』のテンションで休憩がてらココアを買いに来たはずなのである。断じて空腹を紛らわせるようなコーンポタージュを買いに来た訳では無い。
 ボタンを押し間違えてしまったかと思い、右からも左からもボタンの位置を数えて確認するが、どう考えてもニコリネは間違えていない。
 夕飯の完全食ゼリーを賭けても良い。私は間違えていない。
 それでもニコリネの手にあるのはコーンポタージュの缶という事実は変わることなく、缶を見て自動販売機を見てニコリネは溜息をついた。
 ニコリネは以前にもブラックコーヒーを買おうとして何故か6本も出てきてしまい処理に困ったことがあった。自分は遂に人間にだけでなく機械にまで馬鹿にされる存在になってしまったのだろうか。自動販売機に呪われているとしか思えない。
「あの……」
 そんなことを考えていると、唐突に背後から若い男性の声がかかってニコリネの肩が跳ねる。
「ははははい!?」
 振り向けばそこに立っていたのは汚染駆除ズギサ・ルノース班の同僚であるイオ・アスキーであった。「え? イオっちってば私に何か用?休憩時間でも私と話したいなんて積極的な殿方ね!」なんてことは微塵も思わないニコリネは、自分が自動販売機の前に立ち尽くしているという現実からイオが声をかけてきた理由を悟り、顔を青くした。
「もももも申し訳御座いましぇん!」
 吃音混じりに謝罪をしたら最後は噛むという最悪の謝罪をしつつ、ニコリネは光の速さで自動販売機の前から退く。
 イオは休憩で飲み物を買いに来たのだろう。そしたらニコリネがボーッと突っ立っていて邪魔だった訳だ。自分如きが他人様の邪魔をしてしまったなんて何たることか。
 恐縮しきりのニコリネに「あ」とか「う」とか、これまたはっきりとした言語を口にすることの出来なかったイオは異極鉱ヘミモルファイトを彷彿とさせる鮮やかな青の瞳をチラリと向けてから自動販売機の前に立った。
 そして、イオが自動販売機へ伸ばした指が押したボタンをニコリネは見逃さなかった。イオが買ったのはニコリネが本当は飲みたかったココアだ。
 電子決済の軽快な音の後に、缶の落ちる音。
 屈んで缶を取り出そうとするイオを、時限爆弾のコードを切ろうとする人を見守るような緊迫感を持ってニコリネは見つめていた。
 そして、イオが取り出した缶がココアの茶色い缶ではなく黄色のコーンポタージュ缶であった事に気づいた瞬間、気持ちの中ではニコリネは「同士よ!」とイオに抱きついていた。
「え……?」
 ニコリネに遅れて自分が手にしている缶がココアでは無くコーンポタージュだったことに気付いたイオが怪訝な顔になる。きっと自分もあんな顔をしてコーンポタージュ缶を見つめていたのだろうと数分前の自分を振り返ったニコリネは、自分もコーンポタージュだったことを無言で主張する為にさり気なくイオに自分の持っている缶を見えるように持つ。
 その甲斐あって、イオの異極鉱ヘミモルファイトがニコリネのコーンポタージュを見つめた。
「まさか……」
「はい。わ、私もココアを買いました」
 2人連続でココアを買おうと思ってコーンポタージュのボタンを押してしまうということはないだろう。つまり、これは自動販売機の中身を補充してくれている人が間違えたということだ。
 ニコリネとシキは互いにコーンポタージュ缶を手にしたまま自動販売機の下部に書かれた電話番号に目を向ける。そこには電話番号の他に『故障、違う飲み物が出た等御座いましたら此方へご連絡ください』という言葉があった。正に2人は『違う飲み物が出た』状況なのだから、そこへ電話をすれば良い。それは分かっている。分かっているのだが。
「どどどうしましょう……?」
 先制攻撃とばかりにニコリネがイオに問いかけるが、イオは何も答えなかった。
 ニコリネとイオ。
 一見すると共通点の無い2人ではあるが内面では同じ部分があった。
 それは「自分という存在は壁の染みか埃のようなもの」であり「他の人間様に自分のことで迷惑をかけるなんてとんでもない」という考え方だ。
 今回に限って言えば「自動販売機が間違えた物を出した」のだからニコリネもイオも何ら悪くない。それなのに悲観的で自己肯定感の低い2人は「電話をすることで他人に迷惑をかけてしまう」と考えてしまっていた。
 だけど違うものが出たのだから交換して欲しいという気持ちもある。それ故に電話はしたい。でも自分が連絡するのは嫌だ。
 いわゆる「でもでもだって」状態になっていたニコリネとイオは、互いに電話をする権利を譲り合っていた。
「あ、わ、私……端末、机に忘れちゃったなー……」
「……俺も」
 勇気を持って言い放ったニコリネだったが、イオにも同じ状態だと頷かれてしまった。なお、2人ともポケットに携帯型端末が入っているのはお約束である。
 沈黙が休憩所を支配する。
 もはや、ココアの事は諦めてコーンポタージュを飲むしかないのか。
 2人が諦めかけた正にその時だった。
「何を2人でやってんの?」
 テオフィルスが休憩所に入ってきたのだ。第三者の、しかも他人に文句を言うのに何の罪悪感も抱きそうにないテオフィルスという丁度いい存在が現れたことで、この状況に光明が差し出た。
「メ、メメメメメドラーさん!!」
「惜しいな。ニコリネちゃん、メは一個で大丈夫だぜ?」
「ああああのですね! ココアがコンポタに……」
 ニコリネとイオ、2人揃ってコーンポタージュの缶を持っている状況とニコリネの言葉でテオフィルスはピンと来た。自身はココアという甘いものは好んで飲まないが、上手くココアが出たならニコリネにあげればいい。
 そう考えたテオフィルスは自動販売機の前に立つとコーンポタージュのボタンを押した。テオフィルスの天才的な頭脳(自称)は素早くココアとコーンポタージュの缶の入れ替えを予測したのだ。
 本日三回目の電子決済の軽快な音の後に、缶の落ちる音。
 自信満々に笑みすら浮かべ、缶を拾い上げて書かれた文字と絵を見たテオフィルスの表情が強ばる。
「何でだよ!!」
 叫んで思わず缶を床に叩き付けたい衝動にかられたが、食料の乏しい岸壁街育ちのテオフィルスにそんな勿体無いことは出来なかった。そんなテオフィルスの手に握られている缶は――お気付きのことだろうが――コーンポタージュの缶だ。
「わぁ……同じですね……」
 思わずニコリネは呟き、イオは噴き出しそうな笑いを堪えるように口に手をあてて横を向いた。
 汚染駆除ズギサ・ルノース班の人間が3人、コーンポタージュの缶が3本。
 数だけは合っているのに、この場にコーンポタージュを飲みたい人間は1人もいないという本人達にとっては悲劇、第三者からすれば喜劇のような状況がここにはあった。
「あー ……遅かった、かも」
「遅かったねー」
 ふわふわとした空気を纏ったような青年と少年の声が休憩所の入口から聞こえてコンポタ汚染駆除ズギサ・ルノース班三人衆は揃って入口に目を向けた。そこにいたのは調達ナリル班の青い巨人ことシキ・チェンバース、フィンイヤーが特徴的な機械人形マス・サーキュのオルカだ。シキもオルカも飲料品の名前が書かれた缶が入っているらしき段ボールを積んだキャリーカートを押している。
「……まさかお前達が補充を」
 それを見て、いち早く事情を悟ったイオが呟いた。無邪気な顔でオルカが頷き、シキが口を開く。
「いつも自販機補充担当のリーシェールさんが魔女の一撃ヘクセンシュウスで……」
 魔女の一撃ヘクセンシュウス。格好良く言っているが急性腰痛症あるいは腰椎捻挫症――すなわち、ぎっくり腰だ。
 運がいいのか悪いのか自販機の補充現場に行きあたることの多いニコリネは、人の良さそうな笑うと消えてしまいそうな目をしたオジさんを思い出して内心で彼の快復を祈っておく。あんな良い人を失うのは勿体無い。まぁ
ぎっくり腰なのでそのうち戻ってくるだろうけども。
「だから最近は僕達が代わりに補充してるの」
 ニコニコと笑うオルカを見ていると可愛らしくてニコリネは思わず許しそうになるが、それでは手にしたコーンポタージュ缶は永遠にココアに変わることは無い。補充を担当してくれる者達が自ら来てくれたのだから、文句を言うなら今しかないだろう。
「あああああのっ!」
「ん?」
 勇気をもって声を上げたニコリネを、青と緑が混じったような不思議な色の目でシキが見る。2メートル近い大きさのシキに見られると距離があるとはいえかなりの恐怖心がニコリネを襲い、顔を強ばらせると「な、何でもないです……」とだけ呟いてイオの後ろに隠れた。
「ココアを買おうとしたらコーンポタージュが出たんだよ」
 そんなニコリネと対称的に大柄おおへいに言い放ったのは、やはりというかテオフィルスだった。シキの前にコーンポタージュ缶を見えるように掲げて軽く目の前で振って見せる。
「間違えちゃったね」
 それを見たオルカが無邪気な様子でシキに問いかけると、シキも静かに頷いた。機械人形マス・サーキュのオルカは如何に無邪気な少年のようであっても、このような取り違いは機械である限りすることはない。それでも彼の設定された性格なのか、オルカはあくまでも『シキとオルカの間違い』にしようとしていた。そしてそれに水を差すような発言をするものは、この場にはいない。
「おい……そろそろ戻らないと……」
 原因が分かって安堵したのかポケットに入っていた携帯型端末で時間を見たイオがニコリネとテオフィルスに告げた。それを見ながら「さっき持ってないと言ったのに……やはりアスキーさんは携帯型端末を持っていた!」と思うのはニコリネだけである。
「これ、返金か交換出来んのか?」
「うん。後で出来るようにする」
 テオフィルスに頷いたシキはそう言って自動販売機の前に立つと、コーンポタージュとココアの間にあるカレー・・・のボタンを押した。
 本日四回目の電子決済の軽快な音の後に、缶の落ちる音。
 自動販売機から拾い上げたシキの手にある缶は、待望のココアの缶だった。

――解せぬ。

 汚染駆除ズギサ・ルノース班三人衆は揃って思う。
 ココアを押せばコーンポタージュ。
 コーンポタージュを押せばコーンポタージュ。
 なのに何故、カレーがココアなのか。
「はい、これ」
「ひいっ!?」
 シキにココアを差し出されたニコリネの口から飛び出たのはお礼ではなく悲鳴だった。しかし気分を害する様子も見せずシキはココアを差し出し続けているので、恐る恐るながらもニコリネはココアを受け取った。
「ふひっ……あ、ありがとう、ございます……」
 コーンポタージュも温かかったけど、念願のココアともなれば手に伝わる温もりは更に温かく優しいもののように感じられた。彼は背が高くて怖く見えるけど、いい子なのかもしれないなんて思いながらニコリネはココアを見つめる。
「良かったな、ニコリネちゃん」
「……は、はい」
 テオフィルスに笑いかけられてニコリネは精一杯頷いた。
 正に一件落着のような空気が休憩所内に漂う中。

――ガコンッ

 独り静かにカレーのボタンを押して購入したイオの手にあったのは、まさしくカレーの缶で。
「なんでだよ……」
 コーンポタージュとカレーの缶を手に呟いたイオの言葉は誰に拾われることもなく、むなしく消えたのであった。