意識を取り戻したヒギリの視界に広がったのは見知らぬ天井だった。
周囲を窺うように首を回すと、どうやら暗い部屋の中で仰向けにベッドに眠っていたようだ。
ふかふかの気持ちいいベッドで、掛けられていた布団も羽のように軽く高級品であることがすぐに想像できた。
少し身体が重いような気分は残っていたが状況把握のためにヒギリはベッドから半身を起こし、その足にある違和感に気付くと慌てて布団を捲る。
布団を捲った先で見えた違和感の原因に気付くと青ざめた顔で、誰に言うでもなく掠れた声で思わず呟いた。
「何、これ……」
かろうじて窓から射し込む月明かりのおかげで、ヒギリを驚愕させるには十分なものが足首にあることを見ることが出来た。
それは皮と金属で出来ているらしい足輪だった。見た限り鍵が無ければ開かないタイプのものにしか見えない。更に足輪には細い鎖がついていて月明かりを頼りに目で追えば、部屋の柱の下の方に付けられた半円の金属に鎖は留められて繋がれていた。
リードに繋がれた犬がヒギリの脳裏に浮かぶ。
「確かに猫系というよりは犬系って言われるけど」
そういう事態では無いのに思わずヒギリは呟く。
どうやら脳が、この異常事態の中でも少し落ち着きを取り戻してきたようだ。
足を動かすと鎖はシャランッと小気味いい音をたてた。細い鎖ではあるが金属であり到底、ヒギリの力で引きちぎれるものではない。
ヒギリはベッドから下りると、シャラシャラと鎖を鳴らしながら光源である窓へと近づいて行く。窓まで行けないかと思ったが部屋の中を歩き回る分には十分な長さのある鎖のようで難なく窓に近寄ると、驚いたことに内開きの窓には鍵がかかっていなかった。
だからといって、そこから脱出出来る訳では無い。
窓の外には金属製のストレートリーフの形に整えられた柵がつけられていたからだ。真っ直ぐな金属の両側に上向きの細い葉のついた不思議な柄の柵だ。葉の棘で外に出さないようにするデザインなのだろうかと思っていたヒギリであったが、ある事に気付いて背中を冷たいものが通る。
「これ……ローズマリーだ……」
ローズマリーを模した柵だなんて偶然で付いているものではない。
格子の柄なんてヒギリは詳しく知らないが、柄があるとすれば大抵はバラやツタを模したものだろう。
それなのに、わざわざローズマリー。
この部屋はヒギリのために用意された部屋。
ローズマリーの格子は、ヒギリがそう思うには十分すぎるものであった。
そして月明かりの下、外に広がるのは木々ばかりでどこかの森のようだ。
叫んだところで人が通るようにも見えず、また逃げ出せたとしても場所が分からないのだから逃げる方向も皆目見当もつかない。こんな状態のヒギリがいるような家なのだから、ここはおそらく人が住む場所からは遠いことは簡単に予想される。適当に外に出たら野生の獣に襲われるのがオチだろう。
「良いなー!!良いなー!!憧れるなー!!好きな人と夢の同棲生活…!!もう好きな人と一緒に暮らすシチュエーションなら監禁でも良い…!!」
かつて、こんな事を言っている人間が居た。誰だ。自分だ。
その時の自分はまさかそれが本当に自分の身に振りかかろうとは思わなかったが故の発言だったと、今なら良く分かる。
「ここはどこ?」
呟いても答える者はいない。
それでも考えを整理するために呟く。
「誰かに拐われた?」
ヒギリは薄々勘づいていた。ただ、それを認めたくなかっただけだ。
この部屋に来る直前までのことを思い出せば、答えはそこに行き着いてしまう。
ローズマリーのお茶。
だって、ヒギリはそれを飲んで急な眠気に襲われたのだから。
「どうして?」
かちゃり。
部屋の唯一の出入口である扉の外から鍵を開けられた音がして、ヒギリは緊張した顔で振り返って扉を見つめる。
ヒギリの予想が合っていたら、現れる人物は分かっていた。
それが外れることをヒギリは願いたかったけれど。
ゆっくりと、扉が、開いて。
「目が覚めたんだね、ヒギリちゃん」
「タイ……ガ、君……」
部屋に入ってきた人物の名前を呟くヒギリの声は自然と震えていた。
嫌な予想が当たってしまった。
「タイガ君、助けに来てくれたの?」
一縷の希望を込めて呟いたヒギリの言葉に返事は無く、タイガはにっこりと笑う。
それは正に「そうだよ、助けに来たんだよ」とでも言いそうな無邪気な笑みだった。
「足輪の皮の色、赤にして正解だったね。やっぱりヒギリちゃんに良く映えてる」
タイガの言葉にヒギリは息を飲んだ。
驚愕の表情でタイガを見つめるヒギリに「そんなに見られると恥ずかしいな」と笑って部屋の電気を点けると、言葉とは裏腹にタイガは気軽にヒギリへと近付いて来る。
「その足輪ね、ずっと着けているものだから良いものにしたんだよ。裏に布を貼ってあるから肌触りが柔らかくて傷にならないんだ」
明るい部屋の中、ヒギリの恐怖心は増すばかりだった。
すぐ側にある窓から外へ飛び出して逃げたいのに、ローズマリーがそれを許さない。
せめて部屋の中、近付いてくるタイガから離れたいのに恐怖で足が震えて動けない。
「ひっ……」
悲鳴に似た声がカラカラに乾いたヒギリの口から上がる。
タイガの手がヒギリの首に触れ、ゆっくりと撫で上げるものだから恐怖でヒギリの上の歯と下の歯が震えてカチカチと音を立てた。
そんなヒギリの表情も動作も見えていないかのような態度で、タイガは世間話でもするかのような軽いノリのまま口を開く。
「本当は首輪の方が良いかなって思ったんだけど、首を絞めてヒギリちゃんの声に悪影響が出ちゃったら大変でしょ? だからオレ、足輪にしてあげたんだ」
勝手に閉じ込めて足輪までさせてるというのに、タイガの口ぶりは「君を気遣ったのだから褒めて」とばかりのもので、ヒギリの脳は混乱する。
そんな混乱から恐怖から何も言えないでいるヒギリを見てタイガは勝手に「ああ」と何かを納得したような顔を見せた。
「ずっと寝てたから喉乾いちゃってるよね」
ずっと寝てたではなく、眠らされていた。
監禁している者とされるもの。
加害者と被害者。
今の2人の関係はそれ以外の何者でもないというのに、タイガはまるで罪の意識なんて無いらしく平然としている。その普通の態度が何よりも怖い。
「た、タイガ君! 分かってるん? これ犯罪なんだよ!?」
勇気を振り絞るようにしてヒギリは声を上げる。
「そうだね。でも同意の上なら犯罪にはならないから」
「同意した覚えなんてないよ!?」
ヒギリの正論にタイガは「うん」と頷く。
「でも、大丈夫だよ。同意はこれからもらえば良いんだから。ヒギリちゃんがオレを好きになってくれれば全部解決することだよ。そのための努力はオレだってするし」
それより此処から出す努力をして欲しい。
そんなことを思っても言い出したなら何をされるか分からないと思うとヒギリは何も言えない。
目の前にいるのはタイガその人であるはずなのに、タイガの皮を被った宇宙人とでも会話をしているかのような気分だった。それほどまでに今のタイガに自分の言葉が届くようには見えない。
「こんなことされて、好きになんかならんよ?」
それなのにヒギリのポツリと呟いた言葉にタイガは傷ついたような顔を見せるものだから、ヒギリの胸には罪悪感が生まれる。
自分は被害者で悪いのは相手なのに、どうしてそんな表情をするの。
これではまるでヒギリが加害者のようではないか。
罪悪感に心が揺れるヒギリの顎をぐっと掴んだタイガの顔は、その手の力と対称的に捨てられた仔犬のような顔でヒギリを見つめる。
「本当に?」
「本当」と言えてしまえば良いのに生まれた罪悪感がそれをさせない。
視線を逸らして答えずにおこうとしたヒギリだったが、彼女の反応を見逃すまいと見つめるタイガの瞳の奥に狂気めいた輝きを感じて、ヒギリの身体が小さく跳ねた。
「ほ、ほんと……」
タイガの眉がきゅっと下がり、狂気めいた光を消した目がヒギリを見つめる。
罪悪感の生育を助長するようなタイガの縋るような表情は、ヒギリに対して効果抜群だった。
「……ほんとに、本ッ当ーにちょっとだけあるかもしれない」
結局、ヒギリは非情な女になりきれず、思いもしない言葉を紡ぐしかなかった。
そのヒギリの言葉に顔を輝かせるタイガはマルフィ結社で見せていた顔と同じで、タイガが狂っているのかいないのかヒギリには分からなくなる。
監禁した犯人が全く見たことも話したこともない人間だったならば、ヒギリは完全に相手を拒絶することが出来ただろう。知り合い、友人、もしかしたらそれ以上の関係ともいえたタイガが相手となると元来の世話焼きの性質からヒギリは冷たく拒絶することが出来なかった。
「良いなー!!良いなー!!憧れるなー!!好きな人と夢の同棲生活…!!もう好きな人と一緒に暮らすシチュエーションなら監禁でも良い…!!」
再びヒギリの脳裏を、かつての自分の言葉が過ぎる。
タイガは好きな人では無い。
しかし、嫌いな人でも無い。
好きの反対は無関心というけれど、タイガに対して無関心という訳では無い。
だったら、ここに居ても良いんじゃ――?
シャランッ
うん、やっぱり無理。
足を動かしたことで鳴った金属音にヒギリは我に返る。
被害者が加害者とずっと一緒にいることで、加害者に好意や共感を抱くようになる心理というものがあったような気がするが、流石に絆されたりなんかしない。
「ヒギリちゃん、好きだよ。愛してる」
花が咲くように笑うタイガが愛を囁く。
誰かの特別になれる女の子って良いなと思ったことはあるが、こんな特別ならばなれなくて良かった。
ヒギリは身体中が震えて立っていられなくなり、その場に崩れ落ちてしまう。
「床になんか座ったら身体が冷えちゃうよ」
そう言ってタイガはヒギリを抱き上げてベッドに寝かせた。
その動作があまりに軽々としたものであったから、ヒギリはタイガも「男」なのだと意識せざるえない。
告白の言葉も、お姫様抱っこも普通の場所でやってもらえたならばときめくものであっただろうにヒギリの心は動かない。
「ほら、こんなに震えて。寒くなっちゃったかな」
優しい声で言うけれど、いつものタイガとはやはり何かが違う。
こんなのヒギリが知ってるタイガじゃない。
「ねえ、タイガ君。これ、取って」
ヒギリは小さな声でタイガに懇願する。
足輪を取って。自由にして。
しかしヒギリのお願いにタイガは首を横に振った。
「ダメだよ、これを外したらヒギリちゃんはオレじゃない誰かのところに行っちゃうでしょ? かわいいよ、綺麗な赤色の皮を探すの大変だったんだから。すごく良く似合ってるよ」
ヒギリの髪を撫でて、陶然としたような顔で一掬いした髪に口付ける。
様々な感情が奔流のように押し寄せてきて心が耐えられなくなったヒギリの目から涙が溢れた。
タイガが、舌で掬い取る。
ぬるりと舌が頬を滑り、ヒギリは身を震わせた。
「ずっと一緒にいようね、ヒギリちゃん」
その時、扉をノックする音がしてヒギリもタイガも扉へと目を向けた。
姿を見てもいないのに入って来るのが誰であるのかヒギリには容易に予想がついている。
はたして部屋に入ってきたのは、ヒギリが此処に来ることになった原因の機械人形のノエであった。
「もう、ノエってばタイミング狙って入ってきたでしょ」
「まさか。たまたまですよ」
ノエに対するタイガの態度は今までの結社にいる時と何ら変わらなかった。ノエはノエで肩を竦めてタイガの言葉を笑って流していて、やはり結社にいる時の姿のようだ。
「ヒギリさん、おはようございます。ご気分は如何ですか?」
ノエはベッドの上にいるヒギリの姿を見つけると恭しく頭を下げた。
わざとらしい丁寧な動作にヒギリは苛立ちを感じるものがありつつも、タイガ以外の会話が通じる者の登場に縋るように彼に声をかける。
「の、ノエさん。此処から出し……」
「申し訳ございませんが、
主人の望みを叶えることが私の最優先事項ですので」
しかし全てをヒギリに言わせることなく笑顔でノエは言葉を封じた。
機械人形の作られた笑顔が、いつも以上に偽物じみて見えてヒギリの背筋に冷たいものが走る。
「ノエさ」
「ねえ、ノエ」
尚もノエに縋ろうとするヒギリの声に重ねるようにタイガが声を上げた。
「ヒギリちゃんが目を覚ましたんだから、何か食事作ってあげてよ」
「かしこまりました、
主人」
タイガの言葉に執事然とした態度で頭を下げると、ヒギリに目を向けることなくノエはあっけなく部屋を出ていってしまう。扉はパタリと音をたてて閉まるが、鍵はかけていないようだ。
つまり扉からなら正攻法に逃げられるのでは、と思いヒギリは思わず足を動かして耳に届いた金属の音に現実を思い出す。音をたてた理由である細い鎖で繋がれた足輪が、重さはそんなに無いはずなのに酷く重く感じられた。
「ヒギリちゃん、今逃げようって思ったよね?」
心を読まれたようなタイガの声にヒギリの肩が跳ねる。
先程までの朗らかさはどこへ消えたのかタイガの声はヒギリが聞いたこともないほど硬質な響きを持っていた。かつてないほどの不機嫌さを露わにしたタイガの目はどこまでも冷たい。
「タイガ君?」
ヒギリの呼びかけにタイガは何も答えない。
変わりに二人分の体重がかかったベッドが軋む。
「ヒギリちゃんが悪いんだよ? オレはもっとゆっくりやって行こうって思っていたのに、逃げることばかり考えているから――逃がす訳無いのに」
失敗した、とヒギリは悟る。
逃げようとする様子を見せなければ、タイガは監禁という狂った手段に出たとしてもヒギリに対して落ち着いていたのだろう。
ヒギリを組み敷くタイガの目は深く昏くて。
――もう、この暗い森からヒギリは逃げられない。