薄明のカンテ - ガール・イン・ザ・フォレスト/べに
とっても「if」


один
 その日のヒギリ・モナルダは夜遅くまで独り、食堂の厨房に残って作業をしていた。
 厨房に香るのは甘い甘い春の香り。イチゴを煮た幸せの香りだ。
 収穫終わり間近の苺を調達班が安く大量に買い付けて来てくれた為、ヒギリはいそいそとジャム作りに精を出していた。時期終わりに近いイチゴは痛みが早い。そのため生食で提供するために綺麗なイチゴを分別をすることを諦めて、全部ジャムにしてしまうことに決めたのだ。
 勿論、ジャム作りのために他のメンバーも「残ろうか?」と声をかけてくれたがヒギリは「そこまで量も無いから大丈夫」と断っていた。それ故に、厨房にいるのはヒギリただ一人だ。
 尚、ヒギリの中で「性格の悪い人」という評価である同僚のジュニパー・モンクスフッドにはご丁寧に「馬鹿じゃないの?」と言われた時は腹が立った。しかし、それも今は甘い香りの中に溶けて忘れ去られた過去となっている。
 殺菌の為に高温のお湯につけた後の瓶にジャムを入れて深めのバットに張った水にそっと下ろしていく。冷やすために冷蔵庫を使わないのは水でゆっくりと冷却してやらないと温度差で瓶が割れてしまうからだ。
「これで、完成っと」
 最後の一瓶を置いて、ヒギリは満足して微笑む。
 このまま水に置いておけば明日の朝には冷えて固まり、早ければ結社メンバーの朝食に使えるだろう。疲労感はあるがジャムを作った達成感と、それを食べてくれるメンバーの顔を思い浮かべると楽しくなってきて自然とヒギリの口角は上がっていた。思わず浮かれて、かつて自身が在籍していたアイドルグループの歌を鼻歌で歌いだすくらいには。
「ヒギリさん」
「へっ!?」
 唐突に名前を呼ばれてヒギリの肩が跳ね、鼻歌が中断される。
 誰かに聞かれてしまい恥ずかしい。
 鼻歌から自分が元アイドルだとバレたらどうしよう。
 色んなことを思う心がグルグルと頭を巡るが聞かれてしまったものは仕方ない。どうにかして誤魔化すしかない。
 そんなことを考えながら意を決して声のした方を見ると、そこにいたのは見慣れた機械人形の男性で知らずに入っていた肩の力を抜いて彼の名前を呼んだ。
「ノエさん、どうかしたんですか?」
 厨房の入口に立っていたのは同じ給食部の機械人形のノエであった。
 ノエにだったら鼻歌を聞かれたところで正体がバレることもないだろうとヒギリは心底安心する。
 そのヒギリの内心に気付くはずもなく彼は機械人形であるが故の、いつもと変わらない微笑みを浮かべて穏やかに話しかけてきた。
「ヒギリさんが遅くまで残っていると知った主人マキールに部屋を追い出されてしまいました」
「タイガ君に?」
 ヒギリの問いに、ノエは表情を苦笑めいた困ったような笑みに変えて頷いた。
 主人マキール
 いつもノエはタイガの事を呼び捨てで呼んでいるはずなのに何かがおかしいような気がすると、ヒギリは小さな違和感を覚える。
 しかし目の前にいるのはいつもと同じノエであり、自分の気のせいだろうと違和感を心の片隅に追いやった。
「ジャム作りを頑張りすぎてお腹が空いていたらいけませんので、ケーク・サレを焼いてきたのですが召し上がっていただけませんか?」
 ケーク・サレ。塩味の効いた甘くないケーキのことだ。
 現金なものでノエの言葉を聞いた途端、ヒギリのお腹は可愛らしく小さく鳴く。
「いただきます!」
 先程の違和感は食欲の前に霞のように消え失せて、ヒギリは満面の笑みで頷いた。ノエにエスコートされるように厨房を出て近くにあったテーブルへ向かうと、これまたノエに丁重に椅子を引かれてヒギリは思わず笑ってしまう。
「何だか高級なレストランに来たみたいな気分」
「お褒めに預かり光栄です」
 ノエもヒギリの言葉に合わせるようにレストランのウェイターのように頭を下げるものだから、いつもの食堂の椅子とテーブルが高級なものに変貌したような気分になって楽しい。同僚のジュニパー・モンクスフッドに見られたり聞かれたりしたらきっと呆れた目を向けられることだろうが、今ここに彼女はいないのだから目いっぱい雰囲気に酔っておく。
 ノエは持参してきていた鞄から手早く皿とフォークをセッティングすると、直ぐに食べられるように準備してきたのだろう、カットした状態のケーク・サレがヒギリの目の前に現れた。
 行為を無碍にしないようにヒギリがありがたくをケーク・サレを味わっていると、更に準備のいい事にティーカップに入った飲み物がそっとテーブルに置かれた。カップを覗き込むと、どうやらハーブティーのようだ。
 鼻をくすぐるスパイシーな森の香りは決して悪い香りでは無い。
 しかし、ヒギリは何ともいえない表情になる。
 この香りをヒギリは良く知っていた。今日作ったイチゴジャムにも香りつけに使ったくらい嫌いな香りではないが、よく知りすぎた匂いだ。
「ヒギリさんはローズマリーティーはお嫌いですか?」
 ヒギリの表情から何かを読み取ったのかノエが声をかけてくる。
 ローズマリー。
 それは香草の一種であり、ヒギリのアイドルとして活動していた時代の芸名でもあった。しかし、それを知る者は結社には誰にもいないのだからローズマリーへ過剰反応するのもおかしいだろう。ヒギリは、そう思い直す。
「いえいえっ、いただきます!」
 笑顔でカップを待つと、ヒギリは温かな湯気をたてているローズマリーティーに息を吹きかけて冷ますとコクリと一口味わう。
 ローズマリーは単体で淹れると味が強くなってしまうため、やはりというかノエは他のハーブと組み合わせてブレンドティーにしているようだ。
「あぁ……癒されるんよぅ」
「それは良かったです。お茶はまだ沢山ありますから、沢山召し上がってください」
「け、ケーキは……」
「この時間から多量のカロリーの摂取はお勧めできませんよ?」
 ノエなりの冗談なのであろうがヒギリは言葉に詰まる。
 ケーキは食べたいがカロリーを持ち出されると乙女としては弱い。
 夜だからこそ砂糖たっぷりの甘いケーキではないものをわざわざノエは持って来てくれたのだろうし、ここは我慢するしかないだろう。
「うう……酷いよ、ノエさん」
 それでも思わずそう言ってしまうのは仕方の無いことだ。
 ヒギリは恨みがましいような顔でケーキの無くなった皿を見つめる。
「ヒギリさんの健康を気遣うが故ですよ。さ、お茶をどうぞ」
 そう言われてしまえば「ケーキ食べたい」と子どもの駄々のように騒ぐ訳にもいかず、ヒギリはケーク・サレの代わりとばかりにローズマリーティーを口へ運ぶ。
 やがて空腹が紛れたからだろうか。
 徐々に眠気が襲って来て、ヒギリは思わず欠伸を一つ。
「お疲れのようですね」
 ノエが微笑む顔がヒギリの視界の中でぐにゃりと歪む。
 瞼が重い。ヒギリの身体が急激に眠気を訴えてきていた。
「ねむ……あれ、おかしい……」
 ヒギリはおかしなほどにぼんやりとした意識の中で呟く。
 手にしていたはずのティーカップがテーブルの上で転がっていた。既に中身が入っていなくて良かったと思いつつ拾わなければと手を伸ばそうとするのだが、眠くて上手く身体が動いてくれない。
「ノエさ……」
「眠ってください。ちゃんと運んであげますから」
 急に眠気を訴え出しているヒギリは他人から見たらきっとおかしい状況だろう。しかし、ノエはいつものように微笑んでいるだけで、おかしいと思っているのは自分だけなのだろうか。
「何で……眠い……えぇ……?」
 今にも眠りの世界へと落ちていきそうな頭の中でヒギリは大いに困惑していた。自分の身体が自分のものでなくなってしまったかのように言うことを聞かない。この急激な眠気はおかしい。自分はどうしてしまったんだ?と、朧気ながら考えてみるが、思考は「眠い」一色に塗りつぶされていく。
 テーブルに手をついてどうにか身体を起こして目を擦った。しかし、すぐに腕の力がカクンと抜けて再び座ってしまう。
 結果的にヒギリの鉛のように重く感じられる身体は重力に負けて、そのまま机を枕にするように頭が落ちる。このままではいけないと、ヒギリ自身のどこかは警鐘を鳴らしているというのに、意識はそんな警鐘すら聞こえないような深い夢の彼方へと飛んでいってしまった。

два
 意識を取り戻したヒギリの視界に広がったのは見知らぬ天井だった。
 周囲を窺うように首を回すと、どうやら暗い部屋の中で仰向けにベッドに眠っていたようだ。
 ふかふかの気持ちいいベッドで、掛けられていた布団も羽のように軽く高級品であることがすぐに想像できた。
 少し身体が重いような気分は残っていたが状況把握のためにヒギリはベッドから半身を起こし、その足にある違和感に気付くと慌てて布団を捲る。
 布団を捲った先で見えた違和感の原因に気付くと青ざめた顔で、誰に言うでもなく掠れた声で思わず呟いた。
「何、これ……」
 かろうじて窓から射し込む月明かりのおかげで、ヒギリを驚愕させるには十分なものが足首にあることを見ることが出来た。
 それは皮と金属で出来ているらしい足輪だった。見た限り鍵が無ければ開かないタイプのものにしか見えない。更に足輪には細い鎖がついていて月明かりを頼りに目で追えば、部屋の柱の下の方に付けられた半円の金属に鎖は留められて繋がれていた。
 リードに繋がれた犬がヒギリの脳裏に浮かぶ。
「確かに猫系というよりは犬系って言われるけど」
 そういう事態では無いのに思わずヒギリは呟く。
 どうやら脳が、この異常事態の中でも少し落ち着きを取り戻してきたようだ。
 足を動かすと鎖はシャランッと小気味いい音をたてた。細い鎖ではあるが金属であり到底、ヒギリの力で引きちぎれるものではない。
 ヒギリはベッドから下りると、シャラシャラと鎖を鳴らしながら光源である窓へと近づいて行く。窓まで行けないかと思ったが部屋の中を歩き回る分には十分な長さのある鎖のようで難なく窓に近寄ると、驚いたことに内開きの窓には鍵がかかっていなかった。
 だからといって、そこから脱出出来る訳では無い。
 窓の外には金属製のストレートリーフの形に整えられた柵がつけられていたからだ。真っ直ぐな金属の両側に上向きの細い葉のついた不思議な柄の柵だ。葉の棘で外に出さないようにするデザインなのだろうかと思っていたヒギリであったが、ある事に気付いて背中を冷たいものが通る。
「これ……ローズマリーだ……」
 ローズマリーを模した柵だなんて偶然で付いているものではない。
 格子の柄なんてヒギリは詳しく知らないが、柄があるとすれば大抵はバラやツタを模したものだろう。
 それなのに、わざわざローズマリー。
 この部屋はヒギリのために用意された部屋。
 ローズマリーの格子は、ヒギリがそう思うには十分すぎるものであった。
 そして月明かりの下、外に広がるのは木々ばかりでどこかの森のようだ。
 叫んだところで人が通るようにも見えず、また逃げ出せたとしても場所が分からないのだから逃げる方向も皆目見当もつかない。こんな状態のヒギリがいるような家なのだから、ここはおそらく人が住む場所からは遠いことは簡単に予想される。適当に外に出たら野生の獣に襲われるのがオチだろう。
「良いなー!!良いなー!!憧れるなー!!好きな人と夢の同棲生活…!!もう好きな人と一緒に暮らすシチュエーションなら監禁でも良い…!!」
 かつて、こんな事を言っている人間が居た。誰だ。自分だ。
 その時の自分はまさかそれが本当に自分の身に振りかかろうとは思わなかったが故の発言だったと、今なら良く分かる。
「ここはどこ?」
 呟いても答える者はいない。
 それでも考えを整理するために呟く。
「誰かに拐われた?」
 ヒギリは薄々勘づいていた。ただ、それを認めたくなかっただけだ。
 この部屋に来る直前までのことを思い出せば、答えはそこに行き着いてしまう。
 ローズマリーのお茶。
 だって、ヒギリはそれを飲んで急な眠気に襲われたのだから。
「どうして?」

 かちゃり。

 部屋の唯一の出入口である扉の外から鍵を開けられた音がして、ヒギリは緊張した顔で振り返って扉を見つめる。
 ヒギリの予想が合っていたら、現れる人物は分かっていた。
 それが外れることをヒギリは願いたかったけれど。
 ゆっくりと、扉が、開いて。
「目が覚めたんだね、ヒギリちゃん」
「タイ……ガ、君……」
 部屋に入ってきた人物の名前を呟くヒギリの声は自然と震えていた。
 嫌な予想が当たってしまった。
「タイガ君、助けに来てくれたの?」
 一縷の希望を込めて呟いたヒギリの言葉に返事は無く、タイガはにっこりと笑う。
 それは正に「そうだよ、助けに来たんだよ」とでも言いそうな無邪気な笑みだった。
「足輪の皮の色、赤にして正解だったね。やっぱりヒギリちゃんに良く映えてる」
 タイガの言葉にヒギリは息を飲んだ。
 驚愕の表情でタイガを見つめるヒギリに「そんなに見られると恥ずかしいな」と笑って部屋の電気を点けると、言葉とは裏腹にタイガは気軽にヒギリへと近付いて来る。
「その足輪ね、ずっと着けているものだから良いものにしたんだよ。裏に布を貼ってあるから肌触りが柔らかくて傷にならないんだ」
 明るい部屋の中、ヒギリの恐怖心は増すばかりだった。
 すぐ側にある窓から外へ飛び出して逃げたいのに、ローズマリーがそれを許さない。
 せめて部屋の中、近付いてくるタイガから離れたいのに恐怖で足が震えて動けない。
「ひっ……」
 悲鳴に似た声がカラカラに乾いたヒギリの口から上がる。
 タイガの手がヒギリの首に触れ、ゆっくりと撫で上げるものだから恐怖でヒギリの上の歯と下の歯が震えてカチカチと音を立てた。
 そんなヒギリの表情も動作も見えていないかのような態度で、タイガは世間話でもするかのような軽いノリのまま口を開く。
「本当は首輪の方が良いかなって思ったんだけど、首を絞めてヒギリちゃんの声に悪影響が出ちゃったら大変でしょ? だからオレ、足輪にしてあげたんだ」
 勝手に閉じ込めて足輪までさせてるというのに、タイガの口ぶりは「君を気遣ったのだから褒めて」とばかりのもので、ヒギリの脳は混乱する。
 そんな混乱から恐怖から何も言えないでいるヒギリを見てタイガは勝手に「ああ」と何かを納得したような顔を見せた。
「ずっと寝てたから喉乾いちゃってるよね」
 ずっと寝てたではなく、眠らされていた。
 監禁している者とされるもの。
 加害者と被害者。
 今の2人の関係はそれ以外の何者でもないというのに、タイガはまるで罪の意識なんて無いらしく平然としている。その普通の態度が何よりも怖い。
「た、タイガ君! 分かってるん? これ犯罪なんだよ!?」
 勇気を振り絞るようにしてヒギリは声を上げる。
「そうだね。でも同意の上なら犯罪にはならないから」
「同意した覚えなんてないよ!?」
 ヒギリの正論にタイガは「うん」と頷く。
「でも、大丈夫だよ。同意はこれからもらえば良いんだから。ヒギリちゃんがオレを好きになってくれれば全部解決することだよ。そのための努力はオレだってするし」
 それより此処から出す努力をして欲しい。
 そんなことを思っても言い出したなら何をされるか分からないと思うとヒギリは何も言えない。
 目の前にいるのはタイガその人であるはずなのに、タイガの皮を被った宇宙人とでも会話をしているかのような気分だった。それほどまでに今のタイガに自分の言葉が届くようには見えない。
「こんなことされて、好きになんかならんよ?」
 それなのにヒギリのポツリと呟いた言葉にタイガは傷ついたような顔を見せるものだから、ヒギリの胸には罪悪感が生まれる。
 自分は被害者で悪いのは相手なのに、どうしてそんな表情をするの。
 これではまるでヒギリが加害者のようではないか。
 罪悪感に心が揺れるヒギリの顎をぐっと掴んだタイガの顔は、その手の力と対称的に捨てられた仔犬のような顔でヒギリを見つめる。
「本当に?」
 「本当」と言えてしまえば良いのに生まれた罪悪感がそれをさせない。
 視線を逸らして答えずにおこうとしたヒギリだったが、彼女の反応を見逃すまいと見つめるタイガの瞳の奥に狂気めいた輝きを感じて、ヒギリの身体が小さく跳ねた。
「ほ、ほんと……」
 タイガの眉がきゅっと下がり、狂気めいた光を消した目がヒギリを見つめる。
 罪悪感の生育を助長するようなタイガの縋るような表情は、ヒギリに対して効果抜群だった。
「……ほんとに、本ッ当ーにちょっとだけあるかもしれない」
 結局、ヒギリは非情な女になりきれず、思いもしない言葉を紡ぐしかなかった。
 そのヒギリの言葉に顔を輝かせるタイガはマルフィ結社で見せていた顔と同じで、タイガが狂っているのかいないのかヒギリには分からなくなる。
 監禁した犯人が全く見たことも話したこともない人間だったならば、ヒギリは完全に相手を拒絶することが出来ただろう。知り合い、友人、もしかしたらそれ以上の関係ともいえたタイガが相手となると元来の世話焼きの性質からヒギリは冷たく拒絶することが出来なかった。
「良いなー!!良いなー!!憧れるなー!!好きな人と夢の同棲生活…!!もう好きな人と一緒に暮らすシチュエーションなら監禁でも良い…!!」
 再びヒギリの脳裏を、かつての自分の言葉が過ぎる。
 タイガは好きな人では無い。
 しかし、嫌いな人でも無い。
 好きの反対は無関心というけれど、タイガに対して無関心という訳では無い。
 だったら、ここに居ても良いんじゃ――?

シャランッ

 うん、やっぱり無理。
 足を動かしたことで鳴った金属音にヒギリは我に返る。
 被害者が加害者とずっと一緒にいることで、加害者に好意や共感を抱くようになる心理というものがあったような気がするが、流石に絆されたりなんかしない。
「ヒギリちゃん、好きだよ。愛してる」
 花が咲くように笑うタイガが愛を囁く。
 誰かの特別になれる女の子って良いなと思ったことはあるが、こんな特別ならばなれなくて良かった。
 ヒギリは身体中が震えて立っていられなくなり、その場に崩れ落ちてしまう。
「床になんか座ったら身体が冷えちゃうよ」
 そう言ってタイガはヒギリを抱き上げてベッドに寝かせた。
 その動作があまりに軽々としたものであったから、ヒギリはタイガも「男」なのだと意識せざるえない。
 告白の言葉も、お姫様抱っこも普通の場所でやってもらえたならばときめくものであっただろうにヒギリの心は動かない。
「ほら、こんなに震えて。寒くなっちゃったかな」
 優しい声で言うけれど、いつものタイガとはやはり何かが違う。
 こんなのヒギリが知ってるタイガじゃない。
「ねえ、タイガ君。これ、取って」
 ヒギリは小さな声でタイガに懇願する。
 足輪を取って。自由にして。
 しかしヒギリのお願いにタイガは首を横に振った。
「ダメだよ、これを外したらヒギリちゃんはオレじゃない誰かのところに行っちゃうでしょ? かわいいよ、綺麗な赤色の皮を探すの大変だったんだから。すごく良く似合ってるよ」
 ヒギリの髪を撫でて、陶然としたような顔で一掬いした髪に口付ける。
 様々な感情が奔流のように押し寄せてきて心が耐えられなくなったヒギリの目から涙が溢れた。
 タイガが、舌で掬い取る。
 ぬるりと舌が頬を滑り、ヒギリは身を震わせた。
「ずっと一緒にいようね、ヒギリちゃん」
 その時、扉をノックする音がしてヒギリもタイガも扉へと目を向けた。
 姿を見てもいないのに入って来るのが誰であるのかヒギリには容易に予想がついている。
 はたして部屋に入ってきたのは、ヒギリが此処に来ることになった原因の機械人形のノエであった。
「もう、ノエってばタイミング狙って入ってきたでしょ」
「まさか。たまたまですよ」
 ノエに対するタイガの態度は今までの結社にいる時と何ら変わらなかった。ノエはノエで肩を竦めてタイガの言葉を笑って流していて、やはり結社にいる時の姿のようだ。
「ヒギリさん、おはようございます。ご気分は如何ですか?」
 ノエはベッドの上にいるヒギリの姿を見つけると恭しく頭を下げた。
 わざとらしい丁寧な動作にヒギリは苛立ちを感じるものがありつつも、タイガ以外の会話が通じる者の登場に縋るように彼に声をかける。
「の、ノエさん。此処から出し……」
「申し訳ございませんが、主人マキールの望みを叶えることが私の最優先事項ですので」
 しかし全てをヒギリに言わせることなく笑顔でノエは言葉を封じた。
 機械人形の作られた笑顔が、いつも以上に偽物じみて見えてヒギリの背筋に冷たいものが走る。
「ノエさ」
「ねえ、ノエ」
 尚もノエに縋ろうとするヒギリの声に重ねるようにタイガが声を上げた。
「ヒギリちゃんが目を覚ましたんだから、何か食事作ってあげてよ」
「かしこまりました、主人マキール
 タイガの言葉に執事然とした態度で頭を下げると、ヒギリに目を向けることなくノエはあっけなく部屋を出ていってしまう。扉はパタリと音をたてて閉まるが、鍵はかけていないようだ。
 つまり扉からなら正攻法に逃げられるのでは、と思いヒギリは思わず足を動かして耳に届いた金属の音に現実を思い出す。音をたてた理由である細い鎖で繋がれた足輪が、重さはそんなに無いはずなのに酷く重く感じられた。
「ヒギリちゃん、今逃げようって思ったよね?」
 心を読まれたようなタイガの声にヒギリの肩が跳ねる。
 先程までの朗らかさはどこへ消えたのかタイガの声はヒギリが聞いたこともないほど硬質な響きを持っていた。かつてないほどの不機嫌さを露わにしたタイガの目はどこまでも冷たい。
「タイガ君?」
 ヒギリの呼びかけにタイガは何も答えない。
 変わりに二人分の体重がかかったベッドが軋む。
「ヒギリちゃんが悪いんだよ? オレはもっとゆっくりやって行こうって思っていたのに、逃げることばかり考えているから――逃がす訳無いのに」
 失敗した、とヒギリは悟る。
 逃げようとする様子を見せなければ、タイガは監禁という狂った手段に出たとしてもヒギリに対して落ち着いていたのだろう。
 ヒギリを組み敷くタイガの目は深く昏くて。
 
――もう、この暗い森からヒギリは逃げられない。

три
「――ん、ヒギリさん」
「んん……?」
 名前を呼ばれて目を開ける。
 目の前のテーブルには水を張ったバットに並ぶイチゴジャムの瓶。
 どうやら自分は食堂でジャム作りをしていて完成したと同時に安堵して眠ってしまっていたらしい。
 首を巡らせば心配そうな顔でヒギリを見つめるノエが側に立っていた。
 ノエの顔を見るといつもならば安心するものなのだが、何だか今日は胸にチリチリと焦げ付くような違和感を覚える。
 何か夢を見ていたような気がする。
 夢なんていうものじゃない。
 何も記憶には残ってはいないものの悪夢を見ていたような気がする。
「あれ?」
「どうやらお疲れになって眠ってしまわれたようですね。やはりヒギリさん一人ではなく私やネリネが残れば良かった」
「ううん。気にしないで欲しいんよ、私がやりたいって残ったことだし」
 気にした様子を見せるかのようなノエにヒギリは首を横に振って、更には元気さをアピールするように笑ってみせる。それが機械人形のノエにもちゃんと効果を発揮したのか、ノエは安心したような顔をした。
「ヒギリさんがジャム作りを頑張りすぎてお腹が空いていたらいけませんので、ケーク・サレを焼いてきたのですが召し上がっていただけませんか?」
 言われてみるとテーブルの上にはヒギリの置いたバット以外に見慣れぬ鞄があり、そこからノエが取り出したのはシンプルなケーク・サレであった。
「いただきます!」
 もちろんヒギリにそれを断る理由は無い。
 勢いよく頷くヒギリの前にノエが手際よくケーク・サレを持参してきた皿に載せて彼女の前に置いたので、ヒギリはそれを早々に有難く味わう。
 寝起きになんて食べられない。
 そんな言葉は彼女には無い。
 塩の効いたケーク・サレが疲れた身体にカロリーを補充してくれた。尤も補充されたカロリーがどこに蓄積されるか考えてはいけない。
「お茶もいかがですか?」
 そういって差し出された一杯のハーブティー。
 目を覚ますような清涼感のある強くスッキリとした香りは、ローズマリー。