薄明のカンテ - カルディア/燐花
 こんなにも希望が持てる。
 やりたい事だっていっぱいある。
 そうだ是非彼と一緒にゲームアプリでも作りたいな。
 自分でアイディアを出してみよう、そして自分でプログラミングしてみよう。
 音楽は彼に作ってもらうんだ。
 まだこんなにも希望が持てる。
 こんなにもやる気が持てる。
 それだけで満ち足りた気分だ。

 嗚呼、今日はこんなにも空が蒼い。


 こんなにも空が近い。



 雲一つないこの空は、自分の心の様に晴れ晴れとしている。




 ──死のうか。


それは決して埋まらない距離

 自分で言うのも不思議な話だが、と前置きをする。クイン・エリーズはレイレントにある中学校で浮いた生徒だった。
 所謂、この年代によく現れるルッキズムが虐げの対象に選ぶ様な少女では無かったし、とっつきにくい印象の少女でも無かった。
 しかし彼女は浮いていた。彼女が人を拒否していた。彼女が望むのは洞窟の中の太古のロマン。今を生きる人間には興味が無い。それは都会に想いを馳せ、アイドルに胸をときめかせ、お洒落に没頭するそんな年頃の子達が距離を置くのに充分だった。
「クインってさ、いつも何書いてるんだろうね」
「何読んでるかも謎じゃない?知らない本読んでるよ?」
「足綺麗だし素材良いのにね。何で何もしないんだろう?」
 何もしていない訳では無い。クインはクインで忙しかった。比重がお洒落をする事やアイドルに傾かなかっただけで、彼女は彼女で趣味に没頭していた。彼女のもっぱらの興味は古代文字と壁画の模写。もしかしたら、いつか書き続けていたら文字や絵の意味がまだ専門的な知識には遠い自分にも分かるかもしれない。悠久の時と言う隔たりこそあれど、自分にも彼らの意志が分かるかもしれない。
「クインってさ、ちょっと変わってるよね?」
「何て言うかオタクっぽい?」
「何考えてるか分からない」
「いつも眠たそう」
「キレたら危なそう」
「怖い」
 自分が彼等に興味を持たない様に彼等もまた自分に適当な理由を付けて避けて行く。例えそれが憶測と妄想で形作られた都合の良い人物像であっても決してそれに動揺しなかったし決してそれに怒ったりしなかった。クインは、「子供の頃に囁いた噂なんて大人になった頃には皆思い出として処理する」と思っていた。そんな些事よりも、祖先を知る事で悠久の時を一緒に旅した気分になれる。その時間の方が有益だった。
「エリーズさん、よろしくお願いします」
 そんな気分の中不意に声を掛けられ、クインは思わず呆けた顔を彼に向けた。
「ああ、席替えしたんですよ。もしかして気付いてませんでした?」
「…ごめん、特に…」
「寝てたんですか?」
「よく言われるけど、私のこれ生まれ付きでこう言う顔よ?」
「ああ、すみません。そうなんですね。じゃあ、改めてよろしく。ウチ、隣の席になったんで」


 私はその時抱いた気持ちを
 生涯忘れる事は無いと思う

 誓って忘れる事は無いと、
 貴方を忘れる事は無いと、

 そう思う──


「また絵ぇ描いてんですか?」
 クラスに馴染まず、落書きばかりしているクインに声を掛けたのは決して同情等ではなかった。彼女の描く世界観が面白くて好きだったと、後に彼──ノクス・グリントは語っていた。
 ノクスは何の運命か席が隣になった時から何かとクインを気にした。
「そうだけど…」
「ああ、変な顔しないでください。別に笑おうとしたわけじゃ無いっす」
「じゃあ、何?」
「いや?ただ、いつも何描いてんのかな?と思って」
 何も感情の浮かばないクインの瞳がノクスを見る。ノクスは特に顔色を変えず微笑むだけだった。
 クインにとってノクスは、変な人と言う存在だった。それ以上でも以下でも無い。
 彼は成績優秀、スポーツ万能。試験をすれば学年で十位以内に必ず入る。「頭の良い子」、「試験の出来」の基準となるのが彼で、生徒会にも属しているクラスの人気者。人気を鼻にかける事も無く、彼を悪く言う人間は見た事がない。誰とでも分け隔てなく接している。彼を間に挟めば、起き掛けていたいじめも無くなる。
 いつだって敬語で喋り、この年代の子には珍しく一人称は「ウチ」か「自分」。「俺」や「僕」を使うところは見た事が無い、少しふわふわした子だった。底抜けに優しくお人好しで、少し諦めの早い印象。
 そして彼にはファンが居た。ファン以上に彼を思う女の子が居た。その子はまるで「命懸けの恋」と言わんばかりに彼を慕っていた。
 その女の子も優しく明るく、成績も悪く無くクラスメイトから人気が高い。ノクスと付き合っていると言うのも人気があった理由だったのだろう。それでもお似合いの女の子だと思った。本当に本当にお似合いだった。
 だから二人が付き合っていると聞いても、何の異論もなかった。
 ノクスはクラスの人気者。クインはクラスを拒絶している腫れ物。ノクスは「席が隣になったから」と言ってまるで逆方向を行くクインを気に掛ける変な人。だからそれ以上にしてはならない。絶対に、それ以上にならない。
 彼の上品に切り揃えられた短い前髪がサラサラと揺れる度、一番近くでそれを見ていられるクインはノクスを「変な人」以上にしない様にと心に決めた。
 そんなクインの決意を嗅ぎ取るのか何なのか。適当な理由を付けて彼女を避けていた女子達が今度は必要以上に彼女に絡む様になる。
「ノクスがラヴィと付き合ってんの知ってるよね?そう言う態度良くないんじゃない?」
 そう言われたクインが目線をちらっと動かすと少し暗い顔をしたラヴィと目が合う。彼女は複雑な顔でクインを見ていた。彼女の性格的にそう言う事を相手に伝えるのに抵抗はあるのだろう。どんなに「ラヴィの為」と言われても、自分では無く第三者の筈の友達がそれを伝えるのは尚更。しかし、それでも友達からの『善意』を受け入れてしまったのは彼女も彼女でどうしようもなく不安で嫉妬もしてしまうから。
 十代の女の子がこの時期に出来る交際相手を心底信頼し放任するのは難しいし、自分の中に芽生えた嫉妬心を押し殺して平気でいられると言う訳でも無い。
 そして、本来関係が無いはずの第三者の立場の筈の女の子もまた、『この恋愛模様がどう転がって行くのか』と言う好奇心を抑えられずしゃしゃり出てしまう。皆が皆抑えの利かない状況下で、それでも現実を直視したクインは期待するのを止める事にした。
「…私はただ隣の席ってだけ。それ以上でも以下でも無い。ノクスだってきっとそうとしか思ってないわよ。だってラヴィはずっと前から彼の特別でしょ?私はついこの間、席が隣になっただけだもの。何も心配する事無いわ」
 たかが隣の席になっただけ。
 我ながら嫌な女だとクインは思う。
 そう言われたら優しいラヴィはこれ以上クインに食って掛かれないと、周りの取り巻きの事も止めるだろうと彼女を見ていればそれくらい予想できるから。
 案の定ラヴィはクインがノクスの隣の席に居る限り、モヤモヤと不安を募らせる他無くなった。しかし一方でクインもまたぬかるみに嵌った心地だった。そう言ってしまった手前例え好きだと思っても、少なくとも在学中はノクスへの想いを自覚してはいけないと悟る。学生と言う世界の中、穏便に且つ満たされた思いで日々を過ごすにはクインは「ノクスの隣の席にたまたま着いたクラスメイト」の枠から出てはならなかった。出ようとしたところで何一つラヴィに勝っていると思えなかった。
 結局クインは間違ってもノクスをラヴィから奪う様な行動には出なかった。自分がそれをしたところで真面目な彼は応えてはくれないと信じていたから。
 ラヴィはむしろ、クインがアプローチするならしてくれとすら思っていた。そしてノクスにしっかりクインを拒絶して欲しかった。隣に居るのは自分以外居ないのだと知って安心したかった。彼の思いを確かめたい、自分だけが彼をこんなにも好きだなんて思いたく無かった。
 ノクスは他のクラスメイトと同じ様にクインを扱った。しかし、どこかクインを妹の様に扱い時折居心地良さそうに笑う。
 ノクスが何を想っていたかは分からない。だが、その笑顔を誰にも奪われたく無かったクインはその為に枠から飛び出ない選択をしたし、そんな笑顔をクインに向けるのを見る度ラヴィは切ない思いに心を掻き乱された。
 最早ただの友人やクラスメイトと言う立場では居られなくなった二人は、地雷原の上を慎重に歩く様な心地で学生生活を送っていた。
 廊下でクインと擦れ違ったラヴィは他の生徒にする様にクインにも笑顔で手を振る。クインもラヴィに微笑む。けれどそんなクインの心にはいつしかラヴィへの強い羨望と劣等感が、ラヴィの心にはクインに対する焦りと嫉妬が生まれていた。
「何かさ、ノクスとラヴィって、ラヴィの『好き』が強過ぎるカップルに見えるよね」
「分かる。ノクスって本当にラヴィの事好きなのかな?」
「え?実はそうじゃなくて、ラヴィの押しが強過ぎて渋々付き合ったって聞いたよ?」
「まぁどっちにしろ、ノクスもノクスであんまり良くその辺分からないよね」
 見ているだけの周りは、本当に勝手な事を言うものだ。

初恋はレモンよりオレンジに似てる

 地元、レイレントの高校に上がったクインは家が近かった事もあり時折学校帰りにノクスに呼び掛けた。
『今家の下に居るんだけど』
 ノクスは留守にしていたり、暇で無い時はそう言って呼び掛けを断った。でもそうで無い時は会ってくれた。会ったところで何があるでも無い。取り留めの無い話をして、中学を少しだけ懐かしむ。
「元気ですか?」
 ノクスはいつだってそう言って少しだけ時間を作ってくれた。
「うん。あ…私はもう会ってないけど、ラヴィは元気?まだお付き合いしてるんでしょう?」
 別れた。その一言をもし聞いていたら、自分は気持ちを押し殺さず居ただろうか。たらればで自問自答する。
 少なくともこの話題を振る時、クインはいつも覚悟を決めていた。「やっぱりその気はあったんだ」と例え後ろ指を差され様とも、もしもきっかけがあったなら勇気を出そうと思っていた。
「…元気じゃないですかね?」
「何で疑問系?」
「最近会ってないんで。ウチもよく分からないっス」
 ノクスは正直にそう答えた。一度も別れたとは言わなかった。
 高校受験の際、ノクスは流石と言うべきか楽々と受験戦争を抜けた。元々頭も良く、生徒会にも属していたし部活でも活躍していたし、内申書は文句なし。推薦で悠々と進路を決めてしまった。不幸だったのは、彼が高い倍率をものともせず推薦で入った学校を一般で受験したラヴィの学力が足りず彼女が落ちてしまった事だ。
 ラヴィだって頭が悪いわけでは無い。ノクスと同じところに行きたいと一生懸命頑張った。けれどそれは叶わなかった。
 合格発表の日、不合格の通知を持ってそれでも頑張って学校に来て居たラヴィは授業中耐え切れず咽び泣いた。
 彼女がそれ程までにノクスを好きだったと見せ付けられてクインも泣きたくなった。きっと私がしている事は、楽なところから掠め取ろうと言う行為。だからどんなに夢見ても彼との関係に天井が見える気がするのはきっとそう言う運命なのだろうと。
 掠め取ろうと言う魂胆の自分になんてチャンスは無い。そうは思うのに、時間を見付けてはノクスに声を掛けてしまう。時間が合えばノクスも来てくれる。単純に、中学の時の思い出を共有したい相手同士だったからとも言える。
 前にも後ろにも進めない関係性ではあったが、クインはそれでも心地良かった。
『夏休み、宿題見て欲しいんだけど』
『良いっスよ。ただ、忙しいんで一日かそこらしか無理かもしれません』
『え?良いの?』
『一日で良ければですけど』
『ううん、ありがとう。嬉しい』
 端末を机に置いて窓から外を見る。そう言えば彼と会う日はいつも夕暮れ時だった。一歩踏み出したら何かが変わるだろうか。
 結局約束の日、図書館で待ち合わせてほぼ一日宿題を見てもらうのに注ぎ込んで、それでもノクスは嫌な顔をせずいてくれた。
「はい、オレンジジュース」
「すみません、見返りなんて要らなかったのに」
「見返りって。ただのお礼よ。休み一日もらっちゃったし」
「しかし見事なまでに苦手な教科の苦手さが際立ってましたね」
 二人きりで過ごしたからと言って特別何かがあった訳ではない。クインの苦手な教科は本当に苦手な教科だったし、ノクスもまさかクインがここまで出来ないと思わず半ば笑いながら見てくれた。クインは涼しい顔で「だって苦手なんだもの」と口にする。ノクスは「それが面白いんです」と笑った。彼はそう言うところ少し意地悪なんだから。
「夏、どこか行ったの?」
 居た堪れなくなって話題を変えようと夏休みの話を口にする。クインは地元がレイレントであり祖父母の家もレイレントにある為代わり映えは特にしない日々だったが、ノクスの祖父母はシュエリオ大陸に住んでいると聞いた事があった。足を運んでいるのかとも思ったが、予想に反してノクスは寂しそうに笑った。
「いいえ。ウチも宿題や部活に追われてます。忙しいっス、正直休む暇もあまり無くて」
「そう…」
 それなのに今日来てくれたのね。
 喉まで出掛かって結局言えずに飲み込んだ言葉。
 もしも言ったら、何だか彼を困らせてしまう気がして。
「じゃあすみません。ウチもう行かないと。宿題、ちゃんと終わると良いっすね」
「今日はありがとう、ノクス」
「いいえ。楽しかったっすよ、エリーズさん」
 体が熱いのはきっと夏の気候の所為だけじゃない。彼を思い出す度早鐘を打つ心臓の音を自覚しながらその日の夜、お礼のメッセージを打ちあぐねて居た。窓の外に広がるコバルトブルーを永遠に見て居られると思う程に世界が美しく見えた。
『今日はありがとう。でも大丈夫?他の友達も呼ばないで私とだけだったから、もしかして一日つまらなかったりしてってちょっと心配になった』
『いいえ。大丈夫っす』
『そう?好きでもない人間と行動するのって辛いじゃない。無理させた様なら言って。次頼むならちゃんとノクスの事情も考慮してお願いするから』
 もし自分の事など好きでも何でも無かったら。今日の一日は無理強いの様な気もしてしまった。急なネガティヴに駆られついつい激情に駆られ、普段聞かない様な事をクインは聞いた。もしもノクスが自分を何とも思っていないなら突き放してくれるはず。あまりにも一日彼と過ごしてそこに楽しさを見出していたクインは、期待をしてしまっている自分に気が付いた。
 だからこそ、そんな事を聞いてしまったのかもしれない。ノクスから返って来たメッセージにクインは顔を赤らめた。
『いや、嫌いなんて事ないっすよ。あなたの事は、むしろその反対方面で…』
 好き、と言われた訳ではない。けれどそれだけで充分だった。嫌いの反対方面。そこに突き進んだ今もう戻れない気がした。
 そしてやっとラヴィの気持ちが分かってしまった。彼女が自分と言う存在をどれだけ恐ろしく思って居たか、どれだけ彼の気持ちが離れる事を恐れて居たか。嫌いと言われなかった、むしろ反対だと言われた今なら分かる。クインはまだ彼と交際を続けているであろうラヴィの存在を疎ましく思ってしまったしそんな自分も、そんな気持ちにさせるラヴィの事も怖いと思ってしまった。

 しかし数日後、あれだけノクスの事が大好きだとそう言って居たラヴィが夏祭りにノクスではなく高校の同級らしい男の子と一緒に歩いていたとそう噂を耳にした。
 クインは少なからずショックを受けた。ノクスの事が好きだと言う自覚はあったが、ノクスが本当にラヴィが好きで彼女と交際して居たのならその幸せが壊れないで欲しいとも思っていた。
『ノクス、今学校帰りでノクスの家の前通るんだけど』
『すみません。ウチ、今外にいます』
 その後、ノクスにメッセージをしても今までの様に会う事は無くなった。

美しい思い出を引き摺りながら

 気付けば高校も二年目の冬を迎えた。漠然とだが大学で心理学を学ぼうかと考えていたクインはこの頃少しずつ周囲の人間と距離を狭められる様になり、ふとした時にノクスの事を思い出していた。
 周りを拒絶していたけれど、ノクスと親しくなって彼との共通の友人も多く出来た。男性ばかりではあるが、皆高校進学後も何だかんだ顔を合わせる仲になれた。
 きっかけがノクスだった。だから、彼に会ってお礼を言いたかった。それなのにどう言う訳か彼には会えない。少しもやもやした気持ちを抱えながら帰路に着いていると目の前に大型犬が現れた。
「……は?」
 ノーリードで自由に駆け回っている。野良猫を興味深げに追い掛けたり、花壇の花に鼻を近づけ匂いを堪能したり。いや、どこの家の犬か分からないが結構な脅威である。何せ狼の様な見た目の犬が道路を駆けているのだから。
 クインは慌てて近くの警察に駆け込むと『ノーリード駆けずり犬』の事を話した。緊急事態だと思ったのだが、意外にも慣れた様に「あぁー…カルラティさん家の子また逃げ出したかぁー」と口にする。クインはこの時ばかりは眠たそうな目をカッと見開いた。
「あの…よくあるんですか…?」
「脱走癖があるんだよ。もうね、この近辺の警察は慣れてんの、あの子捕まえるの」
「はぁ…」
「あの子捕まえる時様にカルラティさんからリードも預かってるんだよ。僕それ取ってくるから、悪いけどワンちゃん居なくならないように捕まえててくれない?」
「…はい?」
「ワンちゃん嫌い?」
「い、いえ、むしろ好きですが…」
「本当?あの子噛む子じゃないから大丈夫だよ。頼むね!」
 そう言う問題じゃない。あんな大きな犬が走り回ってるのにあろう事か居なくならない様に捕まえていろだと…?警察に言えばすぐに対応してもらえると思っていたクインは真っ白な頭で現場に戻った。正直駆け込めばすぐ終わる問題と思っていたのでこう展開すると思わず頭を捻る。自分も動物は好きだし犬を飼っている親戚もいるし、確かに慣れてはいるのだがこんな大型犬は相手にした事がない。
「ど、どうしよう…?」
 とりあえず現場に向かってみる。そして未だ自由を謳歌する犬を見据えた。こっちに興味を持たせて、警察がリードを持ってくるまで戯れて待て、と…。
「……無理!!」
 クインは咄嗟に端末を取り出すとすぐ目の前にある家を見ながら電話を掛ける。掛けた番号は、ノクスのものだった。
『…はい?』
 少し元気のないノクスの声が電話口から聞こえてくる。しかしクインは構ってなどいられなかった。
「ノクス!?」
『…どうしました?』
「た、助けて!ノクス、ワンちゃん飼ってたわよね!?大きい子!」
『それがどうかしました?』
「近くの住宅街で同じ様なワンちゃんが脱走して走り回ってるの!警察に駆け込んだら『カルラティさんのとこの子だから』って!『リード持って行くから捕まえててくれ』って!でも私こんな大きい子相手にした事無いから勝手が分からないの!頑張るから噛まれずに逃さない方法教えて!」
 一息に捲し立てると、少しの沈黙の後『ちょっと待っててください』と言われ電話が切れた。クインがオロオロとその場で狼狽えていると、玄関からノクスが階段を降りて来た。
「ああ…本当だ。カルラティさんのとこの子っすね…」
 少し疲れていそうな、でも少し微笑みながらノクスが現れると、すぐにチッチッと舌を鳴らし犬の注意を引く。犬はノクスに気が付くと嬉しそうに大きく尻尾を振り、彼に飛び掛かった。
「ノクス!?」
「大丈夫っすよ。お巡りさんもう来るんでしょ?」
「く、来るって言ったけど…!」
「ふーん…じゃあ噛まれない様に避けながら注意引いてるんでエリーズさんそこで待っててください。あ、でもウチが噛まれたら骨拾い頼みますね」
「え!?お、お巡りさん早く!!」
 数分後、のそのそとリードを持って現れた警官が何の苦もなく犬の首輪にそれを繋げるとノクスに会釈して帰って行く。ノクスは運動したからか、今日最初に会った時より些か溌剌とした顔で立っていた。後から聞くと、大きいのは図体だけで本当に人懐こい、全く怒る事もなく人を噛んだ事すらない穏やかを絵に描いた子だったらしく、ノクスの言う「噛まれたら骨拾い」なんて事態が起こり得ない子らしかった。あの言葉が狼狽える自分を見たノクスの悪戯だと気付いたクインは恨めしそうに彼を見つめた。
「酷いじゃない…」
「いやー、人生何が起こるか分からないじゃないっすか」
「ちゃんと噛まない様にしっかり躾された子だって言ってたわ…」
「そう言やそうでした」
「頼っといてアレだけど…ノクスが噛まれたらどうしようって私凄く心配したのに…」
 ムスッとした顔を見せるクイン。ノクスはそんなクインを見て微笑むと、軽く彼女の肩を小突いた。
「ちょうど一休みしたかったんで、良い息抜きになりました」
「…本当?最近忙しいの?」
「ええ、ちょっと具合が悪くなるくらいには…でもリフレッシュ出来ました」
 あー楽しかった。そう呟いて彼は部屋に戻って行く。ヒラヒラとクインに手を振りながら。何だか中学時代に良くされた翻弄のされ方と言うか、実は茶目っ気のあるノクスの悪戯を思い出し、クインはまたむくれた。
 本当に、彼は変なところ意地悪だ。

 * * *

 気付けば高校最後の夏休みを迎えた。ノクスと二人だけで図書館に行ったのが昨日の事の様にも遠い昔の事の様にも感じる。既に進路を大学の心理学科に絞っていたクインはこれまでと違うやる気を抱えて一日一日を過ごしていた。
 この頃、ノクスの家の前を通ってももう殆ど彼に連絡を取らなくなっていた。
 カルラティ家の犬脱走事件で久々に会ったノクス。彼の酷く疲れた顔が気に掛かる。頭の良い子でレベルの高い学校に行ったから、進路も試験も凡人には分からない苦労があるのだろう。
 そうは思ったが、中学時代の無邪気な彼の笑顔を思い出す度どうしようもない不安に駆られた。
 そう言えば二年前、ノクスと二人で図書館に行って宿題を見てもらったんだっけ。たった一日だけの二人の時間をたまに思い出してはクインは顔を綻ばせていた。
 カンテ国に訪れる寒い寒い冬の準備と共に悔いの無いよう思い出作りにもそろそろ掛からなければ。そう思いながら参考書を読みつつ家々の間を歩く。すると反対方向からノクスがやって来た。
「ノクス…?」
「………」
 まるで返事が無い彼に困惑しつつ、手を振って存在をアピールしてみる。ノクスは一瞬視線を彷徨かせるとクインを視界に捉えて笑う。
 その目にはまるで光が籠っておらず、本当にあのノクスかと言う程に疲れた顔をしていた。
「エリーズさん…」
「お久しぶり…」
「久しぶりです」
 続かない会話。でも立ち止まってくれるノクス。クインは居た堪れなくなり、ありきたりな事くらいしか言えなかった。
「あの…最近はどう?忙しいの?」
「超忙しいっす。正直今すぐ帰って寝たいくらい」
 自分を前にして、自分と喋っていて、出た言葉は「今すぐ帰りたい」。意外なノクスの言葉の運びにクインはぐっと堪えると「今すぐ寝たいくらい忙しいなら引き留めない方が良いわね」と聞き分けの良い人間の顔をした。
「じゃあ、ウチはこれで…」
 クインはこの時たった一言二言しか交わせなかった。その事が気掛かりで、その後ノクスとの共通の友人と会った時にそれとなく彼に聞いてみた。
「ノクスは…元気にしてる?」
「ん?まあ、元気じゃない?」
「ユオは…ノクスに会ってるの…?」
 ユオ・シリッシュはノクスを巡ってクインと一度悶着した後に仲良くなった稀有な間柄だ。実は中学生のあの時、ノクスの隣の席になった事で目を付けて来たのは彼女であるラヴィとその友人達だけでは無い。同性の友人の中でもノクスと一番仲が良かった彼もまた、一度はクインと火花を散らした間柄だった。クインは折角人と話す喜びをくれたノクスと離れたくはなかったし、ユオはずっと一番の親友は自分だと思っていたのに、突然現れたクインの事が面白くなかった様だ。
『ノクスを取らないでくれない?』
 まさかの男性である彼から嫉妬心剥き出しで言われたその言葉。直接的なその言い回しが今も頭から離れない、とクインが笑うとユオは困った様に微笑む。いつしか二人は不思議な友人になっていたし、ノクス抜きで会う事も増えた。この日もユオは相変わらず学生服に不釣り合いなアーティスト然とした長い前髪を垂らし、優雅にコーヒーを啜っていた。そこそこ綺麗な顔立ちをしているのだからその前髪上げたら良いのに、とクインは会う度彼に対してそう思っていた。
「俺も最近ノクスに会ってないよ」
「忙しいって、聞いたわ」
「…ノクスはクインに嘘は言わないよ。クインの事は正直嫌いじゃない、むしろその反対の感じだったし。そのノクスがクインに誘われて忙しいって返したならそれは本当に忙しいんだよ」
 前髪に隠れて瞳は見えないが、真剣な顔で言ってくれているのはクインにも良く分かった。これと言う理由は言えないが、そこは中学から一番近くに居た間柄だからか。
「まあ、ユオすら会えていないならそうなのね…最後に会った時に交わしたのが変な会話だったから心配しただけ…」
「ああ、うん。ノクスは学力的にも余裕で今の高校行ったってのは確かだけどさ。入った後は本当に忙しいみたいだよ。寝る間も無いってよくぼやいてる」
 ユオはそんな会話を交わした思い出が嬉しいと言いたげにそう呟く。思うにユオはノクスが本当に好きなのだろう。ユオがノクスの話をする時、クインは彼のまるで「恋する乙女」の様な顔に敵いそうも無いと思ってしまう程、それ程までに彼は嬉しそうにノクスの話をしていた。
 でもユオは実は過去に長い片想いの末ラヴィに告白した事もあって、そう見えてしまいそうな時はあるのに決して同性愛者では無いと言うのだからまた不思議な人間なんだよなぁと時折混乱しながらも今目の前にいる友人を懐かしい目で見つめた。
「たった二十年くらいの人生でやたらキャラの濃い人間達と知り合った」
 不意にユオが呟く。クインが驚いて目をぱちくりさせると、ユオが微笑みながら「顔にそう書いてある」と続けた。
「不思議だよね。俺もそう思う」
「でも、私きっと中学時代が一番楽しかったと思うの…。ノクスは居たし、ユオも一緒に居た」
「今も楽しもうぜ。昔を懐かしむのはもう少し経ってからでも良いよ」
「何故?」
「だって、まだ今は会おうと思えば皆会える。クインのその懐かしみ方は、どうしようもなく会いたくても会えなくなってしまった時に誰かとするものだと思う。その時また俺と、皆と、そんな話しようよ」
「そんな事言ったら何十年先か分からないじゃない」
「だから、何十年先でも良いんだよ。大人になったその時に、また一緒にそんな話をしようよ」
 そう言って微笑むユオを見て安心した様に微笑み返すクイン。変わって行くものはあるけれど、やはり思い出を共有出来る友人と言うのは良いものだ。
「クイン…中学の頃より綺麗になったよね」
「やめてよユオ。褒めても何も出せないわ」
「綺麗に笑う様になったよ」
 そんな風な少し背伸びした会話もユオと出来る様になった。またノクスと三人で語り合える日が来たら良いのに。

それが「大人になる」と言う事ならば

 無事高校を卒業し、大学へと進学したものの地元レイレントから離れなかったクインは通り道にあるノクスの家の前を通る度「次はいつ会えるのか」と思っていた。
 きっと彼も大学に進学しただろうし、高校であれだけ忙しかったのだから大学でまた忙しい日々を送っていそうだとも思う。もしかしたらラヴィと別れたかもしれないし、でも彼は優しいからまたすぐ彼女が出来ていそうだし、いつか「どんな風に高校、大学を楽しんだか」をまたお互い話せたら良いなと淡く想いを募らせていた。

 大学の思い出は風の様に駆け抜けた。
 クインも初めて出来た恋人との甘い時間を経験したし、高校まで定番としていたお下げをやめて髪にパーマを当てて少し垢抜けた。学問にも励み、大学院への進学も決めた。カウンセラーの仕事をすると明確にそう決めた時、久しぶりにユオから連絡が入る。それはいつもの砕けた物ではなく、一斉に送信したであろう畏まった文だった。

 そこにあったのはノクスの訃報だった。

 クインはその場で凍り付いた。
 手からするりと端末が落ちて行く。カツン、なんて小さな音では無い。ガンッと大きく音を立てた。それはまるで自分の頭に叩き込まれた衝撃そのものの様な音だった。
 慌てて拾い上げ、メッセージを更に読み込んでいく。そこには通夜の場所や告別式の日時が指定されていた。
 彼と最後に会った時の顔が鮮明に思い出された。疲れた顔で、休みたいと言っていたノクス。今思えば、中学を卒業してからそんな彼の顔しか見ていなかった。最後に話をした時の彼を思い出す。もうあれだって四年くらい前の彼だ。
 大学生の彼がどんな風になっていたのかクインは知らない。悲しむ暇もないまま通夜の日を迎え、喪服を着込んで出て行った。
 会場に向かうと、報せを聞いた人が既に集まり涙していた。フラフラと足取り悪く歩みを進めると、共通の友人に声を掛けられる。
「ちゃんと来れたか?クイン」
「…ユオは…?私達にメッセージくれたのに…」
「ユオは仕事終わってから来るって」
 ずっと近くに居たであろうユオがどれだけ悲しみに暮れながら来るだろうか。彼の悲しむ顔を見たらきっと自分も泣き崩れてしまう。そう思ったクインが覚悟を決めて待っていると、意外にも会場に入って来たユオは明るかった。
「悪ィ悪ィ!遅くなった!」
「ユオ…?」
「ああ、クインも来てたんだ。きっとノクス喜ぶよ」
「そ、そんな事より、ユオ…」
「あ、ごめん飲み物飲んで来て良い?慌てて来たから何も飲んでなくて」
「……」
「何て顔してんだよ?笑って送り出してやろうぜ?」
 ユオの空元気が見ていて痛々しい。
 それはその場に居た誰もが思った。
 クインは余計に泣きそうだと思いながら彼に飲み物を渡す。お礼を言いながら受け取ったユオは少し飲み過ぎではないかと言う勢いで水を飲んだ。
 そうしている間にも式は進み、ユオもクインも列に並んでノクスと最後の対面を果たす。何も考えられずに列に並んだ。何も考えられず前に進んだ。棺に収まったノクスは、まるで眠る様にそこに居た。
「ノ…クス…」
 最後に会った高校生の時と変わらない、何一つ変わらないノクスの姿。眠る様に彼はそこに居た。クインの目から涙が溢れる。しっかり彼の姿を脳裏に焼き付けようとするのに、溢れた涙で歪んでよく見えない。
「ノクス…嫌だ…!」
 駄々をこねたところで、もう彼は帰って来ない。『やっぱり彼の事を初めて話した時からずっと好きだった』と自分の抱えていた居心地の良い淡さの正体に気付いたとしても。
 クインは一緒に並んだ友人達と一際大きな声を上げて泣き、崩れる様に足をもたつかせた。次にお別れを言おうと並んでいる人の為に離れなければならないのに足がうまく動かない。そんなクインを見兼ねたのか先に進んでいた筈のユオが戻って来て声を掛けた。
「クイン、大丈夫?ねぇ」
「大丈夫…じゃない…っ」
「ちょっとごめん、手ぇ貸すから」
 ユオは手を伸ばすと泣きじゃくるクインの体を強く抱き寄せる。足に力が入らないのでどうにかしてせめて地に足だけでも付いていてくれればと立ち上がらせてやる。荒く息を吐き涙を流すクインをまるで引き摺る様にユオはノクスから離した。彼を求める様に伸ばしたクインの手は何にも触れられる事なく空を掴むだけだ。
 そう言えばノクスはどうして死んでしまったの?誰からも亡くなった理由を聞いていない、ただ死んでしまったと報せがあっただけ。そんなモヤモヤを抱えながら、少しだけ落ち着いたクインはユオ達と共に通夜を終えて場所を移動した。
 まるで小さな同窓会の様な小規模の飲み会が仲間内だけで急遽開催された。故人の死を悼み、想い出に浸る席。クインは笑顔を見せ、自分以外女性の居ない、男性だらけの酒宴の席で「私には本当に女子の友達が少ないらしい」と急に冷静になった。
 トイレに立ち、化粧を直しながらしばらく一人になる。本当に男子しか居なかったんだなと思いながら鏡を見つめる。自分の眠たそうな目は確かに昔から変わっていない。けれど、棺で眠っていたノクスは、本当に時が止まった様に変わっていなかった。ほんの少しだけ髪色は明るかったかも。けれど、最後に会った数年前から何も変わらない彼のままだった。
 せっかく化粧を直したのにまた涙が滲みそうになり、慌てて気持ちを切り替え外に出る。努めて明るく飛び出したクインだが、待っていた友人達はさっきより少し暗い顔をしていた。
「そろそろ、お開きにする?」
 友人の一人がそう呟いた。
 ぞろぞろと連れ立って外に出る。何だかさっきより皆そわそわしている様な気がするのは何故だろう。クインはあからさまに疑問を顔に出していたのか、友人達は困った様に眉を顰めて全員がユオに振り向いた。
「なぁ、ユオ。やっぱ隠しとけないよ」
「でも、俺らの口からも言えねぇって」
「本当に良いのかよ。教えてやらなくて」
 一人の言葉を皮切りに順々に喋り始める。何が何だか分からずに居ると、ユオは相変わらずの長い前髪の下、覆われた目には一切隠す気のない不満の表情を浮かべると煙草を口に咥えた。
「ちょっと吸う」
 そして火を点け、ゆっくり煙を吸い込むと、大きく呼吸をしてそれを吐き出す。二、三回それを繰り返し、漸く意を決したのか口を開いた。
「ノクス…さ。事故じゃないんだ」
「え…」
「病死でもない。アイツ、自分から飛び降りたんだよ。高い所…行ってさ」
 ユオの口から語られたのはノクスの死の理由だった。クインは、何故自分が席を外した前と後で皆の顔色が違ったのか悟る。ユオが自分には明かさない様に、けれど他の友人達にはそれを教えたのだ。
 ノクスは自ら命を絶っていた。けど何と無く、そうじゃないかと思っていた。
「高校の時も忙しくて本当顔色悪くしてたんだけどさ、大学上がってあいつ、対人恐怖症みたくなっちゃって…」
 気丈に振る舞っていたユオの煙草を持つ手がカタカタ震える。矢張り自分で「泣かずに笑って見送る」と決めていただけで彼が無理をしていたのは明白で。ノクスの事を誰よりも見ていたから、誰より知っていたから、誰かに明かしたりしたら自分が壊れそうだったのだ。
「俺とか、本当親しい間柄の友達は平気だったけど…新しく触れ合う人とかそんなに仲良くない人とか、話す事すら出来なくなって…誰かに会った時のノクス、本当可哀想なくらいパニックになって震えて…でもしょうがないのに、そうなったらそれはしょうがない事なのに、いつも申し訳ないって気にしてて…」
「うん…」
「日常生活に支障が出る程人が怖くなっちゃってさ…。でも、少ししたら言ったんだよ、『自分でも何か作ってみたい』って。アイツ、内々に勉強してたみたいでプログラムの知識持ってたから『それならゲーム作るか』って。そしたらノクス、俺に『音楽を作って欲しい』って…俺嬉しかったんだ。ノクスが元気になって来て安心しちゃったんだ。きっと出来るよ、一緒にやろうって返事したら安心した様に笑ってさ。それからすぐなんだ、飛び降りたの」
 クインの頭の中にも笑顔のノクスが浮かんでは消えて行く。でもそれを見ていたユオは、きっともっと辛かった。
「俺のせいだ…俺が安心してアイツの傍にいなかったから…!元気になって来たからって安心しないで、些細な変化も逃さず傍にいれば良かった…そしたら、そんな思い詰めた様な時に傍にいたら…まだ笑っていられたかもしれないのに…!」
 今日一番笑っていたユオ。だからこそ、思い切り泣いたユオ。誰も何も言えず立ち竦む中、クインは飛び出すと泣きじゃくるユオの体をしっかり抱き締めていた。
 ユオの所為じゃない、ユオは何も悪くない。きっとユオが傍に居てくれたから、ノクスは幸せだった筈。
 そう言って彼の頭を強く抱き抱えるしか出来なかった。
『何十年先でも良いんだよ。大人になったその時に、また一緒にそんな話をしようよ』
 いつかユオが言ってくれた言葉を思い出す。こんな思いをするのが大人なのだろうか。こんな思いを抱えて大人は生きなければならないのか。ならば私は、まだ大人になれない。きっと私の大好きな祖先達の軌跡を辿る様な、そんな途方もない時間の経過が必要だ。
 クインの時は、この時止まった気がした。

そして凍る時

「はぁー…」
 ひとしきり泣いて、ユオは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。同じく涙に濡れた顔でクインはユオを見つめた。目が合ってにこりと微笑むと、ユオも一瞬笑って「生意気」といつもの調子でクインの頭を小突いた。
「髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃうわ」
「良いじゃんこんな時くらい」
「良くないわよ」
「よし、じゃあもっとぐちゃぐちゃにしてやろ」
 照れ隠しなのか、クインの頭を鷲掴むとわしゃわしゃと手を動かすユオ。ひとしきりクインをおもちゃにしたユオはやっと落ち着いた様に笑った。
「何でお通夜でさっきみたいに素直に泣かなかったのよ…」
 思わずクインが尋ねると、ユオは寂しそうに笑って口を開いた。
「約束だったんだよ。ノクスのお袋さんとの。ただの口約束だったし、それ言ったお袋さんは会場で秒で泣き出しちゃったけど。ノクスの事、笑って送って欲しいって」
「無理だわ…そんなの…」
「だから俺だけでも頑張ろうと思った。でもクインに話したら泣けて来た。まあ明日の告別式こそは多分、泣かずに送り出せる気がするよ。クインに話してスッキリもしたし」
 涙で荒れた顔で微笑むユオを見てクインは遣る瀬無い気持ちになった。ノクスは空の青さに惹き込まれる前に何故ユオを思い出してくれなかったのだろう。彼の存在すら引き留める材料になれなかったなら、他に誰がノクスを引き留められただろう。もしも自分が昔、遠慮もせずノクスに気持ちをぶつけていたら彼はまだ荒波に揉まれてそれでも生きて行く人生を選んでいただろうか。それとも、私の人生に『恋人を自殺で失った』と言う悲し過ぎる思い出が付随して終わりだっただろうか。
 告別式にはラヴィが来るらしい。そんな事を聞いて、クインは彼女の為にもせめて自分は行かないでおこうと思った。
 学生時代に大好きだった人を送り出してあげなきゃいけない。そんな時に彼女の嫌な記憶を呼び起こす可能性の高い自分が居たらきっと嫌だろうから。

「そんなたらればで想像してもしょうがないんじゃないかな…?」
 数日後、恋人のその言葉でクインは彼との別れを決めた。恋人の言った事は至極真っ当であり間違ってはいない。しかし、言い方がクインは気に食わなかった。たったそれだけの事だった。
「…あら?どう言う事?」
「うーん…過去の事をたらればで言うものじゃないんじゃないかな?って。彼はどうやってもそう言う心持ちだったかもしれないし、今ここでそれを議論しても仕方ないじゃないか」
「……それはつまり、『どうやっても彼は死んでたんだから無駄な事をしないで諦めろ』って言いたいの?」
 クインは酷く棘のある言葉を、酷く優しい顔で言った。恋人はクインのその言葉にギョッとした顔を向けた。
「そ、そんな事は言ってないだろう?」
「そう聞こえたわ。どっちに転んでも彼は死んでいた、と」
「違う、起きてしまった事象を後悔するのは良いけれど、君が悲しみに囚われ過ぎて『もしも彼が死ななかったら』と言う想像の世界に没入して帰って来ない様な気がしたんだよ」
「それが貴方にとってどんな損になるのよ?」
「損得の話じゃ無くて…!」
 恋人はクインからの真っ直ぐ過ぎる視線から顔を背ける。ぼんやりとしたニュアンスで伝われば、と思ったがどうもそうはいかないらしい。
「君の大切な御友人が亡くなった後でこんな事を言いたくはないけど…僕だって嫌な事を考えるんだよ…!話を聞くに君にとって彼は特別だったんだろ?それは分かるよ。けれど、あまりに大事に思い過ぎてこれではまるで…下手をすれば君まで連れて行かれてしまう様な気がしたんだよ…!」
 ユオがクインの居ないところでノクスの死の理由を語ろうとしたのも、通夜の会場での取り乱し方を見て「下手に話したら後を追うのではないか」と危惧したからだった。それ程までにクインは取り乱していた。
 皆同じ事を心配する。傍に居てほしいと願う。自ら道を絶たないで欲しいと願う。
 しかしその心配は今のクインが求めていないものだった。そしてそんな心配を持つ彼は、必要以上にクインの触れられたくない部分に触れ、言われたくない言葉を発してしまっていた。
「……つまり、貴方は私の悲しみに寄り添ってくれるつもりは無いわけね?」
「…いつまでも悲しんでいても彼は浮かばれないだろう?」
「だから自分が傷心した人間の心を切り替えるだけの解決策を出してやってるとでも?傲慢ね。貴方って昔からそう言うところあったわ」
 クインは、もう彼が何を言おうと同じ目線で物を見るつもりはなかった。
「そうやって自分が相手の為に言ってやってるって悦に入るのはさぞ気持ち良いでしょうね。凄く良い顔してるもの。今すぐ引っ叩きたいくらいに」
 素直に悲しみが尽きるまで悲しい気持ちで満たして欲しいと言えれば良かったのか。それとも、もう二度と大切な人を失う苦しみを味わいたくないと思ったのか。とにかく自分を思って声を掛けた恋人をふとした弾みで拒絶した。ノクスの死と恋人とのボタンの掛け違い。この二つの出来事がきっかけで以来クインは他人を愛する事を拒否する様になる。愛してしまう前に貶して離れようとする悪癖が付いた。
 同性に対する友愛だったり、子供に対する慈愛を表に出すのは大丈夫なのだが、恋愛対象となる男性への愛を特に嫌がる様になった。愛情を向けられるのもまた然りだ。
 自分がもしも弱さを見せられるくらい寄り掛かれる相手を見付けられたとして、その人がいつか居なくなってしまう事を考えると怖くて怖くて堪らなかった。
 だからそう言う気持ちを自覚する前に遠ざけた方が良い。時間を掛けてノクスの傷を癒そうと考えたクインにとってそれは瘡蓋かさぶたの様な理屈だった。
「苦しい今日があたたかい思い出になるのに一体どれだけ時間が掛かるかしら…」
 手に持ったレイレントの洞窟にある壁画のレプリカを眺めながら呟く。祖先達の歴史が今日まで受け継がれている様に途方も無く長い時間を経るものはある。それは風化しない様守られた歴史だけじゃない、哀しみやトラウマ、心の傷にもあるのかも。自分のこの哀しみが思い出に変わるのはまだ当分先の様な気がする。そう思ったクインは、あれ以来また髪型を中学生の時と同じお下げに戻した。ノクスが一番見てくれていた自分の姿だ。
「あ、エリーズ先生探しました。先日カウンセリングにいらっしゃった患者さんの事でお話が…」
「ああ、先日の少し気難しい患者さんね。私も話をしようと思っていたの。あの患者さんに新人さんを宛てるのは多分難しいだろうから」
 日常生活には支障がない。仕事にも差し支えない。だから一人で生きて行くには問題ない。
「ですよね、エリーズ先生もそう思われてましたか。あの…エリーズ先生。突然ですが、良かったら僕とお食事なんてどうでしょうか…?患者さんの事で勿論お話もしたいんですが、この数ヶ月一緒にお仕事させていただいて僕は先生の理念とかカウンセリング方針とか…先生自身の事をもっと知りたくて…」
「…あら、私も貴方の事知りたいわ。今まで髪の毛一本程の認知もしていなかったの、そもそも興味無かったから。そうね、じゃあ先ずはお名前から・・・・・教えてくださる?」
 誰かと愛を育み二人で生きていこう、と言う前提が付いてしまうと、そこには少々大き目な問題が発生する。

 眠たそうな目。緩く結んだお下げ。
 擬似餌の様なその愛らしい見た目に騙され彼女を求めた結果泣く羽目になった男性は数知れず。
 長らく変わらぬ悲しみを背負ったクインはその哀しみから逃げる様にレイレントを去り、従事していたスラナでミクリカの惨劇とケンズの悲劇を目の当たりにする。
 新たな悲しみに触れ、彼女は自分を女性として扱う男性により拒絶の姿勢を見せ、マルフィ結社に入社する頃には言葉の鋭さはより増していた。

 悲しみの象徴とも青春の淡い思い出とも、どちらにも取れるノクスとの思い出を胸に秘め。悲喜こもごもと言う言葉すら単純に見える様な一口で言い表せられないその思い出に縋りながら、彼女はその一見眠たそうな目で結社の人間を見つめている。
 決して踏み込み過ぎない様にと誓いながら。
 人間なんて脆くて、体か心がダメージを受け過ぎたらいとも簡単に自分を置いて行ってしまうのだから。
「エリーズ先生って、プライベート謎ですよね」
 そう言う噂を立てられる度クインはほっと胸を撫で下ろす。大丈夫、仕事以外何もない適度な距離を保てている。そうやって安心しているのだ。

 あの日のまま凍り付いた彼女の時間を進める者はまだ居ない。