薄明のカンテ - イコナは本日も晴天なり/べに
見慣れた景色も、君がいるだけで。




ジャヴァリー家の朝

 酪農家の朝は早い。
 まずは牛舎に入り牛たちを観察し、健康状態を確認するのが日課である仕事だ。
「久しぶりだけど、今日もお前らは元気だなー」
 ジャヴァリー家の牛たちは今日も元気な姿で牛舎に現れたルーウィンを迎える。酪農でお馴染みのホルスタイン種よりも小振りな茶色い毛並みの牛たちの頭を撫でつつ、ルーウィンは餌や水を与えていく。これはルーウィンにとっては慣れ親しんだ朝の仕事であって何の苦でもない。
「ルーウィン氏」
 そんなルーウィンに後ろから声がかかって、ルーウィンの背筋が自然と伸びる。振り返れば真剣な顔のクロエ・バートンと目が合った。
「な、何だよ」
「牛が元気かどうか、具体的にはどこを見て判断しているのですか?」
「ん? 見れば分からねー?」
 クロエの問いに思った通りに答えると舌打ちをされた。
 幼い頃から牛達に触れているルーウィンとしては、もはや雰囲気で元気かどうか分かるものなのだが、クロエの望む答えはそうではないらしい。牛が草を食むようにゆっくりと言葉を考えてから、ルーウィンはおそらくクロエが望むであろう答えを述べる。
「まず飼槽に餌を入れた時の集まり方じゃねーかな。体調悪いと飯食わねーのは人間も牛も一緒だからさ、寄って来ねー奴は注意した方が良い。それと鼻鏡が乾いてねーか見るのも大事だな、乾いている奴は発熱してるから」
「鼻鏡とは?」
「鼻鏡は鼻のツラんとこ。ほら、今のコイツらは濡れてんだろ?」
 飼槽から牧草を食べる牛達の鼻を指し示すと近付いてきたクロエは興味深そうにそれを眺めていた。その真剣な横顔と、いつものセーラー服姿では無いクロエの姿にルーウィンは笑みが止まらない。マルフィ結社では見ることの無かった新鮮なクロエの格好を見られた楽しさもあるが、これだけ真剣に牛を見てくれる女の子がいるというのは嬉しいものである。
 クロエの珍しい姿を見られたことと、牛に興味を持つ女の子がいること。
 どちらがより一層ルーウィンにとって嬉しいものなのか、未だ彼は自分の感情を分かっていない。
「発熱といいましたが、牛の平熱は?」
「成牛が38.0から39.5度、仔牛では38.5から39.5度だな……」
 言いながらルーウィンは背後に視線を感じて振り返る。振り返る表情はクロエに向けていた明るいものではなく、むしろ戦場で対峙する機械人形を見つめる目だ。見つけた人影に視線をより険しくする。
「……親父」
「視線に気付くまで遅いぞ、息子よ」
「うるせー。むしろ見に来てんじゃねーよ」
 牛舎の入口の扉の影からそっと覗き込んでいたのはルーウィンの父のディオゴだった。ルーウィンと同じ派手な色の髪に、ルーウィンよりも長身で更には体躯に恵まれたディオゴは隠れているように見えて、全く隠れていない。
「ルーが女の子連れてくるって言って奇跡が信じられなくてなぁ……お前がなぁ……」
 感慨深く呟くディオゴの顔にはルーウィンと同じように顔に深く刻まれた傷があった。本人曰く顔に傷があろうとも昔の戦場では大変にモテたらしいが、過去を確認する術は無いのでルーウィンは嘘だと信じている。
「おはようございます、ルーウィン氏のお父さん」
 牛から視線を外してクロエがディオゴに声をかけると、情けないくらいに彼はデレデレとした顔になった。
「娘が増えたみたいでいいなぁ。おはよう、クロエちゃん」
「アンタの娘はリヴとメルで十分だろ」
「1人より2人、2人よりも3人。可愛いものはいっぱいあっても可愛いことに変わりないんだから多い方がいいだろう?」
 真顔でアホなことを言い放つ父親にルーウィンは脱力して床に座り込みたいくらいだった。実際、ここは牛舎であり座り込んだら洗濯が大変になるだけなので絶対にやらないが。
 呆れた顔をする息子に、父は更に一言。
「勿論、俺にとってはルー、お前も可愛い息子だよ」
「そーっすか、あざまーす」
 投げやりに言葉を返すとディオゴは豪快に笑い、牛舎の中へと入ってきた。因みにクロエはジャヴァリー親子の会話には何ら興味が持てなかったのか、はたまた親子の会話を邪魔したら悪いと思ったのか、それよりも牛が気になっているのか真剣な表情で牛達を見つめていた。
「そういえばルーウィン氏の家では放牧をされている筈なのに、何故今餌を与えているのですか?」
 クロエは昨日、此処へ辿り着いた時に悠々自適に牛が草を食んでいる様を見ていた。大地から直接新鮮な草を食べられる環境にいる牛にわざわざ餌を与える意味が分からない。
「あー、それは……」
「草だけじゃとれない牛に必要な栄養素を補うためにサプリメントを与えているからだな!」
「サプリメントですか。お父さん、因みにそれは何のサプリメント何でしょう?」
「お、良い質問だなクロエちゃん。うちではタンパク質や脂肪酸、酵素やプロバイオティクスなんかが入ったものを使用しているが、別の牧場では――」
 クロエからの質問をルーウィンからかっ攫い、ディオゴが嬉々として語る。クロエも詳しいことが聞けて楽しいのか、いつもよりも目が輝いて見えるような気がした。
 何か面白くない。
 実の父親に嫉妬をするなんて情けないことだが、この時のルーウィンは間違いなく父親に嫉妬していた。当然、ルーウィンよりもディオゴの方が酪農に関わっていた期間は長く経験も知識も豊富だ。だからクロエがディオゴの話に食いついていく理由も分かっている。分かっていても、やっぱり面白くない。
「親父、そもそも何しに来たんだよ」
 まさか本当にクロエを見学に来ただけではないだろう。
 そう思ったルーウィンが2人の会話を邪魔するためにディオゴに声をかけると、クロエへの牛の知識披露でデレデレしていたディオゴの顔が元に戻った。
「おお、そうだ! 朝飯の時間だから呼びに来たんだった!」

 * * *

 甘い香りがジャヴァリー家の食卓を包んでいた。
 ルーウィンにとって嗅ぎ慣れた筈の牛乳のクリーミーな香りが息を奪われるほどに美味しそうに感じられる。香りの発信源は卵と牛乳の混合液の絡んだパンを焼き上げたパンペルデュだ。
 食卓に並んだことがない訳ではないが手の込んだ朝食に、ルーウィンは製作者達を呆れたような半眼で眺める。
「初日だからって気合い入れすぎじゃねー?」
「だってルーが女の子連れてきたのよ!? ママとしては頑張らなきゃ悪いじゃない!」
 目を爛々と輝かせて最初に口を開いたのは母親のエッダだ。
「お兄ちゃんが女の子連れてくるなんて、もう二度とないと思って」
 わざとらしく涙を拭うような仕草をしながら次に口を開いたのは長女のオリヴィア。愛称・リヴ。年は15歳。
「マナちゃんも手伝ってくれたもんね!」
 その後に続いて口を開いたのは次女のアメリア。愛称・メル。年は14歳。
「うん。 マナも手伝ったよ」
 そんなメルに言われてニコニコと頷くのはキセキノカドーの機械人形、マナキノだ。
 マナキノはクロエを連れて実家に行くとなった時、どこからかその情報を仕入れてきた機械班に「折角だからマナキノも里帰りさせてあげて欲しい」と言われ一緒に夏休みを過ごすこととなったのだ。可愛い顔立ちに作られたマナキノであるが、目の代わりに花が咲いていたり頭から角のように木が生えていたりと異形感満載でルーウィンとしては家族に受け入れられるか心配だった。しかし、それは杞憂に終わったようでたった一日でマナキノはジャヴァリー家に上手く溶け込んでいる。
 そもそも人工物である機械人形に夏休みというのはどうなんだ、とも思うが機械人形を大切にする人間が集まったマルフィ結社らしいといえばらしいのか。
「そっか、そっか。ありがとなー、マナ」
 そう言ってルーウィンがマナキノの頭を撫でると、彼女は嬉しそうに笑う。かつて出会った頃は「優しいお姉さん」といった風なマナキノだったが、今はルーウィン的には可愛い妹のようなものだ。
「あー! マナちゃんだけ特別扱い酷い!」
「お兄ちゃん、うちらも頑張ったよ!」
 ルーウィンの行為に本物の妹達が声を上げてルーウィンへと近寄った。兄妹の仲が良いジャヴァリー家では珍しいことでも無いので、ルーウィンは特に何も考えることなくリヴとメルの自分と同じ色の髪の頭を撫でる。
「ねぇ、ルー。クロエは仲間はずれなの?」
 それを見ていたマナキノが可愛らしく小首を傾げて爆弾発言を投下した。
 固まるルーウィン。ニヤニヤ笑うリヴとメル。
「そーだよお兄ちゃん。クロエちゃんだって朝から頑張ってるんだよ?」
「頑張ってるんだからナデナデしなきゃ!」
 リヴとメルの表情を見てルーウィンは妹達に嵌められたことにようやく気付く。
 助け舟にはならないだろうなと薄々気付いている気持ちから目を背けたルーウィンが両親にも目線を向けると、やはりディオゴエッダリヴとメル娘達と同じ顔をしてルーウィンを見ていた。
 平然とした顔でこの場にいる人間は、当の本人たるクロエのみ。
 クロエはいつも通りのキリッとした顔でルーウィンを見つめている。
 全く焦りも照れも見られないその顔に動揺しているのは自分だけなんだろうと思うと何とも虚しい気持ちになってきて、ルーウィンは後は野となれ山となれとばかりに動いた。
「そーだよな! バートンも朝から頑張ったもんな!」
 ご近所のヘイルさん家の牧羊犬を撫でる時のような勢いでクロエの頭を撫でると、牛舎に行くために纏めていたクロエの髪がぐしゃぐしゃになる。それを見た妹達から「あー……」と落胆の声が上がるが、そんなモンは無視だ、無視。
「クロエとルーは仲良しだね」
 分かっているのか分かっていないのかな言葉を満面の笑みでマナキノが言う。ぐしゃぐしゃの髪になったクロエが睨むようにルーウィンを見上げていることは、彼女には見えていないのだろう。
 そんな長男の愚行に「女の子の扱い方についてもっと教えておくべきだったわ」と思わず溜息をついてから、パンパンッと場の空気を切り替えるようにエッダが手を叩いた。
「ほらほら、皆。もうご飯にしましょう? 気合い入れたのに冷めちゃうわ」
 母の一声で各々が席に着く。
 食事の必要がないマナキノも雰囲気だけはということで一緒のテーブルで席に着いていた。
 ジャヴァリー家の食卓の椅子の数はマナキノとクロエを足して調度良い数になっている。それは数年前に亡くなったルーウィンの祖父と祖母の席をそのままにしていた結果であるが、久々に全ての席が埋まるのをみると感慨深いものもありジャヴァリー家の表情は明るい。
「いただきまーす!」
 リヴとメルの明るい声が響き、朝食が始まった。
 食卓に当然のように鎮座していた牛乳を飲んだクロエが彼女にしては珍しいことに目を見張る。
 家族の作為を感じつつもクロエの隣の席が自分の席になっていたルーウィンが、そんな彼女の様子に気付いて首を傾げた。
 何か牛乳に問題があっただろうか。別に腐っている様子は無いけれど。
「……いつものものと違いますね」
 クロエがポツリと呟く。
 その表情は暗いものではなく声もどことなく弾んでいるように聞こえて、どうやら苦情の類では無いらしい。
「そーか? うちの朝の牛乳はいつもコレだぞ?」
 そう答えると睨まれた。
「結社で飲むものと幾分、味が違います。濃厚でありながら柔らかで滑らか、鼻に抜ける香りも爽やかといいますか」
「ソムリエみたいだなぁ、クロエちゃんは!」
 そう言ってディオゴが豪快に笑うが、クロエは特に気分を害した様子は見せなかった。むしろ真剣な目をディオゴへと向ける。
「これには何か理由があるんですか?」
「単純に搾りたてだからだろうなぁ」
「現地ではないと味わえない味という訳ですね」
 父とクロエの牛乳トークはとても盛り上がっていた。
 クロエにとって有意義な会話で、彼女がとても楽しんでいるであろうことはルーウィンにも分かるが父親にクロエをとられたようで面白くはない。
 甘い蜂蜜の香るパンペルデュを口にすると濃厚な牛乳の味わいがたまらなく美味しかった。それなのに、何だかルーウィンにはほろ苦く感じられる気がする。
「ルーウィン氏」
 ディオゴとの会話が終わったクロエがルーウィンの名前を呼んだ。
 その顔を見るルーウィンの顔が不貞腐れたものになってしまうのは仕方ないことだ。向かいの席に座る妹達が兄の様子にとっくに気付いていて笑いを堪えて肩を震わせているが、今はそちらに睨みをきかせる余裕はない。
「どーした?」
「食事の後は何を見せてくれますか?」
 そんなの、話の盛り上がる親父に言えばいいだろ?
 咄嗟的に喉まで出かかった言葉をパンペルデュと一緒に飲み込む。
 クロエが深い意味はなくとも自分に聞いてくれたのだから、そこでつまらないことを言っている場合ではないと判断するだけの知能はまだ働いたからだ。
「とりあえず牛達放牧して周辺見てみるか。放牧されたアイツらの様子だって見ておきたいだろ?」
「そうですね」
 あくまでも平然とルーウィンはクロエに言ったつもりだった。
 付き合いの浅い人間にならばルーウィンの表情はそう見えたかもしれないが、此処にいるのは家族ばかり。
 ニヤニヤと生あたたかい視線を向けられて、ルーウィンは場を誤魔化すように牛乳を一気飲みするのであった。

ジャヴァリー家の牧草地

 広がる牧草地、草を食む牛、青い空。
 その空を背景に雄大に構えるカンテ山が奥に見える何のことはない長閑なイコナの風景だ。
 そんな牧草地の一角に、朝食を終えたルーウィンとクロエが居た。何故かルーウィンは涙を浮かべる勢いで笑いが止まらない顔で、対するクロエはそれを憎らしく見つめている冷たい顔だ。
「いい加減に笑い止まないと口を縫い付けますけど」
「いや、だって、お前が、なぁ」
 ルーウィンの脳裏を過ぎるのは、つい先程の出来事。
 牛舎の敷き藁を片付けている最中、夏の気候とはいえ奴らにとっては寒かったのか虫達が集まって藁の下にいたのである。奴らは藁という上掛けを失って四方八方に散っていったが、別に害虫という訳では無いのでそれを見てもルーウィンは「ああ虫がいたな」と思うだけで淡々と仕事を再開しようとしていた。しかし、一緒にそれを目撃したクロエは違った。「きゃあ!」と可愛く叫ぶとか泣き出すとかそんな事はしなかったけれど、明らかに強ばった表情で奴らの消えた床を見つめて、急に充電が切れた機械人形のように動かなくなっフリーズしていたのだ。
 何でもそつ無くこなしそうなクロエが、虫が苦手。
 彼女の新たな一面を知ったようでルーウィンは嬉しかった。 嬉しかったがデリカシーというものは母親の腹の中に置き忘れてきたような男である。固まった表情のクロエが面白くて笑いが止まらず今に至るのであった。
「いい加減にしろ」
 照れもあるのだろう。そして堪忍袋の緒が切れたのだろう。
 いつも丁寧語なクロエからそれが外れて、次にルーウィンに訪れたのは脛への痛みだった。
「いっ……!? お前、マジでやったな」
「当然です」
 苦痛に歪むルーウィンの顔を見て溜飲が下がったのかクロエは満足そうな表情だ。脛を抱えて蹲るルーウィンを尻目にクロエの視線は遠くで草を食む牛達へと動いた。
 牛達は人間達の騒ぎなんて全く気にすることなく呑気なものだ。汚染された機械人形は人間と他の生き物を明確に区別しているらしく、牛である彼女等は狙われることは無いので命の危機はなく今日も平和な一日なのであろう。
「ルーウィン氏」
「ん?」
 痛みが減ってきてようやく落ち着いてきたルーウィンにクロエが声をかける。ルーウィンとしては謝罪でもして貰えるのかと思うタイミングであったが、クロエが紡ぐ言葉は違った。
「あの牛達の餌は何ですか?」
「草だけど」
 クロエの冷たい視線がルーウィンに突き刺さった。
 ルーウィンだって、そこまで馬鹿ではない。
 本当にクロエが聞きたかった回答だってちゃんと言うことが出来るが、脛の痛みがあったのでちょっとした意趣返しのつもりだった。しかし、クロエの目があまりにも冷え冷えとしていたので早々に心に白旗を上げて彼女が欲しかったであろう言葉を述べる。
「うちはペレニアルライグラスとかチモシーみたいなイネ科が多めだなー。あとはクローバーみたいなマメ科か」
「毒草が混在することは?」
「やべー草はアイツ等も分かってて食べねーから」
 今度は真面目に回答するとクロエの目の鋭さが和らぐがルーウィンを見つめる視線の強さは変わらない。意思の強いクロエの紫の目に見つめられると視線が夏の陽射しよりも暑く感じられて、ルーウィンは思わず赤面しそうになる。
「な、何だよ」
「大したことではありませんが」
 クロエはそうやって前置きをした。
「ルーウィン氏は脳筋かと思っていましたが、その考えを改めねばと思っただけです」
 脳筋。
 脳みそまで筋肉の略。
 残念ながら、褒め言葉では無い。
 自分がどちらかといえばその言葉に当てはまる人間であることをルーウィンは知らなかった訳では無いが、クロエの中での自分の評価がそれだったことを知ると心が痛む。
 悪かったな。お前の好きな知能派の人間じゃなくて。
 そう思って少し不貞腐れた顔になってしまうのは仕方のないことだ。
 ポーカーフェイスなんて器用な真似はルーウィンには出来ないのだから。
「俺だって頭を使って生きてんだよ」
 不満を込めてルーウィンは言ったのだが、それに対するクロエの答えは「そうですか」という別にお前に興味があるわけでも無いとばかりのトーンの声だったのでルーウィンはガッカリする。

――バートンの中で、俺って牛乳くれる奴で実家が牧場経営しているくらいしか価値がないんだろうな。

 要するにルーウィンという人間自体にはクロエは何の価値も見出していないということだ。そう思うと何とも悲しいが、この夏休みで少しは人間性を見て貰えたらとも思う――とまで考えて何で自分はそこまでクロエに肩入れしてしまっているんだろうかと気付いた。気付いたけれど、その感情を深く掘り下げる事は止めておく。
 感情から目を背けて暫く牧草と放牧におけるメリット、デメリットをクロエと語り合う。
 マルフィ結社にいる時は単なる「牛乳好きのおもしれー女」という感じのクロエだったが、牛に関する知識が全くない訳ではなくなかなか踏み込んだ質問もしてきてルーウィンは意外に思った。普通に生きていたら牛に対してそんな知識は無いと思うし、クロエがかつて住んでいたミクリカに牧場があったという話も聞いたこともない。
「バートン、妙に牛に詳しくねーか?」
「こちらにお世話になるにあたって学んで来ましたから。しかし、資料だけで学んだ気になっていても実際に見るのでは違いますね」
 書物等で学び短期間でルーウィンが驚く程の知識を習得し、更には知識よりも経験を重視したクロエの言葉にルーウィンは舌を巻く。
「それにしても」
 クロエが周囲を見回してから声を上げた。つられてルーウィンも周囲に目を走らせるが、目に入るのは放牧された牛達と、いつも通り人影のないイコナの風景だ。
「外だというのに長閑ですね」
「機械人形は人間以外は狙わねーからな」
 答えるルーウィンはマルフィ結社にいる時のようにショルダーホルスターにハンドガンを収めたものを装着していた。牧場には何とも不釣り合いなアイテムではあるが、人間の安全を守るためには仕方がないことだ。
 とはいえ、これを使うことは無いだろうとルーウィンは楽観的に考えていた。
「最初ならともかく、今は電牧乗り越えた被害はねーみたいだから大丈夫だろ」
「電牧とは?」
「電気牧柵。あっちの方に見えんだろ?」
 そう言ってルーウィンは彼方を指差す。クロエの視線が指の先を追い、納得したような表情を浮かべるのを見てルーウィンは言葉を続けた。
「牛の脱柵防止用の電気が機械人形にも有効とは思わなかったけどな」
 電気放柵には電流が走っているが電圧は約4,000〜7,000ボルトであり、人間が誤って触れても指や手のひらに強い痛みと痺れが出る程度で死にはしない。それでもルーウィンには想像もつかない精密機械が詰まった機械人形には死活問題で、テロ前に機械人形を労働力として使用していた家も彼等を電気放柵には近付けさせないようにしていた記憶がある。
 最初の機械人形の暴走の時には家や納屋を飛び出した機械人形が知能が下がっているのか見事に電気放柵に引っかかり、結果的にイコナでは人的被害が他所よりも小さくなっていた。
 元々は家畜を脱走させない為の柵が、今は人間の身を守るための柵になっているのは何とも笑える話だが、これで人の命が守られるのなら悪いことではないだろう。
「動力は太陽光発電ですか」
 電気放柵についた太陽光発電用のパネルに気付いたクロエの呟きに肯定するために頷く。そしてすぐに父親から聞いた話を思い出して苦笑いを浮かべた。
「だから山に近い柵は電気を狙って機械人形が外側を彷徨う時もあるって親父が言ってたな。バッテリー式のやつ使ってた家はバッテリー盗まれたとかいうし」
「柵のバッテリーで機械人形はどれ程稼働するんでしょうね」
「さーな。結社戻ったらエルナーさんに聞いてみても良いかもな」
「そうですね」
 クロエが頷いて会話が途切れ、二人揃って草を揺らして風が駆け抜けていくのをボンヤリと見つめる。
 目の前に広がるのは相変わらず何のことはない長閑なイコナの風景だ。
 流行りのものが何も無い前時代に取り残されたような場所。
「何もねー場所だし、つまんねーだろイコナなんて」
 イコナにあるものは牧場と畑だけ。
 機械人形が発展したカンテ国で若者にとって第一次産業は「ダサい」もので、テロ前には全てを機械人形に任せてしまえば良いとすら言う者もいる次第だった。そんな田舎であるというのにラシアスという若者に人気の街に程近い地理は、余計に若者をラシアスや機械人形関係の産業に駆り立てるだけだった。
 ルーウィンの自虐めいた言葉を受けてクロエが口を開いた。
「確かに何も無いという者もいるでしょう」
 言葉を切ったクロエは、ほんの僅かだったけれど目元を和らげる。
「でも、私は嫌いではありません。何も無いというなら、これから発展させれば良い。腕が鳴るというのはこういう事を言うと思いますから」
 クロエは商才があるという話をルーウィンも聞いたことがあり、また結社での日常会話の中でもその才能は見え隠れしていたようにも思えた。
 10代の少女の戯言と片付けてしまうには惜しいだけの力が彼女にはある。
 だからこそルーウィンも自然に言葉が口から滑り落ちていた。
「すげーな、バートンは」
「まだ何も成し遂げていないので賞賛は要りません」
 そうは言いつつもクロエは満更でもないように口角を上げる。
 そんなクロエにルーウィンは思わず朝のように――否、朝と違う優しさを持って――頭を撫でようと手を伸ばしかけた。その時だった。
「ここに居ましたのね!」
 長閑だった牧場に響く第三者の女の声にルーウィンの身体が強ばる。
 ルーウィンの妹であるリヴとメルよりも大人の知らない女の声に誰だろうと疑問を持ったクロエが声のした方向へと目を向ける。すると青みがかった黒髪を風に揺らしたクロエと同じ年頃か少し上程度の歳頃の女が、2人の元へと歩いて来る所であった。
 彼女はクロエに目をくれることもなくルーウィンへと近寄って行くと、馴れ馴れしくルーウィンの腕に自分の腕を絡めて親しげに身体を擦り寄せる。
「帰ってきたなら、わたくしに連絡の一つも寄越すべきでなくて?」
「別に連絡しなくても親父達が言っただろ?」
「もうっ。わたくしはルーから連絡が欲しかったのですわ」
 そう言って媚びるような目をルーウィンに向けた女は、さも今気付きましたとばかりの顔をしてクロエへと目を向ける。
 その目に籠るのは、どこか勝ち誇ったような色。
「あら、こちらの方はどなたですの?」
「あー……」
 言い淀むルーウィンの顔色は悪かった。
 さながら、それは彼女に浮気が見付かった男のような顔だった。
 少なくともクロエはそう判断する。
 尤もクロエはルーウィンの「恋人」でも何でも無いので嫉妬する感情も憤怒の感情も沸いては来ないが。
「クロエ・バートンです。マルフィ結社でのルーウィン氏の同僚のような者です」
 だからこそ淡々とクロエは名乗る。
 それを無理に感情を押し殺して冷静さを保とうとしている可哀想な姿なのだと勘違いした女は、青灰色の目を細めて意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 艶々にリップの塗られた口を開いて、彼女は名乗る。
「わたくしはディルフィナ。ディルフィナ・メリー・ヘイルですわ」

ジャヴァリー家の牧草地2

 やっべー。
 ルーウィンの背中を冷や汗が伝い落ちていた。
 目の前のクロエはいつも通りのクールな顔で急に現れた女――ディルフィナ・メリー・ヘイルを見つめているように見えた。
「ヘイル家ですか」
 ポツリとクロエが呟くと、メリーが「ふふんっ」と勝ち誇ったように鼻で笑った。ルーウィンの腕に巻きついてしだれかかってきているのでルーウィンからメリーの表情を見ることは出来ないが、声と同じく偉そうな顔をしているであろうことは簡単に想像できる。
「あら、良かったわ。貴女のような人間でも家の名前は御存知のようね」
 カンテ国には貴族と呼ばれる階級が居る。
 マルフィ結社にも譜代技能貴族のナシェリ家と外様貴族のベネット家の者がいるが、ヘイル家もまた貴族の一家であった。格としてはベネット家と並ぶ外様貴族であるが、それでも貴族という立場は一般庶民とは違う。
「羊を育てている一族ですよね?」
「そうよ。尤も、カンテに住んでいて我が家の名を知らない者なんていないですわよね。オーホッホッホ!」
 メリーの高笑いを間近で聞く羽目になってルーウィンは耳を塞ぎたかったが、それはメリーに腕をとられているので出来るはずもなく顔を顰めることしかできない。うるさい高笑いが途切れたところを狙って、すかさずメリーへと問いかける。
「メリー、何でここにいるんだ?」
「もちろん、ルーのところに可愛いお客様がいると聞いたからに決まっているじゃありませんの!私という者がありながら随分なことをしてますのね!?」
 上目遣いで拗ねたような顔をしたメリーに、ルーウィンは泣きたくなった。何なんだ、この状況は。
 クロエの方へと目を向けても全く彼女に動じたような様子は見られないことが余計に悲しみを煽る。仮に彼女が少しでも自分に恋愛的な好意を抱いていたならば、もっと何かしらの反応を見せるものだろう。嫉妬とか、嫉妬とか。
 そして、その平然としたクロエの様子に一番の動揺を見ていたのはメリーだった。
「ちょ、ちょっと貴女!? 随分と平然としておりますのね!?」
 メリーの予想ではクロエはもっとショックを受けた顔をしてメリーを見ているはずだったというのにクロエの表情は「無」だった。特に興味はありませんとばかりの顔のまま、クロエは言葉を放つ。
「現代カンテにおいて特に貴族に対して平伏しなければならない等の法律はありませんから」
「そうではございませんわ!」
 メリーは言葉の強さを体現するようにルーウィンの腕に絡みついていた力を更にこめた。
 実際に折れる訳では無いが「へし折る気か」とメリーに言おうか、ルーウィンがそう考えて口を開こうとするよりもメリーがクロエに向かってとんでもない事を言い放つ方が早かった。
「貴女、ルーのお嫁さん候補ではございませんの!?」
「馬鹿っ! メリー、お前!!」
 慌てて空いている手でメリーの口を塞ぐが、当然ながらもう遅い。
 メリーの言葉の矢はしっかりと放たれてしまっていた。
 口を塞がれて不満な顔をするメリーが「んがー!」と言葉にならない声を上げているが、それよりもルーウィンはクロエの反応が気になって彼女へと視線を向ける。
 ルーウィンの視線を受けたクロエは。
「いいえ。『酪農家の家に社会勉強に行きたい』思いであって、たまたまそれがルーウィン氏の実家だったと言うだけです」
 相変わらずの表情のままサラリと端的に言葉を口に乗せる。
 その顔には恥じらいは無く、図星をつかれて困り果てての咄嗟の虚言という訳にも見えなかった。
 分かっていたことではあるもののハッキリと目の前で言われてルーウィンは精神的ダメージが思っていた以上に大きかった。メリーの口を抑え込んでいた手も力が緩んでしまい、彼女に簡単に外されてしまう。
「ほ、本当に社会勉強でいらっしゃいましたの……?」
 ルーウィンの手を外したメリーは先程までの勢いはどこへやら、唖然とした顔でクロエを見つめていた。
 全くもって特に表情を変えることなくクロエは小首を傾げる。
「それ以外に何が?」

 そ れ 以 外 に 何 が ?

 その言葉はルーウィンの心を更に抉った。
 傷口にナイフを突き立てて縫合できないようにぐちゃぐちゃにした挙句に丁寧に塩を塗り込んだ程に。
 呆然とするルーウィンの顔を見上げ、クロエの表情を見たメリーはそっと気まずそうな顔をしながらルーウィンの腕から手を離した。
「わたくし、てっきりルーを……」
 完全に勢いを失ったメリーが口ごもる。
 動揺したメリーのルーウィンを見る目に籠るのは同情の色だ。
「まさかそんな……」
 メリーは誰に言うでもなく呟いた後、一度心を落ち着かせるように目を瞑り、次に目を開いた時には青灰色の目から迷いは消えて落ち着きを取り戻していた。
「申し訳御座いませんでした。イコナここに来る他所の方に冷やかしの方が多くて、貴女もそう・・かと思っておりました」
 冷やかし。
 その意味をクロエは既に前夜にルーウィンの妹、リヴとメルから聞いて知っていた。イコナへちょっとした酪農体験や農業体験の延長だと思い、軽い気持ちで来る者が多く結婚が破談になる者も少なくないのだと。
 恋に浮かれてイコナへ来て、百年の恋も冷めて帰っていく人を見てきたと幼い少女達がどこか達観した目で語っていた。
 そんな甘っちょろい考えの人間と同レベルに見られていたのは心外であるが、解決したならばクロエは怒る理由は無い。
「誤解がとけたなら幸いです」
「ええ! 本気でイコナへ来て下さる方ならば歓迎ですわ!」
 先程までの高慢ちきな悪役令嬢の姿はどこへやら。
 アレが仮の姿であったとクロエが簡単に悟れる程に、あっさりと仮面を脱ぎ捨てたメリーがニコニコと笑う。
「ねぇ、クロエは牛にだけ興味があって? 夏休みの間、こちらにいるなら羊も見ませんこと?」
「ヘイル家の羊を見せていただけるということですか? それならば是非」
「ルーのお嫁さんだなんて失礼なこと思ってしまったお詫びですわ!」
 しれっとルーウィンを嘲弄するメリーに、クロエは気になることを感じて少しだけ眉を上げた。
「ルーウィン氏とヘイル氏は親しいようですが、どんな関係ですか?」
「関係だなんて……ただの同級生ですわ!」
 メリーの言葉にクロエの紫の目がルーウィンへと向いたので、未だにショックから立ち直れないルーウィンだったが肯定するために頷く。
 メリーはルーウィンにとって、ただの同級生。
 からかったり、からかわれたりの、じゃれ合いの関係だ。
 今回のことだってルーウィンが女の子を連れて帰って来たから、からかってやろう程度の理由しかないだろう。
 尤もクロエはルーウィンの彼女でもないし、嫁候補でもないから全てが空振りに終わった訳ではあるが。しかしながら、ルーウィンの心はズタズタにされたので、メリーは満足しているのかもしれない。
「ただの同級生なのに随分と親しいんですね」
「イコナは子どもが少ねーからな。まぁ、コイツの場合は途中でソナルトの学校行ってたりしたから、ずっと一緒にやってきた訳じゃねーけど」
「心はずっとイコナにありましたわ!」
 きゃんきゃんとわめくメリーをルーウィンは「はいはい」といなす。
 ルーウィンもジャヴァリーいのししらしく猪突猛進、鉄砲玉的な男であるが、メリーもまた羊の突進の如くストレートにぶつかってくる女であった。その様は全く貴族らしくはないが、ヘイル家はこんな感じ・・・・・とイコナの住民は分かっているのでいちいち眉をひそめたりはしない。
 余談ではあるが、愛の日にクロエから貰ったメープルクッキーを「この歳まで生きて来て初めてまともに貰った女の子からの特別な菓子。」と称した程にルーウィンはメリーを女として見ていないし、メリーもまた同じようにルーウィンを男として見ていないのである。念の為。
「ルー! クロエー!」
 その時、牧場内に響き渡りそうなルーウィンとクロエの名前を呼ぶ女の声がして、2人は緊張で身を硬くした。
 慌てて声の主へと視線を向ければ、こちらへ手を振りながら走ってくるマナキノの姿が見える。マルフィ結社の中ならば何のこともない日常の一コマだが、ここはイコナでありメリーという第三者もいるのだ。メリーがパニックを起こしたら一大事だと2人は考えたのだが。
「結社の機械人形は大丈夫と宣伝してらっしゃるの、わたくしでも知っておりますわよ。ルーが機械人形を連れてくるとリヴとメルも言っておりましたし、あちらがそうなんですのね」
 メリーは意外にも冷静に微笑んでいた。
 その微笑みの中に微かに陰りのようなものがあり、それがメリーの家の失われた機械人形達への思いなのだと知っているルーウィンの胸は痛い。
 先程までクロエと話していた「電気放柵に引っ掛かって壊れた機械人形の話」はメリーの家の機械人形達にも当てはまる話だった。ショートして壊れたために人間を襲わなかった機械人形達だが、メモリー等が焼ききれてしまい元に戻すことは不可能となってしまったのだ。容姿も設定も同じ機械人形を再作成すれば復活するかもしれない。しかし、それは同じカタチの別のモノだと思ってしまうのは人間の我儘なのだろうか。
「あら? あらら?」
 しかし、走って来るマナキノの姿が近付いてくるにつれて冷静な顔をしていたメリーの口から間の抜けた声が上がる。
 それもそうだろう。
 マナキノは「キセキノカドー」の機械人形だ。
 普通の機械人形には有り得ないものが色々と付いている・・・・・・・・
 初見で驚かない人間はいないだろう。
 人間3人の視線を受けながらも、疲労を知らない機械人形らしく走るスピードを全く弱めずにマナキノはルーウィン達の元へ駆けてきた。
 牧場で放牧されて草を食む牛達を背景に角のような枝を生やしたマナキノ突っ込んでくる姿は、さながらパグラの闘牛の様だ。
「マナ、止まれ! そこで止まれ!」
 この場にマタドールはいないが、マナキノは闘牛と違い言葉が通じる。
 だからルーウィンは手を突き出して彼女に停止命令・・を出した。
 途端に3人の数歩手前でピタリと止まるマナキノの動作を見て何かに気付いたメリーが片眉を上げる。
「そちらの……マナ、さん?の主人マキールはルーなんですの?」
 機械人形法の「機械人形は主人である人間の命令に従わねばならない」に基づいたとしか思えないマナキノの動作に、それと気付いたメリーがルーウィンへと問い掛けた。ルーウィンはチラリとクロエへと目線を向けつつ頷く。
「イコナにマナを連れてくる間だけの仮主人で、正確には俺とバートンが主人登録されてる状態。何かあった時にすぐに対応出来なきゃやべーからな」
「ルーウィン氏はすぐに帰るのですから、私だけでも良かったと思うのですが」
 あっさりとしたクロエの物言いがルーウィンの胸にグサリと刺さるが、誰もそんな些末な事を気になどしない。
「すごいですわ、目からはお花……? 角のように見えるのはオプション装備ではなく本物の枝なんですのね!」
 マナキノを色々な角度から眺めて、恐怖よりも好奇心が勝ったメリーは目を輝かせていた。
「養豚のミッコラさんの隣の野菜のレポラさん家に放置されてた機械人形なんだよ。前、俺達がイコナに来た時に回収してった」
 ルーウィンの地元ならではな「誰々さんのお隣」と言う説明を聞いたメリーが納得したのか頷く。
「また動かすことが出来て良かったですわね。お爺様もお婆様も喜んでいらっしゃることでしょう。ねぇ、マナさんは今幸せ?」
「うん! マナ、とっても楽しいよ!」
 マナキノは向日葵のような明るい笑顔で笑った。

レポラ家の庭

「おつきさま、まんまる、まんまる〜」
 長閑なイコナの地で愛らしい声の女性が音程を完璧に童謡を口ずさむ。
 女性が乗るのは小型トラック――通称・軽トラの荷台であり、その荷台に人が乗るのは罰則ものだ。しかし、その法律は彼女には関係無い。
「マナ、大人しくしてろよー。ああ、ほら、被ってるシーツ取るなって!」
 運転席のルーウィンがバックミラーで荷台のマナキノの姿を見ると慌てたように声を上げた。子どもがお化けごっこをする時のように寝具のシーツをすっぽりと被っていた筈のマナキノのシーツはとれて、膝掛けと化していたからだ。
 そう。荷台に乗っているのは機械人形のマナキノ。
 人間ではない彼女が荷台に乗っていても法律上では何ら問題はなく、問題があるとすればマナキノの姿をイコナの住民に見られてしまうことだった。
 帰省するにあたってルーウィンは家族に「機械人形を連れて帰る。問題のない機械人形だ」と説明しており、家族に対しては異形のマナキノを見ても大丈夫だという自信があった。現に家族は初見でこそマナキノの姿に驚いていたが、ほんの数十分で慣れてくれた。それは、事情説明を口が上手いクロエがやってくれたというのも大きなウェイトを占めていただろう。
 一応、家族以外にもメリーの父親でありイコナに住む貴族であるヘイル家の当主や町内会長等々にも「機械人形を連れて帰る」ことだけは伝えた。今のカンテでは動く機械人形は「良き隣人」ではなく「恐怖の対象」だからだ。マルフィ結社の機械人形は機械班や汚染駆除班の努力によって安心であるといわれても、直ぐに信じられる人ばかりではない。
 そんな中で軽トラの荷台で動く機械人形なんぞを事情を深く知らない人が見たらパニックが起きることは簡単に予想され、苦肉の策としてルーウィンはマナキノにシーツを被せたのであった。
 ちなみにマナキノは助手席には乗れない。その頭にある立派な角の如き枝が邪魔をするからだ。
「ルー、どこまで行くの?」
 荷台でシーツを被り直したマナキノが無邪気な声でルーウィンへと問い掛ける。その問いかけに、ルーウィンは気付いていないのかと片眉を上げた。
 舗装されてない道を通る軽トラ。
 今、通っているのは養豚のミッコラ家の敷地前だ。
 そんなミッコラ家の隣の家・・・がルーウィンの目的地なのだが
マナキノは気付いていないようで――そもそも今は見えていないから気付いていない可能性もあるが――シーツを被ったまま呑気に歌っていた。
 目的地についてルーウィンは軽トラを止める。
 そして荷台へ回るとマナキノのシーツを枝に気を付けつつバサリと取り払った。
 人間ならば急に明るくなれば目を細めるものであるが機械人形のマナキノにはそんな必要も無く、彼女は美しい水色の瞳で周囲を眺めて状況を把握すると顔に笑みを浮かべる。
「ここ、マナのお家だ」
 ルーウィンがマナキノを連れて訪れたのはレポラ家。
 マナキノの本来の主人が住んでいた家であり、ルーウィンがマナキノと出会った場所。
「鍵はさすがに預かれねーから家には入れねーけどマナも帰省しないとな」
「うん! マナもきせいする!」
 植物が中に入り込んでも尚稼働するマナキノが「きせい」というと「寄生」にしか聞こえないなんてことを思いながらも、ルーウィンはマナキノが庭を走り回って家を眺めているのを見つめていた。庭には、たまには家族が来ているのだろうか、無人の家ながらも荒れてはいるものの雑草は少ない。
「あ!」
 マナキノが声を上げて立ち止まる。
 彼女が気になるとしたらそこだろうと気付いていたルーウィンは予想が当たったことに口角を上げた。
 マナキノとルーウィンの前にあるのはサンルーム。
 今はポツリと誰も乗っていない充電ボードが端に寄せられて置かれているのが見えるだけだ。
「お前が居た所だよ。覚えているか?」
 頷いたマナキノはサンルームのガラスに手を触れる程に近付いて中を暫く見つめていた。その様子に機械人形なりに何か思うところがあるのかもしれない、と人間的なことを思いながらルーウィンはマナキノの好きにさせておくことにした。
 マルハナバチが庭に植えられて放置されながらも青い花を咲かせるルピナスの中を飛び回るのをボンヤリと見つめる。「ルピナスは狼という意味で私の花みたいなものなんですよぅ」と「狼の目」と呼ばれる色を持つセリカが以前笑っていたことを思い出し、紫の花といえば何だろうかと考えた。
 とはいえルーウィンは花の名前に詳しくもない。マルフィ結社に帰ってから花屋の娘であるミア・フローレスにでも聞こうかと結論付けて――「何で紫色限定なの?」と素直に聞かれる想像が簡単に出来たので止めておく。それを誤魔化せる良い言葉はルーウィンには思いつかないし、ミアだけを騙すなら簡単だが更にミアから話が派生して他の人間に聞かれた時には誤魔化しきれないだろう。
 ブンブンとマルハナバチの大きな羽音が耳朶を打つ。
 長閑なイコナの風景、ルピナス、マルハナバチ。
 ルーウィンの意識は長閑さに引っ張られてボンヤリとしたものになっていて。
「ルー君」
 目の前に立った柔らかな桃色の髪を風に遊ばせた女性がルーウィンの名前を優しい声で呼ぶ。ブラウスにカーディガン、長めの丈のスカートが清楚な彼女には良く似合っていた。
「どうしたの?」
 ルーウィンが彼女に見惚れていることなんてお見通しのような悪戯めいた顔をして、ルーウィンの顔を下から覗き込むようにした彼女の上目遣いはどこまでも愛らしい。
 いけないいけない。相手は機械人形だ。どんなに綺麗でも彼女は人間ではないのだ。ときめいてどうする。
「べ、別に何でもねーっす、よ……」
 そう思うものの身体は正直で、強がろうとした言葉も言葉尻が弱っていた。彼女が水色の瞳を細めて笑う。機械人形の作り物の笑顔であるはずなのに柔らかに微笑んでいるようにしか見えない表情で、ルーウィンは彼女が人間であるかと錯覚しそうだった。
「マナさん、からかうのは勘弁して欲しいっす」
 マナさん。
 自分で言いながらも、その言葉に何かが引っかかる。

――ええ。おじいちゃん──主人マキールから『マナキノ』と名前をいただきました。生命の根源の姿って意味なんですって。

 それを聞いたのは、今よりももっと昔の話じゃなかっただろうか?

「ルー!」
 自覚した瞬間、マナキノの顔が変化した・・・・
 マルハナバチの羽音が、空気の熱が戻って来る。
「大丈夫?」
 心配そうに眉を下げてルーウィンを見上げるマナキノの左目からは花が生えていて、頭からは角のような枝。今のルーウィンのすっかり見慣れたマナキノの姿だ。
「あー……大丈夫だ。マナこそ、もう良いのか?」
「うん!」
 あの時のマナキノは「マナさん」だったけれど、今のマナキノは「マナ」だ。
 今のマナキノにあの日、出会ったルーウィンとの記憶なんてないのだろう。どうやら久しぶりにレポラ家を訪れたものだから、ルーウィンは幻覚のように感傷に浸ってしまったようだ。
「よし、じゃあ帰るか。マナはまた荷台で大人しくしていろよ?」
「うん! ちゃんと大人しくしているよ」
 軽トラの荷台に登るマナキノを手伝いながら、ルーウィンはマナキノへ言い聞かせる。マルフィ結社にいる時よりもマナキノが言うことを良く聞いてくれるように感じるのは、ルーウィンが仮でも主人マキールだからなのだろうかなんて現実的なことを考えてしまった。
「ねぇ、ルー」
 運転席へ向かおうとしたルーウィンをマナキノが呼び止めるから、その声に「どうした?」とルーウィンが振り返る。
 その時、ルーウィンが感じたのは頬に柔らかい感触。
 マナキノからのルーウィンの頬に触れるか触れないかくらいのキスに、ルーウィンの頬の温度は急上昇した。
「マナ、お前……えっ、ちょ、ええ!?」
 マナキノからキスを貰うのは二度目だった。
 あの時のマナキノは上品に微笑んでいたけれど、今のマナキノは屈託のない笑みで笑う。
「きせいありがとう! ルー!」
「あー……ド、ドウイタシマシテ?」
 相手は機械人形。ただのお礼。
 そう言い聞かせながらルーウィンは運転席へと乗り込んだ。
 そして、エンジンをかけながらふと思う。

――マナキノの『生命の根源』って意味、今のマナキノの方が一層良く似合うな。

ジャヴァリー家の来客

 マナキノを連れてレポラ家から自宅へと軽トラを走らせてきたルーウィンは、家の前に大型のピックアップトラックが止まっているのを見て「おや?来客か?」と思う。近付くにつれてピックアップトラックの車体が、やたらと磨かれてワックスのかかった黒光りする車体であることに気付くと車が誰のものかルーウィンは理解した。
 トラックが帰る時に邪魔にならない位置に軽トラを止める。
「マナ、着いたぞ」
「取っていい?」
 軽トラを降りて荷台に回りマナキノに声をかけると、今度はずっと大人しくシーツを被っていたままのマナキノがシーツの下から問いかけてくる。「良いぞ」と言おうとしたルーウィンだったが、ピックアップトラックに目を向けると一つ思いついたことがあってニヤリと笑い、言葉を変えることにした。
「今は取ってもいーけど、部屋ん中入ったらまた被ってくんねー?」
「いいよ」
 マナキノは二つ返事でシーツを取りながら頷く。
「じゃ、ちょっと静かに行くからな」
「しーっ!だね。マナ、ちゃんと静かに行くよ」
 口の前に人差し指を立ててマナキノが言う。これが人間だったならばアイドルにでもなれただろうという可愛さだ。
 そんなマナキノが静かに荷台から降りるのを手伝いながら、ルーウィンはニヤニヤと笑うのが止められなかった。
 ルーウィンは怪談が苦手だ。
 しかし、今ジャヴァリー家の中にはもっと苦手な人間がいる・・・・・・・・・・・のだ。

 * * *

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁっ!!!」
 かつてルーウィンがホラー映画を観て絶叫した時のような、否、それよりも大きな野太い男の叫びがジャヴァリー家の客間に響き渡った。
 予想通りの反応にルーウィンはニヤニヤとした笑いが止まらない。
 シーツを被っただけの似非お化けに、こんなに驚いてくれるとは予想以上だ。
「ヴィドさん、良い反応あざまーすっ!」
 態とらしく礼を言えば絶叫した熊のような見た目の男――ヴィドクン・ビョルンソンは我に返ったのか、じとりとした目でルーウィンを見た。
「ルー、お前って奴は」
「ヴィドさんなら良い反応してくれるって思ったんで期待通りで嬉しいっす」
 ヴィドクンはマルフィ結社に入ったものの機械人形と戦う恐怖>?に負けて故郷に戻っていた年上の旧友であった。尚、家の前に停車していたピックアップトラックはヴィドクンの大事な愛車である。
「ルー、もう取っていい?」
「おう、ありがとな。マナ」
 ルーウィンの言葉にマナキノがシーツを外す。その姿を見たヴィドクンの表情が強ばったのを見てルーウィンは密かに笑った。何ヶ月も見ているだけあってルーウィンはマナキノの姿に耐性がついているが、そうではない人間ならばヴィドクンのような表情になるのは到しかないことだ。初見から平然としている人間の方がおかしいのだ。
「――で? ヴィドさんは家まで来て何でクロエ・・・と喋ってるわけ?」
 マナキノで驚いたヴィドクンを見て満足したルーウィンは、ようやく本題へと入る。「クロエ」という呼び方に、同じ客間にいながら応接用ソファに座ったまま黙って牛乳を飲んでいたクロエの髪と同じ濃い紫の目がルーウィンを射るが、ルーウィンはそれを見なかったことにした。
「メリー嬢ちゃんが興奮した様子でお前んところの客の話をして回ってるから、どんな子かと思ってなぁ……で、そっちが髭のじーさんのところの機械人形か」
 恐怖から恐る恐るといった探るような目をマナキノへと向けるヴィドクンにルーウィンは大人しく頷く。
「あのじーさんが、こんな可愛い機械人形買ってたなんて噂になりそうなモンだけどな」
 イコナは田舎故にカンテ国の中では珍しく「ご近所付き合い」が濃い街であり、何かあればすぐに近所の人の知るところになることが往々にしてある。それをもってしてのヴィドクンの言葉だったが、ルーウィンは鼻で笑う。
「少し前までは機械人形なんて珍しくもねーモンだった訳だし、マナキノだって普通の……まぁ、ちょっとは綺麗な機械人形かもしんねーけど……とにかく、機械人形なんて普通だったじゃねーっすか」
 何気ないルーウィンの言葉にヴィドクンが目を瞬く。
「そうだよな、機械人形があるのが“普通”だったんだよな。まだ1年前のことなのに、すごい昔みたいに感じちまうな」
 たった1年前には当たり前のように隣人であったはずの機械人形。
 それが今は人間に牙を剥く危険な存在になるとは誰が想像しただろうか。
「また“普通”に戻る生活来るんじゃねーっすかね。な、クロエ!」
 ルーウィンに声をかけられたクロエは冷え冷えとしたミクリカの冬の海のような目を向けつつも、ポツリと呟く。
「ええ、その為にマルフィ結社が存在しているという部分もあるのでしょう。他の団体は機械人形に友好的であったとしても、今はどこも機械人形を排斥しているようですから」
 軽い同意程度で終わると思ったクロエの言葉にルーウィンは内心舌を巻く。賢しい彼女は他所の団体についても知識があったらしい。目の前のことにだけ精一杯な自分とは違う彼女に尊敬の念を抱きつつも、賢いクロエに追いつけそうにもないと焦る心も生まれて苦しい。
「結社には頑張って欲しいよ。俺は、頑張れなかったから此処で頑張るしかないけど」
「ヴィドさん……」
「なんてな! じゃ、俺は今日はそろそろ帰るけどバートンさん? クロエちゃん?またね」
 「またね」って何だ、「またね」って。
 ルーウィンがヴィドクンの言葉にツッコミを入れようとした時だった。
「ええ。また宜しくお願いします」
 クロエが薄らと微笑んで――少なくともルーウィンにはこう見えた――ヴィドクンに向かって頭を下げたのだ。
 え? 何で?
 頭に沢山のハテナマークを浮かべるルーウィンを他所にヴィドクンとクロエは何だか分かりあったような顔をして――重ねて言うが、ルーウィンにはこう見えた――会釈をかわし合うとヴィドクンはどこか勝ち誇ったような顔をして客間を去って行った。
 残ったのは訳が分からないままのルーウィンと、牛乳を飲み干すクロエと、何も考えてなさそうなマナキノの二人と一体だ。
 ルーウィンが何かを言う前に、最後の一滴まで牛乳をしっかりと胃に収めたクロエが応接椅子から立ち上がる。そして、ルーウィンへと近付いてくると。
「痛ぇ!?」
 ルーウィンが思わず声を上げる勢いで彼の脛を蹴り上げた。
「な、何すんだよ!?」
 避難の声を上げるルーウィンにクロエは冷たい目を向けた。
 その目を見れば何となく言わんとしていることは分からないでもない。
「別に……パパ活の人とかチェンバースとか、お前のこと呼び捨てなんだし俺だって呼んでも良くね?」
 ついでに言うならクロエを勝手に「激辛仲間」と認識しているルーウィンの友人であるタイガ・ヴァテールもちゃっかり「クロエちゃん」呼びなのだが、その事実をルーウィンは未だに知らない。
「ルーはマナのことは『マナ』って呼ぶよねー」
 客間の中を好奇心旺盛に見回っていたマナキノが唐突に言う。
 確かにマナキノのことをルーウィンは名前で呼んでいるが、機械人形には苗字が無いためにそう呼ぶしかないからという理由があるので何の助け舟にもならない。
「マナ、空気読んでくれ……」
「空気はねー、吸って吐くものー」
「そーだな、俺が悪かったからちょっと静かにしてよーな」
「うん!」
 マナキノに話の腰を折られて空気が何だか変なものになってしまった。
 気まずい沈黙が流れ、更にルーウィンが口を開こうとした時だった。
「おにーちゃーん! お客さーん!」
「すっごい格好いいお兄さんが来たよ!」
 ノックもせずに客間の扉を開いたのはルーウィンの妹達だ。
 その目を輝かせて緩んだ表情を見れば2人の言う「お客さん」が本当に「すっごい格好いいお兄さん」であることが容易に分かる。
「客?」
「そう! クロエちゃんに!!」
 訝しげに問いかけたルーウィンに妹達がはしゃいだ声を上げるとクロエへと目を向けた。「すっごい格好いいお兄さん」の来客があればルーウィンの妹達のように喜ぶのが女子の常というものであろうが、クロエは何か思い当たることがあるのか露骨に嫌そうに眉をひそめて歪んだ顔をしていた。その反応でルーウィンも来客の正体を悟る。
「……バートン。女子としてやべー顔になってっけど?」
「元々こんな顔です」
 “ クロエ ”呼びを諦めて以前通り苗字でルーウィンが話しかけると、忌々しいとばかりの顔でクロエが吐き捨てるように答えた。
「ふふふ。勝手に付いてきて申し訳ないですが失礼致します」
 ルーウィンの妹達リヴとメルが勢い良く開け放ったままの扉を軽やかにノックして微笑む若い男の声が客間に響いた。
「あ、お兄さん!」
「ごめんなさい、案内しなくて!」
 振り返って謝るリヴとメルに客人――ロード・マーシュはにこやかに微笑む。
「いいえ、2人ともここまで案内ありがとうございます。こちら、つまらないものですが」
 そう言って何食わぬ顔でロードが差し出した紙袋に書かれた店名を見た妹達が歓声を上げた。ルーウィンは知らなかったが、それはソナルトにある有名な洋菓子店のものであり、さり気なく女の子にウケそうな人気の品を用意してくるロードの用意周到さが出ているものなのである。
「ありがとうございます!」
 双子ではなく年子のはずなのだが双子のようにハモらせてリヴとメルはロードにお礼を言うと「ママに見せてくる!」と元気に客間を飛び出して行った。後に残るのはマルフィ結社の面々だ。
「外出許可はちゃんととったでしょう、くそ兄さん」
 会話の幕を切って落としたのは臨戦態勢のクロエだった。静かな声音ではあるものの怒りが滲み出ており眼光は鋭い。
「保護者役としてクロエの無事を確認に来ることに何か問題でも?」
 そのクロエの刺殺しそうな眼光を受けてなお、ロードは軽やかに何事もないかのような顔で答えた。
「ねぇ、ルー。ロードはクロエのお父さんなの?」
 空気を読む機能が付いている筈もないマナキノが首を傾げてルーウィンを見て来る。先程のルーウィンの「ちょっと静かにしてよーな」の「ちょっと」の時間はどうやらマナキノの中で経過してしまったらしい。
「お父さんっていうかパパっていうか……」
「“ お父さん ”も“ パパ ”も同じ意味だよ?」
「そーなんだけどちげーっていうか」
 見た目は大人、頭脳は子どものようなマナキノに対してパパ活とも言い難くルーウィンの言葉は歯切れが悪くなる。
「謂れ無き風評被害を吹き込むのは止めていただけませんか、ジャヴァリーさん?」
 更にルーウィンがパパ活と言いたいのを理解して、その口を縫い止めるかのようにロードが笑顔で釘を刺してきた。そうなれば、さすがにルーウィンも口を開くことはできず、そんなルーウィンを見たロードは満足そうに口を開く。
「青少年は健全に清らかに夏休みを満喫しなければいけませんからね。良いですか? 健全な夏休みですよ? 健全な」
「歩く猥褻物が何を言うんですか」
 やたらと爽やかに「健全」を強調するロードにクロエが吐き捨てるが、ロードの表情は一切曇ることはなかった。むしろ何だかキラキラしい爽やかさが増しており、更には何故かそのキラキラがチクチクと棘のようにルーウィンに刺さってくる。それに居心地の悪さを感じつつも、ルーウィンは口を開いた。
「別にアンタが気にするようなこと、何もねーっすから……」
 ルーウィンの言葉にロードは安心して笑うのかと思えば、意外にも鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしてルーウィンを見てくるものだから、つられて訳が分からないルーウィンも同じような顔をしてしまう。
 健全にといわれたから「何も無い」とちゃんと答えたというのに予想外の表情を見せないで欲しい。
「それは何よりです」
 取り繕うように笑顔を貼り付けてロードが微笑む。
「そんなくだらない事を言うために此処まで来たとでも言うんですか。時間と人件費の無駄すぎやしませんか?」
「いえいえ、まさか。これでもちゃんと仕事・・でイコナまで来てますよ」
「仕事?」
 ロードの仕事といえば人事に関わることである。
 イコナなんて田舎でロードの仕事が発生するようなことがあるのだろうかと、ルーウィンは内心で首を傾げる。
「これ以上は個人情報に関わりますからね」
 人差し指を立てて「内緒」とばかりの顔をするロードは、おそらく先程までロードにきゃーきゃーしていたルーウィンの妹達が見たならば更にきゃーきゃーと喚いただろうとばかりのイケメン振りを発揮していた。
 しかし残念ながら部屋にいるのはルーウィンとクロエであり黄色い声が上がることはない。


――後日、このロードの仕事によりマルフィ結社に新たな仲間が増えることになるのだが、それはまた別の話であった。