薄明のカンテ - アンコーラ/燐花
「別れて」
 付き合ってすぐのあのキラキラした空気。あれは一体いつ頃濁り始めて、いつ頃こんな淀んだものに変わるのだろう。ギャリーは目の前にいる彼女に言いたい事がいくつもあった。あまりにもここ最近で変わった事があり過ぎて。
 しかし、全てがどうでも良くなった今、ギャリーに事を荒立てる元気は無かった。
「…ああ、良いよもう。何か言われそうだなって思ってた…」
「じゃあ私、出てくから」
 新しい男のところ行くんだろ?知ってる。
 二人で折半すると言う話で家を借りたのに仕事を辞め、気付けば自分だけの稼ぎで生活を支える様になった時、急に「犬を飼いたい」と言い出した彼女にギャリーの堪忍袋の尾は切れた。
 生活費も家賃も全部自分が出す状態でおまけにペットまで。別に彼女が望むならギャリーだってその通りにしてあげたかったのだが、家の事をするでもなく、遊びに行けば明け方まで帰って来ず、どこに行っているかも不明で、仕事に疲れて帰ったギャリーと明け方まで飲み歩いた彼女と同じベッドで寝て居てももうただ辛いだけ。
 その事を咎めたり感情的に怒ったりすれば何かと理由を付けて自分が悪者にされたりデートDVなんて言葉をちらつかされる始末。だから気付けば喧嘩すらも億劫になっていた。
 何となく、浮気をされていると気付いては居たのに。こんなにも直接別れとして切り出されると思って居なかった。知らぬふりをしていれば関係は続けて居られるのではないか。そんな希望は呆気なく無くなった。女性と言うのは容赦が無い。
「っつーかさ、出てくは良いけど何処住むの?」
「友達の家」
「友達ん家転がり込むだ?」
「そう」
 嘘だ。絶対男の家だ。
「新しい住所教えてくれるなら荷物から何から送ってやるけど?」
「嫌。ストーカーになられたら嫌だもん」
 ならねぇっつの。どれだけお前の中で未練まみれの男の設定にされてんの?と言う言葉が喉まで押し寄せて口にする前に飲み込む。
「ねぇ」
「何?」
「なんでもない…」
 彼女は足早に家を離れて行った。
 彼女と出会ったのはそんなに昔の話では無い。兎頭国からカンテ国に渡って割とすぐ。飲み歩いていてたまたま出会って意気投合した。信じられないかも知れないけれどその時は彼女の一目惚れ。だから、自分が追われる側だった為にこんな終わりが来る事など予想すらして居なかった。彼女から好意を向けられていると知っていて、気持ちも伴わないのに体だけ重ねた事もある。その後結局付き合うまで至った訳だが、その時のバチが返って来たのだとしたら、だとしてもちょっと罪に比べて罰重く無い?
 ギャリーは一人になった部屋を見渡した。何だかいつも以上に広く感じる。二人で住むからと彼女の提案で先まで見通した部屋を借りた。結婚をまるで考えていなかった訳では無い。覚悟さえ伴えばゆくゆくはと思っていた。
「…阿呆らし…」
 その日、珍しく仕事を休み、身支度を整える。行きつけの美容室に行き時間を掛けて髪型をコーンロウにしてもらい、女性的な顔立ちをより引き立てる様に、ファンデーションでカバーして軽くアイラインも引き、アイシャドウも入れ、涼やかに華やかに目元を飾る。兎頭国を意識したメイクを軽く施すと、久しぶりに行けなかったところを練り歩いてみる事にした。彼女が居るからと遠慮していたところももう行き放題だしやりたい放題だ。縛られる謂れは無いのだから。何も言わず夜中までフラついても文句の連絡は来ないし、誰と飲んでようが誰を口説こうが咎める人間は居ない。髪型もメイクも少し変えて自分じゃない様な自分で練り歩く。
 素晴らしきかな、自由。
 でも寂しいかな、自由。
 昼から遊び歩き、飲み歩き、日も暮れた頃にはすっかり散財したギャリーの目の前に艶やかな射干玉の黒髪が揺れた。清楚だけどシンプルと言うかむしろ地味とも取れる洋服を身に纏っているが、その上から分かるスタイルの良さ。数ヶ月恋人に触れておらず飢えていたギャリーは目を奪われフラフラと彼女の目の前に迫る。そして気が付いた。彼女は何だか困っている様だと。
「お姉さん、どうした?困り事?」
「え?あの…ちょっと道に迷ってしまいまして…」
「…この辺り、詳しく無いの?」
「はい…この辺りは子供の頃来て以来で…主人との待ち合わせまで少しお店を見てまわろうかと思っていたのにすっかり様変わりしていて迷子になってしまいました」
「…ふーん」
 何だ。旦那居るのか。まあこんな綺麗な人なら当たり前か。
 彼女の様子を見るに火遊びする感じでは無さそうだし、そもそも自分も相手の居る人に手を出すのはあまりにも堕ち過ぎだと思う。誰も得をしない事はしない方が良い。だからギャリーはこの瞬間直前まで抱いていた疚しい気持ちを捨て、ただの良い人を装う事にした。
「お姉さん何処行きたいの?俺連れてってあげるよ」
「でも…悪いですぅ…」
「気にすんなって。むしろお姉さんみたいに迷子になってる人が居るの知ってて放置する選択は出来ないんでね。まぁ、お姉さんさえ嫌じゃなければだけどさ」
「では…御言葉に甘えて良いですかぁ?」
「勿論」
「このお店に行きたいんですけどぉ…」
「……お姉さんまるっきり方向逆じゃん」
 歩いてる間も、ついついチラチラと彼女に目を遣る。彼女はギャリーのおかしな目線に気付くとにこりと微笑んだ。駄目駄目人妻、相手は人妻。もう大切な人が居て、その人と生涯幸せでいると誓いを立てた人。
 良いなぁ。
 どうしたらこんな人に好かれるのかな?
 どうしたら人に「この先の人生この人と一緒が良い」と思わせられるのかな?
 こんな笑顔を見せてくれる人が隣に居る生活ってどうしたら得られるのかな?
 と言うか同棲してた彼女にフラれてその日の内に人妻に一目惚れするとか結構な事じゃ無い?どんな荒波だよ、今日と言う一日は。
 やり切れない想いからか彼女を見る目が自然と潤み始め、ギャリーは誤魔化す様に頭をブンブン振る。傍目に見たら不審者のそれだと思うのに、彼女は気にせずただ微笑んでくれた。多分、何かあったであろう事を察してくれている気がする。
「お姉さん、よく俺の事信用してくれたよね…」
「ふふ…全幅の信頼は残念ながら寄せられませんよぉ」
「ツレねぇ…ってまあ当たり前か。会ったばっかだし…得体も知れねぇし…」
「でも、道案内してくれると言う言葉は信用してます。ちゃんとここまで連れてって下さいますよね?」
「…それだけで良いかぁ。今は」
 よくよく考えたら人妻と歩いてるってどうなんだろ?まあ、この人何も意識してなさそうだから良いか。
 その内、ギャリーは彼女がちらちら自分を見ている事に気付く。そしてそれが、自分の服を見ている視線だと気が付いた。
「…なぁに?」
「今気付いたんですが…凄く上質なお召し物ですよねぇ。それは兎頭国のですか…?」
「ああ、服はね。こっち来ても兎頭のモノ使ってるよ。何だかんだデザイン好きだし」
「お兄さん兎頭国からいらしたんですかぁ…よく見たらお化粧もしてらっしゃるんですねぇ」
「これね。ちょっと気分変えたくて」
「素敵です。私、兎頭国の文化って好きなので」
「…ふーん。そうなんだ」
 自分を好きだと言われた訳でも無いのに、やたらと煩い心臓の音。正直に自分の出身地の文化を褒められるのは嬉しかった。兎頭国人は国に忠誠を誓う人を好んで受け入れる。つまり褒めてくれる人が好きなところがある。ギャリーも、自分は根っからの兎頭国人だなとぼんやり思った。
「あ、この先のお店ですねぇ」
 目の前に見えて来たのは目的の店。ギャリーは呆気なく終わってしまう彼女との時間に少しだけ後悔をする。彼女は道を知らなかったのだから、敢えて遠回りして行っても良かったのにな。
 でもそうしなかったのは、彼女が早くここに行きたそうに見えたから。
「はい、到着」
「お兄さん、ありがとうございました」
「うん、俺も」
 もう後にも先にもこんな人に出会えないのかなぁ、と彼女の顔を見ながら思う。何本気になっているんだろう。
「あの…お兄さん」
「ん?」
「私…ケンズとラシアスなら、ご案内出来ますよ?行った事あります?」
「あー…カンテ来てからまだ行ってないかも」
「じゃあ、きっと気に入ってくれますよって太鼓判押させてもらいますぅ。良いところですよ、ケンズもラシアスも」
「うん…俺も、さっき褒めてくれたけど、お姉さんこそこう言う服似合いそうだから着れば良いのに」
「そうですか?」
「どっちかって言うと着物の方が似合いそうだけどね」
「…それが聞けただけでも嬉しいですぅ」
 じゃあ、と言ってあっさりと別れる。もう二度と会う事はないんだろうなぁとか、あーもうしばらく恋愛したくないなぁとか色々考えながら、後ろ髪を引かれつつ彼女の方には振り返れずにギャリーは酒で誤魔化そうと次の店を目指した。

 * * *

 不思議な雰囲気を醸し出していた兎頭国の男の後ろ姿を眺めながら彼女──セリカ・ピンカートンはどうしようもなく虚しい気持ちになっていた。あの兎頭国の青年といる間、少し夢を見ている様な心地になっていた。まるで昔の優しかったベンジャミンを見ている様で。
 今だって、所用でラシアスにある実家に帰った帰りだったけれど、その帰りに待ち合わせをして少し店を見て行こうと話をしたのだから、完全に会話が無いわけではないけれど。
「セリカ」
 名前を呼ばれて振り返る。そこに居たのは夫であるベンジャミンと、その横でまるで妻の様な距離感で佇むケートの姿だった。
「旦那様…ケートさん…」
「一人でいたのか?」
「ええ…少しだけ道に迷ってしまって…親切な方に送って頂けて」
「そうか…その方のご連絡先は?」
「いいえ、ほんの少し一緒にいただけですから」
「…連絡先が分からないのでは仕方がないな…そろそろ行こうか。人通りが多いから気を付けて歩くんだよ、ケート」
 いつからだろう。
 こう言う時に口にする名前がセリカでは無くケートになったのは。
 機械人形なんてちょっとやそっとで怪我なぞしないのに、人間で妻の自分では無く機械人形のケートがまるで成り代わる様にベンジャミンの傍にいるのは。
「旦那様…」
 さっきの青年と居た時の様にベンジャミンのすぐ隣に移動する。が、ベンジャミンは手でセリカの肩に触れると不思議そうに顔を傾げた。
「らしくないな。どうした?隣に並ぶなどはしたない」
「いいえ…でも…夫婦なのですから…」
 勇気を出して絞り出した一言。しかし、ベンジャミンは尚更不思議そうな顔をするだけだった。
「夫婦なのだから、君は少し後ろを歩くべきだろう?」
「はい…」
「それともまた迷う事が心配か?なら大丈夫だ、ちゃんと先導するから君は黙って着いてくれば迷わない」
 黙って着いてくれば良い。
 意見せず、何も騒がず、文句も言わず。
 ただただ黙って鳥の雛の様に、口を開けて与えてもらうのを待って。
 砂色とピンク色が目の前を揺れる。ベンジャミンとケートが並んで歩く姿を、三歩下がってただ後ろから眺めるだけ。妻である自分が隣を歩けないと言うのなら、今隣を仲睦まじく歩いているケートは一体何だと言うのか。
「はぁ…」
 送ってくれた彼の事を詳しく話さなかったのは、せめてもの反抗心だったのかもしれない。
 その後、ケンズの悲劇に見舞われベンジャミンとケートを失い、髪も切って名前も旧姓に戻し入社したマルフィ結社で、兎頭国のポピュラーな格好をした青年を見付けて以来、セリカはふとした時にあの日の夜の事を思い出していた。

 * * *

「セリカちゃんどうしただ?えらい溜息なんか吐いて」
「ファンさん…」
 またサボりに来たらしいギャリーに呆れや諸々から顔を見るなり溜息を吐いてしまったセリカ。ギャリーはセリカの様子が気になるのか、矢鱈に近い距離から彼女の顔を覗き込む。
「近いですぅ」
「…何考えてたの?」
「んー…ほんの少し前に会った方が兎頭国の伝統的な格好をした方でして…顔を見て会話を交わしたのなんて凄く短い時間だったのに、その不思議な男性の事が何だか忘れられないんですよぉ…」
 遠くを見つめるセリカの目を見ながらギャリーは眉間に皺を寄せる。自分が目の前にいるのに他の男の話をされ剰えそれで彼女が蕩ける様な目をしていたのが何だか気に入らなかった。
「ふーん…」
「あら?自分から聞いて来たのに薄い反応なんですねぇ」
「だって、何が悲しくて他の男の事思い出してるセリカちゃん見てなきゃいけないの」
「そんな仲じゃないですよぉ。ちょっと道に迷った時に送ってくださった方がたまたま兎頭国の格好をした方だったってだけです」
「…その人兎頭国の出だって?」
「はい。そう言ってましたぁ」
「……絶対下心あるって、そいつ」
 やっと絞り出したのか弱々しくそう呟いたギャリーを見てセリカは思わず吹き出す。まるで負け惜しみを言っているみたいで何だか面白く見えた。そして一回会っただけ、全然関係ない人なのにそんな人に嫉妬してる様に見える彼の反応が何だか嬉しくもあった。

 セリカがあの日見たのは、髪型も違いメイクも少し施したギャリーである。
 ギャリーがあの日見たのは、髪を切る前でまだ和服を好んで着れなかったセリカである。
 ギャリーがその時と同じ格好をして来た事で先にセリカが気付くのだが、それは少し後の話である。