薄明のカンテ - やにわに去りて/燐花

 生まれた時に与えられたものは、僅か数年で全て失くした。
 藻掻いて藻掻いて、足掻いて足掻いて。
 どんな辱めを受けても乞う様に手を伸ばす事を、掴む事を諦めなかったのに。
 母の目は、絶対に私を見なかった。
 いつも目にするそれは、私の顔の面影から僅かに感じる父を見つめている目だった。

 他の女性と共にこの世から逃げおおせた父。
 父よりもどちらかと言うと母に似ている私。
 こじ付けでも良かったのだろう。父に似ているところを少しでも見つけられれば。そうして父に似ているところを無理矢理見付け、金の為に私を男に抱かせる。
 母はそうして生活に必要な金も、そして自分を裏切り置いて行った父を男に犯させる様な高揚感も。つまり、裏切り者へ制裁をしている快感も両方手に入れていたわけだ。
 でも耐えられなくなって、父と同じ様に私は母と言う地獄から逃げおおせた。
 そして、色々あってこの岸壁街を牛耳る男の養子になった。
 正確に養子としての手続きをされたかは分からない。けれど、そんな事はどうだって良い。養父という存在を次の地獄にしない為に私は彼の望む私であろうと思った。
 銃の扱い、素手転ステゴロ、一般教養、ありふれたテーブルマナーなんかも。
 そうしてとても上品な作法や所作と、とても下品な言葉や振る舞いとを同居させた歪な私が出来上がった。
 養父から捨てられない為、ちゃんと見てもらう為にした事。けれど、やはり彼も私を通して「理想の息子」を見ているに過ぎないと言う事に気が付いた。
 私は他者にとって限りなく写真のフレームの様な存在だった。それは、とても怖しい事だった。
 誰も彼も、私そのものを見ていない。
 十六歳になる頃には好んでスーツを着る様になっていた。確かに元々上品で上質な服は好んでいたが、最終的にスーツに落ち着くとは思わなかった。無難な色のスーツ、整えた髪。それらは私の幼い顔立ちと言うコンプレックスを隠して望む大人の姿にしてくれたし、同時にこの上なく「通行人A」であるかの様にも仕立てた。
 ただの「通行人A」でしか無かった半生。歪にしか愛された記憶が無く愛し方もまともに知らなかったのに、愛される事をいつしか強く望む様になった。
 父と母に見た身勝手な愛を嫌悪していたのに、誰かに愛されたくてしょうがなかった。
 ただの「通行人A」で終わる人生でなく、誰かに愛されたくて仕方がなかった。
 そんな時に出会ったのが、あの海と空を混ぜたガラスの様に綺麗な瞳。

 ──あの瞬間、私はこの子の為なら冬のミクリカ湾に身を投げ、海神の子になっても良いとすら思った。
 この子が私に恋焦がれてくれるなら、
 それはとても幸せな事だと思うのです──

小止みなく募る

 ラサム暦2163年。
 ロードは兼ねてよりリフォームに勤しんでいた元廃ホテルの一室の内装まで完璧に仕上げていた。電気も水道も生活出来る様に引いて来たし、家具家電も全て揃えた。養父であるボスが放任主義なのを良い事に早々に独り立ちをしようと作り上げた自分の城はなかなか納得の行く形で出来上がった。
 お洒落でシックなデザインの壁紙が映える室内は防音設備を整えてある。廃墟となっていたホテルの一室は一部業者に依頼したのもあり、この掃き溜めの様な岸壁街でプライバシーを最大限守れる部屋に生まれ変わった。
 最後にこれを設置したら終わり、と言わんばかりに丁寧に置き時計を置く。とりあえず一仕事終えたので試しに自分の好みで選んだ一人掛けのローソファーに腰を下ろしてみた。自分の趣味で作り替えた部屋、趣味で選んだ家具の心地は大変よく、このまま眠れてしまいそうだった。
 一つ難点を言うならば、やはりここは岸壁街。今は正午過ぎだと言うのに、電気を点けなければ夕方の様に薄暗い部屋なのは仕方がないが、岸壁街であると言う事を嫌でも認識してしまいそうで何だか少し惜しい。
 物思いに耽っていると端末に連絡が入りロードはすぐに外に出、約束の場所へ向かう。そこに居たのは仕事の斡旋も生業にしている情報屋の男。
 男は何とも言えない無の表情をしていた。
「よォ、坊ちゃん」
「どうも。如何でしょう?その後は」
「お前さんの思惑通り、あの嬢ちゃんは長い事まともに仕事を回されていないよ」
「……例の、クラッカーの彼には?」
「うーん…頼っちゃ居ないようだなぁ。自分が居たら女の客取れないとでも思ったんじゃないか?律儀な事だよな」
 そうか、彼にも頼らなかったか。
 ロードは話を聞いて俯いた。かれこれ二年近く手を回し、静かにヴォイドの仕事を減らしていった。時間を掛けたのには理由はあって、もしもその間にヴォイドが憎からず思っている彼、テオフィルスと何か進展があったのなら二人でそのまま連れ添ってしまえば良いとも思っていた。二人で一緒に岸壁街で暮らすなり、外に出るなり。とにかく彼女がこれ以上一人で孤独に生きて行く訳ではない、と言う事さえ分かれば静かに諦めようと思った。時間を掛けたのは、諦めどころを見付ける為でもあった。けれど互いに互いを大事に思うあまりか、気を遣った結果ヴォイドはテオフィルスに迷惑を掛けまいと足掻いたし、テオフィルスはテオフィルスで岸壁街の男性にしては珍しく女性を支配下に置こうとせずに彼女の意思を尊重する生活を送っていた様だ。
 互いを尊重する愛だった。無理に奪ってでも抗って行く愛ではなかった。
 ──この二人の歳の割に自立した愛情は大変素晴らしいが、そちらが遠慮をするならば自分はそろそろ遠慮せず動こう。
「…ここ最近で彼女に話を持ち掛けたのはどなたです?」
「うーん…お前がこの間壁の外に飛ばした奴が今のところ最新だな。ここのところあの嬢ちゃんも腹減って動けないのか、あまり外出ないから持ち掛ける奴はいねぇよ」
「そうですか」
「…坊ちゃん、良いのか?これがボスにバレたら坊ちゃんの身も危ういだろう?」
「だから高い対価を払って貴方に情報提供をお願いしたんですよ。私の身は確かに危ういです。まだバレていないから良いものの、もしもバレたら何をされるやら」
「その割には楽しそうだな」
「ええ。やっと彼女に触れられると思うと…笑みしか出て来ませんよ」
 ロードは男に礼を言うと金を握らせる。男は相も変わらず無表情のまま口を開いた。
「…回りくどいね」
「色々思うところがあったんですよ。私も二年で諦められるなら諦めたかったです。でも結局彼女を渇望しながら気持ちの整理を付けようとして、見事に溺れ掛けてますね」
「溺れる程のでかい感情か。自覚すんのにそんな掛かるもんかね…」
「うふふ、自分でも驚く程に不器用なようです」
 男と別れ、ロードは足を進める。はやる気持ちを抑えて向かった先に居たのは、白い肌に青みがかった黒髪、青と緑の瞳が美しい彼の想い人だった。彼女──ヴォイドは人の気配を感じ、虚ろな瞳をロードに向けた。
「こんにちは、お嬢さん」
「……誰?」
「うふふ、回りくどい事はやめにしましょうか。改めてこんにちは、ヴォイド。私はロード・マーシュと申します。貴女の事は、多分貴女が思っているより知っていますよ」
 過去にたった一度会っただけ。しかもその時自分は名乗りもしなかった。なので初めましての体でロードは話を進める。しかし、ヴォイドは虚ろだった瞳に光を灯すと、くりっとした眼差しを一生懸命ロードに向けた。
「ロード…?あれ?どっかで会った事ある…?」
 その言葉にロードは涙が出る程喜んだ。勿論彼女の前でそんな姿は晒さなかったが、許されるならこのまま彼女を抱き締めてしまいたい程だった。彼女が自分と言う存在を覚えてくれている。それだけで、恐ろしい程の幸福がロードの身を駆け巡った。
「…ええ、そうです。会った事ありますよ。うふふ…全く覚えて居ないと思ってました。たった一度だけでしたが、確かにあったんですよ」
「…そうなんだ。その一度だけのロードが…私に何の用?」
 空腹のあまり頭が働かないかの様にも見えるヴォイドの姿に少し罪悪感を覚える。しかし、その罪悪感に気付かないフリをして、ロードはもっと歪な愛を歪な言葉で口にした。
「ええ。単刀直入に言います。私は貴女を買いたいんです」
「…え?か、買うって…娼婦みたくなれって事…?」
「そう言う事になりますね…ただし、一度寝て終わり、なんて事にはしたくないんです。私には一人で暮らす居住スペースがあるんですが、そこで貴女と生活をして行きたいんですよ。他の客は取らせたくないんです。私の傍にだけ居て欲しいんです。一緒にいる時間全て込みでそれ相応のお金も支払います。一緒にいる間、衣食住の保証はします。要は…そうですね。『恋人と同棲する様な夢を見させてください』と言う事です」
「夢…?恋人ごっこするって事?」
「まあ、平たく言えばそうなりますね。私と一緒に寝食を共にして、私の望む時に体を重ねる。それで貴女にはその時間分のお金が入り、加えて一緒にいる間の食事の心配も寝床の心配も要らない。悪くない話では無いですか?」
 一通り説明をしたロードは手を差し伸べた。しかし、ヴォイドは少し何かを考えている様だった。それもそうだろう。自分が手さえ加えなければ彼女はそんな仕事・・・・・とは無縁でいられたのだろうから。そして何より、今彼女の頭を占めるのはおそらく彼の存在だ。
 テオフィルス・メドラー。彼の存在が彼女に二の足を踏ませているのは火を見るより明らかだった。
 本当なら彼に捧げたい気持ちもあっただろうし、今もなお彼から離れる選択は取りたくないのだろう。嫉妬に胸が焦がれる焦げ臭さを感じながらロードは差し伸べた手を一度引いた。
 ──が、その手を追ったヴォイドは引こうとした彼の手をその両手で包み込んだ。
「や、やる…。その話、乗っても良い…よ…」
「………ヴォイド、私が言うのもなんですが…意味分かって言ってます?」
「分かってる…」
 ヴォイドは覚悟を決めた様な、しかしこの世の終わりかの様な強張った顔を見せた。ロードはそんな彼女を見て安心させる様に優しく微笑む。そして肩に手を回した。
「とりあえず、居住地に行ってみますか?」
 ヴォイドは肩に回った手に一瞬びくりとすると、静かにこくんと頷いた。

 * * *

「すご…綺麗…!」
「うふふ、喜んでもらえたなら嬉しいです」
「壁も綺麗でボロボロじゃない…!あ、キッチンもある…!シャワーもバスタブもある…!」
 年相応の女の子らしくぴょんぴょん跳ねる様にはしゃぐヴォイド。どうやら新しい家が気に入った様だ。
「このソファー、可愛い」
「でしょう?私も気に入ってるデザインなんです」
「座って良いの?」
「ええ、勿論」
 ヴォイドは嬉しそうに一人掛けソファーに腰掛ける。ふわ…と反発しちょうど良く体を包み込むそれにヴォイドはワクワクした視線を向けた。足を投げ出してみたり逆立ちする様に背もたれに足を掛けて伸びてみたり。楽しそうにはしゃぐヴォイドを見てロードは嬉しそうに笑った。
 ひとしきり部屋を探検し終わったヴォイドは嬉しそうにまたソファーに腰掛ける。ロードはそれを見てにこりと笑うと、彼女の手を取り風呂場に向かった。
「ここはシャワールームです。作りとしては珍しく浴槽があります。そして洗い場もなかなか広いでしょう?大人二人くらいなら…重なり合って・・・・・・なら余裕で横になれますね」
「うん…」
「うふふ。ここは元ラブホテルだったんですよ。ベッドは二人で寝るのに申し分ない大きさにしてます。全体的に、広く取れるところは広くスペースを取っています。どうです…?ここで生活しましょう、とは言いましたが…気に入ってもらえましたか?」
 ロードが少し首を傾げながらそう尋ねると、ヴォイドは頬を赤らめてこくんと頷いた。初めて見る綺麗な部屋、新しい家具に少し興奮気味な様だ。
 ロードはヴォイドの手を取るとベッドまで連れて行く。ベッドの横には小さな金庫があった。すとんと二人でベッドに腰掛けてそれを見つめる。金庫には鍵がかかっておらず、取っ手を掴むだけですっと開いた。
「これは…?」
「これは、貴女の通帳を入れる金庫です」
「通帳?」
「ええ。ここに入っている電子通帳にちゃんとお金が振り込まれています。私の口座から一日おきにこちらに一定額振り込まれる仕組みです。名義は貴女のものになってますから、万が一私が居なくとも引き出すのに問題はありません。ここに表示されている数字が貴女の財産です。一日おきに記帳されますし勿論数字は増えていきますから、たまに眺めるのも良いかもしれませんね」
「ふぅん…」
「私が契約終了と見做したら振り込みは止まりますが…そうで無ければ、つまり私の傍に居れば半永久的に振り込まれ続けますよ」
 冗談めいて言うロードを横目に携帯端末に似た電子の通帳をしげしげと眺める。体を張って鉄砲玉の様な仕事をするより待遇も良くて安全で、何だか表示されている額に見合わないこの状況、あまり現実味は沸かなかった。
 端末を眺めていると、不意にロードの手が肩に伸びる。ヴォイドがそれに気付くと、ロードは彼女の体を優しくベッドに押し倒した。
「あ…の……」
「うふふ」
「えっと…」
 覚悟を決めたヴォイドがきゅっと目を瞑ると、ロードは笑いながらヴォイドのお腹をするりと撫でた。
「お腹空きませんか?」
「え…?うん、空いたけど…」
「腹が減っては何とやらと言うでしょう?先ずはご飯でも食べましょうか。買って来ますので少し待っていてください。ヴォイドは何が好きですか?」
「食べれるなら何でも…」
「うーん…お肉な気分ですか?それともお魚ですか?」
「……本当に何でも言って良いの?」
「ええ、勿論」
「じゃあ、唐揚げ」
 彼女と初めて会った時、彼女から貰ったのは唐揚げだった。質の良い肉では無かったはずなのにやたらと美味しかったその味を思い出す。ロードは嬉しそうに微笑むとヴォイドの頭を撫でた。
「では、唐揚げに赤スープ、炒麦エル・バツのおにぎりなんてどうでしょう?」
「うん」
「うふふ、買ってくるので待っていてください」
 ロードは嬉しそうに部屋を出る。変なの。娼婦として買いたいとか言ったからすぐに手を出されるかと覚悟はしていたのに。あまりにも優しく対等に扱われてヴォイドはどうしたら良いか分からなかった。分からなかったけれど、ふと気が付いてロードの居なくなった玄関を見つめ、「行ってらっしゃい」と呟いた。

破瓜

 自分達が発する以外の音が聞こえない部屋の中。少し前に食べたご飯のゴミがまとめられたそこでプチ、プチと音を立ててボタンを外すロード。既に緩めたネクタイは最早首に掛かるだけになり、ワイシャツを脱ぐとヴォイドの目の前で肌が露わになる。初めて見る男性の体。ヴォイドは彼がボタンを外す度に顔を徐々に赤らめて行ったが、シャツを全開にする頃には完全に手で覆って顔を隠してしまった。
「うふふ、本当に慣れていないみたいですねぇ…」
「ごめん…」
「いいえ。まさか岸壁街の最下層に居て、ここまで色事に疎いと思いませんでした。貴女が処女だと聞いていましたが…本当に今まで誰からも手出しされなかったんですね」
「…うん……ん?何で知ってんの…?」
「…さぁ、何ででしょう…」
 顔を手で覆ったままヴォイドはボソボソと口にする。彼女の反応は思った以上にウブなもので、嗜虐心を煽られて少しだけロードは意思が揺らぎそうになった。岸壁街にいれば、遅かれ早かれそう言う経験は耳に入る。ここはあらゆる負の温床だから。
 その方が手っ取り早いから、女は基本的に娼婦として生計を立てる事が多い。そうでなくとも、犯罪に巻き込まれたりその時運悪く鉢合わせてしまったが為に飢えた男に襲われたり、或いはいじめの様などうしようも無い理由で、とにかく女性はそう言う・・・・消費のされ方が著しく多かった。無論男性も。ロードの様に、大人に介入され訳も分からぬまま辱められた者も居るだろう。運が良かったのか何なのか、ヴォイドは一切そう言う経験も無く、言うなれば本当に「猿がジャングルで暮らしていた状態」だった。
「思ったより照れ屋さんで驚きました」
「い、嫌だった…?」
「いいえ。そんな貴女と最後まで出来たら…を考えると余計に興奮します。今もなかなか自制するのが大変ですね」
 ロードは嬉しそうに余裕少なめな笑みを浮かべると、ヴォイドの体に手を伸ばし彼女の服を優しい手付きで脱がす。キャミソールとブラジャーだけの体に傷は殆ど見えない。ロードの手回しにより仕事をしていなかったからか、怪我や痣はとても少なく見えた。その白く美しい肌にロードは一瞬自分を見失い掛ける。
「ヴォイド…大丈夫ですか?」
「うん…」
「うふふ、あまり大丈夫じゃ無さそうですね」
 こうしましょう、と一言呟くとロードは布団に入り込みヴォイドを抱き寄せる。目の前にはただお互いの顔があるだけ。
「先ずは私に慣れてください。布団の中なら恥ずかしくないですかね?」
「多少は…」
「では先ずは、布団の中で触れてください。男の体は見慣れないでしょうから」
 そう言ってロードはヴォイドの背中に手を回し、上から下へ撫でる様に触れる。そして片手で器用にブラのホックを外した。ヴォイドは突然の事に声を上げるとまた真っ赤な顔を手で隠して俯く。恥ずかしいのか、「うぁぁあ…」とやり場の無い声が響いた。そうやって布団で隠れてくれれば変に視覚が刺激される事もなくロードも理性を保てるとは思った。
「今嫌な感じはしませんか?」
「しないけど…恥ずかしいだけで…」
「それは良かった。私は無理に貴女を抱きたいわけじゃないんです。貴女も気持ち良くなってくれないと意味がないんですよ」
 そう言ってにこにこ笑うロードを前にいよいよヴォイドはこの状況の意味が分からなくなった。経験こそ無いものの、周りに娼婦が多かった為に話を聞いていない事はなかった。
 特に、自分の周りに居た娼婦から「初めて」に関して良い話など聞いた事が無い。
 誰の侵攻も許さなかった要塞と言うものは、それだけで価値がある。そして自分が初めての侵略者になる為に大金を叩く好き者は多く、それは極めてビジネスになる。ヴォイドの周りに居た娼婦の中には、そうして通常より高い金をもらう者も少なからずいた。しかし、皆一様にその後しばらくやり切れない顔をし、そして徐々に開き直って娼婦としてやっていくのだ。
 かつてヴォイドは娼婦の一人に言われた事がある。ここに居る限り「好きな男に愛されて」や「優しく扱われる」なんて普通の経験を経るのが一番難しい事なのだと。
 なのでヴォイドは、今触れているロードの手の優しさにムズムズした。
「…どうかしましたか?」
「変なの…優しくされるって…怖い」
「おやぁ?どうしてです?」
「だって…これが何かの振りでしか無くて、急に乱暴になったら私、どうしようって…」
「うふふ…善処しますよ。貴女の期待を裏切らない様、出来るだけ優しくします」
 何故彼は優しくしようとしてくれるのか。それが分からない間、ヴォイドは言い様の無いモヤモヤを抱える事になる。そんなヴォイドの手を取ったロードは、自分の胸に持って行く。触れた胸は薄く、ヴォイドが触り慣れない男性の体だったが、触った瞬間に伝わって来た鼓動は彼女と同じものだった。
「貴女が目の前にいる。ただそれだけでこんなにもドキドキしてしまうんですよ」
「……私と同じ?」
「うふふ、貴女もドキドキしてくれているんですか?んー…でももしかしたら、私は貴女よりもっとかもしれません」
 そう言って笑ったロードを見てヴォイドは少しだけさっきより強くどきりと心臓が高鳴ったのを感じた。
 ロードは、この胸の高鳴りがただの性欲による興奮から来るものなのか、或いは別の何かか分からなくなっていた。

 * * *

 一緒に生活を初めてそろそろ一ヶ月が経とうとしていた。最初こそ触れるのはおろか、見る事すら赤い顔で躊躇っていたヴォイドだが、毎日繰り返した今ロードに触れられる度に嬌声を上げる程になっていたし、手や口で満足させるやり方も彼から学んだ。しかし、ロードはなかなか一線を越えられなかった。
 ヴォイドは体を這うロードの指と唇の感覚に震える。その度にぴちゃりと水音が上がるし耳には彼の息遣いまで届く。聴覚と触覚が彼で満たされている感覚は確かにあった。あったのだが、彼が自分の足を大きく広げた瞬間に現実に引き戻される気がしてしまい、その瞬間彼のする事全てに痛みが伴う気がしてしまうのだ。
「指…挿れますよ…痛かったら言ってください」
「う、うん…」
 我慢しないと。そう思う度痛覚が過敏になる。恥じらいを自覚する。
「わ…わぁぁあ…」
「うふふ、随分と情けない声が出ますね」
「煩い…なぁ…!」
「可愛いって事ですよ。本音としては、もっと艶っぽい声を聞きたいですが」
 ロードもそんなヴォイドの無理は痛い程分かっていた。やっと指を痛がらなくなってくれたが、それでも一本分の質量に耐えるがやっと。これ以上の太さのものなぞ無理そうだなと思う。何とか理性を保ちつつ彼女の首筋に口付けると、少し指を動かして反応を見、するりと抜いた。
 指で愛でたそこはもう十分だと思う程に濡れているから、後は力さえ抜いてくれればと思う。このまま指と唇で愛撫を続け力が入らないくらいにしてしまえば痛がらずに進められるだろうかとも思うが、正直そこまで時間を掛けて善がる彼女の声を聞いて尚ギリギリまで我慢出来るだけの自信は無かった。ならば多少痛がられても、都度少しずつ慣らすしかない。
 足を開かせ、そこに入り込む。入り口に宛てがうだけで体を硬く強張らせるヴォイド。ぐっと前に腰を動かすが、少し入って来たのを感じた彼女は痛そうに目に涙を浮かべ喉から辛そうに声を漏らした。そんな姿を見てしまえば、このまま突き進めばただただ痛い思いをするだけであろう事は目に見えてしまい、ロードはギリギリのところで踏みとどまった。
 ──限界でしょうね…。
 理性と本能とが拮抗しているロードは少し苦しそうに息を吐くと、真っ赤になったヴォイドの頬に愛おしげに何度も口付けを散らす。そして名残惜しそうに腰を浮かし彼女から離れた。
「じゃあ…このくらいにしておきましょう。でも前回より少し入りましたよ、うふふふ…」
「ロー…ド…ごめ、んね…」
「…謝らないでください、大丈夫ですから。でも、私も我慢するのは辛いので手か口でお願いしても良いです?」
「うん…」
 こうして未遂に終わっている間にも、通帳には着々とカウントされている。
 生理の間は体を優しく労ってもらい、つまり何もせずに過ごしたし、今も痛いと言えばそこで終わる。それって、損得勘定としてはイーブンでは無いのではないか。
 ヴォイドがそんな事を考えている間、生殺し状態になっていたロードはモヤモヤしながら彼女を見つめていた。本音を言えば、口や手で満足など出来ていない。彼女と繋がりたい思いは日に日に強くなっている。それに未だ彼──テオフィルスを見ていた時の目と同じ目を向けてもらえていない気がして少なからずそれもロードを焦らせた。その時ロードもはたと思う。本当にテオフィルスを見る目と同じ目が欲しいのだろうか。もっと違う、別の何かな気もする。
 ロードの意識も一瞬違う方に行った時、つんつんと脇腹を突かれ彼は思わず変な声を上げた。その意外な声を聞いてヴォイドは目をじっとりさせた。
「うわぁ…」
「うわぁってやめてくださいよ。油断してればそんな声も出ますって」
「……」
「どうしました?」
「ロード…あのね…」
 ヴォイドは真っ赤な顔でロードを見た。
「が、我慢するから…良いよ…?」
「良い、とは…?」
「最後までして、良いよ」
 どくんと心臓が跳ねた。望んでいた事ではあったが、彼女から言い出されると思わずロードは顔を真っ赤にする。しかし、あんなに痛そうにしていたのに本当にこれ以上慣らさなくて大丈夫なのだろうか。
「で、ですが…」
「ロード、いつも我慢してるから…」
「…まあ最終的に貴女にヌいては貰ってますが…」
「大丈夫だから…本当に、大丈夫だから…」
 これ以上の押し問答は理性が飛びそうでまずい。ロードが座ったままどうしたものかと固まっていると、ヴォイドが彼の首に手を回して抱き着いた。それは精一杯のアピールであり、彼から理性を取り払うのは容易だった。
「……ねえ、ロード…」
 彼女がどう言うつもりでそう言って来たかは分からない。けれど、今この瞬間求められたのは間違い無いのだ。求められて断れる男など少ないし、ロードも断れる側の人間では無かった。
 足を開き間に入り直すと彼女を組み敷き、色々とギリギリな状態で腰を進める。ゴムがあるから摩擦で尚更痛いのだろうと一瞬考えつつも勿論外す気はないのでそのまま腰に力を込める。いつもより強くグッと進むと、ヴォイドはいつも以上に悲痛な声を上げた。
 そう、これは快感を得た声ではない。痛くて苦しくて上げている悲痛な声。
 彼女のそんな声を聞きたく無かったロードは一瞬その痛々しい声にぴくりと反応する。だが、既に少しだけでも繋がれた自分と彼女とを見てしまうと理性なぞとうにどこかへ行ってしまった。
 もう頭では何も考えられない。ただただ彼女と深く繋がりたい、本能と欲望だけが自分の全てだ。しかしそんな自分の目の前にいるのは、痛みを堪えて苦悶の表情を浮かべるヴォイドだった。
「ヴォイ、ド…大丈夫ですか?」
 ロードが労る様に名前を呼ぶがヴォイドはもうやっと耐えている様な状態で言葉すら返せない。キツく目を瞑りシーツを握りしめ、うんうんと首を縦に振り喉から少し苦しい声を漏らすだけ。ロードはその姿にまた興奮してしまい、ヴォイドの瞳からはとうとう涙が溢れた。
 何て綺麗なのだろう。この感情は一体何だ。ただただ、彼女が欲しいだけかと思っていたのに。とにかく早く、早く自分で感じて欲しい。誰にも見せた事の無い彼女の姿を見せて欲しい。
 申し訳ないと思いつつ様子を見ながら力を込める。ロードの顔から滴った汗がヴォイドの胸元にぱたぱたと垂れた。すると不意に、泣きながら耐えていた筈のヴォイドが目を開く。そしてロードと見つめ合った。
 その一瞬、ヴォイドは険しくさせていた表情を柔らかくする。涙の筋を頬に残しつつ、ふわりと微笑んだ。痛みを我慢しているのかシーツを握る手の力は緩まないものの、自分を見て微笑む彼女。
 ロードのタガは簡単に外れた。
「ヴォイド…」
 最早彼女の事以外何も考えられず、今までに無いくらいぐっと腰を圧し進める。包まれる感覚に根本まで咥え込まれた事に気付き、ロードは身震いするが、ヴォイドは突然身を裂く様に進んで来た彼に強い痛みを感じた。
「痛っ…やだ、いやぁっ…!!」
「ハァ…ッ!ヴォイ、ド…!」
「いっ…あ、嫌だぁっ…!!」
「ぐ、うっ…!」
 次の瞬間、ヴォイドはロードの腹を思い切り蹴飛ばした。ロードはベッドから転げ落ちると頭から床に着地したのだった。まさかの自分が蹴飛ばした事に驚くヴォイド。次の瞬間、耐えきれず笑うしか無い彼女より先に声を上げたのは、嬉しいやら勿体無いやら悟りを開いた様な顔でひっくり返ったままのロードだった。
「………ヴォイド、あまりジロジロ見ないでください」
「ご、ごめっ…ぷふっ…」
「……別に笑っても良いですけど」
「ぷくくっ…ロードも格好付かない事あるんだねっ…ふふ、お腹蹴っちゃった…」
 何とも間抜けな姿で床に転がったロードを見てヴォイドは堪え切れず吹き出した。むくりと起き上がったロードはベッドに戻ると照れ隠しなのか笑い続ける彼女を抱き締め二人で寝転がる。
「全く…貴女と初めてを迎えた余韻に浸る間も無いじゃないですか」
「ふふっ…でも何か、面白かった」
「…全く、もう」
「それに蹴飛ばさないとあのまま動かれる気がしたし…?」
「…いいえ、いくら興奮してるとは言え私はあのままじっとしてるつもりでしたよ?ただでさえずっと痛そうな貴女を見て来たんですから、無理はしません」
「本当?」
「本当です」
「ふーん、ちょっと残念…もう確かめる術無いから…」
「…ええ、シちゃいましたからね。ところでヴォイド」
「ん?」
「…とりあえず手か口でお願いします…結構早い段階から我慢していたんですが…」
「ふふっ…うん」
 もう、知る前には戻れないロードとの一日。それはロマンティックでは無いし、諸々痛い思い出だ。でも、後々懐かしんでふとヴォイドは思う。
 ──私、あの時幸せだったかも、と。

畳なわる縁

 その日も、テオフィルスにはキーボードを叩く音が妙に大きく感じた。少し苛立つ様に叩くと他のクラッカー仲間がびくりと肩を揺らす。その様子を、ナンネルは機械人形マス・サーキュながら溜息を漏らしつつ見ていた。
「アンタ、変に素直過ぎるのもどうなんだい?」
「あぁ?」
「あの子がいなくなって苛立つのは分かるけどね。周りに当たり散らすんじゃないよ」
「…別に当たってねぇよ」
「今日はどこ探すんだい?」
「…あっちの、よくアイツが食い逃げしてた店のもっと奥の方…」
「はいはい」
 落ち着かないテオフィルス。そんな彼を一人の女性が見つめていた。艶やかな黒髪をボブカットにしたスタイルの良いその女性は、娼婦からクラッカーに成り上がった珍しい経歴の持ち主だった。
 彼女の名はマルゴ。今はテオフィルスのクラッカー仲間であり、一目見た時から彼を気にしていたのだが、ある日を境に彼が目に見えて荒んでしまったので彼女なりに調べようとしていた。蓋を開けたら幼馴染の少女が居なくなってしまったと言う何とも可愛らしい理由だったのだが、それを知って彼女は益々テオフィルスに興味を持った。
「テオ、今日も荒んでるじゃない?」
 マルゴは自分の仕事をこなしつつナンネルに声を掛ける。ナンネルはマルゴを横目でチラリと見ると「そうだねぇ」と一言返す。
「可愛いよね、テオ。荒れる理由が幼馴染の女の子の事だなんてさ」
「可愛いもんか…あんな荒れ方されて一緒に仕事してるアンタ達が気の毒だ」
「そう?私はあんなテオ、ちょっと良いと思うけど」
「アンタも大概奇特な子だねぇ…」
 言いながらナンネルはマルゴの仕事を覗き込む。マルゴがこなしているのはいつもの仕事ではなく、システムのメンテナンス作業の様だった。ナンネルはそれをじっと見つめる。ある口座からある口座へ送金する際、主に送付先を辿られない様に架空の口座を瞬時に複数経由するそれだけの仕組みなのだが、その経由地にそれぞれ大層なセキュリティシステムを仕掛けており、並のハッカーでは辿り着けない高度なプログラムと対追跡者用のウイルスを組み込んでいる。
「ああ、それ?元締めに頼まれて私がやったの。あんまり興味なかったんだけど、仕事料が良かったから飛び付いちゃった」
「へぇ…テオにはその話来なかったけどね…」
「だってテオに話が行く前に私が奪っちゃったもん。他の子達にも見せちゃダメなの。相当ヤバい立場の人からの依頼なんだって。ああ、ナンネルも今見たもの、ちゃんと忘れてね」
「へぇー…」
 そんな会話を交わす二人の耳にガタガタと騒がしい音が響く。見ると、仕事を終えたテオフィルスが荷物をまとめ、外に行こうとしていた。
「じゃ、俺ちょっと行ってくるから」
「どのくらいで戻るんだい?」
「とりあえず一通り見るから…夕方くらいじゃ無いか?」
 言いながらテオフィルスが出て行こうとすると、パソコンに埃除けの布を掛けたマルゴが立ち上がった。そしてテオフィルスの前に回ると、彼の顔を覗き込みにこりと笑う。
「どこ行くの?」
「…どこだって良いだろ?ただの散歩だよ、散歩」
「うーん…ねぇテオ、私暇なんだけど、ついでにデートしようよ」
「…はぁ?勘弁してくれよ…俺トラブルは嫌だぜ?」
 マルゴは元締めのお気に入りの女だと言う噂があった。元締めは曲がりなりにも雇用主、その雇用主が気に入って囲っていると噂される女と二人で出掛けるなぞ見るからにトラブルの元だ。いくらマルゴが美人でもテオフィルスは相手にしたくなかった。
「良いじゃない、暇なのは本当だし。折角だから夕飯一緒に食べようよ。私が奢ってあげるから良いでしょ?はい決まり」
「ちょ、待ってくれってマルゴちゃん!勝手に決めないでくれよ…」
「良いでしょ?さ、デートデート」
 ずるずる引き摺られて行くテオフィルス。まあ、ここのところ少し殺気立っていた彼だから、むしろ無関係の女性が居たら良いストッパーになってくれるか。
 そう思ったナンネルはヒラヒラ手を振って二人を送り出した。しかし、マルゴのこなしていた仕事にあった架空の口座の名義が気になった。
 ヴァイオレット、ヴィオラ、オリアーナ、オルガ、イルゼ、イリーナ、ダーリヤ、デボラ。
 全てカンテ国のみならず大陸でも見る女性の名前だが、これらの名前の頭文字を並べると…浮かび上がるのは、「Void」。
「…流石に安直過ぎるわよねぇ…」
 機密情報だから忘れろ、とマルゴから言われたし。
 ナンネルはマルゴの仕事に関する情報をメモリから綺麗さっぱり削除すると、充電の為にいそいそと専用ボードに乗った。

 * * *

「では、行ってきますね」
 ロードと一線を超えてから数日。今まで苦戦したあれだけの痛みが嘘の様に、二回目以降から行為に痛みを感じなくなったヴォイド。初めての時は少し血が出ていた気がしたが何か痛むかと言うとそうでもなく、ロードに求められただけ応えられる様になっていた。この日も朝から彼に求められ先程行為を終えたところだ。
 ロードは自由だが所謂メンツの掛かった話が出ればそれなりに忙しくなる身の様で、彼の顔と名前を必要とされれば長い時は数日単位で家を空けなければならなかった。この日も呼び出された彼は外に出て行く。冷凍食品や保存食があるから食に困る事はない。おまけに金庫を開ければ彼が留守の日にもカウントは回っており、今まで散々搾取される側にいたヴォイドは「あまりにも優遇されていて話が上手過ぎないか?」と疑問を浮かべてみる。それでもいつしかこの生活は楽しくなっていたし、正直貰えるものは黙って貰っておこうとは思った。
 しかし、お金が振り込まれる度に現実に引き戻される感覚がして少しモヤモヤしていた。
 まるで恋人の様な生活の仕方をしているが、それでもここに金銭が発生している。つまりこれは仕事なのだ。これは、仕事として得ている安らぎなのだと思うとヴォイドは素直に喜べなかった。
「そうだ。もう通帳の確認、辞めよ」
 理由は分からないけど、楽しめるなら楽しんだ方が良い。それに、ロードが仕事としてこなすから自分に優しくしてくれているのか、それとも本心から優しくしてくれているのか、この通帳を見たら余計に分からなくなる気がしたのだ。そしてその度、何も言わずに出て来てしまった負い目かテオフィルスの事を思い出してしまう。ふと違う男を思い出しつつ抱かれるだなんてそれは流石に中途半端が過ぎると思うのだ。
 どうせなら見れるだけ、自分も優しくされる夢を見た方が良い。
 ヴォイドはまだ気怠さの残る体でベッドに潜り込む。布団にはロードの温もりと匂いが残っている気がした。
「…何で朝からあんな元気なの?あの絶倫体力お化け……いつでも誰相手でも、ああなのかなぁ…?」
 寂しそうに呟くのはロードが聞いたら喜びそうなヴォイドの疑問。それを聞いている者は居なかった。

「くちゅんっ」
 あれ?風邪でも引きましたかね?そう言って鼻を啜るロードを意外そうな顔で見るのは色素の薄い金髪に碧い目の青年だった。
「…ええ…?お前のくしゃみ何か雑…」
「え?何ですか雑って」
「いや…?何かくしゃみ一つでキャラとっ散らかりそうなやつだねそれ。何なん?その見た目でくちゅんってさ」
「……貴方の笑い方も似たり寄ったりじゃありません?」
「うるせぇよ」
 ヒッヒッヒッ、と独特な笑い方をする彼にお金を渡し、朝ご飯を受け取る。岸壁街の上層部にあるその店で働く青年は店主と折り合いが悪いのか白い肌によく痣を作っていた。ロードは以前食べに来て以来この店を贔屓にしていたのだが、どちらかと言うとこの店員である青年のとっつきやすさを気に入っていた。以前昼食時のラッシュ後に入った時、賄いを他の店員にも作って休憩していた彼を見た事があるのだが、何だかそれがとても美味しそうに見えたのだ。
「お前、よくここの飯食いにくるねー」
「ああ、好きなんで。でも、店長も良いですが、貴方も良いですねぇ…」
「え?何?お前ソッチの人?」
「違いますよ、作る人間と飯の話です。それにそう言う意味なら貴方は好みじゃありません」
「きっぱり断られるとそれはそれでムカつく」
 涼しい顔で言い放つロードに青年はからからと笑った。
 ロードの目に、青年は大変不憫に見えていた。
 上層部とは言えここは岸壁街。治安の悪さは折り紙付きで、彼は話を聞くに上層部にある孤児院出身だそうだが自立の為に選んだこの職場も正直褒められた環境では無かった。
 店主は所謂搾取する側の人間で、この小さな飲食店と言う城の王を気取っていた。店員は例外なく下僕であり、この店に居る限り自分の店を持つなんて夢は見られない。恵まれない環境の学の無い子供達を好んで引き取っては配下に置いている。子供達は食に対する技術と経験は培って行くが、その先の「更なる自立」は雲を掴む様な難易度となっていた。店を経営するノウハウはおろか、手続きが分からないからだ。王たる店主がこの様子なので相談に乗る事も、口添えしてくれる事もない。一生飼い殺されると落胆して、けれど生きて行く為に日夜仕事に励むしかない。
 ロードは目から光を失っている青年の前で白スープと魚つくね焼きを広げる。スプーンで白スープを掬い口に運ぶと、野菜の丁寧な甘さと優しい塩味のベーコンの味がふわりと口に広がった。ロードはキラキラした目で青年を見る。青年は驚いたのかびくりと肩を揺らした。
「な、何だよ」
「これ、調理したのは貴方ですね?」
「へー。良く分かんじゃん」
「正直言って店主の作る白スープより美味しいんですよ。貴方はキャベツや玉ねぎ等熱すると旨みと甘みが増す野菜をしっかり十分と熱を通してから次の行程に移ってますよね?店主はそう言った調理における手間をあまり掛けていない印象でした」
「お前すげーな…よく見てるもんだね。他にも隠し味として入れてるもんあるぜ?」
「何を入れてるので?」
「んー、ここではちょっと言えねぇな…せっかく差別化図った俺のオリジナルなのに、あのオヤジに盗られちまう」
 少しだけ寂しそうにそう言った青年をロードは何かを考えながら見つめる。そして、口を開いた。
「…私に料理を教えてくれませんか?」
「あぁ?何でよ?」
「料理を覚えたいんです」
「唐突だね。何で俺?お前みたく小綺麗な奴なら地上の料理教室でも行きゃ良いじゃん。それに、野菜がどうしたら美味くなるのかとかお前知ってんだもん。料理出来る人なんじゃねぇの?」
「いいえ、この味を覚えたいのです」
 それはまるで、何気ない日常の中で前触れもなく不意にプロポーズされたかの様な衝撃だった。青年は訝しげにロードを見る。腹が立つ程強い瞳だ。これは並の断りじゃあ諦めてくれないだろうな。
「…店主との誓約で金銭の発生する…つまりダブルワークは禁止されてんだよ。そして俺はタダ働きするつもりはねぇ。だからお前に善意一本で教える気はねぇ。他当たってくれ」
 諦めた様なその言い方。ロードはそう返されるのが分かっていたのか、うふふと笑うと更に条件を追加した。
「では、私に投資してみると言うのは如何ですか?」
「は?投資?」
「ええ、貴方から料理を教わると言う行為をイコール貴方から私への投資とするんです。その場で貴方に金銭でお返しはしませんが、投資額…つまり料理を教えてくれる時間が長ければ長い程貴方に大きな見返りとしてお返ししますよ。そうですねぇ、ゆくゆくは貴方自身の店を持つ…とかどうです?見返りとして店を出すのに必要な知識、経営の在り方を貴方に教え、店舗を借りる際の物件探し、諸々の手続きは私も傍に居てお手伝いします。どうでしょう?」
 青年は長く垂らした前髪の向こうから思い切り目を見開いてロードを見た。全く、話がハイスピード過ぎて纏まった文句も出てこない。密かにいずれ自分の店を持ちたいと思っていたので良い話だとは思う。だが、彼が何故料理を覚えたいのか、それが気になった。
「お前…何で料理なんか覚えたいの?」
「一食、都度買っているからか最近少々エンゲル係数が高くなってましてね」
「は?エンジェル…何て?」
「一緒に住んでる女性が居るんです。彼女は細いのによく食べる子なものですから…どうせなら美味しいものを作って食べさせてあげたいんです」
 エンゲル係数は耳馴染みが無かったからかあまり響かなかったが、一緒に住んでる人の為に作ってあげたいと言うのは青年にも響いた。誰かの為に、なんて少し前なら鼻で笑ってしまった事だろう。しかし青年は、自分に親切にしようと手を伸ばしてくれていた赤毛にアメジストの様な綺麗な瞳の少女を思い出していた。
「それに、私は包丁も握った事ないんです」
「は!?」
「他の刃物なら持った事ありますし、理屈として食材に関する諸々を理解しては居るんですが…圧倒的に料理そのものの経験が少ないんですよ。ほら、エロビデオ何時間観てもセックスが上手くなる訳でも無いじゃないですか」
「ああ、分かりやすっ」
「この店では貴方の作る料理の味が私は一番好きなんです。いかがですか?」
「…うん、良いよ…その話乗ってやろうじゃん。ただし、あのオヤジが居ない時間だから結構限定的だし短い時間だぜ?」
「勿論、それを分かった上でお願いしてますよ。改めて私はロード・マーシュと申します。以後よろしくお願い致します」
「俺、ヤン・サコー。二十二歳」
「は?ヤサカ・・・…?」
「…ヒヒッ!違ぇけど!違ぇけど面白いから良いやそれで!その名前気に入った!」
 ロードは三つばかり年上の料理の師匠を手に入れた。早速簡単なつまみの様なものを教えてもらう。切って乗せるだけだからサラダは簡単だが、シーズニング次第で味が何通りにも変わるとは彼──ヤサカ曰くだ。
 何の野菜がどの味付けに合うとか、ただ切るだけでなく最初に少し湯掻くなど手間を掛けると更に美味しくなるものもあるだとか、経験者の伝える言葉はただ本を読むよりもスッとロードの頭に入る。
「凄いですね…流石、やってらっしゃる方の言葉は本よりも分かりやすく深いです」
「え…そうかい…?ヒヒヒッ」
 最初の頃、ロードは見るもの全てが新鮮でそれを教えてくれるヤサカをよく褒めちぎっていた。それは、それまでの人生を限りなく低い自己肯定感で生きていた彼にとってこの上ない快感だった。

人肌恋しい私とあなた

 カチャカチャと聞き慣れない音が聞こえ、ヴォイドは目を覚ます。昨日は日も暮れてから丸三日ぶりにロードが帰って来て、その後すぐにベッドで、シャワールームで、またベッドでと矢継ぎ早に三回も求められてくたくたになって寝たのだと思い出し、目を開けてすぐに顔を赤くした。
 しかし当のロードが隣に居ない。
 布団から顔をひょっこり出すと、彼はシャツの袖を捲りエプロンを掛けた姿でキッチンに立っていた。少し慣れなそうに包丁を握り、何かを作っている様だった。
「ロードって料理するの?」
 てくてく歩いてロードに近付く。ロードはヴォイドに気付くとにっこり笑った。
「おはようございます。お目覚めですか?」
「うん」
「うふふ、昨晩は激しくしてしまってすみません」
「…い、良いけど」
「三日離れている間、貴女が恋しくて恋しくて堪らなかったんですよ。直近で一週間留守にする予定があるのですが…うふふ、三日でこれならどこまで貴女が恋しくなってしまいますかね?」
 ヴォイドは素直に「自分の身が持つのか」と考えちょっとだけ遠くを見つめた。
 ふと良い匂いが鼻をくすぐったのでそちらを見る。グツグツと音を立てる鍋からは美味しそうな香りが立ち込めており、ヴォイドはお腹をぐぅと鳴らした。
「これどうしたの?」
「仕事で外に居る間ずっと同じ料理屋でご飯を食べていたのですが、そこの店員から料理を教われる事になりまして。使用する食材のあまり多く無い料理からなら作れるかな?と…」
「白スープだ…」
「あと、切るだけなので海藻サラダも作りましたよ。んー…これに主食は…パンとかで良いですかね?」
「うん」
 鍋を覗き込むと野菜が既にそのままでも美味しそうに煮込まれていた。さっきから漂っていたのは野菜の甘い香りと調味料の香りだった様だ。ロードはベーコンを取り出すと包丁を向けるが、ふと何かを思い立ち横に立っていたヴォイドをチラリと見た。
「ヴォイドもやってみます?」
「え?私?」
「なかなか面白いものですよ、料理と言うものは」
「うーん…」
 服の袖を捲り、手を洗って包丁を受け取ると、ロードに言われた通りに手を動かして切ってみる。一口大に切るだけなのだが、何だかそれだけでも凄く料理をしている感があった。ほんの少し得意げな顔でロードを見る。彼はにっこりと微笑むと背後からヴォイドの体を抱き締め胸元に手を回した。
「……包丁持ってるんだけど」
「うふふ、料理をしている女性って悪戯したくなりませんか?」
「…ここキッチンなんだけど」
「ところでヴォイド、貴女年齢の割に胸大きいですよね…今までどうしてたんです?」
「え?布で締めてたけど?」
「…苦しく無かったんですか?」
「苦しかったよ?でも、動く時邪魔になっちゃうから…それに、胸大きいと太って見えるのかあんまり施し貰えなかったし」
「なるほど…羨望の的になる、と言うわけでも無いんですかね…?私の目には魅力的に見えますが、手放しでは喜べないと言う感じですか?」
「…ここではマイナス要素多過ぎる気がする…開き直れば別だけど…」
「そうですねぇ…」
 そう言いながらするりと手を動かし、堪能する様に揉み始める。包丁を持っていると言うのに、完全に目的が変わったな?とヴォイドは恨めしい目をロードに向けた。じいっ…と無言で見つめてやると、ロードと目が合う。彼は嬉しそうににこりと笑った。
「勃ちました」
「やっぱりね」
「ムラムラします」
「私包丁持ってるしダメ」
 ぐぐぐ、と力を込めて彼を引き離す。少なくとも火も点いてるしキッチンだしダメ。そう言うとロードは残念そうに一言「では後で」と呟きヴォイドの頬に口付ける。
 全部が全部聞かなくても良い。拒否をする事だって出来るのだ。あまりにも自然であまりにも優しい彼との生活。本当に金庫の中にある通帳の存在さえ考えなければ、これが仕事と思うにはあまりに幸せなのでは無いかとヴォイドは思った。
 しかし、その時に彼女はふと気付いた。そう言えばロードと一回も唇を重ねた事はない。彼から他のところにキスをされる事は何度かあったのだが、恋人らしさを望むなら一番当たり前にする様な事をして居ない。
 自然で、優しくて、幸せで。だけど一部あまりにも不安定で、脆いこの生活。歪な作り物にも見えるこの生活はふとした事で簡単に崩れてしまうのでは無いか。これはとても短い、儚い夢なのでは無いか。ヴォイドは急に不安になった。
「まあ、慣れない男の料理なんてこんなものですかねぇ?」
 ロードはテーブルを綺麗に拭き、食事の準備をしながら呟く。ふと心配そうな顔で、急に黙りこくってしまったヴォイドを覗き込んだ。
「どうかしましたか…?」
「ううん…あのね…」
 誰に聞かれているでも無いのに、まるで内緒話をする様にロードの顔をくいっと手で寄せ耳元に顔を近付ける。
「せめて食べ終わったら…にして…?」
 真っ赤な顔で口にしたヴォイド。ロードは一瞬真顔になると、次の瞬間には心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「可愛いおねだりですね…勿論今すぐにでも何回でも…」
「いや、だから後でで良い」
「意地悪ですねぇ…こんなに煽って焦らして…」
「だってお腹空いたもん。後でで良い」
「うふふ、そう言えば腹が減っては何とやらを先に言ったのは私でしたね」
 ヴォイドのスイッチが完全に食べるモードに切り替わったので、二人で席に着きサラダから口にする。
 うん、好き嫌いが分かれがちと言われている料理だが、私はこのサラダあまり好きでは無いかもともさもさ口を動かしながらヴォイドは思った。

 * * *

 この血溜まりは新鮮だ。何故なら今出来たばかりだから。ロードはそこに突っ伏す男を無機質な目で見つめる。
「す、すみませんでしたっ…!!本当、踏み倒して逃げるつもりは無くてっ…!!」
 もう一人、腰が抜けたのか座ったまま動けない男が嗚咽混じりにそう呟く。ロードはそんな男の肩を乱暴に足で踏み付ける。そして力を込めて押さえ付けた。ふぅーっとまるで溜息を吐く様にわざとらしく男の顔に向けて煙草の煙を吐く。
「いけませんねぇ…借りた物はきちんと返さなければ。大人なのだから…それとも、ここに詰まっているのは大人になり切れていない代物ですか?」
 ジュッと音を立て、煙草の火を押し付けられた額から煙が上がる。恐怖からか火傷の痛みからか、男がもんどりうって泣き喚くのをロードは見つめた。
「返さずに逃げようと言うなら、もう少し賢く立ち振る舞わなければなりませんでしたね。いずれにせよ、そこに詰まったものじゃあ力不足でした」
 ごすっと鈍い音が響く。ぎゃあぎゃあ喚く男に一発拳を入れて大人しくさせたのはロードの背後から現れた大男だった。如何にもな「やばい雰囲気」を醸し出す男は尚も喚く男の顔の真ん中に拳を打ち付ける。更に背後からもう一人似た様な雰囲気の男が現れ、血溜まりに突っ伏して気絶している男を拾い上げた。
「ロード、コイツ生きてんのか?」
 血溜まりの男を拾い上げた大男──キンバリーが笑いながらロードを見た。
「おや、キム。死んじゃいないですよ、彼は寝てるだけです」
「いつに無くむしゃくしゃしてどうした?」
 喚く男を黙らせたばかりの大男──ギデオンは訝しげな視線をロードに向ける。むしゃくしゃしている、と言われるとは思わずロードはつまらなそうに笑った。
「いや?そんなつもりは無いんですがねぇ」
「…まあ良いが。そう言やお前、ここ数ヶ月娼館にも行ってないみたいじゃないか。ボスが心配してたぜ?若い癖に早々に枯れたんじゃねぇかって」
 ギデオンの冗談めいた言葉にロードは吹き出した。確かにヴォイドと生活する前後から全く行かなくなったのだが、まさかそんな疑念を抱かれる事態になっていたとは。
 同じく笑っていたキンバリーも追撃と言わんばかりに口を開く。
「おう、その心配なら俺も聞いたぜ?道で適当な女拾って病気でも移されたんじゃ無いかってよ」
「そうだったな。或いは恨み買って根っこから切られたんじゃねぇかってな?」
「うふふふ…本っ当、人が居ないところで好き放題言うんですから全く…」
 笑い混じりに談笑する三人。対照的に虫の息の男達は彼らの笑顔を恐怖の目で見つめていた。何故なら今揃った三人はボスの養子とボスの右腕達だからだ。

 ヴォイドの居る家に一週間帰れない。たったそれだけなのにそんなに分かりやすく態度に出ていたか。
 ロードは煙草を咥えると火を点け、一服しながら周囲を見回す。本当に、この壁の中はどこもかしこも年がら年中物騒だ。今いるのは上層。向こう一週間は取り立てや腰の重いボスの代わりに壁の外へ挨拶回りに行くキンバリー、ギデオンの運転手。
 彼女のいる最下層の家までまだまだ帰れない。前回三日空けた時も色々と限界だったのに、一週間は長い。もう挫けそうになっているロードは早々に煙草の火を消すと手持ちの携帯灰皿にそれを捨てた。
 そんな彼の前でふと彼女と同じ色彩が揺れロードは目を奪われる。雰囲気は彼女に似ている気がするが、それはまだ幼い少年だった。その少年は駆け足でロードの目の前を過ぎて行く。そんな彼を追うチンピラ風の若い三人の男。やれぶつかっただの服が汚れただの骨が折れただの、古典的な文句を並べて柄悪く捲し立てる男達は涙を浮かべて逃げる少年で遊んでいる様だった。
「(くだらない…あんな弱そうな外の子を追い回して…)」
 放っておいても自警団が何とかするだろう。
 そう思ったのだが、その少年がヴォイドと同じ髪色、目の色なのが気になってしまった。
 自分の腕の中、痛みを訴えつつも抱かれた彼女。それを見届けたのがたまたま自分だったのだが、運が悪ければもっと早く、適当な輩にぞんざいに扱われていた可能性もある。それは、今回みたいにベッドでもなく、もしかしたら硬い床…下手をしたら屋内ですら無いかもしれない。前戯も何も無く、痛がる彼女をただ欲望のままに蹂躙したかもしれない。いや、ここではそんな事日常だ。むしろ彼女は少し運が良かっただけだ。
 少年を彼女と重ねて見てしまったが為に、不届きな男達が彼女を弄んだ「もしも」の男と重なって見えた。
「…冗談じゃない」
 ロードの中をドロドロとした感情が充満する。
 気付けばロードは下卑た笑顔で少年を追い回す男を投げ飛ばしていた。
 先頭を行き、少年を掴もうと手を伸ばした男。その手をがしっと掴むと、肘の辺りに膝蹴りを繰り出す。ごすっと鈍い音が響くと同時に男の足を払い、その体を背負うと流れる様に投げたのだった。訳も分からず地面に沈む男。突然のロードの登場と仲間の沈黙に一瞬静かになる男達。しかし、瞬時に切り替えると男達はロードに捲し立てた。
「…ンだテメェ!!?」
「おいおい何のつもりだよ!?」
 痛みに転げ回る男、腰が抜けたのか座り込んで震える少年。男達もその状況を把握しているのでロードに対して手を出して良いのか否か、声を上げるものの判断は付かない様だった。
「…英断ですよ。仲間一人やられたのを見て手を出さずに留まるのは…」
「い、いきなり出て来て何なんだテメェ!!」
「そうそう、肉食獣の縄張り争いですが──」
 ロードはぽつり、ぽつりと呟いた。
「──彼らが縄張り争いをする際、往々にして負けた方は潔く引くんですよね。力比べをして、自分の方が弱いと感じたら。殺すまでは深追いしないんです。でも、それで引けない動物も居ます。例えば発情中の草食動物とかですね。雄として再起不能になるまで攻撃をする事もあるし、最悪息の根を止めるまで争いが止まらない事もあります。意外にも兎なんかが良い例です。うふふ、発情時の雄同士の喧嘩は激しいもので玉を食いちぎる事もある様ですよ?怖いですねぇ。同じ自然界の動物でも、状況と種類…習性によって様々な姿を見せる訳です。そこで貴方達に尋ねます。私は縄張り争いをする肉食獣と発情中の兎、どちらに見えますか?」
 威嚇する様に三人の内一人を沈黙させて深追いせずに逃すか、それとも三人全員が何かしら怪我を負うまで攻撃の手を緩めないか、どちらの人間であって欲しいのか。
 そんなロードの質問の意味するところに気付いた男達は、伸びた男を引き摺り慌ててその場を後にした。
 やれやれ、と小さく呟いたロードは、未だ腰を抜かしたままの少年に向き直る。そこそこ体の大きい子だ。歳は十二、三歳くらいだろうか。怪我は無さそうだが追い回されたショックは大きそうで、ロードは極めて優しく笑いながら手を差し伸べた。
「ボク、大丈夫ですか?立てます?怖いお兄さんはもう行ってしまいましたよ」
「……」
 青と緑が混じった様な瞳でじっと見つめられるとまるで彼女に見られている様で少しだけどきりとする。その幼い顔立ちは初めて会った時の彼女の顔に似ていた。
「…ボク?どうしましたか?もしかして、怪我でも──…?」
 黙ったまま喋らない少年を心配したロードの顔は少し焦りの色を見せた。しかし、やっと口を開いた少年が発した言葉は予想外の物だった。
「臭っせぇえ!!煙草臭ぇ!!俺煙草…嫌い!!」
「………ほう…?」
 お礼を差し置いていきなり煙草の臭いのクレームからと言う最悪の初対面の挨拶を交わしたロードと少年。少年は先程の震え方が嘘の様に不躾な態度をロードに見せた。

想い、空劫なりて

 少年の名はシキ・チェンバースと言った。そして体の大きいシキをロードは十二歳くらいかと思っていたが、意外にもまだ九歳でありロードは彼の成長度合いに大層驚いたのだった。しかし、もっと彼を驚かせたのはシキのマイペース度合いだった。
「お前煙草臭い」
 歳の割に大きい体の持ち主であるシキ。中身も年齢の割に大人びて…とはならず年相応の様で、びしっと指差すとまるで先生に告げ口をする学生の様にロードに文句を垂れた。
「こらこら、人を指差して色々言うもんじゃありませんよ」
「だって…煙草臭いんだもん、すっげぇ煙草臭い!」
 全くなんて失礼な子供だ。先程チンピラ紛いの三人組に絡まれていたが、この不躾さが原因では無いかとロードは思った。だとしたら威嚇の為とは言えあんなに派手にしてしまってちょっと悪い事をした。この子はこの子で少し教育が必要な気もする。
 じっとこちらを見つめているシキにロードは遠慮がちに微笑む。こんな幼い子があんな絡まれ方して怖かっただろうに、もう平気な顔して歩いて居るのだから彼は大物だな。
 が、次の瞬間いきなり目に涙を溜めシキはプルプルと震え始めた。
「うぁぁぁあ〜っ!」
「急にどうしたんですか?」
「こ、怖かったよぉぉぉお〜!」
「今!?今ですか!?」
 何と言う事だ。思い出した様に泣き始めるなんて。むしろもっと怖がるポイントはあった気がするのだが。このシキと言う少年、どこかズレている。
 岸壁街とは言え上層の昼間はそれなりに活気があって人の出入りも多い。二人の周りにもそれなりに人が居る。その数多ある目線が一気にロードとシキに注がれた。傍目には、スーツを着た身形の良い青年が子供を脅して居る様に見えなくも無い。ロードはぴーぴー泣き喚くシキの体を抱き抱えると、慌てて人の少ないところに移動した。
 何だか誘拐だの人買いだの、更にあらぬ疑いを掛けられている気がしてならないがこの視線を注がれ続けるよりはマシだ。
「はぁ…はぁ…っ!」
 シキの体を降ろすと荒くなった息を整える。先程まで泣いていたシキはもう泣き止んでいて、そんなロードを見つめていた。
「んだよ、お前体力無ぇな。煙草なんか吸ってるからだ」
「…はぁっ、ッンの…、クソガキ…!」
「ん?そんな事言って良いのか?ヨウジギャクタイだぞ?」
「そんなデカい図体して誰が幼児ですか…!」
 息を整えたロードは改めてシキを見つめる。こんな生意気な子供を気に掛けてしまうのは偏に彼がヴォイドに似ていたからだ。髪の色、目の色、そして纏う雰囲気が不思議と似ていた。だからと言うわけでは無いが、彼が泣いていると落ち着かない。
「さて…シキ、聞いて良いですか?」
「何?」
「貴方の住まいは岸壁街じゃないですよね?ここはお世辞にも治安の良い場所じゃありません。貴方がこんなところで何をしていたか知りたいのですが…」
 ロードが尋ねると、シキは下を向いて黙ってしまう。しかし意を決した様に顔を上げると、「お母さんが…」と呟いた。もしかして母親とはぐれたのか。そう思って再度尋ねるとシキは首を振る
。シキは、亡き母の足跡を辿りに来たと言うのだ。
 彼の家庭は少し複雑な様で、実母は彼が一歳の時に他界していた。その後父には恋人が出来るのだが、シキの事を考えて結婚には踏み切って居なかった。だが転機が訪れたのは昨年で、父と恋人との間には子供が出来たらしい。
 兄弟が増える、家族が増える。ポジティブな言葉はたくさん掛けてもらったし、それが自分の心の為である事もシキは気付いていたが、世界の中心が新しく増える弟になってしまう様な危機感を幼心に感じていた。
 今まで自分の事を考えて環境を変えないでいようとしてくれた二人。でも、弟の存在によりすぐに切り替えた二人。それは当たり前の事だけど、皆の前では喜びだけを見せたけど。どうしても蚊帳の外の様なやるせなさを感じる。だけどそれは困らせるから皆に見せてはいけない。そうしてまた出口の無い迷宮に一人迷い込む。
 シキはまだ子供だが、そうして一人で悩みを抱えてしまうくらいには大人の事情も理解していたし、ポジティブな言葉だけで割り切れない自分の気持ちも理解していた。
 そうしてどうにもならなくなって、実の母の死因が岸壁街で事故に遭ったからと言う話を聞き母の面影を求めて足を運んだそうだ。
「なるほど…」
 何とも難しい問題に首を突っ込んでしまった。
 正直にロードは思った。
「ねぇ、お前だったら…どうする?」
「その『お前』って言うのやめなさい」
「俺は認めてない年上には『お前』って呼ぶ」
「何なんですかその認める基準は…」
 二人で何をするでもなく並んで瓦礫に腰掛ける。得体の知れない感情を抱えて動けずに居るシキに何だか親近感を覚えたロードは、ヴォイドに似た色彩も相俟って彼を突き放せずに居た。
 しかしそれでも、現実として彼はどうしようもなく「子供」なのだ。
「シキ、それでもちゃんと家に帰りなさい」
「……」
「ありきたりな事しか言えませんが、昼間ならとにかく貴方がもし暗くなってからこんなところを彷徨いていたら…いえ、昼間だってここに居る事を知ったらお父さんも…家族皆が心配しますよ」
「……うん」
 まだ『お母さん』と呼べないであろう彼の心情を汲んで言葉を避けたロード。シキはそれに気付き、少しだけ遠くを見つめた。
 そんな二人の空気を割く様に携帯端末が鳴る。ロードは画面を確認すると通話ボタンを押した。相手はギデオンで、ミクリカ湾近郊で取引があるから車を出せ、との事だった。正直今シキを置いていくのは気が引けたが、自分の身の為にも仕事を最優先せねばならない。
 ロードはやむを得ず立ち上がると、シキの脇に手を入れて少し強引に立ち上がらせる。そしてぽかんとしている彼の手を取り指切りをした。
「シキ、私は仕事に行かなければなりません。心配なので今日のところはまっすぐ帰ってください。さっきの怖いお兄さん達みたいな人にもしまた絡まれでもしたら…今度は駆け付けられるか分かりませんから。その代わり、貴方の話はまた聞いてあげます。絶対に」
「本当…?」
「本当です。お母さんが最期に見た景色がどんなものか…この世界の最下層まで私なら案内してあげられます。でもそれは、今は出来ません。でもいつか一緒に回ってあげますから、今日のところは帰ってください」
「本当に?約束出来る?」
「うふふ……もうしています」
 ロードは指切りを強調する様に重なる指をシキに見せた。シキはにこりと笑うと、「認めてやるかな…」と呟く。
「お前、煙草吸ってるけど認めてあげる」
「……それはどうも光栄です」
「今日は帰る。でも、また会ってね?絶対だよ?」
「はい、絶対また会いましょう。だから絶対に、一人でこれ以上奥へ行くのは駄目ですよ?」
 去って行くシキの姿をロードは見送る。あーあ、何であんな面倒な事に首を突っ込んでしまった上また会う約束なんざ取り付けて居るのだろう?とは思ったが、もう口にしてしまった手前撤回は出来ない。
 それよりも、彼と出会った事でロードは気付いた事があった。それは、誰かに頼られる喜びだ。
 長らく最下層のはぐれ者だと思っていた自分が鮮やかに色を持つ瞬間でもあり、同時によく似たシキと会話を交わした事でヴォイドに抱いていた謎の気持ちの正体を垣間見た。

 自分は、自分だけの家族を求めている。
 誰かに愛され、誰かを愛する平和な生活を夢見ている。
 そしてその『誰か』は、他でもない彼女ヴォイドが良い。
 今まで培った全てを捨ててしまっても良いと思うくらいに。
 この気持ちの正体はただの恋だ。何の変哲もない。ただただ彼女に一目惚れして、本当にただ好きになっただけ。
 普通の人間が普通に他者に抱く普通の気持ち。物心付いた頃から普通と違う生き方をした自分が初めて自覚した普通の感覚だ。

 * * *

 ぱかっ、と瓶の蓋を開ける。そこにお目当ての物はなくヴォイドは肩を落とした。何だか急速に酸っぱい物が食べたくなった。酸っぱくて且つ甘味もあると尚良い。そしてそれらに該当するものと言えば、彼女の頭に浮かんだのはレモンの蜂蜜漬けである。
 何で急に食べたくなったのかは分からないがあの甘酸っぱさを口にしたくなった。
「…作るか」
 ちょうどよく手元に密閉できる瓶がある。この中で作るのが良さそうだ。
 料理に慣れないヴォイドだが、面倒を見てくれていた娼婦の中にこれが好物だと言う者がおり、彼女からレシピだけ聞いた事があった。
『切って漬けるだけよ』
 確かそう言っていた気がする。
 ヴォイドは部屋を出るとレモンと蜂蜜を求めて岸壁街を彷徨く事にした。こう行った食材を買おうと思ったらおそらく中層までは向かわねばならないだろう。足を進めながら周りを見回すが、相変わらずここはあまり宜しい場所ではない。
 不意に近道をしようかと考え、ヴォイドはパルクールで壁を登って行こうかと考える。この壁の高さなら物凄く幅を取って大きく助走を付けなければいけないと言う訳でもないので今この場に広がるスペースだけで行けるのではないか?と思案し、ヴォイドは壁から少し離れたところに立った。助走をつけ、タイミングよく左足を出し、壁を蹴り体を上へ向かせる。続いて右足で更に壁を蹴る動作に移行するのだが、いざ頭の中でそうシミュレーションして実際に壁を蹴ったヴォイドは左足に違和感を感じた。壁に対する足のグリップ力が足りないのか、本来ならこの動作でぴたりとくっ付いていられる筈の足が滑ってしまうのだ。当然他の動作に移行できる事もなく、壁にぶつかりそうになったヴォイドは瞬時に手の平で防御を取った。
「え…?」
 壁にぶつかった手の平は少し切れて血が出て居る。ヴォイドは急に物悲しい気分になり、遠回りになるがきちんと正規ルートから中層に上がろうとそちらに向かった。
 仕事が無くなりこう言う動きをする事も減り、怪我は確かにしなくなったがほんの少しだけ技術の劣化を感じた。もしも次またどこかで鉄砲玉の様な仕事が入ったら自分は満足に動けないかもしれない。怪我も今までの比ではなくなってしまうかも。もしかしたら死ぬ様な目にも遭うのかも。

 ──でも、今はロードのところに居るから。

 そう思い、知らず知らずロードを頼ってしまっている事に気が付く。しかし、そのロードとの事も、形式としては仕事と取って良いのだろうがどう言う気持ちでいたら良いのか分からない。
 ロードがしてくれる事も、ロードから求められる事も、全てそこに何かしら『利益』があるから?
 それとも、何か違う別の目的がそこにあるのだろうか?
 この関係の先に何があるのだろうか。
 損得以外の何かが。
 …分からない。
 いっそ全て『利益』か『不利益』かで分けてくれたら分かりやすくて楽なのに。

 中層まで歩みを進める。ワンピースにジャケットを羽織った格好では少し肌寒くなって来た。足元に気を付けながら青果店を目指すと、少し人が多くなって来たのでぶつからない様避けながらレモンを物色する。一番形も色もマシな物を選ぶと、ロードからもしもの為に貰っておいた電子決済用の端末で購入する。
 次いで蜂蜜も購入し帰る為に人の波に飛び込んだヴォイドは流れに身を任せフラフラしていたところ、飛び込んできたものに目を奪われた。
「……テオ…?」
 遠くに砂色の髪が見える。短く切られた前髪は湿気によるものか少しくりんと跳ねて彼方此方あちらこちらを向いており、反して長く伸ばされた後ろ髪はゆるりと三つ編みにされている。ヴォイドはそんな髪型をしている人間を二人と知らなかった。
「テオ…!テオ…!!」
 慌てて彼に声を掛けようと追う。だが、彼はどんどん離れて行ってしまう。手は届く距離ではないし、声も届かない。焦ってレモンを落としたヴォイドは、慌てて拾い上げて前を見た。
 テオフィルスの横には、見た事がない女性が立っており親しげに彼の腕に自分の腕を絡めていた。
「…てお」
 今の生活は辛くないよ。
 楽ではないけど、誰かと一緒に生活するのはやっぱり寂しく無いよ。
 時々言葉足らずでしっかり伝わらなくておかしな事になったりするけど、それでもやっぱり一人でいるより辛くないよ。貴方と居た時もそうだった。
 ──言葉足らず
 それは重りのようにヴォイドの心にのし掛かった。
 何で傍に居た時、ちゃんと伝えなかったんだろう。面と向かってちゃんと貴方に「ありがとう」って言っていなかった気がする。
 そう思いまた彼の元へ駆け出そうとして、彼の横で笑う女性の姿を見て足を止める。
 何の関係も無かった自分が今彼の近くに行ったところで、何を言えば良いのだろう?
 急に居なくなっちゃったけど心配しないで?
 或いは、ちゃんと生活出来てるよ?

 そもそもそれ、伝えたところでさして心配も何もされていなかったらどうしよう──?

 ヴォイドは黙ったまま逃げる様にその場を後にする。テオフィルスはテオフィルスで、ロードはロードで二人とも傍にいると安心感を得られる事に気が付いた。その安心感は恋慕の情と言うよりはやはり岸壁街の下層と言う、おそらく似た境遇であろう同年代の彼等に感じるシンパシーに近い。きっと二人とも同じ様な話題で、同じ様な恐怖を共有出来る存在。
 地上の子供では決して理解しえない、岸壁街の子供だったからこそ感じる、世界へ大人へ恐怖したからこそ分かり合えるもの。
 でも、それを免罪符にまだ子供のままの様な感覚でいる私は今きっと誰とも何とも釣り合わないのだろう。もう皆、子供では居られない。年齢もあるだろうが、私より早く大人になった。
 少なくとも今のテオフィルスを、自分の幼稚な甘えで縛ってはいけない。彼は私のお兄ちゃんでは無い、私が『そうであって欲しい』と勝手に思っていただけ。彼にだって彼の道があって、彼は自由に一人でそこを歩む権利があるのだ。
「違う…、違う、そうじゃない…」
 そんな長く捏ねた屁理屈が理由ではない事くらいヴォイドも分かっている。ロードの手を取った時から脳裏に焼き付いて離れなかったのはあの時のテオフィルスの顔だ。
『お前はコッチの仕事はするなよ』
『ヴォイドには向いてねぇって。色んな女を見てる俺が言うんだから間違いねぇよ』
『だから、これからも上手いことやって生活してけばいいじゃねぇか』
 そう言われたのに、そう言う道を進んでしまった。それだけでなく、仕事である筈のロードから向けられる物に居心地の良さを感じてすら居る。にも関わらず、時折何も言えずに出て来てしまった後悔からかテオフィルスの事を思い出す。
 そんな中途半端な今の自分を見たら、彼に幻滅されるのではないか。汚いと思われるのではないか。
 折角見掛けたにも関わらずヴォイドがテオフィルスに声を掛けられなかった理由はそれだった。
 ああ、私は彼に幻滅されたく無いのだ。『心配しないで、元気にしてるよ』そう言いに行って『さして心配などしていなかった』と言われるのが怖いのだ。
 私は自分が傷付きたくなくて結局全部に甘えているのだ。

平穏、暮色に消えて

 岸壁街の地獄の底を根城にするその男は久々の息子の来訪に喜んだ。息子──ロードは少し緊張した面持ちで微笑む。ボスはそんなロードを見て笑いながら彼の背中を勢い良く叩いた。
「そう緊張するな、ロード。久しぶりに親父に会うだけじゃねぇか。改まった畏まった態度取りやがって」
「…うふふ、貴方の威光はこの岸壁街ならどこまでも届きますから。然しもの私も縮み上がりますよ」
「何言ってんだ、取って食おうって言ってんじゃねぇのにな」
「親子って、ましてや父と息子なんてそんなものじゃないです?普通なら」
「相変わらず在り方に変な拘りがあるなお前は」
 ははは、とボスは笑う。続く様に笑うのはギデオンとキンバリー。ロードもその場を取り繕う様に笑顔を見せた。昔から気を付けている事の一つが笑顔だった。彼等と居ると笑顔になる事が多い。だがそれは、相手を安心させたり嬉しい、楽しいと言う前向きな気持ちからなどと言う柔らかい理由では断じてない。今から地獄を見る気分はどうだ?と相手を絶望の淵に叩き込む為に見せるのが彼等の笑顔だ。
 このコミュニティにおける笑顔とはそう言う事。そしてロードも、空気を読んで破顔する術を幼い頃から身に付けていた。
 さあ、ここだ、笑え。
 タイミングを見て同じ様にしていれば、波風は立たない。
 ニヤリと笑みを見せると、ボスは目を細めてそれを眺めた。
「ははっ…相変わらず粘着質な笑い方するな、お前」
 満足気にそう言うが、養父のその言葉にロードは少しだけ笑顔を固くする。
「まあ良いじゃねぇかボス。ここでやってく奴が爽やかな笑顔じゃ逆に怖ぇや」
「そうだぜ。ロードの笑った顔見たら大抵の奴ぁチビるから面白いぜ?」
 ロードは密かに顔を強張らせると、ガラスに目線を送り反射した自分の顔を確認する。生きて行く為に相手の望む反応を学習する。それを身に付けるのは苦痛では無かったし、今だって嫌だとは思わない。しかし、この普通の想いを自覚してしまった今、こうも思う。
 いつになったら自分は普通の笑顔で上手く笑える様になるのだろうかと。
「おい、ロード。何をボーッとしている?」
 ギデオンに声を掛けられロードはそちらを向く。何でもないですよと返せば少し不思議そうな顔で彼を見返した。そんなタイミングでロードにとってあまり会いたくない男が部屋に入ってくる。男も気持ちとしては同じな様で、部屋に入って最初に目に入ったロードに対しあからさまに舌打ちをした。
「おやおや、相変わらず愛想が無さそうで何よりですロレンツォ。強面で売っている貴方には必要ない代物ですからねぇ」
「チッ…居たのかよロード…テメェは相変わらず誰彼構わず愛想振り撒いてるって聞くぜ?そんな派手にケツ振って誰にどうして欲しいんだ?お嬢さん」
「おいおいやめねぇかお前ら、寄ると触ると面白いくらい揉めやがって」
 しかしこのタイミングでロレンツォが何故来たのか。顔には出さないものの疑問を浮かべたロードはロレンツォの次の発言を呼吸もままならない心地で聞く事になる。
「ボス。例の野郎は沈めた。女も一緒にな。ま、ボスの娼館の女連れ出そうとした挙句これまでも下層の奴らの仕事をかなり弄ってくれたからな」
 それは、長らくロードと取引し、ヴォイドの動向や仕事回りを弄った上それを逐一報告してくれていた情報屋の男だった。彼は娼館で仕事をしていた妹と恋人を解放する為に動いていたのだが、結局動向を怪しんだボスに先回りされ先程全員殺された。確かに情報提供の都度毟る様にロードに金銭を要求していたが、なるほどそう言う事情があったらしい。
「ロレンツォ、奴の金回りは調べたか?」
 ギデオンの言葉にロードは顔を強張らせる。この状況下で自分が無関係では無いと気付かれたらどうなるか、それは子供でも分かる事だった。
「…ボス、アンタも何て返事が来るか分かってんだろ?あの男、かなり目立った動きはしてたがこの岸壁街できっちり帳簿付けてるわけでもねぇしな。少なくとも岸壁街内でしか動いて居なかったってのは確認済みだ」
「まあ、そこは期待していなかったから仕方ないな…一番の問題は奴の持ってた金だ。どうした?」
「それは他所に回る前に頂いておいた。洗えばもう奴の金じゃない。綺麗なもんだ」
 少なからずこの世界から逃げようとする者はいる。だが、逃げると一口に言ってもそのやり方は様々で、失敗すればこうなってしまう。ロードは少し目を瞑り彼に黙祷を捧げた。彼には助けたい人が二人いた。叶えられなかったのは残念だが、一時の付き合いだったとは言え危ない橋を渡ってでも夢の為に動いた彼を誇りに思おう。
 それでもやはり生きてこそ、なんだろうな。
 死んでしまったらそこで負けだ。
「ロード?どうした?」
「いいえ」
 岸壁街において、特に最下層でパワーバランスを崩すと言うのは死を意味する。バレていないからまだ良いものの、情報屋の彼がそうであった様に自分もバレたら安全で居られる保証はない。
 初めて彼女を見た時、こんなに我を忘れてしまうと思わなかった。彼女に敬愛の念を抱かれている人間が羨ましくて、彼女の傍に居たくて手を回し始めたら取り返しの付かない事までしていて。
 彼女からあの目で見られたい。きっかけはそんな些細なものだったのに、いつの間にか溺れて、溺れて。
 漠然と、欲しくなってしまった。彼女の全てを。そして今、それにより窮地に立たされているであろう事もロードは自覚した。
 ただでは済まなそうな恋ではある。
 まあ、良いじゃないか。一生に一度くらいそれだけ人を愛してみたって。
 『随分回りくどい女の囲み方するな…良いさ、俺もお前のお陰で危ない橋渡る決心が着いたよ。しかしまぁ…お前、死んだな』
 ロードの脳裏に初めて取引を持ち掛けた際に情報屋の彼から掛けられた言葉が浮かんだ。もう覚悟は出来ている。自分に取れる選択肢は幾つかあって、それは彼女と共に外で生きる事であったり或いは彼女を外の世界に逃がす事であったり。どちらにせよ今までした事を暴かれるだけで自分の身すら危うい状況なのは間違いない。まだ気付かれてはいないのだから、早く次のフェーズに移行しなくては。
 ヴォイドの事を思い出し、彼女の身の安全と置かれている状況にロードは少しだけ体を震わせた。甘くは見ていない。養子だから、養父だからなんて事はない。むしろそう言う関係だからこそ、この男の嫌う事をしたら誰よりも厳しく追求されるだろうと思う。しかし、ヴォイドを好きになった時点でロードにはもう今のやり方以外思い付かなかったのだ。

 * * *

 瓶にレモンと蜂蜜を漬けて数日。もう良いかな?と一つ取り出してヴォイドはつまむ。美味しい。色々な使い方が出来るちょうど良いおやつだ。そのまま食べるも良し、ジャムみたくパンやヨーグルトに添えても良し、お湯に溶かしても良し、ケーキにしても良し。自分はこの味はどちらかと言うと好きなのだが、ロードは好きだろうか。折角一緒に居るのだから美味しいと思える物は共有出来たら嬉しい。まあ、口に合わないと言われたら自分一人で美味しくいただくから良いのだが。
 あれから何日か一人で過ごしてみてヴォイドは色々と考えた。テオフィルスの事、ロードの事、あらゆる事でモヤモヤしていたのだが、ヴォイドはそれをどうしても晴らしたくなった。自分が居ない今、テオフィルスが何を思っているか。ロードのこの行動の真意は。聞くのを放棄して頭の中で推量したって答えは出ない。
 今はロードの優しさが温か過ぎて、切なくてモヤモヤする。いつのまにかその優しさを彼の本心からでは無いかと期待してしまっている身としては、このモヤモヤを晴らす為に早く真意を聞きたかった。
 彼を待っている間、一日一回蓋を開けては我慢しきれずレモンを少し味見する。毎日少しずつ甘みが染みている気がする。
「ん…?」
 夕方頃、ガチャリと音がしてドアが開く。一週間ぶりに帰ってきたロードは少し顔色が悪かった。ヴォイドはそんな彼の姿をじいっ…と見つめる。声を掛けるといつもより数秒遅くロードは反応した。ヴォイドの姿を見、にこりと笑う。しかしやはりどこか元気が無かった。
「ロード…?」
「ああ、すみません。やはり一週間も離れると言うのは少し辛いものがありましたね。ところでヴォイド、私が留守の間変わった事は何もありませんでした?」
 すぐにヴォイドに駆け寄りぎゅうっ…と抱き締める。何かあったのか、その手は震えていた。
「それは無いけど…ロード、大丈夫?」
「…何がです?」
「何か…いつもと違う気がして…」
「そうですか?いつも通りじゃ無いでしょうか…?」
 そうなのかな?
 ヴォイドは小首を傾げて考えるが、疲れているだけかもしれないからそれ以上は言及しないでおこうと思った。ロードから離れてレモンの蜂蜜漬けを冷蔵庫に置きに行こうとしたヴォイドは腕を引っ張られる感じがして振り返る。その拍子に瓶が手から転がり落ちてとすんと音がした。ロードは暗い顔で彼女の腕を引いていた。
「ロード、どうしたの…?」
「…ヴォイド、私が留守の間本当に何も変わった事はありませんでしたか?」
「無い…けど…」
「では、この手の怪我は何です…?」
「あ、それ…」
 ヴォイドはロードに彼の留守中一度だけただの気分転換で無く買い物目的で外に出た事を話した。そしてパルクールで所謂壁登りの技である『ダイノ』をやろうとして失敗した事、そして中層に向かった際テオフィルスを見掛けて声を掛けようとしたのだが、叶わなかったのでそのまま帰った事を話す。
 ロードは見る見る顔を青くして行くが、ヴォイドはそれに気付かなかった。
「あのね…私、ロードに話したい事があって──」
 ヴォイドのその言葉は、彼女を強引に抱き寄せたロードに遮られる。衝撃で顔を顰めた彼女は言葉を詰まらせた。目の前に居るロードは酷く青い顔で、そして酷く生気のない目だった。
「…ヴォイド、仕事です」
「え?」
「私は今貴女を抱きたくてしょうがないんです。でももし嫌なら、テオフィルスのところに戻りたいのなら、私を殺すつもりで抵抗してください。…私は貴女を犯すつもりで追います」
 ぐっと強く肩を掴まれヴォイドは目を見開いた。ロードは急にどうしたのだろう?何か誤解されている気がする。まだ話したい事も話せていないのに。
 ──しかし、これがもしかしたら彼の答えなのでは無いか。
 ヴォイドが聞きたかったのは、ロードがどう言うつもりで自分を傍に置いているかだった。彼は無理強いをしない、仕事を強調しない。居心地の良い空間だったから、もしも彼が仕事と言う認識で居ないのなら彼ときちんと向き合って生きて行くのも良いのかもしれない。
 でも、彼は今はっきりと「仕事」だと言わなかっただろうか。
 ヴォイドの頭に金庫の通帳が過ぎる。忘れようとしていたのに、その存在感を増している通帳。それは二人でいる時間が仕事の一環である事を告げる何よりの証。
「や、嫌だっ!話聞いてロード!聞いてってば!」
 我に返ったヴォイドは強い力での平手打ちを彼の頬に食らわせる。ロードの頬は衝撃で赤くなった。一瞬心配したヴォイドが彼の顔を覗き込むと、彼は口元だけに携えた笑みを彼女に向けた。
「…良い平手ですね。やはり嫌がるならそのくらいでなくては」
「ち、違う…!嫌がってなんか…」
「おや?嫌だとそう言っているのに?」
「…それは、そうじゃない…!」
「……貴女は彼のところに戻りたい、私は貴女を抱きたい、貴女を抱いて安心したい。今それが全てじゃないんですか?」
 目が全く笑っていない、口元だけの貼り付けた笑顔。急にそれが怖くなりヴォイドは背を向けてロードから逃げようとするも、彼に後ろから羽交い締めにされ身動きが取れなくなる。手も足も満足に動かせずベッドに押さえ付けられる。不意に耳元に口付けられてヴォイドの体から一瞬力が抜けた。
 それは凄く優しくていつもと変わらないものなのに、今のこれは何が一体どうなっているのだろう?
「ロード…っ!やめ、やめて…!嫌だぁっ!!」
「ヴォイド…どこにも行かないでください…私の傍に居て欲しいんです…!貴女が居ない世界なんてもう考えたくないんです…!」
 居なくならないよ。どうしたの?急にどうしてそんな悲しそうな顔になってしまったの?留守をしていた一週間の間に貴方に何があったの?
 そんな疑問も彼に掛けられそうな言葉も、『仕事』の二文字に消えてしまう。獣の様に激しく自分を求めるロードの手はそれでもやっぱり優しくて、だから悲しかった。

物言わぬ者達

 ヴォイドが背を向けたのを良い事に、後ろから彼女を羽交い締めて覆い被さる。彼女が悲鳴をあげているのも泣いているのもわかっている。それでもどうしようもなく体は反応してしまうから自分もつくづく欲望に忠実だとロードは思った。
 性急に彼女の下着をずらす。ヴォイドは何をされるか察して青ざめた。ロードはいつの間にゴムを着けたのか加減せずに腰を進める。普段と違い十分に湿り気を帯びないそこへの進入はそれを受け入れるヴォイドもロード自身も痛みを伴った。
「ああ…すみません、濡れるのが待てなくて」
「いっ、痛い…やだ…!」
「…なら、いっそ殺すつもりで来て下さいよ…今はそんな気分なんです…」
 後にも先にもこの時だけだった。ロードが同意無しの女性に暴行紛いな事をしたのは。
 ベッドが軋む音が鳴る度、段々とヴォイドの悲鳴が涙をすすり上げる声に変わっていく。腰を振るロードの動きも律動的になっていく。ヴォイドの後頭部しか見えない状態でそれでも彼女の全てが愛しいと思った。

 ボスは言った。
「そう言えばあの女雲隠れしやがった」と。
 それが誰の事を指すのか、ロードは直ぐに分かってしまった。青と緑の混じった様な珍しい良い色をした目の持ち主で、なかなか器量良しな女であると。基本的に女性から働きたいと言われれば受け入れる体制だった筈のボスの娼館で珍しく彼が「そろそろ話を持ち掛けて無理矢理にでも連れて来い」と言った彼女。ボスは彼女にえらく執着していた。
「…見付けたらどうするので?」
 ロードが聞くと、「そいつが今どんな状況であってもウチで囲う」とそう言うのだ。
「…そんなにボスが執着する程魅力的な女性ですか…なら、私も是非御相伴に与りたいですねぇ…」
「おいロード、本気か?」
「おや?ギデオン、私が冗談でそう言っていると?ボスの女性の趣味はなかなかに私の趣味と合ってましてねぇ…『親子だから』なのでしょうか?まだ幼いにしてもボスを魅了する、そんな女性がいるのなら、私も最近ご無沙汰だった遊びも再開するかもしれませんねぇ」
 ボスの喜びそうな事を敢えて口にする。ボスは一瞬目を見開きふんと鼻を鳴らすと何とも煮え切らない返事をした。
「…あの女をな、欲しがってる奴が居るんだよ。シュエリオ大陸戦争の最中にな、ある男が目を掛けた女が身籠ったって言うんだ。ただ、どう言うわけかその女は身籠ったままどさくさ紛れに大陸を出たんだと。そのまま消息は分からなくなって居たが…その女の目は珍しいものだったらしくてな。それをして血の繋がった我が子の可能性を求めて保護目的で囲えってんだ。まあ、本当にその男の子供かどうかすら怪しいがな」
「それでその少女の身柄を?」
「…ああ。だが、くれてやる気は無ぇ。この岸壁街で産まれた人間は髪の毛一本まで俺のものだ。俺の街の血液たる人間をそう易々とくれてやるかよ」
 ヴォイドを取り巻く状況は彼女の知らないところで大きくなっていた。彼女を求める国外の人間、保護の名目で彼女を確保したい組織。それを元に動かしたいのは金。
 聞けば男が彼女を求める理由は「愛した女性と同じ目を持つ女性だから」の一点だと言う。つまり、彼女が本当に血の繋がりのある我が子である必要は無いと言う事だ。血脈を絶やさぬ様、なんて理由はそこにはない。その目を持つのが男性ならば必要なかった様だから。ただただ愛していたのに手に入れられなかった女性の代わりが欲しいだけ。ヴォイドを通じてその女性の面影を求めて居るのだと思うとロードの背筋を言い様の無い嫉妬と悪寒が走る。
 実父と言う男と大陸に渡るのも、それを元に金を儲けたい人間の手に落ちるのも、どちらに転んでもヴォイドの為にならないだろう。
 ロード自身、全て白日の元に晒されたら身の危険があるのは確かだ。そして今のヴォイドの状況。少なくとも熱りが冷めるまで彼女の身を守らなくてはならない。
 情報屋の男も死んだ。今、彼の金回りは大層怪しまれている。そして前々からボスがヴォイドを狙っており、彼が彼女の自由を奪おうとしていたタイミングで間一髪自分が彼女を囲った。どちらも今ボスが一番片付けたい問題。そしてどちらの渦中の人間でもある自分達。
 最早追われる身になったとしても生きる為に岸壁街を去る事すら念頭に置いて動かねばならない。
「ロード、お前は見た事のない女だろうが…よく見ると目の色が特徴的な女でな。見方によって色が違って見える、珍しい目をしている。見付けたら連れて来い」
「ええ…分かりました」
「お前は俺を裏切るなよ?絶対に連れて来い」
「…ええ、必ず」
 組織の人間が血眼になって彼女を探し始めるのは時間の問題。きっと彼女はそのシュエリオ大陸に居る依頼人を強請る為の人質にされる。隠さなくては。見付からない様に。そうして守らなくては。
 それが今自分に出来る事なのだ。
 考えれば考える程頭の痛い話だ。
 彼女をどうにかして守らなければ。彼女の居ないところでそう思えば思うだけロードは神経を擦り減らした。早く家に帰って彼女の安否を確かめたい。彼女の顔を見て、体温を感じて安心したい。こうしている間にも自分と彼女の居住地を発見されて、彼女の身が危険になる可能性がと考えると離れている間ロードは気が気ではない。
 一週間家を留守にしている間、ヴォイドが与り知らないところでロードは追い詰められていた。
 彼の暴走の引き金となったのは、彼女が外に出て怪我をした事とテオフィルスの傍に行こうとしたと告げられた事。
 偶々自分が手を回して仕事を持ち掛けた事で運良くボスの思惑通りに行かずに今を迎えている。ならば守り切りたい。仕事と言う枷を使って彼女から自由を毟り取る形になってしまっても。彼女を取り巻くあらゆる事を知ってしまった今守る以外の選択肢はロードに無い。例えそれが歪んだ形の守り方だとしても。

 背を向ける彼女を羽交い締めにしたロードは腰を動かしながら彼女の背中に、肩に、マーキングでもするかの様に鬱血痕と歯型を残す。まるで獣の様に激しく動き続けていたが、一際大きくびくりと動くとしばらくして今までの荒々しさが嘘の様に優しく彼女を抱き締めた。
 自分の手で彼女を抱く時、本当は仕事だなんて言葉を使いたくなかった。それを言ってしまったら、ギリギリで保っていたこの関係の純粋な部分を全部失くしてしまう気がしたのだ。
 それでも、敢えて強調してでも使った理由は偏に彼女を外に出したくなかったからだ。ボスやギデオン、キンバリーは仲間であり、自分を育ててくれた恩人でもある。だが、それ以上に大切に思うものが出来た今、それを脅かそうとする彼らは恩人であり敵になった。
 このやり方が正しくない事は分かっている。だが、ボスにどこまで掌握されているか分からない今、これ以外には無いのだ。
「ヴォイド…?」
 絶頂を迎えて冷静になったロードは、ヴォイドがピクリとも動かなくなってしまった事に気が付いた。慌てて彼女の体を抱き起こすと、彼女は気絶しただけらしくロードはほっと胸を撫で下ろす。抱き起こした時にうなされている様な声を絞り出したヴォイド。喉が掠れた様なその声が漏れたのを聞き、相当な無理をさせた事にロードは気が付いた。
 彼女の頬を伝う様に残る涙の跡。
 体中に残る鬱血痕と歯型。
 掠れた声。
 泣いて嫌がる姿をしっかり見ていたら、どこかで正気に戻って自分の行為を止められたかもしれない。もっと優しく出来たかもしれない。顔が見えないと言うのは、人から歯止めを利かせようとする感覚すらも取り払ってしまうのだ。
 頬に手で触れ、涙の跡をなぞる。彼女を感じて不安な気持ちは少しだけ和らいだ。だが、罪悪感で胸が軋む。
「はぁ…やはり、バックはあまり好きじゃないですね…」
 ロードは誰に聞こえるでも無くそう呟くと、ヴォイドの体を抱き締めて眠りに就いた。

 次に目を覚ました時、二人の間に大きな溝が横たわる。その溝は日毎大きくなり体を重ねても埋まるものでは無く、そしてヴォイドはこの日を境に感情の起伏を少し抑えて喋る様になった。
 ロードはそんなヴォイドを見て、これ以上彼女の心を掻き乱す要素は出したくないと諸々を自分の胸の内だけに留める事にした。

日輪未だ見えず

 時が経つのは早いもので、気付けばラサム暦2164年。俗に言う愛の日の次の日でもあるこの日だが、もとより岸壁街にあまり浸透していない文化でもあり、この地に住む殆どの人間には昨日は何の変哲もない普通の日だった。
 ヴォイドはベッドの上で体の気怠さを感じながら目を覚ます。ベッドの隣にも部屋の中にも誰も居ない。
 何も身に纏っていない格好では見た目が寒いので、ゴソゴソと引き出しを漁るとガウンを取り出し軽く羽織る。そして玄関口に近付くと、虚ろな瞳で見つめながらノブを回す。案の定、ドアは開いてはくれなかった。
 ヴォイドはふぅと溜息を吐くとベッドに戻って暖かい布団に潜り直しゴロゴロ動き回る。虚無の瞳で天井を見つめていると、ガチャガチャと音を立てて玄関が開き、ロードが帰って来た。
「おや?ヴォイド、起きていましたか」
「うん」
「うふふ…昨日は愛の日の名に相応しくなかなか濃厚な一日を過ごせて私は満足でしたが…貴女には無理をさせてしまいましたね」
「別に良いよ。それが仕事だし」
「……だから今日は貴女の好きなものを作ろうと思って買い出しに行って来たんです。ぐっすり眠っていたので起こさず行きました。隣に私が居なくて驚きませんでした?」
「ううん。だって、黙って居なくなってもとりあえず帰ってくるでしょ?鍵も掛けられてたし」
「ええ、そうですね」
 今日は野菜が安かったんです、とこぼすとロードは手際良く材料を調理し始める。ヤサカと出会ってから始めた料理はいつのまにかロードの趣味になっていた。温めるだけのものやインスタントのものもあって三十分足らずで何品か用意をし、テーブルはあっと言う間に料理で埋まった。
 呆けてそれを見てはいるが、においにつられたのかヴォイドのお腹がぐぅと音を鳴らす。
 ロードはそれを聞いて嬉しそうに目を細めると、椅子を引いて彼女を座らせた。エスコートされるがまま座るヴォイドは一瞬頬を赤らめたが、すぐいつもの調子になる。
「いただきます…」
「はい、いただきましょう」
 黙々と食べ進めるヴォイド。彼女はよく食べる女性だった。あの日以来あまり感情を表に出さなくなったが、食事をする時は幸せそうに食べてくれるので都度ロードは胸を撫でおろす。彼女の食べる姿すら愛おしくて、食べている彼女の腕を悪戯する様につんと突いてみる。ヴォイドは一瞬食べる手を止めると、虚ろな目でロードを見た。
「何…?」
「いいえ…?」
「…仕事?」
「……いいえ」
「ふーん…」
 二人の距離は少し離れて居た。それこそ少し前にあった、あと一歩で恋人になり切れない様な仲の良さが見えなくなるくらいには。ロードはヴォイドに努めて優しく接しようとするが、ヴォイドはそれら全てに「仕事か」と返す様になった。
 彼女がロードと共に生活を始めて以来ずっと忌避していた単語を彼女は臆面もなく口にする様になっていた。
「美味しかった」
「それは良かったです」
 満足満足、とベッドに横になりうとうとする。ソファーに腰掛けたロードは「食べてすぐ横になると牛になっちゃいますよ?」と揶揄い気味に言った。ヴォイドは食後のこのゆったりした時間は嫌いではなかった。誰かと一緒に食べ物をシェアするのは好きだ。そして一緒に食後に微睡むのも好きだ。
 だからこそ、この安らぎに慣れ過ぎてそれら全てが実は幻でした、なんて事になるのが怖くて、急ブレーキを踏んで現実に戻ってくる。ふと目を開ければいつの間に来たのかロードが横で寝ていた。ほんの一瞬でも眠って居たらしい。ヴォイドはロードが隣に来た事も気付かなかったし、自分に布団を掛けてくれた事にも気付かなかった。
 彼の優しさは痛い程感じている。自分を大事にしてくれている事も、この状況の異常なまでの優遇っぷりも。それでもきっとこれも「仕事」。
 そう思わないと、初めから諦めて居ないと、期待した上でどん底に落とされるなんて嫌だ。ロードの様子がおかしくなったあの日、ヴォイドは消滅の神様の存在は決して嘘ではないのかもしれないと思った。あの時身が裂かれる程心が痛かったから、もうこれ以上そんな思いはしたくない。
 だからもう、ロードとの事は仕事であると割り切らないと。
 目を覚ますと、隣にロードは居なかった。
 彼は煙草を吸う為に換気扇の近くに居た。ほっとするのと同時にまた寝てしまった事に気付く。こんな風に変に寝て今夜は寝られないのでは無かろうか。
「うふふふ、よく眠って居ましたね」
「うん…」
「やっぱり、昨日は疲れたのかもしれませんね」
「そうなのかな…」
 じぃっと煙草を吸うロードを見つめる。そう言えば彼はいつから煙草を吸っているのだろう?煙草ってどんな感じなのだろう?
「ねぇロード」
「はい?」
「私も煙草吸えるかな?」
「んー…煙草を吸う女性のシルエットは格好良く見えますけどね…極力貴女はやめておいた方が良いですよ、私もやめようと思ってますし…」
「何で?」
「肺の機能は落ちますし嫌いな人からは臭いと文句を言われてしまいますし、何より定期的に買うとお金が掛かります」
「…そんなに分かってて何でロード吸ってるの?」
「…口寂しさには勝てないものなんですよ」
 ロードは灰皿に押し付けて火を消すとヴォイドのいるベッドに近付く。そして彼女の横に腰掛けるとじっと見てくる彼女の頬に手を添え顎を指でくいと持ち上げた。真っ直ぐな瞳で見つめてくるヴォイド。ロードは一瞬何かを考えたがすぐに少し寂しそうに笑い、彼女の唇を指でなぞった。
「…艶々して、綺麗な唇ですね」
「ありがとう…」
「そのままでも十分魅力的ですから、煙草を咥えなくてもセクシーですよ」
「ねえ、煙草の味ってどんなの?」
「よく苦いって言いますよね」
 そう言えば煙草を吸う人間とキスをして「苦い」と表現するのはポップスの歌詞の言葉の選びでよくある。娯楽としての音楽にはそれ程詳しくは無いけれどそれだけは知っている。そうヴォイドが告げるとロードはまた寂しそうに笑った。
「では、本当の意味でヴォイドが私無しで居られなくなったらその時はキスしましょう」
「な…にそれ…」
「おや?キスしてみたいとかそう言う意味で言ったのでは無いので?」
「別に…そんなつもりないし…!」
「うーん…これは私の都合ですが…今したら決意が揺らぎそうなので楽しみに取っておきましょう。うふふ、その時を夢見ていても良いですかね?」
「私別にしたいなんて一言も言ってないけど…!」
 仕事だって言ったり全然違う事言ったり。
 ──こんな風に揶揄ったり。
 兎にも角にも、ロードにとってキスをすると言うのは特別な事であり、今の自分としようと思って居ないのだ。ヴォイドにはそう感じられた。ヴォイドはにこにこと会話を交わすロードに見透かされている様で少し身構える。そしてそれ以上今は突っ込んで聞かない様にしようと口を閉じた。
 そんな思いを抱えられているとは露知らず。ロードはロードで、きちんと問題が解決するか安全で心配が無くなったら彼女にちゃんと全てを話そうと思っていた。そしてそれキスはある種の験担ぎとして、今叶えずにとっておこうと思ったのだ。

 * * *

「では、行って来ますね。今日はいつもの店で料理を教えてもらうつもりなので少し遅くなります。冷蔵庫には色々入ってますから、温めて食べてください。夕飯は一緒に食べましょう」
「うん」
「危ないですから、くれぐれも外に出ないでくださいね?この部屋から出てはいけませんよ?」
「…うん。どうせ出られないし…」
 自分達が生活を始め、初めて年を跨ぐ前後で本当に色々あったとロードは思う。どろどろとした自分の嫉妬心から始まった恋を、きちんと相手が愛しいと自覚するまで育て上げられた数ヶ月だったし、ヴォイドを取り巻く色々なものが見えて来たのもまた然りだ。それから一度自分を抑え切れなくなり彼女に乱暴紛いな事をして以降行為の度に努めて優しく彼女を抱いたが、やはり彼女の何かを諦めた様な態度は変わらなかった。そしてそんな彼女を見る度に、安全が確保されない限り下手に話を漏らせば何もかも失う事になりそうで恐ろしかった。
 ロードは思案する。あの様子、ボスはもっと前から何らかの形でヴォイドに目を掛けていたと思われる。それが「金を成す」頃合いまで育っただけ。
 彼女を囲ったタイミングで、周りが恐ろしく動き始めただけ。人や物の縁と言うものは噛み合う時はこれ程までに恐ろしく噛み合うものだ。
 ロードは部屋から出ると鍵を掛ける。これはよくある普通の鍵だ。その後、部屋の外側には本来付けない物に触れる。
 錠前だった。これは、ヴォイドを外に出さなくする為のもの。一番簡素な作りのものだが、それを掛けると更にロードは廊下の壁と同じ色合いのベニヤ板を被せた。上手く合わせてやれば、一見するとこんなところに部屋があるだなんて分からないただの廊下が出来上がる。その出来を確認するとロードはやっと部屋から離れる。ここまでしても安全とは言い切れないが、それでも自分は何食わぬ顔で日常を送らなくてはならない。彼女の自由をただ侵害しているだけだと思われたとしても。
「でさ、その女ってどんなん?」
 ヤサカに声を掛けられロードはハッとする。そうだ、今日は彼の働く店で夕食を摂って話をして居たのに。今まで何の話をしていたか、瞬きをする僅かな時間で何ヶ月も時を超えた様な気持ちになった。
「…すみません、何でしたっけ?」
「だからさ、お前の料理始めた理由になった子だって。そんなに良い女なわけ?」
「…ええ、それはもう」
「ふーん。店とか行かなくても満足出来るんだね、その子がいれば」
「そうですね、彼女は私の渇いたものを潤わせてくれるので…」
 今や自分だけしかその感情を抱いて居ないとしても、愛を信じたく無かった自分が愛情を注ぎたいと思える存在。自分の中の枯渇して居た他者への愛情を湯水の如く湧かすのが彼女なのだ。ロードは嬉しそうに口角を上げた。
「ああー…うん、ナルホドねー。乾く暇無ぇって事か…そりゃあまあ、お盛んなこって…」
 しかし、ヤサカには歪曲して伝わった様で。下品な解釈違いは起こるし勝手に引かれるしでロードは一瞬こめかみに青筋を立てながらも「まあそう聞こえなくも無いし強ち間違ってもいないか」ととりあえず怒りを引っ込めた。
「それにしてもさ、お前最近顔色悪く無い?」
 不意にヤサカにそう言われロードは真顔になる。ヤサカに気付かれるくらい表に出してしまっていた様だ。少しだけ見せた動揺は、上層の方が馴染みがあるとは言え岸壁街の住人である彼には見抜かれた。
「…無理はすんなよ」
「ありがとうございます」
 カランと音を立ててドアが開き、男が一人店に入る。ヤサカはそちらを向くとお冷を手に席に案内した。しかし男は「連れがいる」と言って空いている席に座らず、ロードと相席する。
 その瞬間、ピリリと店の空気に緊張が走った。
「よぉ、ロード・マーシュさん?」
「その節はどうも」
「ウチのマルゴに依頼に来てくれた時に顔合わせたきりか。この店は安全なのか?」
「ええ。今日ここに居るのは私と貴方と…店主とそこの金髪の彼だけです」
 ロードと対面した男はビールを頼むと難しそうな顔を彼に向ける。何故ならロードの組織とこの男の属するグループは決して敵対しているとは言わないが、少なからず互いに監視し合う様に拮抗していたからだ。
 ロードの目の前に座る男。彼はクラッカー集団の元締めだった。

泣いた強がり屋さん

「改めまして、『サントル・オルディネ』のロード・マーシュと申します」
 サントル・オルディネ。
 その名前を聞いた男は溜息を吐く。岸壁街を牛耳るギャング集団であり、彼等裏家業の人間に一番揉め事を起こしたくないと思わせる面々だった。造語ではあるが、サントルは『繁華街』を、オルディネは『秩序』を意味している。我々がこの街の秩序であると名前がそう訴えているのだ。
 おそらく岸壁街で一番の武闘派である組織であり金回りも良い。噂では、過去にただの犯罪組織と思えないくらいの軍事力を有していたとも言われている。今は定かではないが、少なくとも金がある時イコール力がある時と言うくらい金によって絶大な強さを誇る。故に娼館や薬など金になる商売を岸壁街ここで見掛けたら必ず裏に彼らが居ると思って良い。
 そのくらいの連中だ。
「ああ、そう構えないでください。私なぞカポ・レジーム…幹部とは言え名ばかりの様なものですから」
「…とは言え曲がりなりにも幹部様から直々に頼まれたとあっちゃ俺が出ないわけにいかねぇだろうよ」
「それはそれは、お心遣い痛み入ります」
 元締めの男は鞄を取り出す。ロードは少しだけ構えたが、男はそんな彼を特に気にする事もなく鞄から目当てのものを取り出した。
 それは偽造されたパスポートと身分証だった。貼られている写真はヴォイドのもの。これは、カンテ国民コードを持たない彼女を非合法ながら確実に岸壁街の住人から一般人にする方法。海外からの移民だと言う前提を作る為の準備だった。
「…偽造パスポート…なかなか精巧ですね」
「精巧じゃなきゃあんたが困るだろ?」
「ええ、それは勿論」
 元締めの男ははたと気がつく。頼まれたのは女性の分のパスポートだけ。目の前にいるロードの分は要らないのか?
 思うままそう口にすると、ロードは少し曇った笑顔を見せた。
「私は…恐らくあるんです」
「ある…?」
「私は三つの時にスラナからここに連れて来られました。生まれてそれまでは正当な手続き下の元過ごして居たのですよ」
「驚いたな…あんた連れ去りの子か?」
「ある意味では。私をここに連れて来たのは母です」
 第二の首都と呼ばれる、首都より人口の多い栄えた町。そこから幼少時に母親に連れて来られたと言うのは悲劇を想像するのに十分過ぎる材料だった。逆を言うとよくある話だ。
「…私はとりあえずそう言う理由で大丈夫なんです。それより、彼女です。これだけ精巧なら問題は無さそうですが」
「ああ。とりあえずパスポートも身分証もいけるだろうが…その後はどうするつもりだ?この嬢ちゃんだけじゃないんだろ?幹部の地位まで登りつめたそれ…棒に振るつもりだろ?」
 ロードは水を口にするとにこりと笑う。口にこそ出さないが、否定も肯定もそこに全部込められている気がした。
「お前さん、可愛くねぇ息子だと思うぜ」
 元締めの男にそう言われ、ロードは一瞬目を見開く。丁度ヤサカがビールを持って来たので、男はそれを喉に押し込む様にして飲む。そして再びロードに目を遣った。
「養子とは言えテメェの息子が女の為に自分のところから居なくなる…親父としちゃあこの上ない屈辱だ。俺が親父なら、こんな恩を売って得するか分かんねぇ野郎と取引した上出て行く算段まで立ててたなんて知ったら息子は生かしておかねぇな」
「…おやおや、流石岸壁街の人間ですね。生かすか殺すか、そんな極端な教育法だなんて」
「冗談言ってる場合じゃねぇぞ。俺んとこにもお前さんくらいの男が仕事してるけどな、親子の縁も無ぇそいつであっても生かしとこうとは思わねぇよ」
 店の空気は沈黙に包まれる。ロードは静かに笑うと男の全ての言葉を跳ね除ける様に口を開いた。
「彼女の居ない世界なら、死んだ方がマシです。経歴は…多少綺麗過ぎて怪しまれるかもしれませんが私は私で岸壁街の外で生活する為の手筈は考えています。私の様に国民コードを持ちながら岸壁街に転じた人間を、足抜けや堅気に戻る人間を全く受け入れない体制をこの国は取っていません。このカンテ国にも、異様に経歴の綺麗な・・・・・・・・・人間は少なからず居るんですよ。彼等は皆大体手続きが終わると『元行方不明者』として地方紙の隅っこに載るんです」
「……成程な」
「堅気に戻るなら国にも他の国民同様の扱いをする義務が生じます。そしてそうなれば、国民コード等から関係はすぐに炙り出されるのでこと岸壁街のゴタゴタした連中は簡単には手を出せなくなる。問題は、気付かれる前に手続きを終えねばならないと言う事です」
 喋り過ぎましたかね、と呟くロードを前にして元締めの男は、やっぱお前さん可愛くない息子だわと改めて口にした。

 * * *

 ガチャリとドアを開ける音が部屋に響く。ロードは中に入るとお湯を沸かしコーヒーを淹れた。そして煙草を吸いながらベッドに腰掛け、ゆっくりと一服する。
 机の上に元締めの男から受け取った書類を広げて眺めると、此処を出て行くと言う事実に現実味が増す。ヴォイドの顔写真が貼り付けられた偽のパスポートと身分証。そこには、彼女が産まれてからこれまでの時間をウクロイ国で過ごしたかの様に書き記されていた。
 偽りの記録でしか無いが、ウクロイ国民ヴォイド・ホロウが真実だとしたら、自分たちは一体どこで出会って居たのだろう?その時彼女はきっとこんな暮らししていなかっただろうから、苦しい事、辛い事を知らない、笑顔の彼女と出会っていたのだろうか。そしてそんな彼女を、自分は愛していたのだろうか。
 キッチンで数品おかずを作ると、未だ温かいそれをカバンに詰めて食器を片付け部屋を後にする。
 ある程度の生活の痕跡をそこに残すとヴォイドと暮らしている部屋に酷似した内装のその部屋の灯りは消え、また静寂に包まれた。

 * * *

 ガチャガチャと音を立ててドアが開く。ベッドに寝転がっていたヴォイドはぴくりと反応しそちらを見た。ただいま戻りました、といつもの調子で言うロードからは何だか良い香りが漂っており、それに気付いた瞬間ヴォイドのお腹が獣の咆哮を上げる。ロードはくすくす笑うと荷物を置き、鞄から温かいおかずを取り出した。
「うふふ、流石鼻が利きますね」
「牛乳焼き…」
「魚つくね焼きもありますよ」
「食べる…!」
「ええ、温かい内に食べましょう」
 机に並べるとヴォイドはワクワクした様にそれを見つめる。どうやら機嫌が良い様だ。続いてサッと海藻サラダを取り出したが、これを見たヴォイドは顔をすんっとさせたので何となく不発の予感がした。ならばこれはどうだろう?と言わんばかりにひき肉の卵包みを取り出す。するとヴォイドがまた少しにんまりしたのでロードはほっと胸を撫で下ろした。
 二人で夕食を囲むのはこれで何回目だろうか。いつもこの時間はほっとする。愛する人が隣で美味しそうにご飯を食べていてくれるその光景が幸せだった。
 夕食を食べ終えてすぐ、ロードが少しそわそわしている様にヴォイドには見えた。何だろう?と疑問に思いつつ彼の出方を待つ。ロードは少し顔を赤らめるとヴォイドの腕を優しく突いた。
「あの…ヴォイド」
「何?」
「浴槽洗って来ますから…一緒にお風呂入りませんか?」
「へ…?」
 ヴォイドは海藻サラダを見る目と同じ目でロードを見る。いつになくそわそわしているこいつは何だ?そんな顔で見ていると一度ぱちりと目が合うが、ロードはすぐに彼女から目を背けた。
「いつももっと過激な事してる癖に…」
「で、でもお風呂ってなかなか無いでしょう?お誘いするのに恥ずかしいものは恥ずかしいんです…」
「でも、何で急に?それもしご──…」
 仕事?と聞こうとしてヴォイドは口を塞がれた。ロードの唇で、なんてロマンティックな事はなく、彼の手で。しかし、顔が離れていたおかげでロードの少し泣きそうな、寂しそうな顔が見えてしまいヴォイドも素直に口を閉じた。
 いつのまにか一番嫌だった「仕事」の単語を躊躇わず口にできる様になっていた。それでも今また彼の顔を見て、少し躊躇いが生まれた。
「違います…だから断ってくれても良いんです。改めて、一緒にお風呂入ってくれませんか?」
「嫌じゃ無いから良いけど…」
「良かった…では、浴槽洗って来ますね」
 誰かと一緒に生活をする安らぎや楽しさはよく知っている。テオフィルスと一緒に居た時も、彼と居た時が一番安心出来た。だから本音を言えばそんな生活が出来る今だって「仕事」の二文字は極力使いたくないのだが、気を許した瞬間にまた悲しい事が起きる気がしてヴォイドは諦める術は身に付けてしまったのに、いざと言う時に一歩を踏み出す術は少し忘れてしまっていた。

 いざ一緒に風呂に入ると恥ずかしいやら。
 決して一人で入るには小さく無いのに二人で入るには小さい浴槽で、ロードはヴォイドを足の間にすっぽり収めていた。目の前にはヴォイドのうなじ。数ヶ月前無理矢理彼女に迫り、付けてしまった歯型や鬱血痕はすっかり消え去りただ白く美しい肌がそこにあるだけ。
 時間は緩やかながら確実に過ぎている事がよく分かった。
「痕…消えましたね」
「え?何の痕?」
「…私が少し前に付けてしまった痕です…」
 ぎゅうっと後ろからヴォイドを抱き締めるロードの手は震えており、ヴォイドは少しだけ変な気持ちになる。こう言う時のロードはどうしたら良いか分からなくて少し困る。何か難しい事を一人で抱えていそうなのに、言わないからどうして良いか分からない。
「…良いよ別に。体の傷は…生きてれば癒えるから」
「ですが…」
「それに、大体いつも優しくしてくれるし…」
 だからありきたりな事しか言えないが、それでも響いたらしくロードはそれを聞くと思い切りヴォイドの体を抱き締め、彼女の首に顔を埋めた。
 今ある幸せを実感したくて彼女を抱き締めたかった。案の定抱き締めたら涙が出て来てしまって、風呂場で濡れた体は目論見通り見事にそれを誤魔化してくれた。ロードはヴォイドに悟られぬ様彼女の肌に顔を埋めて泣いた。
 怖い。彼女を失うのが。
 自分が今しようとしている事は決して上手くいく保証は無く、準備している今ボスに動向を嗅ぎ付けられでもしたらと思うと恐ろしくて堪らない。失敗はこの生活の最悪な終わり方を意味するのだから。
「うふふ…何だか欲情してしまいました。このままここでするのも良いですが手の届くところにゴムが無いので……ヴォイド?」
 ひとしきり彼女に甘えた。落ち着いたのでいつも通りに努めて余裕そうにそう口にするが、ヴォイドは反応しない。途端に恐ろしくなり慌てて彼女の顔を手で自分に向ける。予想に反してぐったりしている彼女に慌てると、彼女は真っ赤な顔でぼんやりした目を向けていた。
「ヴォイド…まさか湯当たり…!?もしかして、お湯苦手なんですか…?」
「き、気持ち良いとは思うけど…」
 途切れ途切れにそう口にするヴォイドに少し力の抜けた笑みを見せながら、ロードは彼女を抱き上げ風呂を出た。

 大丈夫、きっと大丈夫。
 きっと無事に彼女を連れて岸壁街ここを抜け出してみせる。

強がりの指、増すばかり

 いつも通りの朝だった。眠るヴォイドの体に手を回し、体を寄せ絡み付くロード。ヴォイドは眠そうに目を開けるともう慣れた事の様に彼を見た。
「…何て目覚めだ」
「おはようございます、ヴォイド」
「おはよ……また朝から?」
「うふふ、朝は一番元気になるので」
 そう言って太腿を足で挟む様に絡み付かれ、何となく彼の言葉に納得する。ヴォイドは一瞬何かを考えたが、まあ良いかと言葉を飲み込んで彼を受け入れた。優しい手付きで触れられると安心する。やっぱりこれは仕事なんかじゃ無いのではないかと、そうであったら良いと思いながら目を閉じた。

「…そうだヴォイド、一つ聞いて良いですか?」
 まだ息も整わず額に汗を滲ませながらロードは口を開く。彼以上に息を荒げていたヴォイドは呆けながらそれを聞いていた。
「もし私が、『陽の光の当たるところで生活出来ます』と言ったら、貴女は生活するのにどんな部屋が良いですか?」
「…それって拠点を移すって事?私は着いてく前提なんだ?」
「ええ、こればかりは連れてく前提でお話してます」
 それは普段選択の余地を与えてくれるロードの言い回しにしては少し強めのものだった。ヴォイドは珍しいと思いつつ考える。どんな部屋と言われても、今までそう言う事に無欲だったので良し悪しなどすぐに浮かぶものでも無かった。
 それにしても、陽の光の見える部屋か…。
 ヴォイドは特に頭に浮かぶものがなく、眉間に皺を寄せながら考える。
「んー…すぐには浮かばないけど、今の部屋みたいなのだったらきっと過ごしやすい」
「うふふ、そうですか」
「あ、でも…あのソファーは欲しい。気に入ってるから」
「なるほどなるほど…」
 では、その様にしましょう。そう言うとロードは満足そうにヴォイドを抱き締める。が、抱き締められた本人は何が何だか分からないと言いたげな顔をした。
「…で?それが何なの…?」
「ん?ああ、ちょっと考えてる事がありまして」
「考えてる事?」
「ええ。貴女にどうしても伝えたい事が…近々ちゃんと話しますからね」
 そう言って音を立ててヴォイドの頬に口付けるロード。頬に、首筋に、胸元に、愛おしむ様に口付けると彼女の髪を撫でた。
「……もう一回…ダメですか?」
「………さっき、終わったとこじゃ…」
「うふふ、今日は調子が良くてですね」
「えええ……」
 ヴォイドを連れて岸壁街を出る。それを実行するまでもう少し。神経を擦り減らす様な毎日を送っているが、彼女を抱いている時だけそれを忘れられる。ロードが目の前にいるヴォイドへの愛撫に集中していると、「あ」と思い出した様な声を上げた彼女に手でゆっくり遮られた。
「わ、私も…話したい事があるの…」
「話したい事…?」
「うん…話したい事…」
「そうですか…お互い何か内緒の話を抱えて居た様ですね。では折を見てちゃんと話しましょうか」
 ヴォイドは安心した様に微笑む。ロードも彼女の笑顔を見ればここ数日の胃の痛む日々が少し報われる気がした。しかし、こんな時にタイミング悪くこの状況下で呼び出しを食らった。やっとヴォイドに話せる空気になったのに、とロードはカバンに服を詰めながら溜息を吐く。組織の内情や金銭の動き等確かに調べておいた方が良さそうなものはあったのでまだボスの居る事務所に顔を出さなければとは思っていたが、今回は仕事終わりの目処が立たないのでそれは少し痛い。
「正直見通しが立たなくていつ帰れるか…」
「良いよ。前から結構頻繁にある事だったし」
「すみません、ヴォイド。そこまで遅くならない様にしたいですが…もし私が帰る前に万が一食料が尽きそうな事があったら、その時は扉を蹴破ってでも買いに出てください」
「何それ…ちゃんと帰ってくるんでしょ?面倒だし、鍵掛けてって良いよ?」
「…そうですね」
 では、行って来ます。そう言って残る彼女を背に部屋を出るロード。何日空ける事になるのか分からなかったので流石に「外に出ないでください」とは言えなかった。食料が無くなったら彼女は飢え死にしてしまう。
 ドアを閉める際、ロードは振り返ってヴォイドを見る。ヴォイドは何故振り向かれたのか分からず頭に疑問符を浮かべながらとりあえずひらひらと手を振ってみる。ロードは嬉しそうににこりと微笑み、彼女に向かって控えめに手を振り返した。
 この日は、珍しく豪雨だった。

 * * *

「今月は契約違反者だけでもこんなにいるな」
「ははっ、本当碌でもねぇよここの人間は。借りたもん返さず踏み倒す事しか考えてねぇ」
 ギデオンとキンバリーが手に持つ名簿を後ろからロードは覗き込む。契約違反者だけで名簿の半分は埋まってしまっている。こんなにも借金を踏み倒そうとする者が多い岸壁街。にも関わらず商売を続けていられるのはやはりそこに法外な力が働いているからに他ならなかった。
「…で?今回の仕事はここにリストアップされてる人間を訪ねるんですね?」
「ま、そう言う事だな。ああ、リストの筆頭になってるアラン、こいつは駄目だ。店の金くすねようとしやがったからな。人体実験をやってる奴に丸々売り飛ばすか…臓器だけ売るか。俺の部下が今奴と平和的に・・・・交渉してるから解決は早いだろうが…」
 そう言ってギデオンはアランの名前にバツを入れる。キンバリーは別の女性の名前を発見するとくすくす笑い始めた。
「このエヴリンって確かボスが呼びたがってた女だな?病気のお袋さんと借金抱えて…ここでのテンプレートみたいな奴だな」
 どちらにせよ二人の会話からも分かるようにこの岸壁街で人の命や価値は驚く程に軽い。ロードは自分も連れてこられて直ぐ実感した事ではあるが、改めてそれを見て静かに嫌な顔をした。
「ここで一番重いのは誠意だ。そう思わないか?ロード」
「ええ、『誠意』と名の付く色々でしょうか」
 不意にキンバリーがロードに語り掛ける。ロードは相槌を打つとキンバリーに顔を向けた。しかし、続いて口を開いたのはギデオンだった。
「そうだな。『誠意』と言う名の金だったり、とにかく相手との力関係が明白になるものは重んじられる。勿論文字通りの誠意もだ。俺達・・にとって大事なのは面子だからな」
 ギデオンが口を閉じたすぐ後にぎし、と音を立ててドアが開かれ、ボスが部屋に入ってくる。それはまるで示し合わせたかの様なタイミングでありロードはそこに言い様のない気持ち悪さを感じた。
「ロード、裏切りはこの世界では大罪だ。そうは思わねぇか?」
 部屋に入って来たボスにそう言われ、ロードは無意識の内に部屋の中に逃げ場を探した。しかし残念ながら見付からない。ギデオン、キンバリー、ボスの三人が獲物を追い詰めんと布陣を敷いている様なこの部屋で逃げ場所は見付けられなかった。
 そもそも何故自分は急に逃げ場など探したか。答えはボスの次に発した言葉にあった。
「時にロード。お前に聞きたい事がある。お前は俺を裏切っちゃいねぇな?」
 ボスのその言葉を聞きロードの背筋を悪寒が走るが、努めて平静を装い向き直る。
「何の事でしょう?」
「…お前、あの女を見付けたら連れて来いと俺は言ったよな?」
「ええ、しかしボスから聞いた通りの珍しい色彩の目の女性はあの後も見掛けないもので」
「いや…ロード、お前本当は話をした時既にあの女を知ってたんだろう?」
「おや?何故そんな事を?」
「惚けるなよロード。俺はそいつの事をただ「女」としか言ってねぇ。だがテメェは「幼い」だの「少女」だの…何で見た事も無ぇ筈のテメェが俺の言った女がまだガキだって知ってんだ…?」
 ロードはその瞬間、頭が真っ白になった。
 次に遅れて感じたのは、頬への痛み。拳を入れられた感覚と、その力により体が衝撃で仰け反る感覚。呆けて防御も取れぬままただ殴られている。そう自覚した直後、今度は腹部に強い痛みを感じた。殴り倒した彼の腹に追い討ちを掛ける様にギデオンが蹴りを入れたのだ。
「うっ…ぐ…ぅっ!!」
 迂闊だった。迂闊が過ぎた。ボスの口からヴォイドの話が出たあの瞬間から口を滑らせたロードは怪しまれていた。
 あの時、ロードの放った一言の違和感を聞いて一瞬目を見開いたボス。彼はあの瞬間に疑いの目を向け、確信に変わるまで普段通り振る舞い自分を泳がせていたのだ。
「残念だなロード。あれから色々調べさせてもらったよ。色々調べたらなぁ、例の女は俺がテメェを疑い出したのと同じタイミングで姿すら岸壁街の何処にも見せなくなりやがった。理由があるとすりゃ…テメェが隠してるからだろ?なぁ!?」
 ごすっと音を立ててロードの顔に叩きつける様なボスの拳がめり込む。口の中に血の味が広がり鼻血も出ているのか鼻も熱く、顔の中心から呆けていく様な感覚が広がる。ロードは勢いのあまり仰け反ると、意識が飛びそうになりながらもポケットに手を入れ中に入っていたスイッチを押した。
「ロード…お前にはがっかりだ。俺は初めて会った時からお前を頭の良いガキだと思ってた。だから助けた。あの狂った母親の下、男の慰み物にしとくのも勿体無かったからな。だが、動揺して余計な事を喋っちまうなんざまだまだガキの証拠だな」
 ごりごりと音を立ててボスはロードの指を踏み付ける。まるで踵を使って彼の指を引きちぎろうとするかの様なしつこい踏み付けにロードは叫び声を上げた。踏み付けられた指の感覚がすっかり無くなった頃、とどめとばかりにもう一度体に蹴りを入れる。しゃがみ込んだボスは横たわるロードの髪を鷲掴んで持ち上げ、顔を自分の方に無理矢理向けた。
「だが、俺は優しい。お前の父親だからな」
「う…ぅ…」
「テメェには早くに口座を作ってやってたな。今まで貯めてた分、根こそぎ俺に寄越せ。それをその女との解決金だと思え。そうすればお前はこれ以上俺達に追求されない、この話は内々に終わらせてやる。女とは離れるが、どんな取引より一番良い話だぜ?良い事づくめじゃねぇか、これ以上余計な怪我増やしたくねぇだろ?」
 金は力だ。岸壁街の様に、上下関係がはっきりとして居る場所において、金は分かりやすく力だった。金があれば武器も揃えられる。金があれば名うての暗殺者だって雇える。金を使えば相手を支配する事も出来る。
 ──自分がヴォイドをそう縛った事が彼女との始まりだった様に。
 ロードの脳裏に幸せそうに食事を摂るヴォイドの姿が蘇る。確かに声掛けこそ仕事のそれだったが、だからこそ自分は何よりヴォイドを優しく扱ったつもりだ。
 彼女を本当に愛している。普通の若者と同じ環境下に居なかったからこそ、始まりは長期的な売春と言う異常さはあるものの、結果としてそれが彼女の身の安全を守り、一緒に過ごした時間は彼女に不自由ない暮らしをさせてあげられていたと信じたい。そしてそこに愛情があった事も。だからこそ、「手切れ」などロードには到底受け入れられる話ではなかった。
「そ、その金は…私の貯めた『力』です…」
「…何だまだ余計な事喋れたのか?ロード」
「この組織は…所詮井の中の蛙です…大海に出れば…こんな岸壁に巣食う蛙など、一捻り出来る化け物が居る事くらい、私も知ってます…大陸に…組織の母体と…ボスより上の人間がいる事も…いつか取って代わろうと貴方が策謀している事も──…!」
「……っとにお前は、死に急いでんのか?余計な事をベラベラと…」
 何かが砕ける様な音が響き渡る。ロードの腕を意識も遠のく様な激痛が走ったその時、パソコンを操作していたキンバリーが大きな声を上げる。ギデオンもボスも睨む様にキンバリーを見るが、彼はそんな事関係ないと言わんばかりに声を張り上げた。
「ボス!ロードの口座が空になってやがる!たった今だ!何かに横入りされたみたいに根こそぎどっか行きやがった!」
「何!?追えねぇのか!?」
「例えるならチャフとかフレアーみたいなシステムが急に作動してるんだ!専門外の俺じゃ追うに追えねぇ!!」
 その言葉を聞き、ロードは内出血からか赤みの滲む指に力を入れると、痛みに顔を顰めながらその場にいる全員を挑発する様に中指をぴっと立てた。

 * * *

 元締めと会った日から数日後、待ち合わせの場所に赴いたロードはマルゴから目当ての物を受け取った。彼女に渡されたそれをしげしげと眺める。確かに普通の小さなスイッチだった。
「はい、これ。頼まれてた機能を作動させるボタン。それにしても、歯に仕込んでくれとかもっと無理難題を言われるかと思ってたわ」
「歯ですか。残念ながらこれを使わざるを得ない状況下では取れる可能性もあったもので」
「歯が取れる状況?嫌ぁね、本当岸壁街の男って例外なく皆荒くて嫌いよ。貴方もね」
 マルゴの射る様な視線をなるべく気にしない様にし、ロードはスイッチを見ながら彼女に向き直る。そして懐から紙とペンを取り出すとサラサラとそこに数字を書き込んだ。
 この金額でいかがでしょう?と仕事への見返りを決めようと彼女に提示するが、彼女はにっこり笑うとそれをやんわりと突き放した。
「要らないわ」
「しかし、無償と言うわけにも…」
「誰が無償って言ったのよ。金は要らないって言っただけよ?」
 別に要望があるのか。自分に応えられる範疇なら有難いが。
 ロードが「何をご所望でしょう?」と尋ねると、マルゴは陰のある笑みでにっこりと微笑んだ。
ヴォイドあの子を絶対にテオに近付けさせないで」
「……はい?」
「知らないとは言わせないわ。知ってるんでしょ?私と同じ所で働いてるカワイイ男の子」
「……男性を可愛いと称す習慣が無いので上手く答えられませんが、まぁ…知ってます」
「あら、テオって可愛いのよ?あの子の事本当は好きな癖に、あの子だってテオの事好きだったのに、互いに全然気付かないんだから。なかなか有名だったのよ?テオはどんな女客に取ってたって、あの子が来ればすぐそっちを優先しちゃう。妹みたいなものだって言ってたみたいだけど、傍目に見てれば分かるわよね。遅かれ早かれそう言う仲になるだろうって事。だから貴方も、正攻法で勝てないと思ったからこんな汚い事したんでしょ?金使って抱くなんて」
 マルゴがニヤニヤと笑みを浮かべてロードを見る。ロードはにこりと笑うと否定も肯定もせず黙っていた。
 今は違うと思っても、確かに最初はそうだった。彼女に一目惚れをして、テオフィルスに向ける恋慕の情を灯した目と同じ熱量で自分を見て欲しくて、そして手を回した。
 きっかけはそんな自分勝手な感情だったから、だからどんな言われ方をしても否定は出来なかった。
「ねえ、そんな汚い手の回し方してまで奪った子の具合・・はどうだったの?」
「…女性にそんなはしたない話をして良いのかどうか…」
「……岸壁街の男って皆そうよね、普段女として見てるくせに、はぐらかしたい時だけ淑女を求めるんだから」
「他は知りませんが、私はいつだって女性は女性としか扱いませんよ?本人がどう思われたいかでまた話は変わりますが…女では無い「個として」能力を見て欲しいと言うのなら、その通りにしますし」
 マルゴは初めて会った時の余裕のある大人の女性らしい笑みをとんと見せない様になった。おそらくこれが彼女の本心。だがその危うい姿は、かつての自分とも似ていて鏡を見ている様にロードは思えた。
「……いずれにせよ、今理由あって彼女を外には出せなくなってるんです。彼女にも伝えられてないので貴女に理由を言うわけにはいきませんが、そう言う事なので会いたくともヴォイドは彼と会えませんよ」
「あらそう?なら良かった。少し前にテオと一緒に外に出た時あの子の姿を見付けたからヒヤヒヤしちゃったわ」
 ロードは動揺して無意識にぴくりと指を動かした。ヴォイドから似た様な話は聞いた覚えがあった。テオフィルスを見掛けた、ただし声を掛けられなかったと。それを聞いて自制が利かなくなってしまったのでよく覚えていた。テオフィルスが気付かない様な距離に居たと言うのにマルゴは目敏くヴォイドを見付けたと言うのだろうか。
「今私の事、目敏いって思ったでしょ?」
「いえいえ、その様な事は…」
「だって、そこに居て気配を感じたら見ちゃうでしょ?私あの子気に食わないんだもの」
 ロードは目を丸くしてマルゴを見た。何だか凄い主張を聞いた気がするのだが、彼女はニコニコ笑みを浮かべるだけだった。
「今までずっと綺麗な身のまま男に守られて、その男にお綺麗な片想いを続けてたと思ったら他の男が横槍入れて来て『買いたい』と言う。でも私らの知ってる『買う』とは違って大層大事に扱われた。あっさり乗り換えた癖に、今まで大事にしてくれてた男にも大事に買ってくれた男にも良い顔しようとして一人悩んで立ち往生してる、あのお嬢ちゃんが大嫌いなの。関わる人関わる人、尋常じゃない愛を向けてくれてるのに『答えて良いものか』で悩んで結局愛されてる事実からも目を逸らして…自分は綺麗な立場だと勘違いして愛を持て余してる女って嫌いなの」
 マルゴは自分の感情が嫉妬からくる物だと自覚している様だった。自覚して開き直っている様だった。
「あの子はあの子、貴女は貴女じゃないですか」
「……だから望んでも叶わない物もある。あの子は手に入れられても、私に手が届かない物も。ねぇ、あの子初めての時どんな風に啼いたの?」
「…貴女には言いません。言いたくありません」
「あら?あの子が自分を売ったから貴方は抱けたわけでしょ?あの子は望んで商品になったのよ。しかも誰の手垢も付いてない状態で。それって貴重よ?まあ、どうせあの子も今は他の売女と変わらないんだから商品らしく酒の肴にさせてくれても良いじゃない」
「仮にその理屈でも買ったのは私です。私が言いたくないと言ったら、言わないんです」
「…そ。残念ね。どんなお粗末な散らし方したのか聞きたかったのに…やだ、もう一人の当事者前にして失言だったわね」
「別に良いですよ。私はそこまで下手じゃ無いと自負しているんで、何を言われても気にしません」
 そんな事よりもう一度スイッチの機能の確認を。
 ロードがあからさまに話を逸らすとマルゴはくっくっと声を抑えて笑った。
 このスイッチは最後の手段だ。おそらく全てがバレたらボスは自分の財産の差し押さえをしようとするだろう。ここでは金とは力だから、自分を無力化させようと力を抑えようとする筈だ。だからこのスイッチを押す事で金を自分の口座から他の口座に移す。正確には不特定多数にばら撒く様に入金すると言った方が良いのかもしれない。その瞬間残高が無くなるので、実質ヴォイドとの契約は終了と言う事にもなる。
 これは最後の手段であり、彼女を自由にする手であり、それは自分からの解放を意味する。
「ミサイルで言うフレアー、チャフみたいに追撃を阻害するシステムを組んであるわ。専門外の人間は先ず追い切れないくらいの難易度ね」
「ありがとうございます。本当に金銭での見返りでなくて良いので?」
「良いの。くれぐれもさっきの守ってちょうだい。あの子をテオに会わせない様にね」
「…分かりました。あの、マルゴさん…貴女は彼が、テオフィルス・メドラーが好きなんですか?噂では貴女は…元締めの男性と深い関係だと聞きましたが…」
「ええ、そうよ?正確には私はあの人のお気に入りの一人ってだけ。特別な事は何もない、テオの事は…好きって言うのかしら?あのお嬢ちゃんと会えなくさせた方が見てて面白いからそう言ってるの。だってここ、娯楽も何も無いんだもの」
「…もし二人が互いに思い合っていたら貴女はそれを阻害した人間と言う事になる。良いんですか?それは…」
「そんな展開なら余計面白いじゃない。良い気味だわあのお嬢ちゃん。それに、そうだとして最初にあの二人を壊したのは私じゃなくて貴方よ」
 マルゴは悪びれる事なくそう言うと、ロードの手を──正確には手に持ったスイッチを彼の手の上から撫でる様に艶かしく触れた。
「…それ、早くしまった方が良いわよ?」
「ええ…」
「ふふ、使わない事を祈るわ。貴方がお嬢ちゃん連れてってくれた方が私もイラつくもの見なくて済む様になる気がするし。まあ、お幸せにね」
 心にも無い事を口にして。ロードはマルゴににこりと笑みを向けると、それきり口を開かなかった。このスイッチを入れる時は、おそらくボスから逃げられなかった時。きっとヴォイドと離れねばならない時。自分も無事では済まない時。
 彼女との契約が無くなり、無関係な人間同士に戻る時。
 ロードはねじ込む様にそれをポケットにしまった。

さよなら

 陽の光の差し込む部屋って良いじゃないですか。
 岸壁街ではなかなか無かった「太陽光を浴びて目を覚ます」と言うのが実現出来ます。
 気に入ってくれたのなら、部屋の内装は一緒に暮らした部屋と似た様な物にしましょう。
 貴女が気に入っていたあのソファーも置きましょうか。
 今度は離れて座るのは寂しいので二人掛けにしませんか?



 血と痣に塗れたロードの顔。ボス、ギデオン、キンバリーと言う屈強な男三人から夥しい数の制裁を受けた顔はすっかり腫れ上がり視界は狭まっている。口答えをした際喉も潰され最早声を出す気力も無くなっていた。腹にも胸にも絶えず蹴りを受け呼吸をする度痛む。肋骨が折れている感覚があるし、足も踏み付けられ体のどこに力を入れてもただ悶える程に痛むだけ。
 立つ事すら出来なくなったロードを見てボスは悲しそうに眉を顰める。
「残念だ…お前がそこまで馬鹿だったとは…妙な抵抗なんざしねぇで大人しく金を渡していれば一人で便所に行けるくらいの怪我に留めてやったのによぉ」
 先程要求した金は言わばけじめだとボスは言った。大人しく渡していればその場で暴行を止めていたと。しかしロードは抗った。何が何でもこれ以上彼らの懐を潤わすわけには行かない。その金を増やす為に更に規模の大きい商売をするのは目に見えている。
 資金の多さはそのままこの組織の武力に直結する。貧乏ならば大人しいものだが、力を手にした彼らが何をするかロードには想像もつかなかった。ただ、ヴォイドや彼女の生活する下層の住民にとって穏やかではない生活をもたらす気はしていた。
 ふと、ギデオンの携帯端末が鳴る。ロードが血に塗れて倒れていると言う異常な空間でさも当たり前の様に通話ボタンを押すギデオン。彼は電話向こうの相手に相槌を打つと労いの言葉を添え手短に電話を終了した。
「ボス、ロレンツォからだ。リストに載ってた奴等から滞りなく金を回収したとよ」
「おお、そうか」
「ただ、またカッシオが客とやり合ったらしい。あの様子だとロレンツォの奴、戻って来てまたキレるぜ?アイツもアイツの部下も、取り立てに行く度何かしらトラブル起こして帰ってくるからな。八つ当たりも良いところだが」
「どいつもこいつも、成長しねぇな」
 ボスは倒れているロードをじっと見つめる。そしてバケツを手に取ると中になみなみと水を注ぎ、それを彼の顔に容赦無く掛け反応を見た。水を掛けられたロードは突然の事にびくりと体を震わせ先程より少し大きく口を動かす。今の彼は、こんな水ですら溺れる様な心地であるらしい。
 そんな彼を見て、ボスは何か書かれた紙をキンバリーに渡す。キンバリーはそれを眺めると少し考え、部屋を出て行った。
 ボスはまるで陸に打ち上げられた魚の様になっているロードの近くにしゃがみ込む。光景としては異様なものだが、彼のロードを見る目も、発した声音もさながら父親の様な慈悲が込められている。ギデオンはそのアンバランスさを見て少しだけ口を歪ませた。
「なぁ、ロード。お前何したんだぁ?ロレンツォの奴がな、お前を心底嫌ってんだよ」
 ロードのワイシャツのボタンを少し外すと露出させた痣だらけの体にナイフを這わせる。肌を滑る様な冷たい冷たい刃物の感覚。言葉こそ発せないものの危機感はあるのか、ロードはその感覚を肌で感じる度少しだけ呼吸を荒くした。
「聞け、ロード。俺はお前の親父だ。お前の俺への不義理はこの際親父らしく『ただの反抗期』として処理してやろうじゃねぇか」
 言いながら、ボスは彼の鎖骨に這わせたナイフへグッと力を込める。ロードの喉から声にならない声が少しだけ漏れた。
「俺が金になると踏んだ女に手を出した事は水に流す…その女を手に入れる為に他の奴らに圧力掛けた件もだ、あくまで俺自身はな。だがお前を面白く思わん人間の方が多い。寿命が延びて良かったな。いつか審判は下ると思え」
 肌にぴたりと合わせられたナイフがその上をするりと滑って行く。ロードは突然の胸の痛みに喉を詰まらせ荒く吐息を漏らした。肌に這わせられたナイフはロードの皮膚を裂く。殴打の跡に裂傷まで。ロードは最早満身創痍だった。
 そんな中、今度音を鳴らしたのはボスの携帯端末だった。
「俺だ。キム、着いたか?」
 相手は先程部屋を出たキンバリーだ。彼がボスから受け取った紙の正体が何だったのか、ロードは推察した瞬間顔を青くした。
「あ?生活感の無い部屋?知らねぇよ適当にしとけ。それよりあの女と女に関する書類は?」
 ヴォイドの居る部屋に当たりを付けたボスはキンバリーを派遣したのだ。ロードは息をするのも忘れてボスとキンバリーの電話に聞き入った。ボスの見る見る怒りを帯びる顔を見るとこの先自分に待っているのは死の様な気がしてくるが、それでもヴォイドの身の安全が未だ確保されている事の方がロードにとって幸運だった。
 何故なら、今彼らの向かった部屋はおそらくデコイ。ヴォイドのいる部屋から少し離れたところにロードが密かに作ったもう一つの居住空間。尾けられている事を危惧して表面上この部屋から出入りをし、風呂場の換気扇を外して裏側から外に出、離れて奥まったところにあるヴォイドとの部屋まで辿りそこで生活をしていた。
 それらに彼らは見事引っ掛かってくれた。そう思うと嬉しくて堪らない。
「何?女は居ない?書類も無いだと?ならその部屋には何があるってんだ?あぁ?煙草の吸い殻とエロ本だぁ?誰がンな情報欲しがんだよしっかり探せ!」
 ボスは乱暴に通話ボタンを切る。そして勢いそのままにロードに詰め寄ると彼の胸ぐらを掴んだ。先程刃物を滑らされた胸が少し痛む。ボスは余裕のない表情をロードに向けた。
「あの女…あの変な目ぇした女!アイツを何処にやった!?」
 無理です。貴方に喉も潰されたので喋れません。折られたので指も使えません。
 勝ち誇った様にも見えるロードの顔。ボスはそんな彼の顔を見、そこへ苛立つ様に再度力強く拳を叩き付けた。ロードの顔から血が飛び散り、ロードは今度こそ意識を手放す。ボスの拳に着いた血は勢いのあまり先程までキンバリーが弄っていたパソコンに飛ぶのだが、今この場の誰もが優先したのはロードを痛め付ける事。故に咎める者は居なかった。

 * * *

 ベッドで寝ていたヴォイドは急な振動で目を覚ます。最近騒音が目立つ気がする。この近辺に人は居なかった気がするのに。
 時計を見ると起き上がり、食事の準備を始めた。ロードが出てから三日も経った頃には彼が作り置きしてくれた食事はとっくに食べ終えてしまった。気付けば彼が出てから一週間。
 とりあえず冷凍の物を電子レンジに掛けるが、それもいつまで保つだろう?ロードは色々見越して置いて行ってくれた。とは言え、なるべく早く帰って来てくれれば良いが。
「うーん…」
 温めた冷凍食品を口に運ぶ。矢張りロードが普段作ってくれるご飯の方が美味しい気がする。そう言えば、来てすぐの頃はロードも冷凍食品か出来合いのものを食べていた。気付けば料理をする様になっていた。呆けながら日々過ごしていたが、彼は自分が思っている以上に色んな事をしてくれていた。
 私は何も返せていない気がする。ふとそんな事を思ったヴォイドは、キッチンを色々漁ってみる。すると、ロードが買っておいたのか食材が出て来た。しまった。冷凍食品よりも先にこっちを食べれば良かった。
 ヴォイドは顔に思い切り焦りの色を見せると意を決して次から自炊に挑戦しようと決めた。少し慣れる事が出来れば、ロードに作ってあげられる気もしたのだ。
「自炊してみよう…」
 更にキッチンを漁ってみると、まめなロードらしくレシピのメモがあった。彼が料理を勉強中にまとめたのか、どのタイミングで何を入れれば良いのか細かく書いてある。それは弱火とはどの様なものかレベルで記したもので、故に初心者のヴォイドでも分かりやすかった。
 彼が帰って来る頃には少し料理が好きになっていられたら良い。
 自分が言いたい事は一つ。
『もう仕事扱いしないで欲しい』
 ロードがどう言うつもりで自分を傍に置いて居るのか分からないのだけは気掛かりだが、それを確かめる為にも一度自分の気持ちを正直に言った方が良いと思った。
 彼の事を確りどう思っているかは自分でもよく分からない。ただ、今の関係を「仕事」と切り捨てるのは矢張り嫌だし、憎からず想っているのは確かなのだから。
「うん…美味しい」
 ロードが居なくなって二週間。彼がこんなに長い間家を空けたのは初めてだった。ロードとは基本的に彼が外に居る間は連絡をしない。何かあった時の為に金は置いて行ってくれるし、何より彼が岸壁街でその名を知らぬ人間は居ないギャング集団「サントル・オルディネ」の一員だからだ。
 彼は自分の事を「お飾り幹部」と言うが、たとえお飾りでもここの関係が露呈するのは色々と面倒だと言う。理由を聞いても、ただ「組織でも娼館を多数運営しているから」としか言わないが、ヴォイドは自分が世間を知らずピンと来ないだけで何かしらの重い事情があるのだろうと察する。
 しかし、察したところでロードが帰ってくる筈もない。
 ロードの見様見真似、置いてあったレシピの真似を少ししただけだが、何もやらなかった頃に比べてそれなりに美味しく食べられる物を作れる様になった。果たして彼は食べてくれるだろうか。いつ帰って来るだろうか。
 ヴォイドは「人の帰りを待つのはこんなにもドキドキするものなのか」と、らしくない考えを頭に過らせた自分を少しだけ笑った。

 ──そうしてまた、一週間が経過した。

 ロードが出て行って三週間。
 流石にヴォイドも焦り始める。
 未だかつてこんなに長く家を空けた事は無かった。仕事に行く前に大体どのくらい空けるか彼は目星を付けていき、そしてその予想は大体当たっていたからだ。しかし今回は、出て行く時に「いつまで掛かるか分からない」と言った。
 ロードに乱暴に抱かれた日の事を思い出す。あの日を境に彼は少しおかしくなった。
 あの日からヴォイドが容易に外に出ない様にと彼は外からしか掛けられない鍵を掛けた。だからヴォイドはあの日以来一度も自らの意思で出ては居なかった。体はすっかり鈍ってしまったから今外に出れば前回負った怪我では済まないくらいになりそうだ。
 そんな事を考えながら玄関が開いて彼が帰って来るのを待つ。
 しかし、いつまで経っても彼は帰って来なかった。
「ど、どうしたんだろう…?」
 流石に三週間も音沙汰が無いと不安になって来てしまう。曲がりなりにも組織の人間。何か事件に巻き込まれる事もあるのだろうか。仕事内容を聞いても難しそうに微笑むだけで教えてくれないし、おそらく言いたくない内容なのだろうとは思うが。
 ドクドクと脈打つ心臓を落ち着かせようと深呼吸をしてヴォイドは気付く。自分はロードの事を実は殆ど知らないのではないかと。
 その瞬間余計に早鐘を打つ心臓。兎にも角にも、この何もかも分からない状況は本当に嫌だ。深く深く闇の中に放り込まれて、右も左もわからないまま藻掻いている様で。
「……あ…」
 ふと、ヴォイドの脳裏に嫌な物が過ぎる。
 ヴォイドは目を見開き、無言のままベッドに近付くと、置かれている金庫に手を掛けた。彼との生活に安らぎを感じた頃から存在を思い出したく無くてずっと無視をしていた電子通帳。

『私が契約終了と見做したら振り込みは止まりますが…そうで無ければ、つまり私の傍に居れば半永久的に振り込まれ続けますよ』

 確か彼はそう言っていた。これを見ると言う事はこれが仕事であると言う事を嫌でも自覚してしまうが、目先の安心を得たくて扉を開け中に入っている電子通帳に手を伸ばす。これに振り込みが続けられていれば契約は有効と言う事だから、ロードはきっと無事に帰って来る。そう信じて残高と振り込みの状態を確認しようと電源を入れた。
「え……」
 ロードからの振り込みは、彼が家を出た日を最後に三週間も止まっていた。
「そん…な…何で…?」
『私が契約終了と見做したら振り込みは止まります』
 ロードの言葉が頭を高速で駆け巡っては消えて行く。
 契約終了の文字が頭を過り、ヴォイドは目を見開いたまま何も言えずにいた。
「え…え…何で…?」
 ロードは自分を置いて行った…?
 途端に胃から何かが迫り上がる感じがしてヴォイドは片手で口を押さえる。ドクドクと煩いくらい叩き付ける心臓はこのまま肋骨を、胸を、皮膚を突き破って飛び出て来るのではないか。そう思うくらい煩くて、痛い。ヴォイドは思わず胸も手で掻き毟る様に押さえた。
「はっ…はあっ……!あ…!」
 呼吸の仕方を忘れているみたいに荒く拙く息を吸う。ロードの顔を思い出せないくらい頭の奥がビリビリしてモヤモヤして。
「ああっ…!は、はっ…!」
 正しい息の吸い方が分からない。吸う事しか出来ずパニックになる。ヴォイドは過呼吸を起こしていた。今のヴォイドならこの状況はどうしたら良いかすぐ見当も付くだろうがこの時の彼女はまだ何も知らない非力な少女だった。
 吸う事しか出来ず苦しくなる呼吸。ヴォイドは胸と口を押さえて座り込みそうになる足を叱咤する。その時、もう一つ希望がある事を思い出した。
「ぁ…っ!ドア…!!」
 いつもロードが鍵を掛けて内側から開けられない様にして行くドア。それをやる意味が分からず鍵を確認するのも嫌で触れずに居たが、もしも今鍵を掛けられていたらロードが帰って来ると言う希望をそこに見出せる気がする。何故なら閉めたままだと食料が尽きた時自分は飢え死にしてしまうから。
 ヴォイドはフラつきながらも足を動かし、やっとの思いでドアの前に来た。そして息を呑みながらドアノブを捻る。いつもならここで何かに遮られる様に開かなくなってしまう。普段なら煩わしいだけだが、ここでのそれは家主の帰りを告げる希望の筈だった。

 ──しかし、無情にもドアはすんなりと開いてしまう。

 停止した振り込み。鍵の掛かっていないドア。
 それはヴォイドの希望を呆気なく絶望にひっくり返す。
 開いたドアは自分と外の世界との隔たりを無くすかの様に口を開ける。ヴォイドは一度それを拒絶する様に開いた筈のドアを閉めた。
 そして無言で部屋の真ん中まで進み、ラジオを掛ける。流れて来たのはカントリーミュージック。立ち尽くすヴォイドの耳に軽快なバンジョーの音色が響く。
 変なの。世界にはこんなにご機嫌な音色を奏でられる人がいるのに、聞けば聞く程「楽しい」と言う気持ちが分からなくなりそう。
 今の自分とは真反対な曲調で音楽が響き渡る。どこか懐かしい様な、安らぐ様な音色。そんなノスタルジックな音楽に包まれたヴォイドから堰を切ったように誘発されたのは、涙だった。
「置いてかないで…」
 叱咤していた筈の足ががくんと力を失くす。
「置いてか…ないで…」
 へたり込んだ部屋の真ん中、頭に浮かぶのは育ててくれた娼婦達、テオフィルス、そして顔も声も覚えていない『お母さん』。
「いやだ…いやだ…!」
 前に誰かから聞いた話。消滅の神様は、身の丈に合わない愛を求めた人間の目を覚まさせる為、その縁を絶ってしまうのだと言う。
 テオフィルスを好きだと思った時、彼は男娼だけで無く別の仕事を始めた。彼は彼の世界を歩き始めた。邪魔をしてしまう気がして、その隣にヴォイドは居られなかった。
 娼婦の女達も母親代わりだったが皆々ここに長くは居らず。痴情の絡れで居なくなる者、病気や事故で死ぬ者、男を追ってここを去る者、各々の理由で彼女の前から居なくなった。
 そして今度はロードが。
「置いて…いかないでぇ…っ!一人にしないで…!」
 突如終わってしまった契約。帰って来ない家主。ここは岸壁街、その二つが揃っていれば理解してしまう。「自分は一人捨て置いていかれたのだ」と。

 人との縁を切られ、漠然とした岸壁街と言う世界との結び付きを再度得て。
 ここでは少し贅沢をして暮らせる様な財産を得て。
 そうして彼女はまた、孤独ひとりになった。

 自由になった。
 もう縛るものは何も無い。
 あんなに不自由だと思っていた束縛が消えた。
 あんなに煩わしいと思っていた契約が消えた。
 あんなにすぐ隣にいたあの決して爽やかでは無い笑顔をもう見れなくなった。
 何も残らなかった。
 望んだものは何一つ。
 何も無い。
 「仕事扱いしないで欲しい」なんて思わなければ良かった。
 「仕事扱いでもなんでも良いからこの日常が続けば良い」とそう願えば良かった。
 こんな風に人が居なくなってしまうと知っていたら、出過ぎた願いは持たなかったのに。
 そんな風に分からせようとしなくても、出過ぎた望みだった事くらい理解は出来ているから。

 どれくらいそうしていただろう。ヴォイドは部屋の真ん中でただ座り込んで泣き続けた。
 やがて絆を枷と考えられる様になった頃、どうせ傷付くだけなら誰に対しても特別な感情など抱きたくないと思い始めた頃、愛情が呪いに変わった頃漸く彼女は立ち上がった。
 ここに居たらただ思い出に食い潰されてしまう。ヴォイドは最後にもう一度ソファーに腰掛けた。それが思い出との最後の別れだとでも言う様に。
 そして彼女は、二年近く過ごしたこの家を出た。ロードに対して傷付けられた恨みと憎しみだけを持って。
 彼を酷く憎んで酷く恨んで。そうしないと二度と立ち上がれない気がした。
 楽しい思い出はあった。安らいだ記憶もある。けれど、恨みだけを抱えて居ないと泣きそうになってしまう。彼に対する情愛も全て忘れて憎しみだけを抱えて居ないと、この先一人で生きていけなくなる気がした。

「そいつは上層に捨てろ」
 ボスにそう言われ、ギデオンはロードの腕を引き上げる。折れた腕を掴まれロードは声にならない声を上げた。
「ボス…本当にロードを殺して良いのか?」
「誰が今殺すって言った?まあ、人望が無けりゃここで死ぬだろうがな」
 そう言って一枚の写真をギデオンの前にひらりと落とす。そこには明るい金髪と青い目が特徴的な青年が写っていた。
「これは…機械人形マス・サーキュなのか?」
「そいつは上層の料理屋で働くガキだ。最近出来たロードの知人だよ」
 そう言われてギデオンは納得こそしたものの、ボスにしては随分賭けに出たものだと思った。ボスがこの瀕死の状態のロードを彼に助けさせようとしているのはすぐに分かったのだが、何せ信用するには些か難しいのが岸壁街の人間だ。助けると言う保証は無かった。
「コイツが助けりゃ寿命は延びる。そうじゃ無けりゃここで死ぬ。それまでだ」
「へぇ…珍しいな。賭けに出るとはボスにしては酔狂じゃないか」
「天命に任せてみるのもまた一興じゃねぇか。天がこいつを生かしたなら、こいつにはまだ利用価値があるって事だ」
 ボスはロードの方を向く。養子とは言え息子が血塗れで痛みに喘いでいるのだが、試す様な視線を向けるだけでそこに暴行に対する後悔や慈悲の様なものは無かった。
「せいぜいこの機械人形マス・サーキュみたいなガキが中身も機械みたく薄情で無い事だけを祈れ、ロード」
 ギデオンはその言葉を聞くとロードの体を抱える。外に出て豪雨に気付くがボスの命令は絶対だ。雨により人通りの少ない岸壁街を上層まで歩く。ロードの体もみるみる濡れて冷えて行くが、ギデオンは足を止めずに進んだ。その内、ボスに言われた場所に辿り着いたギデオンはロードの冷たい体を抱え直すと土砂降りの中彼を捨て置いた。
 身動きの取れないロードは濁流に巻き込まれ今にも溺れそうだ。例の機械人形マス・サーキュの様な男が助けに来れば良いが、その前に死ぬ様な状況でもあった。
「テメェもつくづく散々な目に遭ってんなロード」
 ギデオンは息も絶え絶えに溺れ掛けているロードに向かって呟いた。
「好きになったのがボスが目を付けてた女とは…好みが被るところはある意味親子だけどな。お前ももう少し…上手くやれよ。詰めが甘いぜ」
 そう言うと溺れ掛けていたロードの体を抱き起こし、壁に背をもたれる様な姿勢に変えてやる。少しだけ生き延びる可能性を高めたのはギデオンの最後の優しさだった。
 その後、ボスの目論見通り通り掛かったヤサカによってロードは一命を取り留めたもののその傷は予想以上に深いものであり、一ヶ月経ってやっと松葉杖を使って一人でぎこちなく歩けるくらいだった。ヤサカに背負われ、少し歩ける様になったらそんな体を引き摺って、ロードは毎日部屋を望める場所に秘密裏に足を運んだ。
「ヴォイド…」
 この日もロードは、中層にある唯一あの部屋を望める場所に一人来ていた。遠目に見ながら誰に聞かれるでもなく彼女の名前を呟く。とうとうスイッチを押した事で口座からの入金が止まってしまった事、それに彼女は彼が家に帰らなくなってから三週間経って気付いた様だ。そして取り乱し、酷く動揺した様に泣いていた。激しさを増す涙がどんな意味を持つかは知っている。
 ロードが彼女から一番引き出したくないと思っていた「絶望」だ。
「お兄さん。ねえ、お兄さん」
 不意に呼ばれ振り返ると、そこには岸壁街らしい痩せた少年が居た。ロードは不審に思いつつ会釈する。自分の様に岸壁街で怪我をしている人間は基本的に距離を置かれる。岸壁街において怪我人は訳ありな事が多いから、こんな子供が容易に話し掛けて来る筈が無い。ロードは彼の背後に別の大人の影を感じた。
「はいこれ、お兄さんに渡してって言われたの」
 手渡されたのは携帯端末。ロードは一瞬ぴくりと眉を動かしたが、すぐに少年に向き直った。
「ありがとうございます。君、これをどちらで?」
「あっち。でもね、渡して来たおじさんからはね、言っちゃダメって言われたの」
「…そのおじさんから御礼は貰いました?」
 そう言われポケットに手を入れた少年は嬉しそうに「うん」と返す。ポケットからチャリッとコインの擦れる音がした。
 少年を見送り受け取った携帯端末を見つめるロード。電源を入れるとすぐに着信が入り、ロードは分かって居た様に通話ボタンを押す。
『よォ、ロード。怪我の具合はどうだ?』
 電話向こうに居たのはボスだった。
「おかげさまで不自由ですよ。二週間近く一人でマスかく事すら出来なくて困りましたね」
 しれっとそう口にするとボスはいつもの調子で笑った。女でも派遣してやりゃ良かったか?と冗談混じりに聞かれそれを突っ撥ねる。ボスの空気が変わったのを電話越しにロードは感じた。
『女と言やぁ…例の女は元気か?』
「…何故?」
『お前があれだけ執着したってのが珍しくてなァ…そうかそんなに好きか。引き離して悪い事したな』
 白々しくそう口にされロードのこめかみがぴくりと動く。何かを言い返したい気もするが、探る様なボスの言葉が引っ掛かりそれはロードにブレーキを掛けさせた。
『ロード。お前、アスに行け』
「…アスですか?」
『岸壁街被害者の会にでも行ってそこで足抜けしたとでも何でも、適当な理由付けてこの街を出た風に話して外に行け。俺が金にしようとしてた女に手を出した、なんて状況でお前だけ殺さず生かした事が漏れても面倒だからな。ただ仕事の為に外に出た事にする。こっちからも何かあれば本当に仕事の連絡を入れる。分かりやすく言えばこれからお前のやるべき事は外とのパイプだ。拒否して真人間になりたいなんざ抜かしても良いが…あの女はここ・・に居る。お前がまたあの女に接触したり話そうとしたら、あの女の目が見えなくなるかもしれないし耳が聞こえなくなるかもしれん。足か手を失くす事態も起こるだろうなぁ。…ちゃんと元気で生活しててもらいたいだろ?言ってる意味分かるよな?』
 それだけ言って電話は切れた。
 どうやらボスは大陸の男に金を出させ続けるより、ロードを体よく外に追い払い尚且つヴォイドを人質の様にちらつかせる事で彼を有効活用するやり方を選んだ様だ。
 見知らぬ子供を使って自分と繋がる端末を渡して来たり用意周到な事だ。そう言う男であると言う事は理解していたつもりだが、ここまで我が物顔で岸壁街の人間を駒の様に転がすとは。
 ロードは松葉杖で体を支えながら振り返る。そこには難しい顔をしたヤサカが立って居た。
「おやおや……」
「『おやおや』じゃねーんだ」
「すみません、探しに来てくれたんですか?」
「ルーファス先生がまだ安静にっつってたろ?早く部屋戻ってベッドで寝てろ」
「うふふ…そんな急かさなくても戻りますよ」
 ヤサカは買い出しの為に外に出、大怪我をした上濁流に呑まれて溺れ掛けていたロードを拾った。医学の知識の無いヤサカにはどうする事も出来ず、岸壁街に出入りしている親切な・・・医者に助けを求めたところ持ち前の回復力もあってか彼の傷は見る間に快方に向かっていったが、怪我の治療中ロードは火が消えた様に静まり返り喋らなかった。喉の事もあったのだろうが、治っても尚たまに遠くを見つめて溜息を吐くだけ。
 このところまた少し減らず口が戻ってきたが、ヤサカには今目の前に居るロードすら彼の皮を被った偽物の様に時々思えた。
「あ、そうだ。ヤサカ、これを貴方に」
「…え?」
 ロードがヤサカに手渡したのは、現金五万イリ。急に金を渡され困惑するヤサカにロードは「色々と面倒を掛けた御礼です。足りませんけど」と呟く。ヤサカは最初こそそれを突き返そうと思ったが、珍しく心底申し訳無さそうなロードの顔を見るとそれも出来なかった。
「お前が『サントル・オルディネ』の一員だって最初から知ってりゃ関わらなかったよ」
「でしょうね」
「でも関わっちまったから仕方ねぇし、関わる前に戻りてぇとも思わねぇよ。関わんなきゃ関わんないで俺は最悪な奴のままでしかもあのオヤジの下で仕事する以外の道知らなかったし」
「…おやおや」
「仕方ねぇからお前と関わった今を甘んじて受け入れてやる。だから勝手な事してくたばんなよ?」
 渡された五万イリの使い道を考える。
 サントル・オルディネはロードを生かした。殺さずに、彼の渇望する女性を目の届く所に置いておく事でそれを恐喝材料とし、彼を飼い続ける事にしたのだ。ボロボロのロードが目の前に現れた時点で自分の個人情報が割れている事も察した。
 自分もこの組織の管理下に置かれてしまった。ならばせめて、自由になれるまで管理下の自由を謳歌しよう。しかし身元があっさりバレたのは何だか釈然としないので少しでも足掻いて目眩しでもしてみようか。着る服を今持っているシンプルなものから全然違う物に変えてみるのはどうだろう?
「この金でゴスパンクな服でも揃えてみっか?」
「え、似合いますかね?貴方に」
「ヒッヒ、馬子にも衣装って言葉あんだろが」
 そろそろ先生が来るから帰るぞ。
 そう言ってロードと帰路に着く。ロードはしばらく黙って居たが、少し進んだところでまた振り返る。ヴォイドと過ごした部屋に後ろ髪を引かれている様だった。彼女を想えば想う程、ボスからの言葉が引っ掛かり会いに行けないであろう事はここ数週間でヤサカも容易に理解出来た。ふと、誰に聞かせるでも無い独り言の様にロードは口を開いた。
「後悔して居ます…彼女と、ちゃんと話をしていれば良かった…。始まりに後ろめたさを感じて居ないで、徹底して恋人の様に振る舞えば良かった。彼女が仕事と捉えていたか私との生活に安らぎを見出していたか、そんな事関係無くこちらから一方的にでも不安にさせない様な言葉を紡げば良かった。彼女に惜しむ気持ちも残らない程に、愛していると伝えれば良かった…」
 過ぎてしまえば、後悔の何と多い事。
 ロードと一緒にヴォイドの様子を見に来ていたヤサカは、遠目に見た彼女の荒れ具合から自分を置いて行ったロードを酷く恨んでいるのでは無いかと直感で感じた。彼が言うには、彼女には今回の組織内での話も岸壁街からの脱出を企てていた話も何も伝えていない。結果ロードが本当に伝えたかった気持ちの一割も伝え切れていない、彼女もロードの気持ちを理解していないと言う形になった。本当に何とも言葉足らずに終わってしまった二人だろうと思う。
 そして今、おそらく恨みだけを買ってしまったロードだがそれでもまだ彼女を守るべく動いている。決して彼女にはそれを伝えずに。ただ一途なんだか、ただただ馬鹿なんだか。
「次は?」
「え?」
「次会えたらどうすんの?」
「さぁ…?会えるんですかね…」
「諦めなければ会えるんじゃね?岸壁街こんな所に居てそんな夢も希望も無ぇけどさ。形はどうあれお前はそれでも一度手に入れたんだろ?『理想の暮らし』みたいなのをさ」
「ああ…そうでした…」
「だったら次どうしたいんだよ」
 ロードはもう一度ヴォイドと居た部屋を見る。そして何かに吹っ切れた様に柔らかく笑うとヤサカに向き合った。
「…次会えるまで、私は陰ながら彼女を守り続けますよ。そして今度こそ隠す事なく愛を謳います」
「何年掛かっても?」
「ええ。十年でも二十年でも愛し続けますよ」
 憑き物が落ちた様に笑うロード。「さて、ルーファス先生もいらっしゃるだろうし行きますか」と松葉杖を使って少しぎこちなくも確り自分の足で一歩を踏み出す。ヤサカはそんなロードに感心した様な笑みを向ける。こいつなら十年先も拗れに拗らせてそれでも変わらない愛情を向けていそうでちょっと怖い。だがそれが彼の本来の姿なのかもとも思った。
「なぁ、そもそも何であの子がそんなに好きなのさ」
「…常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションだと昔誰かが言いました。彼女は、そんな偏見のコレクションを身に付けた私の前に現れ、あの空と海の瞳でそれをぶち壊してくれたんです。この街であんなに気侭に生きる人間を私は知りません。そんな彼女の全てが欲しくなってしまったんです」
「分かった様な分からない様な…つまり、自由なのが良いって事?」
「うふふ…要は一目惚れなので私も上手い説明は出来かねますねぇ」
 ──例え彼女に恨まれていようとも、愛し続けるしか自分には出来ない。諦める事など考えもしない。
 ロードの長きに渡る片想いが再出発したのは、ヴォイドが彼と過ごした家を出た日だった。奇しくも彼は片想いと愛情を再確認した日であり、彼女は己一人で生きる為に優しい思い出を忘れる他無く、彼への憎しみと恨みだけを募らせた日。

「絶対に…許さない…」
 ──私を弄び、二年間もただ飼い殺し、結果として蹂躙した男を。
 置いていかれた寂しさはヴォイドの中の何かを崩し、彼女から感情と他者への興味、良心を薄れさせた。そして思い出の幸せだった部分から無理矢理目を逸らさせ、彼女の中で彼との幸せな思い出は蓋をされた。
 感情を再び甦らせたきっかけは、皮肉にもロードと同じ黒い髪と瞳を持つ猫の様な青年。彼への関心から他者への興味を、再会したテオフィルスへは慈しみを、それぞれ取り戻すまで虚無の世界を生きる事になるヴォイドは気紛れに食い逃げを繰り返していたラサム暦2165年、下層で再び運命の出会いを果たした。
 その男は倒れていた。白衣に医療カバン、しかもカバンの中には見た事のない薬品や金が入っている。気絶してる内に金だけ取り出して逃げても良かったが、ヴォイドは継続的に衣食住の確保が出来るビジョンを頭に浮かべそんな未来に投資をしようと彼を助けた。
 彼は、一般的なミクリカに住んでいる人間で医者だった。定期的に岸壁街に足を運んでは無償で治療をしているらしい。入り組んだ街に足を取られ、 転んで動けなくなったところにヴォイドが通りかかった。
「いやぁ…助かったよ、お嬢さん。上層から中層に向かおうと思ったら足を取られて転んだ上そのまま床が抜けてしまってなぁ。気絶している間に荷物を取られるかと思ったが…まさか全部無事に戻って来た上に介抱までしてもらえるとは…」
「助かったって、思うの?」
「勿論だ」
「ふーん…それは良かった」
 ヴォイドの医学の師匠ルーファス・トージアと出会い、彼女は岸壁街で確たる地位を築いて行く。だが彼女は、とうとう安らかだった記憶を思い起こせぬままその日を迎えた。

 ラサム暦2173年。
 ギロク博士がテロを起こした。

やにわに去りて

 ゆらり揺られて 行ったり来たり
 可愛いあの子は お船で揺られ
 神様お顔を見てくださいと
 口にしたきり 戻りもせずに
 海と空とを湛えたような
 綺麗なお目目のあの子は今や
 神の身の上 空の上
 人と人との縁を切らん

 消滅の神様は、いつからか娼婦の転じた神様だと言われていた。揺れると言う動詞や船などの単語は性行為のメタファーだと言われ、彼女達が諸々の理由で思い人と結ばれなかった際岸壁街に落とす無念の塊を指していると。
 色合いの不思議な目の色は、珍しくもあり不吉の象徴の様なものでもあった。そしてそう言う人間は不思議と岸壁街でよく見掛けられた。

 ラサム暦2173年。
 仕事の為大陸に渡った際、上手い話に乗せられパグラ国のマフィアと密になっていたロレンツォが反旗を翻す。
 出先で襲撃されたボスはその際両足を切断する重傷を負い、行動を共にしていたキンバリー、ギデオンの二人はボスを守ろうとして命を落とした。
 歩く自由を失ったボス。命を散らした側近二人。サントル・オルディネは崩壊寸前だった。
 ロードはこれを好機とし、ボスの影響が弱い内に最後の手立てとして完全に組織と縁を切る手筈を整える。その企ては見事に功を奏し、彼は八年と言う歳月をかけやっと安全にヴォイドに会う為のスタートラインに立った。
 しかし、現れたそれは圧倒的な暴力だった。
 ギロク博士によるテロが発生する。後にミクリカの惨劇と呼ばれる前代未聞の大規模テロはサントル・オルディネなどものともせず岸壁街を飲み込んだ。
 ロードが八年掛けて踏み越せなかったサントル・オルディネと言う強大な親と繰り広げた熾烈な親子喧嘩は、ミクリカの惨劇と言う巨大な力によって幕を閉じるのだ。


 運も味方して掴んだ自由。
 しかし、想い人の安否は知れぬまま。
 やり切れない気持ちを抱えながらマルフィ結社所属となったロードは、前職である貿易会社の引き継ぎの仕事をこなしながら新規勧誘課の仕事に追われると言う多忙な日々を送っていた。
「なぁロード、この子岸壁街の出なんだって」
 同僚の男性からの言葉でふと昔を思い出すロード。どれどれと履歴書を見ると、そこには恋い焦がれた女性と同じ名前が記されており、写真は彼女のものだった。
「美人だねー!俺の奥さん程じゃあないけど!」
 悪気無くそう言う同僚かららしく無く履歴書をひったくる。その瞬間、ロードはにやりと笑うので男性は思わず引き気味に対応した。
「えー…そんな食い入る見方する程好みだった?ロードってそう言う話聞かないから意外だったなぁー…」
「ええ、好みですね。この上なく」
 彼女がここに居る。
 生きていた。
 歓喜に沸くロードは早速彼女の元へ足を運ぶ。例え恨まれていても、憎まれていても、それでも良い。自分の愛は出会った頃から変わらないのだから。
 今度はそれを伝えていけば良い。
「ユウヤ、ミ……」
「おやおや…随分ご無沙汰してましたね。私は似てましたか?そんなに。貴女の望む男に」
 彼女の関心を引いたのが別の男だと言う事に重く重く嫉妬しつつ、ヴォイドと再会したロードは憎しみと恨みと、殺意まで向けられてもそれすら愛おしそうに彼女を見つめて口にした。
「ここから出てまた私と共に生きますか?」

 幸せな時間はやにわに去りて。
 ただただ見つめるだけの時間の何と虚無な事だろう。
 それでも、それでも想いは廃れる事なく増すばかり。
 今度こそ手放す気はないと、そう思いながら愛を謳う。

 ねえ、私の幸せは今も昔も貴女なのです。