薄明のカンテ - はじめになまえありき/べにざくろ
それは名前が紡ぐ物語。



Wie ist dein Name?

 出勤してきたリアムを見たフィオナはカフェオレとコーヒーのようなオッドアイを瞬かせた。
「シュミットさん、風邪ですか?」
「ああ、まぁな……」
 マスク越しに聞こえるリアムの声は特に掠れたり喉風邪にありがちな声の異常はない。顔の半分を覆うような前髪が日頃から邪魔なリアムの顔は、マスクをすることで見えている部分が非常に少なくて不審者のようだった。
「風邪ひくと家に居ても娘に伝染うつしそうで怖いよなぁ。医療ドレイル班には行ったのか?」
 リアムにそう言って微笑みかけるのは同僚のティモフェイ・ボロドゥリン。彼もまた一児のパパであり、リアムと同じ娘馬鹿である。
「いや……」
「えー!? 週末、彼とデートなんでぇ、近寄らないで下さい」
 リアムの返答に声を上げたのは今日も可愛らしさに隙のないユリア・ベルだ。声を上げただけでなく、少し後退してまで距離をとるユリアにリアムは何とも言えない表情を向けた。そんなリアムの肩を慰めるように叩くのはティモフェイだ。
「娘が大きくなった時に『パパ、近寄らないで』って言われる予行練習だと思っておきなよ」
「うちのリリアナはそんなことは言わない」
「……うちのリュドミラもそうだと良いな」
 それぞれ娘が大きくなった姿を思い浮かべて遠い目をするリアムとティモフェイ。尚、ティモフェイの娘もリアムの娘であるリリアナと同じ5歳であるので、彼等の妄想の年齢になるまで、まだまだ先は長い。
「娘が彼氏連れてきたら身辺調査出来るように今のうちに探偵やってる奴探して仲良くなっておこうかなぁ……」
「そうだな。後で人事部のデータを見させてもらおう」
「前職、探偵って奴が都合良くいたら良いなぁ」
 娘の反抗期から妄想が発展した挙句に職権乱用まで口に出す親馬鹿な父親リアムとティモフェイに総務部の面々は生温かい目を向けた。
 そんな中、真面目な顔をする人物が一人。
「シュミットさん、ボロドゥリンさん。本当にやったら上層部うえに報告しますからね」
 眼鏡の奥を怪しく光らせ釘を刺すフィオナにティモフェイは「冗談だよ」と微笑む。微笑むが、若干笑顔が引き攣っていることを見ると本気だったらしい。
「……何やってるんですか」
 そんなわちゃわちゃとしている大人達に冷ややかな目を向けながら出勤してきたのは見に纏ったセーラー服が若さの象徴のようで大人には眩しく見えるクロエ・バートンだ。
 年齢のわりに大人びた性格の彼女はリアムに目をやると何かに気付いたように軽く目を見張ると、彼に近付いていく。風邪疑惑のあるリアムに近付くクロエにユリアが制止するように声をかけるが、クロエは構わずリアムへと近付いて行った。
「どうした?」
 鋭い眼光のクロエに見つめられながらも、若い女性に睨まれたからといって気圧される訳にもいかないリアムは平然と彼女を見つめ返す。そして気付く。クロエの紫色の目はリアムの目ではなく、リアムの顔半分を覆うような焦茶色の前髪の下に向けられていることに。
 これは良くない。
 リアムが判断するよりクロエが動く方が早かった。「失礼します」と素早く声をかけたクロエがリアムのマスクを手早く剥ぎ取ったのである。
「バートン!」
 珍しく慌てた声を上げるリアムの顔があらわになって、人々の視線がリアムに集中した。そして、彼がマスクをしていた理由が風邪ではないことを理解して噴き出す者も出る始末だ。
「気持ちはよーく分かるよ、リアム。俺もリュドミラにやられたら同じ事をすると思う」
 目に涙を浮かべる程笑ったティモフェイが口を開く。
「えー……気持ち悪いですぅ……」
 ユリアは普通にドン引きしていた。
 クロエはマスクの下に何かあると気付いてしまった自分に後悔しつつ、何も言わず静かにマスクをリアムへと返した。
「まぁ……“推し”にやられた事が宝になる気持ちは分からないでもないですよ。でも、それは……」
 リアムに寄り添うような反応を見せながらも苦笑いを浮かべるフィオナ。
 マスクの下、前髪の下に隠れていたのはピンクの水性ペンで書かれた子供らしい字の「リリアナ・シュミット」という名前だった。それはリアムの娘の名前である。
「……リリが保育部でオルヴォ先生から『大事な物には名前を書きましょう』と習ってきたんだ」
 クロエから返却されたマスクをつけたリアムが真面目な顔で言う。
 大事なもの=自分。
 そう言われたら嬉しくないお父さんは世の中にはいないだろう。しかし、当然の事ながらオルヴォの言った『大事な物』はあくまでも『物』であって『人』ではない。
「喜ぶだけでは駄目だと思いますが」
「分かっている。本来なら人にやるべきでは無いことはリリアナには良く言い聞かせてある」
 フィオナの正論にリアムも正論を返す。しかし、どんなにリアムが真面目な顔をしていても先程見てしまった頬に名前の書いてある衝撃は大きすぎて、ティモフェイは思い出し笑いをしてしまう。
「そういえばリュドミラも一所懸命に物に名前書いて皿にまで書こうとしてリージヤに怒られてたな。それにしても、だからって父親の顔にまで書くなんてリリアナちゃん、やるなー」
「それだけパパが大事だということだ」
 ドヤ顔をするリアムに悔しがるティモフェイ。
 そんなパパ2人をフィオナ、ユリア、クロエは冷ややかな目で見つめていた。そして静かに目くばせをして互いの意志を確認した女性達は、動き出す。
 まずはユリアが己の机に向かうと引き出しからそれ・・を取り出した。そして、それをユリアが投げるとフィオナが片手で華麗にキャッチして手早くリアムとティモフェイの前に立つクロエに向かって投げた。
 当然のようにそれを見もせずに受け取ったクロエは無言でリアムに向かって差し出す。
 それ・・を見て使用用途を理解したリアムのマスクの下の頬が引き攣った。
「バートン?」
「仕事に支障があるので落として下さい」
 クロエが差し出したのはメイク落としシートだ。
 今、リアムが「落として下さい・・・・・・・」と言われるものは一つしかない。
「断固拒否する」
 片頬を手で抑えて拒絶するリアムに、クロエは「ああん?」とばかりの睨みを効かせた。10歳以上年下の少女に睨まれているのに、リアムにそうと思わせない迫力を生み出すのはクロエの人生経験のなせる技だろうか。それでも気圧される訳にはいかないとリアムも静かにクロエを見つめ返す。
 そんな蛇に睨まれた蛙状態のリアムの肩を再びティモフェイが叩いた。
 彼ならばリアムパパの気持ちが分かるのだから、この場を助けてくれるだろう。そう思ってリアムはティモフェイを見たのだが、その彼が妙に爽やかな胡散臭い笑顔を浮かべているのを見て「あ、これは駄目だ」と悟る。
「落とす前に端末で撮っておいてやるから」
 サムズアップして微笑むティモフェイに、味方がいないことを理解したリアムは肩を落として、リリアナの愛のサインを落とすことになったのであった。

Pós se léne?

「――ということがありまして」
 昼時の食堂で友人のクロエが語った総務班の朝の一幕を聞いたミアは、口の中に入れていたトマトクリームの汁麦ジュ・バツをごくんと飲み込んだ。対するクロエは同じ赤い汁麦ジュ・バツだが、こちらはトマトではなく唐辛子の赤である。
「『大事なものに名前』かぁ……」
「ミア。ネビロス氏にやろうと考えてますね?」
「えっ!? 何で分かるの!?」
 クロエの言葉に茹でた蛸のように赤くなるミアにクロエはニヤリと笑う。
「友人ですからね」
「クロエちゃん、かっこいい!」
「まぁ、やるのは勝手ですし、そのまま外に出なければ良いと思いますよ?」
「大丈夫だよ! ちょっと写真撮らせて貰ったらすぐに消すもん」
 ミアが消そうとしてもネビロスが素直に消すだろうかとクロエは朝のリアムの様子を思い出しつつ考えてみる。おそらくネビロスもリアムのように涼しい顔をしているが消したがらないタイプの人間のような気がして、消す消さないでこのカップルは可愛らしく揉めるのだろうと予測した。
「あ、クロエちゃんもロードさんに名前書いちゃえば?」
「……何故、私がくそ兄さんに名前を書かなくちゃいけないんです?」
 地の底から響いてきそうなクロエの声に、ミアはニッコリと笑う。
「だってクロエちゃんの大事な人っていえばロードさんでしょ?」
 この時のミアの言う『大事な人』というのは恋愛的な意味ではなく保護者的な意味であった。ミアの友人になって数ヶ月、クロエもそれは分かっている。分かっているが面白くない。
「ミア」
 珍しく微笑んだクロエが自分の食事を掬ってスプーンをミアに向ける。それはモビデでケーキを分けてくれる時のクロエの行動と同じで、思わず反射的にミアは口を開くが、スプーンの中身が投入される前に中身の正体を思い出して慌てて口を閉じて身を引いた。
「ちっ、気付きましたか」
 舌打ちをしてクロエはスプーンを自分の口へと運ぶ。
「私、クロエちゃんみたいに辛いもの食べられないのに!」
「大丈夫です。牛乳を飲めば辛味は軽減されます」
 そう言われて「そうかなぁ?」のクロエの言葉を信じて一度挑戦して酷い目にあったことを覚えていたミアは首を横に振る。
「絶対ムリ! もうやらない!」
「何が無理なんだ?」
 その時、頭上から降ってきた声にミアは顔を上げ、クロエは振り向いた。
 そこに立っていたのは呆れたような表情をしながら食堂のトレーを持ったルーウィンだった。彼は背が高く、2人は座っているためトレーの中身は見えない。
「あ、ルー君!」
「フローレスの声は相変わらず良く聞こえるな。ま、うっせー訳じゃねーから良いけど。で、何があった?」
 ルーウィンは以前、顔に傷を負ったことで医療ドレイル班に暫くお世話になっていた時期があった。そこでミアが話し相手のようになっていた関係で彼女とはそれなりに親しい。
 ルーウィンの問いにミアは苦笑して答える。
「クロエちゃんの辛い汁麦ジュ・バツは私には食べられないって話してたの」
「成程な」
 クロエの前に置かれた食事に目をやって納得したらしきルーウィンは、そう言って自分のトレーをクロエの隣の空いている席に置いた。そのトレーに乗っているのはクロエと同じ赤い汁麦ジュ・バツと、彼の家が営む牧場の牛乳パックである。
「何で座るんですか?」
「飯食うために決まってんだろ?」
 クロエの問いにルーウィンはしれっと答えた。そんなルーウィンのトレーへクロエがおもむろに手を伸ばすと、ルーウィンの牛乳パックを取り上げる。
「お前、俺に牛乳無しで汁麦ジュ・バツ食えって言うのかよ?」
「そんな訳ないじゃないですか」
 そう言ってクロエは自分の飲んでいた市販の普通の牛乳パックをルーウィンの前に置く。要するに物々交換と言いたいらしい。クロエが置いた牛乳パックをルーウィンが持ってみるとまだそこそこ量があった。ルーウィンの牛乳も飲みかけだったので量的には平等な取引といえるだろう。
 とはいえ、それは量だけの話である。牛乳の単価を見れば不平等だ。
 それが分かっているクロエの行動は早かった。スカートのポケットからペンを取り出すと手に入れた牛乳パックにサラサラと自分の名前を書き記す。
「『大事な物には名前を書きましょう』を実践してみました。どうです、ミア?」
「あ、うん。そうだね……」
 何やら唖然としていたミアの反応は悪かった。だからと言って牛乳を手放すつもりもないクロエはさっさと牛乳パックに口をつける。名前を書かれてしまった為に取り戻すことを諦めたルーウィンもクロエから寄越された牛乳パックへと口をつけた。
「わ、間接キス……」
「ぐふっ!?」
 ミアが最初にクロエが牛乳パックを持った時から思っていて、遂に呟いた言葉に噎せたのはルーウィンだけだった。牛乳を噴き出す事は免れたものの嚥下に失敗して鼻にきてしまう。それは鼻から垂れる量まではいかなかったが普通に鼻の奥がツーンと痛んでルーウィンは思わず涙目になった。
「フローレス、お前……ふざけんなよ……」
「だ、だって間接キスなのは本当だもん」
 改めて『間接キス』と言われてルーの目元が涙とは別の羞恥で赤く染まる。
 しかし、その隣のクロエは平然としたもので何も感じた様子は見せない。
「バ、バートンは何も気にしねー訳?」
「はい。最初から分かっていましたし、伝染性単核球症でも咽頭淋菌でも咽頭クラミジアでも咽頭マイコプラズマでも咽頭ウレアプラズマでも梅毒でも口唇ヘルペスでも無いのなら何も問題ないでしょう」
「いんとう……?」
 医療ドレイル班所属のミアであっても初耳のような病名がクロエの口から流れるように吐き出されて思わず聞き返してしまう。
「キスで伝染すると言われる病気ですよ」
「難しいこと知ってるんだね、クロエちゃん……」
「くそ兄さんに何故か教えられましたので」
 それは『くそ兄さん』ことロード・マーシュがクロエに簡単に他人とキスをしないようにとの親心で教授した知識である。こんな事に使われているとはロードは夢にも思わないことだろう。
「バートン、牛乳返せよ」
「嫌です。何の為に名前を記入したと思っているんですか、こうやって返却できないようにするためですよ」
「ルー君。もうクロエちゃんから返して貰っても間接キスなのは変わらないと思うよ」
 呟かれるミアの言葉にルーウィンの顔はますます赤く染まる。
 横を見ればクロエは顔色一つ変えずに汁麦ジュ・バツを食べては牛乳を飲んでいた。これでは自分だけ間接キスを気にしている肝の小さな男のようで非常に気分が良くない。
 男ならこんな瑣末な事を気にしてしたら良くないよな。それに間接キスなんて名称だけで、たかがクロエあいつが飲んだ後に俺が口を付けただけでキスでも何でもねー。あいつが気にしてねーのに、俺だけ気にしてたら馬鹿みたいだろ。
 そう考えて、ルーウィンは腹を括った。
 何食わぬ顔を装って汁麦ジュ・バツに手をつけ始める。そして何食わぬ顔で牛乳を飲んだ。斜め前の席に座って「間接キス!」ときゃーきゃーするミアの視線はこの際無視である。無視するにはうるさ過ぎるが無視である。
 しかし、ルーウィンには誤算があった。
「やべ……」
 きゃーきゃーうるさいミアを一所懸命に無視しつつ食事を続けていたとはいえ、羞恥心に苛まれていたルーウィンの牛乳を口にする回数は多かった。その為、汁麦ジュ・バツを食べ切る前に牛乳が空になってしまったのだ。
「馬鹿ですね」
 汁麦ジュ・バツを食べ終えてデザートの牛乳プリンに口を付け始めていたクロエがルーウィンの状況に気付いて心底馬鹿にしたような声をかけてくる。馬鹿なのは事実なのでルーウィンは言い返すこともできない。
「ルー君、プリン食べる?」
 そう言ってミアが自分の食べかけのプリンをルーウィンへと差し出す。
 それを見たクロエが平然と言い放った。
「ミア。それでは間接キスになりますよ?」
「きっ、緊急事態だからそういうこと言ってちゃいけないかなって」
 赤面しながらミアに言われるとルーウィンは食べる前から凄く罪悪感がのしかかって来た。プリンで辛味は中和したい。しかし、食べたら色々と申し訳ない気分にしかならない気がする。
「……仕方ない」
 ミアのプリンをそっと手で差し戻したクロエは、自分の名前が書かれた牛乳パックをルーウィンの前に置いた。
「後で新品を所望します」
 そもそもクロエのせいで牛乳を飲むペースが早くなってしまったとか言いたいことは沢山あったが、辛味を中和することを第一としていたルーウィンは文句を牛乳と一緒に飲み込む。
「わっ、もうこんな時間!」
「急いで戻った方が良いですね」
 やがて、先にデザートまで食べ終わった女子達(元々、彼女達の方が食事をとり始めたのが早いのだから当然である)はバタバタとそれぞれの仕事場へと戻って行く。それを見送ってから汁麦ジュ・バツを完食したルーウィンは片付けようとしてふと気付く。
 ルーウィンの目の前にある牛乳パックには『クロエ・バートン』の名前がペンで書かれている。クロエのしっかりした性格を表すような整った字を見て思わずルーウィンから笑みが零れた。

――その後、ルーウィンはその牛乳パックが何となく勿体無くて捨てられず、棚に飾ってしばらく眺めていたという。

你叫什么名字?

 セリカは携帯型端末に届いた画像を見て金瞳きんどうを瞬いた。
 送信先はリアム・シュミット。姉婿の弟であり幼馴染であり、今は同じマルフィ結社で働く男性である。
 添付されていた画像はリアムの相変わらず愛想の無い顔だ。ただ、その顔には可愛らしいピンク色のペンで『リリアナ・シュミット』とリリアナの字で書かれている。背景から察するに撮影されたのは総務部の部屋だろうか。自撮りではない距離感と角度で撮影されていることからして誰か総務部の人間が撮ったことは間違いないのだが、この人達は仕事中に何をやっているのだろう。そもそもリアムは顔に名前を書かれたまま出勤したのか。

――リリアナが『大事なものには名前を書きましょう』で書いたものだ。

 画像に添えられた言葉で、リアムが顔の名前を消せなかった理由を悟る。
 数年前、いきなり姉婿(リアム実兄だ)から連絡が来て「弟に娘ができたよ」と聞いた時は何が起きたかと思ったが、事情を聞いて実際にリリアナに会ってリアムと立派な親子関係を築けているのを見ると良かったとしかセリカには言えなかった。少々、親馬鹿感が酷いが之も愛情の一種なのだろう。
 それにしても『大事なもの』で父親の頬に名前を書くとは、なかなかリリアナも大胆なことをやってのける子である。
 もし、セリカ自分だったら誰に書くだろう――?
「セリカちゃん?」
 急に名前を呼ばれて肩を叩かれたセリカは心底驚くが、肩を叩いた人物の正体を見て安堵の表情を浮かべる。そして、彼の名前を呼ぶ前に周囲の気配を探ることは忘れない。大丈夫。今は誰もいない。
「……ギャリーさん。どうしたんですかぁ?」
「俺は普通に休憩。セリカちゃんこそ、こんな場所でどうしたの?」
 セリカの肩を叩いたのはギャリー・ファンだった。
 たまたまセリカがいたのは経理部に一番近い休憩所だったのだ。
「着信がありまして……歩き端末は見苦しいじゃないですかぁ。それで此処で見ていた次第ですぅ」
「そんな大事な着信だったの?」
「いえ。リアムさんから来た他愛無いメールでしたぁ」
 日頃、リアムからの着信といえばリリアナを諸用の間だけ預かって欲しいという旨ばかりであった為に、今日もそのような用件かと思い急いで開いただけである。こんな昼間から依頼が来るとするとリリアナが体調不良であることも考えられた。万一、保育部に行っていて発熱でもあれば、他のお子さんに伝染させないために早く部屋に戻した方が良いというセリカの気遣いである。結果として、そんな気遣いも馬鹿馬鹿しい気持ちになるくらいの、ただの親馬鹿メールだったのだが。
「とても愉快……いえ、リリアナちゃんの可愛らしい悪戯の画像です。御覧になりますかぁ?」
「見ても良いの?」
「ええ」
 頷いてギャリーに画像が見えるように端末を向ける。そこに写っていたのがリアムであることに眉を顰めたギャリーだったが頬に書かれた文字と添えられた文章を見ると途端に表情を和らげた。
「『大事なものには名前を書きましょう』か……」
「……ギャリーさんなら何に名前を書かれるんでしょうかぁ?」
 悪戯っぽくセリカが問いかけると、ニィと口の端を上げてギャリーが艶やかに微笑むものだからセリカはほんのりと赤面してしまう。
 そんな中、ギャリーは懐から黄銅製の一本の棒のようなものを取り出した。否、棒とは違う。先端が大きくなっているものだ。
「矢立ですかぁ?」
「そう。セリカちゃん、知ってるんだね」
 筆と墨を一緒にした携帯用の筆記具である矢立の硯だが、ボールペン等が一般的になった近代では持ち歩く者は少ない。矢立を知るのはカンテ国では兎頭国や東国文化に造詣が深い者くらいであろう。
 手馴れた様子で筆を手にするギャリーに見惚れていたセリカだったが、その筆先が自分に向いた瞬間に我に返る。
「あの、ギャリーさん? その筆をどう為さるおつもりですかぁ?」
「『大事なものには名前を書きましょう』でしょ? ちょっと書けばいいから! 少しだけ書ければいいから!」
「お断りしますぅ」
 ギャリーは巫山戯てセリカに書こうとしているのかもしれなかったが、それでも『大事なもの』で自分に名前を書こうとしてくれているのは嬉しかった。しかし、名前を書かせる事を簡単に許す訳にはいかない。『ギャリー・ファン』なんて頬に書かれた状態でマルフィ結社の廊下を歩くなんて痴態を晒すのは、セリカにとって「はしたない事」だ。誰に見られても恥ずかしくて穴があったら入りたい事態になってしまう。
「あ、ファンさん!休憩中、すみません」
 そんな時、休憩所にひょっこりと顔を覗かせたのは珍しいことにいつもギャリーを連れ戻しに来ることで定評のあるギルバートではなくアルヴィだった。
 何故、ギルバートではないのか。
 そんな疑問がギャリーとセリカの顔に書いてあったのか。はたまた、空気感から悟ったのかアルヴィが苦笑を浮かべる。
「ベネットさんは機械マス班に行ってます。それでファンさんに聞きたかったことなんですけど……」
 アルヴィが差し出した端末に開かれていたのは兎頭国からの領収書だった。兎頭語がネイティブスピーカーであるギャリーにとっては簡単な事で、スラスラと内容を述べるギャリーの横顔をセリカはじっくりと見つめてしまう。
「ありがとうございます。すみません、休憩中に邪魔をしてしまって」
 そう言って頭を下げるアルヴィにギャリーは『ごた小僧』らしい事を思い付いた。ちょいちょいとアルヴィを手招き、何の警戒心も見せずに近付いてきたアルヴィの頭を抑えると、前髪を上げていて書きやすいキャンパスと化しているアルヴィの額に筆でサラサラと『肉』という文字を書く。
「えっ、何を!?」
 額に何かを書かれたということは分かるものの何を書かれたか分からずに慌てるアルヴィ。額に『肉』と書くのは兎頭国の悪戯ごたの一種だ。何故『肉』という漢字なのかは誰も知らないが、何故か昔から『肉』なので誰もが疑いもなく肉と書くのである。
「はい、マルムフェさん」
 動揺するアルヴィを端末で撮影してセリカはアルヴィに見せてやる。
「え、これ何て意味なんですか? え? え?」
 頭に疑問を浮かべるアルヴィに「兎頭国のおまじない」だと嘘を教えるギャリー。一瞬、信じかかるアルヴィだったがギャリーの目が笑っているのを見て嘘と悟る。
「これ、ベネットさんにやったら激怒じゃ済まないですからね……じゃあ、僕はコレを落としたら戻りますからファンさんも適度な時間で戻ってください」
 そう言って額に肉と書かれたままアルヴィが休憩所を出て行く。その後ろ姿を見ながらセリカはふと思い付いた。カンテ語ではなく兎頭国や東国の文字で書けば誰にも意味が伝わらないのではないかと。
「ギャリーさん、矢立をお借り出来ますかぁ?」
「ん? セリカちゃん、書いてくれんの?」
「ええ。面白そうですからぁ」
 にこやかに矢立をセリカに渡したギャリーはそう言って頬をセリカに差し出した。差し出された頬の綺麗な肌にセリカは嫉妬しつつ、受け取った矢立でギャリーの頬に名前を書く。
「はい。有難う御座いましたぁ」
 にこやかに微笑みセリカは矢立をギャリーへと返した。ついでにギャリーの顔を端末で撮影することも忘れない。
「見せて」
 撮影された自分の頬に書かれた文字を見てギャリーは焦茶色の目を見張る。
 ギャリーの頬に書かれた文字は『世凜伽御巫』。兎頭国の字と同じ字を使用しているがギャリーにしても見慣れない文字だった。
「我が家は昔、御先祖様が東國からカンテ国に来た移民なんですぅ。其れで名前だけは東國の文字で書けるようにしてるんですよぉ。尤も使用する機会なんて有りませんが」
 まさかこんな時に使うとは思わなかったが、これならセリカの名前と気付く者はいないだろう。さっさとギャリーに消してもらおうとセリカは手巾ハンカチを差し出すが、手巾ハンカチを受け取ったギャリーが素直に頬の名前を消してくれる訳はなく。
「ギャリーさん、早く消して下さいぃ!!」
「それは駄目でせ!」
 消して貰う為にセリカは苦戦することになるのであった。

Comment tu t’appelles?

「――ということがあったんです!」
 お昼休みを終えたミアの声が医療ドレイル班に響き渡る。
「スレ先生もエル先生に書きましょう?」
「まぁ、確かに書きたくなるくらいエルは可愛いけど、それを許してくれるかどうか分からないからなぁ」
 ネビロスと一緒に居たのでミアの話を聞く羽目になったスレイマンは、ミアの問いに満更でもない反応を見せつつも、愛しの彼女がそれを許さないだろうなぁと苦笑を浮かべた。いや、もしかしたら二人きりの時ならば書かせてくれるかもしれないが、ミアの話にあったように写真に残すのは決して許してくれないだろう。
「えー。エル先生にスレ先生の名前が書いてあるの見てみたいのになぁ……」
 ミアは不満そうだ。そういう彼女がいるからアペルピシアは画像という証拠を残させてくれないのだが、それをミアに言うのは可哀想なのでスレイマンは黙っておく。無駄な事を言って女の子を傷付けるような悪趣味はスレイマンにないからだ。
「それでミアはどうしたいのですか?」
「えっ」
 揶揄うような色を含んだネビロスの声にミアの頬が赤く染まる。ミアが何をしたいかなんてとっくに分かってやっているのだから悪い大人だよなぁ、とスレイマンは思うが恋人同士のイチャつく時間を止める気は無いので見守るだけに留めておく。
「ね、ネビロスさんのほっぺに名前書きたいなぁって思って……」
「どうしてですか?」
 微笑みを崩さず畳み掛けるようにミアに問いかけるネビロスに、ミアの頬はますます赤く染まった。そろそろ彼女がヤカンだったら沸騰するんじゃないかという程になったミアが小さな声でモジモジと呟く。
「ネビロスさんが私の『大事な人』だから、です……」
「良く言えました」
 胸焼けがしそうなくらい甘い甘い空気が漂うが、ミアとネビロスを見守るのは自身も恋人アペルピシアへ深い愛情を向けるスレイマンだけなので何ら問題は無い。仮に此処に恋人のいない寂しい独身男女がいたらダメージは酷かったことだろうが、いないのだから何ら問題は無い。
 椅子に座っていたネビロスが動き一本のペンを持って帰ってくるとミアに手渡して再び座った。何の疑いもなくミアはペンのフタをとってネビロスの頬に向けようとして――。
「ちょっと待った!」
 それをスレイマンの声が止めた。「ちっ」と舌打ちの声がネビロスから聞こえたような気がするのはスレイマンとミアの幻聴だろうか。
「スレ先生? どうしたんですか?」
「ミア、そのペン良く見て」
「ペン……?」
 ネビロスに渡されたペンを良く見たミアは空色の目を見開く。
「油性ペン……!?」
 そう。ミアがネビロスに渡されたペンは落ちにくいと評判の油性ペンだったのだ。こんなもので顔に書いた日には、なかなか落ちないで苦戦することだろう。
「ネビロスさんもこんなうっかりな間違いするんですね」
 ミアはネビロスが油性ペンと水性ペンを間違えたと思って、にこやかに笑って水性ペンを取りに行く。
 しかし、スレイマンはネビロスがそんなうっかりなんてする筈が無いことを理解しわかっていた。何故ならば、そんなうっかりをする人間は今ミアに気付かれないのを良いことに自分を睨んできたりなんてしない筈だ。
「ちゃんとペン持ってきました!」
 戻ってきたミアの手には『水性ペン』と書かれたペンと、書いた名前を落とす為かウェットティッシュケースがあった。ミアにしては準備のいいことである。
「では、書かせていただきますね!」
「はい。お願いします」
 ネビロスの差し出した頬を見てミアはペン先をあてる前に、思わず自分の人差し指をぷにっと当てていた。ペンではない感覚にネビロスが疑問を投げかける。
「ミア?」
「いつ見てもネビロスさんのほっぺというかお肌ってキレイで羨ましいです。良いなぁ……洗顔料、何使ってるんですか?」
「何を使ってるも何も、ミアは私の部屋に来てるのだから知っているでしょう?」
「えへへ、気分で言ってみただけです」
 どうしようもないバカップル感丸出しの会話が繰り広げられているが、重ね重ね言うが見ているのはスレイマンだけなので何の問題もない。問題はないが少しは自重して欲しいなぁとスレイマンは思う。スレイマンだってこれだけバカップルの会話を見せつけられてはアペルピシアに会いたくなってしまうが、残念ながらアペルピシアは別室で仕事カウンセリング中で終わらない限り会うことが出来ないのだから。
 そんな甘々で砂糖でも吐きそうな空気を纏ったままミアはネビロスの頬に『ミア・フローレス』と書いていく。いつもよりちょっとだけ丸みを帯びたかわいい字を意識した字で書ききると、ネビロスがミアのものになったみたいでちょっと気分が良い。
 ペンを置いたミアは写真を撮ろうと自分の携帯型端末を手に取る。そしてネビロスに向かって構えようとして、彼がペンを手にしていることに気付いて小首を傾げた。
「ネビロスさん?」
「ミアも頬をこっちに向けて下さい」
「へっ!? えっ……はい」
 ネビロスに言われるがままミアは頬をネビロスへと向ける。その頬にあたるのはペン先ではなく、ネビロスの細くて綺麗な指だ。
「あれ? ネビロスさん?」
「ミアもやったのだから、お返しですよ」
「ネビロスさんは肌が綺麗だから良いんです!」
「ミアの方がずっと綺麗な肌をしていますよ」
 ぷくーっと頬を膨らませるミアに面白がって更にネビロスは頬をつついて遊んでいた。そんな様子を見てスレイマンが遂に声を掛ける。
「おーい、お二人さん。早くしないと後半の昼食組が帰ってくるよ」
 遊んでいられる時間は残り少ないのだとスレイマンの言葉で悟ったミアは頬を膨らませるのを止めて大人しくネビロスに頬を差し出した。ネビロスも時間を無駄にする訳にはいかないので今度は大人しくペンをミアの頬に走らせてサラサラと流れるような字で『ネビロス・ファウスト』と書いていく。
「はい、終わりました」
「写真撮りましょう!」
「はいはい」
 はしゃぐ娘とそれを微笑ましく見守るお父さんのようだよなぁとスレイマンが見つめる中、ミアとネビロスは頬を寄せ合って写真を撮っていた。連写かという程シャッター音が聞こえるのは、ミアが少しでも可愛く写ろうと本人なりの努力をしている結果である。恋する乙女はいつだって必死なのだ。
「はい!ありがとうございました!」
 ミアの脳内会議的に最高に盛れた一枚が撮れたところでミアは撮影を止めてネビロスに笑いかける。そして、頬の名前を落とすためのウェットティッシュを一枚手にとってネビロスに差し出しかけて、彼が立ち上がっているのを見て手を止めた。
「ネビロスさん?」
「おい、ネビロス?」
 違和感に気付いたのは傍観者のスレイマンも一緒だった。
 立ち上がったネビロスは頬の名前を落とすために水道に向かうのかと思われたが、そうではなく何食わぬ顔で・・・・・・仕事を再開し始めたのだ。カルテを整理する為に見つめるネビロスの横顔は今日も格好良いが、その頬に『ミア・フローレス』と丸っこい字で書いてあるのが何ともいえない違和感の塊だ。
「ね、ネビロスさーん。消しましょうよ」
 そう言ってオロオロとミアは近付いていきウェットティッシュをネビロスの頬へと向けるが、その手首を優しくネビロスは掴んで止めた。
 そして至高の微笑みアルカイックスマイルを向けるものだから、ミアは紅潮して動けなくなる。
「このままで良いですよね?」
「は……」
「こらこら、ミア。流されるなって」
 キラキラの笑みを浮かべたネビロスに簡単に流されて「はい」と頷こうとしたミアを止めたのは当然ながらスレイマン。今日はこのカップルのツッコミ役として何回ツッコミを入れているだろうと思いながらも彼は緑色の目に優しさを湛えたままミアを見つめた。
「スレ先生?」
「ミアも顔の名前落とそうか? ネビロスもミアをからかってないで、早く落とそうな」
 ネビロスが本気で名前を消す気が無いことは悟っていたスレイマンだったが、そこは「ネビロス大人ミア子供をからかっていた冗談」ということにして場を収めることにした。朗らかに笑みを浮かべつつも有無を言わさないスレイマンの空気に、ミアはネビロスに渡そうとしていたウェットティッシュで大人しく頬を拭く。
「ほら、ネビロスも」
 聖人スレイマンVS魔王ネビロス
 そんなことを言いたくなるような2人が見つめあった後、ネビロスは渋々ではあるがミアが持ってきたウェットティッシュケースから大人しく一枚手に取って頬を拭いていく。
「ミア。後で画像を送ってくださいね」
「もちろんです!今送っておきますね!」
 女子高生らしく手早く端末を操作してミアは最高に盛れた一枚をネビロスの端末へと送信する。そして自分の端末の待受画面を変更することも忘れない。
「さあ、午後の仕事も頑張ろうな」
 スレイマンの言葉にミアは端末をしまうと元気に「はい!」と返事を、ネビロスは静かに頷いた。

――この夜、これだけ甘々な様子を散々見せられたスレイマンがアペルピシアの頬に名前を書いたかどうか、こっそり誰にも見せない約束で写真を撮ったかどうかは、定かではない。