薄明のカンテ - それは世界を救うと思うんだ/燐花

闇深い目のソムリエ

「ねえヴォイド。お願いがあるの」
 この日は休みだったのか、いつもの様にネグリジェにパーカーを羽織ったまま休憩所でお茶を飲んでいたヴォイドは真面目な顔のウルリッカに声を掛けられ首を傾げた。ウルリッカがお願いなんて珍しい。
「…何?」
「聞いてくれる?」
「良いよ」
 おそるおそる返事を返せばキラキラした顔をするウルリッカ。ヴォイドは「何故お願いの内容を聞かなかったのか」、次の瞬間数秒前に戻りたくなった。
「ありがとう、胸を触らせてほしかったの」
「え、何て?」
「じゃあ早速…」
 一掴み、二掴み。
 瞬時に背後に回ったウルリッカはあっという間にヴォイドの胸に手を回すと優しく、しかし形を探る様に力強く彼女の胸を持ち上げた。
 一瞬混乱して何もかもがすっ飛んだヴォイドの手がやっと慌て気味にウルリッカの手に添えられる。
「ちょ、ちょっとウル!」
「何…?」
 ウルリッカの瞳の何と暗い事だろう。ヴォイドは文句を言いたかったのに喉元までで引っ込んでしまうのを感じた。彼女の瞳の闇は、さながら北の海の更に深く深く底の方、太陽の光の届かない冷たい深海、或いはそこに住む深海魚の如しだ。その瞳を見た瞬間、ヴォイドは喉の奥が「ヒュッ」と鳴った。
 動いたら、狩られるかもしれない。
 しかし、ウルリッカは黙々と手を動かしていく。小さな女性の手で胸を触られるのは何だかこそばゆい。しかも、その手の持ち主が海より深い闇を湛えた目をしていたら尚更言い様の無い不穏な空気すら感じる始末だ。
「ウ、ウル…」
「何?」
「さっきから、呪文みたく唱えてるのは何…?」
「うん…」
 ヴォイドの胸を鷲掴み、形、重さ、柔らかさを堪能しながら彼女の耳元で確かにウルリッカは呟いていた。

 ──山神様……何で私にコレをくれなかったの

「(怖っ…)」
「ヴォイドの胸…柔らかいね…」
「う、うん…」
「……………大きいね」
「…間が気になる……」
「…が…様……私に…た…の…」
「ん?」
「…山神様何で私にコレをくれなかったの山神様何で私にコレをくれなかったの…」
「……怖いんだけど…」
 とは言え、女性同士だからこその恥ずかしさも徐々に感じてきたヴォイド。いや、今のところ動いたら狩られるのでは無いかと言う恐怖の方が勝っているが、諸々あってヴォイドは少し硬直していた。
「ヴォイド、硬くならないで…?」
「む、無理…だって…何かウル、怖い…」
「怖い…?どうして…?何モ怖クナイヨ?」
「…既に何かおかしいんだってば」
「そんな事ないって。ほら、リラーックス」
「…無理、難しい…」
 と言いつつウルリッカの動かす手は止まらない。尚もムニムニと手を動かし、その度にヴォイドの胸が形を変えてふにふにと動く。下手に動けないからお茶も飲めないし、かと言ってただ立っているだけは流石に恥ずかしいしどうしたものかと思っていたら今までにないくらいウルリッカが大きく開いた手で胸全体を覆ってきた為鷲掴まれたヴォイドは思わず声を上げた。
「きゃっ…!ウル!?」
「…山神様…何で私にコレをくれなかったの…」
「また!?こ、怖いってばウル!」
「大丈夫…痛くしない…」
「痛くはないけど今少し変な感じするの!」
「ん…?じゃあ、もっと優しくする…」
「そうじゃなくて…わっ、まだ触るの…?」
「…怨念を全部ぶつけるまで」
「最早目的は何…?」
 ウルリッカは優しく触れていたと思ったら時折強く揉みしだき、手は確実にこの数分間で胸を堪能する実力を増していた。カンテ国のどこの海よりも深い深い闇を湛えた瞳も相俟って、しかし真剣そのものなその顔は最早乳ソムリエである。
「ヴォイドの胸…柔らかいね…大っきいね…」
「そ、そう…?」
「……悔しいね」
「最後に入ってくるそれが怖いんだってば」
「でも、触ってて何か安心する…」
「……それは良かった…?」
「ヴォイドの胸は安心する胸…よし、覚えた」
「覚えてどうするの」
「いざと言う時思い出して憎しみと共に揉みにくる」
「憎しみは置いてから来て欲しい」
 もにゅもにゅと言う擬音が飛び交う中、よく考えたらここは休憩所だと言う事をお忘れあそばせているお嬢さん方二人である。
 そう、この場に居るのは彼女達だけではない。
「おぉっほぅ……」
 聞いた事のない様な訳の分からない言葉を発したギャリーの手から煙管がするりと落ちる。
 カツーンと静かに音を鳴らしたそれは、時が止まったかの様に笑顔のまま固まっているロードの顔も反射していた。

情報過多なスペース

「うふふふふふ…いや、これは何て良い眺めでしょうねぇ…うふふふふふふ」
 同じく休憩所でコーヒーを飲んでいたロードは穴が空くのではないかと言うくらいウルリッカの悪戯に見入っていた。少なくともガッツリ視界に捉えた彼に「目を逸らす」と言う選択肢は無い。始まった瞬間時の止まった様に笑顔のまま動かなくなっていたロードだが、頭の中で状況を整理し理解した瞬間、彼はいつも以上にニヤけた顔でその特徴的な笑い声を存分に漏らしながらウルリッカの手によってヴォイドのカヌル山が動く様子を食い入る様に見つめている。
「君…本当相変わらずだよねぇ…」
「うふふふ…涼しい顔して貴方はどうなんです?」
「まあ、何の魅力も感じないと言うと嘘になるけれどねぇ」
「うふふふふ、つくづく腹の底の見え難い方ですねぇ…」
 すると煙管を取りたいのか、でも目線を外せないのか、中途半端に前屈みのポーズのまま固まっていたギャリーも声を上げた。
「…いや単純にエロいだろ。ウルちゃんとヴォイドちゃんって不思議な組み合わせだけど、ウルちゃんが小さいせいで角度によっちゃヴォイドちゃん誰に弄られてんだか分からなくてまた良い…ってかウルちゃんえらいけんまくで触るじゃん。良いなー女の子…俺だってあんな触った事ない…っつーかあのレベルはお目に掛かった事ないのに…」
 とうとう落とした煙管を拾い上げながらも目線は逸らせないギャリー。体を折る様に倒しても首だけはしっかり前を向けた状態の少し無理な体勢で拾い上げると固唾を飲んで二人を見守る。
「うふふふふ…あの子をエロい目で見たら殺しますよ」
「え?何で俺だけ?ユウヤミは違うだ?何で俺だけ?」
「…と言いたいところですが、流石にこれは不可抗力と致しましょう。そこに谷間あれば目で追ってしまうもの。ジト目、ほぼ下着、彼パーカーの如しな羽織物。そんなものが揃ったあれだけ豪華な乳揺れが目の前にあるんです、目を逸らせなんて無理な話ですからねぇ。しかも第三者の手で良い様に揺らされている蠱惑的扇情的な巨乳の誘惑に抗える男なんて居ます?」
「お?えれぇ寛容じゃん。熱く語り過ぎてアレだけど、気持ちは分かる」
「……その代わりオカズにしたら殺します」
「うわー…って言うかどう確認取るんだよそれ」
 それはさておき、と振り返ったロードはユウヤミとギャリーの合間を抜けるとある男の前まで歩みを進め挑発的な目で彼を見た。そんなロードの視線に耐えられなくなったのか彼──ネビロス・ファウストは一つ二つ咳払いをすると手に持っていたお茶を啜る。
「……ロード、何の用です?」
「うふふ、いえいえ。血の通わない鉄仮面かと思いきや…そんな顔も出来たんですねぇ…」
 口、開いてましたよ。
 そうロードに指摘されネビロスは瞬時に口を手の甲で軽く覆い顔を背ける。耳まで赤くして逃げる彼の顔をロードは容赦無く追った。
「うふふふ…草食動物みたいな雰囲気醸し出しておきながら、ねぇ?」
「…何が言いたいんです?」
「いやいや、口開けたままガッツリ目で追うなんて、そんなファウストさんの意外な一面が見れて面白かったなぁと…」
「……珍しい光景だったので今何が起きてるのか脳内で判断と処理が遅れただけです」
「おやおやおやおや。随分と想像以上に処理も判断も遅れていた様ですが、具合は大丈夫で?意思のある目でガッツリ見てましたよね?」
「たまたまそう見えただけじゃないですか…?」
「いやいや。性欲なんて微塵もありません、みたいな顔してラッキースケベ好きな辺りおとこですねぇ、好感持てます」
「持たなくて結構ですしそのレッテルは是非とも剥がして頂けます?」
「良いじゃないですか。鉄仮面より人間味あって良いですよ。ええ、趣味がむっつりの方がねぇ?」
「…表に出し過ぎる貴方よりはマシだと思いますけどね」
「うふふ、世間じゃオープンよりむっつりの方が風当たり強いんですよ」
 そんな二人が一番最初に目に入り、「この二人何でこんな争ってんだ?」と言いたげな顔で現れたテオフィルスは目の前に広がる妙な光景にあんぐり口を開けた。
 恥ずかしそうに、いやどちらかと言うと恐怖の色すら浮かべて少し涙目になっているヴォイド。
 そして幸せそうに、しかしやりきれない何かがあるのか深海よりも暗く冷たい目でありながら吟味する様に手を動かすウルリッカ。
 呆然としたまま目を逸らせずに、手に持った煙管を吸うでもなくその二人を凝視するギャリー。
 何故か女性陣そっちのけで途中から口喧嘩に発展したロードとネビロス。
 こんな状況にも関わらずいつも通り涼しい顔で珈琲を飲んでいるユウヤミ。
 何か把握した様な把握しきれない様な。
「…何だ、この情報量多過ぎて処理に困る空間は…」
 テオフィルスがポツリとそう漏らしたその時、ユウヤミも時計をチラリと見、口を開いた。
「ああ…更にうるさくなるのは後二十分くらいか」

して、感触は?

 未だヴォイドの胸を掴んで離さないウルリッカは、深海魚の様に深い闇をその瞳に湛えている。しかし、テオフィルスは急に目の前に広がる光景に一瞬心臓を跳ねさせるとそれを落ち着かせる様に一つ深呼吸をした。
 いくら何でも、好きな女性のこんな姿を見て何も感じない筈がなく。それがただでさえスタイルの良いヴォイドだったのでテオフィルスはウルリッカの事はそこそこに彼女の手元にどうしても目を遣ってしまう。
「……テオ、近くない?」
「え?」
 テオフィルスがかなり近い位置まで来ていた為思わず突っ込むウルリッカ。ヴォイドも助けを請う様な視線をテオフィルスに向けた。
 彼から見た二人のその姿はさながらボウエンギョに捕食されそうになっているホウライエソの様である。ちなみにボウエンギョもホウライエソもなかなか癖の強い顔をしており、正直例えとしては不向きで何故この二匹が頭に浮かんだのか疑問視するレベルだが、テオフィルスの思考が宇宙の果てもとい深海の底に行ってしまったと言う意味で見ると彼のパニックがどのレベルか非常に分かりやすいとも言える。
「悪り、見入ってた…」
「気持ちは分かるけど、さらっと言うね…テオ」
「いや、何つーか…」
 どうしようかとヴォイドの方を見る。ばちりと視線が合うと、ヴォイドは潤んだ瞳でテオフィルスを見つめた。
 その目は確実に「助けて」と言っている。

 テオフィルスの目の前で。
 初恋の女性が。
 同僚(とても暗く闇を湛えた目をしている女性)に背後から胸を思い切り揉まれ。
 少し目に涙を浮かべながら。
 こちらを見つめている。

 こちらを見つめている。

「…ウルちゃん、揉み心地の感想くれねー?出来たら事細かに詳しく頼むわ」
「(裏切り者ー!!)」
 色々と胸の内で秤にかけてどうにかこうにかやりくりを頑張ったテオフィルスだが、彼も欲には勝てなかった。テオフィルスはウルリッカの手によって形を変える胸をチラチラ見ながら彼女に尋ねる。ヴォイドの視線は刺す様に彼に注がれるが、テオフィルスはなるべく気にしない様にしながらウルリッカの言葉を待った。
「感想…?」
「出来たら想像しやすい様な分かりやすいの頼むね」
 テオフィルスのその言葉にその場にいた全員(ユウヤミを除く)が驚くくらい聞く耳を立てたのをテオフィルスは見逃さなかった。
 コイツら…下心丸出しにも程があるだろ。と言うか、ミアちゃんがまた無駄に不安になりそうだからアンタはあまりあからさまに反応すんなよ。一見聞いてない風で結構がっつり聞く耳立ててんなこの兄さん。
「感想…そうだね…。思ったより、重い」
 ウルリッカは闇を湛えた瞳をそのままに、しかしきらりと光らせヴォイドの胸に添えた手をまたふにふにと動かす。
「柔らかいけど弾力あって、触る度に形を変えるからこれはたまらないと思う。単純に触ってて気持ち良い。手でむにゅってすると手の中でもにゅってなって、ふにふにって動かすともにもにってなる。ちょっとだけ乱暴にもにゅもにゅしたくなるけど、触るだけで分かる温かさ…そう、ヴォイドは生きている…だから痛かったり乱暴にはしないでおこうと我慢するんだけど、多分ふにふにふにふにしたらもにもにもにもにすると思う。たぷたぷするとふんよふんよするのが結構気持ち良いって気付いた。重そうだから大変そうだけど、山神様はどうして私にコレくれなかったんだろう…くれても良いのに…。でももらえなかった分もヴォイドの胸ふにふに出来るからとりあえず良いし、むにむにした感じ、前から触るのも良いけど後ろからぴとってくっ付きながら触るのが最高に気持ち良いと思う」
「分かります…!分かりますよウルリッカさん…!私も胸に関してはバックハグからさり気なく前に回してごくごく自然に触るのが好きですね…!!」
「わぁ。とうとう我慢出来ず突入したねぇマーシュ君」
「狐さん、仲間……。隊長は?興味無いの?」
「ん?無くは無いけど、パッと見た感じから触らなくともどのくらいの力でどう動くかは物理演算の如く総合的に計算出来てしまうからねぇ」
「ウルリッカさん…貴女の敬愛する隊長はそう言う男なんですよ…貴女を満足させる事一つ言えないんですきっと…!ソロプレイで満足するし何でも自分一人で解決してしまうんです…!」
「いやいや、何でも一人じゃ限界あるけれどねぇ。しかしそのやけに含みを持たせた妙な言い方何だい?」
 これはロードも相当はしゃいでいると見える。気付けば「トイレに行く」と残しギャリーは先に帰ってしまったし、何故かネビロスは固まったまま動かないし、そんな中テオフィルスは一人ウルリッカの述べた感想を思い出していた。
「(ぎ、擬音だらけで分かりやすいんだが分かり難いんだかよく分かんねぇ…!!)」
 こうなれば、自分の手で直接確かめたい。
 一瞬そんな誰よりも邪な考えが頭を過り、テオフィルスはぶんぶんと頭を振って雑念を散らそうと努力した。
 が、あまり雑念は散ってくれなかった。
「テオ…?」
 騒ぐ面々を躱す様にテオフィルスがヴォイドに近付く。ヴォイドが顔を上げるとテオフィルスは何だかやけに感情の無い顔をしている。
「どうしたの…?テオ…」
「ヴォイド…俺……」
 そっと伸ばされる彼の大きな手。ヴォイドはそれが近付いて来る間じっとしたまま動けずにいた。
「いやぁぁぁぁあっ!!!ウルちゃん!!」
 その声にユウヤミが腕時計を覗く。予想はぴったり。先程時計を見てから二十分、「更に煩くなる要因」ことアルヴィが真っ赤な顔で飛び出して来た。
「ちょっとちょっとウルちゃん!?な、何してるの!?」
「何って…山神様へのちょっとした抗議と共に乳ソムリエになりたくて」
「全体的に何だって!?」
 アルヴィは状況を把握するとヴォイドに触れない様に気を付けながらウルリッカの手を離し、ここでやっと彼女は解放された。
「す、すみませんホロウさん…昨晩ウルが山神様の資料を見に来て…珍しく暗い顔をしていたから何かしでかしそうだとは思ってたんですが…」
「割と強めなしでかしをされた」
「ほ、本当にすみません!!出来たら穏便に示談でお願いしたいと思うのですが…!!」
「別に大事にする気はないし良いけど…って言うかアルヴィ、何でそんな謝り慣れてるの…?」
「別に謝り慣れているとかそう言う事は決してその…無くてですね……とにかくウルちゃん!もう!ウルちゃん!」
 アルヴィの乱入でやっと解放されたヴォイド。その後しばらくはウルリッカに戦々恐々とし、最終的にはくっ付くのがデフォルトでは無いかと言われるくらいウルリッカのソムリエ的手腕を許してしまうのはしばらく後の話だ。
 ネビロスは少しの間ヴォイドの顔をまともに見られない日々を過ごしたし、ロードもしばらくにやけ顔が元に戻らなかったし、先に席を外し経理部に戻ったギャリーによってどうもギルバートも流れ弾に当たった様だ。鋼のメンタル、ユウヤミはいつもと変わらなかったが、ただ一人テオフィルスは密かに頭を抱えた。
 アルヴィが突入する直前、自分は一体何をしようとしていたのだろう。あの時雑念が散りきってくれなかったら、アルヴィが来なかったら──…。

 深海魚の瞳、ウルリッカによって密かに調子の狂う生活を余儀なくされた男性陣。その後、やっとこの時見たものを「幻か?」くらいに思える様になった頃、彼女がまたソムリエとして手腕を奮う姿を発見し仰反るほど驚く事になる。