薄明のカンテ - その恋は『めでたし』で終わるにあらず/燐花
 死にたい。彼女からそれに準じた言葉をもう何度聞いた事か。
 ギャリーは仕事終わりに待ち合わせ場所で恋人の到着を待ちながらSNSに投稿されたその言葉を見て溜め息を吐いた。冬の空に白い息が溶けて散らばる。それ程までに今日は寒い。
『もう彼と待ち合わせの時間なのに、急に死にたくなってる』
『会いに行かなくちゃいけないのに』
『どうしよう。外に出たら歩ける気がするのに、その外に出るのが難しい』
 今日も彼女は遅くなるだろうと察したギャリーはSNSを見た事は言わずにメッセージで一言断りを入れる。「ちょっと飲み物買いに行って来るから、こっちは大丈夫だからゆっくりおいで」と。彼女からはすぐに「分かった」と返事が来たが、そもそも彼女が今どこまで来ているかは分からない。
 彼女と出会ったのはそんなに昔の話では無い。兎頭国からカンテ国に渡って割とすぐ。飲み歩いていてたまたま出会って意気投合した。飲んでいて気分が高揚して、どうしようもなくキスがしたくなって無遠慮に唇を奪って。彼女が受け入れるかの様な態度を取ったのを良い事に触れていたらその気になって来たのでそのままホテルに連れ込んだ。それで終わるものだと思っていたがどうやら彼女に惚れられていたらしく、しかし口に出さず思わせぶりな態度ばかり取るものだから結果としてギャリーもそれに乗っかった。
 彼女から好意を向けられている。それを知っていてまだ気持ちも伴わないのに都合良く体だけ重ねた事もあった。その後結局離れ難くなって付き合うまでに至った訳だが、付き合って間もなく彼女は職場で激務に追われた末心を病んでしまった。しかし、ギャリーは楽観的だった。彼女の病状に対してではなく、彼女との関係に。何故かギャリーは、この病気があったとして彼女との関係が終わると思えなかったのだ。
『彼が優し過ぎて辛い。本当はもう着いてるのに、私にゆっくり来ても良いって言ってくれた』
『どうしよう。私まだ待ち合わせ場所迎えない。彼は私の為にいつまで待っててくれるかな』
『どうしよう。本当に外に出るのが億劫になって来ちゃってる』
 これはまだまだ掛かるだろうなとギャリーは気ままに待つ事にした。昔は遅刻されるのを本当に嫌い、それだけで友人と喧嘩になったものだが最近はすっかり待つのも慣れた。自分は「待ち合わせしたら三十分は遅れるのがデフォ」な女の子と付き合ってるいるのだと思ったら早々に受け入れられてしまった。と言うか、病んだ彼女に対し受け入れる以外で自分が出来る事は分からなかったし、逆に自分だからこそしてあげられるのが受け入れる事なのだろうと漠然とそう思った。
 だから彼女がいくら関係に危機感を覚えようとギャリーは別れると言う選択肢は全く浮かばない。そう言う意味で今日も楽観的に待ち合わせ場所で待つ。
 しばらく端末を弄りながら時間を少しだけ気にしてみる。ギャリーが後から買った飲み物がちょうど空になる頃、待ち合わせの時間から一時間程遅れて彼女はやっとやって来た。一時間と言うのはまあ、普段から比べると早い方だ。一番遅れた時は過去に三時間待った事もあったのだから。
「ギャリー…」
「よぉ。お疲れ」
「ギャリー…ごめん、私…またこんな遅れて…」
 会って早々、小さく震え上がってしまう彼女。ギャリーはそんな彼女を優しく抱き締めると、頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「偉い偉い、ちゃんと来れて偉い」
「で、でも私…遅れて…」
「大丈夫大丈夫。ちょっと会う時間は短くなるけど、顔が見たかったから見れただけでも嬉しいよ」
 よく来たね、と顔を覗き込んでそう言うと、彼女は声も上げずにポロポロと涙を零し始めてしまった。とりあえず今日のデートも夕飯だけ食って帰りかなー?と思いながら移動し、仕事の関係で探していた部品を求めて電気屋に入る。大型のビルの最上階はレストランフロアになっているのでついでに食べて帰るのには色々と便利なところだ。
「あー…そう言や近くにホテルもあるけどどうする?金なら俺出すけど」
「え…」
「──って、今そう言うの難しいっけ?気分的に。その…自分の部屋じゃ無い他所の場所で寝るの」
「ご、ごめ…」
「ごめんごめん、謝らせたかった訳じゃ無いから。そう言う事なら、今日は買い物して飯食って帰ろうぜ」
 そう言ってギャリーは彼女の手を取り、指を絡めて繋ぐと店内を物色する。
 そもそもこれは自分の用事だし、今の彼女には買い物に付き合う時間は苦痛だろうと一通り棚を眺めたら店員に直接聞く事も考え始めた。その時、繋いだ手の先で彼女が震えている事にギャリーは気が付いた。
「ん?…どした?」
「……わ、い…」
「何?ごめん、今何て言った?」
「怖い…怖い…怖い…!!」
 彼女はギャリーの手を振り解き、その場から走り出す。フロア内を全力疾走する勢いで走り出してしまった。
「あー…すげぇ」
 ギャリーはそんな彼女を一瞬だけ呆けながら見つめると、彼女とは反対側の方向へ歩みを進める。間にエスカレーターがあるビルの作りだから、反対側に向かえば爆走した彼女と鉢合わせられると冷静に考えたのだった。
「怖い…怖い…怖い…!!」
 一方、ギャリーから手を解いた彼女はフロア内を駆け回っていた。先程から、自分達以外の客が全て怖く感じていた彼女はその場から逃げ出したくなっていた。そして彼女の病んだ心持ちは、それを実行させてしまった。ギャリーの手を無理に解き、店の中を駆け回る。
 怖い。怖い。普通の人が怖い。きっと彼らはきちんとその日仕事をして、きちんと自分の為すべき事をこなして、そしてここにいるのだ。病んで何も出来ない、何をしたらいいのかすら分からない自分とは大違いで。そう思ってしまったら、自分の見える範囲にいる全ての人に対して言い様の無い申し訳なさと恐怖が込み上げてきた。言われても居ないのに責められている様な嘲笑われている様な気になってしまう。
 ギャリーは、恋人は優しい。けど、それであってもこの大勢の人の発する生気が怖い。

 最早今の自分は生きている自分以外の人が怖い。

 そう思いながらフロアを一周しようとした時、がしっと誰かの大きな手がタックルをする様な体勢の自分を包んだ。それは他でも無い、ギャリーの腕だった。
「よっと、捕まえた」
「……怖い…」
「ほれほれ、どうした?急に」
 言い様のない恐怖から逃げ出した自分を身を挺して止めたギャリー。逃げ出した時のパニックと恐怖から過度に混乱した彼女は、受け止める様に包んでくれた彼の肩に目を付けると、そのまま口を大きく開け歯を剥き出しにし勢いのまま噛み付いたのだった。
「おおぅ…か、噛み付くのね…?」
「ふーっ…!ふーっ…!」
「……手負いの獣みたくなってんじゃん」
 それでも、ギャリーは決して手を離さず、そのまま力を込めて両腕でしっかり彼女の体を抱き締めた。
「ん。良し、噛め噛め」
「ふー……ふー……!」
「…辛いなぁ、普通にしててそんな逃げ出したくなる程周りが怖く見えちゃうなんて、辛いよなぁ」
「ふー……んっ…ギャリー、ギャリー…!」
 噛む事を止め、今度こそ声を上げて泣き始めてしまった彼女。店のど真ん中ではあったがそんな事は気にせず、ギャリーはぽんぽんと頭を撫でるとしっかりと自分よりも小さいその体を抱き締めた。
 噛まれはしたがカンテ国の冬を凌ぐだけの厚手の羽織を纏ったギャリーはその時痛みすら感じなかったと言うのが本当だ。それでも一生懸命恐怖に抵抗しようとした彼女の事を思うと、痛まない筈の肩が痛む気がした。

「どう?落ち着いた?」
 その後何とか彼女を落ち着かせ、ギャリーは自分の買い物もそこそこにラストオーダー前に店に入った。彼女がいつもの笑顔を見せたのは頼んでいたデザートが来た時だった。
「うん…ありがと…」
「…ここさ、チェーン店だけどパスタ美味くてさ。この間パーツ買いに店に来たお客さん…あ、その人ちょっと名前が兎頭国人っぽかったんだけど…藍色の綺麗な髪で長めの襟足を三つ編みにしててさ、俺も将来歳取ったらそんな髪型にしようかなー…?あ、で、そのお客さんのお子さんが甘い物が好きみたいでさ。その人に『今度彼女と食べに行くならどこのお店のスイーツが美味しいですか?』って聞いたら、ここだって。お高いレストランとかお洒落なカフェとかじゃなくて、子供も来れそうなチェーン店。たまの贅沢に家族と来るんだってよ」
「…そうなんだ…」
 ラストオーダーの時間も過ぎれば今日はもう帰る事にしている。ホテル街も近くにあるにはあるのだが、ここ最近彼女は『他所で落ち着いて寝泊りする』と言う事が出来ない。彼女がこの患い方をしてから一度だけホテルで泊った事はあったが、その日彼女はどんなに体力を使おうがまともにベッドで眠れなかった様だった。
 自分のスペースじゃないと安心が出来ない彼女。かと言って明日朝一で仕事なので職場から遠い彼女の家に泊りには行けないギャリー。
 二人の間に何とも言えない空気が流れ始めた頃、ギャリーが口を開いた。
「あのさ、俺もう心配だから一人で家に帰したくないなー…とか思ったりするんだけど…」
 ギャリーの突然の申し出に目を見開く彼女。と言う事は、今日はこれからホテルに連れ込む気だろうか?と疑惑の目を向けると、そこには少し赤い顔を俯かせた彼がぽりぽりと頭を掻いていた。
「その…一緒住む…?」
「え?」
「…仕事辞めたならさ、家賃払うの大変じゃん。一緒の家なら今日みたいな時もすぐ傍に居てあげられるし、色々聞く事も出来るし…どうだろう?ちょっとだけ引越し作業頑張ってみるの。そりゃ、稼ぎは俺一人だからまだまだ贅沢なんて出来ないけどさ…」
 ちらりと彼女に目を向け、赤い顔を更に赤くしてギャリーはもう一度その言葉を言った。
「それでも良いなら…同棲とかどう…?」
 彼女の手から、スイーツ用のフォークがするりと抜け落ち、カランと音を立てて皿にぶつかる。他に客が少なく、フォークの音は店内全域に響き渡った。
「ほ、本当…?」
「うん」
「傍に居てくれるの…?」
「…うん」
「私、こんななっちゃったのに…?ギャリーに、噛み付いたりしたのに…?」
「それでも。むしろ一緒にいてちゃんと聞いてあげてたらそんな風にならなくて済むかなーとか自惚れてみたりするよ、俺」
 そう言って少し恥ずかしそうに逸らせた顔。それは耳まで赤く、少なくとも彼が適当に言った案では無い事はよく見て取れた。
 自分がこんなに辛いと思った事を受け入れてくれると言っている。辛さを分かち合おうと言ってくれている。不安を取り除こうとしてくれている。嬉しくて、でも申し訳なくて。どちらとも言えない気持ちのせめぎ合いに思わず涙がぼろぼろ溢れて止められず、ギャリーはそんな彼女を見て優しく微笑んだ。
「…涙もろくなったよねー…」
「ごめっ…ごめんね、ギャリー…まとも、に…話も…出来なくて…」
「ううん、涙から何となく気持ちは分かる。もし間違って解釈してたらまた教えて?」
 頭を撫でる手の平。彼の女性の様に細い指。それら全てが温かくて涙が出た。これはまるで感動系の恋愛話のワンシーンの様だ。
 今日は一人でも大丈夫だとそう言う彼女と名残惜しいが駅で別れ、ギャリーは彼女が来た時の為にと少し部屋を片付ける事を決めた。
 ああ、そうか。もしかしたら結婚の前とかも、こんな感じの覚悟と期待と不安と少しの戸惑いと、そんな気持ちが闇鍋みたいにごった返すのかなー?
 そう思い、彼女と先まで見据えた暮らしまで想像してギャリーは少し口元をだらしなく緩ませた。出会って最初は少し身勝手な振る舞いをした事もあったが、気付けば随分彼女を好きになっていたものだ。


 この後、彼女と同棲を始めたギャリーはその彼女の浮気と我が儘に振り回され結果としてこの恋は最悪の形で破局を迎える。
 自棄になった彼が飲み歩いたその日、彼の胸の内でその後ずっと『射干玉ぬばたまの君』として記憶に刻まれる女性と運命的な出会いを果たすのだが、それはまた別の話だ。