ロードの部屋で色々と物色したものの、読んでみて一つ分かった事がある。
それは、『他人はキス程度で悩まないのだろう』と言う事だ。殆どの体験談がキスよりも先の話になっており、それは今の自分には関係無いからと除外して行くと読んで為になるものはごくわずかだった。そのわずかの内も読み進めていくと、矢張り『以前から彼が好きだった』やら『前々から彼女を良いなと思っていた』やら、自分の様に衝動的に動いてしまって次どうしたら良いかを悩んではいない。
自分の様な悩みを持つ人間は居ない。
そう結論付けてふと思った。そもそもとして一体自分は何を悩んでいるのだろう?
「やっぱ分かんねぇや」
八つ当たりなんてらしく無いと思いつつ、雑誌を少し乱暴にラックに戻して立ち上がる。直前にちょっと読んでみたが、『崖に置いたササカマ』はロードの言う通り純情さから掛け離れた人物だったので矢張り今の自分の役には立たなそうだ。
「あ…」
「あ…」
ロードの部屋を出たところ、廊下の先に居た女性がシキの目に飛び込んで来た。自分よりも小さな小さな女の子、彼が今一番不思議な感情を抱いている相手であるウルリッカだった。ウルリッカの目にも自分の巨体が飛び込んだらしく、二人は揃って気付いたのか呆けた声をあげた。
「シキ……」
「ウル……」
「……何で狐さんの部屋から出て来たの?」
「え?あ、えっと……ちょっと本読みたくて」
「何の?」
「…べ、勉強…?」
何となく馬鹿正直に「エロ本を読みに来た」とは勿論言いがたくシキは言葉を濁す。
納得しているのか居ないのか、「ふーん…」と返事を返すウルリッカを見てシキは先程読んだ雑誌の内容を思い出していた。
『ずっと前から好きだった彼と酔った弾みでキスしちゃって──…』『ずっと気になっていた女の子だったから例え事故の様なぶつかり方でもキスしたのは良い思い出で──…』
皆、相手が好きだと気付いて、それからキスをして。じゃあ俺は?俺は何であの時ウルにあんなにキスをしたいと思ってしまって、それで今も──……。
「何?」
くりっとした大きな黒い瞳がこちらを見つめる。彼女の黒目がちな目に自分の姿が映り込んだのが分かり、冷静になったシキは居た堪れ無さそうに体を離した。
いつもより弾まない会話。シキもウルリッカもお喋りな方では無いが、それでもいつも以上に会話が弾まない気がした。
「ウル……部屋、行っちゃダメ?」
「何で?」
「……何となく」
「良いよ。新しいカップ麺買ったし、一緒に食べよ?」
ウルリッカがそう言って受け入れてくれた事に安心しつつ、何だかいつもの調子で部屋に行くのと違う感じがしながらもシキは彼女の後に着いて歩く。目の前で一歩一歩踏み出す度にゆらゆらと揺れるポニーテールがいつもより気になって仕方がなかった。
* * *
いつもよりカップ麺を食べる距離が遠い。いつもより寛ぐ距離も遠い。いつもより遠慮がちにクッションに沈む。
シキはどうにも落ち着かない心臓を携えながらウルリッカの部屋にいた。落ち着かないシキに対してウルリッカは寧ろ冷静で、いつも通りに寛いでいる。その内、ウルリッカがこちらをじっと見つめている事に気が付いたシキは少し戸惑いながらもおずおずと視線を絡めた。
「シキ」
「何…?」
「何で今日そんな遠いの…?」
「……それは…」
「風邪引いたとかじゃないならいつもみたく横来ないとテレビ観辛くない?」
そう促され近付いてみる。その時、また何やらムズムズした。どこがムズムズしているのか分からないけど、とにかく何だかムズムズする。
ちらりとウルリッカに視線を送れば彼女の黒目がちな瞳と絡まって、そうして心臓がどくんと高鳴って、「ああ、ムズムズの正体は胸だったか」と自覚した。
「シキ?」
覗き込んでくるウルリッカの頬をそっと優しく抱え込む。両手で優しく、しかし逃げられない様に固定するとシキはゆっくりと彼女へ顔を近付けた。
──ウルはとてもとても可愛い女の子だ。中には彼女のその黒目がちな瞳を恐ろしがる人間も居るけれど、俺はとても可愛いと思う。
小さい体に大きな黒い目。いつも長い髪を纏めていて、ちょっと小さいけど胸があって、多分下に何も付いてないから短いスカートやタイツみたいなのが似合うのだろう。と、ここまで考えて本来
付いてる筈のテディも普通に短い丈のものを履いていたからそれはまた別かと思ったり。
他の人ならそんな事どうでも良いのに、何故かウルの事は知りたくなってしまう。ウルの髪をおろした姿ってどんなだろう?ウルって小さいけど大きな銃背負ってるし、普段見えない服の下は結構マッチョだったりして?
知りたい。他の人はあんまり興味無いけど、ウルの事で知りたい事はいっぱいある。そう思ったら、何故かまたキスがしたくなった──
近付いた顔が、唇が、触れる寸前になってこの「知りたい気持ち」の正体が何なのか分かっていない事にシキは気が付いた。
それとももしかして、この知りたいと言う気持ちが「好き」なのだろうか?
『キスをしたい気持ちになった時点で「この人実はめちゃくちゃ良い人だなぁ」と言う感想を凌駕するだけの好意をその相手に持っていると言って良いのでは無いでしょうか』
不意にロードの言葉が頭の中に蘇ってくる。
『相手がしたく無いと思うのに自分だけが突っ走ったら『悪い事』にも転びますよ』
『もしもお前が性欲に負けてその巨体で相手を捩じ伏せる様なやり方をしようものなら私はお前に殺す気でお灸を据えねばなりません』
──これって、今俺のしてる事って兄貴の言う『悪い事』なんじゃ無いだろうか。
ウルは?ウルの気持ちは俺、ちゃんと確かめた?俺とキスして良いって思ってるか、ウルに聞いたっけ?──
ハッと我に返ったシキは頬を覆っていた手を離し、ウルリッカの背中に回す。不思議だ。背後から抱き締めた
あの時だって後ろから何も考えずに自然にぎゅって出来たのに今は前からしてるからだろうか、心臓の音が煩くてしょうがない。
「……何でそんな泣きそうな顔してるの…?」
体を離して目を合わせると、ウルリッカはそう尋ねて来る。シキはその時初めて自分が涙ぐんでいる事を自覚した。
「ごめん…ウル…」
「何が?」
「この間……して良いか聞かずに俺、ウルにキスした…」
その瞬間ウルリッカは少し暗い表情になり、ぽつりと呟いた。
「そうだよ…大変だったんだから…」
「大変…?」
「私、ウチャロヌンヌンしたら毒が回るって教え込まれてたから…シキの体はどうなのかな?とか色々考えて…ちょっと怖かった…」
「え?キスってすると毒回るの…?人間って毒あんの?」
「ううん、エルに聞いたら嘘だって。そんな事人間の体で起きないって」
「そうなんだ…」
「でも虫歯は移るかもって」
「え!?虫歯になるの!?」
違う違う、そうじゃ、そうじゃない。
そんな会話をしたいわけじゃなかったのに会話のチグハグなところがいつもの俺達だとシキは少しだけほっとした。
そして、まだ気持ちは分からないが今やるべき事はとにかくウルリッカに話を聞く事だとシキは思った。
「でも、ごめん」
「え?」
「本当に毒があったとしたら…俺、無闇矢鱈にキスしたらいけなかったね。本当ごめん」
違う違う、そうじゃない。
「うん…もし毒があったら回ってたかも。私、体小さいから」
「…そしたら俺の体にも毒回ってたのかな?」
「そうかも…」
「キスって命懸けだね」
そうして見つめ合うとまたムズムズする。
シキがウルリッカの黒蝶真珠の様な瞳を見つめると、次の言葉に悩んでいる内にウルリッカが声を上げた。
「私……良いよ…」
「え?」
「シキが……キスしたってカウントしたく無かったなら…無かった事にして良いよ」
「な、何でそんな悲しい事言うの…」
「だって…まだ気持ちが分からないんでしょ?本当に好きな人出来た時に、私とした思い出があったら困っちゃわない?」
キスをしたのに一番肝心なその気持ちが分からない。
ずっとそう言って来たけれど、それはウルリッカにどれだけ酷い事を言っていたか、そして彼女に今どれだけ酷い事を言わせてしまったかこの時初めてシキは気が付いた。
真正面から向き合って受け止めてくれた人に、『事故ならば無かった事にして良い』などと言わせてしまうだなんて。
「……ごめん」
「うん…」
「でも、俺はウルが良い…」
「え……」
「……もう一回、しっかりキスしてみちゃダメ?」
体が大きいから、相手に圧を掛けない様になるべく身を屈める。それは長年の経験からシキの癖になっているものだ。それはウルリッカも野生の勘で気付いていた。
相手の事を考えて話すだけの余裕がある、つまり今シキはまだ理性的な筈だ。
目の前に居るのはまだ理性で物事を考えられる彼。そう思ったウルリッカは、そう思ったからこそ彼の口元に指を当ててやんわりと拒否のポーズを取った。
「ダメ」
「えー…」
「シキがどうしてそんなに私とウチャロヌンヌンしたいのか、ちゃんと本心から自分の意見言えなきゃダメ」
「……毒が移らないって分かったのに…?」
「それでも。ウチャロヌンヌンするって特別な事だから。シキも理由が分からない内にウチャロヌンヌン
だけをするのは無理」
「……それもそっか…」
膝を抱えて小さくなってテレビを観る。それはシキにとって至福の時間だった。ウルリッカと夜食を食べて二人で身を寄せて居られる時間。
こうやってウルリッカと二人で同じ時間を過ごしているのが幸せで、ウルリッカだから一緒に夜食も食べたくなって、きっとそれはウルリッカでないと駄目なのだ。
それに気付いたシキはその気持ちを素直にウルリッカに伝えた。彼女は嬉しそうに返事をする。だからシキは更に「この夜食の時間が幸せだからやめたくない」とそう言った。それにもウルリッカは嬉しそうに笑った。
「嬉しい……俺、ウルと居られる時間が好き。ウルと一緒の時間が好き」
「私もだよ」
「これからも…夜食、食いに来て良い?」
「良いよ」
「クッション借りて…寝てっても良い?」
「うん。でもいい加減シキが可哀想だからたまには私と寝る場所交換する?」
「それじゃあ今度ウルが可哀想だよ…」
「私小さいから、クッションでもベッドみたいだよ?」
「え?マジ?」
「うん。だからたまには交換こしてみる?」
「それも良いかも」
シキがそっと手をウルリッカの額に添えると、前髪を掻き上げて額にキスを落とす。ウルリッカがかつて
シキにしようとしていたキスを急にされて呆然としながら目線を動かせば、シキは見た事がない様な大人っぽい顔をしていた。
目が合うと急にふわりと優しく微笑んで頬を赤らめるので、不覚にも胸がどきりと高鳴る。思わず照れ隠しからか子猫が母猫にする様に擦り寄って甘えてみると、そんなウルリッカをシキはすっぽりと胸に収めて今度は分かりやすく溜息を吐いた。
「…やっぱダメだ……ウルの顔見たら、止まる自信無くなって来た…」
「シキ……」
「今日は…寝れっかな?俺……」
しかし、それでもものの数分後にはうとうとし出すシキを見てウルリッカは楽しそうに笑った。そしてベッドに促し、彼が眠ったのを確認すると今度はウルリッカがかつてシキにしようと思って出来なかった額へのキスをこっそりしてみる。
大事な気持ち。それを伝えて、何かが変わってしまうのが怖い。とりあえず今は一緒に夜食を食べたり気軽に戯れたりするのが幸せだから、意識してそれが変わってしまうのが怖い。
そんな彼の気持ちがよく分かるからこそ、ウルリッカは自分に出来る事はやんわりと来る彼の衝動を拒否する事だと思った。
でも不思議と、自分も彼なら良いと思っているところもある。もしも彼が自分に何か伝えてくれて、その時自分も彼と同じ気持ちだったら。
「その時は……私も…」
誰に言うでもなくそう呟くともう一度額にキスをする。起きているのか居ないのか、シキが腕を伸ばしてウルリッカの首に回した。
「ウル…」
「シキ?」
「…やっぱり、しちゃダメ?」
「……ダメ」
「……ちぇっ」
* * *
仕事を終え、疲れて帰って来たロードはノブに手を掛ける。
ガチャリと何かが引っ掛かる音が聞こえドアは開かずに止まり、ロードはいけないいけない鍵を開けねばと思い出して懐を弄る。
だが、鍵束が無い。
あぁそうだシキに貸したんだと思い出し、シキの端末に電話を掛ける。呼び出し音はすれど、シキは一向に出ない。
「……」
嫌な予感がする。
ロードは別棟のシキの部屋まで向かうと、彼の部屋の前で戸を叩いた。しかし、やはり反応はない。シキの部屋は両サイドに入居者がいるのでこれ以上の追求は諦めて途方に暮れた。
何となく、長年の付き合いから日頃の行いからまぁ鍵を借りた事は忘れるだろうなと思っていたが。いざ直面すると仕事で疲れた体にこれは響く。
「うふ……せめて部屋に居なさいよ全く…」
ダメ元でクロエに電話をしてみる。
彼女は数コールで出たのだが、いざ電話に出た彼女は眠たそうな不機嫌そうな声をしていた。
『……はい?』
「クロエですか?夜分遅くにすみませんねぇ。ちょっと今部屋に入れなくなってしまいましてね、今日貴女の部屋に泊めていただくと言うのは──…」
『嫌に決まってんだろ私は寝ます』
ブツッ…ツー、ツー……。
無慈悲に一息にそう告げるとクロエは冷酷な電話の切り方をする。全く、自分が大変な時は二人とも此方の都合などお構いなしに部屋に来る癖に。
シキとクロエは自分に問題が起きた時、無遠慮に部屋の前までやって来て「開けてくれ」とドンドン戸を叩くのだ。まるで「絶対に逃さない」と言う強い意志を込めているかの様に。それで一体何人との行為が中断されたか。此方はそれでもまだ頼む時には部屋に行くでなく一報入れるのだから良心的だと思う。
全く、恩を仇で返す様な事しかしないのだから。
「……あの…クソガキ共……」
何年かぶりにぽつりとそう呟いた。
結局、この日はタイガに連絡を取り事なきを得たロードだったが、次の日シキを呼び出し鍵を返してもらいがてらたんまりと怒りを浴びせたのは言うまでもない。
しかし、何に浮かれているのかシキは特に気にする事も無く、今日も今日とて小さなポニーテールを目で追っている。