薄明のカンテ - これも5月の事だった/燐花

ウルリッカと毒

「……お兄ちゃんが、無事で良かった」
 ポツリと呟いたウルリッカの声は湿って震えていた。
 後ろから抱きしめているからシキからウルリッカの表情は見ることが出来ない。
 それでも小さな肩が震えているのは見えるから。
 彼女が少しでも元気を取り戻せるように。
 そう思ってただただウルリッカの小さな体を抱き締めた。そして優しく優しく撫でていた。その内落ち着いたのかウルリッカは溜息の様な大きな呼吸を一つ、まるで気持ちを切り替える様に吐き出す。
「ありがとう、シキ。もう大丈夫。だからお兄ちゃんには内緒だよ?」
 そう言って振り返ったウルリッカの睫毛は湿って少し束の様になっていて、いつもより強調された目元は少し赤らんでいた。
 濡れた漆黒の瞳。そんな目を持つウルリッカの顔をシキはじっと見つめる。
 ウルの目は綺麗だな。
 奇しくも直前にウルリッカがシキに対して同じ感想を抱いていたとは露知らず、シキもウルリッカの目を見つめながらそんな事を思っていた。
 自分より歳上なのに背が小さくて、小柄だから挙動が子供の様に見えて可愛くて、だけど、ここぞと言う時は年相応にお姉さんらしく振る舞うウルリッカ。
「……シキ…?」
 じっと見つめたまま何も言わないシキに不安を覚えたウルリッカは躊躇いがちに声を掛ける。何だかよく分からないけれど、シキが心ここに在らずで気になってしまった。
「シキ……?どうし──」
 ああ、空と海が近い。
 そう思う程にシキの目が近付いている事に気が付いた。
 ウルリッカは突然の事に目を見開く。
 シキの大きな手が後頭部を押さえたと思ったら、彼は少し乱暴に手に力を込めて自分に近付け優しくゆっくり唇をウルリッカに重ねた。
 ほんの一瞬唇に触れただけ。それはウルリッカが驚いて体を揺らした瞬間に我に返ったシキが離れた事で終わってしまったし、困惑しているウルリッカ同様に何故かシキも驚いた顔をしていた。
「シキ…」
「あ…ウル、俺……」
「………」
「ごめん、俺……何か変だ……」
 そう言ってその巨体を素早く動かし、バタバタと足音を響かせてシキは屋内へと逃げる様に居なくなってしまった。
「………あれ?」
 一人残されたウルリッカはおそるおそる唇に触れる。夢じゃなければ、間違いじゃなければ、今シキは自分の頭を掴み、そして──
「…ど、どうしよう……」
 ──キスをした。間違いでは無ければ。勘違いでは無ければ。
 しかし、これが少女漫画の一幕であれば真っ赤な顔で困惑する少女の姿がアップになりそうなものだが、ウルリッカは世のセオリーに反して青い顔でそっと自分の唇に触れた。
「……シキとウチャロヌンヌンキスしちゃった…」

 * * *

 翌日、ウルリッカの顔色の悪さはこの日も変わらなかった。暴走した機械人形が発見され、ただちに無力化せよと言う指示が入って現場に急行する頃にいつものウルリッカに戻っているのだが、ユウヤミの指示の下戦闘に赴き仕事が終わって報告に行く頃にはまた顔色の悪さを見せていた。
「……マルムフェ君?」
「はい……」
「どうしたの…?何かやたらと顔色が悪いけれど…?」
 流石のユウヤミも心配そうにウルリッカの顔を覗き込む。ウルリッカは泣きそうに一瞬くしゃりと顔を歪めると、ゆっくり声を出した。
「た、隊長…」
「なんだい?」
「私…私の口……何かなってますか…?」
「え?口?」
 はい、あーん。三ヶ月程前にそうした様に声を掛けてウルリッカの口を開けさせるユウヤミ。ウルリッカは「あがが…」と声を上げながら口を開けるが、パッと見たユウヤミは困った様に微笑むだけだった。
「特に問題は無さそうだよ。素人の私の見た感じだけで言うならね」
「そっかぁ……」
「歯が痛むのかい?」
「ううん、歯は痛くない」
「あれ?じゃあ何で口が気になるんだい?」
「……口の中に…何か蔓延してるかもしれなくて…」
「蔓延?」
「ど……毒、とか…」
 その言葉にユウヤミはピクリと反応し、何か食べたのかとウルリッカに追求する。しかしウルリッカは首を横に振るだけで何も言わない。埒が開かないのでユウヤミは近くに居たヨダカにそっと耳打ちし携帯端末を渡した。ヨダカはそれを起動すると医療班のアペルピシアに連絡を入れた。
「そんなに心配な事を長引かせるより専門家に見てもらって白黒はっきりした方が良いね。マルムフェ君、後の事は良いから、結社に戻ってセラピア先生に診てもらっておいで」
「え!?で、でも…」
「『笑う事は最高の薬だ』とはよく言うよね。逆を言うと塞ぎ込む事は最悪の毒薬になってしまう。今の君は毒薬を体に生成してしまうくらい落ち込んだ顔をしているよ。だから行けるなら早く行った方が良いと私は思うけれど?」
 塞ぎ込む事は最悪の毒薬。
 やはり人間は毒を生成出来る…?
 ウルリッカは改めてユウヤミに頭を下げると荷物を纏め覚悟を決めた様に一足先に結社に帰るべく足を進める。そんなウルリッカの後ろ姿を見、ヨダカがじろりとユウヤミを睨んだ。
「……主人マキール、これはどう言う事でしょう?」
「うーん、マルムフェ君もなかなか予想外に面白い事をしてくれるよねぇ」
「……さては、ウルが困惑すると分かってあえて『病は気から』を『笑う事は最高の薬』などと周りくどい言い方しましたね?」
「不安を煽ってでも最後の一押しをする。そうでもしないと彼女みたいなタイプは不調をギリギリまで我慢しようとしてしまうからね。私なりの優しい後押しだよ」
「趣味の悪い豪快な突き飛ばしの様に見えましたが」
「えぇー…辛辣ぅ……」

 * * *

 医療班に着いたウルリッカはまるで借りて来た猫の様に縮こまって椅子に座っていた。アペルピシアはそんなウルリッカに優しく声を掛けると問診を始める。
「貴女の心配性な隊長さんから聞いたわよ。口の中に違和感があるのね?何が心配?そんな不安になる様な事したの?」
「………」
 ウルリッカは答えなかった。
 アルヴィは、十八歳未満がウチャロヌンヌンキスをしたらいけないと言っていた。家族以外の人とキスをすると、キスをした相手の体内から毒を移されると。
 しかし、毒は一体何をもってキスする人間を「成人」と見做すのだろう?或いは年齢はあくまで目安でしかなく体に対する毒の占める割合の話だったのだとすると、年齢は二十二歳だが身長が小さく子供の様なウルリッカは成人したとて安心出来ない。その真相を専門家たるアペルピシアに聞きたい気はする。しかし、それを聞いたらシキに辿り着かれてしまう。シキがもしそれで「悪者」だと見做されてしまったらどうしよう?
「……男の人と…口で……だから口の中に毒が広まっていないか心配で……」
 やっと暈して捻り出したそれを聞き、アペルピシアはスッと立ち上がるとドアを開ける。周りに人がいない事を確認し、そして再度座り直した。誰にも彼女の悩みを聞かれない様に小声で、しかし真剣な面持ちでウルリッカを見る。
「…それは、無理矢理…?」
「……無理矢理、なのかな……頭はちょっとだけ押さえられた…」
「……そう…」
「でも…何でそんな事になったのか…分からない……」
 きっとこの会話をアルヴィが聞いたら卒倒して泡を吹くか、或いは立ち上がってスナイパーライフル片手に妹の純血を汚した不埒な男を跡形も無く消しに行くだろう。
 そんな誤解を招く言い方だった。勿論、アペルピシアも同じ様な誤解をしていた。
「…大丈夫、大丈夫よウルリッカ。無理して全部言わなくて良いわ」
「でも…それでもしかしたら、口に何か毒が入り込んでるんじゃ無いかって…」
「それは……むしろ明確に婦人科の話になるわね。あまり危機感を感じないのか年々低年齢層に増えている事象なんだけど…口だけで終わらせるなら大丈夫だと高を括って避妊具も使わない安易な行動に出てしまう子は多いわ。その結果ね、淋病とかヘルペスとかクラミジア、時に梅毒も口を介して移ってしまう事があるの。貴女が安易な子だとは言わないけれど、貴女が相手の子一筋で誠実であってもね、相手がもっと気楽な感覚で不特定多数と行為に及んでいたら何かしらが移っている可能性はあるわね」
 その瞬間、ウルリッカはびくりと体を震わせた。そしてその目には不安からかじわりと涙が溢れる。アペルピシアは一瞬ぎょっとしながらもティッシュを取り出すと涙を拭いてやった。
「……ごめんなさい、しっかり聞く前に不安を煽る事を言うべきでは無かったわね」
「……ねぇ、エル。その毒って十八歳以上なら大丈夫って聞いた…。でも、もしも毒が体の大きさに対してどのくらい蓄積されたら、で発症するのだとしたら、私は体が小さいから不安…。だって相手はとても大きい子だから、たった一瞬触れ合っただけだとしてもその一瞬でいっぱい毒が移動して来たとかあるのかも。そしたら私、どうなっちゃうのかな…?」
 涙ぐみながらそう言うウルリッカのその言葉に、今度呆けた顔で頭を疑問符だらけにしたのはアペルピシアだった。
 あれ?おかしいな。ウルリッカは何の話をしているのだろう?そう言えばさっきから彼女が言っている不安は紛れもなく「毒」だった。感染症の原因になる菌では無く明確に「毒」。しかし名称の無い不明瞭な「毒」。いくらそう言った知識が無いとは言え、だとしたら彼女の言う「一瞬」とは何の行為の事を指すのだろう?
 一瞬、口。それだけ聞いて当て嵌まる物は「キス」くらいしか浮かばないのだが。
「………ねぇウル、誤解をしたまま診断をするなんて一番あってはならない事だから医者として互いに誤解が無いか、あったらここで解消出来る様にはっきり聞くわよ?私は相手の誰かといわゆる『オーラルセックス』をして、それによる性感染症を不安がってここに来たのかと思ったわ。違う?違うなら変にぼかさないで言ってくれたら嬉しいんだけど」
 するとウルリッカは不思議そうに小首を傾げ、少し間を開けて一言呟いた。
「違うよ?」
「ち、違うのね……だとしたらその…貴女の言う「毒が移る行為」って一体何なの?」
「ウチャロヌンヌンだよ」
「ウチャロヌンヌン?」
「あ、えっと…分かりやすく言うならキス…」
 次の瞬間、アペルピシアは呆けた顔を更に呆けさせた。
「……キスで毒が移るなんて誰が言ったの?」
「上のお兄ちゃん。十八歳まではキスすると相手から毒を移されちゃうからしちゃいけないって。でも下のお兄ちゃんは「キスしたとして人間に毒はないから移らないよ」って真逆の事言ったの。でもその後もう一回上のお兄ちゃんが「いや、毒はあるよ」って。結局どっちが正しい事言ってるのか分からなくてとりあえずリスクのある方を信じてたの。ねぇエル、結局どっちが正しいの?」
 アペルピシアはウルリッカの上の兄──おそらく自分もよく知っているアルヴィの事であろうが──のウルリッカへの愛故の間違った知識がこの歳まで彼女に浸透していた事に絶句しながら、だからと言って妹を想う兄の気持ちを責める事も出来なかった。だからとりあえずこう答えるしかない。
「……正しいのは、下のお兄ちゃんね。その通りで人間に毒は無いし、キスをしたとして移るのは歯周病と言うか虫歯菌くらいかしら…今すぐ死に至るとか重篤な症状を引き起こす毒なんてのは無いわ」
「え?そうなの?なーんだ……」
 こうしてウルリッカの長年の常識だった「未成年はキスすると相手から毒を移される」は呆気なく覆ったのであった。

シキと初体験

「えっと…何だか恋愛の事で悩んでいた様でして…それをどうやら先日の仕事で一緒になってその場に居たリーシェルさんにたまたまお話しした様でしてねぇ…」
「だからリーシェルさん…!」
「頭の良いリーシェルさんに聞くくらいだから相当複雑な恋愛をしてるのね…チェンバース君…」
「長身男子の恋愛……」
 恋愛の話のれの字も無ければ、そもそもそう言う感情があるのかどうかも分からない。
 シキ・チェンバースと言う青年はそう言う子だったし、この時苦し紛れに彼の名を出したロードもそう思っていた。シキが恋愛と言うジャンルで悩み始めるより、クロエが嫁に行く方が早そうだと思ったくらいだ。
 しかしこの数日後、シキはロードにとって青天の霹靂そのものになる。
「兄貴……」
「おや?シキ、どうしました?」
「兄貴の部屋行って良い?」
 仕事の合間の時間に珍しく人事部に顔を出したと思えば、いつ行くとも何の目的でとも言わぬ不親切なシキ。しかしロードも慣れた物で、おそらくは食券を失くしただの気紛れに何か食べたくなっただのその辺りに夕方頃来たいのだろうとあたりをつける。
 やれやれと思いつつも快く返事をしてやった。
「ええ、良いですよ。ちなみに今日は何をお求めで?」
 返答次第では追加で食材を買う必要がある。確か今肉の類を切らしていたなぁだとか、玉ねぎが後一玉くらいしか無かったなぁとか。色々と頭の中に食材のあまりを巡らせながら珍しくタイガの淹れてくれたコーヒーを口に運ぶ。ちなみにタイガはコーヒーは苦くて好きになれないと言うが淹れる姿が格好良いとは思っており、彼の『目指せ!紳士の道!』とも言うのか男磨きにコーヒーを飲めるロードは日頃の感謝も込めて付き合った形だ。
 そんな事はさておき、一呼吸置いたシキが返事をした。
「うん、『初めての恋人』とか『初恋』とか『初体験』とか。とにかく初めてな物を扱ってるエロ本
ぶふっ!!!!!!
 噴いた。それはもう口から鼻から逆流の如く噴いた。浸透圧の関係か痛む鼻を押さえ、ティッシュで鼻をかみながらロードは目の前がチカチカする感覚に屈さず必死な顔でシキを見つめた。
「な、な、何ですって!?」
「だからー、とにかく初めて系の物扱ってるエロ本が欲しい」
「大きい声で言うんじゃありません!!」
「…初めての体験談とか載せてるちょっと大人向けの雑誌でも良いから。とにかくそう言うの」
 その時ロードは、シキが傍目にはふざけた事を言っているとは思っても本人は至って真面目であり、何なら少し悩んでいる様な顔色な事に気が付いた。
 ただただふざけてそんな事を口走るなら追い出してしまうのに、あまりにも真剣な顔をするものだからロードも邪険に扱いづらい。
「……はぁ…」
 幸いこの騒ぎを周りにいる誰も気が付いて居なさそうなので、ロードは特に慌てる事もなく小さな声で会話を続けた。
「…で?お前が?何で急にそんなものが必要になったので?」
「あー……ねぇ兄貴、キスしたくなる時ってどんな時?」
「質問に質問で返すのは野暮ですねぇ。まぁ、どんな時ですかね…?心の底から相手が愛しくて愛しくて堪らなくなった時、でしょうか」
「愛しい…?」
「ただ…例えば男女で一緒にいて気持ちが盛り上がった時とか。正直キスをしたくなると言う事象に関しては『その時』そう言う気分になったから、が大きいかもしれませんが」
「じゃあ、全然好きじゃなくても出来るかもしれないって事…?」
「そうとも言えるかもですねぇ…」
 ロードの「『その時』そう言う気分になったから」と言う言葉にシキは酷くショックを受けた顔になった。ロードは何となく言葉を間違えた感を感じる。適当に答えたわけでも無いが、彼の様な無知の極みの様な無垢な人間にはとりわけ丁寧に説明せねばならなかったか。
「……時にシキ、お前は『いつ風呂に入ったか分からないけどそんなのお構い無しにとりあえず性欲を剥き出しにして迫ってくるおっさん』と意気投合したとして、キスしたくなりますか?」
 ロードのその問い掛けに、シキは今度はあからさまに嫌そうな顔をした。意外とぼんやりしている様で、シキは感情の吐露が激しいのかもしれない。
「え?ならないよ気持ち悪い。ってか意気投合もしたく無い」
「もしかしたら話してみたらめちゃくちゃ良いおっさんかもしれませんよ?それでもですか?」
「めちゃくちゃ良いおっさんだったとして、めちゃくちゃ良いおっさんだなぁって感想だけで終わるよ」
「まぁそうでしょうね。となるとつまり、キスをしたい気持ちになった時点で「この人実はめちゃくちゃ良い人だなぁ」と言う感想を凌駕するだけの好意をその相手に持っていると言って良いのでは無いでしょうか」
「………誰でも良いってわけじゃないって事?」
「そうなります。誰に対しても、どんな相手でも一度は『この人のこう言うところ、まぁ悪く無いじゃん』とか思うものじゃないですか。それが少なければ『ただの知り合い』、多ければ多いだけ『友達』『親友』と自分の中でカテゴライズ分けされていくのです。そこに更に生き物としての性的な目線からのカテゴライズも加わります。さっきのおっさんの例は良くて『友達』止まりだと思いますが…それが常日頃良いところの見える友達以上の相手で且つシキにとって性的な目線でも良く見える相手だとしたら……まぁ、したくなる時もあるんじゃないでしょうか?」
「うーん……でもなぁ…」
「ま、確かにお前が性的な意味で目覚めるなんて明日雪降って極夜になる方が確率高そうですけどね」
 この時、カンテ国は白夜に向かって季節が進んでおり、ロードのその突飛な喩えは完全に自分を揶揄っているから出たものだと言うのはぼんやりしているシキでも分かる。その事に少しムッとしながらも、頭の中に思い浮かぶのはウルリッカの姿だった。
 ウルリッカの事を考えると、何だか言い様の無い気持ちが胸の中で燻る。何だか良く分からないけれどどこかムズムズする感じ。
「……やっぱり、兄貴の部屋行かせて」
「そうですねぇ…実録系の雑誌も纏めてありますからそれちょっと読んでみたらどうです?キス止まりになる様なものは少ないかもしれませんが」
「キス止まり?その先って何かあるっけ…?」
 そんなシキの言葉に分かりやすく絶句するロード。彼は冬場にテオフィルスと共に飲んだ末にタイガに女性の扱い方をレクチャーした時の事を思い出していた。
 あの時、タイガには意外にも女性との恋愛経験があったので、そこにレクチャーすると言うのはさながら基礎を知っている人間に応用を教える様な感じではあるが、シキの場合兎にも角にもまずは足し算と引き算を教えねばと言う程には基礎が無かった。
 別に無菌室の様なところで潔癖に高潔に、蝶よ花よ箱入り息子よと育てられたわけでもあるまいに。或いは、『その先』を一般教養として知ってはいるけれどあまりに自分の身に起こるものと言う想像が出来な過ぎてこの返事の仕方なのか。
 あまりの他人事っぷりにロードは少しだけ眩暈がした。何があったかは知らないが、少なくともシキにとって今自分事として考えられるのはキスまでらしい。
「キスの先に何があるか、まだお前は知らなくて良いですよ」
「……ガキ扱いすんなよ」
「ガキじゃないですか。お前なんかクソガキですよクソガキ」
「うっせ、エロ兄貴」
「……真面目な話、『まだ知らなくて良い』と言うのは『まだ体験しなくて良い』と言う事です。少なくとも今の無知なシキを思うと、相手の女性が誰であれトラブルになりかねない。しかし、知識として来たるべき時に備えてきちんと知っておこうと言うのは良い事ですよ。そう言うのは相手あってのものですからね。特にお前は体が一際大きいんですから、衝動に任せてキス以上を無理矢理相手に迫る様な事があったら困ります」
「……そっか、そうだよね」
「うふふ、もしもお前が性欲に負けてその巨体で相手を捩じ伏せる様なやり方をしようものなら私はお前に殺す気でお灸を据えねばなりません」
 ロードの目は笑っていない。シキもシキで幼い頃から爛れたロードを見ているが、爛れた彼なりにその瞬間は相手を大事にしながら向き合っているのだと言うのは幼心に思っていた。それはシキも直感で感じている。
 そして彼の意志を受け継ぐわけでは無いが、少なくとも「人は大事に扱わなければならない」と言うのはロードから躾けられては居た。
「そっか……『キスしたい』って思う事そのものは悪い事じゃないのか……」
「しかし、相手がしたく無いと思うのに自分だけが突っ走ったら『悪い事』にも転びますよ」
「うん…そうだよね…」
 その時、シキの顔の前にロードが何かをチラつかせる。それはロードの部屋や車の鍵が着いている鍵束だった。
「ほら、貸してやりますから部屋に行ってなさい。その代わり、私は鍵の類はこれしか持って居ないんです。ちゃんと部屋にいて待っている事、部屋から出て行くなら私に返しに来る事、良いですね?」
「ありがと、兄貴」
「……もし部屋で読んでてサカったら仕方がないのでトイレでも何でも行ってください。間違っても部屋の真ん中でなんてやめてくださいよ?疲れて部屋帰って来てドア開けて二秒で野郎の致してるところに遭遇するなんて悪夢過ぎます」
「ははは。うん、気を付ける」
「あ。後それからアドバイスです。『崖に置いたササカマ』なる投稿者は一際爛れているのでその人の体験談は参考にしない様に」
「なるほど…その人ノーマルじゃないんだな」
 ロードから鍵を受け取り、人事部の部屋を出るシキ。ロードは彼の背中を何とも懐かしむ様な表情で見つめた。
 小さい頃からただただ体ばかり大きく、思春期を過ぎた頃には同級生達より頭一つ二つと大きくなってしまい、その体格のせいでトラブルもあった。一時期スレた様な性格になっても全く色っぽい話の一つもなく「ただただ今日飯が食えれば良い」と無気力極まりない事を口にしたシキが、「キスとは何だ?」と聞いてくるなんて。
「全く、いつまでも子供じゃないって事ですか。シキもクロエも…」
 絶対にシキにそんな事を言ってはやらないが、どことなく寂しさを感じながらロードはコーヒーを口に含む。そして色々考えた時、ある答えに行き着いたのだった。

「……だとしたら遅くないです…?」

 成人してしばらくしてのキスの話題。
 「だとしたら遅くない?」と。

ウルリッカとシキ

 ロードの部屋で色々と物色したものの、読んでみて一つ分かった事がある。
 それは、『他人はキス程度で悩まないのだろう』と言う事だ。殆どの体験談がキスよりも先の話になっており、それは今の自分には関係無いからと除外して行くと読んで為になるものはごくわずかだった。そのわずかの内も読み進めていくと、矢張り『以前から彼が好きだった』やら『前々から彼女を良いなと思っていた』やら、自分の様に衝動的に動いてしまって次どうしたら良いかを悩んではいない。
 自分の様な悩みを持つ人間は居ない。
 そう結論付けてふと思った。そもそもとして一体自分は何を悩んでいるのだろう?
「やっぱ分かんねぇや」
 八つ当たりなんてらしく無いと思いつつ、雑誌を少し乱暴にラックに戻して立ち上がる。直前にちょっと読んでみたが、『崖に置いたササカマ』はロードの言う通り純情さから掛け離れた人物だったので矢張り今の自分の役には立たなそうだ。
「あ…」
「あ…」
 ロードの部屋を出たところ、廊下の先に居た女性がシキの目に飛び込んで来た。自分よりも小さな小さな女の子、彼が今一番不思議な感情を抱いている相手であるウルリッカだった。ウルリッカの目にも自分の巨体が飛び込んだらしく、二人は揃って気付いたのか呆けた声をあげた。
「シキ……」
「ウル……」
「……何で狐さんの部屋から出て来たの?」
「え?あ、えっと……ちょっと本読みたくて」
「何の?」
「…べ、勉強…?」
 何となく馬鹿正直に「エロ本を読みに来た」とは勿論言いがたくシキは言葉を濁す。
 納得しているのか居ないのか、「ふーん…」と返事を返すウルリッカを見てシキは先程読んだ雑誌の内容を思い出していた。
『ずっと前から好きだった彼と酔った弾みでキスしちゃって──…』『ずっと気になっていた女の子だったから例え事故の様なぶつかり方でもキスしたのは良い思い出で──…』
 皆、相手が好きだと気付いて、それからキスをして。じゃあ俺は?俺は何であの時ウルにあんなにキスをしたいと思ってしまって、それで今も──……。
「何?」
 くりっとした大きな黒い瞳がこちらを見つめる。彼女の黒目がちな目に自分の姿が映り込んだのが分かり、冷静になったシキは居た堪れ無さそうに体を離した。
 いつもより弾まない会話。シキもウルリッカもお喋りな方では無いが、それでもいつも以上に会話が弾まない気がした。
「ウル……部屋、行っちゃダメ?」
「何で?」
「……何となく」
「良いよ。新しいカップ麺買ったし、一緒に食べよ?」
 ウルリッカがそう言って受け入れてくれた事に安心しつつ、何だかいつもの調子で部屋に行くのと違う感じがしながらもシキは彼女の後に着いて歩く。目の前で一歩一歩踏み出す度にゆらゆらと揺れるポニーテールがいつもより気になって仕方がなかった。

 * * *

 いつもよりカップ麺を食べる距離が遠い。いつもより寛ぐ距離も遠い。いつもより遠慮がちにクッションに沈む。
 シキはどうにも落ち着かない心臓を携えながらウルリッカの部屋にいた。落ち着かないシキに対してウルリッカは寧ろ冷静で、いつも通りに寛いでいる。その内、ウルリッカがこちらをじっと見つめている事に気が付いたシキは少し戸惑いながらもおずおずと視線を絡めた。
「シキ」
「何…?」
「何で今日そんな遠いの…?」
「……それは…」
「風邪引いたとかじゃないならいつもみたく横来ないとテレビ観辛くない?」
 そう促され近付いてみる。その時、また何やらムズムズした。どこがムズムズしているのか分からないけど、とにかく何だかムズムズする。
 ちらりとウルリッカに視線を送れば彼女の黒目がちな瞳と絡まって、そうして心臓がどくんと高鳴って、「ああ、ムズムズの正体は胸だったか」と自覚した。
「シキ?」
 覗き込んでくるウルリッカの頬をそっと優しく抱え込む。両手で優しく、しかし逃げられない様に固定するとシキはゆっくりと彼女へ顔を近付けた。
 ──ウルはとてもとても可愛い女の子だ。中には彼女のその黒目がちな瞳を恐ろしがる人間も居るけれど、俺はとても可愛いと思う。
 小さい体に大きな黒い目。いつも長い髪を纏めていて、ちょっと小さいけど胸があって、多分下に何も付いてないから短いスカートやタイツみたいなのが似合うのだろう。と、ここまで考えて本来付いてる・・・・筈のテディも普通に短い丈のものを履いていたからそれはまた別かと思ったり。
 他の人ならそんな事どうでも良いのに、何故かウルの事は知りたくなってしまう。ウルの髪をおろした姿ってどんなだろう?ウルって小さいけど大きな銃背負ってるし、普段見えない服の下は結構マッチョだったりして?
 知りたい。他の人はあんまり興味無いけど、ウルの事で知りたい事はいっぱいある。そう思ったら、何故かまたキスがしたくなった──
 近付いた顔が、唇が、触れる寸前になってこの「知りたい気持ち」の正体が何なのか分かっていない事にシキは気が付いた。
 それとももしかして、この知りたいと言う気持ちが「好き」なのだろうか?
『キスをしたい気持ちになった時点で「この人実はめちゃくちゃ良い人だなぁ」と言う感想を凌駕するだけの好意をその相手に持っていると言って良いのでは無いでしょうか』
 不意にロードの言葉が頭の中に蘇ってくる。
『相手がしたく無いと思うのに自分だけが突っ走ったら『悪い事』にも転びますよ』
『もしもお前が性欲に負けてその巨体で相手を捩じ伏せる様なやり方をしようものなら私はお前に殺す気でお灸を据えねばなりません』
 ──これって、今俺のしてる事って兄貴の言う『悪い事』なんじゃ無いだろうか。
 ウルは?ウルの気持ちは俺、ちゃんと確かめた?俺とキスして良いって思ってるか、ウルに聞いたっけ?──
 ハッと我に返ったシキは頬を覆っていた手を離し、ウルリッカの背中に回す。不思議だ。背後から抱き締めたあの時だって後ろから何も考えずに自然にぎゅって出来たのに今は前からしてるからだろうか、心臓の音が煩くてしょうがない。
「……何でそんな泣きそうな顔してるの…?」
 体を離して目を合わせると、ウルリッカはそう尋ねて来る。シキはその時初めて自分が涙ぐんでいる事を自覚した。
「ごめん…ウル…」
「何が?」
「この間……して良いか聞かずに俺、ウルにキスした…」
 その瞬間ウルリッカは少し暗い表情になり、ぽつりと呟いた。
「そうだよ…大変だったんだから…」
「大変…?」
「私、ウチャロヌンヌンしたら毒が回るって教え込まれてたから…シキの体はどうなのかな?とか色々考えて…ちょっと怖かった…」
「え?キスってすると毒回るの…?人間って毒あんの?」
「ううん、エルに聞いたら嘘だって。そんな事人間の体で起きないって」
「そうなんだ…」
「でも虫歯は移るかもって」
「え!?虫歯になるの!?」
 違う違う、そうじゃ、そうじゃない。
 そんな会話をしたいわけじゃなかったのに会話のチグハグなところがいつもの俺達だとシキは少しだけほっとした。
 そして、まだ気持ちは分からないが今やるべき事はとにかくウルリッカに話を聞く事だとシキは思った。
「でも、ごめん」
「え?」
「本当に毒があったとしたら…俺、無闇矢鱈にキスしたらいけなかったね。本当ごめん」
 違う違う、そうじゃない。
「うん…もし毒があったら回ってたかも。私、体小さいから」
「…そしたら俺の体にも毒回ってたのかな?」
「そうかも…」
「キスって命懸けだね」
 そうして見つめ合うとまたムズムズする。
 シキがウルリッカの黒蝶真珠の様な瞳を見つめると、次の言葉に悩んでいる内にウルリッカが声を上げた。
「私……良いよ…」
「え?」
「シキが……キスしたってカウントしたく無かったなら…無かった事にして良いよ」
「な、何でそんな悲しい事言うの…」
「だって…まだ気持ちが分からないんでしょ?本当に好きな人出来た時に、私とした思い出があったら困っちゃわない?」
 キスをしたのに一番肝心なその気持ちが分からない。
 ずっとそう言って来たけれど、それはウルリッカにどれだけ酷い事を言っていたか、そして彼女に今どれだけ酷い事を言わせてしまったかこの時初めてシキは気が付いた。
 真正面から向き合って受け止めてくれた人に、『事故ならば無かった事にして良い』などと言わせてしまうだなんて。
「……ごめん」
「うん…」
「でも、俺はウルが良い…」
「え……」
「……もう一回、しっかりキスしてみちゃダメ?」
 体が大きいから、相手に圧を掛けない様になるべく身を屈める。それは長年の経験からシキの癖になっているものだ。それはウルリッカも野生の勘で気付いていた。
 相手の事を考えて話すだけの余裕がある、つまり今シキはまだ理性的な筈だ。
 目の前に居るのはまだ理性で物事を考えられる彼。そう思ったウルリッカは、そう思ったからこそ彼の口元に指を当ててやんわりと拒否のポーズを取った。
「ダメ」
「えー…」
「シキがどうしてそんなに私とウチャロヌンヌンしたいのか、ちゃんと本心から自分の意見言えなきゃダメ」
「……毒が移らないって分かったのに…?」
「それでも。ウチャロヌンヌンするって特別な事だから。シキも理由が分からない内にウチャロヌンヌンだけを・・・するのは無理」
「……それもそっか…」
 膝を抱えて小さくなってテレビを観る。それはシキにとって至福の時間だった。ウルリッカと夜食を食べて二人で身を寄せて居られる時間。
 こうやってウルリッカと二人で同じ時間を過ごしているのが幸せで、ウルリッカだから一緒に夜食も食べたくなって、きっとそれはウルリッカでないと駄目なのだ。
 それに気付いたシキはその気持ちを素直にウルリッカに伝えた。彼女は嬉しそうに返事をする。だからシキは更に「この夜食の時間が幸せだからやめたくない」とそう言った。それにもウルリッカは嬉しそうに笑った。
「嬉しい……俺、ウルと居られる時間が好き。ウルと一緒の時間が好き」
「私もだよ」
「これからも…夜食、食いに来て良い?」
「良いよ」
「クッション借りて…寝てっても良い?」
「うん。でもいい加減シキが可哀想だからたまには私と寝る場所交換する?」
「それじゃあ今度ウルが可哀想だよ…」
「私小さいから、クッションでもベッドみたいだよ?」
「え?マジ?」
「うん。だからたまには交換こしてみる?」
「それも良いかも」
 シキがそっと手をウルリッカの額に添えると、前髪を掻き上げて額にキスを落とす。ウルリッカがかつてシキにしようとしていたキスを急にされて呆然としながら目線を動かせば、シキは見た事がない様な大人っぽい顔をしていた。
 目が合うと急にふわりと優しく微笑んで頬を赤らめるので、不覚にも胸がどきりと高鳴る。思わず照れ隠しからか子猫が母猫にする様に擦り寄って甘えてみると、そんなウルリッカをシキはすっぽりと胸に収めて今度は分かりやすく溜息を吐いた。
「…やっぱダメだ……ウルの顔見たら、止まる自信無くなって来た…」
「シキ……」
「今日は…寝れっかな?俺……」
 しかし、それでもものの数分後にはうとうとし出すシキを見てウルリッカは楽しそうに笑った。そしてベッドに促し、彼が眠ったのを確認すると今度はウルリッカがかつてシキにしようと思って出来なかった額へのキスをこっそりしてみる。
 大事な気持ち。それを伝えて、何かが変わってしまうのが怖い。とりあえず今は一緒に夜食を食べたり気軽に戯れたりするのが幸せだから、意識してそれが変わってしまうのが怖い。
 そんな彼の気持ちがよく分かるからこそ、ウルリッカは自分に出来る事はやんわりと来る彼の衝動を拒否する事だと思った。
 でも不思議と、自分も彼なら良いと思っているところもある。もしも彼が自分に何か伝えてくれて、その時自分も彼と同じ気持ちだったら。
「その時は……私も…」
 誰に言うでもなくそう呟くともう一度額にキスをする。起きているのか居ないのか、シキが腕を伸ばしてウルリッカの首に回した。
「ウル…」
「シキ?」
「…やっぱり、しちゃダメ?」
「……ダメ」
「……ちぇっ」

 * * *

 仕事を終え、疲れて帰って来たロードはノブに手を掛ける。
 ガチャリと何かが引っ掛かる音が聞こえドアは開かずに止まり、ロードはいけないいけない鍵を開けねばと思い出して懐を弄る。
 だが、鍵束が無い。
 あぁそうだシキに貸したんだと思い出し、シキの端末に電話を掛ける。呼び出し音はすれど、シキは一向に出ない。
「……」
 嫌な予感がする。
 ロードは別棟のシキの部屋まで向かうと、彼の部屋の前で戸を叩いた。しかし、やはり反応はない。シキの部屋は両サイドに入居者がいるのでこれ以上の追求は諦めて途方に暮れた。
 何となく、長年の付き合いから日頃の行いからまぁ鍵を借りた事は忘れるだろうなと思っていたが。いざ直面すると仕事で疲れた体にこれは響く。
「うふ……せめて部屋に居なさいよ全く…」
 ダメ元でクロエに電話をしてみる。
 彼女は数コールで出たのだが、いざ電話に出た彼女は眠たそうな不機嫌そうな声をしていた。
『……はい?』
「クロエですか?夜分遅くにすみませんねぇ。ちょっと今部屋に入れなくなってしまいましてね、今日貴女の部屋に泊めていただくと言うのは──…」
『嫌に決まってんだろ私は寝ます』
 ブツッ…ツー、ツー……。
 無慈悲に一息にそう告げるとクロエは冷酷な電話の切り方をする。全く、自分が大変な時は二人とも此方の都合などお構いなしに部屋に来る癖に。
 シキとクロエは自分に問題が起きた時、無遠慮に部屋の前までやって来て「開けてくれ」とドンドン戸を叩くのだ。まるで「絶対に逃さない」と言う強い意志を込めているかの様に。それで一体何人との行為が中断されたか。此方はそれでもまだ頼む時には部屋に行くでなく一報入れるのだから良心的だと思う。
 全く、恩を仇で返す様な事しかしないのだから。
「……あの…クソガキ共……」
 何年かぶりにぽつりとそう呟いた。
 結局、この日はタイガに連絡を取り事なきを得たロードだったが、次の日シキを呼び出し鍵を返してもらいがてらたんまりと怒りを浴びせたのは言うまでもない。
 しかし、何に浮かれているのかシキは特に気にする事も無く、今日も今日とて小さなポニーテールを目で追っている。