薄明のカンテ - この黒子を好きになった日/燐花
 ギルバートは目の前にいる赤毛の女性を食い入るような目で見ていた。今、彼の頭の中を占めているのはただ一つ。
「彼女は僕の敵か?」
 と言う思いだけだった。
「はいよ、これ領収書」
「ああ…」
 アン・ファ・シン。彼女はギルバートが見て来たどの女性にも当てはまらない言わば見たことのない女性だった。今まで見て来たのは貴族の、煌びやかで上質な衣服を見にまとったお高く止まった女性達。物心ついた頃にはもう没落の渦中にあった家に住むギルバートは貴族であっても彼女達と対等にはなれなかった。
 ──貴族?あれが?ああ、馬の一族ね。
 幼いギルバートを見た人間は皆そう言う。馬の一族だとか、外様貴族だとか。貴族もどきと言いたげな好奇の目にも負けず何とかやって来たが、とうとう当主が倒れ二進も三進もいかなくなり結社にやってきた。しかし、ギルバートはここに来て人間不信気味になっていた。
「機械班、仕事の割に出費が多いぞ」
 ボソッと呟くのは普段より幾分元気のない言葉。もともともう少し余裕のある性格のはずだが、直情的な今口を突いて出るのは嫌味ったらしい言い方だった。目の前にいる女性は、それに眉一つ動かさずただ「そうか」とだけ呟いた。
 何だか不意に全てが気に入らなくなった。
 彼女と同じところにある黒子を思わず爪でひっかく。彼女は岸壁街にある施設の出だと言う。世間一般で見たらはみ出し者じゃないか。なのに、彼女の周りには人は居るし、岸壁街の出だからと分けて見る人間も見ていない。
 ギルバートは頭を抱えた。貴族の集まりにいれば馬の一族と揶揄され対等になれず、そこから出れば今度は貴族だと呼ばれて対等になれず。
 人間不信は、結社に入るまで想像していなかった憤りを抱えるまでになってしまっていた。
「全く…」
 一瞬よろけた。ただ一瞬だけだった。
 よろけた拍子に咄嗟に手をついたが、それはファイルの山でギルバートの体重を支えきれず崩れる。ああしまったと思った時には眉のすぐ上の辺りに痛みが走って目の前に天井が広がった。
 額にピリピリと痛みが走り、頭はぐらぐらする。そんなギルバートに慌てて駆け寄ってきたのはその場にいたアンだった。
「何してンだ!?」
「アン・ファ・シン…」
「テメェ、額に…待ってろ、医療班連れてくから歩け。あーしだけじゃ支え切れねェ」
「僕に構うな…こんな立ちくらみ…放っておけば治る…」
「立ちくらみ?やっぱり、ただの切り傷、ただのよろけじゃねェだろ?大事あったらどうすンだ?」
 アンに支えられ医療班へ行く。医療班に着いてすぐ飛んで来たアキヒロはギルバートを見てにこりと笑った。
「僕はつい先日医療班に赴任しました、医師のアキヒロ・ロッシです。ところでベネットさん、貴方検査の記録がありませんね。採血すらしていないとは…」
「ぼ、僕は注射が嫌いだ…」
「定期検診を受けられなきゃ困るんですよ?やっと医療班に顔出してくれたし、ついでだから今日採血もしましょう」
 異常なまでの注射嫌い。もはや先端恐怖症に近いかもしれないが、故に経理部の仕事ですらまだ顔を出してなかった医療班に来てしまった為、何かしら検査を受けるのは必須だった。
「あれ…?貴方加入時の検査も体調不良を理由に受けてませんね?まだまだお年は若くて大丈夫そうでも、貴方だけの話じゃないんですから」
「や、やめ…」
「ほらほら、傷も見なきゃいけないんですから落ち着いて」
 ギルバートは完全にパニックになっていた。機械人形に抑えに掛かられなすすべも無くなってしまったのが余計にパニックを掻き立てる。
 このままじゃ簡単な検査も全て苦痛を伴うものになってしまう。アキヒロがそう思った時、アンが動いた。
「おい」
「な、何だ!?」
「こう言う時は変に抵抗せず、身を任せた方が良い。そうしたら一瞬で済む」
「だ、だが…!」
「良いから。少しは信用して人に任せてみろ」
 ギルバートの目を優しく手で覆い、上から声を掛ける。少し落ち着いたギルバートの額を見て、取り敢えずこの傷は絆創膏でも大丈夫そうだと判断したアキヒロは採血に回った。
 目の上の手はとても熱いし、ドクンドクンと心臓の音が聞こえる。いや、これは自分の心臓の音かもしれない。どちらのものか分からないくらいの密着は、どうしようもない孤独から自分を引き上げてくれた。
「い、いつもこんな風にしてるのか?」
「まさか。あーしの傍に居るチビたちですらテメェより手は掛かンねェよ」
「何故そんなに手を掛けてくれるんだ?」
「別に。乗りかかった船だから」
 手で目を覆われて何故か安心している。そしてその間に採血も何もかも終わってしまった。何があんなに怖かったのか、終わった後となってはもう分からないくらいだ。ギルバートはふうと一息ついて天井を見た。
「おい、あの女…」
「あいつ確か、あの岸壁街のだろ…?」
「海神の子までいるのかよここは…」
 気持ちの余裕を取り戻すと同時にいらないものも耳に入る。そうか、彼女もこんなにも言われることがあってそれでも強くあれるのか。
 外野の言葉を聞いているのかいないのか、顔色一つ変えずやれやれとアンは肩をぐるぐる回す。そしてそのまま去ろうとするのだが、がしっとギルバートに腕を掴まれた。
「…いきなり何だ?」
「そ、その…すまない。僕の為に、時間を割いて」
「え?」
「だからその、僕の為に労力を使わせて悪かった」
「ンだそりゃ。そう言う時に言う言葉はごめんじゃなくて、ありがとうだろ」
 そう言ってふっと微笑んだアンの顔。ギルバートが恋に落ちたのはこの瞬間だった。
 何て美しいんだろう。温室育ちな自分にはない、雑草魂とでも言うのか逞しく強い美しさだ。
「アン!今日は領収書は無いか!?」
「あぁ?領収書って…この間あーしが持ってってまだ二日しか経ってねェだろ!?」
「む…まだか…せめて一週間は待たなければダメか…」
「一週間でもそこまで溜まンねェしあーしがまとめて持ってくからテメェは来ンな!」
 変なのに懐かれたなぁ、とアンは思った。
 今まで見た事もない強く逞しく美しい女性をこんなところで見付けてしまうとは、とギルバートは思った。
 そしてこれを機に、ギルバートは少しだけ我慢を覚えた。そして薄ぼんやりした「貴族だから誰かを守るのが誇り」と言う理由より強い「好きな人を守れる自分でありたい」と言う目標が出来た。
 ラサム歴二千百七十三年八月。前途多難な彼の恋と目標はやっとスタートしたのである。