今の部屋の様子、どーなってんだっけ?
黒猫のクロを腕に抱き寮の自分の部屋の前に帰ってきたルーウィンは、ポケットから鍵を取り出しながらふとそんな疑問を抱いた。
整理整頓がキッチリしているという性格では無いため、部屋が綺麗とは言い難いのは分かっているが
人に見られてマズイものはなかっただろうか。
「いや、人じゃねーし」
腕に抱いているのは
どこかの誰かを彷彿とさせるものの黒猫だ。人間では無い。しかし、何故か
彼女に部屋を見られるようで緊張してしまう。
気まずい気持ちを抱きながらクロを見ると、クロは「早く入れろ」とばかりにルーウィンをその綺麗な紫の目で見上げてきた。
上目遣いの可愛いお願いだ。
瞬時にルーウィンの頭から「
NO」が消えた。
電子キーではない旧来の鍵を刺して回すタイプの扉を開けると、当然ながら何の変哲もない自分の部屋が広がっている。テーブルの上に清掃班に頼んでいた洗濯物の山が置きっ放しになってはいるが、洗濯されたものであるし綺麗に畳まれている(畳んでくれたのは清掃班である)ので大丈夫だ、問題ない。
「お、おいっ、クロ!?」
スルリとルーウィンの手から滑り落ちて優雅に床に着地したクロが軽やかに家に入っていく。カンテ国は土足の国であるから問題は無いが、その足でベッドに上がられては流石に困るルーウィンはクロに慌てて手を伸ばすが靱やかな猫は「猫は液体」と言われるだけあってなかなか捕まらない。
しかし、クロは部屋に侵入してもベッドに上がり込むこともせず床の上でルーウィンを振り返って見つめるだけだった。否、その目が見つめているのはルーウィンが手に下げているビニール袋だ。更に言うなら、その袋の中に入っている牛乳だろう。
「あー、はいはい。ちょっと待ってろよ」
そう言ったもののクロに牛乳を飲ませる皿に丁度いいものはあっただろうかとルーウィンは戸棚に目を走らせる。すると大きさ的にも深さ的にも丁度良く、今までもこれからも使わない自信のある皿が目に入ってこれで良いかと手に取った。
「うちの牛乳は牛も他所と違って特別なんだからな。良く味わえよ」
そう言ってクロに皿を差し出すと、クロは味を知っているかのように警戒することなく皿の中の牛乳に舌を伸ばした。
クロがぺろぺろと牛乳を味わうのを、じっくりと緩んだ笑顔で見つめるルーウィン。その顔にどことなく悪戯を仕掛けたクソガキの色が浮かんでいることに、一所懸命に牛乳を舐めるクロが――そもそも猫なのだから――気づくはずもない。
そして、牛乳は飲めば無くなるものである。
牛乳が残り少なくなってきた時、
それは唐突にクロの目に飛び込んできた。瞳孔が真ん丸になり、思わず舌を止めたクロを見てルーウィンは腹を抱えて笑う。
「猫も驚くかと思ったけど、やっぱり驚くんだなコレ!」
ルーウィンがクロに差し出した「これからも使わない自信のある皿」は、友人のタイガ・ヴァテールに貰った『Don⭐︎Dokosho』デザインの
何故か網タイツを履いた足の綺麗なヒヨコが描かれた皿であった。タイガの部屋にある
ブサイクなオッサンだかタヌキだかのプリントがされたマグカップのデザインよりマシではあるが、妙に勝気な表情のヒヨコと目が合うのが辛いだろうと判断して戸棚に仕舞いっぱなしであった皿なのである。猫なのだからクロは気にしないだろうと思っていたが、さすがに人間でなくても衝撃を感じてしまうデザインだったようだ。
恨みがましいジットリとした目をクロが、笑いすぎて目に涙すら浮かべているルーウィンへと向ける。その目がおかしくてルーウィンは更に笑った。
そんなルーウィンを存分に睨みつけた後、食欲なのか、はたまた人間のように残すことを嫌がったのかクロは大人しく『足長ひよこ』のプリントされた皿に残った牛乳を舐めとる。
そして、全て舐め終わった後に。
「痛ッ!? マジかよ!?」
ルーウィンの顔にはクロの爪によって新しい傷がついたのであった。
* * *
『今現在、ペットの黒猫がいなくなったという届けは出ていませんね』
「そーっすか……」
クロの存在を総務部へと連絡しようと電話をかけたルーウィンは、応対したフィオナ・フラナガンの答えに肩を落とした。
『ジャヴァリーさんがこれから先も飼うのでしたら……そちらの物件はペット可なので問題ないですが、届けが必要ですのでお願いします。または飼い主を探すようでしたら総務の方でデータを作成しますので、写真等を送っていただく形になりますね』
手馴れた様子でフィオナが語るが、ルーウィンはクロの今後を決めかねていた。
クロは紫がかって見える綺麗な毛並みの猫だ。誰かの飼い猫なのかもしれないと思い、ここまで連れてきたが違うとなると今後に悩んでしまう。
飼えるものなら飼いたいが、ルーウィンは前線駆除班。支部勤務となれば数日部屋を空けることもあるため、ペットを飼うのに良い環境とは言えないだろう。
電話口で思わず黙ってしまったルーウィンの心を読んだかのように、再びフィオナが口を開く。
『わたしの方で黒猫を飼っている届けを出している方に連絡を取ってみますので、それまで預かっていていただいて良いですか? どうされるのかは、その後……数日かかるかもしれませんが、その時に伺います』
「了解っす」
おそらく、本来は数日かかることなく終わる作業なのだろうがフィオナはあえて「数日かかる」と言っていた。ルーウィンはそんなフィオナの心遣いに感謝しながら応える。
『あの、ジャヴァリーさん』
「はい?」
そんな折、フィオナの声のトーンが急に弾んだものに変わってルーウィンは訝しげな顔になりつつも返事をした。
『その黒猫、“くろいの”に似ていたりしますか?』
「“くろいの”……?」
『ご存知ないですか? 4年くらい前にドラマもやっていた「大きなナラの木の下で」に出てくる黒猫なんですけど!』
どうやらフィオナは、その『大きなナラの木の下で』が好きなようだが、ルーウィンはあいにくドラマに興味がなく言われて「そういえば、昔流行ってたような……」のレベルの男であった。
「いやー、ちょっと知らねーっす。ていうか黒猫で“くろいの”って安直な名前っすねー」
黒猫に“クロ”と名付けている男の発言とはとても思えない発言だが、フィオナはその事を知らない。「“くろいの”は確かに安直なネーミングではありますけどもそれは……(以下、長文でのオタク的考察が延々と続く)」と脳内でのみ言葉を発したフィオナは今が仕事中であり、相手は非オタのルーウィンである事に気付いて表向きは「そうですね」とだけ言うに留めた。
『好きなドラマの猫ちゃんに似てたら良いな、なんて思っただけなんですよ。黒い毛並みに更に黒い瞳の猫ちゃんなんですけどねっ』
「あー、じゃあコイツと、そのくろいのは似てねーっすよ。すっげー綺麗な紫の目ぇしてますもん」
『紫だなんて変わってますね!それなら探している人がいれば直ぐに見つかりそうです。では、わたしは捜索してみますので』
「宜しく頼むっす」
『はい、承りました』
電話を切ったルーウィンは、クロとまだ一緒にいられて嬉しいような、クロの飼い主が見つからなかったことに対する残念感と混ぜこぜになった息を吐く。
そうして電話の間中は放置してしまっていたクロはどうしているだろうかと首を巡らすと、サッと顔色を変えた。
ベッドに前足をかけているクロを発見してしまったからだ。
「あ、
クロエ! それはダメだって!」
携帯端末を放り投げてルーウィンはクロをすんでのところで抱き止める。
「お前、ヤンチャだな……ベッドはダメだって言っただろ、クロ」
クロに言い聞かせるように顔を見ると、きょとんとしたような顔をしたクロの紫色の目と目が合った。「今、お前違う名前で呼んだよな?」と目がちゃんと言っているような気がしてルーウィンは思わず噴き出して笑う。
「ははっ、凄いなクロ。ちゃんと呼び方違うの分かるんだな」
そう言って頭を撫でると、唖然としたままのクロは大人しくルーウィンに撫でられていた。
「別に黒いから“クロ”って呼んでた訳じゃねーんだ。お前みたいな……知り合いが居て、実はそいつの名前からとったんだよ」
クロエとの関係を何て言ったら分からず「知り合い」と言ってみたルーウィンだったが、自分で言っておいて傷ついたような顔を見せる。クロエに会いに行った総務部ではユリアに「シフトも知らない仲なんですね。じゃあ連絡先も知らないかぁ」と言われてしまったが、自分とクロエの関係なんてそんなものだ。精々が、お裾分けをするご近所さんレベルだ。
「ま、クロはクロエと違って可愛いけどなー」
大人しく撫でられていたクロが不満そうな顔(ルーウィンには確かにこう見えた)をしてルーウィンを見上げた。
「クロエはかわいい系っていうより綺麗系なんだよ。本人には絶対に言わねーけど」
相手が人間ではないルーウィンの口は饒舌だった。
クロがどことなくクロエに似た黒猫というのが大きいのかもしれない。
「うちの小隊に居るゼンさんはさ、クロエのこと『ゴボウ娘』とか言うけど別にゴボウだって何も悪くねーし別に良いよな。意見をしっかり言えるのだって言えねーでモゴモゴしてる奴の何倍も良いし」
クロは黒猫である。
故に顔色が変わったとしても毛並みに防がれてそれを見ることは出来ない。仮に猫の顔色を見ることが出来たならば、今のクロはルーウィンの言葉に
自分の事のように赤面していたかもしれない。
「本当、強い女で良い奴だよ。クロエは」
そこまで言ってルーウィンは話の流れからすると違和感のある大きな溜め息をつく。
「だからさ、そんな強いアイツが頼りたくなるのって……あのパパ活やってそうな人なんだよな。完璧な大人の男みたいな奴じゃなきゃ、クロエが寄りかかれない」
ルーウィンの言う「パパ活やってそうな人」とは人事部のロード・マーシュのことに他ならない。
ロードと、それとシキ。クロエが親しい男性達。
今日、クロエの居場所が分からなかった時も、クロを抱えて彼等に会いそうだった時も、彼等に頼るのもクロを見せるのも「理由もなく」ルーウィンは嫌だと思った。否、理由もなくというのは己の感情を認めたくなくて目を背けていたからだ。
その感情の名前は、嫉妬。
クロエと親しい彼等が羨ましくて妬ましい。
そんな事を考える自分の人間性の小ささに情けなくなってくるし、それを考えてしまう段階で既に自分はロードやシキに劣った人間であると思う。
つまり、自分はクロエが寄りかかろうとしない程度の人間。
認めたくはないが、そういうことなのだ。
「……クロエとマーシュさん、付き合えばいいのに」
思ってもいない事を口に出すと、余計にそれが胸に重く伸し掛る。
余談であるがロードが医療班のヴォイド・ホロウに心底惚れていて彼女にのみ愛を捧げていることをルーウィンは知らない。それを知るのは結社でも限られた人間だけであり、比較的ロードと親しい人物と愛を捧ぐ瞬間を目撃した事がありそうな医療班の人間位だ。ロードはロードで結社内での自身の立ち回り方を理解しており、日頃は「良き大人の男性」としての仮面を綺麗に被って動いている。それを見破る事のできる人間は余程の勘に冴えた者くらいであり、結社内に見破っている者が現在居るのか怪しい程の完璧な擬態振りだ。
凹むルーウィンにクロは何とも不服そうな鳴き声を出す。その声から滲み出る不機嫌の音色が面白くてルーウィンの顔は心に反して緩んだ。
「クロ、そんな嫌そうに鳴くなって」
更にもう一声、それはそれは嫌そうにクロが鳴く。
少なくともルーウィンには、そう聞こえた。
「そうだよな。うじうじ言っても何も変わんねーよな」
クロの頭を撫でながら、この黒猫をやっぱりどうにかして自分が飼えないかとルーウィンは真剣に考えることにした。
例えばルーウィンが勝手に「アニキ」と呼んでいるエミールは、知人の飼う犬のペペローネを時々預かっているようだが、同じようにクロを預かってくれる人間を探すとか。
「一緒にいような、クロ」
ルーウィンが、そうやってクロに声をかけると。
クロは冷めた目でルーウィンを見て、「仕方ないですね」とばかりの声音で「にゃあ」と返事をするのだった。