薄明のカンテ - お腹いっぱい、胸いっぱい/べに



Benvenuta

 白い壁に灰色の三角トンガリ屋根。
 ラシアスのとある裏通り、トレベーネで「トゥルッリ」と呼ばれる住居を一軒だけ作ったようなその家は「パンチャ・ピエーナ」という名前のトレベーネ料理店だ。若者に人気の街ラシアスにありながらマスコミ関係を一切断る頑固な店主の営む店は、地元民に今日も愛され目下営業だった。
 そんな可愛らしい店の前で、まるで死地に赴くような表情を浮かべる和服の女性がいた。セリカ・ミカナギである。
「セリカ、顔色悪いわよ」
 東國の服とトレベーネの家屋。
 不思議な組み合わせのようになっているセリカに声をかけたのはエレオノーラ・ブリノヴァ――通称・バーティゴであった。彼女は目が良く見えない。そんな彼女に「顔色が悪い」と言わせるほどにセリカの顔色が本当に悪いのか、はたまたバーティゴなりの和ませようというジョークなのか。それに対してツッコミを入れられる余裕が今のセリカにはなかった。
「大丈夫です……行きます」
「ええ、行きましょう」
 バーティゴの左手はセリカの背に添えられていて言葉と共に安心させるようにポンポンと軽く背を叩かれる。その背に添えられた手から力を得たセリカは一度大きく息を吐くと意を決してパンチャ・ピエーナの扉を開いた。
 チリンチリンとドアベルが可愛らしい音をたてて店内へ来店客の訪問を告げる。お昼時の混雑時を避けて来たつもりだったが、見渡せるだけの広くはない店内には、まだ数組の客の姿があった。その客のうちの一人と談笑していた店員がドアベルの音に顔を上げてセリカ達へと視線を向ける。
 男装の麗人。
 そんな表現がしっくりとくる肩口で切り揃えられた金髪が印象的な黒い瞳の、すらりと背が高い細身の美女店員だ。白く清潔感のあるワイシャツに黒のスラックスというシンプルな服装が店員の美しさを際立たせているといっても良い。
 そんな店員は訪問客の姿を見付けると黒い目を溢れんばかりに開き、その長い足でまっすぐにセリカの元へと向かうと、ひしりと彼女に抱きつきながら叫ぶ。
「おかえり、セリカ!」
 店員の熱烈歓迎に驚きつつも、セリカは目を潤ませる。
 彼女に罵倒されることも、冷えきった目で睨まれることも想像していたというのに彼女は息子の生前・・・・・と同じようにセリカを迎えてくれた。「ケンズの悲劇」で亡くなったベンジャミンを連れて帰った時と同じように優しく迎えてくれる優しさが胸に沁みる。
 バーティゴと並んでも遜色ない長身を持つ店員に抱き締められながらセリカは微笑むと、涙で震える声でも明るく振る舞う。
「只今、戻りました。お義母様・・・・
「未だに私を『お義母様』と呼んでくれるなんて!」
 嬉しそうに言って抱き締めていた腕を離した義母はセリカの姿を頭の上から爪の先まで眺めた。
「セリカ。今は東國の変わった服を着ているんだね……君に着られるなんて服が可哀想だ」
 可哀想。
 その言葉を聞いたバーティゴの眉がピクリと動く。
 バーティゴは店に来る前にパンチャ・ピエーナを営むのがセリカの元夫の両親だと聞かされていた。セリカ自身は元義両親に罵倒されるのも覚悟の上での訪問だと言っていたが、それでもバーティゴとしては可愛い部下が傷付くのを見逃す訳にはいかない。
 表面では和やかなままだが水面下で緊張感が走る中、セリカの義母は更に言葉を続けた。
「君の美しさに服が霞んでしまうからね。それにしてもセリカの髪は長くても短くても輝いているね。天空から降りてきたばかりかい? 私の天使」
「お義母様の方が何倍もお美しいですよぅ」
「お世辞を囀ってくれるセリカの声の方が更に美しいよ」
 トレベーネ男子か。
 セリカの義母の言葉の数々に緊張感の霧散したバーティゴは脳内でツッコミを入れた。それと共に義母とセリカの仲は良いままだったらしいと一安心もする。
 そんな心のツッコミが聞こえた訳では無いだろうがセリカの義母の目が、ようやくバーティゴへと向いた。
「セリカ。こちらの素敵な方はどなただい?」
「結社での上司、といえばいいのでしょうか? 私の所属する小隊の隊長格の方ですぅ」
「こんな美しい女性が率いてセリカも一緒だなんて、敵が男ならば戦わずに平伏すだろうね」
「エレオノーラ・ブリノヴァです」
 バーティゴはトレベーネ男子並の言葉をサラリと流して名乗る。挨拶代わりに口に出す言葉が口説き文句と言われる程の言葉をいちいち本気にしていてはトレベーネ男子とはやっていけないことをバーティゴは知っていた。
「ロジーナ・ピンカートンです。厨房に居るのが私の愛する夫のルーサー」
 さすがトレベーネ男子気質とでもいうのかバーティゴに言葉を流されても全く気にすることなくセリカの義母――ロジーナは微笑む。バーティゴは視力が極端に悪いために気づくことはなかったが、そのロジーナの表情は若々しく小隊のメンバー、ジョン・スミスと同年齢を産んだ女性にはとてもではないが見えなかった。
「さ、セリカ。立ち話も何だろう。ブリノヴァさんも座って座って」
 さりげなく目の悪いバーティゴには椅子を引いて分かりやすく場所を誘導しながらロジーナが2人を席につかせる。
「そういえば2人はどうやって此処へ? セリカは車の免許を持っていないだろう?」
「ええ。それなので運転手さんをお願いした人がいましてぇ……駐車が出来たら此処へ来る約束になっているんですぅ」
 セリカの言葉は半分正解で半分嘘だった。
 パンチャ・ピエーナには駐車場が無い為、別の駐車場を探す必要があったのは本当。もう半分は、セリカが店を叩き出される事態になった時に運転手はともかく彼の娘・・・にその光景を見せたくなかったからだ。
 何組か残っていた昼食をとっていた客が帰っていった頃、チリンチリンとドアベルが可愛らしい音をたてて店内へ新たな来店客の訪問を告げた。
 入ってきたのは運転手をさせられたリアム・シュミットと、彼の娘のリリアナ・シュミットだ。
 リアムとは既知の間柄であり、彼の性格を良く知るが故にリアムが幼い女の子を連れているという光景に唖然とするロジーナに先制攻撃のようにリアムが口を開いた。
「ご無沙汰しています。ほら、リリ」
「こ、こんにちは。リリアナ・シュミットです」
 リアムに促されたリリアナが人見知りをしているのか緊張した顔で自分のワンピースの裾をぎゅっと握り締めて、それでもロジーナの顔を見て声を上げる。そしてぎこちなく頭を下げたリリアナにロジーナは返事もせず、目を限界以上に見開いたまま硬直していた。
「パ、パパ……」
 見目の良さも相まって彫像のようになってしまったロジーナにリリアナは泣きそうな顔でリアムを見上げる。そんな愛娘の頭を軽く撫でて、リアムは平然と口を開いた。
「大丈夫だ。リリ、そんな顔じゃなくて笑ってみなさい」
「えっ……?」
 リアムの突然の言葉に戸惑うリリアナだったが父親の言うことに間違いは無いと考える。浮かびそうになっていた涙を堪えて、笑顔をロジーナへと披露した。
 次の瞬間、ロジーナの止まっていた刻が動き出す。
 滑らかな動きでリリアナの前に片膝をつくと「知らないおばちゃんの良く分からない動きに」困惑するリリアナを愛しそうに見つめて口を開いた。
「かわいい天使、天国から降りてきて足は痛めていないかい?」
「えっ!?」
「ああ、今頃天国は大騒ぎだろうな」
「ええ?」
「だって天使が1人、地上に逃げ出して私の所に来てしまったようだからね」
「えええっ!?」
 微笑むロジーナの美人さと甘い言葉にリリアナは思わず赤面して両手で頬を抑える。リリアナの大好きなギャリーお兄さんも「かわいいね」と誉めてはくれるが、ここまでぶっ飛んだ言葉を貰ったのは人生初だ。
「リリが困るので美辞麗句の冗談はそこまでにして貰えますか?」
「私はいつでも本音だよ、リアム坊や。全く君はベンジャミンのように堅物だな!」
 そう言ってようやくロジーナはリアムへ目線を向けて、何かに気付いたようにリアムをじっくりと眺める。
「な、何ですか?」
 じっくりと眺められて居心地の悪くなったリアムが眉間に皺を寄せてロジーナに問い掛けると、彼女は視線をリリアナへとついと動かした。
 そして、シュミット親子が熱烈歓迎を受けるのを赤の他人のように眺めていたセリカとバーティゴへと視線を向ける。否、正確にはロジーナの視線はバーティゴへと向いていた。
 そして、再びリアムへと向き直ると合点がいったとばかりに頷く。
「エレオノーラさんは坊やの嫁さ」
「違います」
 被せ気味にリアムはロジーナの言葉を否定した。
 リリアナもバーティゴも金髪だが、それだけで親子関係を疑われては困る。
 別にリアムがバーティゴを嫌っているだとかそういった話では無い。
 むしろカラッとした彼女の性格は女の面倒くささがなく好ましいし、スタイル的にはリアムの好みの豊かなをお持ちである。
 しかし、バーティゴと冗談でも夫婦だなんて言われるとそれを面白がらない女がこの場にはいるのだ。
 リアム曰く「エセ・ヤマトナデシコ」のセリカ・ミカナギだ。
「ふふっ、お義母様ったらお姉様とリリアナちゃんがどちらも素敵なレディだからって勘違いしたら駄目ですよぅ」
 笑った顔をしているがセリカのリアムを見る目が「お前程度が烏滸がましい」と思いきり言っていた。目は口ほどに物を言うとは本当のことだったのかと思わずリアムは考えつつ彼女から目を逸らしておく。
「レレイ!? リリ、レレイ!?」
 「レディ」の単語に反応してぴょんぴょん跳ねてから、それはレディの仕草では無いと自ら気付いたリリアナが佇まいを直す。その仕草の愛らしさにロジーナが身悶えするが、もはや誰もツッコミを入れない。
「ロジーナ」
 収拾不能になりそうだったパンチャ・ピエーナの店内に静かに若くは無い男の声が厨房から響き、ロジーナが我に返った。
「ごめんね、ルーサー。愛する君の事を忘れていた訳では無いのだが、天使達があまりに可愛くてね」
 ルーサー――ロジーナの旦那であり、それは即ちベンジャミンの父である――はロジーナの言葉に何も言わなかった。しかしながら不機嫌な訳では無いとバーティゴが空気感から悟った頃、ロジーナが改めてセリカ達に向かって口を開く。
「では、改めて。ようこそ、パンチャ・ピエーナへ」

una bambinetta carina

 なんだかおひめさまになった気分。
 リリアナは綺麗なロジーナおねえさん(女の人はいくつになってもお姉さんなのよ!)が運んでくれたトレベーネ料理をたくさん食べて、ご機嫌だった。結社の食堂のご飯もおいしいけれど、いつもと違う場所でのご飯は格別だ。
「セリカおねえさんは素敵なお店を知ってるのね!」
 ニコニコとセリカに言えば、セリカは柔らかく微笑んで頷いてくれる。でも、その表情がちょっとだけ固いものであると、普段セリカの部屋にお泊まりさせてもらうこともあるリリアナは気付いていた。
 こんなにおいしい料理を前に、セリカおねえさんは何を緊張しているのだろう?
 ひょっとしたら着物を着ているセリカはフォークとナイフを使うのは苦手なんだろうか。
 そんなことを思ってそれとなくセリカの食事の様子を窺ってみたリリアナだったが、セリカは優雅にフォークとナイフを使いこなして食事を口に運んでいた。レレイだわ、と思わずセリカのきれいなテーブルマナーに惚れ惚れとして見惚れてしまう。
「ほらほら、お口がお休みしてるわよ」
 ポカンと正面に座るセリカを見つめていたらセリカの隣に座るバーティゴから声がかかって、慌ててリリアナは開きっぱなしの口を閉じた。そんな惚けた表情なんてレレイに相応しくない。
 バーティゴおねえさんは、あんまりお目々が見えないって言ってたけど全然そんな風に見えないわ。だってお食事だって綺麗に食べられているもの。
 トレベーネ風に柔らかく煮たブロッコリーの入ったパスタをバーティゴは難なく食べているようにリリアナの目には写った。大抵の子供と同じくリリアナもブロッコリーが苦手だ。そんな自分が苦手とする食材を美味しそうに食べているバーティゴに尊敬の念すら覚えてしまう。
 「やっぱりレレイは何でも食べられないとなれないものなのね!」と言うのは、ちょっと前の自分の言葉だけどそうは言ってもリリアナはやっぱりお野菜は苦手だ。ナタリアママも野菜が苦手で(ついでに料理も上手じゃなかった)、「野菜なんて食べなくても生きていけるわよ!」と言っていたけれど、それじゃダメだとリアムパパに言われて今のリリアナは頑張って食べている。頑張ってはいるが苦手なものは苦手なのだ。
「お野菜もちゃんと食べたらバーティゴお姉さんみたいに大きくなれるかしら?」
 リリアナの言葉に、隣に座っていたリアムは目を剥いてリリアナを見たがリリアナはバーティゴしか見ていないので、そんなリアムの表情の変化には気づくことは無かった。素直な子供の問いかけにこちらも驚いた様子を見せたバーティゴだったが、リリアナの言葉を肯定するように目を細めて微笑んで頷く。
「そうね。大きくなれるかもしれないわね」
「リリアナちゃん、大きくなりたいのですかぁ?」
 カンテ国の女性の平均身長程の背丈を持つセリカが問いかけてくるので、リリアナは力強く頷いた。
「だって『男なんてみくだしてなんぼ』ってママが言ってたもの」
「ぐふっ!」
 水を飲んでいたリアムは水が変なところに入ったのか噎せ込み、そんなリアムをバーティゴとセリカは生あたたかい目で見つめた。
 そうか。リアムはリリアナのママとはそういう関係性だったのか、と。
 大人達の様子に気付くことなくリリアナは言葉を続ける。
「『みくだす』ためには大きくならなくちゃダメでしょ? だってママもパパを……」
 そこでリリアナは気付いたことがあって変な顔になる。
 記憶の中にあるママの身長は、パパよりも小さかった。
 それなのに、どうやってママはパパを見下していたんだろう?
「ママの方が小さいのに、どうやってパパを見下してたの? ママ、ハイヒール履いてたけどパパよりは大きくならないでしょう?」
 バーティゴとセリカの頭の中では想像のリリアナのママナタリアが女王様としてハイヒールでリアムを踏みつけている図が浮かんでいたが、まさかそれを表に出す訳にはいかず、二人揃ってポーカーフェイスを保ったままリアムの反応を待った。
「リリ」
 そんな女性達の視線を受け止めて、リアムは内心は動揺しつつも冷静な顔で愛娘の愛称を呼ぶ。
「なぁに、パパ」
「そろそろ食事も終わる頃だろう。デザートは何にする?」
「えっ!」
 リリアナの黒い目が丸くなる。
「デザート食べてもいいの!?」
「勿論だ。折角のトレベーネ料理なんだから最後まで楽しまないとな」
 メニューをリリアナへと差し出したリアムの顔はバーティゴとセリカから見て胡散臭さ極まりない笑顔だった。
 誤魔化したな。
 バーティゴとセリカは思うものの『男を見下す』リリアナ母とリアムの大人の事情・・・・・なんて話されても困るだけなため、黙っておく。
 質問者であったリリアナはメニューのデザート欄とにらめっこしており、もはや先程の質問のことは忘れているようであるし、ならばこの話は闇の中へと消えた方が良い。
「パパ、どうしよう」
 そんな中、リリアナが悲壮な顔でリアムを見上げた。
「どうした、リリ」
 まさか先程の質問を思い出してしまったのだろうか。
 大人達の中に緊張が走る。
 その空気に気付くことなくリリアナは重大な事実を告げた。
「わたし、トレベーネ料理のデザートの名前見てもどんな料理か分からないわ!」

Al cuor non si comanda

 静かにコーヒーソーサーに置かれたカップの音すら、その時のセリカの耳には明瞭に届いていた。
「さて、リリ。そろそろ行こうか」
 リリアナがデザートを食べ終えるタイミングに合わせて食後のコーヒーを飲み干したリアムが、愛娘に声を掛ける。ジェラートを食べ終えたリリアナはスプーンを置くとニッコリと笑って頷いた。
「おじいちゃまとおばあちゃまに会いに行くのね」
「良く覚えていたな」
 優しい表情でリリアナの頭を撫でながらリアムは目線だけをセリカに向けた。眼鏡の奥にあるリアムの目は彼にしては珍しいことに不安の色が湛えられていて、逆にセリカの緊張は少しだけ落ち着く。
「では、申し訳ないですが帰る時は又宜しく御願い致しますぅ」
「ああ。連絡をくれればこちらへ戻るから」
「小さな天使と坊やは行ってしまうんだね」
 4人が食事中、奥の厨房を片付けるのを手伝っていたロジーナが名残惜しそうな声と共に現れた。再び「坊や」呼びされたリアムの眉間に皺が寄る。
「ロジーナさん、私は坊やと呼ばれる歳では無いですが」
「そうは言っても、私にとっては幼い頃から知ってる君やセリカは永遠に可愛い子供のようなものさ。何があってもね・・・・・・・
 ロジーナが最後に呟いた言葉を言う時、彼女の黒い瞳がセリカを見ていたような気がしたのはセリカの自意識過剰だろうか。
 リアムはリリアナを連れて一度店の奥に向かい厨房のルーサーに声をかけてから、ロジーナに会釈をして店を出ていく。
 店内に残るのはセリカとバーティゴ、それにロジーナだ。
「あの……お義母様」
 意を決してセリカは立ち上がると口を開いた。

あんたは夫の為に喪に服し、夫の為を思って今生きてんだろ?これからも、夫を想いながら生きてくんだ。それはあんたにとって幸せな形だしそれをやってるあんたは良妻の鑑だと思う。だからあんたみたいな良い女がそこらのアバズレどもなんぞに尊敬なんて言っちゃいけねぇ。女の品位を下げるぜ?
……見損なったぜ、奥さん。俺はアンタは先輩に操立てした女と思ってたのに、こんないい加減なクソ兎頭国人なんかとちゃっかりデキてたなんてな。しかも旦那が死んですぐ。女ってのは怖いもんだぜ。清純な顔して中身はどんなアバズレか分かったもんじゃねえ

 しかし、セリカの決意を折るように脳裏に甦ったのはベンジャミンの後輩であるエメリー・ストーヴィントンの言葉だった。
 セリカがパンチャ・ピエーナにわざわざ来た理由。
 それを告げれば、優しく迎えてくれたロジーナもルーサーもエメリーのように蔑んだ目をセリカに向けるかもしれない。
 他人から負の感情を向けられて気分の良い人間なぞいない。
 怖い。
 ここまで来て、セリカの心は折れかかる。

お前に何が分かんだよ!?彼女の何が分かんだよ!?さっきから聞いてりゃ奥さん奥さん呼びやがって!この子の名前はセリカちゃんだっつーの!奥さん呼びも別に良いんだろうけどさぁ!でもお前黙って聞いてりゃ何だよ!?セリカちゃんの幸せが何か知らない癖にお前がそれを勝手に決めるなよ!そんで、セリカちゃんの幸せが想像と違ったからってお前が許す許さないを決めるなよ!女の子はなぁ、男の付属品でも何でもねぇ!その人そのものを見れねぇ奴が一丁前に結婚した人の在り方を語るんじゃねえ!!

 折れかかった、その心にセリカを励ますように浮かぶのは兎頭国人の彼の姿だった。
 自分の為、彼の為にここまで来たのだ。
 店に入った時にはロジーナに罵倒されてもいい、冷たい目で睨まれても仕方ないと思っていたのに優しく迎え入れられてしまったから、また弱い自分が顔を出してしまっていた。
 今度こそ店から叩き出されるかもしれない。
 それでも、言うしかない。
「お義母様。私は……好きな人が出来ました」
「それはベンジャミン以外に、ということだね?」
「はい。申し訳御座いません」
 深々と頭を下げる。
 セリカへと近付いてくるロジーナの靴音が静寂に包まれた店内に響き渡った。
「その彼はセリカを不幸にする屑なのかな?」
「いいえ。とても、とても優しい素敵な方です」
 ロジーナの言葉に答えると、セリカの頭に重みがかかった。
 重みといってもそれはとても軽いもので、セリカの後頭部にロジーナが手を添えただけである。
「それならば何も問題は無いじゃないか、セリカ。君が選んだ男が君を不幸にする存在だというなら私は反対するけれど、君が幸せになるというなら何も止めやしないよ」
 優しい声で、ロジーナはセリカの頭を撫でる。
「ひょっとしてセリカは東國の『貞女は二夫に見えず』を守らないといけないと考えていたのかな? そんな事は無いんだよ。此処は東國でもないし、私もルーサーもセリカにはずっとベンジーを想って独りで生きて欲しいなんて考えていないさ」
 ロジーナの手の温もりが離れてセリカは頭を上げた。
 セリカの目に映るロジーナの表情は、ただただ優しい。
「お義母様、お義父様。有難う御座います」
「それで、だ。セリカ」
 感動のあまり目が潤み始めたセリカの涙を止めるように、ずいっとロジーナが迫る。
「は、はい?」
「君の心を射止めた相手はどんな人なのかな? 一緒に来ているということはブリノヴァさんも知っている方で結社の人ということだろう?」
「は、はい。そうですぅ……」
「名前は? 年齢は? 何をされている方なんだい? 写真があれば見てみたいものだけど無いのかな? それに好きな人と言ったけど、まだお付き合いはしていないのかい?」
 矢継ぎ早に質問を飛ばすロジーナの目はキラキラと輝いていた。
 そういえばロジーナは「恋バナ」の類が大好きで、セリカも過去に散々ベンジャミンの好きなところを語らされてきた事を思い出す。そして、そんなロジーナに嬉々としてベンジャミンの好きなところを問われるがままに語り続けてきた自分の若き姿が脳裏に浮かんで、恥ずかしいようなむず痒い気持ちにも襲われた。
 それに、何かあった時の為にと同行をお願いしたバーティゴの前でギャリー・ファン好きな人の事を語るのは何の公開処刑なのだろうか。現にバーティゴはセリカをニヤニヤと笑いながら見ている。しかもセリカの「助けてくださいぃ」の熱視線を悟ったらしく声を出さずに「頑張れ」と唇を動かしてきた。助ける気は毛頭ないらしい。
 店を叩き出されないだけ良かったじゃないか。
 セリカの恥なんて、義母に許されたことに比べたら瑣末なことだ。
 そう考えてセリカは腹を括った。
「名前はギャリー・ファンさんといいますぅ。経理をされている方で、年齢は今年、26歳だと仰ってましたぁ。写真はありませんが……私としては好ましい容姿をされておりますぅ。お付き合いはしておりません」
「名前の響きからしてアシューアン兎頭国人かな? 経理をされている方なら、きっと理知的な方なんだろうね。それで? セリカが彼に惚れた逸話とかあるのかな?」
「えっとぉ……」
 セリカの顔がケトルだったなら沸騰してお湯が沸かせていただろう。
 それ程までに赤面しつつ、セリカは必死にロジーナの問いに答え続けた。
 微笑ましくロジーナとセリカの会話を見守っていたバーティゴが、やがて耐えきれずに腹を抱えて笑う程に如何にセリカがギャリーを好きか語らせ続けられた。
「なかなかギャリー・ファンさんは素敵な人のようだね。ブリノヴァさんもそう思われていますか?」
 ロジーナの会話の矛先がいきなりバーティゴを向いた。
 まさか自分に会話のボールが投げてこられると思わず一度は驚いた顔をしたバーティゴではあったが、微笑んで頷く。
「ええ、相手の気持ちを思いやれる誠実さを持った男性です。社交的で快活な方なので、そちらの息子さんとは違ったタイプかと思いますがセリカを不幸にする事は無いと思いますよ。あちらもセリカに想いを寄せているようですから彼と恋人になるのも時間の問題かと」
 バーティゴは決してギャリーを貶めるような事は決して言わなかった。
 第三者の意見を聞いて安心したのかロジーナの肩から力が抜ける。
「素敵な出会いがセリカにあって良かった」
「申し訳……」
「良いんだよ、セリカ。ベンジーだって君が一生寡婦でいることを望んだりしない」
 ロジーナの言葉にセリカは思わず目を瞬く。
 貞女は二夫に見えず。
 東國かぶれのベンジャミンの性格ならば、絶対にこの言葉をセリカに遵守させようとするであろうに。
 セリカが安心してギャリーの元に行けるようにというロジーナなりの配慮なのかもしれないが、嘘にしては下手すぎやしないだろうか。
 分かりやすい嘘に対して反応の仕方が分からず、思わず無言になったセリカにロジーナは苦笑めいたものを浮かべた。
「嘘じゃないんだ。『自分に万一の事があれば、セリカを殉死させるな。任せられる男が居たなら行かせろ』って、君と結婚した時に私達に言ったんだから」
 ロジーナの言葉を聞いてセリカは小さく笑う。
「殉死というのが、あの人らしいですね」
「それ程までに君はベンジーに夢中なお嬢さんだったからね。その心配はなさそうで安心したけれど、君の不幸をあの子も望んじゃいないさ」
 セリカにとっては、ベンジャミンという男はセリカという妻を得ていながら機械人形に理想の女性像を見出してしまった男であったが、彼にもセリカへ愛情があった時期は確かにあった。それを思い出させるロジーナの言葉にセリカの目は潤む。
「泣き顔も美しいけど笑った顔の方がもっと素敵だよ?」
 セリカの涙を指で拭ってロジーナが微笑むから、セリカも応えようと微笑もうとするのだが涙が止まらない。
 ベンジャミンにとってセリカは「頼る男がいないと生きていけない儚い女」に見えていたから、独りで生きられないと考えた故の言葉だったのかもしれない。そうは言ってもセリカはずっと自分を想って独りで生きるだろうという慢心からの言葉だったのかもしれない。しかし、最早ベンジャミンの身はこの世の者ではなく。「かもしれない」の答えを知る術は無い。
 だからこそ。
 セリカもベンジャミンの遺した言葉を都合良く受け取ることにした。
 セリカ・ピンカートンとしての自分ではなく、セリカ・ミカナギという新しい自分のために。

 * * *

「やはり言わされたのか。ロジーナさんらしいな」
 帰りの車中。
 事のあらましを聞いたリアムは運転席でクツクツと喉の奥で笑うと小さな声で呟いた。
「あの人はずっとあの調子なの? セリカから聞いていた旦那のイメージとかけ離れていて驚いたわ」
 上座である助手席ではなくリアムの後ろの席に座っていたバーティゴがセリカへ目を向けながら問いかける。そんなバーティゴには見えていないと思いながらも頷いてセリカは言葉を口にした。
「お義母様はずーっとあんな感じですぅ。私もベンジーについて何度となく語りましたし 」
 セリカは言葉を切るとにんまりと笑ってリアムへと目を向けた。
「リアム君も私のお姉様について随分と語っていたようですねぇ」
「何故それを知っている」
「ふふっ。身内特権ですよぅ」
「全く……」
 苛立たしげに呟くが、リアムの声はあくまでも小さい。
 それというのも助手席に座る小さなお姫様が眠りの世界に旅立たれているからだ。
 子どもらしくお出かけにはしゃいだリリアナの体力はもうゼロになったらしく、セリカとバーティゴをリアムが迎えに来た時にはリアムの腕の中で眠っていた。大人ぶった発言をすることもあるリリアナだが、そんな様子はやはり子どもである。
 そんなリリアナの寝顔を信号待ちの間にチラリと眺めて機嫌を直して口の端を上げたリアムだったが、彼もやられっぱなしでは面白くない。
「ブリノヴァさん。良ければセ……ミカナギさんの語った話を聞かせて貰えますか?」
 目には目を、歯には歯を。恋バナには恋バナを。
 非難の声を上げようとしたセリカであったが、リリアナを起こしてはいけないと口を噤む。
 その隙にバーティゴが楽しそうに口を開いた。
「そうねぇ。確かセリカが言うには――」
 セリカと同じようにリリアナに気を遣いながらも、バーティゴは楽しそうに先程パンチャ・ピエーナで聞いたセリカの「ギャリー・ファンの好きなところ」を語り出す。
 それは他人の口から言われると何とも恥ずかしくて。
 セリカは顔を真っ赤にして「早く結社に着いて欲しい」と願うしかなかった。