静かにコーヒーソーサーに置かれたカップの音すら、その時のセリカの耳には明瞭に届いていた。
「さて、リリ。そろそろ行こうか」
リリアナがデザートを食べ終えるタイミングに合わせて食後のコーヒーを飲み干したリアムが、愛娘に声を掛ける。ジェラートを食べ終えたリリアナはスプーンを置くとニッコリと笑って頷いた。
「おじいちゃまとおばあちゃまに会いに行くのね」
「良く覚えていたな」
優しい表情でリリアナの頭を撫でながらリアムは目線だけをセリカに向けた。眼鏡の奥にあるリアムの目は彼にしては珍しいことに不安の色が湛えられていて、逆にセリカの緊張は少しだけ落ち着く。
「では、申し訳ないですが帰る時は又宜しく御願い致しますぅ」
「ああ。連絡をくれればこちらへ戻るから」
「小さな天使と坊やは行ってしまうんだね」
4人が食事中、奥の厨房を片付けるのを手伝っていたロジーナが名残惜しそうな声と共に現れた。再び「坊や」呼びされたリアムの眉間に皺が寄る。
「ロジーナさん、私は坊やと呼ばれる歳では無いですが」
「そうは言っても、私にとっては幼い頃から知ってる君やセリカは永遠に可愛い子供のようなものさ。
何があってもね」
ロジーナが最後に呟いた言葉を言う時、彼女の黒い瞳がセリカを見ていたような気がしたのはセリカの自意識過剰だろうか。
リアムはリリアナを連れて一度店の奥に向かい厨房のルーサーに声をかけてから、ロジーナに会釈をして店を出ていく。
店内に残るのはセリカとバーティゴ、それにロジーナだ。
「あの……お義母様」
意を決してセリカは立ち上がると口を開いた。
「
あんたは夫の為に喪に服し、夫の為を思って今生きてんだろ?これからも、夫を想いながら生きてくんだ。それはあんたにとって幸せな形だしそれをやってるあんたは良妻の鑑だと思う。だからあんたみたいな良い女がそこらのアバズレどもなんぞに尊敬なんて言っちゃいけねぇ。女の品位を下げるぜ?」
「
……見損なったぜ、奥さん。俺はアンタは先輩に操立てした女と思ってたのに、こんないい加減なクソ兎頭国人なんかとちゃっかりデキてたなんてな。しかも旦那が死んですぐ。女ってのは怖いもんだぜ。清純な顔して中身はどんなアバズレか分かったもんじゃねえ」
しかし、セリカの決意を折るように脳裏に甦ったのは
ベンジャミンの後輩であるエメリー・ストーヴィントンの言葉だった。
セリカがパンチャ・ピエーナにわざわざ来た理由。
それを告げれば、優しく迎えてくれたロジーナもルーサーもエメリーのように蔑んだ目をセリカに向けるかもしれない。
他人から負の感情を向けられて気分の良い人間なぞいない。
怖い。
ここまで来て、セリカの心は折れかかる。
「
お前に何が分かんだよ!?彼女の何が分かんだよ!?さっきから聞いてりゃ奥さん奥さん呼びやがって!この子の名前はセリカちゃんだっつーの!奥さん呼びも別に良いんだろうけどさぁ!でもお前黙って聞いてりゃ何だよ!?セリカちゃんの幸せが何か知らない癖にお前がそれを勝手に決めるなよ!そんで、セリカちゃんの幸せが想像と違ったからってお前が許す許さないを決めるなよ!女の子はなぁ、男の付属品でも何でもねぇ!その人そのものを見れねぇ奴が一丁前に結婚した人の在り方を語るんじゃねえ!!」
折れかかった、その心にセリカを励ますように浮かぶのは兎頭国人の彼の姿だった。
自分の為、彼の為にここまで来たのだ。
店に入った時にはロジーナに罵倒されてもいい、冷たい目で睨まれても仕方ないと思っていたのに優しく迎え入れられてしまったから、また弱い自分が顔を出してしまっていた。
今度こそ店から叩き出されるかもしれない。
それでも、言うしかない。
「お義母様。私は……好きな人が出来ました」
「それはベンジャミン以外に、ということだね?」
「はい。申し訳御座いません」
深々と頭を下げる。
セリカへと近付いてくるロジーナの靴音が静寂に包まれた店内に響き渡った。
「その彼はセリカを不幸にする屑なのかな?」
「いいえ。とても、とても優しい素敵な方です」
ロジーナの言葉に答えると、セリカの頭に重みがかかった。
重みといってもそれはとても軽いもので、セリカの後頭部にロジーナが手を添えただけである。
「それならば何も問題は無いじゃないか、セリカ。君が選んだ男が君を不幸にする存在だというなら私は反対するけれど、君が幸せになるというなら何も止めやしないよ」
優しい声で、ロジーナはセリカの頭を撫でる。
「ひょっとしてセリカは東國の『貞女は二夫に見えず』を守らないといけないと考えていたのかな? そんな事は無いんだよ。此処は東國でもないし、私もルーサーもセリカにはずっとベンジーを想って独りで生きて欲しいなんて考えていないさ」
ロジーナの手の温もりが離れてセリカは頭を上げた。
セリカの目に映るロジーナの表情は、ただただ優しい。
「お義母様、お義父様。有難う御座います」
「それで、だ。セリカ」
感動のあまり目が潤み始めたセリカの涙を止めるように、ずいっとロジーナが迫る。
「は、はい?」
「君の心を射止めた相手はどんな人なのかな? 一緒に来ているということはブリノヴァさんも知っている方で結社の人ということだろう?」
「は、はい。そうですぅ……」
「名前は? 年齢は? 何をされている方なんだい? 写真があれば見てみたいものだけど無いのかな? それに好きな人と言ったけど、まだお付き合いはしていないのかい?」
矢継ぎ早に質問を飛ばすロジーナの目はキラキラと輝いていた。
そういえばロジーナは「恋バナ」の類が大好きで、セリカも過去に散々ベンジャミンの好きなところを語らされてきた事を思い出す。そして、そんなロジーナに嬉々としてベンジャミンの好きなところを問われるがままに語り続けてきた自分の若き姿が脳裏に浮かんで、恥ずかしいようなむず痒い気持ちにも襲われた。
それに、何かあった時の為にと同行をお願いしたバーティゴの前で
ギャリー・ファンの事を語るのは何の公開処刑なのだろうか。現にバーティゴはセリカをニヤニヤと笑いながら見ている。しかもセリカの「助けてくださいぃ」の熱視線を悟ったらしく声を出さずに「頑張れ」と唇を動かしてきた。助ける気は毛頭ないらしい。
店を叩き出されないだけ良かったじゃないか。
セリカの恥なんて、義母に許されたことに比べたら瑣末なことだ。
そう考えてセリカは腹を括った。
「名前はギャリー・ファンさんといいますぅ。経理をされている方で、年齢は今年、26歳だと仰ってましたぁ。写真はありませんが……私としては好ましい容姿をされておりますぅ。お付き合いはしておりません」
「名前の響きからして
アシューアンかな? 経理をされている方なら、きっと理知的な方なんだろうね。それで? セリカが彼に惚れた逸話とかあるのかな?」
「えっとぉ……」
セリカの顔がケトルだったなら沸騰してお湯が沸かせていただろう。
それ程までに赤面しつつ、セリカは必死にロジーナの問いに答え続けた。
微笑ましくロジーナとセリカの会話を見守っていたバーティゴが、やがて耐えきれずに腹を抱えて笑う程に如何にセリカがギャリーを好きか語らせ続けられた。
「なかなかギャリー・ファンさんは素敵な人のようだね。ブリノヴァさんもそう思われていますか?」
ロジーナの会話の矛先がいきなりバーティゴを向いた。
まさか自分に会話のボールが投げてこられると思わず一度は驚いた顔をしたバーティゴではあったが、微笑んで頷く。
「ええ、相手の気持ちを思いやれる誠実さを持った男性です。社交的で快活な方なので、そちらの息子さんとは違ったタイプかと思いますがセリカを不幸にする事は無いと思いますよ。あちらもセリカに想いを寄せているようですから彼と恋人になるのも時間の問題かと」
バーティゴは決してギャリーを貶めるような事は決して言わなかった。
第三者の意見を聞いて安心したのかロジーナの肩から力が抜ける。
「素敵な出会いがセリカにあって良かった」
「申し訳……」
「良いんだよ、セリカ。ベンジーだって君が一生寡婦でいることを望んだりしない」
ロジーナの言葉にセリカは思わず目を瞬く。
貞女は二夫に見えず。
東國かぶれのベンジャミンの性格ならば、絶対にこの言葉をセリカに遵守させようとするであろうに。
セリカが安心してギャリーの元に行けるようにというロジーナなりの配慮なのかもしれないが、嘘にしては下手すぎやしないだろうか。
分かりやすい嘘に対して反応の仕方が分からず、思わず無言になったセリカにロジーナは苦笑めいたものを浮かべた。
「嘘じゃないんだ。『自分に万一の事があれば、セリカを殉死させるな。任せられる男が居たなら行かせろ』って、君と結婚した時に私達に言ったんだから」
ロジーナの言葉を聞いてセリカは小さく笑う。
「殉死というのが、あの人らしいですね」
「それ程までに君はベンジーに夢中なお嬢さんだったからね。その心配はなさそうで安心したけれど、君の不幸をあの子も望んじゃいないさ」
セリカにとっては、ベンジャミンという男はセリカという妻を得ていながら機械人形に理想の女性像を見出してしまった男であったが、彼にもセリカへ愛情があった時期は確かにあった。それを思い出させるロジーナの言葉にセリカの目は潤む。
「泣き顔も美しいけど笑った顔の方がもっと素敵だよ?」
セリカの涙を指で拭ってロジーナが微笑むから、セリカも応えようと微笑もうとするのだが涙が止まらない。
ベンジャミンにとってセリカは「頼る男がいないと生きていけない儚い女」に見えていたから、独りで生きられないと考えた故の言葉だったのかもしれない。そうは言ってもセリカはずっと自分を想って独りで生きるだろうという慢心からの言葉だったのかもしれない。しかし、最早ベンジャミンの身はこの世の者ではなく。「かもしれない」の答えを知る術は無い。
だからこそ。
セリカもベンジャミンの遺した言葉を都合良く受け取ることにした。
セリカ・ピンカートンとしての自分ではなく、セリカ・ミカナギという新しい自分のために。
* * *
「やはり言わされたのか。ロジーナさんらしいな」
帰りの車中。
事のあらましを聞いたリアムは運転席でクツクツと喉の奥で笑うと小さな声で呟いた。
「あの人はずっとあの調子なの? セリカから聞いていた旦那のイメージとかけ離れていて驚いたわ」
上座である助手席ではなくリアムの後ろの席に座っていたバーティゴがセリカへ目を向けながら問いかける。そんなバーティゴには見えていないと思いながらも頷いてセリカは言葉を口にした。
「お義母様はずーっとあんな感じですぅ。私もベンジーについて何度となく語りましたし 」
セリカは言葉を切るとにんまりと笑ってリアムへと目を向けた。
「リアム君も私のお姉様について随分と語っていたようですねぇ」
「何故それを知っている」
「ふふっ。身内特権ですよぅ」
「全く……」
苛立たしげに呟くが、リアムの声はあくまでも小さい。
それというのも助手席に座る小さなお姫様が眠りの世界に旅立たれているからだ。
子どもらしくお出かけにはしゃいだリリアナの体力はもうゼロになったらしく、セリカとバーティゴをリアムが迎えに来た時にはリアムの腕の中で眠っていた。大人ぶった発言をすることもあるリリアナだが、そんな様子はやはり子どもである。
そんなリリアナの寝顔を信号待ちの間にチラリと眺めて機嫌を直して口の端を上げたリアムだったが、彼もやられっぱなしでは面白くない。
「ブリノヴァさん。良ければセ……ミカナギさんの語った話を聞かせて貰えますか?」
目には目を、歯には歯を。恋バナには恋バナを。
非難の声を上げようとしたセリカであったが、リリアナを起こしてはいけないと口を噤む。
その隙にバーティゴが楽しそうに口を開いた。
「そうねぇ。確かセリカが言うには――」
セリカと同じようにリリアナに気を遣いながらも、バーティゴは楽しそうに先程パンチャ・ピエーナで聞いたセリカの「ギャリー・ファンの好きなところ」を語り出す。
それは他人の口から言われると何とも恥ずかしくて。
セリカは顔を真っ赤にして「早く結社に着いて欲しい」と願うしかなかった。