薄明のカンテ - おぼろ月、藍に溶ける/燐花
 ロードは気が付いたら幅の狭い階段の真ん中に座っていた。まるで向かいから昇ろうと来る人間の邪魔をする様な場所に腰掛けている。足を広げた少々ガラの悪い座り方。この時点でここは夢の中だとロードは気が付いた。
 普段自分が公共の場で決して座らない様な座り方。横にズレようと思うも動かない体。抜け落ちた「ここに座るに至るまでの記憶」。今自分のいるここが夢の世界だと自覚する事が多いなとロードは思う。何だか愛の日にもそんな夢を見た気がする。夢の中で夢だと自覚するいわゆる明晰夢を見る時はあまり脳は休めていないらしい。そんなに自分は休めない睡眠しか出来ていないのだろうか。
 しかし夢だと分かれば仕方ない、見てしまっている以上素直に楽しんで目を醒ますまで待とう。はてさて夢の中でも煙草は吸えるのか。ロードが懐を漁ると愛飲している煙草の箱が出て来た。よく見ると減り方も現実のものと同じだ。果たして夢だと自覚している中でも煙草の味は一緒なのだろうか。そんな事を考えながら一本口に咥え、ライターかマッチが入っていないかと懐を更に漁る。ごそごそと探りながらふと前を見ると、下から誰かが階段を上がって来た。何故だかぼんやりした状態で現れたその人は、ロードの手が届くか届かないかと言う絶妙な距離の段に立ったその時やっと輪郭を明瞭させた。
 現れたのはヴォイドだった。
「おや……」
 思わず口からポロリと煙草が落ちる。うっかり咥え損ねたそれは階段の下の方に吸い込まれていった。慌てて箱からもう一本取り出し、咥え直す。
 夢の中でも現実と遜色ない彼女。何故だか自分が夢だと自覚する程意識がはっきりしている時に見る夢は大概悪夢に転がる事が多い。そして何故か、そんな夢に愛しの彼女が現れる事が多い。
 ロードはそっと手を伸ばしてみる。しかし、後少しと言うところでヴォイドに手は届かなかった。立ち上がって動けばあるいはと言う感じだが、どう言うわけか先程から座った状態の下半身はそのポーズのままびくともしない。石の様にガチガチに固まった腰から下はヴォイドに触れる為の手助けにはならなそうだ。
「…うふふ、おやおや。腰から下が随分と硬いですねぇ…立たせるのだけは得意なはずなんですが」
 少し含みを持たせてそう呟く。しかし、夢の中のヴォイドはいつもの様に嫌そうな目で彼を見てはくれなかった。ただその顔にはひたすら虚無が広がるだけ。そう言えば前にも彼女の夢を見た事がある。愛の日に短時間眠った際そんな夢を見た。その時は確か、ロードの想いが成就してヴォイドと愛を育めた後の夢。彼女が昔みたいにちゃんと自分と視線を合わせてくれ、怖がったり嫌そうな顔をせずに自分と向き合ってくれる夢。悪夢らしく「一妻多夫制に何故かなったカンテ国で自分を含む三人の夫がいる」と言うオチでありロードは静かに嫉妬に狂った訳だが。
 しかし、欲を言うなら愛を育んでる最中の映像が見たかったし、どうせ夢なら名前くらい呼んで欲しかった。そう言うところでやっぱり夢であると言う痕跡を残すのだから全く、夢と言うやつは「今夢を見せてやってんだ」と言う自己主張が強い。
 階段の下の段に立ってロードを見上げるヴォイド。ロードは上目遣いにこちらを見る彼女にどこか懐かしさを覚えながら状況を把握しようと考える。しかし、上半身以外体が動かない事と、ヴォイドが夢らしく感情が薄い事以外はあまりよく分からなかった。現実と同じく容易に触れられない愛しい人。まるで作り物の様なヴォイドなのに、ロードの彼女を見る目はそれでも優しくなった。
「それでも、愛してるって感情しか浮かんで来ないんですよねぇ」
 貴女を前にするとそれでいっぱいになってしまう。そう思っているから呟いた愛の言葉。しかし、今まで感情を見せなかった夢のヴォイドはその言葉を聞いた瞬間初めて感情を表に出すかの様に困った様に眉を顰めた。
「…やめて。冗談でも本気にしちゃう」
「……冗談…」
 そうか。彼女には今でも冗談だと思われている。それがヴォイドと接した時に彼女から感じたもの。ならばこの夢は、一体どう言う理由から見ている夢だろう?夢の中だけでも彼女に自分の気持ちをありったけぶつければ良いのだろうか。
 愛しい彼女が出て来ると途端に夢だからと適当に出来なくなるロードは、まるで本当に現実で彼女と対面した時の様にぴりりと肌を刺す様な緊張感を含んだ空気を感じながら思案する。そして、たった今「冗談だ」と思われた言葉にもう一度、今度は誠実さを乗せた。
「……冗談じゃないですよ…気持ちは本当です。何なら貴女が本気度を感じ取ってくれるまで、現実でも定期的に口にしますよ」
「……それは…もし来なくなったら、きっと不安になる」
 ヴォイドのその言葉にロードはまた手を滑らせる。そして二本目の煙草を階段下に落とした。
「…ねぇ、靡く気無いなら…不安がったりしないでください。それでも私には愛し続ける事しか出来ませんが、狡いですよ。振り向く気が薄いのに自分の方を見ていろだなんて」
 夢だと分かっているから普段抱えている不安ややりきれない思いをロードもいつもより強い言葉で口にした。
「…かつて一緒に暮らしていた頃、貴女が素肌の上に戯れに被った私のパジャマ。あれ、大事に取っていたんですよ。どんな辛い事があっても、そこに残っている気がする貴女の移り香を少しでも感じられたらそれで頑張れる気がして。洗う事もせず、着る事もせず。ただただそのまま残していたんです。ところが、会社の飲み会で上がり込んだ同僚を泥酔していたからと仕方無くうちに泊めたらですね、そこに出ていた男物のパジャマだからって風呂上がりに許可も取らず着られてしまいましてね。今後もし洗濯したら貴女と私の思い出に彼まで足されたものを洗わなきゃいけない気がして、捨てて焼却してもその彼の思い出も一緒に焼かれる気がして。二人きりの思い出が良かったんで、売ってしまいました。それくらいの嫉妬と束縛と独占欲はまだまだ現役ですよ。むしろこのくらいで表に気持ちを出さずに抑えていられるか分からないくらい」
 しかしそれを聞いたら聞いただけヴォイドはくしゃりと顔を歪ませ切なそうにする。次に出て来たのは、ロードが「こう思われているだろう」と思いつつ、「彼女からは聞きたくなかった言葉」だった。
「……やめて。もう居なくなって。私は、置いていかれてずっと、お前の事恨んでた」
「…うふふ。流石に堪えますねぇ」
「急に私の前に現れて、居なくなる時も同じ様に急に居なくなって。きっと最初から恋じゃなかった。他の女…娼婦とかから昔聞いた様な、恋してソワソワする感じとか、一緒にいた時しなかったから。きっと安心しきってた。でも、安心してたから本当に死ぬ程辛かった。当たり前の様にあった安心が奪われた感じ。私はお前の事本当に信頼してたのに、お前は私の信頼も何もかも全部突っ撥ねて、捨てて居なくなった。あの時、自尊心みたいなのを全部踏み躙られた感じだった。私はお前にこんなにも、死ぬ程踏み躙られた」
 ボスやかつての仲間から暴行を加えられた動かない体で遠目に見ていた時に印象深かったからだろうか。夢の癖に、辛そうな寂しそうなヴォイドの顔はやたらとリアルだった。声だけが冷静に棒読みに言葉を読み上げていてチグハグな感じ。どうやらやはり、自分が見ていない光景は単調な妄想で補う他無いのだろう。
 かつて印象に残った泣きそうな顔で、しかし聞いていないから想像も出来なかったのかやたらと淡々と話す言葉で、チグハグなヴォイドはいつのまにか一段、また一段と上りロードに近付いて来ていた。夢でこんな状況に陥るなんて。それはつまり乗り越えろと言う事か、早く彼女の為に安心できる土台を作れと言う事か。
「はぁ…流石に傷付きます…流石悪夢、嫌なものですねぇ…」
 ここで無理に距離を詰めたら、夢の中とは言えまた彼女は遠ざかってしまうかも。そう思ったロードは、もう抱き締められる程手が届く目の前まで来たヴォイドの、敢えて手を取ると恭しく甲に口付ける。
「その言葉、現実で貴女に聞くまではこれら全て私の妄想と思っていて良いですか?いえ、きっと本当にこう言われるくらい傷付けてしまったのでしょう…でも私は、同時に嬉しくもあります。貴女が私の顔を見るなり怒りに震える程、昔を思い出して苦しくなる程貴女にとって大きな存在だったんですかね、私は」
 ヴォイドは答えない。矢張りこれはロードの夢で、ここに居るのは決して本物のヴォイドではない。全てロードの空想。だから、本物からの返事はここでは貰えない。
 しかし、だからこそロードは穏やかな顔をしていた。自分が愛の言葉を被せる事で目を逸らしたかったヴォイドへの罪悪感の正体が何だったのか、今度こそ彼女にどうしたいのか、まざまざと見せ付けられたけれどおかげで再確認出来た気がしたのだ。
「ヴォイド、絶対に貴女を助けます。命に代えても貴女を守ります。今度はやり方を間違えません。貴女の体も心も同時に守ります。だから必ず生きて帰って、もう一度顔を合わせてそれを言う余裕が生まれたらその時また私を罵ってください。それを言われるのは私が請け負うべき責務だと思っています。貴女がやり切れなかった気持ちを全部吐き切れるまで罵声もいくらでも聞きましょう。その間、愛の言葉も休まず囁きましょう。だから、貴女はここ・・から居なくならないでください。貴女を望む人間が、私が嫉妬する程居るんです」
「………」
「きっと現実の貴女も、やりきれない気持ちと不安が上手く燃焼できずに居るのかもしれませんね…絶対に貴女への愛を止めません。伝わるまで、伝わっても愛し続けます」
 瞬きをすると、いつのまにロードを擦り抜けたのかヴォイドは階段の上の段に居た。
「うふふ、下から豊満なカヌル山を覗くのもまたそそるものがあります…ね…」
 白い鳥の羽がふわりと舞い、幻想的な空間。今になって気が付いたがこの階段、一番上の段は光に包まれてよく見えない。その、ともすれば途中から消えてしまっている階段をヴォイドは上っている。隣にいつのまにか現れた機械人形マス・サーキュの様な女にエスコートされながら。
 何だろう。凄く嫌な感じがする。
 止めようにも動かない体。冗談抜きで、石のように固まった下半身はヴォイドを追う為に機能してくれない。肝心な時に役に立たない己の体に毒づきながらロードはありったけの力を込めて手を伸ばす。しかし、ヴォイドはゆっくりだが確実に上っていってしまい、ロードの伸ばした手は空を切るだけだった。
「くっ…!!ヴォイド…!!」
 そのうち視界が暗転し、目が覚めた時は車の中だった。
 シガーソケットに繋がれた小型マルチコプター、ドリンクホルダー差し込まれたスティックシュガー。マルチコプターはテオフィルスの目の代わりになっているもので、スティックシュガーはユウヤミの過剰労働気味な頭脳への栄養源。それを把握した瞬間、自分が今何の為にこの車の中に居るのかロードは思い出した。
「やぁ、お目覚めかい?」
 そんなロードに声を掛けるのは、助手席に座るユウヤミ。ロードはやっと本格的に覚醒したのか一瞬だけ慌てた顔を見せた。
「…私は寝ていた…のでしょうか…?」
「ちょっとだけね。ヌゥ氏への慣れない尋問とその後の買い込みでお疲れだったかな?」
「いえ…そんな事は…」
「随分魘されていたものだから早く起きろと思っていたよ、私は。何か嫌な夢でも見たのかい?」
「………」
 夢自体は嫌ではなかったが、何だか嫌な印象ではあった。しかし、それを敢えてユウヤミに話す必要は無い。ただでさえ張り詰めた空気を纏う今に、不安材料を敢えて投入する必要は無いのだから。今、その不安を解消する為に自分達は動いている。だから余計な事は考えなくて良いのだ。
「いいえ…少し夢見が悪かっただけですよ」
「ああ、そう?私は心理士じゃ無いからねぇ。申し訳ないけど、今君の夢見のケアまで出来ないよ」
「うふふ、お気遣いどうも。大丈夫ですよ、貴方に気を遣っていただかずとも自分でどうにでも出来ます」
「あ、そう?」
「ええ、ソロプレイは得意なんです」
 今は車の中、ユウヤミとヨダカが一緒で、この車はモンパ村北部に向かっている。理由は、ミサキとヴォイドを助ける為。
 だから自分の見た夢の事なぞ気にしている場合では無い。そのロードの真意もわかるのか、ユウヤミは深く問い詰める事もせずむしろ興味無さげに資料を読んでいる。
 ロードも徐々に覚醒して来た頭を更に働かせる様にペットボトルに入っていたコーヒーを口にした。あの夢に並々ならぬ不安を抱えたロードはそこから目を逸らす様にコーヒーを流し込む。
 四月二十八日。ユウヤミの推理と聞き込みも相俟ってホテル・モルガンテへと的を絞れた。安否の不安こそあるものの、愛する人はすぐそこだ。
 道を進むワンボックスが風を切る音だけがどこか寂しく耳に付いた。