薄明のカンテ - あまりにも遠い昔の話。(後編)/燐花
「最近ネビロス来ないなー」
ルミエルはつまらなそうに咳いた。ネビロスが過去に頬に触れた事は、びっくりしただけで特に嫌だったわけじゃない。
その後、何か閃いた様に学問に打ち込むネビロスは生き生きしていたが、会う頻度が少なくなるのは少し寂しかった。両親を亡くして祖父母と暮らすネビロス。 彼には自分には分からない苦悩があるのかもしれない。 だからこそ、突飛な彼の行動原理はルミエルには予測出来なかった。それから、声変わりして少し変化していくのも何だか置いていかれてしまう気がした。
どうしたらまたネビロスは来てくれるのだろう。そればかりがルミエルの頭を占めた。お菓子がなくたって良い。ただ部屋にいてくれるだけで良いのに。
ガラリとドアが開き、 ネビロスが無言で入って来た。ルミエルは慌てて姿勢を正す。ネビロスは珍しく帽子を被っていた。
「ネビロス!久しぶり!来てくれたの!?」
「うん、久しぶり…」
「お勉強楽しい?元気だった?」
「ああ、うん。ルミエルは…?」
うん、と返事はしているがルミエルの目にはネビロスがどう見ても元気が無い様に映った。
「本当に元気?」
「元気だけど…」
「…何で帽子被ってるの?」
「気分…かな…」
「部屋の中だよ?取りなよ」
「………」
黙っているばかりのネビロス。見兼ねたルミエルはおもむろに帽子を掴むと思い切り剥ぎ取った。
「あっ―― !!」
「へ?」
そこには、どう切ったのか長い部分と短い部分とで束に分かれている髪と、眉毛に掛からないくらい短い前髪になったネビロスがいた。帽子を取りたく無かった理由をルミエルは何となく把握した。
「…だから取りたく無かったんだ!失敗したんだよ髪切るの!!」
「………っ」
「…恥ずかしいからむしろ笑うなら大声で笑ってくれる?」
「…っあーはっはっはっ!!」
「やっぱやめて、いざ笑われると傷付く」
「も、無理…!止まんないって…!ぷふっ…」

ひとしきり笑った後、 ルミエルは意外そうな目でネビロスを見た。
「ネビロスにも出来ない事あるんだねー」
「俺は別に超人じゃないよ…何か昔から苦手なんだ、 こう言う細かい作業…」
「お菓子もご飯も凄い上手なのにね…」
「…自分に何かするの苦手なんだ」
「じゃあ、ネビロスに出来ない部分私が頑張る!そしたら、 二人一緒なら完璧でしょ?」
ネビロスは目を丸くし、 少し俯いた。
「…そうなるとルミエルに出来るの髪切るくらいじゃない?」
「失礼な!」
本当は凄く嬉しかった。まるでこれからもずっと一緒に居てくれるかもしれない、そんな言い方をルミエルがしたものだから。
祖父が亡くなったのは、 それからしばらくの事だった。ネビロスは改めて死と向き合った時、それが恐怖であると悟った。
ルミエルに会うのが怖い。だって彼女は、自分と初めて会った五年前から病院を出ていないのだから。 生きているルミエルに慣れ過ぎてしまうと、 失う時の悲しみが耐え難いものになる。そんな気がしたのだ。
奇しくもルミエルが大きな手術を受けると言っていたから尚更そんな想いばかりが頭を過り、ネビロスを足踏みさせた。

ネビロスは何の音沙汰も無くルミエルの前に姿を現さなくなった。その間、祖母も体調を崩してしまい、祖父の後を追うように亡くなった。
三人で過ごした暖かい家庭。早世した両親に代わって慈しみ育ててくれた祖父母。まだまだ、孝行したかった。この気持ちをどこにぶつけたら良いか自問自答し、答えが出ぬまま一日一日をただ過ごす。 畑は荒らさないように、 料理は欠かさないように、部屋の掃除は怠らないように、 鍛錬に励むように。そうやって一日一日を過ごしていた。
どのくらい経っただろうか。ネビロスは戸を叩く音に誘われる様にフラフラと玄関に向かう。扉を開けると、 そこには元気そうな姿のルミエルが仁王立ちをしていた。
「…ルミエル?」
「うん」
「何してるの?」
「こっちのセリフ。一年半も顔出さないでネビロスこそどうしたの?お祖母さんの事は皆が知ってるし皆が心配してる。それを全部突っ撥ねてる事も聞いた。一人で何してるの?」
「…落ち着くから」
「一人の方が?」
「うん…」
「じゃあ、私もいない方が良い?」
その言葉を聞いてネビロスは目を見開いた。ルミエルをまじまじと見つめる。そして己を顧みた。
いつもいつも、彼女が病院から出られないのを分かっていて自分の都合で逃げたのは誰だ。
彼女が元気でいる時は顔を見に行き、彼女が発作を起こした時は距離を取り、そうして逃げて来たのは誰だ。
彼女の病気、祖父母の死、全てから逃げて目を逸らしているのは誰だ。
「…辛いのは分かる。けど、いつまでそこに居るつもり?いつまででも居て良いけど、その間に過ぎ去って行くものもあるよ、ネビロス。私はずっと病院にいたけど、あなたがそこに居る間に手術も受けた、リハビリもした、外に出れた。あなたはいつまでそこに居るの?」
ネビロスは、伸ばされたルミエルの手を反射的に取った。強引に外に連れ出された時、 前に足を踏み出していると感じた。

久しぶりに、家の敷地以外のケアンズの街並みを歩く。 変化がない様で、少しずつ変わっているところもある。けれど、幼い頃から知っている人らはネビロスを見て心配そうに声を掛けてくれた。この街の優しさは変わらない。
「気が晴れた?ネビロス」
「うん…そうだな…」
隣にいるルミエルが、彼女の存在が自分を自分たらしめている。ネビロスはそう感じた。
例えば凄惨な事件に巻き込まれ、 幸せを失う事になってしまっても、「関わらなければ良かった」等頭を過らぬほど、人を愛したのはこの時だった。


Twitter