薄明のカンテ - あの頃僕らは尖ってた/燐花

経理部が騒がしい

 まだまだ暑い日が続く中、ギルバートは休憩所でホットミルクティーを飲んでいた。暑い中で熱いもの、だがこれは日々のローテーションなのでアイスではいけないそんなこだわりがあった。
 その日、結社内は少しだけ騒がしかった。何故ならカンテ国では珍しいカンフースーツを綺麗に身に纏った男が社内人事課のサリアヌと歩き回っていたからだ。慣れない文化圏の服装の小綺麗な男に色めき立つ者も居れば、男はそっちのけでサリアヌの美しさに今日も見惚れる者は居るし、この男がサリアヌに付く悪い虫か見定めようとする者も居る。
「こちらが食堂です。どこに所属していてもお世話になるところですから覚えてらして」
 二人並んで歩く姿は不思議な異文化交流で、顔立ちの良い二人が歩く姿に溜息を吐く者は多かった。しかし、次の瞬間男が発した言葉に現場の空気が変わる。
「うんうんなるほど……で?サリアヌちゃんのお部屋はどちら?」
 男がサリアヌに付く悪い虫と判断するのに十分すぎる発言だ。しかし男に見惚れていた者は彼からこんな軟派な発言が飛び出して驚いたり、サリアヌを自分に置き換えて更に惚けたりもした。
「ふふ…面白い事聞かれますのね。そんな事確認してどうなさるんです?」
「んー?今夜辺りお邪魔出来たりしないかなー?って…」
「生憎と夜は一人でクラシックを聴きながら紅茶を飲むのが至福ですので来る前に諦めてくださる?」
「えー…たまには誰かと二人で恋愛映画観ながらお酒なんてどう?」
「…生活のルーティンなので欠かす気はありませんわ。それより、魂胆が透けて見えますわよ。その内セクハラで訴えられても知りませんからね」
「まあまあそんな怒らなんで、俺はこんなに綺麗で魅力的なサリアヌちゃんとロマンティックな雰囲気でお酒でも飲めたら最高だなーって思っただけでね」
 そんな会話をしているところを偶々ギルバートは見ていた。
 あれは兎頭国の文化圏の服だろうか。いかにも動きやすそうな衣服だが、きっと彼は機能面と言うより服のシルエットを気に入っているのだろう。長い髪に大き目の飾りが付いたピアス。肌や目元、眉毛を見るに薄ら化粧もしている様だ。
 何だろう。兎頭国の人間とは。皆彼の様に小綺麗な格好をしているのだろうか。それにしてもあの大きなピアスは何だ?あんなもの耳に付けて痛くはないのか?ゆらゆらゆらゆら揺れるものだからついつい目がそちらに向いてしまう。何と言うか、ショートカットの女性が付けていたら大変色気があって美しく見えるそんな印象のピアスだな。
 そんな事をギルバートが考えていると、ピアスの彼の隣でこちらを向いたサリアヌが不思議な顔で見つめていた。
「…何を見ています?馬の」
「はっ…!?や、やあ。サリアヌ・ナシェリ…」
「ちょうど良いですわ。こちら、ギャリー・ファンさん。貴方と同じ経理部に配属が決まりましたの」
「どうぞよろしくね。ギャリー・ファンです」
 ギルバートもぎこちなく返事を返す。まさかこの兎頭国の彼が同じ経理部とは。カンフースーツと言えばアクション映画。そんな映画作品の印象もあっててっきり前線駆除リンツ・ルノース班だと思っていた。こう言う時に余裕そうに声を掛ける彼は自分より少し大人なのかそれとも人生経験が豊富なのか。どちらにせよ同じ部署だ。見た目通りの上品そうな人間ならば仲良くなれそうだな、とギルバートは思う。
 それにしても、本当に綺麗に揺れるピアスだ。
 じいっ…とギャリーのピアスを見つめるギルバート。そんなギルバートを不審そうな目で見つめるギャリー。そんな二人を見て「これは一波乱あるな」と謎の確信を持つサリアヌ。
「それでは私はここで。ファンさんの事、貴方にお任せして良いかしら?」
「あ、ああ…任されよう。えっと…ギャリー・ファンと言ったか?僕はギルバート・ホレス・ベネット。貴族だが故あって此方に厄介になっている。歳は二十二だ」
「え?二十二?俺二十六。何だ俺のが歳上なんだ…疲れた顔してっから俺より上かと思った」
「は…」
 男には容赦なく思った事をぶつける。それがギャリー・ファンだった。
 ギルバートは頭の中でギャリーの言葉を反復させる。確かに彼は今大変失礼な事を言った気がするのだが、え?これは幻聴か?助けを乞う様にサリアヌの方を見る。彼女は目を伏せ、踵を返すと人事部の方向へ歩き出すだけだった。その姿はただただ美しい。
「兎頭国出身。前職は商売人。よろしくねギルバート」
「あ、ああ…」
 差し出された手を握り返すとギャリーは嬉しそうにブンブン振った。ギルバートの腕は彼の揺すりに振り回されるだけだった。
 まあ、色んな意味で・・・・・・人懐こい人の様だが悪い人では無さそうだ。同じ部署として仲良くやれたら良い。仲良く。

 しかし、ギルバートの思いは次の日の朝早々に砕け散る事になる。

「……遅い」
 始業の挨拶の時にせっかくだから新しく入ったギャリーの紹介をして貰えば、と思ったがいかんせん当の本人がどこにも居ない。おかしいな、彼を見たのは幻だったのか?とも思ったが、誰も座っていないにも関わらず綺麗で物置の様になっていない机が一つ空けて隣にある。となるとここがギャリーの席だ。じゃあやはりギャリーは居るのだ。ちゃんと存在しているのだ。しかし、本人がここに居ないとはどう言う事だ?
 出勤表を見ても名前はちゃんと載っているし何なら今日出勤予定になっている。となると本当に何なんだ。彼は何故いないんだ。まあ、まだ出勤時間まで五分はあるしちゃんと来れば良いのだが。
 色々と考えていては仕事に支障が出る。ギルバートは溜息を一つ吐いて気持ちを切り替えると仕事の準備をしようと向き直った。
「あのー…経理部ってこちらですか?」
 聞き慣れない甘ったるい声が通りギルバートは一瞬どきりとしながら声のした方を向く。そこにはどこの班なのか、少なくとも服装的に医療班以外の班であろう若い女性がいた。しかも彼女は男に肩を貸す様な形で歩いてやってきた。
「あ、ああ。経理部は此方だ」
「良かったぁ。あの、昨日彼と飲んでて…あ、彼って言っても彼氏じゃ無いんだけど…色々あって・・・・・気付いたら朝になっちゃってて。休みだったらそのままでも良いかなぁ?って思ったんだけど、普通に仕事あるって言うからお届けにあがりました」
 ギルバートは彼女にくっ付いている男を一度見、二度見、三度見してやっと状況を理解した後に混乱した。女性が含みを持たせて言った事の意味はこの場の全員が理解したし、故に何で男がそんな格好でいるのか理解するのも容易く、そして何よりギルバートはこのテの話が大嫌いなのであった。
「す、すまないな…わざわざこの男を運んで来てくれたのか…」
「いいえ。だって昨日、色々あった・・・・・し私も彼の遅刻の一因みたいなものだしぃ?」
 そして女性は女性で、実は男との関係を匂わしにわざわざやってきたのだが、このテの話に疎くこのテの話が苦手なギルバートはそれに気付かず敵意と言う敵意を全て男に向けた。
 男──ギャリー・ファンは昨日とは打って変わって乱れた浴衣姿であり自分を抱える女性にちょいちょい手を回しながらもぞもぞ動いている。
 寝てるんだよな?いやに意思を持った手の動かし方をしているがコイツ、寝ているんだよな!?
 ギルバートは女性に断りを入れると彼女からギャリーを引き剥がした。その途端、支えを無くし今度はギルバートに寄り掛かる様に体を凭れてくるギャリーに鳥肌が立つ。
「と、とにかくこの男はもう経理部が預かった。君も部署は知らないが持ち場に戻ってくれ!」
「ふふ、はぁい」
「ん…ユリアちゃん…も少し寝たい…」
 寝ぼけたギャリーからユリアちゃんと呼ばれた瞬間、女性は満足そうにくすくす笑う。おそらく彼女の名前なのだろう。ギルバートはこの騒動に頭を痛めながらもとりあえずギャリーに肩を貸し席にだけでも座らせようと動く。寝るにしたって部屋の床の上では皆の邪魔になる。せめて自分のスペースとして割り当てられた席で寝てくれ。
 そんな考えを巡らせながら一所懸命に彼を運ぶギルバート。割合短気な筈の彼がこれでもよく持った方である。
「おいギャリー!君は早く起きたまえ!」
「ユリ…ア、ちゃん…」
「ここは自室じゃないしもう経理部だ!!」
「なぁに?ギャリーさん」
「君も返事しなくて良いから帰ってくれ!!」
 ギルバートの怒声が経理部内に木霊する。他のメンバーはギャリーのだらしなさもさる事ながらギルバートの怒りっぷりにも引いてしまい手を出せずに居た。
 そうこうしている内に怒りと焦りと色々でパニックになったギルバートはやっとの思いでギャリーを席の前まで連れて来た。
「よ、よし!とりあえずこの男さえ座らせてしまえば──!!」
 ギルバートが希望を見出した声を上げたその時。するりと彼の体を手が這う。胸元に伸び、さわさわ漁る様に触る様子にギルバートは息を飲んだ。最早身の危険すら感じた。
 続いてもう片方の手が太腿を撫で始める。その手が足の間に入り込んだ瞬間、ギルバートの中で何かがプッツリ音を立ててキレた。
「良い加減に起きろ貴様ぁぁぁぁぁあ!!!!」
 ドターン!!と大きな音を立てて背負っていたギャリーをそのまま投げ飛ばしたのだ。背負い投げと言うのは本来大変危険な技であり、故に技を掛けてから飛ばすまで使用者は対象の相手の襟元を掴んだら離してはならない。それを知ってから知らずか、掴んだままギルバートはギャリーを投げた。ちなみにギルバートは言わずもがな格闘技の経験などあるはずもなくおそらくこの瞬間発揮されたのは火事場の馬鹿力だった。一体どこにそんな力があったやら。ようやく覚醒したギャリーは微睡の中に居たのが部屋では無かったし後ろには怒りに身を震わせたギルバートは居るし何だか体が痛いしで彼は彼でパニックになった。
「えぇっ!?何!?何が起きてんの!?」
「…こっちの台詞だギャリー・ファン…!!」
「ここ何処!?ってか背中痛ぇっ!!」
「ここは経理部で君を投げたのはっっっ…この僕だぁぁぁぁあ!!」
 あ、ギルバートが光の速さでとても五月蠅く犯行を自供した。
 ギルバートとギャリーのやり取りに経理部の誰もがそんな感想を抱いたし、この非日常な状況がおかしくて誰もが真顔で居られなかった。
「ぶふっ」
 素直な誰かは噴いた。

えらいこっちゃ

 ギルバートはとてつもなく不機嫌さを顔に滲ませて仕事をしていた。そしてギャリーも入社早々不機嫌さを微塵も隠さない顔で仕事をしていた。そんな二人の間は空席になっていて良かったと思うが、対面の席に座っていたメンバーは見事に煽りを喰らった。

「改めましてギャリー・ファンです。兎頭国出身、カンテ国には二年程前から住んでいます」
 あの後何とか起きたギャリーが身支度を整えそう言ってにこりと笑って自己紹介をした時、経理部内でも女性メンバーは嬉しそうにひそひそ話し始めた。見目麗しい男が入ってくれば浮かれるのも分かる。しかし、昨日の今日でギルバートは悟る。こいつこの部屋に男しか居なかったらこんな丁寧に挨拶なんてしなかった。ギルバートのその推測は正しいのか否か今となってはわからない。ただ、この瞬間ギルバートとギャリーは双方相手に同じ事を思った。
「(全く、どこまでも不埒な男だ…!!)」
「(全く、俺の挙動一々監視するみたいに見てきやがって)」

 いけ好かねぇ。

 それが表に現れていたのか、二人の対面の席に着いていたメンバーは休憩に入ると同時に吐いた「解放感による溜息」はいつもの倍は大きかった。
 そんな事とは露知らず周囲に不機嫌さを露呈していたギルバートは時計をチラリと見、自分の休憩の時間に気付くとはぁ、と息を吐いた。情けない。あんな人騒がせな男に心を掻き乱されている様ではベネット家長男の名折れだ。集中力も保たせなくてはいけないし、休憩の時間は確り休憩して午後に備えよう。
 今日は確か冷製の赤スープがあったからそれの食券を買っていたはずだ。ポケットに手を入れ食券の有無を確認すると先程までの怒りはどこへやら眉間から完全に皺のなくなったギルバートは嬉しそうに席を立った。
「あ」
「ん?」
 声がしたので横を向く。同じタイミングで立ち上がったのはギャリーだった。まさか休憩も同じ時間に入っているのか。
「…真似すんなよギルバート」
「だ、誰が貴様の真似なぞするか!!!」
 一度去った眉間の皺は早々に出戻って来た。苛立っているのかガタガタと乱雑に机を片付けるギャリーを見、ギルバートはふんと鼻を鳴らす。
 休憩に入る前に午前の仕事で散らかした分の片付けをする。なかなか丁寧な心掛けだ。そう言えば前職は商売人と言っていたっけ。
 社会人経験はどう足掻いても彼の方が上だ。いつまでもつまらない意地を張らず見習う所は見習わなければ。動揺からかギャリーに対する意見を二転三転させながらもギルバートは彼を盗み見ながら次は何をするのかと思っていると、ギャリーの耳元できらりと何かが光り、揺れた。
 昨日も見たピアスだ。大きめの。
 彼が赤茶色の髪をしているからか、自然に彼女と重ねてしまう。もしかしたら彼女にそんな華美なものは似合わない気もするが、いや、麗しい女性なのだから、いつか睦まじい仲になったら是非アクセサリーの一つや二つ贈らせてもらいたい。けれど彼女には控えめなデザインの物が似合う気がする。大きく揺れるこんなアクセサリーも良いが。

 * * *

「うーん…」
 アンは頭を抱えた。先日から妙な人間に好かれた気がしてならないのだ。なるべく目立たぬ様影となって仕事に当たっていたし本来なら出会う筈の無かった、自分の性格じゃ合わないであろう人間。
 一番住む世界が違うと思っていた『貴族』と言う立場の人間。
 そんな人間に何と言うか、懐かれた。きっと小綺麗な格好のお貴族様には自分の様な人間は珍しく見えたのだろう。そしてあろう事か挙動が大袈裟で大きな赤ん坊の様だったのでついらしくない助け舟を出してしまったのだが、それ以来目に見えて分かる程に彼奴のあの色素の薄い目が覚醒した様な輝きを見せる瞬間を度々目撃している。
 何と言うか、アレに対する既視感があるとすればそれは多分。
「…犬だな…」
 好物を前にチラつかされた時の、それを貰えるのではないかと期待した時の犬の顔だ。別に何も与えてやれるものはないと言うのに、あんな目をされると何と言うか気の毒だ。
「ギルバート・ホレス・ベネットね…」
 ベネット家と言えば、貴族とは言え立場の低い位置にいる家だ。岸壁街に居た為一般知識の吸収率はあまり良くなく、マルフィ結社に入ってから興味を持って調べた名だった。と言うのも、ギルバート自身少し話題になったのだ。『貴族が結社に出稼ぎに来たぞ』と。テロ後で生活に余裕の無い、少し性根の悪い連中は彼を見て笑った。それは微笑むとかそう言う類の笑いでは無い。曲がりなりにも貴族と言う、一般人とは少し違う立場の人間の落差を嘲笑うもの。
 肩書きは貴族とは言え彼奴も苦労していたのかもしれない。嘲りを『有名税』としてどんなに傷付ける言葉を掛ける事すらも正当化する連中も居るのだから。
 とは言えそれとこれとは別だ。
 懐かれる道理は分からん。
「んっ…とに…」
 頭の中で嬉しそうにおもちゃを見せびらかす犬の顔とギルバートをダブらせながらアンは休憩に向かう。
 黒目がちで毛むくじゃらの動物なら可愛いものだが何が悲しくて成人男性に懐かれなければいけないんだ。

 * * *

「あのさ、ギルバート」
「あの、ギャリー」
 何故か成り行きから食堂まで一緒に向かう二人。同時に口を開いてしまいドギマギする。何とかギャリーと距離を詰めようと考えていたギルバートはとりあえずギャリーの着けているピアスの話題でもしようかと話を振った。しかし同じタイミングでギャリーも何か思うところがあったのか口を開く。
「す、済まない、先良いぞ?」
「本当?じゃあ遠慮なく」
 ギルバートは出鼻を挫かれ少し吐息を漏らしながら頭の中で会話を構築させる。
 ギャリーのそのピアスはどこで買ったものなのか。カンテ国だとしたらどこの店なのか、兎頭国だとしたらいつ頃から大事に着けているのか。うん、どちらに転んでも話の広げ方はそう言う方向で大丈夫そうだ。
 会話下手とは言わないが、慣れない人間との会話で失敗したくなかったギルバートは話す前に少しシミュレーションしていた。彼のピアスを見つめながら。しかし、その視線に居た堪れなくなったのかギャリーは苦い顔で微笑むと口を開いた。
「昨日から気になってたんだけどさ…俺の事エロティックな目で見んのやめてくれない?」
「はい?」
「だから、お前がどう言う性癖してっか知らねぇけど…流石に身の危険感じるからあんま俺の事エロティックな目で見んのやめてくれない?」
 ギルバートの頭の中のシミュレーションが音を立てて崩れる。
 折角自分との違いを認めて歩み寄ろうとしていたのに。いや、押し付けがましく言うわけでも思うわけでも無いが、所謂未知のタイプの人間と言うのは接するのがとても大変なんだ。自分と違う、あまり見た事がない、接した事がないと言う人間を理解し、受け入れようと言うのは大変エネルギーの要る行為であり、大変気を遣う。
 それでも同じ職場になったのも何かの縁だと思って此方は理解しようとしていたのに、それをあろう事か──!!
 ギルバートの中で完全に怒りのスイッチがオンになった。
「よ、よく言ったものだな君は!!言い掛かりも大概にし給えよ!!」
「は?言い掛かり?ヤダヤダお前もそっち・・・かよ。セクハラする様な奴って大体指摘すると言い掛かりとか言って逆ギレすんだぜ?」
「僕の話も聞き給え!あのなぁ!セクハラだ何だそれで言うなら僕なんて今朝君から実害食らったんだぞ!?」
「は!?実害!?嘘吐くな!女の子ならまだしもうっかりで野郎に手ぇ出すわけねぇだろ!?」
「何だと!?忘れたのか!?人の股座に思い切り手を突っ込んでおいてよくそんな惚けた事が言えたものだなぁ!?」
 何の話だ。
 丁度良くギルバート達の向かいの廊下から食堂に向かっていたアンは目線の先のギルバートの発した言葉に呆れた様に目を伏せる。まさかさっきまで彼の事を考えていたからこんなところで鉢合わせてしまったのだろうか。それにしても股座に手を突っ込んだの何だの、こいつは何でそんな話を大声でかますのか。しかも追及している相手は男だし。分からん分からんと思っていたが、つくづくコイツの諸々の趣味が分からん。
「は!?何で俺が男の股間触んなきゃいけねぇんだよ!?」
「僕に聞くなよ!!聞くなら今朝の寝ぼけた自分に聞けぇぇえ!!」
 その時、ギルバートの視界にアンの姿が飛び込んだ。ギルバートの気持ちは一瞬で喜怒哀楽の怒から喜へと切り替わり、嬉しそうにアンに声をかけに行くが、アンはまるでミサキの様な冷たい瞳をギルバートに向けるだけだった。
「…どうでも良いけどテメェは昼から五月蝿ぇな…話題が話題だからせめてボリューム落とせよ…」
「え?話題?」
「…『僕なんて今朝君から実害食らったんだぞ』から全部聞こえてんだよテメェの声がデケェから…」
 ほぼ最初から聞かれている。
 ギルバートは慌てふためき必死にアンに弁明する。誤解だ。僕にそんな趣味はない。男に股座を漁られて気分が悪かったから抗議したまでであって。
 そう告げるとアンはまた目を伏せる。何かを思い出したのか身を守る様にキュッと肩を軽く抱くと少しだけ深呼吸し、その射る様な目でギルバートを見た。
「テメェがどんな趣味してようとあーしには関係無いがあんまデケェ声でそんな話すんじゃねェよ」
「ま、待ってくれアン!誤解だ!その『どんな趣味してようが』の部分の誤解を解くのが物凄く重要なんだ!今!」
「とにかくあーしは静かに食べる」
「せ、せめて誤解を解いてからにしてくれないか!?」
 ギルバートの慌て様にギャリーは少しだけ目を大きく見開いた。え?ギルバートってあの目付きの悪いツインテールの子が好きなの?
 必死に弁解するギルバートとやはりそのテの話題が嫌なのか虫を振り払う様に彼をいなして一人席に着こうとするアン。
 何だか小煩いし短気だし正直気に食わないし絶対合わないと思っていたギルバートの可愛い一面を垣間見、何故だか一気に親近感を覚えたギャリーだったが、ギルバートがひたすらアンを追い掛けるので彼女の為にもそろそろ首引っ掴んで引き離そうかと思い始めた。
 が、彼は彼で珍しい着物姿の女性を目にした。短く切り揃えられた、手入れの行き届いた黒髪。彼が少し前に目を惹かれ心を奪われた『射干玉の君』に雰囲気の似た女性だった。
 こうなるとギルバートの事なぞ後回しである。
 しかしギャリーがギルバートに対してある種の仲間意識を持ち始めたのでその後喧嘩はしつつ、たまに恐ろしいまでに二人の間に不穏な空気を立ち込めつつ、それでも同僚としては仲良くなって行くのであると言う事をまだ知らない二人はこの日別々に食事を摂った。しかし、ギルバートに歪んだ性癖があると言う勘違いが解けるまでギャリーは彼に対し警戒心を抱いたまま過ごすのだった。

 彼らが不穏な空気すら排除する事が出来たのは、年末にアルヴィ・マルムフェが加入しバランスが取れてからである。

おまけ

 ギャリーはにこにこ笑いながら着物の彼女の前の席を引いて座る。女性はまさか自分の前に誰かが座ると思わず一瞬驚いた様に体を震わせたがすぐににこりと会釈した。
「可愛い…」
 思わず口に出したその言葉が聞こえたのか、女性は一瞬頬を赤らめるとしかし慣れた様に「お上手ですねぇ」とだけ呟いて上品にスープを口にする。所作一つ取っても上品で美しい。自分もテーブルマナーに関してはそこまで悪い方ではないとは思うが、目の前の女性の美しさに見惚れついつい疎かになってしまった。
「あの…先程からスープ、全部スプーンから溢れてますよぅ?」
 飲めてます?と心配そうに口にする女性にギャリーは少し慌てる。いけないいけない、珍しい事もあるものだ、自分が見惚れてまともな動きすら出来ないなんて。
 ギャリーは記憶の中で尚美しい射干玉の君を思い出してついつい女性と重ねる。もう会えないと諦めていたのに、こんなにも雰囲気の近しい人と結社で会えるなんて。
 何とか名前だけでも、そう思って声を掛けたものの、自分なりの声の掛け方はどうしたってナンパなやり方しか知らなかった。女性は少し呆れた様にくすりと笑った。
「俺、経理部のギャリー・ファンって言います。お姉さん綺麗だね…名前聞いて良い?」
「セリカ・ミカナギと申します。前線駆除班です」
「前線駆除班…!?お姉さん、闘うの!?」
「これでも実家はミカナギ示源流と言う流派の剣術を教えてますので」
「へぇ…」
 その着物の下の白い肌に傷を付けることもあるのだろうか。ただでさえ白く美しい肌が光に当たってギャリーは目がチカチカした。おまけにその肉体は戦う為に存在していると言うのだから余計眩しい。機械人形を扱う仕事をしていたから彼らにも愛着はあるし、彼らが壊れるところは見たくはないがこのご時世だから。彼女の様に人を守る為に力を奮える人が居るのは素晴らしいなと素直に思う。
「お姉さん…セリカちゃんって呼んで良い?」
「え、ええ…問題は無いですが…」
「問題無いなら良いね?俺経理部で待ってるから…書類出すなら是非俺のところに。んで、セリカちゃんさえ良かったらさ、前線駆除班での仕事のお話とか聞かせてよ」
「え?お話…ですかぁ?」
「そう。良かったら俺と夜景の見えるところで食事でもしながら──」
 そんな事を口にした瞬間ふわりと後頭部に重みが伸し掛かる。昨晩から今朝まで一緒にいた総務部のユリアがギャリーに抱き着く様に密着したのだった。
「ギャリーさんこんなところに居たぁ」
 ユリアの甘ったるい声に少し頬が緩む。セリカはそんなギャリーの表情を見逃さず、少々乱雑にスープを掛け込むとぐいっと飲み干し彼を置いて席を立った。
「…私戻るので、後はお二人でどうぞ?」
「あら、ありがとうございまぁす」
「え!?セリカちゃん!?」
 乞う様に手を伸ばすギャリーを一瞥するとセリカは一言、「鼻の下伸びてますよぅ」と発しその場を後にした。後ろでギャリーがなんか言っていたがもう知らない。
「おや?セリカさん、ご機嫌斜めですね?」
 前線駆除班の待機場に戻った途端に目敏いクジマに指摘される。セリカはクジマのこう言うところが苦手だった。
 午後になったらお姉様と二人だけのお茶会が待ってるのでそれだけを楽しみにその日一日頑張ったセリカだが、お茶会の時間にバーティゴに「ねぇセリカ、私の代わりに経理部に書類出して来てくれない?」とねだられ、行ったら行ったで食堂から数時間ぶりのギャリーに泣きそうな顔で絡まれ、「いつから結社はこんなに騒がしくなったのでしょう…?」と彼女は人知れず頭を抱えた。