「あ!テオさんちょうど良いところに!」
ヒギリのよく通る声が自分の耳に飛び込む。テオフィルスは「女の子から呼び止められた」と反射的に笑顔で振り向くが、彼女の姿を視界に捉えた瞬間その笑顔は消えた。
「ヒギリちゃん…?何があった…?」
「そ、それが一緒にケーキ食べてたら…!急にこんな事に…!」
そこには青ざめた顔で首に巻き付いた腕を外そうとしているヒギリと、そんな彼女の首に腕を巻き付けて甘えるヴォイドの姿があった。自分は当事者として加わる方が性に合ってるので『見ているだけ』と言うのは物足りないのだが、そんなテオフィルスでもしげしげと眺めていたくなる程ヒギリとヴォイドは絡みに絡み合っていた。
何と言うか、最早物理的に。
待てよ?段々見ていて面白くなって来たぞ?
「テオさん助けてー!!」
「んん…酷い、の助……離れようとするなんて」
「さっきから仕事戻らなきゃだって言ってんじゃん!!ヴォイ姐、もう離れて!!」
まずい。割とヒギリが本気で怒っている。テオフィルスはとりあえず何か言わねばと口を開く。このままではヴォイドとヒギリの仲に亀裂が入りかねないと思っての事だった。
「ヒギリちゃん、何がどうしてこうなったんだよ?」
「それがね!それがねテオさん!!」
ヒギリには昼食後にこっそり食べようとしていたケーキがあった。ヴォイドに見付かったので、せっかくなら二人で食べようと少し切り分けてあげる事にした。そのケーキはいわゆる『アルコールケーキ』であり、度数の高いラム酒をふんだんに使ったものであった。
二人で半分こ。ただし、元々一人で食べる予定だったものもあって少し惜しかったのか、こっそり自分の方を多めに切ったヒギリ。それもあって『特に問題は無いだろう』と踏んでいたのだが、一口食べ二口食べ、段々とヴォイドは口数が少なくなって行き、全部食べ終えて仕事に戻ろうとした瞬間いきなりヒギリに甘える様に抱き着いて離れなくなったのだと言う。最初こそ普段見せない甘え方が可愛いし何かふにふにもにもにしていて柔らかいし得した気分だったのだが、五分経っても離れてくれないとなると流石のヒギリも焦りだしたのだった。
「な、なるほどな……」
「ヴォイ姐、お酒は苦手って聞いてた気はしたんだけど…まさかこんなになると思わなくて…!!」
「確かにな…俺も少し前に
酔ってるとこ見たけどさ…この状況は初めてだよ」
ごろごろと喉を鳴らさんばかりにヒギリに絡み付くヴォイド。心なしかいつもより甘い声で「行かないで…」と懇願している。しかし、ヒギリは最早そんなヴォイドの事が鬱陶しそうだ。
「んもぅっ…ヴォイ姐いい加減に…!!あ!テオさん!次お仕事何時!?」
「な、何時って…今やっと昼休憩だし殆ど休みなく来たから、エフもトニィも『何時に戻って来ても良い』とは言ってくれたけど…」
言ってから『しまった』とテオフィルスは思った。しかし、ヒギリが即座にヴォイドに耳打ちすると、彼女はヒギリに絡めていた腕を離し、今度はテオフィルスの首へとターゲットを変えた。前から突っ込んでくるヴォイドをテオフィルスは慣れない手付きで受け止める。ヒギリはやっと解放されて嬉しそうに腕をぐるぐる回した。
「助かったー!!」
「ヒギリちゃん!おい!!」
嫌な予感を巡らせてから見事に予想通り過ぎる流れになり、思わずツッコミを入れる。ヒギリはにこりとあたたかい微笑みを浮かべながらテオフィルスの方を見た。悪魔の笑みにすら見えた。
「テオさん、頼むね…!」
「
いや、頼まないでくれよ!!俺も昼休みくらい普通に休みたいわ!!」
「首からヴォイ姐ぶら下げてるだけで良いからさ!」
「こんなデカいアクセサリーつけてる奴いる!?」
しかし、時間を見ればヒギリが本当にギリギリまでここで粘ってくれていたと分かる。休憩には区切りの良い時間を当てている筈だとすれば、現にヒギリは少しだけ遅刻しているのだ。
仕方ない。テオフィルスは反論をやめ「分かったよ」と一言、首にしがみ付くヴォイドの体を支えた。
「……別に俺がずっと付いてなくても、例えば医療班に送り返しに行ったりどっか寝かせたりとかすれば離れても大丈夫だな?」
「うん!うん!ありがとうテオさん!あ、今度お昼ご馳走しちゃう!」
「ヒギリちゃんの作る美味しい茸とサワークリームのグラタンが食いたいなぁ。最近ノエに教わってるんだろ?」
「そうなんよ!」
以前
タイガの部屋で食べた茸とサワークリームのグラタン。焼く時間や手間もあって食堂のメニューには入れられないと言うそれはテオフィルスの舌と大変相性が良く、タイガの部屋で飲む際の彼の楽しみの一つでもあった。最近ヒギリがそれに興味を持ってノエに作り方を教わっている等と小耳に挟めば、彼のグラタンのメニューのファンとして、可愛い女の子の作る料理に対する興味もあってこれは是非味を見てみたいものである。
「ありがとうー!じゃあ今度テオさんも味見してね!タイガ君も『美味しい』って言ってくれたんだよ!」
既にタイガが味を見ていたらしいと言う事に安心しつつ、味を想像してついつい生唾を飲む。地上に出てからと言うもの、岸壁街に居た当時は無かった「食の楽しさ」を謳歌しているテオフィルスには魅力的なご褒美に思えた。
「じゃあ!ごめんねテオさん!頼むね!」
しかし、光の早さでランナウェイと言わんばかりに駆けて行くヒギリの後ろ姿を見、テオフィルスは改めて「面倒事を受け入れてしまった」と溜息をついた。彼の首に絡み付いたヴォイドがもぞりと動く。テオフィルスはつんつんと指で後頭部を突くと、「歩けるか?」と呟いた。
「ん……」
「俺の足、義足だしさ。抱えて行きたいけど…転んで怪我したらやべぇだろ?」
「んー……」
「……ったく、しょうがねぇな…」
キョロキョロと人目を気にしてみる。流石に首にまとわりついてくるヴォイドと彼女を抱えているテオフィルスの姿は目立つのか、不思議そうにこちらを見てくる人間と目が遭った。
「やべ……」
おかしいな。前にこんな事あった様な無かった様な…いや、
あったな。
「……ヴォイド、ほらあっち」
この場所なら廊下を抜けた先に給湯室、その隣に応接室がある。その応接室は普段は使用されていない場所であった筈だ。確かここのところ外部の人間との大掛かりな打ち合わせも予定に無かった気がするので嫌な鉢合わせをする心配も少なそうだ。
それに、応接室はただでさえ忙しい総務部の部屋の近くだ。あそこならソファもあるし人気も少ないからそこで寝かせておいても特に問題は無いだろうし、加えて人の出入りも少ない筈だ。
テオフィルスは少し前、未遂に終わったとは言えヴォイドを前に理性を失くし掛けた事を密かに思い出していた。そしてその時の苦い思い出と共に「次は後悔しない」と心に決めていた事も思い出した。
「……よし」
ぎっ…!と義足に力を入れる。つい先日機械班から帰って来たばかりの足に不備はない。テオフィルスはヴォイドを抱える手に力を込めると優しい瞳で彼女を見た。首に巻き付いている為、至近距離のブレた彼女が目に飛び込む。
「てお……」
見つめ返すように、とろんとしたガラスの瞳と視線がぶつかった。テオフィルスは、ともすると唇が重なりそうな距離にいる彼女の背中に手を回すと立ち上がり、ゆっくりゆっくり誘導して応接室へと足を進めた。
「…んだよ……明るい内からこんなところでカップルがイチャついてるだけかよ…」
どこの誰とも知らないが、
たまたま居合わせた彼は煩わしそうにこう呟いた。
* * *
応接室のドアをガチャリと開けると、首にヴォイドを巻き付けたままテオフィルスはきょろきょろと辺りを見回した。幸い、今は誰も使っていない時間らしい。ゆっくりゆっくりソファへと足を運ぶとヴォイドを寝かせようと体を傾けてみる。しかし、彼女が首に回した腕を緩める気がなかった為、バランスを崩したテオフィルスは覆い被さる様な形でヴォイドと共にソファに沈んだ。
「おっと……」
一瞬ではあったが、支えきれなかった体重をヴォイドの体に大きく掛けてしまう。ヴォイドは少し苦しそうに「ぐぇっ…」とまるで色気の無い、蛙が潰れた様な声を上げたがやはりそれでも首に巻き付いた腕の力は緩めなかった。
「お前…赤ん坊かよ……」
一度掴んだら離さないだなんてまるで赤ん坊の様だ。そう軽口を叩いてみるものの、そう誤魔化さないといられない程に胸元に当たる膨らみが彼からどんどん理性を薄れさせていく。
「てお…いかないで……」
「あー…えっと、俺も一応仕事あんだけどな…?」
「やだ、やだ…おいてかないで……」
むしろ抱き締める手に力を込めて懇願するヴォイド。酒は人の本性を剥き出しにするとはよく言うが、と言う事はヴォイドの本性はこれなのだろうか。
寂しがり屋の甘えん坊。
あんなにも人を諦めた様な顔をしていた事もあったのに。そう言えば彼女から大きく変化を感じ取ったのは愛の日の後だろうか。やはりこの環境が、人との触れ合いが彼女にとって居心地の良いものであることに変わりは無いのだろうとそう思う。言われてみれば幼い頃、一緒に過ごしていた時もふとした瞬間にやたらと甘える様な行動を取った時があった。
ヴォイドはきっと、結社が役目を終えても同じ様な明るい世界を居場所とした方が良い。かく言う自分も、きっともう居心地の良いこの世界以外で心は休まらないだろう。
お互い、ここに来て良い様に変わったよなとテオフィルスはぼそりと呟き、そしてヴォイドの頭を撫でる様に手を添えた。
「……一人で寝れねぇの?」
「やだ…やだ…いかないで…」
自分に向けて言っている様な気もするが、何故か自分の向こうに居る
別の誰かに向けられた言葉の様にも思えた。
まるで何かとても怖い事が彼女にはあって、それを思い出して今でも悲しくなってしまう様な。普段冷静な時は理性で、感情で、押し付ける様に蓋をして押さえ込んで。そうやって見て見ぬ振りをしている思い出こそが彼女の「怖い記憶」なのかもしれない。
もしもそれが岸壁街の理性の無い男達に陵辱されたものだったとしたらどうしようかと想像しては青い顔をしていた事を思い出した。ヴォイドがそんな思い出をもしも作ってしまったらと考える度どうしようもない不安に襲われていた。しかし、ヴォイドを見るに彼女が今恐れているのはどうやら「置いていかれる事」の様だ。その事に少しほっとしつつ、それでもやはりこんな顔をしている彼女を見るのは辛いものがある。
テオフィルスは優しく首に回された腕に手を添える。ヴォイドが慌てて更に力を込めようとする前に彼女の耳元で『大丈夫、置いてかねぇから』と呟いた。ヴォイドはその言葉に安心した様に腕の力を緩める。首を解放されたテオフィルスは組み敷く様な形を取ってようやく彼女の顔をしっかり見れた。
相変わらず虚ろで、しかし熱を持った様に揺らぐ瞳でヴォイドはテオフィルスの姿を捉えた。海と空を映した様なそんな瞳に捉われ心臓がどくりと跳ねる。鳥肌が立つ様な毛の逆立つ様な感覚がした。
「……そんなに怖い思い出なのか?それ…。お前がそんな顔しなくて済む様に、その思い出俺が埋めてやろうか?」
「え……?」
「俺がもし傍に居る事でお前が安心出来るなら…そうしても良いよ…俺は。他のところには行かない…ずっとここに居てやる」
ばさりと音を立ててテオフィルスが羽織っていたパーカーを床に落とす。その音が耳に入るか入らないか、テオフィルスは既にTシャツの襟を引っ張り頭をすぽんと抜いていた。彼は好んでトレーニングをしているわけでは無いのに程々に筋肉が付いているのは男性だからかそれとも義足に気を張っているからなのか。見る見る寒そうな格好になっていく彼の姿をヴォイドはじっとりと見つめていた。
「てお…?」
「……今更『やめて』なんて悲しい事言うなよ?お前が俺の事離してくれなかったんだろ?」
「さむそう…だね…」
「あぁ。日が長くなったってだけでやっぱこの国は寒いからな。でも、動きゃあったかくなるさ」
ぎし…と音を立ててヴォイドの首元に唇を寄せる。以前額にした様にチュッと吸い付けばヴォイドはびくりと体を揺らした。
「…やっぱ岸壁街って異常なとこだよな。きっとあの時の俺はどっかおかしかったんだ。今ならあの場所のやばさはよく分かるし……お前が気を遣ってめちゃくちゃ良い匂いになってんのも分かる」
「いいにおい…?」
「ああ。何か…ヒギリちゃんからも同じ匂いしたな」
「のすけ…香水くれた……ボディソープも…」
「……あぁ、それか。でもヴォイドの場合はそこに薬品の匂いもするな」
「…臭い?」
「……足の処置が記憶に新しいから緊張はするが…悪くはねぇかな……それを思い出してどきどきするのかお前に興奮してんのか…どっちも起きてるからこんなにどきどきするのか……」
夢だと思ってくれても良い。忘れてしまっても良い。でも、この瞬間だって大事にしようと思う気持ちは誰よりもある。
ヴォイドが半分夢の中に居るのに、まるで独り相撲の様だと自分を責めながらもこの好機を手放す気もテオフィルスには無かった。
そっと手を伸ばし服をたくし上げる。覗いた下乳には薄い色合いではあるが血管の青が見え、テオフィルスは更にごくりと喉を鳴らした。
「優しくする……」
テオフィルスの掌の中、その言葉に反応する様にヴォイドの心臓もどくりと鳴った。
* * *
「やぁ、俺が誰かって?俺だよ俺、ゼン・ファルクマンだよ!!全く俺の有能さに今頃気付くとは…遅い!遅過ぎるね結社総務!!今何年何月だ!?七十四年五月だよ!!俺が入ったのはいつだ?もうかれこれ半年以上も前だ!!全く、おっかな巨乳の下で燻らせるだけ燻らせて今更面談!?馬鹿じゃねぇのばーか!!!もっと早くやれよばーか!!今更何話すっつーんだよばーか!!あれか!?助平七三の文句でも言やぁ良いのか!?ったく、結社の前線は金払いは良いがこんなにブラックだなんて思わなかったぜ。これ以上俺のこの優秀な頭脳を無駄遣いしようと言うのなら俺だって法治国家の国民の一人として働く場所を選ぶ権利を行使するね!!あんなおっかな巨乳相手じゃ下剋上も出来やしねぇ!!いや、別に良いけどさ!俺小隊長嫌いじゃねぇし!!でも俺文句言ってくる輩は捩じ伏せれば良いから嫌いじゃ無いが人に叱られるの大嫌いなんだよ!!小隊長はガチな人だから怒り方がマジでおっかねぇんだよあれだけは本当嫌!!」
おそろしいかなゼン・ファルクマン。
誰もいない廊下で、誰もいないのを良い事に「憂さ晴らし」と言わんばかりに一息にそう口にする。
無論、
独り言で。
人事部のロード・マーシュに面談だと呼ばれたこの日は本来彼が大好きな時計の手入れに費やしている時間であり、あろう事か自身の自尊心を大変に傷付けてくれたロード・マーシュからの呼び出しとあれば反発心も人一倍と言うわけで。
予定していた時間に時計は手入れできないし呼び出したのがあの助平七三。それだけでゼンの苛々はピークに達していた。
「ったく…何が悲しくてあの狐野郎と時間取って呑気にお話しせにゃならんのだ」
とは言え、ロードに謎の敵意を剥き出しにして散々と駄々を捏ねた甲斐があったのか、ロードは普段なら面談に使わない様な豪華な装飾の部屋を用意し、彼のその腕前で紅茶を淹れてくれると約束した。紅茶にお茶菓子、高級ソファ。いわゆる「VIP待遇」で用意してくれると言うのならば呼び出しに応じてやる事もやぶさかでは無い。
あの助平七三は気に入らないが質の良い紅茶となら中和と見做してやっても良いだろう。
そう思いながらゼンは応接室のドアノブに手を掛けた。
「前線駆除班第三小隊ゼン・ファルクマンだ。全くこの俺の貴重な休み時間を奪って貴様の様な野郎と顔合わせろなんて無茶な要望、わざわざ叶えに来てやったのだから存分にこの俺に感謝し、
きぇぇぇぇぇぇぇぇええええぇぇぇぇぇっ!!!!!」
「……おう」
ドアを開けたゼンはおかしな悲鳴を上げる。そこに居たのは汚染駆除班のテオフィルス・メドラー、彼はTシャツを着ている最中であり何故かさっきまで半裸だったのだろうかと勘繰れる程にこの寒いカンテ国で上着もシャツも脱いでいたのか不自然な着衣の乱れ方をしていた。
そして彼の横で毛布に包まれる形で横になっていたのは医療班のヴォイド・ホロウだった。
半裸の男とスタイルの良い女、人気のない応接室、きっと何も起きていないはずはなく。
「えーっと…汚染の三つ編みと医療班のおっぱいちゃん!?」
「半年以上居てどんな覚え方だよ。こいつは医療班のヴォイド・ホロウだ。前線なら世話になってんじゃねぇのかよ」
「ふん、俺は他隊の馬鹿共と違って無駄な傷を負わない術を心得ているんだよ!!痛いの嫌いだからな!!」
「あっそ…」
「それにしても…お前とおっぱ…ヴォイドが二人きりでこんなところに居るなんてどうにもきな臭いな。聞くに君達は岸壁街の出だろう?こんなところでお仲間同士、仲良く情報交換でもしていたか?」
急に真面目な面持ちになったと思ったら、ナチュラルに飛び出したそれは所謂差別的な目だろうか。そう受け取ったテオフィルスはムスッとしながらも、今まで結社では少なかったとは言えそもそも警戒される事は日常茶飯事だったので別段臆する事なく対応する。
「……同郷なら昔を懐かしむ事もあるだろ。それは地上の奴らも岸壁街の奴らも変わんねぇよ。むしろ地上の奴らに聞かれたくなくて人気の無いところで話す事もあるかもな。で?それを本当にしてたとしてお前に何の不利益を与えたとか言うんだ?言っとくけど岸壁街なんて壊れちまったんだ。今更街の奴らが出来る何かがあるなんて本気で思ってんのか?」
「
逢引きの現場にたまたま突っ込んで行ってしまったとかプライドが極端に傷付くからに決まってんだろばーか!!!ならばせめて裏で結社崩す画策立ててたとかそっちのが精神衛生的に良いに決まってんだろばーか!!!どいつもこいつも、恋人の居ない俺の前で女とのイチャつき見せやがって当て付けか!!?」
ゼン・ファルクマン。彼はどうもアホの様だ。
テオフィルスはずるりと肩から力が抜けていくのを感じながらも、彼が言う程差別的な人間では無い事に少しだけ安堵する。逆に、『こいつは典型的なリア充爆発しろタイプだがここに至るまで一体何があったんだ?』と同情すらした。
「お、おぅ…何か苦労してんのは分かった。その、ごめんな…何かその、傷を抉るような事して…」
「同情するなら誰か紹介してくれ!!!」
半泣きになりながらちらりと視線をヴォイドに移す。すやすや眠る彼女を見てふぅと一つ溜息を吐くと、「本題に移る」と言わんばかりに真面目な面持ちになった。
「……冗談はさておき、本当に何してたんだ?」
「……何してたと思う?」
「…これでも俺は差別的な意識は持たないつもりだ。だから公平に色々見るぜ。そして公平な俺の判断によると、意識の混濁した女性への暴行がもしもあったのならそれは等しく『同意は無かった』と見做すが?」
「………」
「だんまりは宜しく無いなぁ」
ゼンはそう言いながらヴォイドへと近付いて行く。そっと顔を覗き込むと、すうすうと寝ているだけかと思いきや少し顔が赤らんでいる事に気が付いた。
「酒に弱いんだ。で、今日も間違って酒口にして寝ただけ……と、思ってたんだけどな。どうも病み上がりで少し体調も悪かったらしい」
「……何故こんなところに寝かせた?」
「俺、テロで無ぇんだよ。足」
くいっとズボンの裾をたくし上げてみる。覗いた脛が人の肌の色をしていなかった事に心底驚いた目をしたゼンは「ズボンを履くと分からなくなるもんだな…」と感嘆混じりの声を上げた。
「この足じゃ足元おぼつかないこいつ連れて来るの、ここまでが限界でな。で、寝かせたは良いけどちょっと体調悪かったみたいで」
「…なるほど」
「俺も思うところは色々あんだよ。何にせよ、今この瞬間手は出してないって事は誓う」
「ふん……なら、俺が来た時お前が半裸でいた事については不問にしよう」
「……おぅ」
そこだけは言い逃れが出来ないな、とテオフィルスも思った。この状況でどこをどう見ても服を脱ぐ必要が無いからだ。服を脱ぐ状況なんて、『そう言う期待』がある時以外起こる筈もない。
だからゼンは気付いている。テオフィルスがこの場であわよくば何をしようとしていたのかも。しかし、罪を憎んで人を憎まずとはよく言うが、そもそも何も起きていないのなら何も憎む必要はない。
「……本当に何もしてないんだよな?」
「………」
その時ふと、テオフィルスの脳裏に『優しくする』と口に出した時の状況が蘇って来た。
* * *
服をたくし上げた時に見えたヴォイドの肌はやけに白かった。両手首を片手で掴んでソファに押し付け、もう片方の手を鎖骨に添える。
優しく優しく、撫でる様に下へと下ろして行き、形を堪能するように手の平で胸を弄んでしばらくすると、ふいに「ふぅ…」と大きな呼吸がヴォイドの口から漏れた。
「ヴォイド…?」
熱を帯びた声で彼女の名を呼ぶ。しかし、どこに触れてもヴォイドはピクリとも動かない。
「お、おい?大丈夫か?」
一転して青い顔になったテオフィルスが慌てて彼女の体を抱き起す。ヴォイドの半開きになった口からふすふすと規則的な呼吸が漏れた。
「あれ…?」
テオフィルスが額に手を乗せてみると、ヴォイドの額がいつもより熱を持っている事に気が付いた。
「そっか……言ってもまだ病み上がりだもんな…そうだよな…うん……」
心情として、体を壊した女に手を出すのは憚られる。それに、こんなに眠たそうで無抵抗なヴォイドに手を出すのは確かに好機と言えば好機だが、彼女に
それをしたくはなかった。そう思うとテオフィルスは途端に冷静になる。
俺、これで良いのか?と。
自分達には今まで残せた思い出は無い。大事なのは互いの記憶のみ。自分だけが覚えているなんて虚しい。だからこそ、これから地上で作る思い出は互いの記憶に残せるものの方がいい。
誘拐事件でヴォイドをまた失う気がしていっそ失うくらいならばとも思ったが、そんな事しなくても少なくともヴォイドは今日自分を求めてくれた。
『てお、いかないで』
と。だから無理な事をするのはやめる。今日の事はどこまでも独り相撲な気もするが、それでも傷付ける前に踏み止まれて良かった気もする。
「ヴォイド…ごめんな」
テオフィルスはこつんとヴォイドの額に自分の額を当てると、愛おしむ様な声を上げた。
「……やっぱヤりてぇ。今すっごくヤりてぇ。ヤりてぇけど……お前が覚えててくれた方が良いんだよ、俺は。お前がちゃんと頭すっきりしてて、俺の事良いって言ってくれて、俺を受け入れてくれたその時ならお前の事抱いて良いかな……?」
すっと優しく指で頬を撫でればヴォイドはくすぐったそうに口元を緩ませた。返事は無いが、今はこれだけで良い。この顔を見ただけで少なくとも踏み止まれる。
ほんの少しだけでも自分を受け入れてくれた地上の世界に、ほんの少しだけ感化されてほんの少し染まれた気がして。結社に来てからの心情の変化に少し嬉しくなったテオフィルスだった。
「……しかし、本当デケェよな…」
しかし、寝ても重力に負けそうに無いカヌル山を前にするとその決意がぐらぐらと揺らぎ始める。駄目だ駄目だ、こんなの目に毒過ぎる。テオフィルスは慌てて近くに備えてあった毛布を引っ張るとヴォイドの身を包んだ。毛布で少しスタイルが見えなくなってやっとテオフィルスの理性が仕事をし始める。
寒いし服着るか、と立ち上がろうとしたその時だった。大きな独り言と共に偏屈な男がドアを開けたのは。
* * *
先日までのご機嫌な鼻歌はどこへやら。ロードは酷く不機嫌そうな顔で仕事をしていた。
前線駆除班のゼン・ファルクマンが散々駄々を捏ねるので痛む頭を押さえながら応接室の使用届けを出し、書類を確認して部屋に向かうと何故かそこにはゼン、テオフィルス、ヴォイドの三人が居た。
一瞬戸惑いながらも何とか無理矢理思考を巡らせ確認を取れば、ゼンは『自分が来た時には既にこの二人が居た』と言うし、テオフィルスは『近くの休憩所でヒギリからヴォイドを預かったは良いものの放置するわけにも行かず一番近いこの部屋に連れて来た』と言う。
状況的にも証言を精査しても、主張に違和感は無いので嘘をついているわけではなさそうだ。だが、単純に酔ったヴォイドを介抱していたと言うだけでロードの嫉妬限界値はマックスまで達しており、寝ているヴォイドを医療班まで運んだ後テオフィルスとゼンに射殺さんばかりの視線を向けたのは言うまでも無い。
「はぁ……」
危険度で言ったらマックス。距離の近い幼馴染。
そう自分で言っていたのに、うっかり忘れていた。人の心は移ろうもの。それは彼女も、自分も、そして周りの人間も。
自分に枷が無くなって本当に心からぶつかって良いのかと葛藤している間に、彼等も同様にうつろった末に彼女と本気でぶつかろうと思い直すなんて事も無いとは言い切れない。何を一丁前に悩みながらうかうかしていたのだ自分は。
ロードは頭を抱えた。そして多忙過ぎて連日仕事が当たり前で休みをまともに取れなかった夏の頃の様なテンションで笑った。
「うふふふふふふ……そうですよね…やはり小石を恐れて足元ばかり見るなど私らしくない…!!」
小石に躓く事を恐れて足元ばかり見ていると、気付けば目の前に大岩が鎮座しているなんて事も有り得るのだ。そして彼等がその『大岩』になると言う事も十分に有り得る。しかし、『それを乗り越える』と言うのもまた自分らしくて良いのでは無いだろうか。
ロードはつい先日まで何を悩んでいたのかと言うくらいやる気を取り戻しバリバリ仕事をした。タイガは彼のいつもの調子にほっとしたし、ロード親衛隊の三人は今日も今日とてそんなロードも好きだ。
しかし、ロードがいつも通りの調子に戻ると言うのは何もかも『良い』と呼べるものでは無かった。
「あのー、兄さん」
書類をまとめたクロエがにゅっと顔を覗かせる。ロードはそんな遠慮がちな彼女をじっと見るといつもの調子でにこりと笑った。
「おやクロエ、どうしました?」
「先日言われた書類です」
「書類?何の?」
「何のって…計画書ですよ。ルーウィン氏の実家に泊まりに行く予定の」
ルーウィンの実家に泊まりに行く。
そのワードを聞きロードはフリーズする。そんな彼の反応を見、クロエは『いつもの面倒くさい彼に戻った』事を察した。
「と、と、と、泊まり!?あの男の家に泊まり!?」
「
この間説明したが」
「いやいやいやいや!!何破廉恥な事言ってるんですかクロエ!!いけませんよ!?嫁入り前の娘さん預かってる保護者としてそれは見過ごせません!!」
ロードが理解ある保護者の顔を見せた期間は、彼が思い悩み落ち込んだわずか数日の内に終わってしまったのだった。
今はどうかって?彼は今日も今日とていつも通り元気である。