薄明のカンテ - あいをかなでて/燐花
 動いていく
 進んでいく
 変わっていく


Lose my self.

 日の入りが早く日の出が遅い時期。日照時間が短い時期に鬱になる人間が多いと言うのは知識として知ってはいたが、まさかこれから徐々に日が伸びて行くと言うカンテ国の春真っ只中でこんなにも塞いだ様な気持ちになるとは。
「はぁ……」
「…さっきから溜息ばっかりね、お兄さん」
 乱雑に脱ぎ捨てられたストッキングとランジェリーが部屋のそこかしこに散らばっている。目の前には、一糸纏わぬ姿でベッドの上に寝ている女性。いつもの光景だ。
 上半身は緩く前を開いて肌が露わになっているがスラックスも下着も身に着けたまま布団ごと女性に覆い被さり、触れたところで指だけ動かしていたロードは突然の指摘に目を丸くした。
「おやおや」
「……やる気ある?」
「ええ、まぁ…」
「…何か無さそう……」
 作り笑顔など通用しない。
 そう言いたげな顔のままするりと足を伸ばした女性は、悪戯する様にロードの股の部分に脛を押し当てそこに少しだけ力を込めた。
 ロードは一瞬びくりと体を動かしたが、その内いつもと違う状況である事を自覚した。目の前にいる全裸の女性に対して全くと言って良い程興奮していないのだ。
「…全然勃ってないし」
「あー…えっとですね……」
 何となく、この胸につっかえた小骨の様な想いがこの浮かない気持ちを誘発している事にも気付いていた。それがまさか体調にも現れる様になっていただなんて。
 生まれ落ちてすぐに親の都合に振り回され、散々ショッキングな物を見せられてもどんなに激しい仕打ちを受けてもこんな風に気持ちが塞いだりやる気が消え失せる事など無かったのに。
「もしかしてお兄さん、ED?」
「え!?いやいやまさか!」
「……帰るね。心ここに在らずって感じだし。あたしじゃ勃たないみたいだし」
 脱ぎ捨てた服を回収するとそれを着込む。しかし、全部着込んだその瞬間も靴を履いて玄関に向かったその瞬間もロードは彼女を止めない。
「もうっ……本当に止めないで帰す奴がいる?」
 最後にそう文句を零すと女性はロードの部屋を後にした。
 ロードは呆けながらそれを見届けるとスラックスのポケットから煙草を取り出す。口に咥えて火を付けて、いつもの煙草の味を確認して漸くロードは少しだけ思考を切り替えることが出来た。
「う、うふふ…まさかそんな事無いと思いますが……」
 一人そんな事をぼそりと呟き、財布を取り出すとそこから写真を一枚抜き取る。そして写真に写っている『彼女』をじっと見つめるとその後携帯端末を取り出し、動画を一つ再生した。動画の中では大袈裟なまでに声を上げて艶めかしく女優が腰を動かしている。この女優はロードのお気に入りであり、じっとりとした目と艶やかな黒髪は彼の恋焦がれる『彼女』を彷彿とさせた。
 写真を見てイメージを固め、動画の中の女優とうっすら重ねてみる。
 一緒にいた当時はあんな声の出し方だったが、今そこに触れたらどんな声を上げるだろうか。
 想像しうる範囲で丁寧に丁寧に撫でたら、一体どんな声が聞けるだろうか。
「はぁ……」
 スラックスのチャックがキツくなっている事に気付いたロードは人知れずほっと息を吐いた。良かった、自分は正常で健全じゃないか。
 そっと手を伸ばしティッシュ箱を近くに引き寄せる。女優の艶やかな声とゴソゴソと言う衣擦れの音が一人きりの部屋に響き渡った。
「ヴォイド……ヴォイド…っ!」
 写真に写る彼女は、来たばかりの頃の虚な表情を浮かべている。今はあんなにも、表情豊かだと言うのに。
 きっと彼女は変わった。そして自分も、あの頃より自由のある人間としてもう動けるし、振る舞える。
 なのに、今更になってまともに向き合う自信を見失っている気がするのだ。
 何度も何度も求める様に声を上げる。タバコを吸ったばかりで少し乾いた喉を突く様に、いつもよりガサガサとした声で飛び出すのは愛しい愛しい彼女の名前だった。

 * * *

「あ、あの…マーシュさん!先日加入されたラトウィッジさんが…」
「加入されて二週間くらい経ちましたし…」
「ちょっとお時間取ってもらっても良いですか…?」
 エーデル、ヴィーラ、シーリアにそう呼び止められ、ロードは目線だけついと彼女達の方へ動かした。そう言えば彼が加入してからそろそろ二週間が過ぎようとしている。面談と言う名の軽めの話し合いをするには良い頃合いかもしれない。
 つい先日の事件もあったし、ただでさえ最近結社を辞めていく人間は増えていたのだ。先日も総務部のフィオナと「人事部全体で結社メンバーの意見を聞く時間をもっと割かなければいけないかも」とそう話していたところだった。
「…そうですね。ええ、では時間を取りましょうか。ラトウィッジさんのシフトを見せていただいても?」
「はいっ!」
「こちらラトウィッジさんの勤務表です!」
「よろしくお願いします!」
 ロードはそれを受け取ると三人に会釈し、スケジュール手帳を取り出してヴィニーの空き時間と自分の空き時間に目を走らせる。
 休みの日にそれを入れるよりも、仕事終わりにそれを入れるよりも、休憩時間に面談の時間を入れた方が良い筈だ。
 そう考えたロードは休憩の僅かな時間に彼と語らおうと、一週間後の昼休憩を共にする事にした。
 ふと手帳を見ると、ヴォイドとユウヤミ、ミサキの退院予定とされている日それぞれにマーキングが施されており、ロードは自分のマメさを笑った。
 事件が終わり、日常が戻る喜び。
 しかし、せっかくそれが戻ってくると言うのに、何故かロードの心は曇り掛かった空の様でとても晴れやかとは言えなかった。

「今日はお時間いただきありがとうございます。面接の時以来ですねぇ」
「いえいえ。マーシュさんもお忙しかったみたいですね」
「……ラトウィッジさん、少し痩せられました?」
「ははは…まさか入る頃にあんな事件が起きて、その後も慣れない内に医療班で二人も病欠とかになってしまったんで流石にてんてこまいでしたよ。おかげで早く色々覚えられたんですけどね」
 ヴィニーは相変わらず人当たりの良い笑みで面談に応じた。仕事の事もそれとなく聞いたが、この様子なら今すぐに辞める辞めないの話にはならないだろうとロードは少しだけほっとする。
「あ、そうそう。ヴォイド・ホロウさん?彼女、凄いですね…色々と」
 しかひヴィニーの口からヴォイドの名が突如飛び出し、ロードの顔から一瞬『良い人』の仮面が外れた。ヴィニーはそれを見逃さず、しかし頭の回転の速い彼が即座に考えたのは「ロード・マーシュは彼女に手を焼いてるのではないか?」と言う事だった。
 実際にはロードの余裕の無い、嫉妬深い顔がヴィニーの口からヴォイドの名前が出た事でうっかり漏れ出ただけであるし、職場での話に彼女が出て来た事で彼女が退院し仕事復帰したのだと言う事を実感して固まっただけなのだが。
「あー……いや、凄いですね!その、腕前が!岸壁街の出身と聞いていたので戻られてすぐ、実は少し不安だったのですが…良い意味で予想を裏切られましたよ」
 なるべくなるべくヴォイドのネガティヴキャンペーンにならない様に。そう気を遣ったヴィニーの気遣いにも勘違いにも気付いたロードは自戒する様に溜息を一つ溢すと、極めて人当たりの良い笑顔を見せヴィニーを勘違いさせた事を謝った。
「すみません…お気遣いいただいてますね、今」
「あ、えっと…あはは…この面談で『職場に問題あり』な結果になったら貴方も困るでしょう?実際俺は…ちょっと激務に疲れた部分があっただけで、でも二人戻って来た今何も困ってませんし、ただ…マーシュさんが彼女に手を焼いている、とかだったらあらゆる発言がネガティヴに働くのではないかと思いまして」
「重ね重ねすみません。ですが、私は彼女を特別問題視しては居ませんので、彼女のネガティヴな話題に過剰に反応はしませんよ。今でこそ落ち着いていますが、一時トラブルメーカーになっていた事も理解していますし」
 そう言って遠くを見る様に目を細めるロード。
「ああ、なんだ!ホロウさんの治療の荒さは周知の事実だったんですね!いやー、清々しい程の雑さでちょっと驚きましてね!あ、でも本当にツッコミ入れる程度で仕事が嫌になるレベルでは無くてですね、面白いなぁって」
「うふふ。まあ、実力は申し分ないのでね。今ひとつ治療の際患者さんへの配慮が足りなそう、とは思いますが」
ヴィニーはその一言で肩の荷が降りたのか、その後はお互い砕けた様に会話ができた。
 昼休憩も終わり、ヴィニーと別れ喫煙所に向かう。彼の履歴書を取り出すと、端の方にマルフィ結社人事部として・・・・・・・・・・・・『np』と記載する。余談だが、この『np』は藤語の『特筆すべき事なし』『異常無し』の頭文字を取った略であり、この文字の横に今日の日付とサインをする事でロードの面談は終わりだ。
 惚ける頭で今度はプライベートなロード・マーシュとしてヴィニーの事を考える。矢張り男なら彼女の事を淫靡な目で見る事もあるだろうからそれは仕方ないとして、しかし少なくとも彼はヴォイドに特別に好意的と言うわけではなさそうだし泳がせても問題無いだろう。同担拒否強火独占欲過激派ガチ恋勢としての自分から見ても『np』『特筆すべき事なし』である。
 そこまで考えてロードはハッとする。
 そうだ、もう父親フランクは居ないのだから何も遠慮する事はないのだ。最早自分は彼に監視されている身でもない。周りの男達の出方を伺って彼女に近付かないか目を光らせるなどと言う回りくどい事をせずとも、好きならば好きだと言って良いのだ。
 それをやったところで、もう自分への見せしめにとヴォイドを傷付けようとする人間はいないのだから。
 しかし今更そう思っても、ロードはそれこそヴォイドに出会った頃から裏で手を回し確実に好機を掴んで来た人間だ。こんな恋愛ものの小説でしか読んだ事の無い「剥き出しの感情を計算無くただぶつける」と言う行為は未知の分野だった。
 どんなに好きだと口にしても、そこには常に「最後には自分が道化のような役回りをして終わる」と言うお約束がある。そのお約束の下、自分が最後には彼女に足蹴にされて終わると言うシナリオを何となく組んでいるからこその「拒絶される安心」がある。
 資料室では少しだけ我を失った事もあったが、基本的にロードは周りに人が居る状況か仮に二人きりになっても長居しない状況でヴォイドに愛を囁く事が多い。
 でないと、自制する自信が無いからだ。自制しないといつどこで自分を見ている父親フランクにヴォイドが狙われるかも分からない。しかし、それを恐れて愛を囁くのを惜しむ事もまたしたく無い。
 けれど、今更この大き過ぎる拗れた恋心を真正面からぶつけて、彼女を傷付けてしまわないか考えるのもまた怖い。
「…あれ?ロード……?」
 惚けて煙草を吸っている最中に聞こえたのは夢にまで見た自分を呼ぶ声。うっかり変な吸い方をしてしまい珍しくゲホゲホと咽せるロードを少し心配そうにゆっくりと近付いて来たのは他ならぬヴォイドだった。
「大丈夫…?」
「え、ええ…大丈夫です…。ヴォイドは…おやおやいつのまに退院されていたんですね」
「あ、うん…少し前に」
 白々しくそう言ったが、知っている。知らないわけが無い。何月何日何時頃病院から出る予定だったか、把握していないはずが無い。
「どうですか?体調の方は…」
「うん、まあまあ。悪くは無いよ」
「それは良かった。では、無理せずお大事に」
 そう言ってスッとその場を離れる。
 まるで逃げる様にそうしてしまい、ロードは角を曲がったところで頭を抱えながら座り込んだ。
 何の気兼ね無しにもう彼女に想いをぶつけられる。何も恐れるものはない。しかし、だからこそもしも拒絶されたら今度はそれが恐ろしい。
 今までは拒絶してくれたら有り難かった。好きだと余す事なく伝えたいが、父親フランクの目論見を考えれば一線を越えてはいけないそんな自分を拒絶してくれる想い人ヴォイドと言うオチはむしろ有難かった。
 しかし今拒絶されたら、「拒絶されて有難いと思える理由」の無い今拒絶されたら。それはまるで心からの拒絶な気がして、後が無いようで恐ろしい。
「……私は、何を童貞みたいな事を…」
 ぼそりとひとりごちる。明らかに避ける様な態度を取ってしまい、ロードの胸の中で後悔が渦巻いた。
「……え?ロード…私の事、避けてる…?」
 去って行くロードの後ろ姿を見送った後、ヴォイドも人知れずそう口にする。しかし彼の後悔よりも深刻だったのは、ヴォイドにとってロードが自分を避けると言うのは自分を置いて行ったあの瞬間に彼女を逆行させるのだ。
「………何で……」
 震える体をぎゅっと抱き締める。
 再会したとは言え、未だにロードに対する明確な気持ちはない。しかしロードは、自分が突っ撥ねてもそれを気にせず愛を囁いた。むしろ、突っ撥ねるからこそ安心して愛を口にする様だった。
 一緒に居た時は一度も本心が見えず、今は今で挨拶の様に愛を口にし、しかし自分が拒否する事で安心した様に引いて行く。
 いつしかその流れがヴォイドも心地よくなっていた。我儘だと思う。愛を受けるだけ受けて、安心して、応えずともまた次会った時には同じ様に享受して。それが当たり前だったヴォイドにとって、このロードの態度は恐ろしく淡白で物足りなかった。
 そして何より、『ロードが』自分に興味を無くす様と言うのは、置いて行かれた絶望に近しく思ってしまう。
 応えられる予定は未だ無い。なのに、与えてくれていた愛情は変わらずそのまま享受したい。だから、相手に変わられてしまうと恐ろしくなる。そんなの我儘だと分かっているのに、互いの関係にとってイーブンでは無いのに、いつのまにかそんなフラットになれないものを求めていたなんて。
 ──いつから私は、他人にこんなにも求める様になっていたのだろう?
 考えを誤魔化す様に、ヴォイドは手に持っていた小銭でブレンド茶のボトルを買い、煽る様に口にした。

I feel depressed.

「ヴォイドさん!すみません、今日って調達班の皆から薬品の追加って届いてませんでした?」
「え」
「今…スレ先生が痛み止めを処方しようとしてて…カルテに書かれたんで探してるんですけど、日数分足りなくて…そしたら今日来る予定だからそんな筈ないよって言われて…」
「……あ」
 慌てた様子で駆けてくるミアにせっつかれ、床に乱雑に置かれた段ボールのガムテープを剥がす。ガバッと大きく開くと、そこにはぎっしり詰め込まれた備品や薬があった。
「せ、整理してない…調剤ロボットの清掃も……」
「え!?ど、どうしましょう!?粉薬も出ちゃってて…!」
「ねぇ貴女達、今エルが向精神薬と眠剤出したんだけど…日数分足りないのよ。在庫ってちゃんとある?」
 後からやって来たクインも同様の理由からか、困った様にカルテを持って現れた。ヴォイドは珍しく青い顔になりながらカッターで段ボールに貼られたガムテープ全てを切り裂いて行く。やっと今開けたばかりの箱の中に未整理の薬品が充満していた。
「……整理、してなかったの?」
 そんな事は無い筈なのに、クインの眠たそうな目がまるで責めている様に感じてしまう。ヴォイドは少し目を伏せると小さくポツリと呟いた。
「ごめん……」
「…良いのよ。まだ病み上がりなんだし。悪いんだけどミア、ちょうど良いからこのまま手伝ってくれるかしら?流石に三人も居ればすぐ終わると思うわ。先生達と患者さんには少し待っててもらって」
「そうですね!三人でやれば絶対すぐ終わります!!」
 しかし、ヴォイドの顔は晴れやかにならずむしろ伏せた目の闇が深まるばかり。
「すみません、アキ先生から処方箋が出たのですが、薬品庫に在庫が足りなくて…」
「あ、フユ。ちょうど良いわ、貴方も手伝って。そうなると今度人数多過ぎるから、ヴォイドは先に休憩入って」
 クインにそう言われ、カッと目を見開いたヴォイドは慌てる様に彼女を見た。
「え…な、何で…?」
「え?今言った通りよ?フユが入ってくれるなら効率的にやれるからその方が良いわ。それに、ヴォイド何だか疲れてるみたいだし」
「だ、大丈夫…だよ」
「……大丈夫じゃなさそうよ?美味しいものでも食べて一度リセットして来なさいな。その方が良いわ」
 そう言われて諦めたのか、とぼとぼと部屋を出るヴォイド。ミアはその背中を見ながら心配そうにきゅっと唇を噛んだ。
「ヴォイドさん…大丈夫でしょうか…?」
「…私にはヴォイドもそうだけど、貴女の事も最初大分心配してたんだけどね」
「ほ、本当ですか!?嬉しいです!」
「思った以上に元気そうでむしろ驚いたわよ」
 とりあえず処方箋で出た分を先に除けるとそれを各々薬剤師に確認を取りに行き、そして患者に手渡した。休む間も無く裏に戻ると備品整理を再開する。クインが戻った頃には既にミアがおり、精力的に仕事をしているところだった。
「……ミアは強いのね…」
「はい?」
「いいえ。こっちの話。それより、彼は元気なの?」
 眠たそうな目のままクインはそう尋ねる。ネビロスとは寄ると触ると険悪な関係になってしまう彼女の事を知っていたので少し意外に思いつつも、心配してもらえた事が嬉しかったミアは頬を赤らめて元気に笑った。
「はい!元気です!この間も夜は一緒に映画を観てそのまま寝ちゃったんですけど、ネビロスさんもゆっくり寝れたみたいです!『こんなに良く眠れたのは久しぶりです』って、驚いてました!」
「ふーん…」
「…たまにお仕事に行きたそうにしてます。焦りとかネガティブな理由じゃなくて、お仕事が好きだって言ってました!」
「へぇ…そうなのね…」
 彼女の表情からは真意は読み取れない。しかしミアに対しては嬉しそうに微笑みを見せ、「前向きみたいで良かったわね」と呟いた。
「でも…だとしたら、ミアとロリコン木偶の坊は順調そうなのは良かったけど…ヴォイドは一体何を悩み始めたのかしら…?」
 ぽつりとそう零すクインにミアもうんうん頷く。
「私も気付きました。ヴォイドさん、何か考え事してるみたいって…」
「珍しいわよね。あまり悩まなそうなのに」
「クイン先生、ミアさん…ヴォイドさんもしかして退院する時に…検査で何か他の異常が見付かってしまったとかでしょうか…?」
 後ろからフユも話に入り込み、そう口にする。
 クインは少し考えたが、少なくとも医療班への通達事項にそんなものは無かった気がする。つまり、業務に差し障るだけの物は起きていない筈なのだ。
「アキ先生や…他の先生方にお伝えした方が…?情報共有は必要かもしれません」
「…待ってフユ。多分それには及ばないと思うの。内容は分からないけど、検査で異常が出たわけじゃ無いみたいだし、一時的なものだと思うわ。このまま仕事に支障が出るなら考えものだけど、とりあえずあの子が自力で立ち直るのを待ちましょう」
 理由の分からない物に立ち直るも無いかもしれないけど。そう思いつつクインはヴォイドの身を案じた。

 * * *

「はぁ……」
 食堂で料理一人前を平らげ、足りないと購買でサンドイッチと菓子パンを購入し、穏やかな日差しが暖かい中庭でそれを食べる。いつもより一口が小さい気がすると自覚しながらももぐもぐ食べつつもヴォイドは先日のロードの態度を気にした。
『おやおやいつのまに退院されていたんですね』
『では、無理せずお大事に』
 彼の事だからもう全て把握していて、むしろそれを表に出して来て自分の気持ち悪がる姿を見て喜びそうとすら思っていたのに。まるで関心が無さそうにそう言い放ったロード。
 いつしか彼が自分に愛を囁く事を当たり前に思っていた。そうなるとあの態度は同僚としてごく普通の姿に戻っただけなのに、何故かこんなにも突き放された気持ちになってしまう。
 ──突き放される。
 そう考えると何故か体が震える。きゅっと体を抱き締め、きっと寒いからだと一口を大きくしてサンドウィッチに食らい付く。あまりに勢い良く食らい付き過ぎて少しだけ咽せる。咽せて涙目になって、何故視界が歪むのか少しだけ考える。
 涙が出てくるのは、ただ咽せてしまったから…と言うだけ?それとも、他に理由が?
「あれ?ホロウ君?」
 その時、ガサガサと音を立ててユウヤミが植木を掻き分けるように現れた。
「ユウヤミ…?何でそんなところから…?」
「ん?ヨダカから逃げようと思って。酷いよねー、私まだ病み上がりだって言うのに全然手を抜いてくれない。機械人形って人間がする様な空気読みしてくれないんだものねぇ」
「……嘘。ユウヤミだったら逃げられちゃう癖に。ヨダカもそれ分かってて手を抜いたりしないんだよ」
「ははは、まぁねぇ。否定はしないよ」
 服に着いた葉っぱを落としながらヴォイドに近付くユウヤミ。葉っぱと共に小さな尺取り虫が付いている事に気付き、一瞬だけそれを摘んだユウヤミは少し強めに指で弄ぼうとしたが、目の前にヴォイドが居る事を思い出して逃がしてやった。彼女の前では何だか虫すらも殺しづらい。
「…で?ホロウ君は何を悩んでいるのかな?」
「え?」
「何か悩んでるでしょ?珍しくちょっと顔に出ている気がしてね」
「……悩んでる…のかなぁ…?」
 ヴォイドの様子を見てユウヤミは顎に手を当てると「ふむ」と声を上げる。何となく浮かない顔をしていたので声を掛けたが、本人もよく分かっていない不調の様だ。
「うーん…じゃあ、何か考え事でもしてた?ここ最近で、何か身の回りに変化でもあったかい?そうは言っても病み上がりだからね。もしかしたらホロウ君も勝手の分からない事とか出て来たんじゃないかと思って」
 この聞き方なら話しやすいかと言葉を選ぶ。『身の回りの変化』と聞かれると思い当たる節もあった様で、ヴォイドは小さく口を開いた。
「うん…あのね……」

for no reason I hate it.

「やぁ、マーシュ君は居るかな?」
 人事部にやって来た突然の来訪者にエーデルはついつい固まってしまう。彼の人柄がとか、彼の噂が、苦手意識が、と言うのはこれと言って無いのだが。前線駆除班が人事部に来る時は大概がシフト調整かそれに関する異議申し立ての事が多い為つい構えてしまう。
「ああ、失礼。前線駆除班第六小隊小隊長ユウヤミ・リーシェルです」
「ぞ、存じております…」
「エーデル?どうしたの?」
 部屋の奥からやって来たヴィーラ、シーリアも珍客の姿を視界に捉え「足早の黒猫シャノワールだ…」とボソリと呟いた為ユウヤミは答える様に人の良い笑顔でにこりと笑った。
「突然来て申し訳ないねぇ。あ、今日は仕事の件で来た訳じゃなくて完全プライベートでマーシュ君に会いに来たのだけれど…彼は居るかな?」
「あ…は、はい!マーシュさんは新規勧誘課なので…デスクはあっちなんです…!!」
 少し照れまじりに「呼んで来て良いですか!?」とヴィーラが声を上げる。そんな彼女にハッとした顔を向けるエーデルとシーリア。なるほど、この金髪の彼女が一番抜け目ないのかな?と分析したところで意外そうな顔をあからさまに携えたロードがやって来た。
「え…?リーシェルさん…?」
「やぁ」
「どうしたんですか…?珍しいですねぇ…」
 その呆けた顔に少し苛立ちを覚えたユウヤミ。
 そうそう聞いておくれよ、と大袈裟な身振り手振りを繰り出すとエーデル、ヴィーラ、シーリアの三人が戻る前に普通に話を始めた。
「ちょっと君が懇意にしている人が悩みを抱えていると小耳に挟んでね」
「は、はぁ……」
「君ととてもとても近しい人なんだ、何か聞いていないかい?」
「近しい…?シキ…いや、クロエですか…?でも前線のリーシェルさんが来るのだから…?すみません、私には心当たりが無いのですが…」
「え?分からないかい?あれれーおかしいなぁ、君は殊更美女・・の事なら物覚えが良いと記憶していたのだけれど?」
 ユウヤミのわざとらしいその一言にロードの笑顔が完全に固まった。なんて事を口走ってくれるのだ、ここにはまだ同僚の女性が三人も居るじゃないか。
「あれー…?ならば私の記憶違いなのかもしれないねぇ?君の懇意にしている人の中でも特に豊満な胸囲を持ち薬品の香りがむしろ芳しくも思えるそんな人の事なら一挙一投足見逃さずに居るものと思っていたよ私はいやーうっかりうっかりあんなに目で追うから懇意にしている美女の事なら何でもお見通しなのかとそっかそっか君が追っていたのは彼女の臀部と胸囲だけなのかなぁー?」
 笑顔でそんな事をしっかり言い切る為か早口でベラベラと饒舌に口にするユウヤミ。ロードは真っ青な顔色で彼の肩を掴むと出入り口の方へと珍しく乱暴に押しやった。
おっといけませんねリーシェルさん!その方お悩みでいらっしゃるんでしょう!?そんなに個人情報をベラベラと喋ってしまわれてはプライバシーも何も無いじゃありませんか!こうしてはいられませんね!一刻も早い問題解決の為にそこの空き部屋を借りましょう!そしてそこでお話聞かせていただきましょうかさあすぐにでも!!
「あっそ。お嬢さん方、どうやらマーシュ君は悩める社員の為に時間を割いてくれる様だ。そう言う事だから申し訳ないねぇ、ちょっと彼をお借りするよ」
 唖然とする三人を余所にいそいそと空き部屋へと移動するロードとユウヤミ。
 エーデル、ヴィーラ、シーリアの三人はぽかんとした表情のまま互いに顔を見合わせると誰からとも無く声を上げた。
「……リーシェルさん、結局何だって?」
「は、早口過ぎて何が何やら分からなかったわ…」
「え?でもロード様聞こえてたのよね…?だから空き部屋に連れてったのよね?」
「ロード様も意外と早口でよく分からなかったわ…」
「でも…でもでもロード様…!!あんなに早口でも噛み倒す事なくしっかりとお話なさるなんて…!」
「そうね…!スキャットみたいなお歌まで似合いそうね…!」
「ロード様のお歌…!!」
「「「聞きたーい!!」」」
 幸い三人は違う話にシフトしてくれたおかげか、或いはそもそもユウヤミの言葉が耳に上手く入らなかったか、ロードが聞かれたくないと思って居た不穏な言葉は華麗にスルーされたのであった。

 * * *

「……ふぅ、さて……」
 部屋に入ると電気を点けるのもそこそこにロードはユウヤミを壁際まで追いやる。例えるならさながら壁ドンの如く、両手を突いて逃げ場を失くさせた上でロードは珍しく目が全く笑って居ない顔で努めて口元だけでも笑みを浮かべにっこり笑った。
「ふむ。私的にせめて電気は点けて欲しいのだけど?」
「うふふ、すみませんねぇ急いてしまって」
「急いては事を仕損じるって言葉があるよ」
「もう既に色々仕損じている気がして堪らないんですよ私は。全く、あんなお嬢さん方の前であんな話出して悪戯っ子さんですねぇ貴方は」
「え?そんなに秘匿な話だったかな?いやいや、すまないねぇ。私にとって大切な大切な友人が思い悩んでいるものだからついつい慌ててしまってねぇ。その友人がどんな人か説明しようと思ったら身体的特徴を挙げた方が君も分かりやすいかな?と思ったからさ」
「うふふふ、お心遣い痛み入ります」
 上品で感謝しているかの様な言葉とは裏腹に、その裏にバチバチとした敵対心を抱えてロードとユウヤミは互いに笑顔のまま睨み合う。その内すっとロードの腕に手を伸ばすと、まるで壁を叩く様にコンコンと拳を当てた。
「いい加減この体勢、画的にキツいからやめて欲しいのだけれど?」
「うふふふふ、逃がさない様にしようと思ったら壁ドンが一番じゃ無いですか」
「そんな事しなくても逃げないよ、私だって話す為に人事部まで来たのだからね」
 さぁ、さっさと離れて電気を点けてくれたまえ。
 ユウヤミにそう促されロードは体を離すと電気を点けた。部屋の中が一気に明るくなり、暗い空間が明るい空間に早変わりしたからか人知れず二人とも瞳孔がキュッと絞られる。
「……で?貴方は何の用事で来られたので?」
「さっき言っただろう?大切な友人が思い悩んで居るから相談をしに、だよ」
「そんな穏やかな感じしませんけどねぇ…貴方の顔を見ているとそれ以上の何かがある気がして仕方ないのですが?」
「うーん、そうだねぇ。確かに、説教くらいはしたいと思っていたかな?」
 相変わらずの笑顔を浮かべるユウヤミ。しかしロードは人事部と言う立場上かその性質故か、彼の笑みが本心からのものでは無いと何となく察していた。彼の言い含みと笑顔が全く釣り合わないので何か文句を言いに来たのだろうとは思っていたのだ。
「……んー、貴方に色々言われる心当たりは無いのですが?」
「それがホロウ君の話だとしても?」
「だとしたら余計に、です。私は彼女を推してますからね。彼女に関して貴方から説教を受ける様な心当たりは本当にありせんし、あったとして貴方はどのお立場からの説教なのでしょう?一友人としてと言うのなら、その一友人程度の方が何か言う程の事なんて尚更記憶にありません」
「ふーん…」
 ロードにしては棘のある言葉。どうやらヴォイドに関して、と言う話題をユウヤミの口から発せられると言うのは彼にとっては相当プレッシャーの様だ。
 分かりやすいなぁ、とユウヤミは心の中でそっとツッコミを入れる。いつに無く分かりやすく余裕の無いロードの姿に少しだけ加虐心がくすぐられたが、思い悩んだ顔をして自分に胸の内を吐露したヴォイドの顔を思い出すとユウヤミの顔は仮面の様な笑顔に染まった。
「マーシュ君、ここから先はあくまで私個人の想いと言うか、極めて公平性を欠く感想を述べるけど良いかな?」
「何です?そんな藪から棒に」
「うん、本当あくまで私の感想なのだけれどねぇ……」
 ユウヤミの脳裏にヴォイドの顔が蘇る。思い悩んで、けれど何が自分にとって悩みなのか分かっていないそんな顔。生まれて初めてとも言えるあらゆる自覚を持った彼女はやはり、愛の日に感化された一人だ。
 ころころと変わる「生きている」彼女の顔を引き出していながら、彼女の「自由」な顔を脅かしてもいる。理由はどうあれ彼女の心を時に揺さぶる、彼女の「自由」を奪いかねない。そんなロードは矢張り、嫌いだ。
『うん…あのね……私、おかしくなっちゃったのかもって、最近そう思うの』
 それでも、自分がそう思うだけでヴォイド本人の「自由」が本当に損なってしまうとも限らない。彼女自身は、誰か人に頼る事で逆に安心して自由を謳歌して居られるタイプかもしれないのだから。
 だからこれはすこぶる個人的な、公平性の欠けた「感想」だ。
『え?おかしい?もしかしてどこかまだ具合が悪いとか?』
 ユウヤミは自分が誰かの身をこんなにも心配する事があるのかと驚いた。そして、その身を案じた相手を今悩ませているのが『彼』だと知り、彼女の心を蝕んで居るのが『彼』だと知って苛立つ自分にもまた驚いた。
『ううん、体は平気。そうじゃなくて……ロードが……』
「え?」
 よりにもよって、『彼』の名が出るか。
 ユウヤミは自分の返事ながら随分と間抜けで素っ頓狂な声が出るもんだと少しだけ嫌になる。何だかこの空間でこの素っ頓狂な声が随分と響いた様に感じた。
 しかし、ヴォイドの顔色を見るに少なくとも彼女にとって事態は深刻なのだ。それが余計に嫌に思えてしまう。
「マーシュ君…?マーシュ君がどうしたの?何かされた…とか?新規勧誘課とは言え彼も人事部だからねぇ。無茶なシフト組むとかも有り得るのかな?」
 彼女が多くを語らない中にも見えて来るものはある。彼女を悩ませているのがそんな事・・・・では無いなんて事くらい分かってはいるのだが、あくまで何も知らない体で話を進めた。案の定ヴォイドはぶんぶんと首を振り、しかしほっとした様な顔をユウヤミに向けた。
「ううん。そんな事…されてない。あ、アイツは多分、仕事は真面目だから…」
「じゃあ…君を困らせているのは何だろう?」
 その質問にヴォイドはまた彼女らしくなく目を伏せてしまう。ユウヤミが心配そうに顔を覗き込むと、ぐいんと勢いよくヴォイドが顔を上げた。
「わ、私……困ってるのかな……?」
 何故か質問に質問で返される。ユウヤミは「そうだねぇ、私には困ってる風に見えたかな?」といつもの笑みを浮かべた。ヴォイドの顔からはただひたすらに困惑が見て取れた。
「ロードって……いつもの調子がどんな感じか、ユウヤミは知ってる…?」
「ああ、まぁね。彼、普段はそうベラベラ話さないけど聞けば答えてくれるから。君のファンだって言うよねぇ」
「ファン……」
「君の事、気に掛けてるとは思うけどねぇ。それ以上の事はまぁ、分からないかな」
 普通の人・・・・が分かる範疇を表に出すならばこんな感じか。
 ここにはユウヤミなりの気遣いがあった。
 言葉への反応や、顔色。発する言葉のチョイスや言い回しから人の隠したい事を察する事が得意ではある。しかし、そんな事せずとも分かってしまうほど先日の誘拐事件においてロードの感情の起伏は激しいものだった。何度もヴォイドの名前を呼び、愛おしむ様に頬に手を添えた彼。確かにその姿は普段彼が極力表に出さぬ様努めているものではあるし、彼のその姿や普段の彼女の反応から二人の間に並々ならぬ何かがあったと言うのも察せられる。
 だが、人の思い出には外部の者が踏み込んではいけない領域と言うのがある。例え見て推測が出来ると自負していても。傍目に見て推測するだけと、その推測が正しいか追求して確認を取るのは違う。
 そして多分これ・・はその類のものだ。
 ヴォイドが自分から話そうとしてくれるまで聞いてはいけない。少なくとも同性同士の友人でも無ければ、異性で恋人と言う距離にも無い自分がおいそれとストレートに「ロードと何があった?」と聞いて言えるわけがないだろう事だと思った。現にユウヤミの前で彼の名前を出すのも少し躊躇っていたくらいなのだから尚更だ。
「そのマーシュ君が、どうしたの?」
 だからあくまで、二人の間にありそうなよく分からない過去に微塵も気付かない様な、そんな自分を装って話を進める。ヴォイドは聞かれなくて少しほっとしたような、気付かれなくて良かったとでも言いたそうな顔でユウヤミを見た為、ユウヤミも「これが正解かな?」と素直に喜んだ。
「ううん…多分、ロードの反応が普通だって分かってる。分かってるんだけど…何か、物足りない感じしちゃって…」
「物足りない?」
「うん…いつもと違ってちょっとうるさくないって言うか。いつもみたく来られたら…多分『うるさい』って思っちゃうのに…『絶対に来られるな』って思ってた時にそれが無いと…何か物足りないと言うか…」
「あぁ、なるほど…」
「だけど…それでもやっぱり来られたら来られたで『うるさい』って思っちゃう気がするの…」
 わがままかな?と心配するヴォイドの目に生きている色が付いている気がしてユウヤミは少し嬉しくなる。半年程前、出会ったばかりの頃はその可能性はあれどまだまだ人間らしさがあまり無かったヴォイド。彼女の変化は実に面白い。彼女にとって大変悩ましい事があったと言うのは分かっている。しかし、不謹慎かと思いつつ今の悩める彼女の姿もまた面白味のある変化だと観察してしまう。そして彼女は心配しているその「わがまま」だが、少なくとも今は友人としてユウヤミは許容したいと思った。
「わがままなんかじゃあ無いよ」
「……本当?」
「そうだねぇ。要は、『今の状況から変化して欲しく無い』ってホロウ君は思うのだろう?状況も、それから人の在り方も。変化を好まず、変わらないまま居て欲しいと思うのは今が満たされているなら至極自然な事だと思うよ」
「そっか…」
「それに、誰だって人に気遣って貰えたら嬉しいからねぇ」
 愛の日、私を探してくれた君に申し訳なさと同時に感じた羨ましさがそれかな。
 …とは言えず。しかしとりあえずユウヤミは今のヴォイドにとっての結社の暮らし、地上の世界が居心地の良いものだと気付いて嬉しくなる。
 そしていつか彼女にそうした様に、壁に手を突いてヴォイドの逃げ場を塞ぎ、彼女の瞳をじっと見つめた。予期せぬユウヤミの行動にヴォイドもじっと見つめ返す。ユウヤミはそれを見てふっと微笑むと、嬉しそうに彼女の髪に触れた。
「……前はこうした時逃げたのに、逃げなくなったね。ホロウ君」
「え?そう…?」
「人からの想いとかそう言うものを避けずに受け止められる様になって来たって事だとしたら、確かに物足りないマーシュ君って面白くなさそうだよねぇ」
 そう言うと、『やっとしっくりくる言葉が見付かった』と言わんばかりに「そう、面白くない」とうんうん同調するヴォイド。もしかしたらさっきまで本心は別にあったのかもしれないけれど、だとしてもヴォイドも気付いてない事に関してはノーカンだとユウヤミは心の中で悪戯っ子のように舌を出した。
「そうそう、本当面白くないよねぇ」
「うん、面白くない」
「物足りないよねぇ」
「物足りない」
 理屈が分かってすっきりしたと人知れず喜ぶヴォイドを見て、ユウヤミは安心すると共に少しだけ考える。惜しいな、彼の言う『推しへの愛』がこんなにあっさりしたものだと考えたら確かに惜しい。そして面白くない。
「マーシュ君に…少しだけ発破を掛けるかな…?」
 ボソリと呟くと彼女と別れ、その足で人事部へと向かったユウヤミ。

 ──そして今に至る。
「うん、本当あくまで私の感想なのだけれどねぇ……マーシュ君、君の存外にすっとぼけたところには私は少し呆れているよ」
「す、すっとぼけ!?」
「だって君、推しだの何だの言う割にはホロウ君の事見てないなぁって」
 おそらくユウヤミの一言一言がロードにグサグサと刺さっているのだろう。彼は強張った笑みを浮かべたままそれを聞いていた。
「ホロウ君、君の事で少し悩んでいたのだよ。なのに君がそれに気付かないばかりか『彼女に関して貴方から説教を受ける様な心当たりは無い』とか言ってくれてさ。いやいや、君の言う推しだの愛だのってその程度かってね。気付かないにも程があるよねぇ、がっかりだよ本当」
 ユウヤミの言葉にロードは完全に笑みを失い、真顔になる。ああ、いつものアレが作った顔かとユウヤミはまじまじと観察する。こうして真顔になった彼は本当にこれと言った特徴が無く、まるでモブ大衆の一部の様だった。
「え…?ヴォイドが…?一体何を…?」
「何って君、彼女に冷たい態度を取ったのだろう?」
「いやいやいや!?取ってませんよ!?」
「少なくとも彼女にとったら充分冷たかった。君は・・そう思っていなくともね」
「…そう言われますと……」
「でも、こう言う事柄において自分がどう思いながらやったかも大事だけど、受け取る相手の感じ方が第一だろう?相手が喜んでくれなきゃサプライズが自己満の押し付けになって終わるってのと同じさ」
「……はぁ、それもそうですね…」
「君らしくない態度を彼女は冷たいと感じた。真実として今あるのはそれだけだよ」
 ユウヤミにそう言われ、ロードは考えを巡らす。彼の中にも一つそう言われるだけの心当たりがあった。確かに、自分でも避ける様だったと思ってしまう彼女への態度があったなと。しかし同時に、自分がそう思う態度を彼女も同じ様に受け止めたと思うと、日頃の接し方がほんの少しでも彼女に自分の気持ちとして伝わっていた様な気持ちになる。彼女を悩ませた事を申し訳なく思う一方、嬉しい気持ちがロードを満たした。
「……君、そんな崩れた顔もするのだねぇ」
「え?」
「今すっごい情け無い程締まりのない顔してるよ。君のファンが見たら泣きそうだ。居たらの話だけれどね」
「くっ……何から何まで棘のある方ですねぇ…」
「当たり前だよ。だって私の大事な友人をこんなにも悩ませたのだからね」
「ふん……それは本当に『友人』ですか…?」
「何が言いたいの?」
「いいえ。本当に『友人』なだけなら、私も天敵が一人減って嬉しい限りなんですけどねぇ」
「…ああ、そう言う事。さぁ?どうだろうねぇ?人の気持ちなんて移ろうものでしょ?確定されたものなんて無いよ。ましてや人間なら」
 その言葉にロードは目を丸くする。何となくユウヤミはそう言った感情が乏しく、いくら傍目に仲良く見えるヴォイドに関してであっても「友人として」で留めると勝手に思っていた。むしろ「友人」と言う括りで人を扱う事すら珍しいのでは無いのかとすら思っていた。それが、「友人」として以上の気持ちを持つかどうかも確信は持てないと言われるとは。
「……貴方となると、うかうかしていられませんねぇ。童貞みたいな羞恥心の拗らせ方していたらあっと言う間に掻っ攫われそうです」
 もう一人頭に浮かぶのは、砂漠色の髪の毛の三つ編み。
 ユウヤミも同じ事を考えていたのかふっと笑うと「それはそれは、光栄だよ」と本心か分からない言葉を口にする。
「何にせよ、いつかその時が来たら決めるのは彼女だよ。その時まで精々愛想尽かされない様な行動言動を心掛けたら?」
「…ほんっとに今日はまた随分と棘のある…」
「君だって。まさか彼女が不安に感じる様な当たり方をうっかりとは言えすると思わなかったよ」
 ほぅらね、人の心は移ろうだろう?
 若干ねちっこくそう呟くユウヤミ。ロードは「肝に銘じておきます」と一言返した。
「あーあ。私の昼休みは君にかまけて終わったかな?」
「随分な言い様ですね。私もいきなり来られた貴方からの説教で終わったのだからどっこいどっこいですよ」
「ふふ。まあ、大事な友人に悪影響及ぼしそうな人間に釘を刺せたから良しとしようかな?」
「ええ。私も、好敵手の存在とその危険性をはっきりと確認出来て良かったですよ。それから彼女が少し私の事で揺らいでくれていた…なんて事も知れたので…」
 思いの外晴れやかな顔で部屋に戻って来たロードとユウヤミ。エーデル、ヴィーラ、シーリアの三人は心配そうな顔を携えおそるおそるロードに近付いた。
「あ、あのー…マーシュさん?大丈夫だったんですか?」
 ロードは一瞬何の事か分からなかったがすぐにユウヤミとの問答の事を思い出し一瞬青くなる。全く、この女性達を前に「君が追っていたのは彼女の臀部と胸囲だけ」などと口走ってくれたのだから。しかしロードの心配をよそにエーデルもヴィーラもシーリアも、訪ねて来たのは「ユウヤミに何を言われたか」や「結局誰が悩みを抱えていたのか」等であり、ロードの心配するスキャンダルな部分には触れて来なかった為ほっと一安心する。とは言え結局何も考えていなかったのも事実なので、咄嗟に口を開いた結果「シキが…」とロードは続けてしまった。
「シキ・チェンバース君…?彼がどうしたんですか?」
「えっと…何だか恋愛の事で悩んでいた様でして…それをどうやら先日の仕事で一緒になってその場に居たリーシェルさんにたまたまお話しした様でしてねぇ…」
「だからリーシェルさん…!」
「頭の良いリーシェルさんに聞くくらいだから相当複雑な恋愛をしてるのね…チェンバース君…」
「長身男子の恋愛……」
 恋愛の話のれの字も無ければ、そもそもそう言う感情あるのかどうかも分からない。総務部のリアムの娘、リリアナの方がよっぽどちゃんと恋愛をしているとすら思う。世の五歳児の方が早熟である。さながらシキの精神年齢は三歳と少しでは無いかと思う程には縁遠く思えた彼に恋愛の悩みと言うのは無理があったかもしれない。
 数日後、総務部でフィオナ経由でその話を聞いたクロエは「さては兄さん、何か焦って口から出まかせで適当言ったな」と何かを察したのだった。

a little bit better.

 ふんふんとご機嫌な鼻歌を歌いながらヒギリは冷蔵庫からケーキを取り出す。ラムの良い香りが漂うちょっぴり大人な風味を想像させるそのケーキ。待ち切れないと言わんばかりに席に行く前にスポンジの上に乗っていたフルーツを摘み食いしたヒギリは嬉しそうに蕩けた顔をした。
「美味しいー…」
「何食べてるの?」
「ひゃあっ!!?」
 キッチンの奥。まさか普段居る誰か以外に声を掛けられると思っていなかったヒギリは思わず大きな声を上げる。彼女に声を掛けた本人は困惑した様な表情を浮かべて何も言わずそのまま佇んだ。その人が少し傷付いている様にも見えてしまいヒギリは慌てて苦笑いを浮かべる。その人──ヴォイドがトレーの返却口から中を覗き、声を掛けて来たのだ。それは普段ならやらなそうな行動であり、ヒギリも思わず本当に本物のヴォイドか確認したくらいだ。
「で?何食べてるの」
「…もしかしてヴォイ姐、食べ物の匂いに釣られて覗きに来たとか言わんよね?」
「動物じゃあるまいし匂いなんて分かるはず無い。の助がいそいそと冷蔵庫に向かったから何があるのか見てただけ」
「見て判別してたの?結局野生的って意味では食べ物の匂い察知したのと似たり寄ったりだなぁ…」
 そうは言いつつ、一つしかないケーキを特に嫌な顔せずナイフで切り分けたヒギリはその分けた半分を皿に移し、ヴォイドの前に置いた。今度驚きで目を見開いたのはヴォイドだった。
「何で」
「だってヴォイ姐、食べたいんでしょ?」
「食べたいけど…それしたらの助が損だ…」
「ソン?損得の『そん』?何言ってんのー?ンな事気にしなくて良いんよ」
 ほれほれ、食いねぇ。
 そう促されヴォイドはヒギリからケーキの乗った皿を受け取る。ヒギリはにっこり笑うと一言「美味しいものは半分こ」などと言うものだからヴォイドは困惑してしまった。
「……美味しいものだからこそ、一人でいっぱい食べた方が良い」
「そう?また買いに行けば良いだけの話じゃない?」
「だってこんなもの…今度いつ食べられるか分からないし」
「………」
 ヒギリは何故ヴォイドとの会話がこんなにも噛み合わないのか気が付いた。ヒギリは普通の家庭に産まれ、普通に生きて来た人間。しかしヴォイドは岸壁街で産まれ、岸壁街で生きて来た。
 このマルフィ結社には出身が岸壁街と言う人間が多くいる。ヒギリと親しい間柄ではテオフィルスやヴォイド等がそうだ。だからと言って差別はしない、そうヒギリも思っていた。だが、テオフィルスは形はどうあれ外の世界に触れる事もあった様である程度予備知識もあったがそれが全く無かったらしいヴォイドとは、知り合ってまだ日が浅い頃彼女の服や髪にこびり付いた下層の異臭に顔を顰めた事もあった。
 鼻が曲がりそうなその臭いであっても、慣れているのか平気で過ごしていたヴォイド。彼女がふらっと食堂に現れた時、やむを得ず「窓際の風通しの良い席に行くかテラスの方に行ってくれないか」と声を掛けたのがヒギリとヴォイドのきっかけだ。
 同じ人間なのだから尊重されるべき。岸壁街で生まれ育ったからと言って差別されるべきでは無い。そう言う人間は多いだろう。ミサキやアン、マジュも上層ではあるが岸壁街出身だ。層に違いはあれど、意外と岸壁街の出の者は多い。
 だからこそ、差別はするべきでは無いが区別は大切だ。何でも皆同じと受け入れていたら今度はそれを良しとしない人間の権利が無くなる。
 だってそうだろう。確かに不当な差別は無くすべきだが冷静に考えて一体誰が岸壁街下層の異臭を身に纏う人間と同じ空間、同じ時間に積極的に食事を摂りたいと思うのか。少数派な状況に居た者、少数派な意見を言う者。皆尊重はされるべきだ。だが、群れを為して生きる以上ある程度群れの一員としてそぐわない行動を取らない様に心掛けるのも大切だ。
 結社は、岸壁街の人間と一般家庭の出の人間との間の壁を効率的に取り払う為にこと衛生面に積極的に力を入れ「岸壁街出身」などと言わなければ全く分からない程にその辺りの悩みを解決して久しい。壁が払われた今、ヒギリはヴォイドがそもそもその出身故に根本的に大前提としている感覚が違うのだと言う事を忘れていた。
 ヴォイドは明日食う物にも困ると言わんばかりの生活が当たり前だった。しかし、ヒギリはお小遣い次第ではたまの贅沢が出来る普通の暮らしだった。また買えば良いや、で人に分け与えられる余裕が当たり前で、しかしヴォイドはそんな事をしてしまったらどこから崩れるか分からないそんなギリギリの生活を送っていた。
 その違いから、ヴォイドはヒギリを心配したのだ。「分け与えて後悔しないか?」と。損や得をすぐに持ち出す彼女に一瞬耳を疑う事はあるが、生い立ち故の優しさからだと分かってすぐにヒギリは微笑み返した。
「大丈夫!またすぐ食べられるよ!それより今は、せっかくヴォイ姐に見付かっちゃったし一緒に食べたいんよ」
「本当?」
「もー…本当だってば!それに、一人で全部食べたいならちゃんとそう言うもん」
「……そっか」
「そうだよ!私がヴォイ姐に言えずに我慢するなんて事あるわけないでしょ!?特にケーキの事なんてさ!」
「うん、そうだね」
 ヒギリも席に着き、二人でケーキを口にする。
 生クリームと共に添えられていたオレンジピールを口にすると、特有のほのかな苦味と甘酸っぱい爽やかさが何とも言えず鼻腔までくすぐった。
「添えてある果物がもう美味しい…」
「でしょ!?きっとケーキも食べたらヴォイ姐もっと気に入ると思うよー!」
「うん」
 ふわりとスポンジにフォークを突き立てる。口に運べば、熱い様な感覚と高揚感がヴォイドの体に広がった。
「あ、ヴォイ姐運転とかしないよね?免許持って無かった気がするし。いやー、これ一応お酒入ってるからさー。運悪く取り締まりとかしてるところ通り掛かったら呼気とかで捕まっちゃうかも?って思って!」
 あはは、と笑うヒギリの横で人知れず見る見る顔を赤らめていくヴォイド。酒に少し弱いとは聞いていたがその程度の認識しか無かったヒギリの横で、ヴォイドは虚ろな瞳のままにこりと微笑むと──
「………ひっく…」
 ──本当に小さく小さく、一つしゃっくりをかました。

 * * *

 ふんふんとご機嫌な鼻歌を歌いながらロードは引き出しから印鑑を取り出す。手早く目を通した書類にそれを押すと、綺麗に纏めて机に置いた。
 外回りから帰ったベンはその一部始終を眺め、ロードの隠しきれない上機嫌さに何とも言えない笑みを浮かべた。
「随分ご機嫌だなぁ…」
「おや?お帰りなさいベン。朝から面接でお疲れでしょう?コーヒーでも淹れましょうか?」
「ロード、上機嫌過ぎてちょっと怖い」
「うふふふふ、そうですかねぇ?」
「でもそれとこれとは別かな?コーヒーは貰うとするよ」
「うふふ、ええ。良いですよ」
 二人にキラキラした目を向けるエーデル、ヴィーラ、シーリア。ロードは彼女達三人にもにこりと微笑むとベンのそれとは別にティーバッグの入った缶を取り出し用意を始める。その様子を眺めていたタイガはメモとペンを取り出すと何やら細かく書き始めた。
 些細な事情から髪が黒くなり、まだ普段よりも髪色の暗いタイガ。そんな彼の背後で濃紫が揺れた。
「……『出来る男は周りを見て茶を淹れる』?何書いてんすかタイガ氏。妙に的を得てるんだかいないんだか分からん事書いて…」
「わわわっ!!バ、バババババートンさん!?」
「何かニコリネ氏と似た様な驚き方しますね……ところで、ウチの兄さんは……ああ、そこに居ますね。本当、地味顔な癖に妙な目立ち方しやがる」
 何だか珍しく当たりのキツいクロエが後ろからタイガのメモを覗いていた。ロードは確かにクロエが結社に入社した頃から彼女の保護者の様な立ち位置になっているが、気心知れた仲なのは良い事だがいくら何でも「地味顔」は無いだろうとタイガは思った。
「…バートンさん、ロードさんに何か用?」
「兄さんに外泊許可を貰いに来たんです」
「へぇー…いつ外泊?」
「一応、早い内にとは思っていますがまだ未定です」
「……未定なのにもうお話するの?」
「ええ。絶対反対される事必至なので」
 そう言うとずんずんとロードに近付く。そしてキャーキャーと色めき立っているエーデル、ヴィーラ、シーリアの三人の後ろからぬっと顔を出すとがしっと彼の肩を掴んだ。
「おや?クロエ、どうなさいました?」
 黄色い悲鳴から完全にどよめきに変わったロード親衛隊。それもそうだ、いきなり険しい顔のクロエが近付いて来たら皆何事かと思うだろう。ただでさえ先のネビロス失踪事件で、クロエを「冷静沈着な若者」と言う印象から「未成年を危険な目に合わせたエキセントリックな女」と見做すメンバーも増えた。しばらくは彼女が何か言いたげな顔をすると構える人間の方が多い筈だ。
 エーデル、ヴィーラ、シーリアが見守る中、ロードの肩を掴んだクロエは彼の目を真っ直ぐ見つめると意を決した様に口を開いた。
「……私、近々社会勉強で数日出掛けたいんですけど。無論、場所が場所なので外泊込みで」
 『外泊』。その単語にロードの眉はピクリと動く。傍目には変化の有無の分かりづらい表情ではあるがクロエは目敏く気が付いた。何故なら面倒臭い事になる空気を感じ取ったからである。
「ほぅ、外泊ですか。それでどちらへ?またベーコンおじさんのところですか?」
「いいえ。今回の社会勉強は牧場の経営状況について、そして牛の生育の場を見学とお手伝いも兼ねてイコナに行く算段を立てています。ここです」
 クロエの手にしているものはその『お世話になる予定』の牧場のエンブレムが印字された牛乳瓶。それは知る人ぞ知るイコナの名産で『特別牛乳』と呼ばれる高級牛乳であった。デフォルメされた可愛らしい猪のマークを前に一瞬考える様に止まってしまったロードだが、彼の思考より早く誰かがぽつりと呟いた。
「それって…ルーウィン・ジャヴァリー君の…」
 エーデルなのかヴィーラなのかシーリアなのか。「ご実家の…」とまで繋げ掛けて静かになる。
 クロエが泊まりに行きたいと言っている。
 イコナの酪農家の家へ。
 そしてそれは皆がよく知る結社メンバーの家紋とも言うべきマークであり、それは男性で成人している。
 ルーウィン・ジャヴァリー。
 皆がここまで思考を巡らせてその時、誰よりも早く声を上げたのはタイガだった。
「え………えぇぇえっ!?ルー!!?」
「うるさいっすよ」
「え!?だ、だってバートンさん、え!?間違いじゃ無いよね!?ルーの実家に行きたいの!?」
「正確には『酪農家の家に社会勉強に行きたい』のであって、たまたまそれがルーウィン氏だったと言うだけです」
「う、嘘……」
 タイガの脳内をあらゆる想いが巡る。
 ルーウィンとタイガ、お互いに「強力なライバルの居る難しい恋」に奮闘する仲間だった筈だ。少なくとも自分はそう思っていたし、状況を見るに十人が十人『難しいな』と頭を捻る状況だろうとも踏んでいた。しかし、そんなルーウィンの片想いの相手──とは言えルーウィン本人にはその自覚が無いのか悉く否定するのだが──ことクロエは今、彼の実家に行きたいのだとハッキリ言った。しかも泊まりがけで。
 いつのまに彼女とそこまで距離を詰めたのだろうかとか、抜け駆けされた様な気持ちだとか、あらゆる想いがタイガの脳内を高速で駆けて行った。
 しかし、それ以上にタイガはハッとする。父の様に兄の様に彼女を見守り、そのせいかルーウィンの話題によく渋い顔を見せていたロードが果たしてそれを許すのだろうか。
 ちらりと横目で探る様にロードの顔を盗み見る。彼は相変わらず張り付いた様な笑顔を浮かべていた。そんな彼に先に声を掛けたのはエーデルだった。
「あ、あの…マーシュさん…?」
 彼女の言わんとしている事はすぐに理解出来た。おそらく彼女も学生時代やら何やら、今より少し若い頃に親に色々誤魔化して友達と外泊に行った覚えがあったのだろう。当時よりもう少し大人になった今となっては、大人の様に気兼ねなく自由に行きたいであろうクロエの気持ちはもとよりほんの少し保護者の気持ちも分かる。だからか、味方する様な強い視線でクロエをチラリと見た後心配そうにロードの方を向いたのだった。
「…ええ、ありがとうございますカルンティさん。大丈夫ですよ。私はクロエを信頼しています。そして彼女を一人の人間として尊敬していますから、あまりこの子を親の様な立場から制限し、縛り付けてはいけないとも思っているんです。手放す辛さと言うのはありますけど、保護者なら通る道なのでしょう」
「え?」
 ロードのその言葉に拍子抜けした様な顔を浮かべたのはクロエだった。
 絶対に反対される。絶対に苦い顔をされる。だけど私は絶対に搾りたての特別牛乳が飲みたいんだ。
 そう思っていたクロエにとって、まるですんなり送り出すかの様なロードの言葉は意外過ぎるものだった。
「行って良いんですか…?」
「そう言うのは貴女がもう少し色々成熟したら、とも思ったのですがね……しかし、本当に泊まらないといけないので?」
「そりゃあまぁ。酪農は朝が早いですから、朝一の仕事はカンテの始発じゃ間に合いません」
「……酪農家の朝は早い、か…まぁ、それもそうですよねぇ…」
 納得するには十分過ぎる理由だ。
 ロードはうんうんと少し諦めた様に頷くと、再びお茶を淹れる準備を始める為かクロエに背を向けた。
「仕方ないですねぇ…後でどこでどう言う風にどなたのお宅で何日お世話になるのか、しっかり計画を書いたものを持って来なさい。お世話になる方へのお礼も考えねばなりませんから」
「兄さん……」
「う、嘘……」
 ボソリと力なくタイガは呟く。喜ぶべきところなのだとは思うが、複雑な心境だ。何だかルーウィンに抜け駆けをされた心地だなんて、そんな事友達として思って良いものなのだろうか。
「全く…気付けばクロエも大人になって…こうして時も人も移ろうものなんですかね……」
 うっとりとロードが呟く。ロード親衛隊は彼のアンニュイな表情に湧き上がったのだが、クロエはその何か理由のありそうな彼の喜び様に警戒の色を見せた。
「……ねぇ、ロードさ…何かあったよね?多分」
 同じく彼の喜び様に『何か理由がありそう』と勘付いたベンがクロエにこそっと耳打ちする。クロエは嫌そうに顔を歪めると
「良い事があって上機嫌だと兄さんに物頼むのってこんなにチョロいんですね、有難い。どこまでこの状況が続くやら…」
 少しだけ面倒臭そうにそう呟いた。

I'm fully recovered now!

「あ!テオさんちょうど良いところに!」
 ヒギリのよく通る声が自分の耳に飛び込む。テオフィルスは「女の子から呼び止められた」と反射的に笑顔で振り向くが、彼女の姿を視界に捉えた瞬間その笑顔は消えた。
「ヒギリちゃん…?何があった…?」
「そ、それが一緒にケーキ食べてたら…!急にこんな事に…!」
 そこには青ざめた顔で首に巻き付いた腕を外そうとしているヒギリと、そんな彼女の首に腕を巻き付けて甘えるヴォイドの姿があった。自分は当事者として加わる方が性に合ってるので『見ているだけ』と言うのは物足りないのだが、そんなテオフィルスでもしげしげと眺めていたくなる程ヒギリとヴォイドは絡みに絡み合っていた。
 何と言うか、最早物理的に。
 待てよ?段々見ていて面白くなって来たぞ?
「テオさん助けてー!!」
「んん…酷い、の助……離れようとするなんて」
「さっきから仕事戻らなきゃだって言ってんじゃん!!ヴォイ姐、もう離れて!!」
 まずい。割とヒギリが本気で怒っている。テオフィルスはとりあえず何か言わねばと口を開く。このままではヴォイドとヒギリの仲に亀裂が入りかねないと思っての事だった。
「ヒギリちゃん、何がどうしてこうなったんだよ?」
「それがね!それがねテオさん!!」
 ヒギリには昼食後にこっそり食べようとしていたケーキがあった。ヴォイドに見付かったので、せっかくなら二人で食べようと少し切り分けてあげる事にした。そのケーキはいわゆる『アルコールケーキ』であり、度数の高いラム酒をふんだんに使ったものであった。
 二人で半分こ。ただし、元々一人で食べる予定だったものもあって少し惜しかったのか、こっそり自分の方を多めに切ったヒギリ。それもあって『特に問題は無いだろう』と踏んでいたのだが、一口食べ二口食べ、段々とヴォイドは口数が少なくなって行き、全部食べ終えて仕事に戻ろうとした瞬間いきなりヒギリに甘える様に抱き着いて離れなくなったのだと言う。最初こそ普段見せない甘え方が可愛いし何かふにふにもにもにしていて柔らかいし得した気分だったのだが、五分経っても離れてくれないとなると流石のヒギリも焦りだしたのだった。
「な、なるほどな……」
「ヴォイ姐、お酒は苦手って聞いてた気はしたんだけど…まさかこんなになると思わなくて…!!」
「確かにな…俺も少し前に酔ってるとこ見たけどさ…この状況は初めてだよ」
 ごろごろと喉を鳴らさんばかりにヒギリに絡み付くヴォイド。心なしかいつもより甘い声で「行かないで…」と懇願している。しかし、ヒギリは最早そんなヴォイドの事が鬱陶しそうだ。
「んもぅっ…ヴォイ姐いい加減に…!!あ!テオさん!次お仕事何時!?」
「な、何時って…今やっと昼休憩だし殆ど休みなく来たから、エフもトニィも『何時に戻って来ても良い』とは言ってくれたけど…」
 言ってから『しまった』とテオフィルスは思った。しかし、ヒギリが即座にヴォイドに耳打ちすると、彼女はヒギリに絡めていた腕を離し、今度はテオフィルスの首へとターゲットを変えた。前から突っ込んでくるヴォイドをテオフィルスは慣れない手付きで受け止める。ヒギリはやっと解放されて嬉しそうに腕をぐるぐる回した。
「助かったー!!」
「ヒギリちゃん!おい!!」
 嫌な予感を巡らせてから見事に予想通り過ぎる流れになり、思わずツッコミを入れる。ヒギリはにこりとあたたかい微笑みを浮かべながらテオフィルスの方を見た。悪魔の笑みにすら見えた。
「テオさん、頼むね…!」
いや、頼まないでくれよ!!俺も昼休みくらい普通に休みたいわ!!」
「首からヴォイ姐ぶら下げてるだけで良いからさ!」
「こんなデカいアクセサリーつけてる奴いる!?」
 しかし、時間を見ればヒギリが本当にギリギリまでここで粘ってくれていたと分かる。休憩には区切りの良い時間を当てている筈だとすれば、現にヒギリは少しだけ遅刻しているのだ。
 仕方ない。テオフィルスは反論をやめ「分かったよ」と一言、首にしがみ付くヴォイドの体を支えた。
「……別に俺がずっと付いてなくても、例えば医療班に送り返しに行ったりどっか寝かせたりとかすれば離れても大丈夫だな?」
「うん!うん!ありがとうテオさん!あ、今度お昼ご馳走しちゃう!」
「ヒギリちゃんの作る美味しい茸とサワークリームのグラタンが食いたいなぁ。最近ノエに教わってるんだろ?」
「そうなんよ!」
 以前タイガの部屋で食べた茸とサワークリームのグラタン。焼く時間や手間もあって食堂のメニューには入れられないと言うそれはテオフィルスの舌と大変相性が良く、タイガの部屋で飲む際の彼の楽しみの一つでもあった。最近ヒギリがそれに興味を持ってノエに作り方を教わっている等と小耳に挟めば、彼のグラタンのメニューのファンとして、可愛い女の子の作る料理に対する興味もあってこれは是非味を見てみたいものである。
「ありがとうー!じゃあ今度テオさんも味見してね!タイガ君も『美味しい』って言ってくれたんだよ!」
 既にタイガが味を見ていたらしいと言う事に安心しつつ、味を想像してついつい生唾を飲む。地上に出てからと言うもの、岸壁街に居た当時は無かった「食の楽しさ」を謳歌しているテオフィルスには魅力的なご褒美に思えた。
「じゃあ!ごめんねテオさん!頼むね!」
 しかし、光の早さでランナウェイと言わんばかりに駆けて行くヒギリの後ろ姿を見、テオフィルスは改めて「面倒事を受け入れてしまった」と溜息をついた。彼の首に絡み付いたヴォイドがもぞりと動く。テオフィルスはつんつんと指で後頭部を突くと、「歩けるか?」と呟いた。
「ん……」
「俺の足、義足だしさ。抱えて行きたいけど…転んで怪我したらやべぇだろ?」
「んー……」
「……ったく、しょうがねぇな…」
 キョロキョロと人目を気にしてみる。流石に首にまとわりついてくるヴォイドと彼女を抱えているテオフィルスの姿は目立つのか、不思議そうにこちらを見てくる人間と目が遭った。
「やべ……」
 おかしいな。前にこんな事あった様な無かった様な…いや、あったな。
「……ヴォイド、ほらあっち」
 この場所なら廊下を抜けた先に給湯室、その隣に応接室がある。その応接室は普段は使用されていない場所であった筈だ。確かここのところ外部の人間との大掛かりな打ち合わせも予定に無かった気がするので嫌な鉢合わせをする心配も少なそうだ。
 それに、応接室はただでさえ忙しい総務部の部屋の近くだ。あそこならソファもあるし人気も少ないからそこで寝かせておいても特に問題は無いだろうし、加えて人の出入りも少ない筈だ。
 テオフィルスは少し前、未遂に終わったとは言えヴォイドを前に理性を失くし掛けた事を密かに思い出していた。そしてその時の苦い思い出と共に「次は後悔しない」と心に決めていた事も思い出した。
「……よし」
 ぎっ…!と義足に力を入れる。つい先日機械班から帰って来たばかりの足に不備はない。テオフィルスはヴォイドを抱える手に力を込めると優しい瞳で彼女を見た。首に巻き付いている為、至近距離のブレた彼女が目に飛び込む。
「てお……」
 見つめ返すように、とろんとしたガラスの瞳と視線がぶつかった。テオフィルスは、ともすると唇が重なりそうな距離にいる彼女の背中に手を回すと立ち上がり、ゆっくりゆっくり誘導して応接室へと足を進めた。
「…んだよ……明るい内からこんなところでカップルがイチャついてるだけかよ…」
 どこの誰とも知らないが、たまたま居合わせた彼は煩わしそうにこう呟いた。

 * * *

 応接室のドアをガチャリと開けると、首にヴォイドを巻き付けたままテオフィルスはきょろきょろと辺りを見回した。幸い、今は誰も使っていない時間らしい。ゆっくりゆっくりソファへと足を運ぶとヴォイドを寝かせようと体を傾けてみる。しかし、彼女が首に回した腕を緩める気がなかった為、バランスを崩したテオフィルスは覆い被さる様な形でヴォイドと共にソファに沈んだ。
「おっと……」
 一瞬ではあったが、支えきれなかった体重をヴォイドの体に大きく掛けてしまう。ヴォイドは少し苦しそうに「ぐぇっ…」とまるで色気の無い、蛙が潰れた様な声を上げたがやはりそれでも首に巻き付いた腕の力は緩めなかった。
「お前…赤ん坊かよ……」
 一度掴んだら離さないだなんてまるで赤ん坊の様だ。そう軽口を叩いてみるものの、そう誤魔化さないといられない程に胸元に当たる膨らみが彼からどんどん理性を薄れさせていく。
「てお…いかないで……」
「あー…えっと、俺も一応仕事あんだけどな…?」
「やだ、やだ…おいてかないで……」
 むしろ抱き締める手に力を込めて懇願するヴォイド。酒は人の本性を剥き出しにするとはよく言うが、と言う事はヴォイドの本性はこれなのだろうか。
 寂しがり屋の甘えん坊。
 あんなにも人を諦めた様な顔をしていた事もあったのに。そう言えば彼女から大きく変化を感じ取ったのは愛の日の後だろうか。やはりこの環境が、人との触れ合いが彼女にとって居心地の良いものであることに変わりは無いのだろうとそう思う。言われてみれば幼い頃、一緒に過ごしていた時もふとした瞬間にやたらと甘える様な行動を取った時があった。
 ヴォイドはきっと、結社が役目を終えても同じ様な明るい世界を居場所とした方が良い。かく言う自分も、きっともう居心地の良いこの世界以外で心は休まらないだろう。
 お互い、ここに来て良い様に変わったよなとテオフィルスはぼそりと呟き、そしてヴォイドの頭を撫でる様に手を添えた。
「……一人で寝れねぇの?」
「やだ…やだ…いかないで…」
 自分に向けて言っている様な気もするが、何故か自分の向こうに居る別の誰か・・・・に向けられた言葉の様にも思えた。
 まるで何かとても怖い事が彼女にはあって、それを思い出して今でも悲しくなってしまう様な。普段冷静な時は理性で、感情で、押し付ける様に蓋をして押さえ込んで。そうやって見て見ぬ振りをしている思い出こそが彼女の「怖い記憶」なのかもしれない。
 もしもそれが岸壁街の理性の無い男達に陵辱されたものだったとしたらどうしようかと想像しては青い顔をしていた事を思い出した。ヴォイドがそんな思い出をもしも作ってしまったらと考える度どうしようもない不安に襲われていた。しかし、ヴォイドを見るに彼女が今恐れているのはどうやら「置いていかれる事」の様だ。その事に少しほっとしつつ、それでもやはりこんな顔をしている彼女を見るのは辛いものがある。
 テオフィルスは優しく首に回された腕に手を添える。ヴォイドが慌てて更に力を込めようとする前に彼女の耳元で『大丈夫、置いてかねぇから』と呟いた。ヴォイドはその言葉に安心した様に腕の力を緩める。首を解放されたテオフィルスは組み敷く様な形を取ってようやく彼女の顔をしっかり見れた。
 相変わらず虚ろで、しかし熱を持った様に揺らぐ瞳でヴォイドはテオフィルスの姿を捉えた。海と空を映した様なそんな瞳に捉われ心臓がどくりと跳ねる。鳥肌が立つ様な毛の逆立つ様な感覚がした。
「……そんなに怖い思い出なのか?それ…。お前がそんな顔しなくて済む様に、その思い出俺が埋めてやろうか?」
「え……?」
「俺がもし傍に居る事でお前が安心出来るなら…そうしても良いよ…俺は。他のところには行かない…ずっとここに居てやる」
 ばさりと音を立ててテオフィルスが羽織っていたパーカーを床に落とす。その音が耳に入るか入らないか、テオフィルスは既にTシャツの襟を引っ張り頭をすぽんと抜いていた。彼は好んでトレーニングをしているわけでは無いのに程々に筋肉が付いているのは男性だからかそれとも義足に気を張っているからなのか。見る見る寒そうな格好になっていく彼の姿をヴォイドはじっとりと見つめていた。
「てお…?」
「……今更『やめて』なんて悲しい事言うなよ?お前が俺の事離してくれなかったんだろ?」
「さむそう…だね…」
「あぁ。日が長くなったってだけでやっぱこの国は寒いからな。でも、動きゃあったかくなるさ」
 ぎし…と音を立ててヴォイドの首元に唇を寄せる。以前額にした様にチュッと吸い付けばヴォイドはびくりと体を揺らした。
「…やっぱ岸壁街って異常なとこだよな。きっとあの時の俺はどっかおかしかったんだ。今ならあの場所のやばさはよく分かるし……お前が気を遣ってめちゃくちゃ良い匂いになってんのも分かる」
「いいにおい…?」
「ああ。何か…ヒギリちゃんからも同じ匂いしたな」
「のすけ…香水くれた……ボディソープも…」
「……あぁ、それか。でもヴォイドの場合はそこに薬品の匂いもするな」
「…臭い?」
「……足の処置が記憶に新しいから緊張はするが…悪くはねぇかな……それを思い出してどきどきするのかお前に興奮してんのか…どっちも起きてるからこんなにどきどきするのか……」
 夢だと思ってくれても良い。忘れてしまっても良い。でも、この瞬間だって大事にしようと思う気持ちは誰よりもある。
 ヴォイドが半分夢の中に居るのに、まるで独り相撲の様だと自分を責めながらもこの好機を手放す気もテオフィルスには無かった。
 そっと手を伸ばし服をたくし上げる。覗いた下乳には薄い色合いではあるが血管の青が見え、テオフィルスは更にごくりと喉を鳴らした。
「優しくする……」
 テオフィルスの掌の中、その言葉に反応する様にヴォイドの心臓もどくりと鳴った。

 * * *

「やぁ、俺が誰かって?俺だよ俺、ゼン・ファルクマンだよ!!全く俺の有能さに今頃気付くとは…遅い!遅過ぎるね結社総務!!今何年何月だ!?七十四年五月だよ!!俺が入ったのはいつだ?もうかれこれ半年以上も前だ!!全く、おっかな巨乳の下で燻らせるだけ燻らせて今更面談!?馬鹿じゃねぇのばーか!!!もっと早くやれよばーか!!今更何話すっつーんだよばーか!!あれか!?助平七三の文句でも言やぁ良いのか!?ったく、結社の前線は金払いは良いがこんなにブラックだなんて思わなかったぜ。これ以上俺のこの優秀な頭脳を無駄遣いしようと言うのなら俺だって法治国家の国民の一人として働く場所を選ぶ権利を行使するね!!あんなおっかな巨乳相手じゃ下剋上も出来やしねぇ!!いや、別に良いけどさ!俺小隊長嫌いじゃねぇし!!でも俺文句言ってくる輩は捩じ伏せれば良いから嫌いじゃ無いが人に叱られるの大嫌いなんだよ!!小隊長はガチな人だから怒り方がマジでおっかねぇんだよあれだけは本当嫌!!」
 おそろしいかなゼン・ファルクマン。
 誰もいない廊下で、誰もいないのを良い事に「憂さ晴らし」と言わんばかりに一息にそう口にする。
 無論、独り言で
 人事部のロード・マーシュに面談だと呼ばれたこの日は本来彼が大好きな時計の手入れに費やしている時間であり、あろう事か自身の自尊心を大変に傷付けてくれたロード・マーシュからの呼び出しとあれば反発心も人一倍と言うわけで。
 予定していた時間に時計は手入れできないし呼び出したのがあの助平七三。それだけでゼンの苛々はピークに達していた。
「ったく…何が悲しくてあの狐野郎と時間取って呑気にお話しせにゃならんのだ」
 とは言え、ロードに謎の敵意を剥き出しにして散々と駄々を捏ねた甲斐があったのか、ロードは普段なら面談に使わない様な豪華な装飾の部屋を用意し、彼のその腕前で紅茶を淹れてくれると約束した。紅茶にお茶菓子、高級ソファ。いわゆる「VIP待遇」で用意してくれると言うのならば呼び出しに応じてやる事もやぶさかでは無い。
 あの助平七三は気に入らないが質の良い紅茶となら中和と見做してやっても良いだろう。
 そう思いながらゼンは応接室のドアノブに手を掛けた。
「前線駆除班第三小隊ゼン・ファルクマンだ。全くこの俺の貴重な休み時間を奪って貴様の様な野郎と顔合わせろなんて無茶な要望、わざわざ叶えに来てやったのだから存分にこの俺に感謝し、きぇぇぇぇぇぇぇぇええええぇぇぇぇぇっ!!!!!
「……おう」
 ドアを開けたゼンはおかしな悲鳴を上げる。そこに居たのは汚染駆除班のテオフィルス・メドラー、彼はTシャツを着ている最中であり何故かさっきまで半裸だったのだろうかと勘繰れる程にこの寒いカンテ国で上着もシャツも脱いでいたのか不自然な着衣の乱れ方をしていた。
 そして彼の横で毛布に包まれる形で横になっていたのは医療班のヴォイド・ホロウだった。
 半裸の男とスタイルの良い女、人気のない応接室、きっと何も起きていないはずはなく。
「えーっと…汚染の三つ編みと医療班のおっぱいちゃん!?」
「半年以上居てどんな覚え方だよ。こいつは医療班のヴォイド・ホロウだ。前線なら世話になってんじゃねぇのかよ」
「ふん、俺は他隊の馬鹿共と違って無駄な傷を負わない術を心得ているんだよ!!痛いの嫌いだからな!!」
「あっそ…」
「それにしても…お前とおっぱ…ヴォイドが二人きりでこんなところに居るなんてどうにもきな臭いな。聞くに君達は岸壁街の出だろう?こんなところでお仲間同士、仲良く情報交換でもしていたか?」
 急に真面目な面持ちになったと思ったら、ナチュラルに飛び出したそれは所謂差別的な目だろうか。そう受け取ったテオフィルスはムスッとしながらも、今まで結社では少なかったとは言えそもそも警戒される事は日常茶飯事だったので別段臆する事なく対応する。
「……同郷なら昔を懐かしむ事もあるだろ。それは地上の奴らも岸壁街の奴らも変わんねぇよ。むしろ地上の奴らに聞かれたくなくて人気の無いところで話す事もあるかもな。で?それを本当にしてたとしてお前に何の不利益を与えたとか言うんだ?言っとくけど岸壁街なんて壊れちまったんだ。今更街の奴らが出来る何かがあるなんて本気で思ってんのか?」
逢引きの現場にたまたま突っ込んで行ってしまったとかプライドが極端に傷付くからに決まってんだろばーか!!!ならばせめて裏で結社崩す画策立ててたとかそっちのが精神衛生的に良いに決まってんだろばーか!!!どいつもこいつも、恋人の居ない俺の前で女とのイチャつき見せやがって当て付けか!!?
 ゼン・ファルクマン。彼はどうもアホの様だ。
 テオフィルスはずるりと肩から力が抜けていくのを感じながらも、彼が言う程差別的な人間では無い事に少しだけ安堵する。逆に、『こいつは典型的なリア充爆発しろタイプだがここに至るまで一体何があったんだ?』と同情すらした。
「お、おぅ…何か苦労してんのは分かった。その、ごめんな…何かその、傷を抉るような事して…」
「同情するなら誰か紹介してくれ!!!」
 半泣きになりながらちらりと視線をヴォイドに移す。すやすや眠る彼女を見てふぅと一つ溜息を吐くと、「本題に移る」と言わんばかりに真面目な面持ちになった。
「……冗談はさておき、本当に何してたんだ?」
「……何してたと思う?」
「…これでも俺は差別的な意識は持たないつもりだ。だから公平に色々見るぜ。そして公平な俺の判断によると、意識の混濁した女性への暴行がもしもあったのならそれは等しく『同意は無かった』と見做すが?」
「………」
「だんまりは宜しく無いなぁ」
 ゼンはそう言いながらヴォイドへと近付いて行く。そっと顔を覗き込むと、すうすうと寝ているだけかと思いきや少し顔が赤らんでいる事に気が付いた。
「酒に弱いんだ。で、今日も間違って酒口にして寝ただけ……と、思ってたんだけどな。どうも病み上がりで少し体調も悪かったらしい」
「……何故こんなところに寝かせた?」
「俺、テロで無ぇんだよ。足」
 くいっとズボンの裾をたくし上げてみる。覗いた脛が人の肌の色をしていなかった事に心底驚いた目をしたゼンは「ズボンを履くと分からなくなるもんだな…」と感嘆混じりの声を上げた。
「この足じゃ足元おぼつかないこいつ連れて来るの、ここまでが限界でな。で、寝かせたは良いけどちょっと体調悪かったみたいで」
「…なるほど」
「俺も思うところは色々あんだよ。何にせよ、今この瞬間手は出してないって事は誓う」
「ふん……なら、俺が来た時お前が半裸でいた事については不問にしよう」
「……おぅ」
 そこだけは言い逃れが出来ないな、とテオフィルスも思った。この状況でどこをどう見ても服を脱ぐ必要が無いからだ。服を脱ぐ状況なんて、『そう言う期待』がある時以外起こる筈もない。
 だからゼンは気付いている。テオフィルスがこの場であわよくば何をしようとしていたのかも。しかし、罪を憎んで人を憎まずとはよく言うが、そもそも何も起きていないのなら何も憎む必要はない。
「……本当に何もしてないんだよな?」
「………」
 その時ふと、テオフィルスの脳裏に『優しくする』と口に出した時の状況が蘇って来た。

 * * *

 服をたくし上げた時に見えたヴォイドの肌はやけに白かった。両手首を片手で掴んでソファに押し付け、もう片方の手を鎖骨に添える。
 優しく優しく、撫でる様に下へと下ろして行き、形を堪能するように手の平で胸を弄んでしばらくすると、ふいに「ふぅ…」と大きな呼吸がヴォイドの口から漏れた。
「ヴォイド…?」
 熱を帯びた声で彼女の名を呼ぶ。しかし、どこに触れてもヴォイドはピクリとも動かない。
「お、おい?大丈夫か?」
 一転して青い顔になったテオフィルスが慌てて彼女の体を抱き起す。ヴォイドの半開きになった口からふすふすと規則的な呼吸が漏れた。
「あれ…?」
 テオフィルスが額に手を乗せてみると、ヴォイドの額がいつもより熱を持っている事に気が付いた。
「そっか……言ってもまだ病み上がりだもんな…そうだよな…うん……」
 心情として、体を壊した女に手を出すのは憚られる。それに、こんなに眠たそうで無抵抗なヴォイドに手を出すのは確かに好機と言えば好機だが、彼女にそれ・・をしたくはなかった。そう思うとテオフィルスは途端に冷静になる。
 俺、これで良いのか?と。
 自分達には今まで残せた思い出は無い。大事なのは互いの記憶のみ。自分だけが覚えているなんて虚しい。だからこそ、これから地上で作る思い出は互いの記憶に残せるものの方がいい。
 誘拐事件でヴォイドをまた失う気がしていっそ失うくらいならばとも思ったが、そんな事しなくても少なくともヴォイドは今日自分を求めてくれた。
『てお、いかないで』
 と。だから無理な事をするのはやめる。今日の事はどこまでも独り相撲な気もするが、それでも傷付ける前に踏み止まれて良かった気もする。
「ヴォイド…ごめんな」
 テオフィルスはこつんとヴォイドの額に自分の額を当てると、愛おしむ様な声を上げた。
「……やっぱヤりてぇ。今すっごくヤりてぇ。ヤりてぇけど……お前が覚えててくれた方が良いんだよ、俺は。お前がちゃんと頭すっきりしてて、俺の事良いって言ってくれて、俺を受け入れてくれたその時ならお前の事抱いて良いかな……?」
 すっと優しく指で頬を撫でればヴォイドはくすぐったそうに口元を緩ませた。返事は無いが、今はこれだけで良い。この顔を見ただけで少なくとも踏み止まれる。
 ほんの少しだけでも自分を受け入れてくれた地上の世界に、ほんの少しだけ感化されてほんの少し染まれた気がして。結社に来てからの心情の変化に少し嬉しくなったテオフィルスだった。
「……しかし、本当デケェよな…」
 しかし、寝ても重力に負けそうに無いカヌル山を前にするとその決意がぐらぐらと揺らぎ始める。駄目だ駄目だ、こんなの目に毒過ぎる。テオフィルスは慌てて近くに備えてあった毛布を引っ張るとヴォイドの身を包んだ。毛布で少しスタイルが見えなくなってやっとテオフィルスの理性が仕事をし始める。
 寒いし服着るか、と立ち上がろうとしたその時だった。大きな独り言と共に偏屈な男がドアを開けたのは。

 * * *

 先日までのご機嫌な鼻歌はどこへやら。ロードは酷く不機嫌そうな顔で仕事をしていた。
 前線駆除班のゼン・ファルクマンが散々駄々を捏ねるので痛む頭を押さえながら応接室の使用届けを出し、書類を確認して部屋に向かうと何故かそこにはゼン、テオフィルス、ヴォイドの三人が居た。
 一瞬戸惑いながらも何とか無理矢理思考を巡らせ確認を取れば、ゼンは『自分が来た時には既にこの二人が居た』と言うし、テオフィルスは『近くの休憩所でヒギリからヴォイドを預かったは良いものの放置するわけにも行かず一番近いこの部屋に連れて来た』と言う。
 状況的にも証言を精査しても、主張に違和感は無いので嘘をついているわけではなさそうだ。だが、単純に酔ったヴォイドを介抱していたと言うだけでロードの嫉妬限界値はマックスまで達しており、寝ているヴォイドを医療班まで運んだ後テオフィルスとゼンに射殺さんばかりの視線を向けたのは言うまでも無い。
「はぁ……」
 危険度で言ったらマックス。距離の近い幼馴染。
 そう自分で言っていたのに、うっかり忘れていた。人の心は移ろうもの。それは彼女も、自分も、そして周りの人間も。
 自分に枷が無くなって本当に心からぶつかって良いのかと葛藤している間に、彼等も同様にうつろった末に彼女と本気でぶつかろうと思い直すなんて事も無いとは言い切れない。何を一丁前に悩みながらうかうかしていたのだ自分は。
 ロードは頭を抱えた。そして多忙過ぎて連日仕事が当たり前で休みをまともに取れなかった夏の頃の様なテンションで笑った。
「うふふふふふふ……そうですよね…やはり小石を恐れて足元ばかり見るなど私らしくない…!!」
 小石に躓く事を恐れて足元ばかり見ていると、気付けば目の前に大岩が鎮座しているなんて事も有り得るのだ。そして彼等がその『大岩』になると言う事も十分に有り得る。しかし、『それを乗り越える』と言うのもまた自分らしくて良いのでは無いだろうか。
 ロードはつい先日まで何を悩んでいたのかと言うくらいやる気を取り戻しバリバリ仕事をした。タイガは彼のいつもの調子にほっとしたし、ロード親衛隊の三人は今日も今日とてそんなロードも好きだ。
 しかし、ロードがいつも通りの調子に戻ると言うのは何もかも『良い』と呼べるものでは無かった。
「あのー、兄さん」
 書類をまとめたクロエがにゅっと顔を覗かせる。ロードはそんな遠慮がちな彼女をじっと見るといつもの調子でにこりと笑った。
「おやクロエ、どうしました?」
「先日言われた書類です」
「書類?何の?」
「何のって…計画書ですよ。ルーウィン氏の実家に泊まりに行く予定の」
 ルーウィンの実家に泊まりに行く。
 そのワードを聞きロードはフリーズする。そんな彼の反応を見、クロエは『いつもの面倒くさい彼に戻った』事を察した。
「と、と、と、泊まり!?あの男の家に泊まり!?」
この間説明したが
「いやいやいやいや!!何破廉恥な事言ってるんですかクロエ!!いけませんよ!?嫁入り前の娘さん預かってる保護者としてそれは見過ごせません!!」

 ロードが理解ある保護者の顔を見せた期間は、彼が思い悩み落ち込んだわずか数日の内に終わってしまったのだった。

 今はどうかって?彼は今日も今日とていつも通り元気である。