薄明のカンテ - あいよりいでて、/べにざくろ
 打鍵音の響く汚染駆除班の部屋の中、一人の人物が動き出す。
「あ、あの、きゅ、休憩いただいてきます……」
 変わらず吃りながらも隣席の仲間に休憩に入る旨を告げるとニコリネは静かに部屋を抜け出した。部屋を出るまで他人の迷惑にならないように大人しくしようと息を止めていたので、部屋を出た瞬間に吸った空気が何の変哲もない廊下の空気であっても今日も美味い。
 汚染駆除班最寄りの休憩所には兎頭国由来のブレンド茶のペットボトルが売っていて最近のニコリネのお気に入りだった。調達班がマメに商品チェックをしていてくれるおかげか品切れになることはないそれを今日も飲もうとニコリネは少しだけ浮かれた足取りで廊下を歩く。
「ぼくら毎日、エンドレスゲーム、エンドレスゲーム……」
 誰もいない事を良いことに下手な歌を小さな声で歌いながら休憩所へ向かう。そして浮かれに浮かれて休憩所に足を踏み入れた瞬間、息が止まった。
 無人だと油断していた休憩所のベンチには先客のテオフィルス・メドラーがいたのだ。しかし、彼はニコリネに気付いていないのかボンヤリとした様子で掌を――その掌に乗せていたブローチを、ブローチに嵌った石と同じような色をした目で見つめていた。
「メ、メメメメメドラーさん……?」
 ああ、今日も彼を呼ぶのに吃ってしまった。
 内心でニコリネが反省しているのになんて気付かないテオフィルスがニコリネを見て、ようやく存在に気付いたらしく目を丸くする。
「あれ、ニコリネちゃんも休憩?」
「そ、そそ、そ、そーなんです!」
「そっか。何飲む?」
「だ、だだ、大丈夫です!自分で買えますから!!」
 立ち上がろうとしかけたテオフィルスを制するように声を上げると、ニコリネは電光石火の早業で自動販売機の前へと移動した。最初から買う商品は決めていたので素早く見付けて押すと、あっという間に購入する。
 ありがとう調達班。今日は無事に買えました。
 故障して同じものが何個も出てくる羽目になったり、買おうと思ったものと違うものが出てきたりと何かと自動販売機と相性が悪いニコリネだったが、今日は何事もなく兎頭国由来のブレンド茶を手にすることが出来た。その事に安堵しつつ、ペットボトルを握りしめたニコリネは全勇気を持って次の行動へと移った。
「し、しし、失礼します!」
 テオフィルスに頭を下げると、彼が座っているベンチの端っこに着席する。別に他にもベンチはあるのだが他の所に座ろうとするのをテオフィルスが嫌がるのをニコリネは学習して知っていた。自分の羞恥心とテオフィルスが悲しい顔をするのを天秤にかければ羞恥心なんて軽いものだと思えるくらいにはニコリネは考えられる子だった。
 緊張しながらも、ペットボトルの蓋を開けてお茶を飲む。兎頭国由来というだけで何だか身体に良いような気がしてしまうのは単純すぎる考えだろうか。それに砂糖の入っていない甘くないお茶はヘルシーな感じもするし。
 そう思いながらも、いつもなら直ぐに話しかけてくるテオフィルスが話しかけてこないものだから気まずい気分になっていた。テオフィルスに気付かれないように横目でそっと彼を見ると、テオフィルスは相変わらず掌のブローチを見つめてボンヤリとしている。
 あんな事があった後だから仕方ないか、とニコリネは彼の様子を見て思った。
 先月末に起きた汚染駆除班の少女ミサキ・ケルンティアの誘拐事件でテオフィルスは調査チームの一員だった。誘拐されたミサキは無事に発見され保護されたが未だに病院にいる。おそらく日頃、ミサキを可愛がっているテオフィルスとしては本調子ではないミサキが心配でならないのだろう。
「……ケルンティアさん、早く帰ってくると良いですね」
 思わずニコリネは自分からテオフィルスに話し掛けていた。内向的なニコリネが自ら話しかけたせいなのか酷く驚いた顔をしてテオフィルスがニコリネを見る。
「ケルンティア……?」
「あ、え? えっと、その、みさ、ミサキ・ケルンティアさんです」
 テオフィルスは女の子をファーストネームでしか呼ばないからファミリーネームは頭に入っていないというのだろうか。それはそれで結構ショックな事実だ。そんなことを思いながらニコリネは補足するようにミサキのフルネームを告げた。
「ああ、そうだよな。ミサキちゃん、心配だよな」
 テオフィルスの表情や声音から「おや?」とニコリネは違和感を抱く。
 中学時代の些細な虐めから人間関係の構築が苦手になったニコリネは、その分、他人の表情に敏感だった。この声は嘘の混じっている声だ。
 テオフィルスはニコリネが「ケルンティア」とミサキの苗字を言ったから驚いた訳では無いと気付く。
 そしてミサキ・ケルンティアの誘拐事件には、もう一人の被害者がいたことを思い出した。そういえば食堂のアイドルであり、ニコリネなんぞにも優しくしてくれる大天使ヒギリ・モナルダが「ヴォイ姐が来ないから食堂も寂しいんよ」と言っていた。そう。「ヴォイ姐」だ。正式な名前は知らない。
 もしかしたら、テオフィルスはミサキではなく――もちろんミサキの事も心配している気持ちもあるだろうが――その「ヴォイ姐」のことを心配しているのではないだろうか。
「あの、えっと、ヴォ……ヴォイ……」
「あれ? ニコリネちゃん、ヴォイドの名前知ってるって事はアイツと知り合いだったんだな」
「いいいいえっ! その、モナルダさんが寂しがってて、それで名前を……」
 成程、「ヴォイ姐」は「ヴォイド」という名前なのか。
 出来れば名字を教えて欲しいと思いつつも、ニコリネは新たな事実に「おや?」と再び違和感を抱いた。
 テオフィルスは女好きを公言するだけあって全ての女性をファーストネームに「ちゃん」付けで呼んでいる。それは相手が何歳の女性でも変わらず、ニコリネはテオフィルスが清掃班のザラを「ザラちゃん」と呼んでいるのを見て驚いたこともあった。
 そんなテオフィルスが「ヴォイド」と人を呼び捨てにしている。「ヴォイド」が男性ならば違和感はないが、ヒギリが「ヴォイ姐」と呼ぶからには女性だろう。ひょっとしたら性別は男性で見た目は女性の可能性もあるにはあるが、それよりは「ヴォイ姐は女性である」事実の方が可能性が高い。
 そんな事を考えていたからか、よっぽどニコリネが変な顔をしてテオフィルスを見ていたのだろう。テオフィルスが苦笑いのようなものを浮かべてニコリネを見る。
「ヴォイドは……昔から知ってて幼馴染みたいなモンなんだよ」
「幼馴染」
 ニコリネに幼馴染はいない。羨ましい響きであるがテオフィルスが岸壁街出身ということはヴォイドもそう・・ということなんだろうという事実に気付いて何ともいえない気持ちになった。普通に生きてきたニコリネからすれば岸壁街は危険で汚い犯罪者の住む場所だと教えられてきた場所だ。今でこそテオフィルスに対してその恐怖はないが、最初は警戒したのを覚えている。
「その……普段、めっ、メドラーさんはケルンティアさんを気にしていたので、てっきり私……」
 ケルンティアさんが心配で仕事が手につかないのかと思いました。
 心の中だけで続きを言ったが表情と会話から悟ったらしいテオフィルスが笑う。但しカラッとした快活な笑いではなく、どこか影のある笑みで。
「そりゃミサキちゃんだって心配だって。汚染駆除班うちのエースで若い女の子なんだからさ」
「かっ、かわいいですしね」
 思わず勢いで付け足すように言うと、テオフィルスが鳩が豆鉄砲を食らったような顔でニコリネを見た。何でそんな顔でテオフィルスに見られるのか分からないニコリネも思わず同じ顔になる。
「ニコリネちゃんだって可愛いけど?」
 テオフィルスの言葉にニコリネの顔が鳩から沸騰したヤカンに変わった。
 いやいや、喜ぶなニコリネ・エークルンド! 今の話の流れでメドラーさんは言っただけだ!
「ふっ、ふひひひひ……」
 そうは思ってもニコリネは「かわいい」と言われて嬉しくない女子ではない。むしろ嬉しい。
 しかし、可愛くない笑いが口から出るだけで「ありがとうございます」と可愛くお礼を言うことも「もうっ、何言ってるんですか!」とツッコミを入れることもニコリネは出来なかった。そもそも、それが出来れば陰キャはやっていない。
「若いのに大人に紛れてやる大変さは俺も知ってるからさ、ミサキちゃんは良くやってると思うし可愛いと思うよ。そんな子を賞賛するどころか嫉む男は男じゃねぇだろ」
「そ、ソウデスネー」
 頷きながらも気まずい思いになったニコリネの脳内に浮かんだのは一人の黒髪の男性だ。ニコリネにとっては壁の埃仲間でもあるが、彼の名誉の為に敢えてここで名は記さない。
「ででで、でも、けけけケルンティアさんだけでなく幼馴染さんまで入院なんて、ほほ、本当に心配ですね」
 そんな脳内に浮かんだ異極鉱ヘミモルファイトの色をした目を持つ彼のことを描き消すようにニコリネは言葉を紡いだ。
「アイツが入院とか信じらんないんだよな。すっごい丈夫な、すばしっこい猿みたいな奴だったから」
 ニコリネの脳内でヴォイドが猿を通り越してゴリラになった。ゴリラ女だ。
 とはいえ、ニコリネは猿もゴリラも実物を見たことがなく映像で見ただけなのであるが。狭い国土で島国であるカンテ国には残念ながら動物園が存在しないのだ。
「へ、へー……」
 そんなゴリラ女がミサキと一緒に誘拐されたということは犯人は余っ程腕っぷしの強い輩だったのだろうか。ニコリネの妄想は止まらない。
「幼馴染っていっても一時、ヴォイドの行方が分からなくなった時があってさ……あん時は絶対死んだって思ったけど……」
 岸壁街で行方不明。
 その響きだけで生存は絶望的だとニコリネは思ってしまう。
 そんな状況になっても今、マルフィ結社にヴォイドは居る訳でやはりヴォイドはゴリラのように屈強な女に違いないだろう。
「また居なくなったって聞いた時は、もう駄目だと思った。でもさ、今回は入院はしてるけど、すぐ見つかって良かった……」
 テオフィルスの声が最後の方は湿って震えている気がして、ニコリネはテオフィルスに視線を向けるのは止めておいた。おそらくテオフィルスはそうして欲しいと思う人間であると思うからだ。
 壁の染みが何となく人の顔に見えてしまうのはパレイドリア現象と言うんだったよね。
 そんなことをニコリネはボンヤリと考えながらペットボトルのお茶を一口、二口。
「……ニコリネちゃん」
「はひっ!?」
 ボンヤリとしていたら名前を呼ばれて思わずテオフィルスに顔を向けると、彼は彼らしくもない弱った笑みを向けていた。
「何かごめんな、貴重な休憩時間に」
「い、いえいえそんな滅相もない……」
「そういや、そのニコリネちゃんの飲んでるお茶、ヴォイドも気に入ってるって言ってたんだよな。案外、ニコリネちゃんとヴォイド、気が合ったりしてな」
「そ、そそ、そうですかね?」
 ヒギリに「ヴォイ姐」と呼ばれる岸壁街育ちのゴリラ女と、はたして自分は仲良くできるのか。
 ニコリネはヴォイド(ゴリラ女)に「よろしくね!」と抱きつかれて鯖折りになる自分しか想像できず、しんみりとした様子のテオフィルスに向かって乾いた笑いを浮かべて妙に乾いた喉を潤すようにお茶を飲むしかなかった。

――尚、後日の食堂で。

「えっ、ヴォ、ヴォヴォヴォイ姐はあの直視できない様な凶悪なプロポーションの持ち主の人なんでしゅか!?」
 ヴォイドのフルネームであるヴォイド・ホロウを聞いて「ヴォイ姐」が色んな方面で有名なヴォイドであり、ゴリラ女で無いことに驚くニコリネの姿が見られたとか。

 * * *

 昼時を大きく過ぎた時間、テオフィルスの姿は食堂にあった。
 一度思考の海に潜ると他人のことも時間のことも忘れるテオフィルスは、昼食の時間が遅くなることがままある。そもそも岸壁街という資源に貧しい場所で育ったテオフィルスは一食抜いたところで何の影響もなさそうなものだが、習慣というのは恐ろしいもので今では三食きっちり食べないと落ち着かない。
 それに、遅くなった昼食には良い事・・・があった。
「テオさん、今日も良いですか?」
「もちろん、ヒギリちゃんみたいに可愛い子は大歓迎だよ」
 テオフィルスの向かいの席に座ったのはヒギリ・モナルダだ。給食部はどうしても自身の昼食は遅くなるものであるから、逆に遅い時間に昼食をとればヒギリと相席が出来るのだ。彼女とはちょっとした事があったが無事に和解して友情すら育んでいた。
 可愛い女の子を見ながら食べる食事は、更に美味い。
 それは岸壁街を出たテオフィルスが学んだことでもある。
「今日のランチはタラのフライとオニオンにレムラードソースを和えたものでね、レムラードソースというのは……」
 テオフィルスには食事の種類が分からない。魚、肉という大きな括りは分かるが食えれば良い、腹が膨らめば良いという岸壁街の人間だったために細かいことが何も分からないからだ。
 そんなテオフィルスの食に関する知識レベルに、そしてそれをテオフィルスが気にしているということに同席しているうちに気付いたのだろう。ヒギリは自然に食事について説明をしてくれるようになっていた。押し付けがましい訳でもなければ知識をひけらかす訳でもない自然な世間話のようなヒギリの話し方は聞きやすいし、とても分かりやすい。
 岸壁街暮らしあの頃も工夫すれば、もう少しまともな食事が作れたのではないだろうか。テオフィルスは今更後悔してもどうにもならない事を思う。全ては終わったことだ。岸壁街は崩壊し、あの街を飛び回っていた小猿はいない。そう。全て終わったこと。
「そうだ! レムラードソースのレシピ、ノエさんに教わっておいたので端末に送りますね!」
「ありがとな。本当、ヒギリちゃんって気が利くよな」
「褒めてもレシピ以外何も出んよ?」
 ふざけて小悪魔めいたような笑みを作りながら、ヒギリは携帯端末を操作する。操作が終わればテオフィルスの携帯端末が鳴って、ヒギリからのレシピが送られてきていた。
 今ではこのように、お互いのアドレスを交換して連絡を取るくらいには2人の距離は縮んでいた。それでも色恋の香りはなく、異性の友人といった感じだ。今まで側に居たどのタイプとも違うヒギリ。それは彼女のキャラクター性が持てる力なのか、はたまた彼女に想いを寄せるタイガの嫉妬心への恐怖か。前者であることを願いたい。
「ヴォイ姐にも食べさせてあげてね」
「は? 何でヴォイド?」
 予想もつかなかった言葉に思わず問いかけると、ヒギリは大きな紫色の目をぱちくりさせた。
「ニコリネさんからテオさんがヴォイ姐の事をすっごく心配してるって聞いたから」
「そこ、そういう交友関係があったのか……」
 ヒギリとニコリネ。
 確かに年齢は近そうだが、キャラクターというか纏っているオーラというかが違いすぎて2人が会話している姿が想像つき難い。驚愕するテオフィルスを尻目に、ヒギリは「食堂にいれば色んな人と仲良くなる機会があるんよ」とにこにこと笑った。確かにヒギリは誰にでも優しいし物怖じをするような子ではない。ニコリネと友達でも何らおかしくはないのだろう。
 そもそもヒギリはヴォイドを「ヴォイ姐」と呼ぶ程、ヴォイドに懐いている豪胆な娘だ。ヴォイドには岸壁街時代――少なくともテオフィルスが知る中では――友人と呼ぶような女子とつるんでいる姿を見たことがない。テオフィルスの家に転がり込んできて食料を強奪していく時代にも、行方不明になったかと思えば医者として名を馳せていた時代にも。
「ヴォイドは俺なんかの飯より、給食部ここの飯とか……」
 ロードの飯の方が喜ぶだろう。
 それを口に出すのは悔しくて思わず口を噤む。
 ヴォイドとミサキの行方が知れなくなってユウヤミやロードと共に彼女達の行方を探す中で密かに感じた事は、自分は所詮凡人ということだった。ギロク博士のテロによってテオフィルスは片脚を喪った。それ故に行動がままならず、岸壁街の外に出たというのにヴォイドを何処までも探しに行くことは出来なかった。否、恐らく両脚が揃っていたとしてもテオフィルスでは力不足だ。ハッキリと分かる。ユウヤミやロードのような実力は自分には無いと。
 影で努力をすることでテオフィルスは此処まで「出来る人間」の顔をして生きてきた。己は天才なのだと取り繕っていたが、所詮は紛い物。天才ではなく精々が天才肌の人間だと彼等を見て理解させられてしまった。己は井の中の蛙だと理解できない程の愚鈍さを持ち合わせていたならば幸せだったのに、残念ながらテオフィルスはそこまで愚かな頭をした男ではない。
「テオさん?」
 黙ったままのテオフィルスに疑問を持ったヒギリが不安そうな顔で小首を傾げる。
 女の子にこんな顔させるなんて、駄目だな俺。
 テオフィルスはそう考えて取り繕った笑みを浮かべた。途端にヒギリの表情が余計に翳る。
「ヒギリちゃん?」
 今度、困惑しながら名前を呼ぶのはテオフィルスの方だった。困ったような何ともいえない色を浮かべつつヒギリが曖昧な笑みを見せる。
「その顔は嘘をついている顔なんよ」
「嘘なんかじゃ……」
「次のテオさんのご飯、とうがらしラーメンね」
 取り繕って貼り付けたテオフィルスの笑みにヒビが入った。ヒギリはテオフィルスの表情に満足したのか、してやったりとばかりの顔をして彼を見る。
 とうがらしラーメン。
 食堂のメニューの中で激辛で敬遠される事の多いそれはテオフィルスの苦手なものだった。岸壁街でゴミのような飯パグパグすら食べて生きてきたテオフィルスであっても辛味というものには滅法弱かった。断言出来る。あれは人の食べ物ではない。
 尚、何故テオフィルスがそんなものを食べた経験があるかといえばタイガが美味しそうに食べていたからに他ならない。甘ったるい蜂蜜のような髪をして菓子ばかり食べていそうなタイガがあんなものを食べているなんて、想像が出来なかったからだ。
「いや、あれは無理だって……」
「じゃあ、ちゃんと言って?」
 ヒギリに真っ直ぐに見つめられて、思わず目を逸らす。
 彼女の純粋な真っ当な世界に生きてきた目は、時々テオフィルスには眩しすぎて痛い。
「テーオーさーん?」
 視線を避けたテオフィルスをヒギリの声が追う。
 逃げ道はどこにもなかった。
「……ヴォイドはモテる女だからさ、不慣れな俺が何かしてやるよりもずっと適材がいるって思っただけだよ」
 そう言って何となく厨房へ目を向けると、たまたま食器を拭いていたエミールと目が合ったような気がした。ヒギリにもそう見えたのか「エミールさんはヴォイ姐の色香に負けてオカズ増やしそうになる人なだけなんよ」とフォローにならないフォローを呟く。
「でも自分の為に誰かが何かしてくれるって、きっとヴォイ姐喜んでくれると思うからテオさんだって他の人に遠慮しないでやったらいいと思うんよ」
「そ、そうかな」
「うん。絶対にやった方が良い!」
「そっか。じゃあ、機会があればやってみるかな」
 テオフィルスの左手は自然とポケットの中のブローチを触っていた。
 ヒギリに言われると、さっきまでの鬱屈した気分は何処へやら何だかやってみても良いような気持ちになるのだから不思議なものだ。
 そんな気持ちになったからかテオフィルスの表情は晴れ晴れとしたものになり、その顔を見たヒギリが柔らかく微笑む。
 そしてヒギリはポツリと呟いた。
「テオさんのそういう顔、好きだなー」
「……そういう事、俺に言うと食われるからな」
「もう。テオさんのえっち」
 それは、もはや2人にとっては何のことは無い世間話のようなものだった。だから、この会話はこれで終わるはずだった。
 バサッと何かが床に落ちる音を2人の耳が拾うまでは。
 音のした先に視線を向けたテオフィルスは顔から血の気が引いた音がした気がした。
「大丈夫?」
 固まるテオフィルスと対称的にヒギリは椅子から動いて床に落ちた紙を拾って落とした張本人――ヒギリに恋する男、タイガ・ヴァテールに手渡していた。
「ありがとう、モナルダさん・・・・・・
 タイガは笑って礼を述べた。しかし、彼らしくもなく目が笑っていない。
「え、タイガく……」
「シュニーブリーさん、居ます? 来月のシフトの事で確認があって」
「うん。厨房に……」
 それだけ聞くとタイガは余計な話はせずにさっさと2人の前から立ち去って行った。
 さすがにその態度に思うところがあったのだろう。
 困惑した顔でヒギリがテオフィルスを見る。
「大丈夫だよ、ヒギリちゃんは何も悪くない」
 ヒギリを安心させるようにそう言ってみたものの、テオフィルスにも打つ手はなく。
 ヴォイドとタイガ。
 異なる心配事がテオフィルスの中に生まれる事となるのだった。