薄明のカンテ - あいのひがのこしたもの/べにざくろ


Theophilus Mädler

「 全く、アンタ達は何時まで寝てんだい!? 」
 怒鳴られて目を覚ます。しかし眠りと覚醒の中間に自分の意識は未だにあって、見えているけど見えていない目でテオフィルスは怒鳴ってきた相手を見る。
「 うるせぇ……まだ外は暗いんだから寝かせろよ 」
「 バカ言ってんじゃないよ!! 此処は朝日なんか入る家じゃないじゃないか!! 」
 そんな筈は無い。結社から与えられた部屋は朝日が入ってくる部屋の筈だ。そもそも、この怒鳴ってくる懐かしい声は誰だ。
 ようやく目の焦点が怒鳴ってくる相手に合ってきたテオフィルスの目が見開かれる。
「 ナンネル……? 」
 そこに立っていたのは壊れた筈のテオフィルスの機械人形マス・サーキュ、ナンネルで。彼女は幼い顔に呆れた色を乗せて、偉そうに腕組みをしてテオフィルスを見ている。
 ナンネル以外に視点を移せば、部屋も岸壁街の自分の家であることにようやく気付く。半年前に失った我が家は、どこか懐かしくすらある。
「 ん…… 」
 その時、隣で上がった悩ましい声にテオフィルスの郷愁の念は吹き飛んだ。驚きが大きすぎて目が見開かれすぎて、もはや眼球が転がり落ちそうだった。
「 おはよ 」
 青と緑の入り交じった様な不思議な色彩の目がテオフィルスを見ていた。知らない顔ではない。知らない顔ではないが、同じベッドで寝る仲ではない筈なのに、彼女は当然のような顔をしてテオフィルスの横で寝ていて今起きたといった雰囲気を漂わせていた。
「 ヴォイドだよな? 」
「 そうだけど 」
 テオフィルスはヴォイドが何故此処にいるのか分からないからこその問い掛けであったが、ヴォイドは此処にいるのが当然のような顔をして、むしろ驚いているテオフィルスを怪訝な顔で見つめている。
「 どうしたの? 熱でもある? 」
 ヴォイドが熱を測るために自分の額をテオフィルスの額に当てる。ヴォイドの長い睫毛に彩られた目が、形の良い鼻が、食らいつきたくなるような唇が間近に見えて、テオフィルスは生唾を飲み込んだ。
 何だか事情は分からないけど、これはチャンスなんじゃないか。
 これは美味しくいただいてしまっても誰も文句を言わないんじゃないか。
「 熱なんかねぇよ 」
 情欲を含んだ掠れた声で囁いて。
 テオフィルスはヴォイドの唇に自分のそれを重ねた――。

 * * *

――という夢を見た。

「 マジかよ 」
 呟いて見回すと部屋に広がるのは、空になったアルコールの瓶。適当に買って適当に食ったつまみの中途半端な残り。自分の身体に巻き付いたタオルケット。
 それは正月早々の光景と既視感デジャヴがあって、違う所といえばタイガとノエがいないことと頭痛がすることか。
「 最悪だ 」
 続きが見たい様な見たくない様な夢だった。何故こんな夢を見たのかと考える必要も無いくらい分かりやすく、テオフィルスは頭を掻き毟りながら自嘲めいた笑みを浮かべる。

――愛してる。

 昨晩、愛の日にかこつけてヴォイド・ホロウに告げた言葉。
 あれで全部過去を精算してすっきり爽やかなつもりだったのに何にも心は晴れなくて、自分の部屋に帰ったテオフィルスは本当に浴びるように酒を飲んだ。飲んでも飲んでも酔った気がしなかったが、いつの間にか酔って寝てしまっていたようだ。随分と遠くに放り投げられた右脚の義足に、己の酔いを感じて片足で取りに行く。
 義足をつけて水を一杯口にすると、ようやく頭が落ち着いてきた。しかし残念ながら二日酔い確定のようで頭痛はとれない。
 そこで携帯型端末に着信が溜まっていたことに気付く。それはタイガからの不在着信が数件とメールが一件。
 『 電話、いっぱいしちゃってごめんね 』とメールに書かれた、そのままタイガの声で再生されそうな文面に思わず笑みが零れる。『 飲んで寝てた。どうした? 』と返信を打つと、直ぐに携帯型端末が震えてタイガからの着信があったので端末を耳にあてた。
『 おはよう、テオ君! 』
「 声がデカい。頭に響くから少し落ち着け 」
『 あれ? 二日酔いなんて珍しいね、お大事にー。それでさ、本題なんだけどテオ君は年上の女の人を「 ちゃん 」付けで呼ぶのってどう思う? 』
 少しだけ声量を落としたタイガが昨晩から聞きたかったのはそれか。合点がいった。
「 別にヒギリちゃんなら怒らないと思うし良いんじゃね? 俺だって歳上のロザリーちゃんとかヒルダちゃんとか普通に呼んでるし 」
『 べ、別にヒギリちゃんの話じゃなくて、一般論の話! というか、エルナーさん家の奥さんも「 ちゃん 」付けなんだ…… 』
「 女は幾つになっても女だろ? わざわざ呼び方変えてどうする 」
『 凄い。声だけなのにテオ君のドヤ顔が目に浮かぶ 』
 そのタイガの声に、テオフィルスは逆に呆れた顔のタイガが目に浮かんだ。人に質問をしてきておいて、その態度はどうかと思う。
「 それだけなら切るぞ。出勤に間に合わなかったらどうする 」
『 あ、ごめんね! また今度呑もうね!! 』
「 そうだな 」
 電話を切って長い溜息を一つ。それから開けていなかった遮光カーテンを開けると、岸壁街では殆ど感じることのなかった日光が目に入ってきて眩しさに目を細めながら電子タバコの電源を入れた。
 蒸気の煙を吐き出すと、煙と一緒に悩みが出ていってくれないかと思ったが人間はそこまで都合良く出来ていなかったらしい。
 彼女に想いを告げてしまえば楽になるかと思ったのに何も楽になってはいないことを、テオフィルスは先程の夢で痛い程に理解した。むしろ、絶対に叶うことのない「 もし、もっと早く想いを告げていたらあったかもしれない生活の夢 」を見るなんて状況は明らかに悪化しているような気がする。
「 アイツに会ったらどんな顔すりゃいいんだ…… 」
 例え、医療ドレイル班の彼女に想いを告げても。
 テオフィルスの悩みはまだまだ消えない。

Alvi Malmsjö

 愛の日が終われば何も変わらない日常が戻ってくる――訳では無い。
 あちらこちらで家族愛や友愛では無い恋愛によって結ばれた人間の数が増え、結社内にもそこはかとなく浮かれた空気が流れている。
 残念ながら今年も何も無かった非リア充のアルヴィはそんな人々を内心で指を咥えながら見つめつつ、淡々と仕事を続ける他無かった。毎年のことなので何も気にしてないと虚勢を張ってはいるが、本当は血の涙でも流れそうな位悔しい。
 領収書を整理していると医療ドレイル班の薬の領収書が目に入って本能的に眉間に皺が寄る。彼の脳裏をぎったのは、時々見掛ける医療ドレイル班のカップルの姿だ。
 それは金髪の背の高い爽やかそうな男と、ふわふわの柔らかい茶髪の女のカップルだ。彼等は特に人目をはばからずイチャつくといったことはしないのだが、二人が一緒にいる所を目撃すると纏っている空気が違う。纏う空気が優しくて、互いが互いを想っていることが行動に示されなくても伝わってくる。それは本当に羨ましい限りで、そういうカップルに( 相手はいないけれど )僕もなりたい、とアルヴィは思う。
「 どうした、そんなにおかしな領収書でもあったか? 」
「 あ、いいえ。そういう訳ではないです 」
 眉を顰めて領収書を眺めていれば問題点があったと思うのが当然のことだろう。ギルバートに声をかけられてアルヴィは首を横に振る。しかし、ギルバートは領収書が気になったようだ。
「 見せてみろ 」
「 本当に大した物じゃないんだけど…… 」
 手を差し出されたのに渡さないのも可笑しいので、前置きをしながらアルヴィは領収書をギルバートに手渡した。領収書を見たギルバートがそこに書かれた品目に眉を顰める。
医療ドレイル班の領収書か……何故、こんなに胃薬が必要になるのか理解に苦しむな 」
 アルヴィは医療ドレイル班という文字だけで某カップルを思い出して眉を顰めていたが、ギルバートの呟く品目を聞いたら苦笑いが止まらなくなる。
「 酷い菓子を貰って食べなくてはいけない人もいるから、だと思いますよ 」
「 酷い菓子……? 」
「 手作りで本人は完璧に作ったと思って自信満々で渡すけれど、生焼けだったり炭だったり……とにかく酷い出来の菓子の事です 」
「 何でそんな物を食べなくてはならないんだ 」
 ギルバートが我が事のように憤慨する。 きっと彼は胃薬不要の立派な手作りお菓子をアン・ファ・シンから貰ったんだろうなぁ、羨ましいなぁ、と思いながらアルヴィは言葉を続けた。
「 愛する人の作った物なら、どんな物であれ食べないと悪いと思う人がいるからだろうね……そのままリア充は死ねば良いのに 」
 後半はギルバートに聞こえないように小さく小さく呟く。たまたま通りすがった経理部のメンバーには聞こえてしまったようで肩をビクリと震わせていたが、アルヴィはそれを見なかったことにした。
 ギルバートの反応を待ってみるが、アルヴィの言葉にギルバートは何やら考え込んでいるようだった。それが彼がアン・ファ・シンにあげたチョコチップスコーンの事だとアルヴィは夢にも思わない。
「 ベネットさん? 」
「 いや、すまない。少々、別件を考えていた 」
「 そうですか。まぁ、そんな理由を見越した胃腸薬等ですけど、必要経費とみなして問題無いという事で良いですよね? 」
 ギルバートの手から領収書を取り返してそれっぽいことを言い、自分が悩んでいた理由を誤魔化すとギルバートから「 そ、そうだな 」と言葉が返ってきたので医療ドレイル班の領収書を処理する方向で話を纏める。
 そこで、ギルバートに渡す物があった事をようやく思い出した。
「 菓子の話をしていて思い出したのだけど 」
 そう前置きをして机の引き出しからチョコレートを取り出す。それは小さな袋に入った市販品のチョコレートで、昨日が休日だったギルバートに渡す為にアルヴィが持っていたものだった。
「 これ、調達ナリル班の子が配っていたのでベネットさんの分です 」
 アルヴィは廊下で調達ナリル班の子達に会った時のことを思い出す。美少女と大道芸人という面白い組み合わせだったが、それにしても美少女は正に美少女という言葉が相応しい可愛いボクっの女の子だった。
 受け取ったギルバートは何とも言えない顔をしていた。その顔を見ると、やはり自分のようなオジさんが渡すのは良くなかったのではないか、今からでも可愛い経理部の女の子に渡し直して貰おうか、とアルヴィは狼狽える。
「 これはセオドアからか? 」
 ポツリとギルバートが呟く。調達ナリル班のメンバーの名前を知らないアルヴィは慌てて隣の席のメンバーにチョコレートを持ってきた調達ナリル班の名前を聞く。
「 いえ、部屋に来たのはリン君と機械人形マス・サーキュの子達でトンプソン君はいませんでしたよ 」
 どうやらセオドア・トンプソンという男の子が調達ナリル班に在籍しているらしい。アルヴィは機械人形マス・サーキュ達には会っていないことからして、あの大道芸人の格好をしていた男の子のことかもしれない、と結論付けた。
「 セオドアさんというのは、すごく背が高い男の子ですか? 」
「 いや、僕よりも背は高くない 」
 ギルバートの背はアルヴィより少し高い位で、大道芸人の子は2メートル近くは合ったような気がする。そうすると大道芸人の男の子は『 セオドア・トンプソン 』では無いということになる。誰なんだ、セオドア・トンプソン。
「 セオドアさんからのチョコレートだと何か良くない事でもあるんですか? 」
「 ……彼の口が達者で少々苦手だ 」
 口が達者。その瞬間、アルヴィの脳裏に浮かんだのは美少女の姿だった。いやいや、まさか。笑って自分の想像を掻き消そうとしたアルヴィだったが悲しい事に真実を探求したい心が勝った。
「 ねえ、ベネットさん 」
「 何だ? 」
「 そのセオドアさんって、もしかしたら見た目は凄く可愛い女の子だったりする? 」
「 世間一般的に見ればそうかも知れない。全くセオドアは…… 」
 ギルバートがセオドアについて愚痴混じりの言葉を並べているがアルヴィの耳には全く入ってこなかった。
( そうだよね。僕みたいな人間が美少女から義理とはいえチョコレートを貰うなんてイベントが人生で起こる訳無いよね…… )
 天国から地獄。1日で現実を知ってしまったアルヴィはショックで胃が痛んで、思わず胃を手で押さえる。それにギルバートが気付いてしまった。
「 アルヴィ、腹が痛いのか? まさか!? 」
「 違う違う。女の子から変なチョコ貰って腹痛起こした訳じゃないから! 」
 思わず丁寧語をかなぐり捨てて言ってしまう。妹という意味での可愛い女の子からならチョコレートパウンドケーキは貰ったが、あれは見た目は少しばかり危ない黒い塊感があったものの、ちゃんと焼けていたし味は問題無いものだった。
「 しかし腹痛ならば医療ドレイル班の所で診て貰った方が…… 」
「 胃薬は持ってるから大丈夫。ちょっと飲んで来るね 」
 そう言って愛用のジョニー・ヘルスケアの胃薬を持って席を立つ。
 正直、胃よりも心が痛いアルヴィだった。

Taiga Vatel

 日頃ふわふわと仕事をこなすタイガだったが、今日の彼はひと味もふた味も違った。鮮やかな黄緑色の目が次々と書類を眺めていく。
「 あ 」
 ふと、一枚の紙で手が止まる。それは何の変哲もない履歴書で内容には何ら問題の無い人物のように思えた。履歴書に貼られた顔写真も至って普通の善良な人間そのものである。しかしタイガは悲しそうに眉を下げると、それを隣でタイガの様子を窺っていた新規勧誘課のメンバーに手渡した。
「 この人、5年前に恋人への傷害事件で逮捕されてる 」
「 こんなに良い人そうなのに…… 」
 残念そうに呟くメンバーにタイガは苦笑する。犯罪者が見るからに悪い人相ということは滅多に無いことをタイガは記憶の中で知っているからだ。
「 とはいえ罪は償っているから後はそっちの判断かな 」
 そう言って次の履歴書へと目を移していく。他は誰も問題なく、あっさりと履歴書を見終えて全てを返却した。タイガが見るのは履歴書の顔写真だけで、他の内容を調達ナリル班の得た情報と照合し精査するのは新規勧誘課の仕事である。
 人の顔を覚えることに特化したタイガの視覚優位者の認知特性は、顔写真の出ている前科者、反社会的勢力を見つけることに対して絶大な威力を誇る。そのため、タイガはマルフィ結社への入社を希望する人間の履歴書の顔を見てチェックするように仕事を与えられていた。
 前線駆除リンツ・ルノース班により暴走する機械人形マス・サーキュを武力で止めることも多いマルフィ結社だが、そもそも機械人形マス・サーキュへは比較的友好的な人間が多い。汚染を免れた機械人形マス・サーキュだって沢山働いている。しかし、世の中には機械人形マス・サーキュを過剰に排除しようとする団体もあり、そんな彼等の入社を少しでも防ぐのもタイガの仕事だ。もちろん顔の分からない団体の人間は沢山いるし、整形なんてされたらタイガになす術はない。それでも一人でも防げるなら、とタイガは思っていた。
 それに、タイガもマルフィ結社に来てノエという機械人形マス・サーキュ主人マキールとなった。ノエが壊されることがあったら、と想像するだけで恐ろしい。
 履歴書チェックを終えたタイガは今度は本来の仕事に戻る。疲れたので愛用のリョワリのぬいぐるみクッションという名の抱き枕を抱いて仕事を続ける。20歳の男性がぬいぐるみを抱いて仕事をしている様はなかなかにシュールな光景だが、タイガの童顔とキャラクター性と単にメンバーが慣れたということがあって誰もツッコミを入れることはない。
「 うふふふふ、ヤる気に満ち溢れていますね 」
「 ロードさん! 昨日はありがとうございました。おかげでオレ、吹っ切れたというか頑張れます! 」
「 あまり興奮しすぎると身体に良くないですから。頑張り過ぎには気をつけてくださいね 」
「 はい! 」
 尊敬する大人のロードに言われてタイガは余計にやる気を出す。
 今日からのオレは、昨日までのオレと違うんだ。

 * * *

 昨日までのオレと違うって人事部の部屋で思わなかったっけ……?
 昼のピークを過ぎた食堂の前に立ったタイガはガチガチに緊張していた。今日はわざわざ昼休憩を遅らせて少しでも食堂の空いている時間に来たのには、ちゃんとした理由がある。
 ヒギリに昨日のお礼と、彼女を名前で呼ぶ許可をとる。
 それがタイガの今日の使命ミッションだった。
 よし、と気合いを入れて食堂へ歩き出そうとしたタイガの前に丁度食堂に来たらしい小柄な姿が入り込む。
「 あ、すみません…… 」
「 い、いえ! オレが突っ立ってたのが悪いので、お先にどうぞ! 」
 小柄な人物はタイガの言葉に小さく頭を下げると申し訳なさそうに先に食堂に入っていく。それは、タイガが一番会いたくないといっても過言ではない人物。よりにもよって自分の前に入ったのがエリック・シードだったなんてタイミングが悪すぎはしないだろうか。
 しかも食堂に他に入りそうな人物はおらず渋々ながらタイガはエリックの後ろに並ぶ。
 エリック・シード。ヒギリが愛の日にプレゼントを渡したと思わしき男。
 ヒギリは彼の何処が良いのだろう。タイガの天然パーマの髪と違うサラサラの黒い髪か。それとも、色はタイガに似ている系統なのに明らかに知性的な光を湛えた目か。いやいや、ヒギリよりも少しだけ高い身長か。やはり、顔か。顔なのか。
 縮毛矯正でもかけようかな、と的外れなことを思いながらエリックを眺め続けているとエリックの番が来て彼がヒギリに注文をする。
 話し掛けられているヒギリはそれはそれは嬉しそうに可愛い笑顔を浮かべて注文を受けており、タイガとしては悔しくて仕方ない。
「 え、えと……ありがとうございました 」
 しかもエリックは昨日のお礼も言っていた。感想なども伝えているようだが、分かってはいたものの、ヒギリが彼にプレゼントを渡していたショックの大きいタイガの耳には入って来ない。入っても右から左へ受け流していた。
 ノエは感想は『 美味しい 』だけで十分だと言っていたけど、やはりそんなの嘘だ。だって、ヒギリちゃんがあんなに楽しそうに笑っているじゃないか。
 二言三言会話を交わして定食を受け取ったエリックが立ち去っていく。次はタイガの番だ。
「 あ、タイガくん 」
 ヒギリの笑顔が自分に向く。
「 こんにちは、モナルダさん 」
 そう言った瞬間、ヒギリの笑顔が曇った気がしたのはタイガの自惚れだろうか。
「 昨日、ありがとうございました。美味しかったです 」
「 ……私も、ありがとう 」
 タイガもヒギリもそれだけ言うと黙り合ってしまう。しかし、そこに漂うのは昨日ヒギリが作ってタイガが食べたベリーのガトーショコラのような甘酸っぱい空気で、他に食事を待つ人がいないのを良いことに給食部の優しい面々は微笑ましい目で2人を見つめていた。しかし、2人はそんな目で見つめられていることに微塵も気付いていない。
 そんな中、単純に微笑ましい目で見つめられないでいる男が一人、いや一体いた。
( タイガ。ヒギリさんを名前で呼ぶ作戦は何処へ行ってしまったのですか!? )
 ノエは心の声でタイガに叫ぶ。もちろん顔は他の給食部のメンバーと同じ優しい顔のままであるので、内心の叫びに誰も気付くことはないだろう。
 心の叫びが聞こえたのかタイガがノエを見た気がしたので、ノエは後押しするように頷く。
「 あ、あの、モナルダさん。いや、違くて…… 」
 ノエの頷きが見えていたタイガは意を決した。目の前にいるのはローズ・マリーちゃん。いや、違う。ヒギリ・モナルダさん。モナルダさんじゃなくて、オレは彼女をヒギリちゃんと呼んでみせる。
「 モナちゃん!! 」
 いや、モナちゃんって誰やねん。
 誰かが脳内でツッコんだ。名前一つ呼べないなんて、何てオレ格好悪いんだろう。
 自分で言っておきながら自分が情けなくって泣き笑い状態でヒギリを見ると、彼女は魅力的な紫色の目を丸くして口を開けてぽかんとした表情でタイガを見ていた。きっと彼女は訳の分からないことを言い出したタイガに呆れきっているに違いない。今、やり直せるならば食堂の前からやり直したい。
「 ……良いよ 」
「 え? 」
 ヒギリの言葉に今度はタイガがぽかんとした表情になる。そんなタイガに、ヒギリははにかんだような笑みを浮かべた。
「 モナちゃんって呼んでくれて構わんよ? 」
「 本当!? あ、本当ですか? 」
 ヒギリが彼女の名前の通りの花の咲いたような笑顔を見せて頷いてくれるから、タイガは本来の目的とは違う名前呼びになってしまったことは忘れて心の中でガッツポーズを決める。
 何だかヒギリが呼んで良いと言ってくれたから、さっきまで誰のことだよと脳内ツッコミが止まらなかった「 モナちゃん 」呼びも特別な呼び方みたいで可愛く聞こえてくるから単純なものである。
「 ありがとうございます、モナちゃん! 」
 空気を読んで給食部が出さなかった昼食がようやくタイガのトレイに乗せられる。そんな給食部の面々の微笑ましい目に気付かないタイガは最後にヒギリに笑いかけて、浮かれた気分で適当な席について昼食を食べ始める。適当に座った席からは淡々と食事をとっているエリック・シードが見えたが、今だけは彼の事は気にしない。だって、オレだけの特別な呼び方を手に入れたから。



――「 モナちゃんって呼んでくれて構わんよ? 」と君が言ったから、2月15日はモナちゃん記念日。